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『建築の解体』へ──六〇年代のムーヴメントをマッピングする試み | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
Towards Kenchiku-no-Kaitai: The Effort to Map the Movement of the '60s | Isozaki Arata, Hino Naohiko
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.190-205

『解体』の輪郭執筆──六〇年代アートシーンの坩堝から

日埜直彦──今回は『建築の解体』についてうかがいたいと思います。この本は建築における六〇年代の終わりを象徴するテクストであり、またその後に与えた影響もきわめて大きい。『空間へ』がご自身のお考えを述べているのに対して、このテクストはむしろ当時磯崎さんが見ていた視線の先を提示しているわけで、この二冊はいわば対となって六〇年代の足跡を跡づけていると言っていいでしょう。『解体』については個々の内容に細かく立ち入るよりは、むしろそれが書かれた背景や文脈をうかがいたいと思います。というのも、内容そのものは基本的に六〇年代当時の新しい建築への取り組みを紹介するものですが、むしろそれが当時強烈なインパクトを持ったこと、そのことの重みが現在の読者にはなかなか実感しにくい部分ではないかと思うからです。
磯崎新──出版は三五年前(初版発行一九七二)だから、あなたはまだ生まれてない。
日埜──そうですね。連載の第七回目、スーパースタジオについて書かれたのが七一年の一〇月で、ちょうどその頃生まれたことになります。いろんな方から『解体』を当時どういうふうに読んだかといった話を聞かされているので、そのインパクトってものがどれぐらい強いものだったか想像するのですが、どうも思い出たっぷりの話なので具体的なところは僕自身どうもよくわからないんです。このテクストは『美術手帖』の連載として書かれたわけですが、そもそもどういう成り行きで始まったのでしょうか。
磯崎──『美術手帖』は五〇年代からありましたがとりわけ六〇年代から七〇年代にかけて面白かったですね。この雑誌の瀧口修造さんが編集した号(No.206、一九六二年四月)に僕は初めて原稿を発表したんです。署名原稿を書いたのは「都市破壊業KK」(『新建築』一九六二年九月号)が最初です。瀧口さんの編集したこの『美術手帖』の特集号を見るとわかるように、アーティストも比較的その当時の若いジェネレーションが多く、今でも活躍している人たちがほとんどです。写真家とデザイナー、それに建築家で誰かいないかということで僕がたまたま捕まったんですね。ともあれ「未来都市は廃墟」というコンセプトでその時に発表できたのはありがたかった。それから後は『美術手帖』に原稿を書くということはなかったんです。「空間から環境へ」展の関係の臨時特集号があった時にも、僕はもっぱら会場計画をやっていて展覧会の作品のセレクションに関わっていませんでしたが、東野芳明と対談をしました。
当時の美術界に「反芸術是か非か」という議論があって、これがちょうど一段落した頃です。打ち止めにしたのは宮川淳の反芸術論批判ですが、これで東野たちの、いわば日本的なアヴァンギャルド理解の浅薄さみたいなものが見えてきた。そしてこれが一九六四年の読売アンデパンダンの終焉に繋がっていると思われます。次を探さなければならないという緊急事態が一九六四、五年に起こっていたわけです。
僕自身は「空間から環境へ」展をやるための、大分の図書館ではなくて、このあいだ消えてしまった大分の銀行(福岡シティ銀行大分支店)のデザイン、モデルを立体的なレリーフにしたりしていました。あるいは『他人の顔』の美術協力をすることで今までのコンテクスト、五〇年代のイメージとずれた何物かをそこで取り出したいという気がありました。五〇年代の終わりのアンフォルメルは、パリ経由でヨーロッパから来たものです。ジャクソン・ポロックがヨーロッパに影響を与えたうえでの仕事だろうと僕は理解しているのだけど、ヨーロッパオリジナルという人もいますね。それに、ダイレクトに日本に入ってきたものもあった。二つのルートがあったことは確かです。何人かの美術評論家が選び出したアーティストたちによる「空間から環境へ」展の諸傾向は、とりわけニューヨークの動きと連動しているといっていいと思います。五〇年代の半ば頃、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズ、ネオダダ(ニューヨークで彼らはそう呼ばれていました。日本の一九六〇年の動きは、そのもじりでしょう。彼らは「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」と自称していました)が出現しました。さらに六〇年代のはじめ頃、アンソニー・カロたちのプライマリー・ストラクチャー、アンディー・ウォーホルの初期ポップなどと美術界が動き始めていた。とりわけ顕著だったのが、パフォーミング・アーツそれからフルクサスの音楽もあったし、マース・カニングハムのダンスとか、純粋美術でなく別領域からのインパクトが大きかった。これらが全部ごちゃごちゃに重なって日本に情報として入ってきたわけです。僕は勝手に建築やデザインのほうから考えようとしていたわけですが、どこかで重なり合ってきたんですね。六二年頃から、ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、ジョン・ケージとかみんな東京に来ました。そのなかでジャスパー・ジョーンズとはプライヴェートでも一番よく付き合った。今日に至るまで、アメリカに渡ったらジャスパー・ジョーンズとは連絡をするという関係になっています。すべてがその時代に始まりました。この六〇年代半ばにその前半を担っていた運動である「反芸術」とか五〇年代の後期に大阪で生まれた「具体美術」の中心が変質しはじめます。この変質のプロセスに僕もかかわったといえるかもしれない。そんな世界との付き合いが日常化していた気がします。そのなかから六〇年代の日本のアートの次の動きが出てきたわけです。当時海外情報は影響をすごくあたえたと思います。何年だったか覚えていないけれど、今ではアメリカ現代美術の方向性を決めたことになっているグリーンバーグも日本に来たことがある。彼は東京でほとんどしゃべる機会がなくて、長岡現代美術館でパネラーとしてレクチャーをしているんです。田中角栄の地元の長岡ですね。この美術館は東京画廊のつながりで現代美術をコレクションしていました。そのひとつのイヴェントで外国からアーティストを招待して、展覧会をやったりしたのだったと思います。その時、彼が何をしゃべったか覚えていません。僕はグリーンバーグを聞きに行った記憶があります。当時、今から見たらいい加減な翻訳しかなかったのですが、ある範囲の連中は彼の仕事に注目していたことは確実です。
そういう美術界の動向に対して、建築・都市デザインの動きで僕が見つけたのは、アーキグラムです。六四年頃のことです。後にピーター・クックは「俺たちはメタボリズム情報は、六二年か三年に知っていたよ」と言います。年代的には若干の記憶があります。六四年の夏に僕は二川幸夫と例の世界一周旅行に出かけロンドンに到着。知人は誰もいなかった。そこで、『A.D.』の編集部にいきなり駆け込んだ。夏休みだから、編集長モニカ・ピジョンはもちろんいない。ひとりのアルバイトの男が、図面のインキングをやっていた。ケネス・フランプトンでした。話をしているうちに、何はともあれジェームス・スターリングのレスター大学の建物を見るべきだとサジェッションをくれ、彼の事務所を紹介してくれました。この事務所にはヴァカンスはないことがわかった。そして、レスターに直行(こんな地名聞いたこともないので、駅でキップを買うとき、ライチェスターと発音してどうしても通じなかった、こんな程度の知識だったんです)。だから、僕のロンドン・シーンとのコネクションはアーキグラムの前に、スターリング、フランプトンのような、保守正統派から押しだされ、アメリカとの関係において、七〇年代以降の主流になった連中との付き合いが最初だったのです。実務的な面ではこの連中と歩調が合いました。ニューヨーク・ファイヴのなかでリチャード・マイヤーと付き合うことになるのも同じです。だが『解体』には彼らの仕事を含んでいません。その後に知り合ったアーキグラムやピーター・アイゼンマンを紹介しています。つまり彼らのコンセプトに関心をもったというべきですね。だから『解体』の輪郭がおわかりでしょう。これは建築をコンセプトとして思考することを主眼にしていたのであって、実務からできるだけ離れていようとしていたといえますね。

日埜直彦氏

日埜直彦氏

磯崎新氏

磯崎新氏

アンドレ・ブロック、クロード・パラン、フレンチ・コネクション

磯崎──『解体』を書いたいきさつは、六七年か八年くらいに『美術手帖』の編集長になった、宮沢壯佳さんという人が僕に「なにか連載をやれ」というので、そのときまでに見当をつけていた何人かのアーティスト=アーキテクトを順々に紹介するのはどうかと提案したんです。宮沢さんのほかに美術出版社に二人関係者がいました。『空間へ』を編集してくれた岩崎清さん、宮沢さんのあとの編集長である福住治夫さんです。彼は宮沢さんのときに始まった連載を整理して最後にまとめてくれました。また、福住さんは『美術手帖』の編集部のなかでもかなり特異な存在だった。彼は全共闘の交渉のスタイル──団体交渉、つるし上げ──とかを美術出版社のなかに持ち込んだ人なんですね。延々と会社と闘争しながら『美術手帖』をやった人です。美術出版社というのは、大下藤次郎さんという水彩画家が起こした出版社で、啓蒙的な水彩画教育の雑誌を戦前につくったわけですね。それが『みづゑ』でした。
日埜──『みづゑ』は「水の絵」ということだったんですね。恥ずかしながらまったく知りませんでした。
磯崎──大下藤次郎には水彩画集があります。水彩画家としては石井柏亭がうまいと言われていたけれど、アマチュアなんですが大下藤次郎も当時は名前が出るくらいの人だった。で、水彩画の雑誌をやり始めたんですが、それが日本の美術の動向を紹介するメディアになった。あの時代に雑誌をこんな具合に立ち上げたアーティストはほかにもいます。アンドレ・ブロックというアーティストの『L’Architecture d’Aujourd’hui』。それとジオ・ポンティという建築家の『domus』。アンドレ・ブロックのアシスタントをやっていたのが、最近森美術館で開催された「アーキラボ」展にも出ていたクロード・パランというフランスの建築家です。クロード・パランはまだ無名のポール・ヴィリリオと「斜めの機能」を提唱したりしていますが、当時は誰もそれを認めませんでした。僕もあれは五〇年代のコンセプトだと思っていたので『解体』には載せなかった。アンドレ・ブロックは、当時の若い建築家の作品やピエール・シェフェールのユートピア計画などを『d’Aujourd’hui』誌上に紹介していたたわけです。彼は僕の大分の医師会館を、『d’Aujourd’hui』に最初に取り上げてくれた人でもあるんです。もちろん僕も知らなかったのですが。その後彼に会ったときに「この建築家は僕が発見したんだ」と冗談を言ってくれたりしました(笑)。彼が六六年に来日したとき、フレンチ・コネクションだから、坂倉準三さんがお世話していたことは記憶にあります。その時にできたのが大分の図書館でした。彼はそれを見に行きたいと言い出して、僕が案内して大分まで行ったんですよ。別府に行って、阿蘇に行って、それからインドに行くというルートだった。東京に来たときに、当時出たばかりの八ミリの撮影機を買ったんですね。まだズームもない頃です。撮りながらズームするにはバックするか前に出るか、どっちかなんですよ。阿蘇の噴火口に連れて行った時に、彼は噴火口の縁に立ってわれわれを後ずさりしながら撮ろうするのであぶない!  噴火口に落っこちますよ!!  といった具合の珍道中でした。僕が持っていた和仏、仏和のポケット版の辞書を見て「半分以上は死語だし、笑っちゃうような用法ばっかりだ」なんて彼は言っていた記憶があります。それが彼と話した最後でした。日本を離れて一週間目に、インドのたしかアグラだと思うんですが、城壁の上で同じ撮り方をして後ろに転落されて亡くなりました。パリからのニュースで知りました。
クロード・パランはアンドレ・ブロックが亡くなってから独立しました。僕もその関連でパランを知ってました。そのパランの手伝いに学生時代のジャン・ヌーヴェルがいたんです。だから、ヌーヴェルの今の妙なコンセプトはパランの元でだんだんできてきたんではないか。ちなみに、学校を出てすぐヌーヴェルのところにバイトに行っていたのがオディール・デック。尻までとどくほどの赤・黄・紫のパンク風の髪で建築家としてデビューしました。スタイルがよくて建築家とも思えない。彼女も結構フランスでは注目されています。いつの年だったか、九六年かな。ヴェネツィアの建築ビエンナーレのフランス館が彼らの仕事を展示しました。アンドレ・プロック─クロード・パラン─(ポール・ヴィリリオ)─ジャン・ヌーヴェル─オディール・デックという具合の流れを組み立てようとした。これにシェフェール、コンスタン、ヨナ・フリードマン、ちょっと飛んでシチュアシオニスト、つまり五〇年以降にフランスに独自のユートピア計画の流れがあったと言おうとした。言い換えると戦後のラディカルの流れからフランスが落とされていたのを回復しようという試みといえますね。このあいだ、森美術館にポンピドゥーが運んできた「アーキラボ」という展覧会があったでしょう。そのコンセプトの下書きがここにあったのです。僕はあのときレクチャーを依頼され、フランスからきたキュレーターたちに、失礼だけど、こんな隠れた意図があるんじゃないか、などと語ったことがあります。ちょうど来日していたピーター・クックにこの話をしたら、「フランスの常套手段で、歴史を書き換えようとする陰謀だよ」と言っていました。

アートムーヴメントを並べ替え編集する作業

日埜──連載の第三回は美術手帳掲載時は「ラスベガス」というタイトルでした。ここには前回伺った環境=エンヴァイラメントの文脈が現われていますね。
磯崎──これは当時日本で注目を集めていた「スーパーグラフィックス」が念頭にあったからです。それとヴェンチューリの「ラスヴェガスから学ぶ」の発表は僕の連載よりも遅いですよね。このテキストはあれよりは先に書いたものです。もちろんこのなかには彼の『建築の複合と対立』が入っています。グラフィズム、スーパーグラフィックスの空間として扱っているわけです。その頃都市的展開を文明論的視点で考えようとしていた。ヴェンチューリたちがラスヴェガスに調査に行ったという噂話はあったような気がします。だけど、トム・ウルフとは無縁だったと思うけど、よくわかりません。『空間へ』に「広告的建築のためのアドバタイジング」(五二頁)という文章を収録していますが、そこではこのあたりに問題がひそんでいることを嗅ぎつけてはいる。だけど、ノーマン・メイラーのもじりぐらいしかできていない。だからトム・ウルフの文章を見つけた時はこれは手強いと思ったのです。あの「広告的──」を書いた同じ頃にヴェンチューリは『建築の複合と対立』を準備していた。だからクリストファー・アレクザンダーに続いて、僕はヴェンチューリを見つけたんだと思います。アメリカ情報はこんな程度です。「ニューヨーク・ファイヴ」はもっと後のこと。といっても数年ちがいです。象徴論的視点が何だか重苦しく感じられていても、ふっきる理論的根拠がない。都市の光景の表現にはりついて明滅するもの、あるいは軽量で消えていくものに注目していたとしても、こんな記号論的な扱いは六〇年代も後半以降にやっと世界的に論議されるようになったものです。グラフィズムとそれ以降に言われていくイメージです。
日埜──『解体』が本になったときには建築家の名前が並ぶほかの項と揃えて「チャールス・ムーア」とタイトルされています。
磯崎──六〇年代の後半というのは国際的に、一九二五年から一九四〇年くらいまでの前後一五年くらいに生まれた建築家たちが、スタートした時代ですね。誰がどうなっていくかわからないけれど、みんな同時並行的に動いていた時期でした。今から考えてみると、アートのコンテクストに近かった。もうひとつは、メディアアート的というか、環境というか、当時マクルーハンなんかの影響があったと思います。バックミンスター・フラーを扱わなかったのは、フラーをもっと前のジェネレーションとして見ていたからだと思います。しかし六〇年代の後半の、ヒッピー・ムーヴメントのなかでのフラーの役割というのは、すごく大きいと思います。
当時の僕は、国際的な美術や建築の複雑なムーヴメントに対してそれをどう並び替え位置づけするかといった、今で言うと編集作業がかなり必要だと思っていました。だけど七〇年代になってからは、編集的操作的にものを考えるのではなくて、昔ながらの批評の組み立て方がやっぱり必要だと思いはじめました。つまり現象を探すのではなく理論なり方法を探す、またはその方法を肉づけするために裏づけの参照をするべきだと思いはじめた。「解体」の頃は、理論そのものが、どこに根拠があるのかわからない。近代的な思考は総破産しているのだと感じてはいても、それは各人どういうふうに捕まえるのかは自由です。そんなこといつの時代でも変わりませんが、学生の頃から学んできたユートピアの極点にむかって一本筋で進む近代的思考はもうない、これだけがわかっていたんだと思います。であるならば、複数の並列されてある状態をどう並べるかということが、状況を判断するのに適切ではないか。理論に対しても同じで、最後の「《建築の解体》症候群」の章あたりは、可能な理論を並列するよりしょうがないと考えていたわけなんです。これはアパシーとも言えるかもしれません。それを整理する手がかりを、理論ではなくて、辞書のaで決まる単語でつけてしまえと思ったわけです。だからわざといい加減に見えるようにしてある。しかし「解体」の並べ方というのは、実は案外意味があったんじゃないかと思うんです。そういう類の紹介の仕方は、同世代の東野芳明や中原佑介の最初の本を見ると共通しているようにも思えます。例えば東野芳明は「パウル・クレー論」で世に出た。中原佑介は「ブランクーシ論」で出た。しかしそれは単発の作家研究ではなくて、東野はジャクソン・ポロック以下のアメリカの現代美術の流れを一冊の本にした。中原佑介は彫刻とかコンセプチュアル・アートというサイドから、各人の作家論を並列して書いていた。その頃はこういう書き方をせざるをえなかった。その頃美術評論家「御三家」と言われていたうちのひとり針生一郎だけが、マルキシズムの流れの社会主義リアリズムなどを視野に入れて、ひとつの歴史観をはっきりもっていた。僕は、歴史観なんてなくていい、起こっている現実そのものを、そのまま見ているというのが一番正確だと考えていました。針生一郎的な、イデオロギーとしての歴史的批評でなくて、現実あるいは表象としての現実のムーヴメントのマップをつくることにポイントがあったわけですね。もちろん、作家をとりだせばそれぞれ矛盾している。むしろそれはそれでいいと思っていました。
そこには、イデオロギー批評の視点が一般的に弱体化していきつつあったことが影響しているでしょう。今日ではマネーがらみの判断が圧倒的な基準になりつつある。あの頃はもう末期的だったのだけど、イデオロギーとして、政治的な視点がともあれ重視されていました。縄文─弥生を階層対立として読み解くことで「民衆論」をとりだした川添登とか、国家的権力の抑圧の構図を『神殿か獄舎か』として書いた長谷川堯とか、このあたりが支配的な批評のスタンスだったのではないかな。『解体』はそのいずれともちがう視点をさがしていました。同時期に『手法が』にあつめたエッセイも書いていたんですが、フォルマリズムでさえ政治的たりうると強弁したりしていますが、それはこんな旧イデオロギー批評にたいする反論、あるいは批判のつもりでした。

「解体」へのリアクション

日埜──そうはいっても、結果的に『解体』が与えた影響として、日本でもすでに退潮の色を濃くしていたモダニズムが、このテクストによって引導をわたされたという意味合いもあると思うんですね。例えばアーキグラムを扱った部分にしろ、ホラインを扱った部分にしろ、モダニズムの古典的なフレームでは掬い上げることができないようなことがらを、建築の根本に据えて扱おうというわけですから、いわばパラダイムが違う。
磯崎──マルキシズムでさえ日本においては輸入されたモダニズムだからですね。昭和の初期からのマルキストはモダニストである。そしてそういう見方にその後変わってきます。しかし当時はそうではなかった。政党、アカデミズムともに、内部闘争の分裂時代で、モダニズムを一方的に批判するイデオロギーだけが機能していた。そういうときにとるべき戦略は、成功するかどうかは別として、対立物のなかで、一方の側に立って相手を攻撃するというのではなくて、両者を、もうひとつ外から揺するのがいい。そしてこの両者には共通性があるということを見つけださないといけない。議論ができているというのは、お互いに何かの基準をシェアしているはずです。基盤に共通性があるのです。そこを見つけるかどうかが、新しいものが出てくることに関わってくると思います。
日埜──そういう意味で言うと、これでモダニズムは終わりで次はこれだよという、ジャーナリスティックな身振りではないんですね。むしろパラダイムを更新し、オルタナティヴな建築の可能性を立ち上げようとしている。「解体」というタイトルではあるけど、ある種の歴史意識において建築の枠組みを再構築するような意識もうかがえる。実際ここに名の挙がった建築家は、その後太い枝を伸ばして現代建築の視野の素地となっています。
磯崎──潰れた人はいません。あまり評判にならなかったセドリック・プライスのような人は後で重視されている。
日埜──そういうパラダイムをひっくり返すような仕事がここにまとめられたとして、しかし磯崎さんが期待していた受け止められ方とは違う反応も相当あったのではないでしょうか。ある種熱狂的な受け止められ方も予想を超えていたかもしれないし、逆にまともに取り合わない人も当然いるでしょう。磯崎さんの目から見て反応はどうだったんでしょうか。
磯崎──書いた舞台が美術雑誌だからといって、日本の美術界からの反応はまったく期待していませんでした。そこからは何を言われてもかまわない。こんな連中をどういうふうに紹介すれば、日本で議論する場ができるかというようなことを考えながらやっていたわけです。もちろんジェネレーションごとに、上の足をどうすくうかということは皆考えますから、一九四〇年代に生まれた人たち──伊東豊雄安藤忠雄、六角鬼丈、毛綱毅曠、あるいはちょっと下の石山修武鈴木博之くらいまでは、おそらく「解体」をどういうふうに叩いて壊すかということをずーっと考えてきたジェネレーションだと思います。僕は彼らの発想の仕方や戦略のつくり方が全部わかります(笑)。それは僕が二〇年代生れの人たちの思考方式に対抗してきたのとまったく同じことだからです。世代論争なんか無意味だとみんな言いますが、前後一〇─一五年ぐらいがつねにコンペティターです。だが基礎は共有している。それを超えたかどうかは、もうひとまわり外の人が判断すればいい。僕と無関係なことをやっているオタク・ジェネレーション以下になるとコンペティターの関係はとりにくい。お互いに冷静に見えるでしょう。僕にとっては丹下健三さんから上の世代は最初から相対化できていた。その仕事が「建築の一九三〇年代」のインタヴューでした。
日埜──『解体』をまわし読みしたとか、青焼きを自家製本したとか、そういう話を少なからぬ人から聞いたことがあります。ちょうど全共闘の時代で、それまでの建築教育への信頼がかなり揺らいだ時期だった。そういう時代の雰囲気が建築ジャンルの本としては珍しくこの本には残っているような気もします。鬱屈していた時代の空気がここに出口を見つけたという感じもあったんじゃないでしょうか。しかしそういう思い出話をよく聞くわりに、この本に対するリアクションを文章で読むことは不思議に少ないわけです。その理由のひとつは上の世代が冷淡にこれを受け止め、メディアも扱いに困ったのかもしれません。たとえば丹下さんがこれを正面から受け止めるかというと、そういうことはちょっと想像しにくい気がするんです。
磯崎──おそらく日本の内部というコンテクストを離れて外部の建築家を自分たちと同様なシチュエーションにいるとみなすことなんか不可能だったからじゃないでしょうか。日本から外に向かって発信できると考えたのは、前川さん坂倉さんといった留学経験のあった人ではなくて、海外に行く機会を失っていた丹下健三、浜口隆一といった人たちが最初だと思います。前川さんとCIAM、丹下さんとチームXの関係はまったく違うでしょう。前者は学ぶ相手と考えていたし、後者は相手が逆に学ぼうとした、それくらい違っていました。とはいってもその後の世代は逆に日本へと内向きになっていたし、出て行くときは日本を売りものにしていた。だから「解体」を同時代で、自分のすぐ横にいる連中の仕事などとは受けとってもらえなかった。

アーキグラム、ゲーリー、アイゼンマン、ホライン

磯崎──僕は六八年の《エレクトリック・ラビリンス》をやったときのミラノ・トリエンナーレで、初めてピーター・クックと会いました。会場は学生たちに直接占拠されてしまったので、ピーターたちはロンドンに帰った。僕は準備期間中は一緒に行動してました。帰ってから、アーキグラムのピーターとロンはUCLAに教えに行きました。そして僕も六九年にUCLAに行って連中と一緒に過ごしました。このロサンゼルス行きが決まって残念だったのは安田講堂の落城を直接見ることができなかったことです。アトリエは徒歩一〇分ぐらいの位置にあったから、ちょいちょい大学キャンパスをのぞきに行っていたんですが。六三、六四年とグランド・ツアーをやったとき、ロサンゼルスではサム・フランシスのアトリエに泊めてもらいました。日本で知り合っていたからです。これがLAMoCAの仕事につながります。後にフランク・O・ゲーリーはあのときに会ったんだよと言っていますが、印象が定かではない。ゲーリーはまだ自分の家もできていない頃で、たぶん普通の仕事をやっていたのだと思います。アーキグラムの連中はゲーリーが嫌いで合わなかったという感じです。僕は英語が下手だったのがかえってよかった。うますぎて議論をしていたらお互いに喧嘩したと思います。コミュニケーションできるのは仕事とパブリケーションされたものしかなかったので、それでかえって付き合いが長持ちしたんだと思います。『解体』の連載時にはヴェンチューリは日本でもだんだん情報が入ってきていましたが、ゲーリーは依然として無名だった。個人的に知っていましたけど紹介するようなものもなかった。一九七二年にニューヨーク・ファイヴの展覧会カタログ『Five Architects』が出たときには、もう連載は終わっていました。その時までにピーター・アイゼンマンの一番初期の、チョムスキー理論を応用した論文をなにかで見つけました。それまで僕の世代のアメリカは何も起こってないという印象だった。六〇年代にはルイス・カーンフィリップ・ジョンソン、ヴェンチューリがいましたが、しかし彼らは全部上のジェネレーションなわけで、レイト・モダニスムにくくっていい。その次のジェネレーションがなかったんですね。そんななかでアイゼンマンの初期のチョムスキー理解は驚きでした。七一年の終わりだったか七二年のはじまりの頃に『a+u』が僕の特集をしてくれたんですが、アイゼンマンと会って話をしたら、僕が『a+u』に書いた「手法論」を読んでいて、俺と似たようなことを考えているやつがいるという感想をもったと言っていました。それから彼と理論レヴェルでの議論をやるようになったわけです。
ハンス・ホラインには、ミラノのトリエンナーレの帰りにウィーンで、ウィトゲンシュタインの家に連れて行ってもらいました。ウィトゲンシュタイン・ハウスはその時にはもう売りに出ていて壊される寸前だった。これを何とかしなきゃいけないから、これからキャンペーンをするんだという時期でした。

アレグザンダー

日埜──ホラインなりアーキグラムは、モダニズムに対するカウンターアクションというくくりで一応捉えられるような人たちだと思うんですけど、C・アレグザンダーやアーキズーム、スーパースタジオというのは実はずいぶん違った指向の人たちではないかと思います。アレグザンダーの場合、古典的な秩序を退けはするけど、形式の包括性への強い指向は揺らいでいない。ツリーではなくセミラティスというのは、ロゴスの否定というよりは、オルタナティヴなロゴスによって世界を認識できるという確信でしょう。アーキズームやスーパースタジオの場合はさらに過激で、無意味かつ無内容な形式性が現実に介入してくるような暴力的なヴィジョンです。つまり古典的な意味でのロゴスに対して、それから逸れていくような指向が解体のある一面だけれども、しかしむしろ形式を偏愛しそこに寄りそっていくような指向もまたある。この分裂の緊張に磯崎さんのある種の体質が見えるような気がします。
磯崎──アレグザンダーについて最初に触れたのは『空間へ』に収録した「都市デザインの方法」だったと思います。あの論文は少し真面目にアカデミックに書こうとして、参照文献を手に入るものはできるだけ集めようとして粗筋をつくったんです。その註の整理を終えたときに、ボストンのフリーウェイからどのように景観が認知できるかというサーヴェイが発表された。後に大型の本になりましたが、僕の見たのは雑誌の小さい記事でした。そのサーヴェイグループにアレグザンダーがいたんですね。これはグループの仕事でおそらく彼のその後の資料にはあまり入っていないと思いますが、この視覚表現がなかなかユニークだと思ったんです。偶然ですが、アメリカでジョン・ケージがやっていた「グラフィック・スコア」とその都市の表現がどこかで繋がっているかもしれないと思えたんですね。「グラフィック・スコア」は六一年くらいから二年にかけて日本で紹介されていたし、その演奏を聞いてもいました。例の「孵化過程」の載った特集号で、武満徹と杉浦康平が共同で発表している「コロナ」も日本での早い試みで、その前に一柳慧がニューヨークでケージの影響をうけいくつも作曲しています。僕はアレグザンダーとは関係なく「日本の都市空間」の特集号(『建築文化』一九六三年一二月号)の時に金比羅さまの参道をグラフィズムで分析していたんです。特集の巻頭には先の『空間へ』に収録した「都市デザインの方法」を書きました。それを入稿した直後にこのアレグザンダーのグラフィズムが『Architecture Forum』(“Graphic Technique for Highway Planning”, 1963.10)に出たわけです。もちろん僕の「日本の都市空間」のグラフィックは夏に蚊に食われながらずっとやっていたのでできあがっていましたから、暮近くになって入稿するときに本文の註には入れたんですよ。けれど中身は紹介する暇もなかった。彼は万博の頃に日本に初めて僕が呼んだと思います。細かいことは覚えていません。同じジェネレーション、しかもバークレーにかかわりはじめた頃、僕はハイト・アシュベリーのサイケデリックな体験(ブルース・コナーのリクィッド・プロジェクション)などを思い出して、ディスコにつれていった記憶がある。そのディスコが始まったのが六七、八年以降だからそれから後のことは確かで、アレグザンダーを紹介したのはその頃です。それで「パタン・ランゲージ」というものもどうやら彼が言い出しているらしい、これはロジックとしてなかなかユニークだと。「city is not tree」(都市はツリーではない)を見つけたのはパタン・ランゲージよりも前だったと思いますが、こんな頭のいい奴がいるのかと思いました。都市をツリーとセミラティスという二つの形式に分類し、ひとりで判断していくからには形状、いやシステムはツリーにしかならない。これはパラドックスです。このパラドックスを言ったところが何よりも重要です。今でいうとこれは初歩的な群論にあたるのかもしれないけれど、数学的な処理を通じて説明しているところが面白い。このプロセスはちょっと誰もが簡単に手が出ないとはじめてわかる。とりわけセミラティスをとりだしたことが大きい。世界的に他領域を含めて、思考方式の転換を強いていくほどの影響を与えたと考えられます。彼はその後、パタンランゲージを展開するのですが、僕が彼を『解体』で紹介したのはその頃の仕事です。
日埜──この回は七〇年の一二月号掲載ですね。
磯崎──それに対して、インドの村の調査がありましたね。あれがパタン・ランゲージの原型かな。
今ふりかえってみると、六〇年代は、フランスでは、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズ、ジャック・デリダたちがポスト構造主義と呼ばれて、その初期の著作をいっせいに発表していた頃です。僕らはタイトルぐらいは読めても中身は理解ができない。それが日本に紹介されはじめるのは、ちょうど『解体』を書いていた時期でした。とはいっても、その全貌を理解するには程遠い。彼らには、七〇年代末に「間」展をパリでやった頃に逢いましたが、彼らの思考を片側において、自分なりに思考できるようになるのは八〇年以降のことです。それぞれ取り扱う対象が異なっているけど、言語論が新しい思考の手がかりになる点で共通しているし、それにイメージ、これを支えるロジックをはっきりせねばならない。こんな誰もが出発するときにまず考えねばならないことを、僕も同じような場所から探そうとしていた。アレグザンダーに関心を持ったのもそのひとつだけど、言語論としてはチョムスキーは魅力的に思いました。もちろん、「間」展を編成したときには日本語の基本原理の理解を時枝誠記と折口信夫にたよりました。しかしながら、言語表現のテクノロジーをも扱える言語論はやはりチョムスキーかなと思ったりしていたのです。
チョムスキーには、全世界の文法と言語の組立を整理していくと、その原型になる言語の元があるはずだという仮定があります。生成文法論です。それを建築にどう応用するかなんてわからなかったけれどとても魅力的でした。アレグザンダーは無謀なくらい強引に突っ込んでパタン・ランゲージなるものを組み立てようとしていた。僕が面白いと思ったのは、記号化され形になったものしか扱わない建築デザインに、モダニスムが排除しようとしている形にならない部分や歴史的な慣習を彼は取り込もうとしていたということです。限定し抽象化する整理の方法でなくて、全部ひとからげにまとめてイメージとロジックを繋いでしまう。それをツールにしてデザインにしようというわけですね。しかし、彼のこの方法は破綻しています。イメージとロジックが簡単に整理できないにもかかわらずできると割り切って仮定しないといけない。

スーパースタジオ

日埜──スーパースタジオやアーキズームを知るのはミラノ・トリエンナーレの時ですか。
磯崎──ミラノ・トリエンナーレの時は、スーパースタジオはまだ無名だったんですよ。一九六六年にフィレンツェが洪水に襲われました。ルネサンス都市の主要部が一挙に水没してしまった。その時彼らはまだ学生でした。六八年、彼らは占拠する側にいました。その後、六九年頃から少しずつ作品を発表し始めたのだと思います。最初に会ったのは、ポストモダニズムの面影があるインテリアデザインをやっていたスーパースタジオです。この連中は、アドルフォ・ナタリーニが中心ですが、一方でアンドレア・ブランジがもうひとつの中心になっている。二人は同学年だと思いますが、コンペでもとても似たものを出していました。彼らの共通性として、学生のときにフィレンツェが洪水で完全に水没した光景を見たということですね。「コンティニュアス・モニュメント」は結局、洪水の川の流れです。また「ノン・ストップ・シティ」のインテリアデザインのコンセプトをみると、当時は「あんなのスーパーマーケットじゃないか」という感じだったんだけれど、無限に伸展していくだけでなく、暴力的に都市や自然のなかにまで、最後には宇宙にまで飛び出していく。ひとつの言い方をすれば、ある意志の空想のなかでの侵略をそのまま姿にしている。こんな人為を超えるようなイメージはいったいどこからきたのか。それを僕は「洪水の記憶」と呼びました。『解体』を書いた頃はまだこんな表現もなかったと思います。後に彼らの作品集が出る際に寄稿したときに考えたことです。
もうひとつ彼らの仕事を「タガのはずれた合理主義」(コンストレイン・フリー・ラショナリズム)と、その文章を書いたときに表現したのですが、いまだにこの言い方は誰も認めてくれていない。この英語の表現が中途半端にみえるけど、こんな言い方によって、ある種の過剰さを原理的に解釈できると思っているのです。
つまり、ルネサンスの建築的思考の内部にある厳格な合理主義は、それが具体的に表現するときはつねに社会的、政治的な時代の制約を配慮して、枠にはめられ、自制しながら使われています。過剰へと向かう意志は、その殻を破らねばならない。事実、歴史はそうやって動いたはずですが、さて、その意志=手法をどう表現したらいいか。そこでフリー・スタイルといった表現に引っかけて、既成の制約から自由な、または徹底的に合理的であるとすればこんな制約を押し破るだろう、そんな状態を表現してみたのです。『解体』のときには紹介どまりでしたが、これがフィレンツェから出現したことが重要でした。
ピーター・クックは英語の表現が実に巧みな人ですが、しばらくは、ロンドン─ウィーン─東京軸という言い方をしていたのに、あるときからフィレンツェを加えて四都市軸を言い始めた。彼もスーパースタジオ、アーキズームの重要性を認めたのです。ホラインはヴェネツィア・ビエンナーレのオーストリア館で、スーパースタジオそっくりのものを展示したりしました。
日埜──そのなかにフィレンツェを並べて意識するほど、彼らの仕事に重みを感じていたんですね。
磯崎──ピーター・クックでさえそうだった。だから僕も当然面白いと思った。
ちょっと話が飛んでしまうけど、国家論というと『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソン理論が一般的ですね。簡単に言えば、国家を、制御する枠組みを持った暴力装置だと定義している。その暴力装置を誰がどうコントロールするのかがわからない。これに対して、イタリアのジョルジュ・アガンベンは国家を「例外状態」の側から捉えて、難民や収容所といった国家にとっての「例外状態」をどう処理するか、この決定あるいは制御の問題を国家論としてやらなければいけないという意味のことを論じています。
暴力的で今までのコントロールを超えていくようなもの、というものを考えると、ツリーだったらこれが完結しているから、どうしてもまとめないといけない。セミラティスだってそのなかのディティールの問題だと。しかしスーパースタジオの「コンティニュアス・モニュメント」や「ノン・ストップ・シティ」には、非正常的な暴力装置になる可能性を持っている都市のイメージが潜んでいると思います。アガンベンは最近知ったのですが、そしてアンダーソンも出てきたのはせいぜいポスト・モダンの頃の後半ぐらいですから、洪水の当時には彼らのような視点はなかった。しかし、それに近いものをどこかで感じていたから、「コンティニュアス・モニュメント」や「ノン・ストップ・シティ」みたいなものが出てくるんじゃないかな。それを彼らはヴィジュアライズした。ひとつの芸術都市が水没したというこの事件は、ある意味でメタファーとしてすごい大きかったんじゃないか。
どんな機会に見つけたのか忘れたんだけど、トム・ウルフが、「ブロードウェイ・ヴギ・ウギ」なんて輸入品で、マクドナルドのダブルアーチこそがアメリカのオリジナルだと、やけのやんぱちみたいな口調で書いた文章を見つけて、アメリカン・ポップの気分がわかったような感じがしました。六七年頃のドロップ・アウト、サイケデリックなどのブーム化した現象を理解するきっかけを見たように思いましたね。ヴェンチューリたちの仕事はこんな気分をアカデミックに、アイロニーをまじえて捉えたんでしょう。そんな気分を捉えようとしたアーティストは何人もいます。たとえばエドワード・ルッシェ。二〇〇五年のヴェネツィア・ビエンナーレではアメリカ館の代表になったアーティストですから、美術界では有名なんですね。僕はロサンゼルスに初めて行ったときに、この売れていない作家のアートブックの屑みたいな本を本屋で見つけたんです。当時一〇ドルくらいで買ったんですが、今だったら何千ドルもするでしょう。要するにサンセット大通りを、カメラを道端から正面に向けて撮り、同様に反対側からも撮る。道の両側にどうやって都市が見えるかということを延々と巻物みたいにしてやったという、それだけの本なんです。僕には、ある種都市の景観記述、景観表現という意味でアートだとは思えませんでした。しかし、今では普通の手法かもしれませんが、道路の景観をずーっと写真で撮るというのは当時の記述の方法にはなかったし、それがアートだと言ってしまうのが面白かったですね。ロサンゼルスの持っているある種のヴァナキュラリティをほんとにうまく表現していると思いました。

シチュアシオニスト、宮川淳、手法論へ

日埜──今から考えるとこのリストにシチュアシオニストが並んでいてもよいような気もするわけですが、コンスタントと会われたことはありますか?
磯崎──いや、僕は会っていない。
日埜──シチュアシオニストに関しては当時どういう印象をお持ちだったんでしょうか。
磯崎──シチュアシオニストについてはもちろん知っていましたが、当時はこれは付き合いきれないという感じでした。連中が出してくるイメージは、僕から見ると通俗的というかそんなに魅力的なデザインではなかった。ポール・ヴィリリオだってそうです。彼は建築出身だから絵を描くけれど下手ですよ。だけど彼のセオリーは、ボードリヤールも含めてあるインパクトがあるというふうに思ってはいますが、それをどう取り込んでいいか僕にはわからなかった。だから、シチュアシオニストの仕事というのは、ある程度は資料があったから知ってたんだけど、あまり扱わなかったというのが正直なところです。それに彼らが出た頃は、今でこそフーコー以下六〇年代の、ポスト・ストラクチュアリストたちの動きが日本に紹介されているけれど、まあ使っている表現なり作品なりがきちんと説明できるほどの段階になかったのだと思います。これは読む側にもないし、向こうの建築やデザインの連中にもなかったという印象ですね。現実問題として、デリダを日本に紹介したのは、おそらく宮川淳が『SD』かなんかに書いたのが最初なんじゃないかな。
日埜──雑誌『パイディア』が同時期にすでにあったと思いますが、あれはデリダよりも前の世代が中心だったかもしれませんね。
磯崎──『パイディア』は、僕は創刊号から持っていましたが、同じ頃宮川淳は『SD』に書いたんですよ。しかしその頃われわれが理解できる範囲というのは、物事を関係として理解するということしかなかったんです。関係として理解するというやりかたは、「もの派」のバックアップ理論となっていたと思います。李禹煥はハイデガー経由の現象学を言うけれど、そんなにあたらなかった。ほかの「もの派」の連中は、だいたいが事物の関係のなかで何かを置くというような、ごく初歩的な、ロジックから言えば古いものを扱っていました。そのくらいが理解の限界だったと思いますね。だからデリダの登場にしても、宮川淳が説明してくれない限り全然わからなかった。宮川さんは、文章を削りに削って本体までわかんなくなる人だから、もっとわからなくなっているという感じではあったけど(笑)。
『解体』の最後の頃、七二、三年の頃は、宮川さんとかなりべったり付き合うようになっていました。後年、彼の関心は重みを持った物体のリアルな表現ではなくて、表面にピタピタっとしながらふわっと消えていくような、減少しながら形が変化していくような種類の作品に移っていったんですね。感情のレヴェルもそうだし、鏡に映っているそのことの意味を、ずっと彼は考えていた。そして作家のなかでも、むしろみんなが嫌って評価していないデヴィッド・ホックニーだとか、僕から見るとゲイ的な感覚をもった作家たちを彼は理論化した部分があります。多くの批評家は意外にそれを評価できなかったわけですが、彼はゲイではないにもかかわらず、よくわかった人ですね。
日埜──さきほど石山修武さんや鈴木博之さんの名前が出ましたが、彼らは全共闘世代のちょっと上ぐらいの世代でしょうか。磯崎さんご自身は当時の学生集会に行ったというようなことはあるんですか?
磯崎──日大のバリケードの中にはなぜか呼ばれて、中まで入れてくれたことはありますよ。バリケードの中で賛成演説かなんかさせられたことも覚えていますよね。その時の写真があるかどうかわからないけど、椅子を持ってきてひっくり返して組み立てられたバリケードの情景は、廃物を集めたアルテ・ポーヴェラに近いと思いました。安田講堂陥落より前です。当時僕は万博の準備もやっていたので、そこからは股裂き状態というのがずーっと続くわけです。その状態のなかで、ミラノ・トリエンナーレの占拠に遭遇する。それは結局二項対立、正か反かというロジックの無理さ加減というか、これは無意味ではないかと思い始め、今度は逆に何かの原理をアプライするのではなくて、それ自身が持っている原理を繰り返して使っていく、自己言及性というか、この状態が必要なんではないかというロジックに僕なりに戻っていったのが『解体』を書いている頃だったと思います。手法論以降の僕にとっての問題なんですけど、自己言及していく過程が反復すると、それが生成に向かうのではないか。それが一種のフォルマリスムであって、ロシア・フォルマリスムにあったこのロジックとどこか共通性があるのではなかろうかということが、なんとなく僕がその時に感じていたことです。それは後で見ると、フランスの六〇年代の連中が考えていたこととほとんどパラレルだったというのがわかった。だからシチュアシオニストというのも、おそらくそこらへんの気分というのを持っていたんだろうと思うんですよ。けれど本人はそんな分析できませんから、もう勘で動くよりしょうがなかったわけです。手法論が、ある筋道がつけられるのは、実はいくつかの手さぐりの文章を書いたその後のことです。あの時はただ直感的に、手法というものから始めたというだけですけどね。

方法としての曖昧さ、両義性へ

日埜──『解体』に戻りますが、この連載の結論にあたる「《建築の解体》症候群」を書くまで二年時間が空いています。どうしてそうなったのでしょう。
磯崎──僕はときたまダウンするわけなんですよ。万博が終わって、ある程度エネルギーが抜けちゃったような状態が続いていた。手法論というのを一応書いてはいたんだけど、これが手応えがあるのかどうか、反応がどこからもないんですよ。ピーター・アイゼンマンがいろいろ言ったというのは、二〇年後の話ですから、その間何もない状態だったわけです。群馬県立美術館ができあがってきた時期ですから、時間が取れなかったことも確かですね。自分自身で考えてきた方法での建物ができたということと、どういう方法ができるかということ、そういうのがあったがゆえにまとめを書いたという印象があります。ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』を読んでいたときに、ニュークリティシズムの方法が背後にあることは感じていたんですが、僕自身それを最初から論じるだけの余裕はなかった。たまたまウィリアム・エンプソンの『曖昧の七つの型』というものすごく小さい字で印刷された翻訳書を見つけました。 曖昧アンビギユイテイは両義性のことだなと思いながら、語感が呼び起こすイメージの不安定さにとまどったりしていた、そんなときにこの大著を見つけ、その分析の手法がヴェンチューリのものとどこか通底するように思えた。こんな読み方を勝手にやっていたのです。
その後、高橋康也さんが「建築家でエンプソンなんか読むアホがいるのかと思っていた」と僕に言ったことがありますが、英文学の世界でも、あれは一九二〇、三〇年くらいの本ですから、そんなに新しいものでもないし、たいしたものじゃないと皆思っていたと思うんです。しかしこの本の英文学批評の方法論は『解体』を執筆するうえである程度役に立ったと思うんです。『隠喩としての建築』を書いた柄谷行人が、「あれを読んだから書いたんだ」と言ってましたが、彼が読んだことは確かです。そんな別領域の人たちと交感する手がかりができたのは、僕が文学の批評にいくらか関心をもっていたせいもあるんでしょうね。
日埜──いずれにしても作家がひとりずつ紹介されるというだけなら、この本の意味合いはずいぶん違ってしまうでしょう。だけど「《建築の解体》症候群」があるからこの本は今でも読める気がするんですね。このテクストにはやや難渋した調子があって、明快な論理では切れないものを、解体の二つの方向に股裂きになりつつ、手探りで言葉をひとつひとつ定着していく感じがある。情緒的な言葉遣いはないのに、しかしそこには鈍くて重いなにかが現われている。それこそアパシーというのか。
磯崎──アパシーは、時代の気分という部分でもあったと思いますね。今日ではシニシズムがそんな役割をしています。
日埜──けれども例えばアーキグラムを見て、アパシーとはあまり思わないのではないでしょうか。むしろ逆にそこにアパシーを見ることで初めて伝わってくるなにかがあるわけですが。
磯崎──僕から見れば、アーキグラムというのは非常に健康なモダニズム。ひねくれていない。ひねくれているモダニストというのは、ホラインですよね。とことんねじれているという人で。
日埜──そうやって重ねてみることで、歴史が見えてくるような印象がありますね。それはリテラルに説明することのできないなにかでしょう。
磯崎──ひとまとめで言い切るというのは、およそ難しいという感じでしたね。七〇年代半ばまで、こういうようなところがロジックとしては行き着いたところで、七〇年の後半は「間」展の準備をもやっていた。その「間」展のコンセプトの展開を文章にしたのが、桂離宮論。この論文も結局、曖昧、両義的な空間というタイトルにしたわけで、要するに空間を対立の構造として読むのではなくて、空間そのものの持っている、枝別れしていくような両義的なものを、そのなかに読み込んでいくしか方法がないのではないかというようにだんだんなってきた。それは主題の不在ということと近い。けれど、この時までは、ある意味ではそういう筋書きがきちっと追跡できるのかもしれないけれど、この後二つ批判をされたわけです。ひとつは都市論、あるいは都市にかかわることをなぜ放棄したか。これはいまだにいろいろと言われている。それからもうひとつは、七〇年代の終わり頃から言い出した大文字の建築について。この二つはいまだに繋がっているわけなんですが、『解体』ではまだそんな兆候を言ってない。どちらも都市をやる、建築を壊すということで来た。「大文字としての建築」を新たに論じること、それは時代の趨勢とはまったく逆行する、こんなものを拾いだすことから出口を見出そうとしてきたと言えます。するともう次が出てくるという、そういうことがその先にあって、これについてはどうなのかわからないけど、僕は「転向」したんだというふうに捉えられている節もある。僕は「転向」ではなくて、これまでやってきたものの次を見つけるというのは、こちらに行くということになるんじゃないかと、今でも思うんです。都市からの撤退と言いながらユートピア論を始めたり、大文字の建築と言いながら建築の自動生成と言う。また、『10+1』の前号のインタヴューでアルゴリズムについて発言したりといろいろするので、誤解を招く。けれどもこれはこれで、僕にとっては繋がっているんですよ。
[二〇〇七年一一月七日、磯崎アトリエにて]

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>ピーター・クック(ピータ・クック)

1936年 -
建築家。アーキグラム所属。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>トム・ウルフ

小説家、ノンフィクション作家、ジャーナリスト。

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>毛綱毅曠(モヅナ・キコウ)

1941年 - 2001年
建築家。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>CIAM

シアム(Congrès International d'Architecture...

>チームX

チームX(チーム・テン)。CIAMのメンバー、アリソン&ピーター・スミッソン 夫...

>フランク・O・ゲーリー(フランク・オーウェン・ゲーリー)

1929年 -
建築家。コロンビア大学教授。

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>日本の都市空間

1968年3月1日

>パタン・ランゲージ

クリストファー・アレグザンダーが提唱した建築・都市計画にかかわる理論。単語が集ま...

>ミシェル・フーコー

1926年 - 1984年
フランスの哲学者。

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>アンドレア・ブランジ

1938年 -
『Mode』誌チーフ・エディター 。ドムスアカデミー校長 アーキズーム、メンフィスのメンバー。

>隠喩としての建築

1983年3月1日

>アルゴリズム

コンピュータによって問題を解くための計算の手順・算法。建築の分野でも、伊東豊雄な...