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26:ユニット派あるいは非作家性の若手建築家をめぐって | 五十嵐太郎
The Unit Group: On the Non-Authorship of Young Architects | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) pp.134-145

メディアがユニット派を注目する

今年の後半、飯島洋一による「ユニット派批判」の論文が話題になった★一。ユニット派とは何か。アトリエ派の建築家が強いカリスマ的な指導者であるのに対し、ユニット派では複数の若手建築家がゆるやかな組織をつくる。しかも、一九六〇年代生まれがどうやら多い。こうした傾向が建築の雑誌で最初に注目されたのは、『SD』一九九八年四月号の特集「次世代のマルチアーキテクトたち」だろう。企画自体も若手の編集者がつくったものである。筆者も同世代ということで巻頭の論文を引き受け、これを契機に似たような主旨の企画があると、定点観測のように何度か現状をレポートする原稿を書いてきた★二。
実際、身の周りにいる同時代の若手建築家にユニット派が多いように感じる。新人の登竜門である「SD REVIEW」の二〇〇〇年度も、半分以上がユニットだった。しかし、いつも強調しているのは、ユニット派が本当に多いかどうかの客観的なデータはないことである。仕事がさほど順調に入らない独立したての若手建築家がグループを組むことは、確かに不況の時に増えるかもしれないが、昔からなかったわけではない。六〇年代には、アーキグラムやスーパースタジオなどの若手建築家集団が、実作をもたなくとも、メディアを大いににぎわせた。原広司のような建築家も、二〇代半ばで設計組織RASをつくり、一一年の活動の後、解散している。現在のユニット派も、同じ道をたどらないとは限らない。
当然、アトリエ派として活躍している若手建築家も存在する。作品のクオリティも、ユニット派の圧勝というわけではない(もっとも、彼らは違うクオリティを求める場合がある)。だから、正確にはメディアが好んでユニット派をとりあげていると言うべきなのだ。例えば、一0年前の『SD』一九八七年一〇月号の特集「四〇才前の建築家一〇一人」と比較するとわかりやすい。このときは全体の約一割程度しかグループのデザイナーが含まれていなかった。ところが、同じく若手を特集した『SD』一九九八年四月号では、名称から判別しにくいが、武松幸治が主宰するE.P.A.以外はすべてユニット形式である。若手のイヴェントでは、一九九七年の「三〇代建築家一〇〇人会議」の参加者の約三分の一は建築家の集団に所属し、二〇〇〇年の「三〇代建築家三〇人による三〇の住宅地」展も、およそ半数がユニット系だった。
では、なぜメディアはユニット派に注目する傾向をもつのか?
少なくとも現時点では、デザインの重要性ゆえではない。時代の断絶を象徴するような決定的な作品がユニット派から生まれたとは言い難いからだ。むしろ、来たるべきネットワーク社会のモデルが、ユニット派に仮託されているのではないだろうか。これを意識的に実践している集団もいる。例えば、一九九九年に田島則行らが結成したtele-designは、それぞれ独立した建築家やデザイナーがネット空間を利用して「コラボレーション・ネットワーク」をつくり、ヒエラルキーのある会社組織とは違う活動形態をめざす。また一九九五年に活動を開始したOCEANは、ロンドン、ヘルシンキ、ケルン、ボストンなど、六カ所に支部を置き、二つの大陸にまたがる二〇人の建築家をインターネットが結ぶ★三[図1]。
具体的な場所を手がかりにネットワークを構築する事例もある。クライン・ダイサム・アーキテクツはタクシーの車庫を改造して、タナカ・ノリユキ、デザイナー、ミュージシャン、DJ、東京地ビールの会社が同居する「デラックス」という新しいスペースを開設した[図2]。ここでは頻繁にイヴェントやパーティが行なわれ、横断的なデザインが発生する。例えば、クライン・ダイサム・アーキテクツは、グラフィックデザイナーとともにロックバンドの舞台を制作した。明治時代のお雇い外国人以来、来日した外国人建築家はずっとお客様だったが、彼らはカジュアルに日本のデザイン界に溶け込む。
逆にA-activityの場合、ユニットがメディアを展開する。彼らは雑誌『A』を通じて、ネットワークの輪を現実の社会でも、Web上でも広げている[図3]。かつては熱かった建築メディアが硬直化し、自動運動を続けるなか、若手から自分が読みたいと思う雑誌が登場するのは興味深い。筆者が所属していたエディフィカーレというグループも、同名の雑誌を制作していた★四。アーキグラムも自ら雑誌を刊行していたが、あくまでも強力なマニフェストを行なうためである。それに対し、A-activityは自己の主張が控えめであり、むしろネットワークの結節点として『A』を位置づけている。

1──OCEAN、スロベニア商業経済会議所、1996 出典=P. Zellner, Hybrid Space: New Forms in Digital Architecture.

1──OCEAN、スロベニア商業経済会議所、1996
出典=P. Zellner, Hybrid Space: New Forms in Digital Architecture.

2──クライン・ダイサム・アーキテクツ  《イデーワークステーション》、1996 筆者撮影

2──クライン・ダイサム・アーキテクツ
《イデーワークステーション》、1996
筆者撮影

3──『A』2号、1998

3──『A』2号、1998

飯島論文を読む1──カタストロフについて

冒頭で触れた飯島論文に戻ろう。彼はユニット派の態度が何も生まないと批判し、大きな反響をよんだ。『住宅特集』では、翌月の月評で全員がとりあげ、林昌二が「崩壊から非作家性が?」という一文をすぐに寄せている。翌々月号でも、丸山洋志が月評でこれだけに言及した。ネット上でも、日埜直彦の運営するサイトの「A.BBS」で熱い議論が闘わされた★五。伝統論をめぐって建築界がもりあがるようなトピックがなくなった現在の状況を考えれば、飯島論文は問題提起として十分に成功したと言えるだろう。これを読んで、多くの人間が何かを言いたくなったのであり、これを契機に次々と意見表明がなされた。筆者もそうである。第一印象を正確に伝えるために、ネット上で公開している筆者の日記「Twisted column」の七月一九日付けの文章から該当個所を引用しよう★六。

ついに出ましたね、ユニット批判。「住宅特集」最新号で、飯島洋一氏が若手ユニットを否定的に評価しています。立ち読みなのでざっとですが、気になったのは、一、なぜこんなにいっぱい磯崎新を参照するのか?、二、みかんぐみアトリエ・ワンが同じものとされているが(当人も嫌がるのでは)、むしろ両者の違いに注目すべきではないか?などなど。


また記憶に残っているのは、どこか遠い国で起きた戦争のような奇妙なタイムラグの感覚だった。海外の情報ならばともかく、二年前の国内の建築雑誌の特集が素材になって批判が開始されている。飯島がユニット派として最初にとりあげたインテンショナリーズは、鄭秀和だけが残り、大堀伸はgeneral designを設立し、遠藤治郎はguesthouseをつくりオランダに渡るなど、三人が別々の道を歩んでいたにもかかわらず、そのことが記されていない[図4]。建築少年もすでに解散し、ばらばらに活動を展開していた。少なくとも彼らはユニット派や非作家性に固執したわけではなく、五年もたたずにやめている。
あらかじめ断っておくが、本稿の目的は、飯島論文への単純な反論を書くことではない。筆者はその主旨に共感する部分もあるし、意見が異なる部分もある。賛同しつつも、むしろこう論じるべきではないかと思う点も少なくない。そこで、これらをはっきりさせるために飯島論文をトレースしながら、細かく論点を検証する。
飯島は、いくつかのユニットが阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた一九九五年に設立されたことに注目し、彼らが都市崩壊を心的外傷とし、その後のアパシーな世紀末に生まれたと述べている。アレゴリカルな言い方としてはありうるだろう。が、言及されるユニット派は建築少年を除いて、すべて東京を拠点にしている。また一九九五年の結成ならば、事件前に各建築家の方向性は大体決まるのではないか(一九九五年以前のユニット派も少なくない)。彼らはバブルがはじけた後の不況のなかで建築家として出発している。当然、バブル期に氾濫した派手な作品や建築家のセレブレティを疑う。 そして箱物行政や雨漏りがする建築家の公共施設をヒステリックに批判する九〇年代の世相を敏感に受け止めている。
興味深いのは、現在、万博や首都機能移転などの国家的なプロジェクトが控えているにもかかわらず、若手のそれらへの関心度が低いことだ。例えば、F.O.B.Aの梅林克は、都市が複雑なものであるがゆえに、上位のレヴェルからの分析的な計画手法はうまく作動しないが、小さなツボをついて都市を操作することに可能性を見出している★七[図5]。一九六〇年代の高度経済成長期は、メタボリズムの黒川紀章や菊竹清訓など、多くの若手建築家がメガストラクチャーによる都市プロジェクトを提案し、自分を売り出したが、そうした戦略はとらない。崩壊のトラウマというよりも、世間の風あたりが強いことが予想されるからではないか。現実的に九〇年代後半は若手に公共施設のプロジェクトが入りにくくなっているし、むしろ、身の周りの小住宅にリアリティが見出されている。

4──インテンショナリーズ《木村邸》、1997  筆者撮影

4──インテンショナリーズ《木村邸》、1997

筆者撮影

5──F.O.B.A《ORGAN》、1997 筆者撮影

5──F.O.B.A《ORGAN》、1997
筆者撮影

三〇代の建築家は戦後の復興が一段落したときに生まれ、廃墟の状態を知らない。そして日常的な住宅地や団地の風景を所与のものとして受け入れる、戦争を知らない世代である。一九四九年生まれの大野秀敏は、アトリエ・ワンの塚本由晴がこうしたありきたりの住宅地をひとつの地形とみなし、所与の事実として認めるところから設計の発想を開始することに違和感を表明していた★八。大野によれば、その風景も三〇年前の日影法という変な都市計画制度で決まったのであり、決して所与のものではない。だから、建築家の想像力は、都市の制度を補完するのではなく、都市の初期条件を変えることにも向けられるべきだ。しかし、若い建築家は制度の隙間や盲点のほうに関心を寄せる。これは都市の変化を体験した世代と都市が決定的に変わった後の世代のズレに起因するのではないか。
飯島は、ユニット派の態度を崩壊の後のニヒリズムとして解釈する。が、仮に「崩壊」があったとしても、空虚感や虚無感だけが時代を支配するのだろうか。例えば、終戦直後の日本は貧しかったが、暗いだけではない。笠置シズ子の「東京ブギウギ」(一九四八)や美空ひばりの「東京キッド」(一九五〇)が底抜けに陽気だったように、希望の時代でもあった★九。現在の若手建築家も、都市に対する明るいポジティヴな姿勢が感じられる。みかんぐみは、都市の計画を放棄しつつも、「私たちは建築をつくる者として少しも悲観的ではないのだ。私たちにとって、都市は私たちがプレーするためのフィールドなのだから」という★一〇。これを深読みすべきではない。文字どおりに解釈しても構わないと思う。
こうした態度は都市全体を変革する野望とは異なるものだけれども、決してネガティヴなものではない。かつてのラディカリズムの建築がもつアイロニーは蒸発した。代わりに九〇年代の若手建築家には素直さが認められる。これに関して、筆者は以下のように発言したことがある★一一。

日本の建築状況について全般的な印象で言うと、九〇年代は「素直」がキーワードになっていたと思います。特に、アイロニーや悪意というものでは語らない妙に素直な感じが若い世代に出てきている。[…中略…]いまの若い世代は彼らなりの「建築の解体」を行なおうとしているわけですね。たとえば「普通であること」や「日常性」が非常に強調される。わざわざ主張しなくとも、この感覚はわりに共有されている。


震災の被害を最も受けた神戸では、あるネットワーク活動が発生した。一九九八年、いるか設計事務所に所属する松原永季ほか、神戸の若い建築関係者の有志が集まり、「プランナーズネットワーク神戸」を結成する。彼らは神戸市東部のすべての道を踏破し、復興の途上にある現状の風景を記録した[図6]。抽象的な議論ではなく、まず現実の街を歩くこと。この態度は、一九二三年の関東大震災の直後、今和次郎が同時代的な記録を開始し、考現学という新学問を創設したことを想起させる。彼らはニヒリズムではない。神戸再生の指針を考察するために凡庸な開発の記録を行なう。調査報告はレム・コールハースの書名をもじって「錯乱のNEW KOBE」と命名され、展覧会が全国を巡回している★一二。
ユニット派ではないが、震災という十字架を背負った宮本佳明は、《「ゼンカイ」ハウス》(一九九七)で「全壊」判定を受けた木造住宅にギブスのように鉄骨フレームを挿入して「全快」とし、アトリエとしてエンジン「全開」になっている[図7]。愛着のある自邸が崩壊した宮本にこそ、震災のトラウマが指摘されるべきだが、自然堤防のように二・五キロメートルにわたって瓦礫を積む「芦屋川左岸堆積体」(一九九五)のプロジェクトでは、風景の異化効果
を狙う。「普通」や「ニヒリズム」とは違う性質をもっている。ちなみに、宮本は芦屋浜埋立地において、クライン・ダイサム・アーキテクツ、アトリエ・ワン、みかんぐみ、I.C.U.らと協力して、フォリー状の構築物をつくりながら、プロセスを重視したまちづくりを計画している。

6──窓のない家 撮影=プランナーズネットワーク神戸

6──窓のない家
撮影=プランナーズネットワーク神戸

7──宮本佳明《「ゼンカイ」ハウス》、1997  筆者撮影

7──宮本佳明《「ゼンカイ」ハウス》、1997

筆者撮影

飯島論文を読む2──情報環境の変化について

あえて一九九五年という節目にこだわるならば、この年にWindows95が発売され、インターネットが広く普及しはじめた日本のネット元年であることに注目すべきだろう。実際、これ以降に登場した新しいデジタル・クリエーターを九五年世代と呼ぶ★一三。とすれば、ユニット派とは、若手がコンピュータとインターネットを手軽に使いはじめた最初の世代である。震災とオウムよりも、こうした情報環境の変化が、ユニット派のネットワーク活動を促進したと考えるほうが実体に近いのではないか。本当に廃墟の影響がでるとすれば、もっと下の世代の建築家だろう。むしろ、震災をトラウマとして引き受けたのは、社会の諸事象をこれに結びつける語りを繰り返す、飯島自身かもしれない。
前述したtele-designやOCEANを含むネット世代は、情報の共有を活用し、遠隔地との共同作業を行なう。マツオカ・ワン・アーキテクツは、松岡恭子が福岡、王大君が台湾に拠点を置きながら、ユニット活動を営む。アムステルダム在住のguesthouse(遠藤治郎と遠藤幹子)と東京在住のgeneral design(大堀伸)は共同して新しいROCKETのギャラリー(二〇〇〇)を設計した[図8]。いまは長田直之がひとりで主宰するが、I.C.U.がユニットだった頃は、関西と関東でメールとデータを交換しながら設計を進めていた。 若い世代では設計の現場にコンピュータが浸透している。MVRDVやNLアーキテクツらのコンピュータを用いたポップなデザインが、共感をもって受けとめられるのは、その同時代性ゆえだろう[図9]。震災のトラウマにこだわると、日本の特殊性が強調されてしまう。

8──guesthouse+general design《新ROCKET》、2000 筆者撮影

8──guesthouse+general design《新ROCKET》、2000
筆者撮影

9──NLアーキテクツ《メルボルン市民センターのコンペ案》、1997 出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.

9──NLアーキテクツ《メルボルン市民センターのコンペ案》、1997
出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.

一九九九年と二〇〇〇年に行なわれたオルレアンの建築展「Archi Lab」は、一九六〇年代生まれの新進の建築家を数多く紹介しており、この二年間のカタログを見ると、やはりコンピュータを利用したユニット派が目立つ。例えば、スペインのアクタール・アルキテクトゥーラ、アメリカのカラタン・マックドナルド・スタジオ、日米混合のライザー+ウメモト、オランダのマックスワン、フランスのジャコブ+マクファーレンやペリフェリック、オーストリアのプアー・ボーイズ・エンタープライズなどである★一四[図10─13]。ユニット派の台頭とコンピュータの積極的な活用は世界的な傾向と言えよう。
いみじくも、飯島は伊東豊雄の《中野本町の家》(一九七六)や坂本一成の《代田の家》(一九七六)に言及し、作家性を忌避する「脱色された作品」が二〇年以上も前に先取りされたと述べているが、彼らがみかんぐみやアトリエ・ワンの師匠筋にあたることも補足すべきだろう。彼らのほとんどが東京工業大学の坂本一成研究室出身であり、みかんぐみの曽我部昌史は坂本研を出て、伊東の事務所に六年間在籍した。一九七〇年代、植田実を司会として、伊東と坂本を含む座談会が行なわれたとき、「表現を消す」ことが主要な課題になっており、メタボリズムの華やかさと対比的に語られている★一五。伊東は、一九七年代から坂本らとともに「ヒエラルキーのある建築」や「中心性の強い建築」に違和感を抱き、奥行きのないドライな建築をめざしたという★一六。坂本も、多木浩二との対談においてこう指摘された★一七。篠原一男がロマン主義的なクライマックスを目指したのに対し、坂本の作品はアンチクライマックスの状態である、と。強い父であれば、その息子が力強い形態でのりこえる。が、アトリエ・ワンとみかんぐみにとって、坂本は倒すべき強力な父=建築ではない。さらに坂本の孫世代にあたる東工大の学生は、「カジュアルキテクチャー」というキーワードを掲げている。

10──ライザー+ウメモト《関西国立図書館コンペ案》、1996  出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.

10──ライザー+ウメモト《関西国立図書館コンペ案》、1996

出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.

11──ジャコブ+マクファーレン  《ポンピドゥーセンターのレストラン》、1998 出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.

11──ジャコブ+マクファーレン
《ポンピドゥーセンターのレストラン》、1998
出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.

12──カラタン・マックドナルド・スタジオ  《レシ・ライズ・スカイスクレーパー》、1999  出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 1999.

12──カラタン・マックドナルド・スタジオ
《レシ・ライズ・スカイスクレーパー》、1999

出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 1999.

13──ペリフェリックとMVRDVが共同した博物館の計画、1999 出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 1999.

13──ペリフェリックとMVRDVが共同した博物館の計画、1999
出典=Archi Lab, Ville d'Orleans, 1999.

飯島は、アトリエ・ワンとみかんぐみが「アンチ・モニュメント」と「普通」であることを重視し、前者の《アニ・ハウス》や《ミニ・ハウス》がただの銀色の箱であり、後者の《大町の家》や《相模原の家》がそっけないまでに単純な構成をもち、「そこに見られる、あの何ともシラッとした、あるいはノッペリとした空虚な作風は、いわば震災の悲劇の後に、『悲劇』を意図的に語らないようにしたいという気分の中でつくられたものであるように見える」と言う[図14・15]。筆者の知るかぎり、彼らは震災について明快な言及をしたことはない。むろん、無意識に作用したと論じることは可能であるが、彼らの言葉に従えば、塚本は安藤忠雄の《住吉の長屋》が《アニ・ハウス》の反面教師だったと語り、「建築家の作品は必要以上に完結性が強いものが多い」と述べている。つまり、英雄的な建築家の周辺環境を嫌悪する建ち方へのオルタナティヴを意識しているのだ。
こうした態度は、震災という非日常的なドラマの衝撃よりも、日常風景の観察から生まれたものではないか。アトリエ・ワンとみかんぐみを一緒に括ってしまうのも、やや乱暴である。青木淳は、『住宅特集』二〇〇〇年九月号の月評において「〈みかんぐみ〉と〈アトリエ・ワン〉とは、ずいぶんと違う。それを『ユニット派』と、ひとまとめにしてしまうことで、見えてくることより、見えなくなってしまうことのほうが多い。少なくとも僕は、彼らの個別の活動を見て、そこから見えてくることのほうにずっと興味がある」と書いていた。これを作家と批評家の立場の違いで片づけるべきではない。青木の指摘は、筆者が飯島論文を読んだときの第一印象に近いものであり、全面的に賛成する。

14──アトリエ・ワン《ミニ・ハウス》、1998  筆者撮影

14──アトリエ・ワン《ミニ・ハウス》、1998

筆者撮影

15──みかんぐみ《相模原の家》、1997 筆者撮影

15──みかんぐみ《相模原の家》、1997
筆者撮影

アトリエ・ワンとみかんぐみの相違点は何だろうか? 曽我部は、建物周辺の敷地や環境との関係性に注目する要因として、坂本の影響が大きいと筆者に語ったことがある。アトリエ・ワンも、建築の外部とされる領域への関心が高い。だが、両者のアウトプットは違う。塚本と曽我部の対談がその差異を明確に示している★一八。前者は「設計における取材」で発見された問題を「定着」させるのに対し、後者もトピックを集めるために取材をするが、「つくり手の価値を押しつけて、事実をねじ曲げてしまうことを恐れて、物の見方はできるだけヒエラルキーがない状態」にするために網羅的な「報告書」に近い。確かに、アトリエ・ワンの「環境ユニット」は、周囲から幾つかのエレメントを恣意的に選ぶ。一方、曽我部は、何かを切り捨てる「わかりやすい表現」を拒み、「結果として、それがいままでの制度的なものと類似していてもかまわないというスタンス」をとる。
アトリエ・ワンは、「トーキョー・リサイクル計画」や「ペット・アーキテクチャー」の展開からうかがえるように、雑誌や展覧会などのメディアの活用が巧みである。また日本の建築をとりまくメディア環境にも意識的だ。「メイド・イン・トーキョー」のプロジェクトは、海外の視線も意識した綿密な建築のマーケティング戦略に基づいたものにほかならない。筆者はオリエンタリズムの逆利用として批判したことはあるが、日常風景から問題を抽出する手つきの鮮やかさと短い期間における生産性の多さは評価すべきだと思う★一九。彼らは、これまでゴミとみなされたフィールドから豊かな情報をつむぎだす。
みかんぐみは、施主とじっくり話しあいを行ない、なるべく多くのパラメーターを設定し、それらを等価に扱いながら、突出したコンセプトを可視化する建築的な表現を避けている★二〇。この感覚は、コンピュータの長所である情報処理能力を活用し、膨大な数値を計算させるのと似ていよう。近代の建築が世界を単純なものに還元し、明快な幾何学形態をデザインしたとすれば、みかんぐみはおそらく世界が複雑であるというモデルをもち、複雑さをそのまま建築化させようとする。サイバーアーキテクチャーが複雑に変容する多数のデータをもとに生成され、はっきりした形態を崩すのと類似した感性である。
ともあれ、建築の周辺環境に注目する傾向は、「三〇代建築家三〇人による三〇の住宅地」展にはっきりと表われていた★二一[図16]。住宅「地」を強調したように、模型で敷地の周辺も入念につくりこみ、各作家の環境へのさまざまな考えが浮かびあがる。そして同展のカタログでは、ハイナー・シリングが撮影した建設前の空き地の大きな写真を多数掲載しているが、建築が不在の写真群は建築書として異例だろう。今年、オランダ建築博物館で開催された日本建築展「Towards Totalscape」も、デザインの傾向ではなく、周辺環境によって建築を五つのセクションに分類している。

16──ハイナー・シリングが撮影した デザイン・ヌーヴによる角地の家の建設予定地 出典=『30代建築家30人による30の住宅地』

16──ハイナー・シリングが撮影した
デザイン・ヌーヴによる角地の家の建設予定地
出典=『30代建築家30人による30の住宅地』

ユニット派は理論を構築できるか

飯島論文は、「空しいニヒリズム」や「普通さ」からは何も生まれないとし、新たな「理念」を求め、「建築すること」や「つくること」でしか「この時代を越えていくことはできないと私は確信している」と結んでいる。筆者の考えは少し違う。以前、ユニット派の若手建築家を論じたとき、筆者はこう締めくくった★二二。

最後に現状を一言でまとめておく。おそらく組織のデザインでは、どれも横並びになりつつある。しかし、繰り返すようだが、やはり設計の方法論そのものを徹底して突きつめたユニットこそが、次のブレイクスルーを可能にするのではないだろうか。


筆者はユニット派が「ニヒリズム」だとは思わない。そして「普通さ」を求めることと、理念や構築を志向することが必ずしも矛盾するとは考えない。ただの箱に見える外観は、アンチ・モニュメントと言えるが、つくることを放棄したと結論づけてよいのだろうか。逆にモニュメントだからといって、構築的とは限らない。敗戦直後、浜口隆一は、国家主義と結びついたモニュメントを批判し、代わりにヒューマニズムを担うものとして機能主義的な近代建築を推奨した★二三。近代建築は空間を構築するものである。一方、国家を祝福する記念建築は、単純な形態をもち記号的なオブジェになることが多い。
岡田哲史は、隈研吾阿部仁史が形態は重要でないと述べたことを契機に、メディアがあおる「今日の日本の建築家(ごく一部なのだが)に見られる形態アレルギーの症状」に警鐘を鳴らす★二四。そして「形態」の代わりに「物質」が注視されるが、すでにケネス・フランプトンは物質性に伴う「触感」の重要性を指摘していたという。岡田は形態をエキセントリックと判断する根拠が不明であることも問題にした。そうした意味で、一部の建築家も飯島も形態にこだわりすぎている。岡田は形態と論理を整合させる建築家だが、その作品のように、形態の背後にある論理に注目すべきではないか[図17]。
単に派手な外観であれば、「建築すること」や「つくること」が達成されるわけではない。頭を使わなくとも、奇抜な建築は生まれる。逆に「建築すること」の挙げ句に素気ない表現を導くこともある。この点が誤解されている。ゆえに、形態がモニュメンタルかどうかで、「建築すること」を放棄したかどうかを判断すべきではない。どんな形態であれ、完成に到達するまでの論理的な構えが認められるかどうかが重要なのだ。つまり、いかに設計するかである。そして都市の初期条件を全面的に受け入れる対症療法だけでは乗り超えられない問題も存在するはずだ。だから、大きな視野の方法論も必要となる。

17──岡田哲史《まんぼう》、1997筆者撮影

17──岡田哲史《まんぼう》、1997筆者撮影

ユニット派の対応で問題だったのは、丸山洋志が「だから、『彼ら』の誰でもいいから、『俺はさ』と啖呵を切ればよかったんだよ。でも、きっと『彼ら』は心の中では『学級委員会で問題にしよう』なんてセコイこと考えていたんだよ、絶対に」と述べたように、当事者からの反論が即座にないことだろう★二五。反論の原稿を提案しなかったとすれば、建築ジャーナリズムも一因かもしれない。が、彼らが反論を申し出れば、掲載されていたはずだ。飯島論文により一方的に括られるのではなく、積極的な立場の表明を行なうべきである。なぜかユニット派以外の建築家が、飯島論文に対して敏感に反応した。
とはいえ、ユニット派がすべて非論理的というわけではない。例えば、アトリエ・ワンは感性だけに頼らず、論理的に建築を思考している。ユニットではないが、隈研吾も同じ立場だ。実際、飯島は隈の『反オブジェクト』の書評において、「この本を読んで、私の論とある意味で正反対の内容を隈が唱えようとしていることがわかった」と述べており、ユニット派に近いニヒリズム的な態度とみなしていた★二六。しかし、隈が「自己中心的で威圧的な建築を批判したかった」と言いながらも、自作を通して、そのための方法論を構築し、言語化しようと試みる姿勢は評価すべきである★二七[図18]。その理由は、筆者がこの本の書評で記したように、「これに賛同するにしろ、反論するにしろ、重要な手がかりとなるからである。弱い建築を志向することと、議論を構築することは、決して矛盾するものではない」★二八。これは単なる逃げではなく、理論的なマニフェストである。

18──隈研吾《水/ガラス》、1995 出典=隈研吾『反オブジェクト』

18──隈研吾《水/ガラス》、1995
出典=隈研吾『反オブジェクト』

隈は、現在のメタレヴェル的な「形式主義」(ロウからアイゼンマンの系譜)と身体論的な「自由」(伊東豊雄、妹島和世、青木淳)の対立は、建築内部における古いくさい手法の問題に回収されるので、サプライサイド(供給側の建築家)とデマンドサイド(需要側の市民)の関係から読み替える★二九。そして勝つことが人々の不信と反発を呼ぶ今日、建築家は負けを偽装することが重要だと言う。負けるが勝ちこそが新しい戦略である。映画『摩天楼』(一九四九)の天才建築家のように、厳しい条件と戦い勝利することが、英雄的な近代建築家のイメージだとすれば、正反対である。だが、勝負もせずに、ただ負けるのではない。『反オブジェクト』は、いかに負けるかを論じていた。
しかし、隈は、建築がどのようになろうと、まだまだ強いことを確認し、「自分がデマンドサイドの人間だなどとまやかしを言わずに、サプライサイドの人間であることからは、どんなことをしても逃れようもないことを、はっきりと自覚しなければならない」という。こうした認識は、デマンドサイドとの同化をめざす、みかんぐみと異なる。ただ、この後に示す、「建築を実質的に弱くしなければならない。そのためには、この建築という共同体から出るくらいの覚悟が必要だろう」という隈の方向性は、まだ具体性に乏しい。ユニット派も建築の枠組みを超えることを意識している。確かに大きな時代の変わり目には、建築の外部で決定的な変化が達成されることがあった。例えば、一九世紀は、様式に捕われていた建築家ではなく、建築の慣習から自由な温室技師や技術者が水晶宮やエッフェル塔などの新しい重要施設により、次の世代を切り開いた。
また村上隆と東浩紀が提出したスーパーフラットの概念は、ユニット派の理論的な背景となりうるだろう★三〇。筆者の考えでは、スーパーフラットの建築とは、第一に形態よりもファサードに表現を集中させるもの[図19]、第二に組織やプログラムのヒエラルキーを崩そうとするものを意味するからだ。これと比較すべき概念として、デジタル派のステファン・ペレッラが提唱するハイパーサーフェイス・アーキテクチャーが挙げられる★三一[図20]。これは無数のイメージが氾濫する都市の風景を意識して、サインと物質の融合、あるいは情報を発信する皮膜と構造が一体化したメディア的な建築を意味するものだ。イメージにより形態が溶解し、かたちは媒介的な存在となる。サイバー派ではないが、阿部も形態を環境のメディアとしてみなしていた。スーパーフラットとハイパーサーフェイスは、ともに脱三次元をめざすが、前者は次元を下げて二・五次元へ、後者は次元を上げて四次元へ向かう。そして前者が文字どおりに平面的な印象をあたえるならば、後者はトポロジカルなぐにゃぐにゃの建築である。

19──青木淳《ルイ・ヴィトン名古屋》、1998 筆者撮影

19──青木淳《ルイ・ヴィトン名古屋》、1998
筆者撮影

20──KAS OOSTERHUIS《トランスポーツ2001》 出典=Architectural Design, vol.69.

20──KAS OOSTERHUIS《トランスポーツ2001》
出典=Architectural Design, vol.69.

空間から状況へ

二〇〇〇年の一〇月から、ギャラリー・間の一五周年記念展として、一〇組の若手建築家を紹介する展覧会「空間から状況へ」が開催された。阿部仁史、千葉学、曽我部昌史らが最初に企画をたちあげ、筆者も途中から監修に加わっている。同展には、アトリエ・ワン、ファクターエヌアソシエイツ、遠藤秀平、西沢立衛、阿部、梅林克(F.O.B.A)、クライン・ダイサム・アーキテクツ、マツオカ・ワン・アーキテクツ、みかんぐみ、宮本佳明が参加しており、およそ半分がユニットだ[図21・22]。会期は五つに分かれ、毎回二組の建築家が二週間の個別展示を行なう。一方、全会期にわたって変わらない共通展示の壁面は、林野紀子のデザインにより、都市の問題を扱う一〇組の作品と筆者のテクストが構成される[図23]。会場の三階と四階をつなぐ中庭には、ビデオが林立する黄色い芝生の斜面が設置され、その上部を空気構造の白い屋根がおおう[図24]。天井には映像を投影できる。
展覧会のテーマは「空間から状況へ」というタイトルに集約される。すなわち、「建築を『空間』的な造形に還元しオブジェクト化するのではなく、建築の外部に注目し、周辺の『状況』との関係を含めて再定義すること」★三二。このタイトルは筆者が企画に関わる前に決まっていたものだが、最初に聞かされたとき、すぐに九〇年代に再評価されたシチュアシオニスト(状況主義者)を連想した。シチュアシオニストとは、ギィ・ドゥボールが中心になって開始した国際的な運動であり、一九六八年の五月革命を準備し、ベルナール・チュミなどの建築家に影響をあたえている。シチュアシオニストは、近代的な都市計画を徹底的に批判するために、日常生活における「状況の構築」をめざし、参加した建築家のコンスタントは「建築家は……職務を変える必要に迫られている。彼はもはや形式だけの構築者ではなく、完璧な環境の構築者となるだろう」と語っていた★三三。
むろん、シチュアシオニストのほうが政治的に過激であり、現状を否定する破壊的な情熱をもっていたが、彼らと若手建築家には幾つかの類似点も認められるだろう。「状況」という言葉がキーワードに選ばれたこと。旧来の建築家像を否定し、建築の枠を超えるデザインに可能性を見出していること。ささいな日常生活に注目していること。そしてシチュアシオニストは、都市を読み替え、新しい価値をあたえる「漂流」と「転用」の手法を提案したが、とりわけアトリエ・ワンは、都市観察を通じて独自の地図作成を試みながら、既存施設のリサイクルを考察しており、方法論にも共通性がある[図25]。おそらく、シチュアシオニストの直接的な影響ではない。したがって、一九六八年の精神が変容しつつも、無意識的に再演されているのだ。それは静かな革命である。

21──遠藤秀平《ヒールテクチャーK》、1996  筆者撮影

21──遠藤秀平《ヒールテクチャーK》、1996

筆者撮影

22──ファクターエヌアソシエイツ  《世田谷の住居》、1999 筆者撮影

22──ファクターエヌアソシエイツ
《世田谷の住居》、1999
筆者撮影

23──林野紀子、『空間から状況へ』展における 共通展示の壁面デザイン、2000

23──林野紀子、『空間から状況へ』展における
共通展示の壁面デザイン、2000

24──『空間から状況へ』展のための中庭の建設過程、2000 撮影=林野紀子

24──『空間から状況へ』展のための中庭の建設過程、2000
撮影=林野紀子

25──ドゥボール『心理地理学的パリガイド』、1957 出典=Situacionistas Arete, Politica, Urbanismo, 1996.

25──ドゥボール『心理地理学的パリガイド』、1957
出典=Situacionistas Arete, Politica, Urbanismo, 1996.

飯島は、六八年と九五年の崩壊を重ねあわせ、その後に続く空虚の時代を同一視している。しかし、二つの崩壊は決定的に違う。六〇年代の学園紛争や五月革命は自ら積極的に参与し、挫折した崩壊であるのに対し、九五年の震災とサリン事件は共同体の外部から訪れるために、ただ受動的に眺めただけにすぎない。ゆえに、現在の若手建築家は自ら建設しようとした理想が壊れるのを体験したわけではない。だが、その立場があまり明快になっていないことが批判の呼び水になっていることも事実である。そこで筆者は、「数字がリセットされるミレニアムの変わり目に、二一世紀を担う若手建築家がその立場を明らかにすることが本展の目的となろう」と書いて、展覧会の紹介文を結んだ。ただ、本稿を執筆している時点では、展覧会は終わっていない。この目的が達成されたかどうかは、出版物を含めて展覧会の総括が完了する二〇〇一年の前半にはわかるだろう。

註 
★一──飯島洋一「『崩壊』の後で──ユニット派批判」(『住宅特集』二〇〇〇年八月号、新建築社)。
★二──拙稿「越境するアーバン・トライブ」(『SD』一九九八年四月号、鹿島出版会)。
★三──P. Zellner, Hybrid Space: New Forms in Digital Architecture, Rizzoli, 1999.
★四──『エディフィカーレ』については、『A』vol.6(A activity、二〇〇〇)を参照。
★五──「A.BBS」URL=http://hino.nu/cgi-bin/a+bbs.cgi
★六──「cybermetric: TWISTED COLUMN」URL=http://
www.cybermetric.org/50/50_twisted_column.html
★七──筆者と梅林のメールのやりとりから。
★八──大野秀敏×伊東豊雄「都市のヴィジョン」(『建築文化』二〇〇〇年二月号、彰国社)。
★九──拙稿「東京とTOKYO」(『論文・報告集』建築等学会、一九九八)。
★一〇──みかんぐみ「都市のゴルフ」(『空間から状況へ』展パンフレット、二〇〇〇)。
★一一──筆者と磯崎新・浅田彰・隈研吾らによる座談会「『建築の解体』あるいは『二0世紀建築の死』」(『Anyhow』NTT出版、二〇〇〇)から。
★一二──拙稿 'Five Years after Hanshin Earthquake', XXI, 4, 2000.
★一三──『広告』(一九九九年九+一〇月号/二〇〇〇年一+二月号、博報堂)において、Chibashiが提唱した。
★一四──Archi Lab, Ville d'Orleans, 1999. Archi Lab, Ville d'Orleans, 2000.
★一五──『都市住宅』一九七七年一月号(鹿島研究所出版会)。
★一六──筆者による伊東豊雄インタビュー(『美術手帖』二〇〇〇年五月号、美術出版社)から。 
★一七──坂本一成+多木浩二『対話・建築の思考』(住まいの図書館出版局、一九九六)。
★一八──塚本由晴×曽我部昌史の対談(『美術手帖』二〇〇〇年五月号、美術出版社)を参照。
★一九──拙稿「他者が欲望する黒船都市、トーキョー」(『10+1』No.12、INAX出版、一九九八)。
★二〇──みかんぐみ「非作家性の時代に」(『住宅特集』一九九八年三月号、新建築社)。
★二一──『三〇代建築家三〇人による三〇の住宅地』(ギャップ出版、二〇〇〇)。
★二二──拙稿「ネットワーク化する三〇代の建築家たち」(『建築雑誌:建築年報一九九九』一九九九年増刊号、日本建築学会)。
★二三──浜口隆一『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社、一九四七)。
★二四──『新建築』二〇〇〇年一〇月号(新建築社)の月評。
★二五──『住宅特集』二〇〇〇年一〇月号(新建築社)の月評
★二六──飯島洋一「反建築のゆくえ」(『新建築』二〇〇〇年九月号、新建築社)。
★二七──隈研吾『反オブジェクト』(筑摩書房、二〇〇〇)。
★二八──拙稿「くまさんの非闘争宣言」(『SD』二〇〇〇年一〇月号、鹿島出版会)。
★二九──隈研吾「負けるが勝ち/形式対自由のゆく末」(『新建築』二〇〇〇年八月号、新建築社)。
★三〇──村上隆編『スーパーフラット』(マドラ出版、二〇〇〇)。
★三一──Architectural Design: Hypersurface Architecture II, vol.69, 9-10, 1999.
★三二──「空間から状況へ」展パンフレット(ギャラリー・間、二〇〇〇)から。
★三三──コンスタント「ミュンヒェン大会開会報告」(『状況の構築へ』、木下誠監訳、インパクト出版会、一九九四)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.22

特集=建築2001──40のナビゲーション

>ユニット派

建築批評家・飯島洋一が、世界に対する理念や「作家性」のなさ、日常世界に拘泥する若...

>飯島洋一(イイジマ・ヨウイチ)

1959年 -
建築評論。多摩美術大学美術学部環境デザイン学科教授。

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>田島則行(タジマ・ノリユキ)

1964年 -
建築家、アーバニスト。Twlw-designおよびオープンスタジオNOPEメンバー、関東学院大学非常勤講師。

>林昌二(ハヤシ・ショウジ)

1928年 -
建築家。日建設計名誉顧問。

>丸山洋志(マルヤマ・ヒロシ)

1951年 -
建築家。丸山アトリエ主宰、国士舘大学非常勤講師。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年 -
建築家。日埜建築設計事務所主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>みかんぐみ(ミカングミ)

1995年 -
建築設計事務所。

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>団地

一般的には集合住宅の集合体を指す場合が多いが、都市計画上工業地域に建設された工場...

>塚本由晴(ツカモト・ヨシハル)

1965年 -
建築家。アトリエ・ワン共同主宰、東京工業大学大学院准教授、UCLA客員准教授。

>松原永季(マツバラ・エイキ)

1965年 -
建築家/まちづくりコンサルタント。スタヂオ・カタリスト代表。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>宮本佳明(ミヤモト・カツヒロ)

1961年 -
建築家。宮本佳明建築設計事務所主宰、大阪市立大学大学院建築都市系専攻兼都市研究プラザ教授。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>曽我部昌史(ソガベ・マサシ)

1962年 -
建築家。みかんぐみ共同主宰、神奈川大学工学部建築学科教授。

>植田実(ウエダ・マコト)

1935年 -
エディター・建築批評。住まいの図書館出版局編集長。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。

>アニ・ハウス

神奈川県茅ケ崎市 住宅 1998年

>ミニ・ハウス

東京都練馬区 住宅 1999年

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>青木淳(アオキ・ジュン)

1956年 -
建築家。青木淳建築計画事務所主宰。

>岡田哲史(オカダ・サトシ)

1962年 -
建築家。岡田哲史建築設計事務所主宰、千葉大学大学院工学研究科准教授。

>隈研吾(クマ・ケンゴ)

1954年 -
建築家。東京大学教授。

>阿部仁史(アベ・ヒトシ)

1962年 -
建築家。UCLAチェアマン。

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

>スーパーフラット

20世紀の終わりから21世紀の始まりにかけて現代美術家の村上隆が提言した、平板で...