序─低い声
四本の柱が立ち、そこに屋根を架けた小屋は住宅の原型なのだろうか? [〈それ〉溝は作動している]あるいは、一本の柱が太古の平野に立てられた瞬間に構築が誕生したという、『二〇〇一年宇宙の旅』のモノリスを想起させる魅力的な思考。[いたるところで〈それ〉は作動している]これらはロージエの起源論、さらにはサマーソンによるアエデキュラなる家型が時代を超えて建築の原型になるという指摘にも通底する。[〈それ〉は呼吸し]だが、構築だけで建築のすべてを語れるのだろうか? そしてロゴス=構築の美しき一 致から作られる建築論は、物語るべき多くのことを切り捨ててしまったのではないか?[〈それ〉は熱を出し]少なくともゼンパーのように、むしろ織物的なものを起源として措定するのであれば、住宅を被膜として思考する方法が開かれていくはずである。確かに「スーツ・ホーム」だとか、「住宅は衣服のようなものである」と言われている★一。[〈それ〉は食べる]象徴的な屋根を引きはがし、まわりを囲む壁を取り外したとき、そこではどろどろとしたものがうごめいている。それとも、住宅の内と外をきれいに裏返してみるのがいいかもしれない[図1]。
1───立石紘一《裏がえしの家》1978
[〈それ〉は大便をし]剥きだしになった空間では、住宅の器官があらわになり、無防備の「家族」が身を縮こまらせて震えているだろう。パパはどこ? ママはどこ? [〈それ〉は肉体関係を結ぶ]住宅は身体感覚の延長線上にある[図2]。
2───ウシダ・フィンドレイ・パ−トナ−シップ《トラス・ウォ−ル・ハウス》1993
内部と外部が連続したかのような、身体感覚にあふれる住宅。
実は新しいテクノロジ−の賜物である
例えば、小さな家には古い暖炉とブルーの絨毯と子犬と〈あなた〉が存在せねばならないと弾き語る小坂明子のように。そして不在である「あなた」のために、〈部屋とYシャツと私〉を毎日磨いていたいと歌う平松愛理のように。[〈それ〉は作動している]ときには結婚式の定番ソングになってしまうくらいの凡庸さも必要だ。しかし、これでは完全に脱オイディプイス化されているとは言えない。低い声が聞こえてはこないだろうか。[いたるところで〈それ〉は作動している]ドゥルーズ/ガタリの声が。それならば、彼らの書物と交感しつつ、その企てを住宅論に連結できないだろうか。『アンチ・オイディプス』をパラフレーズしながら、住宅を読むこと。そして次の声にしたがって、住宅を思考すること。[いたるところで〈それ〉は作動している]という低い声を。それは大地を揺るがして、地中のはるか奥底から響いてくる。
仮定─住宅は住むための諸機械である
ドゥルーズ/ガタリはこう言う。にもかかわらず、これらをひとまとめに総称して〈それ(le ca)〉と呼んだのは誤りである。これらは種々の諸機械(des machines)なのだから、と。つまり互いに接続する、機械の機械。乳房は母乳を生産する機械であり、そこに連結する機械=口は、食べる機械、話す機械、呼吸する機械などである。彼らの主張の中核となるオイディプス批判は後で問題にするとして、とりあえずは、この種々の機械を住宅のモデルにできないだろうか。〈それ〉とはおおむねエスを意味するのだが、このモデルは住宅の深層をえぐりだすために用いられる。その手がかりとしては、ル・コルビュジエの有名な定義、「住宅は住むための機械(une machine)である」を言い換えるのが有効だ。すなわち、「住宅は住むための諸機械(des machines)である」、と。これは不変の構造をもつ大きな機械ではなく、流動する小さな機械の様々なアレンジメントだ。が、このことは実はコルビュジエもわかっていたのである。「肘掛け椅子は座るための機械である。(…中略…)水差しはからだを洗うための機械である」と、彼は同時に語っていたのだから★二。ただ、最終的に、彼は諸々の機械の集合体をひとつの機械に還元してしまったのだ。しかし、食べる、寝る、洗う、排泄する……、住宅とは、人間の欲望が生産され、それに対応する装置=機械が偶発的にぶつかりあったものなのだ。トイレは排泄機械などであり、キッチンは食事/団欒機械などであり、寝室は睡眠/快楽/生殖機械などである。八束はじめの巧みな比喩、「レギュレーター(整流器)としての建築」は、さまざまな流れの中のノードを意味するものだが、その認識は住宅のレヴェルでも当てはまるだろう★三。これから少しばかり、戦後日本の建築家による幾つか住宅の動向を概観するけれども、住宅=諸機械を隠喩としてではなく語るとすれば、結局、それはプログラムの問題に直結するのではないだろうか。住宅を社会に解き放ち、開いていくための。
多木浩二との対談に触発され、ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』における文学機械の概念をもとに、篠原一男が住宅の空間機械について考察したのは一九七五年のことである★四。おそらく、ドゥルーズを建築的に読みかえようとした、最も早い例のひとつだと思われるが、このとき彼は意味の生産と空間の関係に向かっていた。そして空間機械に置換しうるのは、当時においては都市でしかないとも。もとのプルースト論がそうなのだからであるが、篠原は住宅を裁断する欲望のプログラムとしては機械を構想しなかった。むしろ、五〇年代の〈池辺陽─増沢洵─広瀬健二〉らの前衛的な実験住宅派がふるわなくなり、六〇年代に都市の時代を迎えたときに、窮地に立たされた住宅設計の状況の中で、最も直接に人間そのものに関わるがゆえに、「住宅は芸術である」(一九六二)と、かつて宣言した思考の軌跡の先に空間機械はあった。フォルマリズムで言えば、アイゼンマンやヘイダックらの、ニューヨーク・ファイブの場合は、形態の断片が機械の部品であるかのような徹底した操作を行なう[図3]。
3───J.ヘイダック《ダイヤモンド・ハウス計画》1967
しかし、それは住宅のためにというよりも、他のビルディング・タイプにも適用可能なものであり、そして何よりも知的な芸術に還元された機械は欲望を伴わない。こうした抽象化に対して意味を復権させたのが、〈ヴェンチューリ─石井和紘─相田武文〉らの遊戯的ゲーム派[図4]と〈毛綱毅曠─渡辺豊和─高崎正治〉らのコスモロジー派である(有名なヴェンチューリの《母の家》(一九六二)も毛綱毅曠の《反住器》(一九七二)も、ママの家である)。この方法論も、住宅に限定されたものではないことは、後の彼らの公共施設を見れば明らかだろう。
4───山下和正《顔の家》1974文字通り、顔 FACEとしてのファサ−ドFACADE!強力な自己顕示欲
一九六八年五月に創刊された『都市住宅』は、住宅芸術派ばかりではなく、再び、〈黒沢隆─山本理顕〉らの社会派も活性させた。そして〈剣持怜─大野勝彦〉らの工業派も同時に動いていたが、特に石山修武は『「秋葉原感覚」で住宅を考える』(一九八四)ことにより、部材の流通を問題化し、機械の部品をセルフ・ビルドで組み立てる、チューブ状の住居、「幻庵」(一九七五)を発表する。石山が批判するような、住宅の価格がもとのコストとは関係なく、むしろ商品のイメージにより設定される現状は、まさにボードリヤールが『象徴交換と死』(一九七五)で指摘する、労働や生産が終焉し、貨幣記号が浮遊する状態に対応している。またボードリヤールによれば、資本の戦略が社会に拡張した結果、住宅はもはや労働の再生産の場ではなくなり、住人そのもの、利用者の再生産の場所になっているという。この住人とはイメージの生活を営む「家族」に他ならない。おそらく、こうしたボードリヤールの認識は正しいけれども、彼のように巨大な渦に身をまかせるのではなく、何らかの抗争が必要だ。例えば、石山は『笑う住宅』(一九八六)で、メーカーが作る幻想のショートケーキ住宅を批判し、TVのCMのようなシステム・キッチンや異常に高性能化された子供部屋、そして存在理由が不明な和室を疑う。確かにシステム・キッチンや子供室は、近代生活を家族が演じるための、あまりにも高価な装置だ。上演するのではなく、創造的な実験を。ドゥルーズが表象の舞台としての劇場を批判するように、欲望を生産する工場に住宅は近づくべきなのかもしれない(山本理顕も設計工場ではなかったか)[図5]。
5───R.バンハムの論文“A HOME IS NOT A HOUSE”(1965)に寄せられた、強力膜住居の図。機械の連結から成る
他に近年では、環境装置=被膜の機械を目指す、省エネ住宅のエコロジー派や、住宅プランづくりソフトの開発による、シミュレーション派などが興味深い★五。特に後者は、あらかじめプログラムの自由度が限定されていなければ、抑圧されない、住宅への欲望を生産するダイナミックな可能性を秘めているのだが。そして九〇年代は、社会派の牽引によりプログラム論が興隆している。そもそも、安藤忠雄の《住吉の長屋》(一九七六)に寄せられた「雨の日は傘をさしてトイレに行く」というキャッチコピーが意味していたのは、都市に対する戦略よりも、排泄機械が常識的な接続をしていないことへの素直な驚きだったはずである。
プログラム論1─器官なき住宅とは何か?
いつの頃からか、欲望する種々の器官機械が侵入し、住宅はひとつの有機体に統合されてしまった。そして近代住宅は誕生する。もはや器官なき住宅を想起するのも困難なくらい、当たり前のようにそれらは連結している。マゾヒストの家や分裂症者の家を構想すべきなのか? それとも文化人類学的なまなざしで、異民族の家を観察すべきなのか? [図6・7]
6───マトマタの洞窟住居。掘り込んだ住宅は器官の接続をあらわにする
7───F.O.ゲ−リ−《ウィントンのゲストハウス》1987部屋の集合か、部屋の分裂か
住宅史を読み返すのもひとつの方法だ。S・ギーディオンの『機械化の文化史』やA・フォーティの『欲望のオブジェ』もいい。だが、歴史学でも進行しつつある身体の文化史が大いに示唆をあたえてくれる。食事機械、睡眠機械、排泄機械、洗浄機械……、「いくたの流れは結びつけられ接続されて切断し直される」さまを、最近の研究は明らかにしている。
例えば、住宅におけるその位置の移動をたどりながら(台所のわきにあったり、排泄物を外に投げ捨てることもあった)、一八八〇年代に近代的なトイレが室内に組込まれるという、R・H・ゲランの『トイレの文化史』。一八八〇年代以降、ホテルを参照しつつ、アパルトマンにも浴室を導入したという、 J・ヴィガレロの『清潔になる〈私〉』。とすれば、各種のビルディング・タイプ史を住宅に連結させて読みかえることが可能である。すなわち、公共浴場・洗濯場の歴史ならば、それらが個室になって住宅化される前段階として読むのだ。『清潔は敬神にもっとも近し』によれば、初期の公共浴場は病院の増築であり、一九世紀のイギリスのそれは衛生教育の手段のみならず、性差と階級を表象する場であった★六。しかし、後に議会の表明においては、屋外にある共同の「洗濯場は女性を家庭から連れ去り、育児や家事を怠らせる。そして大人数で集まり、良い婦人も悪い婦人も一緒になって、少なくともうわさ話をしたりおしゃべりに勤しむのである」との見解が出され、家庭が模範とされていく。そして洗濯をする個室によって女性は隣人から隔離され、自宅にいるかのようにひとりで作業を行なう[図8]。
8───洗濯・乾燥室で働く女性、1852
やがて「品位あるプライバシー」の美辞麗句が抑圧を開始し、洗濯場は完全に住宅化されるのだ。ちなみに、浴室やトイレのドアをきちんと閉めなければいけないというプライバシーが発生するのは一九世紀である。またM・ウィグリーは、男性の書斎が最初のプライベートな空間であると★七、P・ディビの『寝室の文化史』は何人でベッドに寝るかがプライバシーの尺度だと言っている。そして二〇世紀は、P・ジョンソンの《ガラスの家》(一九四九)、ミースの《ファンズワース邸》(一九五〇)や丹下建三の自邸(一九五三)で、浴室やトイレなどの閉鎖性が高い諸設備が、コアという名のもとに均室空間の中に固定化された(飛行機のプランと似ている)。だが、器官なき住宅とは、むしろ「家族」のことに関係していたのではなかったか。それはより強力なコアとして住宅に君臨しているはずなのだが、これはプライベートな個人空間の問題と併せて、後半で触れることにしよう。
住宅と他のビルディング・タイプの関係に戻るが、つまるところ、住宅が諸機械であるというのは、幾つかのビルディング・タイプの複合体としても考えられることではないだろうか。外部の機能を内部化するのか、内部の機能が外部に放出されたのか。いずれにしろ、花田佳明が「拡張された住宅」で、社会=非住宅+住宅という相互補完的な構図を示しながら、その境界が定かではないことを指摘していたように、まさに諸機械は非住宅と住宅のあいだで浸透しあうのだ★八。あるいは、様々なビルディング・タイプの動的なネットワークの中に、住宅は位置しているのだと言うべきなのかもしれない。すなわち、グロテスクに肥大化する諸器官。普通は外部の施設、アトリエ、スタジオ、無線室などが、住宅に接続することもある。社会のほとんどの部分はプラグ・インする可能性をもつのだから。坂茂の《家具の家》(一九九五)や《紙の家》のように、フラジャイルなものが構造化されることもある。そして二〇世紀後半には、おそらく世界中で新しい機械が住宅に侵入してきたのである。TV機械の登場だ。
ケース・スタディ1─TVの家
「わたしはTVが欲しいのよ。まわりを見て、ラルフ。電気製品が何もないじゃない。(…中略…)あなたはいいわよ、ずっと外にいるんだもの。夜だってお金使ってビリヤードやらボーリングをしてるし、(…中略…)わたしはここに残って、冷蔵庫を眺めて、ストーブ、シンク、それに四つの壁を見ているのよ」。これは一九五五年のアメリカのコメディ、『ハネームナーズ』からの一場面である。現在、こうした状況は想像しにくい程に、TVは日常的な風景=装置になってしまったが、確かにTVは住宅の空間を大きく変貌させたのである。ここで夫のラルフに愚痴をこぼしているアリスは、娯楽機械としてTVを切望し、外出することの代用を求めている。が、TVはますます外部から彼女を隔離するよう作用するのだ。このエピソードを紹介するリン・スピーゲルの『郊外住宅のお友達:戦後アメリカにおけるTVと隣人の理想』は、建築の分野で遅れている性差の問題を導入した論文集に収録されたものだが★九、他にも興味深い事例があるので、それをもとに考察を進めよう。例えば、一九四六年の『ほら、TVは世界に向かうあなたの窓なのです』という本や大衆誌では、窓のメタファーが反復されたこと。つまりTVによって家にいながら、想像の旅ができるわけだ。現在でも、このメタファーは生きており、新しい機械に継続されている。「ウィンドウズ」やインターネットの「ホームページ」という言葉がそれである。TVとは、映画、スポーツ、コンサート、家庭用カラオケなどの娯楽を住宅に組込む機械である。これは劇場のメタファーの乱用からも支持されるだろう。『正しい家事』(一九五一)では、「TVは劇場である」といい、他にも広告では「家族劇場」「ビデオ劇場」「椅子のそばの劇場」と表現されているからだが、TVが劇場になることを軽視すべきではない。『美しい家』(一九四九)では、「居間の家具を少し移動し、TVを見る人が互いに視線が交差せず同じ方向を向く」よう示唆している。そしてスピーゲルの分析にしたがえば、本当にTVを通して虚構のコミュニティが形成されており、それはモトロラTVの広告にも表象されているという[図9]。
9───モトロラ・テレビの広告、1951
その指摘を引用すると、「画面は第三のカップル、TVスターのジョージ・バーンとグラッチ・アレンを映している。左のカップルは画面を見つめ、あたかも彼らが名士の会話に参加しているかのように、ジョージとグラッチに向かって身振りをしている。右のカップルは夫がTVを見ている一方、彼の妻は左の男の方を見ている。手短に言えば、部屋にいるカップルたちの社会的関係は幻覚の存在に支えられているようなのだ」。つまり、TVの中の仮想のカップルと現実のカップルは相互作用し、それゆえに場が成立しているのだ。
TVという器官は、何もアメリカだけの問題ではない。ましてや一部のアーティストだけがやるべき特権的な問題でもない。にもかかわらず、これに建築家が積極的に関わった住宅はほとんどなかった。もちろん、古くは山本拙郎による《電気の家》(一九二二)から新しくは坂村健の「TRON電脳住宅」(一九九〇)まで、住宅の全体を電気装置化しようとする試みはあったが、合理化と同じ意味で追及されたに過ぎない。また隠喩としての機械から電子へのパラダイムを象徴的に示した言葉には、原広司の「住宅は住むためのエレクトロニクス装置である」(一九九〇)があった。が、人間と視線を軸に、最も意欲的にTVの問題を設定したのは、鈴木隆之の《千葉の家》(一九九三)だろう。彼は前作の《笹井邸》(一九九二)において、居間を突出させることで、そこを視線と風景が交錯する舞台としたのだが、現代の舞台はTVであるのでは? という反省を踏まえて、この両親の住宅を設計する。そしてリビング(居間)をひとつの箱に入れ、その前後に中庭と坪庭を配し、微妙なふれと色分けをもつ〈前面道路─アプローチ─玄関─ 中庭─リビング─TV─坪庭〉という多層的な構造があたえられた[図10・11]。
10───鈴木隆之《千葉の家》1993坪庭より、TV台(まだTVは置いてない)、リビング、中庭、玄関、前面道路を見る。
11───鈴木隆之《千葉の家》1階平面図
つまり、一般にTVが置かれるリビング自体が、大きな窓をもつTV的な箱になり、入れ子状にもなっている。またリビングは中庭に突出しているがために、対面の和室や二階の個室など、住宅内のすべての視線がこの箱をめぐって交錯する。あたかもブラウン管の映像のように、リビングの窓には重なりあう屋外の風景が見え、同時に同じ場所で本当のTVが世界を映しだす。TV機械が肥大化し、さらには建築化されたのが、《千葉の家》である。鈴木隆之によれば、TVという最も平凡な装置を、極めて平凡な日本の風景に、建築化して挿入するのが試みであり、異化された「TV」=リビングが隠れた制度を映し出すのではないかという。いささか遅過ぎた建築において、住宅TVの問題を提起したことは評価されるべきであるが、物足りなさがないでもない。小説家でもある作者にふさわしい物語的な舞台の構想ではあっても、結局、視線の問題に終始しているのだ。これは表象の劇場であり、欲望の工場ではない。TVにはもっと社会的な力学が働いていること、具体的には階級や性差の再編成に関わっているという制度の問題には、千葉のTVの家は到達していない。
再びスピーゲルの論に戻るならば、TVの役割はヴィクトリア朝の住居崇拝へのノスタルジックな回帰ではなく、新たなコミュニティへの帰属感覚もあたえる。つまり、外部と切断しつつ接続する機械としてTVは機能しているのだ。一九世紀以来、電気のテクノロジーによるユートピアは語られており、当時は衛生の観点より、安全な場所から遠くに交信できると期待され、戦後もそのテクノ・オリエンタリズム、すなわち電気的無菌空間の幻想は継続する。《美しい家》(一九五一)では、子供にTV娯楽室を与えれば、「心の平穏を見出だすだろう。というのは、子供たちは家から離れながら、それでいて家にいるからだ」という。ここで注目すべきなのは、大切な子供という思想と、望ましくないものが排除された管理の空間に子供を閉じ込めるという発想である。またTVが男女の力学関係に及ぼした影響は功罪の両方が指摘できるけれども、それが特に男性を受動的な家化した身体に変えることは興味深い。ひょっとすると、脱オイディプスはこんなところから現われるのかもしれないからだ。
プログラム論2─形態は規範に従う
佐野利器は『住宅論』(一九二五)の中でこう述べている。「自己よりも、夫婦よりも、更に重大な眞の中心をなす處、の子供というものがあることを忘れてはなるまい。(…中略…)何は兎もあれ、子供を育てるといふことは我々の生活の中心であらねばならぬということには疑を持たぬ、即私は住宅を以て子供のものであると断ずる所以である」。子供室の誕生。時は大正、「新家庭」という言葉が登場し、中廊下型の平面によって各部屋の独立性をあたえつつ家族と使用人の分離を行ない、客間から家庭の中心である居間へと住宅の重点が移行すると同時に[図12]、子供室が種々のコンペの先導や住宅改善の運動によって普及しはじめていた★一〇。
12───『今日の住宅』に掲載された機能図 1935居間を中心とした各器官
しかし、その頃にはまだ、女中室、老人室、書生室といった異質な要素も接続されていたのである。だが、彼らは〈パパ─ママ─私〉のオイディプスの三角形の外側に追い出され、食事機械と接続していた女中の存在は、今や外部のコンビニ機械がとって代わり、老人は老人ホーム(これも新たな家であるが)、書生はアパートに移動してしまった。アリエスの『子供の誕生』の指摘によれば、こうして社会から孤立した近代的家族は、その全エネルギーを子供に集中し、家族においては子供が中心となる。イギリスを例にとっても、中世にはもっと社会に連結していた住宅が、家族以外の人々も雑居する広間から各自が個室に引きこもることにより、家族の安息所に変わっていく。それでも一九世紀以前は子供は女中と同じく最上階の部屋だったが、やがて親の部屋の近くに子供用の家具を備えた部屋が現われる。危険な外部に対して「家庭は安息の場所」(ラスキン)であり、ヴィクトリア朝では壁とドアによる囲い込みが過剰になり、さらにフランスでは衛生の問題から個室の分化も促進したという。自意識の発生を空間の分節化から論じる、Y・F・トゥアンの『個人空間の誕生』は、興味深い指摘をしている。必要ではなく欲望によって家具が増殖し、住宅の内面へのまなざしが向けられたときに、精神分析家は予定されていたかのように生まれたのだ、と。家の内部と心の内部、それは単なる偶然だろうか。トゥアンによれば、フロイトの人格の概念は中産階級の家の構造を基にしている。つまり、貯蔵室は暗黒の存在基盤であるエス、居間は社会的な自我、屋根裏部屋は超自我である。ユングもまた家の垂直断面を意識の階層と見なしていた(バシュラールはその延長だが、『サイコ』の家について、分析した論文もある)。
だが、むしろドゥルーズ/ガタリのオイディプス批判にならって、住宅と家族を思考するのはどうだろうか。お膳立てはそろった。家族劇場の舞台がある。主人公は私=子供、その他の登場人物はパパとママ。これで三角形が完成する。そこで彼らの批判はこうだ。フロイトの精神分析はあらゆる解釈をオイディプス・コンプレックスに還元したのではないか。それは家庭を重視するブルジョワ社会において、一九世紀の精神医学が狂気の原因を家庭に結びつけたことを最終的に完成させたのではないか。無意識の中の欲望の諸機械を押し潰し、分裂症を排除する、オイディプス帝国主義。欲望はギリシアの古代劇場がもつ秩序に従わされ、生産は表象に従属する。近代住宅が理想としたのも、パパ、ママの寝室と子供室が形成する図形の中心に、団欒する居間を設置したものである。子供の個室は、オイディプス的な人格を形成する、インキュベーターだ。かつて磯崎新は、マイホームと核家族と資本主義が身体感覚のように提携した状況に立ち向かう建築家を語り、その時は、自らを引き裂くかもしれない根源的な部分が現われるのだと言った★一一。その最後の言葉であり、かつ文章の題名だったのが「きみの母を犯し、父を刺せ」(一九六九)だ。確かジム・モリソンも当時、同じ言葉を叫んでいたが、そうしたオイディプス的構造の彼方をドゥルーズ/ガタリは指し示している。オイディプス化されない分裂症は絶対的な極限であり、それはドライブする資本主義そのものの外なる極限である、と。だが、オイディプスの場である住宅は、愛と憎しみの舞台となり、外部の社会や政治からも家庭を隔離してしまう。精神医学者のクーパーは、家庭は社会的実在と家庭の子供の間を媒介すると言っているが、基本的には黒沢隆や山本理顕が想定する〈社会─家族─個人〉と同じ構造である。これを山本は転倒し、《岡山の住宅》(一九九二)では〈社会─家族─個人〉と置き換え(施主は精神科医である)、個人を社会に直接に開き、それを集合住宅に拡大したのが、《保田窪第一団地》(一九九一)である。ともに固定化した住宅のプログラムを解体する黒沢も山本も、ときおり自分が欠損家族に育ったことを告白するが、このことをどう解釈すればよいのだろうか? だが、過大な解釈は危険である。またもやオイディプスの罠がひそんでいる。
それに対して、菊竹清訓の自邸《スカイハウス》(一九五八)は、究極の核家族の形態を具現する。菊竹夫妻が連名した説明文によれば、外部を悪の世界と規定し、二人で内部に立てこもり、夫婦愛に至上の価値を置く住宅であり、これを長谷川堯は対幻想の空間と呼んでいた★一二。「愛が勝つ」の一室空間は、夫婦というコアを信仰し、そこに可変なキッチンやバスのムーブメント(生活装置)を接続し、後に生まれた子供の部屋を高床から吊り下げる。そして東孝光の自邸《塔の家》(一九六六)は、極小の敷地に居間、夫婦寝室、子供室を垂直に積みあげ、都市に家族の城を獲得していた[図13]。
13───東孝光《塔の家》1966自閉症的な表情を外部に見せる、家族のための5階建地下1階の砦
菊竹の場合は、子供すらメタボリズムの対象だったから、中心とはいえないかもしれないが、多くの住宅では大事な子供室を外部から最も奥にしまい、夫婦が四本の手を家の柱として守るのである。人生ゲームの駒がそうであるように、マイカー的なマイホームは、〈パパ─ママ─私〉の家族だけの三身一体の聖域なのだ。
こうして建築家は精神分析の家庭主義とも絆を結んできた。「住居という空間装置は規範そのものである」という山本理顕風に言えば、その形態は機能にしたがっていたわけではない。建築家は家庭中心主義という強力な規範を演じる舞台を制作していたのだ。すなわち、形態は規範に従う。だから、『アンチ・オイディプス』の、無意識は両親をもたない孤児であるという声を聞いてみること。そしてブルジョワの劇場を破壊し、〈パパ─ママ─私〉の三角形を社会に開くこと。そこは戦場なのだ。「家庭は、本性的に中心が狂っており、不動の中心を与えられているのではない」、家庭には外部から思わぬ切断が到来するのだから。例えば、母と娘と男の三角関係、部下と不倫する父、風俗嬢にひかれる弟、壊れた祖母の訪問、アナキストの居候……。お昼のメロドラマは、いつもそうした物語を生産している。そして歴史的にも文化人類学的にも、家族の形態は驚くほどに多様である(時には死者すらも家族と認識されるのだから)。そもそもファミリーの語源は「血縁に関係なく一つの火を囲む最小の集団」だったのであり、何らオイディプスに拘束される必要はないのだ。おそらく、近代の男・女/子供に比べて、男/女・子供(・動物)という分節も決して少なくない。例えば、ドゴン族は子供+動物の寝所を持ち、ヌーバ族も子供+ブタ・ヤギ、そしてムースグーム族には夫人+ヤギ、夫人+ウシ、男+ウシという円形小屋がある[図14]。
14───ム−スグ−ム族の集合住居。動物と共に拡大家族を営む
もちろん、便所や風呂、台所やTVといった器官のない住宅の種類も、諸々の行為の組み合わせの数だけ存在するだろう。それは近年の家族と器官にも見ることができる。例えば、車椅子の母と息子が二人で住む、山中新太郎設計の《長靴の家》(一九九五)[図15]から、宮本佳明による家族文化アパートメント《愛田荘》(一九九四)という母の家、娘の家、居候の家が弧を描くスロープに沿って集落のように並び、加えて犬六匹が暮らす拡大家族の住宅。そして石山修武の《アライグマ・ギンとの家》(一九九五)[図16]は、住宅がアライグマの拡大された檻にもなっており、動物と男が共生する。
15───山中新太郎《長靴の家》 1995
16───石山修武《アライグマ・ギンとの家》1995アライグマを見上げる男