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半プロダクション礼賛──脱芸術/脱資本主義とは何か | 熊倉敬聡
In Praise of Semi-Production: What Is Trans-Arts/Trans-Capitalism? | Kumakura Takaaki
掲載『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築, 2000年06月発行) pp.36-38

今回は、今までの懸案であった〈脱芸術/脱資本主義〉という概念そのものを(私が今了解している限りにおいて)説明しよう★一。
前回のソロスの分析にもあったように、世界の金融資本は一九八〇年代から九〇年代にかけて急速に膨張し、グローバル化した。近代の古典的な資本主義は(例えばマルクスが分析したように)産業と金融の間を資本が絶えず循環することにより自らを増殖させていったが、八〇年代以降は投機という貨幣価値の自己シミュレーション・ゲームにより、資本は加速度的に実体経済から遊離し、ソロス言うところの不確定な「グローバル資本主義システム」を形成した。それは従って、(オーソドックスな資本主義に対し)「超資本主義」とも言える事態である★二。
一方、芸術は、やはり近代において、社会のあらゆる記号のシステムの彼岸に、「美」というもうひとつの価値を仮構することにより成立した。その彼方の美に向けて、「文学」、「音楽」、「絵画」等々が言語的、聴覚的、視覚的記号体系を創造の感覚的強度により脱記号化しつつ、数々の傑作を花開かせた。しかし、二〇世紀初頭、「反芸術」の前衛たちが、このような「芸術」のディスクールそのものを破壊しようと企てる。にもかかわらず、芸術はしぶとくも両大戦後、「モダニズム」という延命治療により生き延びんとするが、結局、もはやいかなる「新しい」様式も生み出せぬまま枯渇してしまう。その時、「芸術」は決定的に「死んだ」ようにみえたが、突如、救世主の如く、また死体愛好者の如く、「ポストモダニズム」が現われる。それは、端的に言って、「芸術」のディスクールの墓を丸ごと暴き出し、シミュレート、リサイクルする「超芸術」の実践であった。しかし、ポストモダニズムも、「広告」という(超)資本主義の象徴的売春装置により、その脱構築的力を急速に失い、むしろ(超)資本主義の文化的共犯者になりさがったようにみえる。
われわれは今後、この「超資本主義」、「超芸術」という、近代的価値のハイパーインフレーションにますます囲繞され、浸透されなくてはならないのだろうか(もうひとつ、近代的「知」のハイパーインフレーションである「情報」の脅威も忘れてはなるまい)。それとも、われわれには、何か全く違う可能性が残されているのだろうか。私にはその可能性が辛うじてあるように思われる。それがまさに、私がとりあえずは〈脱芸術/脱資本主義〉と呼んでいるものにほかならない。
近代の労働──この「労働」を、マルクス言うところの、世界に対する人間の存在論的関係性として理解しよう──は、ある目的の実現に向けて、生産の材料、手段、エネルギーを効率的に運用することにより、ある生産物=作品を完成品として生み出すことにある。そして、その労働は、ごく特殊な例外──例えばある種の芸術──を除き、社会的な「組織」の形態をとって営まれる。組織は、目的の実現に最適となるように、物的人的資源を機能化・専門化し、全体を合理的に統合する。それは一言で言えば、隅々まで経済合理性に貫かれたシステムである。このように目的論的に合理化された労働のイデオロギー的背景はといえば、それは(ウェーバーを待つまでもなく)キリスト教的終末論=目的論(teleology)にほかならない。それは、現在の労働(現世の生)がどんなに辛く、禁欲的なものであろうとも、それが事後の幸福=金銭(ないし来世の幸福=天国)につながるなら、その厳格さにあえて忍従する、という思想である。
〈脱芸術/脱資本主義〉は、(例えばある種の空想社会主義のように)そのような近代的労働の現実・イデオロギーを全面的に否定ないし超克するのではなく、それに寄り添いつつも、ある異なった労働、生の在り方を模索する。それは端的に言って、〈半〉端なものを、労働の、そして生のあらゆる位相で積極的に認めていこうとするものである。近代の目的論=終末論的労働観からは、「未完成」、「未熟」、「下手」等々とみえるかもしれぬ活動であっても、その活動主体にとってかけがえのない悦びをもたらすものならば、それをあえて肯定しようという立場である。そのような〈半〉端な活動の積極的な肯定を、★一にあげた研究会では、(近代的労働の「プロダクション」に対し)〈半プロダクション〉という造語で表現しようとした。
それは従って、事後の可能的な幸福・価値の実現を待望しつつ、現在の幸福を犠牲にする──現在の不幸を甘受する──という近代的労働の禁欲主義とは無縁である。それは、現在の活動そのものを目的とし、そこに価値を見出し、それ自体を幸福と感じるような快楽主義的労働である(これを近代的生産労働の補完物である消費や余暇と混同しないようにしよう)。それはまた、近代的労働の「限界主義」──ある目的の成就に向けて労働主体のエネルギーや技術を可能な限り、限界的に傾注する、すなわち「頑張る」在り方、とも無縁である。それは例えば、そのように頑張らない(あるいは頑張れない)労働の形、(近代的労働観からは)「脱線」「無駄」、「遊び」、「下手」「素人」、「無能」等々とみえるかもしれぬ活動も、それが主体に幸福・価値をもたらすものならば、平気で肯定する。それはあえて言えば〈寛容主義〉的労働観である。本連載の第一回で取り上げた野村誠の老人たちとの「作曲」などは、まさにこの〈寛容主義〉的〈半プロダクション〉の典型と言える。
〈脱芸術/脱資本主義〉的労働は、また、目的=終末論や経済合理性を行動原理としないために「組織」を形作らない。かと言って、恣意的諸活動のカオスを現出させるのでもない。それは──これまた上記の研究会で案出された造語を使えば──〈半組織〉を編み出す。〈半組織〉とは何か。それは、
一、求心的に効率を求めないがゆえに、参加者同士が「頑張らない」活動を〈寛容〉に尊重し合い、しかもその「緩い」共働のなかに、ある悦び、幸福を分かち合うような集い方である。
二、それはまた、物的人的要素を前もって機能化・専門化しないがゆえに、役割の自在な変化を認め、積極的に推進する(野村誠の「作曲」における「楽器」、「歌詞」、「音楽家」などの変幻自在ぶりを想起しよう)。
三、(「組織」が高度化すればするほど排他的になる傾向があるのに対し)〈半組織〉は活動の悦びを共にしうる者ならば、原則的に誰でも受け入れる。従って、その内部と外部との境界線はきわめて緩やかであり、活動の内容や環境の変化に伴い、柔軟に変化しうる。
このような〈半組織〉、〈半プロダクション〉を特徴とする〈脱芸術/脱資本主義〉的ヴェクトルは、しかし、「革命」──社会の急速な転換を求めるわけではない。それはむしろ、芸術や資本主義という現実に寄り添いつつ、システムの隙間に入り込み、目的論的・限界主義的緊張を和らげ、揉みほぐすような寄生的で脱力的な実践である。〈脱芸術/脱資本主義〉的主体はしたがって、(これも研究会での用語を使えば)〈複属〉する。すなわち、社会の組織への帰属を全面的に拒否するのではなく、それにもある程度関与し、そこからの恩恵も被りながら、しかも同時に、組織とは違った価値で動機づけられた〈半組織〉にも参加する。
資本主義社会において、人間の組織への関わり方はいたって「専属」的である。それは極言すれば、父:会社(+家庭)、母:家庭、子:家庭+学校、という簡単な図式に還元できるほどだ。それぞれは、ひとつないし二つというごく限られた組織にしか属していないために、そして組織内においても固定的な役割しか与えられないがために、世界観・価値観がきわめて単眼的になりやすい。それに対し、〈複属〉は、ひとりの人間が同時に「複」数の組織と半組織に所属し、しかもそれらの(半)組織内でそれぞれ異なった役割を担うがゆえに、彼(女)は複眼的な世界観・価値観を持ちうるのである。
プロダクション、組織、専属で作動する資本主義社会の傍らで、それにも半ば関わりつつ、われわれは今後、どこまで〈半プロダクション〉、〈半組織〉、〈複属〉を繁茂させ、多様化することができるのだろうか。人間が脱近代的「幸福」を求める限り、これからはそのような〈脱芸術/脱資本主義〉的可能性を考え、実践するような新たな「実学」がますます必要とされるに違いない。


★一──以下の議論は、以前私が『慶應義塾大学アート・センター/ブックレット04:脱芸術/脱資本主義──半プロダクション礼賛』の序、および拙稿「来るべき〈幸福学〉へのノート──頑張らなくてもいい社会に向けて」で展開した議論と重複することを前もってお断りしておきたい。なお、このブックレットは、私もメンバーである慶應義塾大学アート・センターの研究会「脱芸術/脱資本主義」のとりあえずの成果として公刊した文集である。関心をお持ちの方は、慶應義塾大学アート・センター(電話〇三─五四二七─一六二一)にお問い合わせいただきたい。
★二──以下の「超芸術」も含め、ジャン・ボードリヤール『透きとおった悪』(塚原史訳、紀伊國屋書店、一九九一)を参照されたい。

>熊倉敬聡(クマクラ・タカアキ)

1959年生
慶應義塾大学理工学部教授。フランス文学、現代美術、現代思想。

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