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建築と書物──読むこと、書くこと、つくること | 隈研吾+五十嵐太郎+永江朗
Architecture and Books: Reading, Writing and Creating | Kuma Kengo, Igarashi Taro, Nagae Akira
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.54-70

建築と書物の親和性

永江朗──「建築家はどのように書物と関わるのか」というのがこの鼎談のテーマです。最初に素朴な感想をもうしますと、芸術家のなかで建築家ほど書物と親和性の高い人々はいないのではないか。これはちょっと異様なことだと思います。もちろん文芸は別ですが。ただ、建築家が書いた本があまりにも多いので、われわれはその異様さに気づかないだけで、ちょっと考えると、画家や彫刻家でも、あるいは音楽家でも、本を書く人はそんなにはいないのではないか。おそらく、そんなには読んでもいないのではないか。あるいは工学の専門家である、という観点からみても、いわゆる横組みで印刷された理工書を書く学者はいるけれども、建築家が書くものはそれとはちょっと違う。もっと平たくいえば、文系/理系でいうと、建築家は理系の人なのに文系の本をたくさん読み、たくさん書く。なぜ建築家はこんなにも本が好きなのか。それがまず根本的な疑問としてあるのですが。
隈研吾──言われてみれば確かにそうなのかもしれません。それについて真剣に考えたことはないけど、たぶん建築家が本を書く動機には二、三あるなと思います。ひとつは、若いときは仕事がないフラストレーションをどうやって晴らすかということでしょうね(笑)。仕事によって自分の考えていることを具体化できる段階になれば、必ずしもフラストレーションはたまらない。でも、若いときはきっとフラストレーションを晴らすというのが、本を書く主な動機ではないかという感じがします。とくに住宅に関する文章が多いのは、やはり若いときに住宅をつくるということが、建築家において特別な意味をもってくるからで、その住宅の仕事さえもそんなにないときに、住宅を設計するのではなくて、住宅論を書くことでフラストレーションを晴らすという構図がある。またそれとは裏腹に、本を書くことが営業ツールになって、その本をみて仕事を頼んでくる人がいるかもしれないという思いがあるんじゃないかな(笑)。その一番典型的なのが、ル・コルビュジェの『エスプリ・ヌーヴォー』に連載された「建築をめざして」ですね。これはとても営業ツール的な色彩が強いものではないかと思うんです。
永江──ノーマン・メイラーじゃありませんが、「僕自身のための広告」としての本という感じですか。
隈──そう。それが若いときの動機かもしれない。ある程度大きな仕事をやるようになると、その仕事のアリバイづくりというかやっている仕事を自分の文脈で見せたいという意味で本を書くことがあります。というのは、大きい仕事になると、住宅と違って社会的制約が強くなってくるので、必ずしも自分の思うようにはできない。そういう意味で別のフラストレーションが出てきて、そのときに自分の思っている文脈で強引にそれをみせるという、一種のアリバイ工作みたいなかたちで書くわけです。磯崎さんなんかはそういう感じが強いのではないかな(笑)。
永江──作品のキャプションとしての書物、という感じでしょうか。
隈──磯崎さんの作品は、雑誌で文章なしでみるときの印象と、テキストを読んで感じられる印象はずいぶん違って、磯崎さんが書いていることはひとつの裏ストーリーというか、かなり意図的な中和剤みたいな感じです。できたものが少しハコモノ的でも(笑)、それをうまく中和しているのが磯崎さんのテキストではないかなと思うんです。仕事がないときと同様に、ある程度の仕事をやるようになっても、そこで生まれるフラストレーションを中和するものとして、本を書くという行為があるんではないかという気がしますね。
永江──そもそも建築は言語との親和性が高いんですか。
隈──抽象化という行為とは親和性が強いと思います。ひとつの抽象的な概念をもとにして、プランニングからディテール、色まで全部決めつけていくというような意味で、抽象化作用と建築デザインの親和性が強い。というか、建築というのはデザインの範囲がかなり広い領域にわたるから、そういうコアとなるような概念なしではそれを統合するのが難しい。たとえば、コーヒーカップ一個をデザインするんだったら、ひとつの概念で統制しなくてもなんとかなるけど、外観から家具まですべてを統合するには、かなりコアになる概念が強くないと全体がひとまとまりの作品に見えてこない。それだけでは領域が拡散しすぎているということがあるんじゃないか。それが、建築家が言葉を呼び寄せるということにつながるんじゃないかなという気がします。
五十嵐太郎──実際、本を読んで作品を依頼してくる人は多いんですか?
隈──僕の場合は、アメリカから帰ってきて『10宅論』(トーソー出版、一九八四)を書いただけで、別に作品はなかったけれども、《M2》を頼みにきた人は『10宅論』を読んで頼みにきたんですよ(笑)。
五十嵐──思い切りましたね(笑)。
永江──『CasaBRUTUS』の企画で南洋堂の荒田哲史さんに、一般の人が家を建てたいと相談にきたらどの本を薦めるか聞きました。「まず最初に『10宅論』を手渡して、この中で自分がどのパターンに当てはまるか考えてもらう」と言っていました。
隈──《M2》を頼みに来たのは博報堂の人で、マツダからコンペの依頼を受けたから、それを一緒に考えてくれないかと言ってきたんですね。広告代理店的な人からみるとこういう本を書いた人と一緒にコンペをやったらおもしろそうだからというので頼んできたんです。そのように、最初のころは本をみて頼みにくる人が結構いたんですよ。ゴルフ場のクラブハウスを設計したときには、名作といわれていた古いゴルフ場のクラブハウスの文章を書いたことがあって、それを読んだ人が大胆にも設計してくれと言ってきた(笑)。そういうふうに、文章の中にある、ものをみる目の基準なり、概念みたいなのに共感してくれて、こういう人だったらいいものをつくってくれるのではないかと思わせるものが、建築の文章にはあるのかもしれないですね。
五十嵐──永江さんは建築と書物の親和性という問いを最初に立てましたが、それこそ西洋建築史をさかのぼると、いま考えられている建築家の概念というのはだいたいルネサンスくらいに確立したもので、その時代というのは活版印刷術ができ、アルベルティのように、まさに建築論といった書物を書くようになります。建築とはなにかという一般論や、デザインのマニュアル、そしてパラディオのような図版つきの自作解説の本などが登場して、建築書の原型もそろいますね。つまり、建築論と建築家の概念の成立が結びついている。
永江──それは造形美術のなかでは異様なことですよね。彫刻家はそんなに書かないし、ファッションデザイナーだって書かない。建築とファッションはずいぶん似たところがあると思いますが、でも川久保玲山本耀司もそんなにはしゃべらない。
五十嵐──建築家は感性だけだと不十分で、やはり論理を重視するからでしょうね。『10+1』のように文字による論考が多い雑誌が成立しているのも、建築系だからでしょう。美術批評だけの雑誌はもっと部数が少ない。建築系のシンポジウムなんかは学生が多く集まり、すごく入りがいい。それに比べると、美術系のアーティストの卵たちは、他の人の話なんかあまり聞かない。
隈──うん、確かに多いですね。彫刻なり、アートだと基本的に発注を受けなくてもつくれるけど、建築は発注を受けないとつくり出せないわけだから、その発注者に対してどう説明するかというときに、どうしても言語を媒介にしてまず発注者と接する必要にせまられる。若い人はそれを直感的に感じていて、発注芸術だからまず言語能力を磨こうと無意識的にそういうシンポジウムに行ったりしているのかもしれないですね。
永江──それはおもしろい。第三項としてのクライアントの存在ですね。ということは、隈さんが本をお書きになる場合、想定される読者は、建築ジャーナリズムの世界だけではなくて、未知のクライアントというか、これからクライアントになりうる人も含めて書いているわけですか?
隈──クライアントが直接僕の書いたものを読んでおもしろいと思うことはそんなにないんじゃないかな(笑)。また、本を書く場合でも、お金を出す人がテキストの内容に興味をもつかどうかはあまり意識しないですが、ただ、世の中に対して、自分がやっていることはこういうことなんですと宣言しておけば、それがめぐりめぐってクライアントの耳に届くこともあると思います。だからその程度に、間接的にクライアントを意識しているということはあるかもしれない。
永江──荒田さんによると、個人住宅でも最近のクライアントはかなり勉強しているらしい。一般誌だけでなく、建築専門誌や建築家の著作を読んで、依頼する人が増えている。家を建てるにはまず建築家と戦わなければいけないので、あらかじめそれなりに理論武装をしておこう、というような。
隈──なるほど、建築家が文章を営業ツールと考えているのと同時に、クライアントの側も打ち合わせのための一種のツールとして考えているんですね(笑)。こちらはあまりそういうふうに考えていないけど、確かに打ち合わせのとき、むこうがある程度建築に対する素養があるかどうかでこっちの緊張感がずいぶん変わりますものね。そこで緊張感をもってしまうことがいいことかどうか、お互いの良い関係の構築に役立つかどうかは微妙なところがあるんですけれども。

1──隈研吾氏

1──隈研吾氏

記憶に残る書物の気合い?

永江──これまで読んだ建築書で記憶に残っているのは例えばどんなものですか?
隈 ──若い頃の本というわけではないですが、ビアトリス・コロミーナの書いた『マスメディアとしての近代建築──アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』(松畑強訳、鹿島出版会、一九九六)という本がかなりおもしろかった。僕らの世代では、篠原一男の『住宅論』(SD選書、一九七〇)が聖書あつかいでしたけど、あの手の住宅を神格化するテクストはおもしろくないなと思った。ル・コルビュジエの『建築をめざして』や、篠原一男の『住宅論』のような住宅を神話化する論が琴線に触れることはなかったですね。その手に比較すれば、原広司さんの有孔体の理論のような科学的構えをとった本に、二〇代には一番関心がありましたね。磯崎さんのは一種の教養的な情報収集の道具として読ませてもらって、感情移入して読むことはなかった(笑)。
永江──書物から得たものは、建築をつくるときの根本を揺るがせますか。
隈 ──ものづくりの決定的な部分を、かなり左右されるところがありますね。逆にそれがないと、建築をつくるという行為は本当にただの雑事の積み重ねにしかならないところがあるんです。例えば奥さんの肩をもんであげるのと、そんなに違わないんです(笑)。クライアントからの細かな要望を聞くとき、「こんなことしていていいのかな」と思うけど、そういうのを読むと「ああ、この肩もみにはちゃんと意味があるんだな」というような気がしてくるんです。それで日々、ちゃんと気力を立て直して仕事ができているというところはありますね。
永江──具体的にはどういうことなんでしょう。たとえば、音楽家や美術家はよく「作品のテーマを探す」という言い方をします。そのテーマとなりうるようなものを書物から発見していくのか、あるいはテーマを見つけるヒントを書物から得ていくのか。もっと技術的で実際的な、たとえば壁の造形をどうするかといった、具体的な解を発見していくのでしょうか。
隈──テーマを発見しようと思うと、結局その建築家の書いたテーマにこっちも支配されちゃうから、なるべくストレートな読み方から逃げたいなと思って読むわけです。この、壁一枚の位置を決定することが、もっと本質的なある深いものにつながっているんだと思い込めるような勇気をそこからもらおうと思って読んでいる。
永江──行間に励ましの言葉を聞くわけですね。
隈 ──そういう意味では、一種の気合みたいなものが文章に込められているかどうか、その気合のありなしみたいなのが建築書ではすごく重要です。原さんの七〇年代のものには気合だけは入っていたような気がする。磯崎さんの文章はそういう意味では、気合が入っているというよりはムックみたいな感じがするので、磯崎さんの本と原さんのものとは全然違う読み方をしちゃう。
永江──同世代あるいは同年代の、海外の建築家の書くものは、気にしてお読みになりますか。
隈 ──同世代の海外の建築家で、書いている建築家って限られるような気がするし、とくにおもしろい文章を書く人は限られる。建築家でいえば、それはレム・コールハースが圧倒的で、唯一の書き手としてここ何十年間か君臨している感じです。チュミなんかは現代思想のヴィジュアライゼーションという型にすっぽりはまってしまってもう古くみえるのに対して、コールハースが新鮮さを保てているのは、現代思想の状況を超えたところまで届いているからかなという気はしますね。それよりもっと若い人間で、五十嵐さんなんかはどうですか。
五十嵐──MVRDVの本はおもしろいと思うんですけど、いわゆるテキストがダーっとある本ではない。見開きでワンテーマが連続している本づくりが新しい。本は本なんだけど、本の使い方が少し移行していますよね。まるでパワーポイントのプレゼンテーションみたいじゃないですか。レムとかMVRDVとかは、辞書のように巨大な本を刊行したり、ひとつの作品だけで一冊の本をつくったりだとか、本のつくり方が大胆です。コールハースのプラダも、いまは市販されているけど、もともとは施主のためのプレゼントとして特別に製本したものだった。贈り物としての本ですね。これは仮説ですが、オランダの建築家たちがすぐに本をつくるのは地域の伝統と関係しているのではないか。ヨーロッパの歴史からみても、オランダは本を重視するプロテスタント系の人が流れてきたこともあって、印刷業とか栄えていたんですね。さくっとつくって出しちゃうという気軽な感覚がもともとあるんじゃないか。どうも本をつくるときのハードルが低い。
新しいメディアとしては、最近建築系のDVDが入手しやすくなりましたね。それが建築の表現とどう関係あるかについてはまだコロミーナのような分析はできないですが、とりあえず今はドキュメントとしてみられるタイトルがだんだん増えている。アーキグラムが当時つくっていた短編も結構かっこいいんですよ。イームズ夫妻やアーキグラムが過去につくっていた映像が気軽に入手できるので、建築家と映像の関係を再検証しやすくなった。間違いなく、建築家による映像は、これからも増えていくでしょう。伊東豊雄さんや青木淳さん、またデジタル系の建築家は、作品のプレゼンテーションでも、アニメやCGの映像を効果的に用いていますね。
永江──五十嵐さんはものすごい量の本を読んでいらっしゃいますね。これはある編集者から聞いたジョークですが、五十嵐家では夫が眠っている間、妻が隣で音読しているらしい、だから五十嵐太郎の読書時間は二人分ある、なんてね。
五十嵐──実際うちの妻としゃべっていてネタはもらいます。最近、何度か引用したミラン・クンデラなどはそうです。でも一番よく読んでいたのはやっぱり大学院のときで、時間が膨大にあるのでかなりじっくり読んでいた。当時はいろんなタイプの読者会を同時並行でやっていた。いまは一冊の本を最初から最後まできっちり読むというのは、書評でも担当しないと少なくなってきて、どうしても斜め読みになってしまう。目次を眺め、序や後書きを読んで、全体の構成を理解してから、そのとき必要な部分をチェックすることが多い。とりあえず、全部を一字一句読まなくても、何について書いてある本かを押さえておけば、後で別の仕事のときにまた思いだして、他の必要な場所を読むこともできる。さいわい建築の本の場合、図版が多いでしょう。あれは、他のジャンルの本に比べると特徴的で、ある程度建築関連の書物を読んでいると使われる図版も決まってきます。よほど独創的な内容でもない限り、図版の組み合わせで、だいたい何を言おうとしているのかもわかってしまう。レポートでも、文字だけの出題をするより、写真を撮らせるタイプのものにすると、すぐに良い悪いがわかり、採点が素早くできます(笑)。文字だけの本よりは図版が入っている建築の本は、情報が結構はやく頭にはいるのかなと思います。
隈──だからたいして深く読んでいないんだよ、きっと(笑)。シンポジウムでも、だいたい図版を追っていくだけである程度わかる。図版と語尾の気合みたいなものでいいんですよ(笑)。だからそこでテーマを見つけようという切迫感をもって読んだり、話を聞きにいくんじゃなくて、なんとなく気合をもらいにいったり、どの図版を知っていなきゃいけないかという情報収集活動をしているところなので、そういう意味では建築の書物というのは希薄な存在なのかもしれないな(笑)。

永江朗氏

永江朗氏

建築と現代思想

永江──建築家にしても建築評論家にしても、現代思想に関して詳しい人が多いように思います。言語との親和性だけでなく、思想・哲学との親和性がある。
隈──現代思想でも、柄谷行人さんが一時期建築で人気があったのは、やっぱり語尾の気合みたいなものじゃないかな。
永江──われわれのような門外漢にとっては、建築について語る文脈のなかで現代思想を語ってもらうと、現代思想の参考書としても読める楽しさがある。建築は具体的なものですから、たとえばポスト構造主義のこういう概念を建築物として具体化するとこうなる、なんて。まさにメタファーとしての建築ですが。
隈──ヴィジュアル版現代思想みたいなものですね(笑)。
五十嵐──八〇年代までは確かに現代思想的なものと建築の関連があったと思います。しかし、最近は教養の抑圧がなくなって、そういった傾向は薄れてきているんじゃないかと思うんですが、どうでしょう。
隈──お勉強をしなければいけないという強迫観念はなくなってきている。
五十嵐──ある世代から下になっていくと、現代思想というのは建築では使いにくくなったのかもしれない。いまはむしろ、体験するフィールドワーク的なものが好まれている。
永江──たしかに建築が思想・哲学と親和性を持ったのは、九〇年代初めまでかもしれない。
隈──その象徴的存在だった柄谷さんのいまのポジションも関係しているでしょう。
永江──それは建築の変化というよりも、語る側の変化かもしれませんね。たとえばスーザン・ソンタグは写真を語りつつ思想を語ってきた。多木浩二さんも建築や写真を語ることで世界を語っていた。でも、そういう語りかたはだんだん難しくなる。飯島洋一さんの評論だと、思想よりも文学を感じます。べつにお父さんが詩人だからというバイアスが、読む側にあるわけではないと思うんだけど。
ポストモダンのころだと、ポストモダン建築とポストモダン思想って、本当はそんなに関連性がないんだけど、関連づけて読むと妙に納得してしまうところがある。論理より雰囲気でしょうが。ミニマリズムのストイックな感じから、わあっと解放されるような時代の気分を共有できたというのはあった。でも、思想と建築の一体感は、九〇年代なかば以降はあまりないかもしれない。
五十嵐──『新・建築入門──思想と歴史』(ちくま新書、一九九四)のなかで隈さんは、わりと哲学や思想の流れと建築をパラフレーズして分析してみせていますが、それはご自身の設計の方法論ともかなり近いところがあるんでしょうか。
隈 ──あれは自分で探したテーマみたいなものを言語化しようと考えて書いた初めての本かもしれない。『10宅論』までは揶揄しようという感じで書いていて、『新・建築入門』で初めて、そろそろ自分でテーマを言語化しないといけないなという大人っぽい思いをもって書き始めましたが、そこの間に、ずいぶん自分に変化があったという気がします。
五十嵐──僕の場合は、独自にやりたいテーマもありますが、他者が自分の知らない可能性を発見するのではないかとも思っていて、依頼された原稿をひたすら書くというのも好きです(笑)。
編集──建築家がある種思想的なヴォキャブラリーを使うケース──たとえば塚本由晴さんが「アフォーダンス」に関心があったり、あるいはかつて伊東豊雄さんが「シミュレーティッドシティ」ということを言ってみたりしました。「脱構築」は象徴的な言葉なんでしょうが、そうした思想的なキーワードと建築家との結びつきについてはどのようお考えですか。
隈──塚本氏はそんなに真剣にアフォーダンスをやっていないんじゃないかな(笑)。彼の本質は別のところにある気がする。
五十嵐──建築が難解な思想の絵解きとして読めるのとちょうど反対のヴェクトルで、建築を言葉で説明するときに、共有できるキーワードを使うと伝わりやすいというのがあるかもしれません。塚本さんみたいに建築家であると同時に、大学の先生をして、論文指導とかをしている人が結構いますよね。そもそも建築は工学部に所属しますから、おそらくアーティストに比べて、自分が学術論文を書いたり、逆にそうしたものを学生に指導する機会が多い。塚本さんも自分の設計のためだけではなく、指導教官として、それで学生が論文を書けるネタをいつも探していると思います。
永江──いま、塚本研にはルフェーヴルの本がいっぱい転がっているらしい(笑)。少し前から塚本さんはルフェーヴルに言及することが増えていて、学生たちも自然とそれに影響されて読んでいるようです。プロフェッサー・アーキテクトの特殊性というか、常に学生を相手にしていると、抽象的論理的思考が習い性になるようなところがあるのではないでしょうか。私が洋書屋に勤めていたとき、篠原一男先生がよくいらっしゃっていて、建築家というのは海外の資料もよく読む職業なんだと感心しましたが、でも、施主あるいは一般読者からすると、建築家が抽象的で小難しいことを語ってくれるから安心できるところもある。きまぐれでこんなかたちにしているんじゃないんだ、理由があるんだと思うと安心できるというのがある。ルフェーヴルも言っているのなら、まあいいか、と。
隈──そういう意味で、普遍的なものに接続されているという安心感は、建築みたいな大きなリスクの伴うものをつくる時には絶対に必要になってくる。何千万円もかけて、それがただの遊びでつくられたんじゃたまんないという思いはある(笑)。でも少しずつ、その意味での普遍願望みたいなものは減ってきているんじゃないかな。
永江──それは、「こういうかたちではなくありえたのに、こういうかたちにする」ということについて、明確な根拠を示さなくても、世間が許容するようになったということですか。
隈 ──もともとは普遍的なものに接続しているという気分だけで、充分だったわけでロジックで立証しているかは怪しいわけじゃないですか。でも今は、そういう気分みたいなものがなくても、テキストでそこを補強してやらなくても、ライブドアみたいな金銭感覚のせいで、何千万円かけてなにかをつくること自身に対しての緊張感が薄れてきているという感じがするんです。
永江──過去に読んだ建築書で衝撃だったもののひとつに、毛綱毅曠の『七福神招来の建築術』(光文社カッパサイエンス、一九八八)があります。冗談みたいな本ですよ。なるほど、現代建築家というのは、こんなに馬鹿なことを言っても許される底ぬけに楽しいものなんだと感動した。何千万円、何億円かけた建築のベースに、冗談や妄想があるとしたらと思うと、すごく解放された気持ちがしました。
隈 ──毛綱さんはやっぱりあのキャラがもっと表に出てくればおもしろかったような気がしますが、意外にそういうキャラを建築雑誌に出てくるときに消しちゃうんですよね。もっとへんな、過去の人間とかを呼びだして対談する、すごくあやしい本を出していたりするんだけど(笑)。
五十嵐──霊界でガウディと対談したとか言っていますからね(笑)。
隈 ──すごかったよね、あの本は(笑)。『新建築』みたいなメディアにいくと、毛綱さんてそういうのが一切消えちゃっていた。いまだったらあのキャラはそのままストレートに出せたかもしれないけど、毛綱さんが元気だった一〇年前くらいまでの建築界はそういう感じがまるでなかった。やっぱり普遍的なものとくっついているというのが、非常に重要だったんだね。
永江──毛綱さんに感動した裏側には、そもそも建築家が書く本は、どうしてどれもこれも頭よさそうなんだという疑問があります。IQが高そうで、センスもよさそうで。
五十嵐──それはやっぱりお金を出すクライアントがいるから、あんまり頭悪そうなものは怖くて出せないかなというのがあるんじゃないですか。確かに、あんまりお馬鹿キャラを演じる人はいないですよね、建築だと。
永江──磯崎さんがときどき人民帽みたいなのをかぶっていたりだとか、塚本さんがいつも変わった帽子をかぶっていたりとかそういうことはあるにせよ(笑)。

五十嵐太郎氏

五十嵐太郎氏

建築家の書く本

永江──建築家が書いた本でたくさん売れたものに、清家清さんの『家相の科学』(光文社、一九六九)という本がありました。いま一番読まれている建築書というのはドクター・コパのものだそうですが、ルーツは清家さんの家相かもしれない。
隈──でも、清家さんってやっぱりある意味で、建築のその普遍性に対する欲求の限界というか裏を見据えちゃって、それでその種の建築界から足を洗っちゃったいさぎよさがありますよね。建築の世界で清家さんという存在はとてもおもしろいんじゃないかなと思うんですけどね。
永江──モダニストのおじいさんという感じがします。
五十嵐──清家さんの家相も、やっぱり基本的にはモダニスト的な解釈ですよね。逆に家相を使ってモダニスト的なことを広げようというのがあったのかなと、ちょっと思うんですけど。
永江──「建築書」といったとき、いまここの場では磯崎さんや隈さんが書くような、理論的で難しい高級なものをイメージしますが、一般の書店で「建築書」というと、必ずしもそうではない。ドクター・コパだったり、ツー・バイ・フォーがいいとか悪いとか、マンションの選び方とか。清家さんの家相はその中間にある。
隈──そのギャップというのは、基本的には昔からずっと存在するんです。あくまで、ものすごく実用的な領域でありながら、アカデミズムや思想の真髄みたいなものを匂わせ続けないと成立しない職業であって、その二面性自身がこれからも続いていくのかどうかということなんです。
五十嵐── でも実際マーケットをみると、いわゆる建築書って初版で三千部とかそういうオーダーですよね。それとは別の次元で、ドクター・コパだと、何万、何十万部いくかわからないけど、ケタが違う。そういうふうに、二つのマーケットがなかなかクロスしない。ただ、例外的に安藤忠雄さんはそれを飛び越えたのかもしれない。
永江──それをつなぐものとして、『CasaBRUTUS』とか『pen』とかといった一般誌のジャーナリズムがあると思う。
隈──そこで安藤さんが結構おもしろい存在なのかもしれない。
永江──それは大学に所属していないということですか。
隈──それでも最終的には大学に所属することで、二層にわかれていた建築マーケットを強引に統合した。でも書くものをみるとすごい生真面目ですからね。ウィットのかけ方も妙に生真面目なものですよ(笑)。
五十嵐──実際売れた東大のレクチャー本(『建築を語る』東京大学出版会)は、個人史をはさみ込んでいるとはいえ、基本的には建築論をみっちりと講議していますね。普通の書店でも平積みになったけど、建築以外の人は全部理解できたのだろうか。直筆サインが欲しくて買った人もいるかもしれませんね。マガジンハウスで出した安藤さんの旅日記(『安藤忠雄の都市彷徨』)みたいな、ああいう本のほうが一般の人には読みやすいかなと思ったんですけど。
隈──あの本が売れたのは、「安藤」というストーリーを結局は買っているわけで、本の内容を買っているというのではなかったと思います。ボクサーで東大教授でもある人だけが書けるような、知的でもあるし、エンターテインメントでもあるものを安藤さんには書いてほしいんです。
永江──やはり、「建築家の書く本はこういうものだ」という型があるんですね。
隈──そういう意味で安藤さんが実際に書いている本は真面目すぎると思うんです。塚本の書いた本でも、まだ真面目ですね。
永江──塚本さんもよく書きますね。実作もつくって、学校でも教えて、どこに書く時間があるのか驚きですが。
隈──やっぱり実作をやっていると書きたくなる気分はわかる。フラストレーションでむしゃくしゃして、どうしても書きたくなる気分になる。
永江──文字で書く、あるいは文字で考えると、設計していることがわかってくるんですか?
隈 ──それはすごくある。文字を書くと「ああ、俺ってこんなたいしたことやっていたのか」と、本当に(笑)。作品を『新建築』で発表するまではすごい不安でしょうがないわけです。でも『新建築』用に文章を書いてみると「ああ、結構まともなことをやっていたんだな」というふうに思って、はじめて安心してくるんです。雑誌に発表する前はすごいストレスで、人前でパンツをぬぐみたいな感じ(笑)。
永江──そうなんですか。
隈──やっぱり文章を書くと落ち着く。ああ、これで発表してもいいんだなという気になってくる。
永江──無理やり腑に落とすための儀式みたいですね(笑)。
隈──でもそれはまったく根拠のない文章ということではなくて、無意識のなかでもじゃもじゃ考えていたことをひとつながりの文章にしてみてはじめて、自分の日常が構造化されたみたいなことになるわけです。無根拠なでっちあげではない(笑)。
五十嵐──隈さんのなかでは、作品を発表して文章を一切書かないというのはなかなかありえなくて、やっぱり作品を発表して文章を用いて補完するのがひとつのセットになっているというところはあるんですよね。
隈──ただ、一度そこで自分で文章を書いてしまえば、もうほかの雑誌で書かなくてもいいなと思う。一回自分で書いて、自分なりに納得することが重要で、すべての雑誌で自分のテキストつきで読まれる必要はまったく感じない。
永江──五十嵐さんが建築を見て語るとき、その建築家が書いたテキストは、建築そのものについての見方を左右しますか。
五十嵐──うん、やっぱり関係づけて考えていますね。だいたい下調べかなにかで事前に見ていますからね。まったくものだけで、というのはあんまりないかな。ただ、そうした設計者のテキストがない場合、たとえば昔の宗教建築などはまったくわからないので、全然違うアプローチをとります。それでも、どのようなことを考えてつくったのをまず想像しますから、つくり手の視点に近づくことが多い。知らない建築家の代わりに、そのテキストを作文するわけですね。逆に言うと、「あなたは建築評論家なんだから使い手の立場になって駄目な建築は批判してください」なんて批判されたことがありました(笑)。いや、僕が使っているわけじゃないし(笑)。それに使い勝手がよくないのは、建築評論家でなくても言えるわけだし。
永江──ニュートラルという立場があるのかどうかわからないけれども、建築家のテキストを読まずに見た場合と、建築家のテキストを読んでから見る場合とは違いますか。
五十嵐──やっぱり違うとは思います。たとえば、最近はディテール侍という言い方をよくしているんですけど(笑)、ディテールにすごく詳しくて、なにか「ものをみよ、それですべてだ」という方法もあるかもしれません。しかし、自分の場合は設計を実践したことがなく、大学の教育までしか受けてないから、そうした批評なら建築家のほうがうまいはずです。だからどちらかというと、建築というものとそれにまつわるメディア、たとえば言説や写真との関係性で読み解くほうが、自分は得意というか、そっちのほうがやりやすいなというのが正直ある。まあ、ないときはないなりに見るんですけど、あるときはできるだけそれを資源として活用すべきだという考え方です。
永江──テキストを読まないと意図がわからないものもあるじゃないですか。でもそれはなんだと思いますよね。建物を見るすべての人にそのテキストが読まれるとは限らないわけだし、テキストなしには気づかれない建築家の意図もあるわけでしょう。気づかれなかったものを、テキストが補完することで気づかせてしまうというのは、へんな言い方ですけど、建築が言葉に負けていることにならないのか。建築が言葉の助けを得て成立しているというのは、建築がそれだけで自立していないのではないかと思ったりします。
隈──言葉が参加することによってそこに発生する一種のキュレーション空間なんですね。そういうキュレーション空間が欲しくなるようなメディアなのかなという気がする。
永江──物体だけれども、いろいろ読む余地があるということですか。
五十嵐──説明がさきにあると、ガイドラインになってしまって、それだけを確認して見学を終わる恐れがあります。ただ現場で得られる情報量は圧倒的に多い。設計者がどれほど長い解説を書いていたとしても、それとは違う情報がいっぱいあるわけですね。まわりの環境、ディテール、その場の雰囲気など、みる人によると思うんです。事前に仕入れたコードのなかでしか情報を引き出せないという風に、テキストに従属することもあるかもしれないけれど、現場にはそれをはるかに凌ぐ情報量があって、空間のリテラシーが必要だ思います。
永江──建築評論家にとって書物とはどういう存在なんですか。たとえば音楽評論家だったら音楽だけ考える。もちろんミュージシャンのインタヴューなどをチェックするにせよ、基本はその作品そのものと向き合って考える、みたいなところがありますよね。だけど、建築について語るときは、過去の膨大なテキストの蓄積のうえに氷山の一角として、いまこの建物があるというふうにみていくものだとすれば、よほど大量に読んでいなければ建築について語ることはできないのではないでしょうか。
五十嵐──僕は個人的に、いっぱい情報があるほうが好きなのですが、そんなに大量に読まなくても、文章を書くスタイルがきまっていたらそれはそれで可能だ思うんです。
隈 ──全部読まなきゃ批評できないというような強迫観念は、ほとんどの建築家はもっていないんじゃないかな。だけど読まないにもかかわらず、抽象化できるその気合というか度胸みたいなものが必要とされる社会なんですよ。度胸がないと設計もできないし、施主を説得するなんてこともできない。度胸があるかないか、それはこの業界で大事なことじゃないかな(笑)。本を読むというのは、その訓練をしているんじゃないかという気がします。ちょっとの情報量をもとに本質にたどりついたと思えるような訓練、それがその度胸の獲得になるんじゃないかなと思います。
五十嵐──僕の場合は建築史を先にやっていたというのが大きい。歴史学では、あるテーマがあったときに関連する参考文献をずらっと挙げて、ちゃんと読み込んでから書くというフォーマットみたいなものをもっています。それを最初にたたきこまれたので、いまもそれをひきずっているわけですね。過去の蓄積のうえにテキストが書かれるのであって、一〇〇パーセントオリジナルという文章はなかなかありえないと思っている。
永江──アカデミズムのなかでのディシプリンの結果だと。
隈──アカデミズムのなかでも藤森照信さんは、そういうものを歴史学のなかから自主的に壊してしまった気がします。藤森さんって、度胸の手法で歴史学自身も解体してしまった。建築家的ないい加減さで歴史学のほうに攻めいって解体してしまったみたいなところがある気がしますね。
五十嵐──それは自分がつくりたかったというか、すでに建築も設計していますけど、文献のなかに閉じこもるというよりは、もっと体験的な直感や探偵のような聞き込みも特徴的ですね。
永江──多木浩二、柄谷行人といった建築家以外の人が書いた建築についての本を、建築家はどう読むんですか。もっと別の方向では、トム・ウルフの『バウハウスからマイホームまで』(晶文社、一九八三)とか、洋泉社の『東京現代建築ほめ殺し』(洋泉社、一九九七)の建築三酔人とか、そういうものまでいろんな幅がありますけれども。
隈──あたりはずれが激しいっていう感じ。トム・ウルフは『現代美術コテンパン』(晶文社、一九八四)のほうがおもしろかった。文科系の先生が書いているのは概しておもしろくない(笑)。
永江──おもしろくないというのはなんていうんでしょうか、ぐっとくるものがないということですか。
隈──要は解釈なのでぐっとくるものがないし、情報のインデックスとしても使えない。買って後悔することも(笑)。
永江──批評や評論というよりも、建築ジャーナリズムのようなものがありますよね。朝日新聞の松葉一清さんみたいな仕事はどうですか。
隈 ──松葉さんは、建築という、キュレーション空間作りをしてくれているという感じがする。アトリエの作品と大組織の作品とを偏見なく論じられるキュレーション空間作りがないと建築はすごく貧しくなると思う。大組織のものはただのゴミだといっていいのか、それとも大きいから偉いのか。大組織のものでもこういう文脈からみればおもしろいということをちゃんと都市全体の座標のなかに位置づけるということをやっている人間が意外に少ない。松葉さんとかがやっていることは、そういう点で貴重ですね。

クライアントにとっての建築書

五十嵐──永江さんは塚本さんに家を建ててもらう前に、石山修武さんとも親交があった(笑)。石山さんはいわゆるアカデミズムとは違って、『秋葉原感覚で住宅を考える』(晶文社、一九八四)などという本をお書きになっていますが、家をつくるときに建築家の書かれたものをどういうふうに読まれてきたんですか。
永江──じつは石山さんの本と出会ったのが、建築に関心を持つきっかけだったと思います。『バラック浄土』(相模書房、一九八二)の衝撃。かっこいいと思った。私が学生だった七〇年代後半は、石山さんや毛綱さんが暴れ始めて少したったころでしょう。石山さんの一般向けのエッセイは、家は釘一本の値段から疑えだの、おばさんは住宅を頼むなみたいな、わかりやすいコピーというかスローガンがあって。篠原一男とは全然違う文脈で建築を語っている。ショックでしたよね。破壊力に満ちている。篠原一男に自宅を依頼することはありえないだろうけど石山修武だったらありえるかもしれないとか、篠原一男の本を読んでも自分が住んでいるこの住まいについては語ることはできないかもしれないけども、石山修武の言葉を使えば自分の現在いるこの住まいを批評することができるというのは、建築の門外漢としてはすごく新鮮でした。現象学を知ったときのサルトルみたいな気分(笑)。そういう意味では、塚本さんに自宅をお願いするときに頭にあったのは、石山+清家÷2という感じですね。
隈──なるほどね、石山+清家さんね。清家さんの存在はその前から。
永江──学生のころ、「私の家」のことを読んで感動した。八〇年代の終わりごろ、浅草で清家さんの講演を聞いたことがあります。台東区が主催だか共催の催しで、区長も臨席しているのに、「大川の土手は全部破壊して、何年かに一回大洪水があるほうがこのへんの街はよくなる」、「川岸をコンクリートで埋めてつまんねえ」みたいなことを言っていて、なんて過激なじじいだと思いましたね。ただ、読者としての気分は、大江健三郎の小説を読むのも、谷川俊太郎の詩を読むのも、清家清の建築本を読むのも、どれも同じようなものでした。あくまで読むものとしての建築、建築書ですね。
五十嵐──アトリエ・ワンに頼むときは、アトリエ・ワンの文章はだいぶ読んで、この人となら付き合えるみたいな感じがあったんですか。
永江──そうですね。隈さんがおっしゃったように、クライアントとして建築家を選ぶときに、実作よりも書いたもののほうが重要だと思っていました。建築はクライアントと場所に規定されますから、一つひとつが個別・特殊であり、過去の実作のイメージにとらわれるのは危険です。むしろ考え方につきあっていくのだから、その考え方が決定的に違う人だったら駄目だと思いました。だから、クライアントにとって建築家が書く本は、建築家の考え方や建築に対する姿勢だとかを探すためのインデックスのような感じがしますね。
隈──フランク・ロイド・ライトの講演を聞いて、それまで写真なんか一枚も見たことがないのに、その場で即電話をして「もう、あなたの好きなように設計してください」って頼む人が随分いたんですよ(笑)。そのエピソードは建築のある本質を示しているなと思います。いまは雑誌などの情報があるから、さすがに作風を全部は知らなくても、一枚くらい作品は見ているじゃない。でも、作品をひとつも見ずに話を聞いただけで頼んでくる。そのくらいヴィジュアルな世界を超越しているのが建築なんです。
永江──私は塚本さんの過去の作品を引き合いに出して「あれみたいのをつくってくれ」という依頼はしたくないなと思いました。実際にはどうですか、過去の作品をみて「ああいうのをお願いします」っていうクライアントはいるんですか。
隈 ──過去の作品をみて頼んだけれども、ほとんどの人は自分のはかならず違ってくれと言う。まったくこれと同じでいいですという言い方はみんなしない。「あなたの作品はよく知っていて好きだけれども、自分のために頑張って今までみたことないものをやってくれ」という、二律背反的なものがクライアントの感じなんじゃないかな。でも、その頼み方をされたほうが、ほとんどの建築家はうれしいんじゃないかと思います。「これと同じでいいです」って言われちゃうと(笑)。スタイルの決まった建築家だったら、それは楽でいいなと思うかもしれないけど、僕はやっぱりそんなのいやだな。
永江──石山さんの場合は、基本的な考え方とかはこうだけど、あとは住む人が勝手にやりなさいという話ですから、実は建築家はなんにもしないに等しいんですよね(笑)。少し前に会ったときも、「《開拓者の家》は失敗だった」という話をしていて、それはなぜかと聞いたら、「一所懸命にやりすぎた。一分の一の図面まで描いたけど、いまの俺だったら基本だけ描いて、あとは住む人が自分でつくりなさいよという投げ出しかたをしただろうし、そのほうがあの家はもっといい家になったのにな」と話していました。
隈──結局、石山さんに頼まなかったのはどうして。
永江──石山さんと私では、すでに力関係が決まっていますから。編集者やライターとしてお仕事をお願いしてきたので、対等にはなりえない。やっぱりこういうことはイーヴンにならないとつまらないから。イーヴンにするためには年上の建築家よりも、年下の建築家とのほうがいいだろうなとも思いました。実際に石山さんに、家を建てようと思っているという話をしたときに、若い人とやったほうがおもしろいよと言われたこともあって、それで三〇代、四〇代前半くらいまでの人をいろいろ考えた。塚本さんのいる東工大は現場にも近いし(笑)。現場が近いと、その後のメンテナンスもよさそうだし。
隈──これから建築をつくるときのひとつの基準として、場所的な近さというのはおもしろい話だよね。建築というのは場所に密着した芸術という性格を強く帯びてくるから、そういう意味での場所性はいよいよ大事ですよね。
永江──近いからというのはあながち冗談でもないんです。土地の匂いってやっぱりありますからね。土地の匂いを知っている建築家のほうがいい。清家さんにしても篠原さんにしてもやっぱり東工大の周辺にいい作品が多いと思う。そうなるんだと思いますね。東工大の先生たちは、学校周辺に秀作が多いという気がします。
隈──ほかの大学の先生にはあんまりない特徴なんじゃないかという気がするね(笑)。
永江──東工大は特別なんですか。
隈──特別だと思うな(笑)。
五十嵐──確かに言われてみると多いですよね。
隈 ──だからやっぱり東工大は清家さん、その前の谷口吉生さんから受け継がれた、場所性と深く結びついているという学校の校風があるんですよ。技術と、ものすごく泥臭いもの、一見矛盾するようなものをくっつけようとするところがあの学校のおもしろいところだし、それがいまの建築の時代の流れに結構ぴったりはまっているような気がする。
永江──二番手だからなのかなという気がしますね。東大じゃなくて二番だったというような。隈さんも五十嵐さんも、そこは肯定も否定もしにくいかもしれないけど。東工大には一ツ橋のおもしろさとも通じるなにかがある。
隈──東大の建築は公共性、早稲田は民間性みたいな軸をもっている。公共対民間という対立軸自身がいまほとんど意味を失っているときに、そのどちらにも属さない場所と技術という軸を提示した、東工大がおもしろく見えているんじゃないかなという気がする。
永江──あんまり国家を背負っている気はしませんね(笑)。
隈 ──国家よりももっと大きいものを背負っているという意識は逆にあるよね。国家経営じゃなくてもっとなにか普遍的なものに接続している感じ。国家とかアカデミズムみたいな制度的なものを通じて普遍に接続するのではない、普遍への接続の仕方というのはあるような気がする。それを強引に書物の話に結びつけると、彼らはそういう普遍観をひとつの書物のなかでももっていて、清家さんも塚本も、場所とテクノロジーとが結合して、直接世界に結び付いちゃう本を書く。

建築を表象するさまざまなメディア

永江──読み物、文字の本ではなくて、いわゆる作品集とか写真集は、建築家はどう読むんですか。たとえば、六耀社の磯崎新篠山紀信の建築行脚みたいなものは?
隈──写真集やモノグラフは、CD-ROMなんかに比べてひきやすいのと、なにかを確実に所有しているという気になれるでしょう。
永江──本棚にCD-ROMがあっても、ちょっとだらしないというか、緊張感がない(笑)。
隈──やっぱり所有感が乏しい(笑)。
永江──どういう気持ちで見るんですか。たとえばもうすでに亡くなった人の作品を見るときと、現代の自分のライバルのを見るときに違いはありますか。「あのやろう、こんなことやりやがって」とか、「ここは俺のをパクったな」とか、そういうのはないんですか。
隈 ──そういう意味では、一番大事なことは、雑誌の最新号になにが出ているかということなんですよね。建築というのは長いスパンで設計していているかといったらそうでもなくて、日々争っているんですよ。そして今月号の雑誌をみて「あれ、これ俺のと似ているな」とかそういうものを毎月見ているわけです。その日々の緊張感が大事だから、ひとつのモノグラフになったものを振り返ってみるというのは、退屈ですね。
永江──それでもモノグラフを購入するでしょう。なぜですか。
隈──一種の精神安定剤としてあるだけで、日常日々行なっている設計というスポーツの現場では、雑誌とネットですね。いまのこの空気を呼吸していることが、建築ではわりと大事なことだと思いますね。
編集──昨年刊行された青木淳さんのモノグラフはかなり売れているようです。
五十嵐──あれは建築家の作品集というだけではなく、写真家の写真集にもなっていますから。
隈──あれは、日常的に雑誌なりネットなり、日々の情報の行為とは別のレベルに立てたからいいんじゃないのかな。雑誌社が、雑誌を編集しなおしているだけのモノグラフだとおもしろくない。
永江──建築は写真を見て楽しむものではないということですか。
隈──日常的な雑誌的写真とは別の読み取り作業みたいなものを楽しみたいんじゃないかな。そういうニーズに応える作品集ってまだあんまり出ていない。
五十嵐──先日の「アーキラボ」のシンポジウムで、隈さんが実作を紹介されていたとき、どれもかっこいい写真が出ていたでしょう。逆に、日本以外の建築家はだいたいアンビルトのものばかり紹介していましたが、アンビルトのものは単に実現していないのではなく、あまり決まったショットというかアングルがなくて、それはなんでだろうと思いました。隈さんの作品がそもそもフォトジェニックだったのか、それとも写真がすごかったのか、それがすごくあとで気になったんですよね。
隈──あれは講演会を繰り返しているうちに、自分のなかで淘汰されていった結果ですね。雑誌でみていたときは善し悪しはわからないんですが、大画面でみるとよくわかって気に入らないカットをどんどん落としていく。そうして講演を何回も何十回もやっているうちに、選び抜かれたものだけが生き残っていくからそういう印象になっているんだと思います。
永江──選ぶ/落とす/淘汰する。それは何なんでしょう。
隈──バッと大画面にした時、ノイズが多くてつまんないなというのを、どんどん除いたんですね。
編集──そのノイズというのは?
隈──情報のノイズみたいなものかな、それが多いとつまらない。講演会で見ている人は眠くてぼんやりしているから、そういう人間の目をパッとさめさせるような絵だけ残していこうと思ううちにそういうものが残る。
永江──隈さんの作品は全部同じ写真家ですか。
隈──僕はほとんど藤塚光政さんに撮ってもらっています。藤塚さんは八割方三五ミリなんです。
永江──彼は小型カメラで建築を撮るということをはじめた最初の人でしょう。『CasaBRUTUS』でお会いしたときも、ニコンのF4にニッコールの二〇ミリをつけていた。今は三五ミリ用のシフトレンズだってあるから、あおったりはしないんですかと聞いたら、「曲がったものは曲がったものでいい。写真には写るものしか写らないし、見えるものしか見えないんだから、見えないところを見ようとする人は想像するしかないんだよ」とおっしゃっていた。彼の写真がグッとくるのは、そのように読み手の想像力にゆだねる思い切りのよさがあるからだろうなと思いますよね。
隈──実は、藤塚さんのなかでも当たり外れがあるんだな(笑)。そのなかから選んでいく過程のなかで、藤塚さんのシャープな部分が浮かび上ってくる。
永江──《ガエ・ハウス》は、まだ藤塚さんには撮ってもらってないんです。撮っていただきたいんだけど。『狭くて小さいたのしい家』に使ったのはホンマタカシさんの写真です。ホンマタカシさんにしても、ベッヒャー夫妻にしても、あるいはティルマンスもそうですが、素材として建築を撮る写真家がいま多いけれども、それは建築家のモノグラフとはまったく違う方向だと思うんですよね。端的に言えば、建築家よりも写真家の名前のほうが大きくなる写真です。そういうものを、建築家はどういうふうにみるんです。
隈──そういうものからヒントを得ることがすごくある。アノニマスな作品がその写真家の目でみると面白く立ち上がる。その立ち上がり方のなかから、つぎの作品へのヒントになるものがたくさんあるんですよ。
永江──ベッヒャー夫妻みたいに給水搭ばかりを延々と同じ構図で撮っていくとか、ファサードばかりが並んでいるとかいう……。
隈 ──そういうところから、僕はすごく影響を受けたのかもしれないと思います。建築家の作品をモノグラフ的に撮った写真というのは、そこからさらになにかが立体的に立ち上がるということはなくて、ベタにしか見えない写真です。写真家の目でアノニマスな見落としてしまいそうなものからなにかが立ち上がる瞬間の中に、建築にならなかったネタが建築になる一瞬が潜んでいる気がするんですよね。
五十嵐──そもそも建築と写真の質がすごく似ているなと思うことがときどきあって、たとえばSANAAなら、異質なものが同時並行するヴォルフガング・ティルマンスだとか白い世界を表現するウォルター・ティーダー・マイアンの写真ですね。影響を与えているかわからないけど、なにか違うジャンルなんだけど表現しようとしている世界観みたいなものが、すごく重なってみえるところがありますよね。
永江──じつは最近、石元泰博の『桂離宮──空間と形』(岩波書店、一九八三)が好きで、リビングに置いてあって、ときどきひっぱりだしては見るんですけど、あれはテキストが磯崎さんで、泰博と桂と磯崎という三角関係が書物として非常におもしろい。写っている写真もすごいんですけれども、そこに磯崎さんのテキストがついて、そうすると単なる名所旧跡とか、あるいはそれを撮った写真というものではなくて、建築論になるわけですよね。建築家が言葉を与えることによって、ガラっと世界が変わる感じがします。
隈──やっぱり磯崎さんが書いたもので、一番おもしろいのは日本のことを書いた本だよね(笑)。ある対角線的な関係性がないと書いたものっておもしろくない。たとえば磯崎さんは、基本的には西洋的な教養のある人間で、彼にとってはそもそも違う世界である日本を斬りこんでいったという対角線的な関係があるからおもしろい。磯崎さんがベタに西洋の建築を書いた本はあんまりおもしろくないですよね。あの桂の本がおもしろいのは、やはり泰博さんも基本的にはシカゴで写真を撮ってきて、モダニズムとかバウハウス流というものと桂との間で三角形の対角線的な関係ができている。写真ってすごくベタになりやすいメディアですから、立体的に立ち上げるには、三角関係をいかにつくりだすかだと思う。建築を建築家の意図の中だけで撮ったら一瞬にしてベタでつまんないものになりかねない被写体であると思うな。
永江──三五ミリで撮った藤塚さんの写真を見てつくづく思うんだけど、どうして建築写真というと、みんな大型カメラをもってくるんだろう。四×五で撮るのが礼儀みたいな感じでしょう。
隈 ──あれはお金が発生するメディアだということが重要だと思う。竣工写真というメディアがあって、竣工写真というのは何十万円もとれるわけですよ。それを普通の人が使っているようなちっちゃいカメラですますわけには(笑)。建築写真ってそうやって発展したジャンルなんですね。お金をとるために大型カメラもっていくんじゃないのかな。だから三五ミリのカメラでお金をとっている藤塚さんは、すごい技なんだと思う(笑)。

都市という書物

編集──五十嵐さんは『建築MAP東京』(TOTO出版、一九九四)という本をもう一〇年以上前に書いていますよね。八〇年代、記号論の時代によく「都市は書物である」と言われましたが、隈さんは、写真に撮られた建築物や都市ではなくて、実際に例えば地図を片手に都市を歩いてみるというようなことはやらないんですか。車で運転しながら都市を見るのでもかまわないんですが、自分の目で都市を見るということが、書く行為、あるいは建築に反映していくということはないんでしょうか。
隈──写真よりも、やっぱり自分で見て歩くのが一番多い。「これいけるじゃん」じゃなくて、「これやっちゃだめだな」っていうふうに駄目出しをしながら見てまわる。それには、車よりもやっぱり歩いたほうがいい。
永江──見るのは建築物ですか。
隈──街のすべて、都市のすべてです。それこそ、地面のテクスチャーから、看板のつけ方から、ガラスのなかについている映像から、全部含めて。それでとりあえず、なにかやろうと思うと、街を見て歩きながら「これはだめだ、やっぱりやめた」というような駄目出しをしている。
五十嵐──それは目的を決めて歩くんですか。
隈 ──いや、それは別の目的で歩いているとき、例えば、時間があるときには、どこか少し手前で降りてこのへん歩いてみるとか、最近銀座通りを歩いていないなとか思って歩くわけです。そこから感じられるその時代の空気感みたいなものを、歩く行為から感じるというのが一番重要かもしれない。ヨーロッパの街にいったときも、そういう時間を必ずつくるようにして、目と頭のトレーニングをずっとしているんです。書物よりも、都市の書物のほうがトレーニングになる。
永江──私もやっぱり歩きますね。
隈──そういうときは、本を書くネタが出てくるんですか。
永江──何か考えていますよね。文章を書くというのは思いつきですからね。
編集──物書きとして例えば永井荷風みたいなことをやろうとは?
永江──そういう野望はあっても、残念ながら力が及ばない。というのは、ルポルタージュにしてもエッセイにしても、基本はフィクションなんです。お話を作らなければならない。お話というのは上手な嘘ですからね。これは難しい。修業しないと。その最良の例が松山巌さんの作品でしょう。でも、荷風だって川本三郎さんだって、かなり嘘を書いているんだと思う。堀江敏幸さんがそうでしょう、彼が書くパリものって全部フィクションですよね。でも、本人はエッセイとして出しているし、白水社もエッセイとして出版しているけれども、書いてあることに事実なんてひとつもない(笑)。広い意味でいうと、堀江さんがよく書くパリ 13区とかセーヌの川っぷちを題材にしたエッセイや小説というのは、建築書かもしれない。ただそう言ってしまうと、ディケンズだって、バルザックだって建築書だという話になる。そういえば、このあいだ塚本さんが安部公房の『砂の女』について熱っぽく語っていましたね。あれは有機性と交換性の話なんだよ、と。塚本さんと話していると、世の中のすべてのものを建築的に解釈して読み直している人だなと思いますよね。小説を読んでも、音楽を聴いても。いまの若い建築家はもしかすると、現代思想や文学よりも音楽との親和性のほうが強いのかもしれないと思いますね。いわゆるJポップ的なもの、くるりとかキリンジとか聞いている建築家は相当多いんじゃないかな。五十嵐さんはどうですか。
五十嵐──いや、僕は最近あんまり聞いていないから(笑)。でもどうなんですか、親和性が高いんですか?
永江──いや、たんなる印象です。でも、みかんぐみの人たちだって、書物よりも音楽が好きかもって思います。バンド感覚みたいなね。
隈──文学をやっている人も、バンド感覚の人が多いんじゃないかな。バンドやっていて文学やっている人も多いと思う。それはなんでなんだろう。
永江──それは設計するという行為が音楽に近いのかなと思っていましたけど、そうじゃないんですかね。
隈──設計することが音楽をつくることに似ているというのは……。
永江──音楽を演奏するほうです。
五十嵐──作曲じゃなくて、演奏のほうですか。
隈──それはインプロヴィゼーションとかそういう意味ではなくて?
永江──ではなくて、みなさん、なんか気持ちよさそうに設計しているじゃないですか。そういう気持ちのノリ方とかです。
隈──もし似ているところがあるとすると、いろんな人がわさわさやってても全体がひとつの曲に見えないといけないところかなと思う。全体をひっぱっていって、ひとつの曲だと記憶されるものになるかがすべてなんですよ。
永江──じゃあ、建物をつくるというのは、バンドをつくっていくという感じに近いのかもしれない。
隈──昔はよく、作曲家と建築家は女にはできないといわれていたんだけど。
永江──それはどうしてですか。
隈──構築的なものが必要だということ。でも、今はもう誰もそんなこと言わなくなったけど。

エンドレス・エンディング

編集──最後に、最初の話に戻りますが、ここ二、三年でこれはすごいと思った本を、読者にお薦めということで一、二冊あげていただけませんか。
隈──建築書はあんまり感銘を受けないから(笑)。
五十嵐──この一週間くらいでいいですか(笑)。ここ何年といわれるとすごく困ってしまう。つい最近、林昌二さんのシンポジウムの聞き手をやったので、著書をバーっと読み直していたんですけど、あらためてみると結構おもしろいなと思いました。林昌二さんの『建築に失敗する方法』(彰国社、一九八〇)とか『二十二世紀を設計する』(彰国社、一九九四)ですね。まず、すごく文章がクリアだし言っていることが明快で、わりと技術的なことに触れているんだけど、専門の人だけにしか読めないようなテキストではなく、かなり広く一般の人が読んでも理解できる内容になっている。すごくいいエッセイだと心の底から思ったので(笑)、それはすごく薦めていいかなと思いました。たとえば六本木ヒルズの回転扉の事故について、僕は『過防備都市』(中公新書ラクレ、二〇〇四)の文脈から考えていたのですが、林さんは工学的な立場から触れるんですよね。あの技術が開発されるまでにいったいどれだけの労力とエネルギーをつぎこんでいるのかを考えると、事故に対する情緒的反応によってそれが全部撤去されてしまうのは技術史的におかしいと批判していました。また個人のスター建築家がアヴァンギャルドなものを設計するよりも、組織で設計して、いいものをしっかりつくろうみたいな議論もあって興味深い。ちょっと保守的かなというところもあるけどおもしろかったです。あと学生の頃に読んだ本では、ミッシェル・フーコーやパノフスキーは、大きな影響を受けました。社会や制度への関心、横断的なものの考え方は、ここから学んだように思います。
永江──去年だと村松伸さんの『象を飼う──中古住宅で暮らす法』(晶文社、二〇〇四)がおもしろかった。名建築を買ってリフォームして住むことになったんだけれども、売り主との間でゴタゴタがあった。売り主は慌ただしく明け渡し、家族のアルバムだの子供の作文だのが放置されているところに、著者が入ってくる。建築というのは、土地とか空気とか時間に縛られてしまうものなのだということがすごくよくわかった。そこがおもしろかった。最近ではNTT出版からでた今橋映子編著『リーディングズ都市と郊外』(二〇〇四)です。ベンヤミンやコルビュジエから吉見俊哉宮台真司、堀江敏幸までの、内外の都市論/郊外論のアンソロジーで、都市論/郊外論をここ一〇〇年くらいのスケールでダーっとブラウズするには便利でおもしろい。三浦展が監修した洋泉社から出ている『検証・地方がヘンだ!』(二〇〇五)というムックも強烈でしたね(笑)。地方でひどい犯罪がいっぱい起きているのは、地方の郊外の風景が荒廃しているからだ、みたいなショッキングな本で。
隈──僕もつい二週間前の話しかないんだけど(笑)。清家さんの自宅を頼みこんで見せてもらった。そこで清家さんの『オーラルヒストリー清家清』(政策研究大学院大学、二〇〇五)という記録を見せてもらったの。それがすごくおもしろかった(笑)。清家さん的なものが、建築における二重構造をつなぐことが本当はできたかもしれないという思いがあるんだけど、結局あの時代にはできなかった。だけど、しゃべると清家さんはちゃんとつないでいるんですよ。すごく下世話なところからもっと抽象的なところまで、しゃべればちゃんとつなげるんだけど、書くとどうしてもつなげられない。『オーラルヒストリー』はそのへんがつながっているから、貴重な資料だと思った。あれは出版したらいいと思う。清家さんとか芦原義信さんとか吉阪隆正さんとかは、やっぱりしゃべらせたもののほうがよかったと思う、たぶん書けなかった人なんだと思う。そういう人たちの聞き役をしてちゃんとまとめれば、「建築書はすごくちゃんとしていないといけない」という拘束から逃れた、もっとカジュアルで建築というもののリアリティに迫ったものになれたんじゃないかという気がするんだけど。
五十嵐──去年、吉阪隆正のシンポジウムに参加するために、ザーっとですけど全十八巻に目を通しましたが、手の人というイメージが強いのですが、不連続統一体の概念や、あんまり下の世代に伝わっていない文明論を一生懸命考えているところなど、いろいろとおもしろかったですね。
隈──建築の世界で職人的な領域、実際につくる領域を伝えようとしたら、「手の人」というような安っぽい文学に当てはめて書くしかない。建築の言説って主に、すかすかの抽象論と、手の人みたいなかび臭い話と、それから住宅はえらいという住宅論、この三つくらいに類型化されている。吉阪さんなんて、本当はそこを大きく逸脱している人じゃないかな。
五十嵐──吉阪さんも、あれだけあると読むのがちょっとつらいから、アンソロジーで現代的なものを再編集して出したら、きっとおもしろいと思います。

[二〇〇五年二月一七日、京橋INAXにて]

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年生
東京大学教授。建築家。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>永江朗(ナガエ・アキラ)

1958年生
フリーライター。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>建築をめざして

1967年12月1日

>10宅論

1986年10月1日

>M2

東京都世田谷区 ショ-ル-ム 1991年

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>青木淳(アオキ・ジュン)

1956年 -
建築家。青木淳建築計画事務所主宰。

>飯島洋一(イイジマ・ヨウイチ)

1959年 -
建築評論。多摩美術大学美術学部環境デザイン学科教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>アフォーダンス

アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが創出した造語で生態心理学の基底的...

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

>毛綱毅曠(モヅナ・キコウ)

1941年 - 2001年
建築家。

>清家清(セイケ・キヨシ)

1918年 - 2005年
建築家。東京工業大学名誉教授、東京芸術大学名誉教授。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>現代美術コテンパン

1984年6月1日

>松葉一清(マツバ・カズキヨ)

1953年 -
建築評論。朝日新聞編集委員。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>バラック浄土

1982年2月1日

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。

>開拓者の家

長野県上田市 住宅 1986年

>谷口吉生(タニグチ・ヨシオ)

1937年 -
建築家。谷口建築設計研究所主宰、東京藝術大学美術学部建築学科客員教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>ガエ・ハウス

東京都世田谷区 住宅 2003年

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>建築MAP東京

1994年8月1日

>松山巌(マツヤマ・イワオ)

1945年 -
小説家、評論家。東京理科大学理工学部建築学科、法政大学教養学部、東京芸術大学建築学科非常勤講師。

>砂の女

1962年6月1日

>みかんぐみ(ミカングミ)

1995年 -
建築設計事務所。

>林昌二(ハヤシ・ショウジ)

1928年 -
建築家。日建設計名誉顧問。

>村松伸(ムラマツシン)

1954年 -
建築史。東京大学生産技術研究所准教授、modern Asian Architecture Network(mAAN)主宰。

>三浦展(ミウラ・アツシ)

1958年 -
現代文化批評、マーケティング・アナリスト。カルチャースタディーズ研究所主宰。

>芦原義信(アシハラ・ヨシノブ)

1918年 - 2003年
建築家。東京大学名誉教授。