1963年生まれ。現代写真論、現代音楽論。
(最終更新:2010年11月26日)
[論考]
...雑誌写真に接近しているように見える」と述べる清水穣の言を引けば、彼の写真は審美的な趣味判断が... ...ng German Identity”, in Reconstructing Space, pp.6-11. および清水穣「D線上のアリア──ベッヒャー・シューレ、ヨ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.83-96
[ピクトリアリズムの現在 4]
ある程度まで既視感の範囲に収まるのに残りの部分が頑強に抵抗する、そういう論じ難くさをもつ写真がある。例えば、一部の作家たちによく見られるフラットで構成主義的な作品のように、「オールオーヴァーでフラットな抽象画に見えてじつは現実の無人風景」「都市の雑多な現実の様相が同時に美しいグラフィックパターンを描く」という類のディス...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.53-54
[ピクトリアリズムの現在 2]
一九一七年のポール・ストランドの言葉を見よう。「写真家の問題とは、己のメディアの限界と同時に潜在的クオリティを、明確に見極めることである。というのも、生き生きとした表現のためには、撮影されたヴィジョンの強度に勝るとも劣らず、誠実さというものがまさにそこで前提となるからだ。つまり、写真家の前にキアロスクーロで表現されてい...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.13-15
[ピクトリアリズムの現在 1]
写真は、言葉に対して無防備である。だがその写真をめがけて投げかけられる言葉はたいてい二つに割れて落ちる。写真を論じる仕方はかなり以前から二極化している。だから写真批評、すなわち写真そのものを見て語ることは、あいもかわらず困難である。写真の無防備とは、われわれの視線と言葉を逸らす力であるかのようだ。 写真論のひとつは、ジ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.17-18
[ピクトリアリズムの現在 3]
鈴木理策の《サント・ヴィクトワール山》連作が問題としているのは、対象に「見入る」こと、すなわち「奥行き」という空間性の創出についてであった。言うまでもなくこれは遠近法的な消失点をもった奥行きではなく、『知覚の現象学』におけるようなそれである。「感官というものはすべて、それらがわれわれを存在の何らかの形式に到達させるはず...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.17-18