RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.17>ARTICLE

>
神話とモダニズム──バウハウス・プロジェクト一九一九―一九九九 | 大口晃央
Myth and Modernism: Bauhaus Project 1919-1999 | Okuchi Akio
掲載『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999, 1999年06月発行) pp.66-80

バウハウス設立八〇周年記念祭行事──バウハウス・デッサウ財団

一九一九年四月のグロピウスによる「ワイマール国立バウハウス」開校八〇周年を記念し、本年ワイマール市と同市のバウハウス大学ワイマール及びバウハウス美術館、デッサウ市のバウハウス・デッサウ財団、ベルリン市のベルリン・バウハウス資料館では、数々の記念行事が盛大に開催される。特に旧東ドイツ唯一のエキスポ2000(ドイツ初の万国博「ハノーファー万博〈環境──人間・自然・技術〉」)モデル地区で、一九九六年一二月、グロピウス設計によるバウハウス校舎とマイスター・ハウスが、ユネスコの世界文化遺産に指定されたデッサウ市のバウハウス・デッサウ財団では、六月から来年一月にかけてバウハウス八〇年史と現代文化史を再考する「神話とモダニズム──バウハウス・プロジェクト一九一九―一九九九」と題したさまざまなイヴェント、シンポジウム、展示会、コンフェランスの開催が予定されている。
来たるべき次世紀の新たな地平を模索するに際して、「ベルリンの壁」崩壊を体験した今世紀末のトランス・ナショナルな文明的経験は、デッサウのバウハウスがその旗艦であるような、モダンというものを把握するための前提を再び問題化することになった。両大戦間の危機と、ワイマール共和国と共に歩んだ歴史的バウハウスの活動を省み、今日改めてモダニズム再審を試みることは、バウハウス運動史遡及の魅力の本質を成している。まさしくバウハウス発展段階の内部論争は、モダン内部で起きた有機的対話を演出する。そして今、ポスト・モダンが世界的に喧伝されてから既に二〇年以上の歳月が経過し、バウハウス運動本体を生み出したドイツ思想界において「ツヴァイテ・モデルネ(第二の近代)」の到来が囁かれる今日においても、ガラスのカーテン・ウォールに包まれた透明で明瞭な輝く立方体であるデッサウのバウハウス校舎[図1・2]は、まさしくモダンの原点の晴れやかな空間をわれわれに開示しているのだ。あたかも歴史が一瞬、停止したかのように。そこでは、空間の只中で空間それ自体がひとつの全体性として知覚され、認識され、把握されることが要求される。かつてジークフリート・ギーディオンが指摘したごとく、バウハウス校舎の「空を舞うような垂直面の集合」と「広大な透明性」は、「新しい空間概念が、大きな建築集合体を組織するのにどれほど役に立ち得るものか」(『空間・時間・建築』一九四一)ということを示したのである。まさしくバウハウス校舎の三つの翼を持つ施設は、機能に沿った建築体の明確な分割と、生産と生活の新たな様式を約束するプロトタイプとしてガラス近代建築のイコンを体現していた。そして、そこにおいて象徴された機能的な統合、空間の均質化・分割化によって、全体の調和と均衡を計った全体性の美学は、人間の視覚と身体性、労働のリズムを律すると共に、空間に秩序を与える合理的機能主義としてモダニズム空間の支配的ノルムとなったのである。

このような空間の生産は、混乱していたが、ヨーロッパとアメリカにおいて、一九二〇年頃、あるいはむしろ一九二〇年から三〇年にかけて発見されたものである。当時において既に破産していた嘗ての照合体系へと戻ってみても無駄であろう。(…中略…)この異常なざわめきから、一体何が残るのだろうか? (…中略…)空間を生産するキャパシティは、バウハウス以来異常に増大した。
(アンリ・ルフェーブル、〈「ポスト・テクノロジー」社会の制度〉一九七二)


ドイツ工作連盟の一員であり、ブルーノ・タウトの後任として一九一九年に芸術労働評議会議長を務めたワイマール知識人の代表グロピウス学長は、一九二三年ワイマールでの第一回バウハウス展を契機に「芸術と技術──新たな統一」を唱え、初期バウハウスの表現主義的傾向を払拭し、第一次大戦後の急速な工業発展に呼応する形で大量生産のためのインダストリアル・デザインへ、そして構成主義的な合理的機能的空間システムへ、明瞭なモダニズム空間創出へと向かっていく。既に今世紀初頭の工業発展のダイナミックスの渦中で、空間の諸形態と時間の諸感覚におけるモダニティは確立されていた。「時間の抗し難い一方向的な流れ」(ハーヴェイ)によって歴史は確実に歩みを進めていたのである。デッサウにおいてバウハウス各工房は、産業界に対する生産工房としての実績を上げていく。そしてグロピウスは、一九二六年からデッサウ市の委託を受けてデッサウ市南部郊外テルテンにジードルンク(集合住宅)を建設する。ここにバウハウス運動をひとつの契機として、かつての空間の諸形態と時間の流れの慣性は歴史の前面から消え去っていったのである。
一九二三年から三三年にかけてワイマール共和国の建築家達は、当時の社会民主主義を背景にカールスルーエ、シュトゥッツガルト、カッセル、ベルリン、ケルン、ハンブルク、フランクフルトに都市社会の巨大化に対応する居住空間として勤労者用の多数のジードルンクを量産方式によって建設した。一九二五年グロピウスは、バウハウス叢書の第一巻として『国際建築(インターナツィオナレ・アルキテクトゥール)』を刊行する。そして、遠く海を隔ててアメリカ大都市スカイラインの驚異的発展は、もうひとつのバウハウス受容史を経験する。一九三二年、ヘンリー・ラッセル・ヒチコックとフィリップ・ジョンソンの二人によってニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されたグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエ、アウトを始めとする約四〇人の建築家達の作品を紹介する建築展「国際様式(インターナショナル・スタイル)──一九二二年以降の建築」で「国際建築」は、既にルイス・サリヴァンを始めとするシカゴ派高層ビルの実績を持ち、マンハッタンのスカイスクレイパーが林立するアメリカ大都市社会に吸引されていったのである。先進国大都市社会のフォーディズム的ケインズ主義的システム解体と「フレキシブルな生産体制」の顕在化によって、ニューヨークを始めとする欧米大都市の「高度なモダニズム空間」(フレドリック・ジェームソン)にポスト・モダニティの新たな空間と時間が出現するのはそれから約四〇年後のことである。

1──バウハウス校舎全景

1──バウハウス校舎全景

2──バウハウス校舎全景 ヒネルク・シェーパー、テンペラ画、1926

2──バウハウス校舎全景 ヒネルク・シェーパー、テンペラ画、1926

3──ヴァルター・グロピウス

3──ヴァルター・グロピウス

「啓蒙のプロジェクト」の使徒ユルゲン・ハーバーマスは、一九八〇年フランクフルト・アム・マイン市よりアドルノ賞を受賞した際、「モデルネ論争」の発端となった記念講演「近代──未完成のプロジェクト」を行なった。その翌年、バイエルンの古都ミュンヒェンで開催されたバイエルン・リュック保険会社主催建築展「もう一つの伝統」で行なわれた開会講演「近代建築とポスト・モダン建築」は、前者の講演と合わせハーバーマスの美術と建築におけるポスト・モダニズム批判としてよく知られている。ハーバーマスはそこで結果として近代の理想を葬り去ろうとしているポスト・モダン建築を批判し、近代建築のフランク・ロイド・ライト、アドルフ・ロースに始まりグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、アルヴァ・アアルトの最も成功した作品群において花開いた建築が、「古典主義の時代以来最初で唯一の、日常生活をもかたどるほどの影響力を持った様式である。この建築芸術だけがアヴァンギャルドの精神に由来し、二〇世紀のアヴァンギャルドの絵画や音楽や文学に匹敵しうるものである」ことを指摘し、古典建築の体裁を与える伝統主義、新保守主義的ポスト・モダン、文化主義的ポスト・モダンを批判し、「この近代への抵抗のなかには、いくらかの真実が含まれている。つまり、それは近代建築が曖昧に押しやってきた未解決の諸問題を取り上げているのである。私の考えによればそれは、独り歩きした経済的・行政的行為システムの命令によって生活世界が植民地化されることである。しかし、これらの抵抗のすべてからなにかを学ぶことができるとすれば、それは、ひとつのことを忘れない場合のみである。すなわち、近代建築のある幸福な瞬間においては、構成主義の強固な美的自律性が厳密な機能主義の目的志向性と出会い、自発的に結合していたということである。ただそのような瞬間によってのみ伝統は生きていく」と主張した。
後期資本主義社会の都市計画の領域における、行政・経済システム特有のメディア(権力や貨幣)の制御メカニズムが生活世界にもたらす匿名的命令システムから、「構成主義によって、アヴァンギャルド絵画の実験的特徴に従っている」近代建築の「機能主義の強固な美的自律性」を救済しようとする啓蒙の使徒ハーバーマスの意図は、確かに挑発的ですらある。
それから一五年後の一九九六年、まさしく「世紀末のメランコリックな黄昏時」に、昨年三月までカールスルーエのZKM館長を務めた美術評論家ハインリッヒ・クロッツによって評論集『第二の近代(Die Zweite Moderne)』が刊行された。内容は、
「近代の問題──第二の近代のために」──ペーター・ヴァイベル(現ZKM館長)
「新しい時代、行為の時代、芸術の時代」──ペーター・スローターダイク(哲学者)
「近代、そして終りが無いこと」──ハンス・ベルティング(カールスルーエ国立造形大学美術・メディア理論教授)
「記憶」──マルティン・ヴァルンケ(ハンブルク大学美術史教授)
「不連続の近代──持続の時間形式」──バゾン・ブロック(美学者)
「二度目に、近代を呼ぶ」──ヨッヘン・ゲルツ(写真作家)
「最初の恋、第二の近代」──ペトラ・キップホフ(『ディー・ツァイト』誌編集者)
「近代の晩年──近代自身の歴史主義」──エドゥアルト・ボーカン(『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』誌美術編集者)
「高く飛び―深く落ちる、近代的自己解釈への批判」──ハンス=ヨアヒム・ミュラー(美術評論家)
「音楽は幾つの近代を必要とするのか」──ヴォルフガング・リーム(作曲家)
「ジョージアへの途上で、西洋のアヴァンギャルドは如何に巻き込まれていたか」──ペーター・イーデン(美術・演劇批評家)
「メルヒェンと共にある苦悩」──アルフレート・ネメチェック(『ART──ダス・クンスト・マガツィーン』誌編集)
「休息の意志」──ボリス・グロイス(ハレ大学現代美術教授)
以上の新たなメディア・テクノロジーを駆使する現代アートの最前線に位置する論説が集録されている。
この評論集刊行を契機にハインリッヒ・クロッツは、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベック[「リスク社会」という流行語をもたらした『リスク社会、もう一つの近現代への途』(一九八六)の著者として知られる]、アンソニー・ギデンス[イギリスの構造化論の社会学者]、スコット・ラッシュ[かつてジョン・アーリと共著『組織資本主義の終焉』(一九八七)を刊行した]の三人が著わした話題の共著『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理(Reflexive Modernization)』(一九九四)の論潮[この書物の刊行以降、ベックはギデンスと共に後期近代ないし再帰的モダニティの到来を「第二の近代」として唱え始める]と同伴し、現代美術・建築におけるモダン、ポスト・モダンに続く「第二の近代」を模索し続けている。
周知のようにウルリッヒ・ベックは、先進工業社会の福祉国家で現在生れつつある「第二の近代」が、社会的規範・経済・美学のあらゆる面で、リフレキシブ(自己反省的―再帰的)であるために屈折しているが、厳密な概念規定が要請されていると指摘する。ベックの論旨に従えば、近代化の第一段階は、自然・伝統という対象を近代化したが、その対象と目的を吸収し尽くした現在、近代化は自身の近代化を遂行する時代に入った。すなわち世紀末産業社会のフロー化とグローバル化、伝統的ミリューからの離脱は、必然的にノマドと化した個人の生活空間と社会的自然的環境世界にさまざまなコンフリクトとリスクの分配を生み出したが、その過程で個人に自己再帰性(セルフ・リフレキシブ)を生成せしめ、これらの個人化した自律的主体を社会的生産基盤とした危機の構造こそが、同時に現代社会の再帰的近代化(すなわち産業社会自身の近代化)を推進していく。それはモダニティの終焉ではなくモダニティの更なる徹底化であり、再帰性(リーフレキシヴァティ)とは近代化の過程に内在する省察行為である、とされる。
かつて八〇年代、ベックは、今世紀後半の先進工業国の社会変化を、富の分配という経済的関心に基づく産業社会から、技術革新の意図せざる帰結であるリスクの分配という「リスク社会」への転換として見事にとらえてみせたが、果たして、九〇年代以降リスクのグローバル化が急激に加速していく時代状況のなかで「リスク社会は、手の施しようがないほどますます激化する不安や、勝ち誇るポスト・モダニティの『行き過ぎ』を、ただ確率論的に統制するための、近代主義的主体の側の最後の努力のひとつなのであろうか。再帰的近代化の専門家システムは、生活世界の諸領域をこれまで以上に植民地化していくのであろうか」(スコット・ラッシュ「再帰性とその分身──構造、美的原理、共同体」)という設問が一方ではなされるのだ。
啓蒙の使徒ハーバーマスは、「更に前進する近代は、更に続行されねばならない」と題した論説で、「第一の近代」と「第二の近代」の相違をリフレキシブ(自己反省的―再帰的)な近代化において把握しようとするベック等の試みを「近代社会は、自ら生み出した社会的再生産の副次的結果(それは構造的に生み出された危機として出現する)を他国家や未来の世代、環境社会に対し外在化することはできない。〈第二の近代〉は、自らの存続の前提条件を再生産し、システムと環境との関係を自ら構想することを迫られている」と論評する。
こうしたなかでハインリッヒ・クロッツは、今世紀初頭のアヴァンギャルドの芸術創造を支えた古いテクノロジーの技術的生態学的衰滅と共に、新たなデジタル技術と結び付いたメディア・テクノロジー文化とメディア・アートのおびただしい出現と表現領域の著しい拡大を「第二の近代」の底流と結び付けて考察せざるをえなくなったと詠嘆するのだ。クロッツが「第二の近代」について語るのは、それを一九二〇年代の近代の英雄時代から区別するためである。今世紀初頭、大都市の速度への熱狂と群衆のエネルギーは市民社会にラジカルに侵入してきた。未来派マリネッティの「美は速度の美」、ロシア構成主義の「機械芸術」、バウハウス・デッサウの「新たな素材」(鉄とガラス)に象徴される機械と工業製品の機能性は、モデルネの開始に決定的な天啓を与えた。そして七〇年後の一九九五年、一〇〇周年を迎えた第四六回ヴェネツィア・ビエンナーレを契機にメディア・テクノロジーの新たな画像が現代美術を覆いつくし(会場ではスイス、イタリア、アメリカの三カ国がパヴィリオンをメディア・アートに捧げ、ビエンナーレの金賞はゲイリー・ヒルが獲得した)、世紀の終末において、二〇世紀初頭のアヴァンギャルドの登場―モデルネの開始との歴史的並行性(パラレリズム)が生じたと指摘する。すなわち「近代」は様式の変化を超越し、「モダン、ポスト・モダン、第二のモダン(ツヴァイテ・モデルネ)」はひとつのエポックに吸収されると。クロッツは、このような、エポックを越えたモデルネの根幹モティーフを、絵画においては抽象化に見出すのである。すなわち野獣派による一九世紀的絵画の伝統の解消から、カンディンスキーによる最初の抽象画、ロバート・ロウシェンバーグによる白いキャンバスあるいはジャクソン・ポロックによるアクション・ペインティングに至る抽象化である。
ドイツ建築界において長らくポスト・モダンのオピニオン・リーダーであった『Arch+』誌の一四三号(一九九八年一〇月)は、遂に「近代の近代(ディ・モデルネ・デァ・モデルネ)」を特集し、巻頭にウルリッヒ・ベックの論説「再帰的近代化」、巻末にハインリッヒ・クロッツの論説「ツヴァイテ・モデルネ、一つの回答」を掲載し、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、アドルフ・ロース、ルートヴィヒ・ヒルベルザイマーに始まり、近年のプランニング・カルチャー、現代建築のレム・コールハースのOMA建築事務所、ハノーファー市のエキスポ2000用オランダ・パヴィリオンを設計したヴィニー・マースMVRDV建築事務所、ペーター・ツムトール等の作品群に至る系譜をモダニズムとツヴァイテ・モデルネとの対比で対象化しようと試み、K・マイケル・ヘイズのミース論「抽象化の現象」を掲載している。
まさしく、バウハウス・モデルネとモダニズムへの再審行為そのものの自律的意味が問い返され、かつ「近代」そのものが問い直されている今日、世紀の終わりの最後の年に、モダニズム建築の記念碑的象徴とされるバウハウス校舎の講堂内で問い直されるのは、われわれの時代の「神話」と「モダニズム」に他ならない。

●「神話」部門
コンフェランス「二〇世紀ユネスコ世界文化遺産会議──モダニティとバーバリズム」

「神話」部門では、六月三日―六日まで、コンフェランス「二〇世紀ユネスコ世界文化遺産会議──モダニティとバーバリズム」が開催される。バーバリズム遂行手段としてのモダニズムの両義性、記憶のポリティーク、暴力の都市化、戦争の虐殺と狂気、都市のトータル・デザイン等がテーマとされ、二〇世紀の世界文化遺産として既にユネスコの指定を受けているアウシュビッツ強制収容所(一九七九年指定)、広島平和記念碑(原爆ドーム、一九九六年指定)、ブラジリア市(一九八七年指定)、バウハウス(一九九六年指定)に関わる二〇世紀の集合的記憶とバーバリズムが論じられる。コンフェランスは六月四日午前の部「アウシュビッツ」、午後の部「広島」、六月五日午前の部「ブラジリア」、午後の部「バウハウス」に分かれ、各部共三人のパネラーの出席が予定されている。
まず「アウシュビッツ」の部では、フランクフルト・アム・マイン市のフリッツ・バオアー研究所(ホロコースト史研究資料センター)所長で『ホロコースト、理解の境界』(一九九二)の著者でもあり、建築家ダニエル・リベスキンド氏も寄稿した『ヨーロッパのホロコースト記念碑』(一九九五)の執筆者の一人ハノー・ローウィ氏が「記憶のポリティーク──ヨーロッパの記憶」と題した講演を行なう。次にベルリン自由大学の社会心理学者ズザンネ・ハイム女史によって「暴力の都市化──都市モデルとしての収容所」、さらにハンブルク社会調査研究所教授で一九九七年レッシング賞を受賞したバーバリズム研究のヤン・フィーリップ・レームツマ博士によって、「全体的構想──近代性と野蛮行為」と題した講演が行なわれる。ナチズムにおける野蛮(バーバリズム)と近代的合理性の統合はまさしく「収容所の電流の走った鉄条網の囲い」(テオドール・アドルノ)のなかで合理的大量殺戮として顕現したが、アウシュビッツを現代思想最大のテーマとしたテオドール・アドルノは、その著『否定弁証法』(一九六六)のなかで「アウシュビッツこそ、純粋な同一性という哲学素(フィロゾフェーム)が、死にほかならないことを裏づけているのだ」と語っている。
「広島」の部では、原爆製造プロジェクト「マンハッタン計画」に参加しその後、核実験の禁止を訴えパグオッシュ会議を設立したアメリカの物理学者レオ・シラードを描いた『陰の天才』(一九九二)の著者で、写真論説集『広島の影──スミソニアンの論争と歴史の否定に関する書』(一九九八)の執筆者の一人、ワシントンのウイリアム・ラヌエット氏が「記憶のポリティーク──〈戦争〉としての世界文化遺産」と題した講演を行なう。次にブランデンブルク州のフランクフルト・オーデル大学教授で、美学者バゾン・ブロックの共同研究者であったクリストフ・アーゼンドルフ氏によって「暴力の都市化──近代における都市と戦争」、さらにフランクフルト・アム・マイン市のアルノルトシェン・アカデミー館長で『平和を必要とする未来』(一九九四)の著者で社会学者のベルンハルト・モルトマン博士によって「全体的構想──新たな世界的爆弾」と題した講演が行なわれる。
「ブラジリア」の部では、エティエンヌ・バリバール、サスキア・サッセン等が寄稿する『パブリック・カルチャー』誌の執筆者、サンディエゴ市のジェイムズ・ホルステン氏が「記憶のポリティーク──都市と歴史」と題した講演を行なう。次に『Arch+』誌の編集委員ディーター・ホフマン=アクステルム博士によって「暴力の都市化──近代の都市モデル」、さらにヴィースバーデン大学建築学教授で『機能的な都市──ル・コルビュジエの都市ヴィジョン』(一九七八)、『〈輝く都市〉をめぐる時代』(一九七九)の著者でル・コルビュジエ研究家として知られるティロ・ヒルペルト氏によって「全体的構想──世界空間としての都市」と題した講演が行なわれる。ブラジル中央高原の内陸部に位置する首都ブラジリアは、一九五五年、時の大統領クビチェックが新首都建設構想を発表し、基本構想は建築家のルチオ・コスタが担当し、都市計画・建造物の設計は国連ビルの設計者オスカー・ニーマイヤーが担当して、一九六〇年に大規模な遷都が行なわれた。特にリオデジャネイロ生まれのニーマイヤーは、ル・コルビュジエのユルバニスムの深い影響を受けており、新首都中心部はジェット機形の平面パターンをとり、「三権広場」、幾何学的な国会議事堂、大聖堂、大統領府、国立劇場等多数が建設されている。
「バウハウス」の部では、グラーツ工科大学美術史教授で、バウハウス・デッサウ財団学術評議委員のカリン・ヴィルヘルム博士が「記憶のポリティーク──建築物と理念としての世界文化遺産」と題した講演を行なう。さらにブレーメン市の都市計画教授ミヒャエル・ミュラー博士によって「暴力の都市化──都市的なマス・カルチャー」、さらに『媒介としての美学』(一九七七)等の他多数の著書があり美学者として知られるバゾン・ブロック教授によって「全体的構想──新たな人間性と全体芸術」と題した講演が行なわれる。なお、各部門共、自由討論が予定されている。

シンポジウム「トランスペアランスィ(透明性)──バウハウスからツヴァイテ・モデルネ(第二の近代)運動に至る表層構造」

同じく「神話」部門では、七月二日―三日までシンポジウム「トランスペアランスィ(透明性)──バウハウスからツヴァイテ・モデルネ(第二の近代)運動に至る表層構造」が開催される。一九二六年のバウハウス校舎竣工以前からガラスによる「透明性」は既に建築の中心的テーマとなっていた。一八五一年のロンドン万国博覧会に登場したジョセフ・パックストン設計の「クリスタル・パレス(水晶宮)」の大量の透明ガラス・パネルを始めとし、グロピウスがアドルフ・マイヤーと共に設計した「ファグス靴工場」(一九一一)のガラスのカーテンウォール、ミース・ファン・デル・ローエの「スカイスクレーパー・プロジェクト」(一九二二)[図4・5]、近年ではミースの「トロント・ドミニオン・センター」(一九六九)、ジャン・ヌーヴェルの「アラブ世界研究所」(一九八七)等、これらは、そのほんの一例にしか過ぎない。ジェレミー・ベンサムのパノプティコン(一望監視施設)の眼差しの透明性、ミッシェル・フーコーが『監視と処罰──監獄の誕生』(一九七五)において論じた「ガラスの部屋」の伝統以来、ガラスの透明性は近代の夢を動かし、建築物の表層を覆い、その普遍的透明性によってモダニズムの神話となったのである。そして後に透明性には、ル・コルビュジエの作品によって空間の貫通性、空気・光の相互貫入も加えられることになる。ヴァルター・ベンヤミンは『遊民の回帰、一九二九』で、次のように述べる。「ギーディオン、メンデルゾーン、コルビュジエは、人間の滞在の場所を、とりわけ、光と風の考えられるかぎりの力や波の通過空間とする。こうして出現するものは、すべて透視性(トランスパレンツ)の徴しをおびる。それはただ空間の透視性だけではない」と。

4──ミース・ファン・デル・ローエ

4──ミース・ファン・デル・ローエ

5──ミース・ファン・デル・ローエ「ガラスのスカイスクレーパー」模型、1922

5──ミース・ファン・デル・ローエ「ガラスのスカイスクレーパー」模型、1922

ジークフリート・ギーディオンは『空間・時間・建築』(一九四一)において、バウハウス校舎工房棟のガラス・カーテンウォールの「正面と同時に側面」の透明性を「各種の面の間に舞い立つような釣合関係や、現代絵画に見られる〈オーヴァーラッピング〉(重合)のような効果を与えている」と指摘し、ピカソの分析的キュービズム期の作品「アルルの女」(一九一一―一二)が「一つの対象の二つの面、ここでは横顔と正面とが同時に示されている。さらに重なり合った面の透明性も特徴的である」ことと類比し、バウハウス校舎の「点や面の多様性と同時性──それは端的にいえば時―空間の概念である。この建物では、グロピウスは、構造だけで成就されるようなものを超えて遥かに前進している」と、その広大な透明性を讃え、透明性を巡る論争の幕を開けた。後年、コーリン・ロウとロバート・スラツキは、その明晰な著『透明性──虚と実』(一九六三)でこの問題を取り上げ、透明性はガラスに代表される物質の固有性である一方、ジョージ・ケペッシュやモホリ=ナギが主張するごとくある構造の持つ固有性でもあり、さらにキュービズムの透明性の概念によって、物理的なまたは「実の透明性」と知覚的なまたは「虚の透明性」に細分化されることを論じた。ロウとスラツキは、ル・コルビュジエの「ガルシュの邸宅」(一九二六―二八)の虚の透明性と比較し、「バウハウスのガラス壁は明快な空間に被せられた明快な外皮であり」、「バウハウスの工房棟でギーディオンが主に賞賛したものは実の透明性であった」と指摘する。ロウとスラツキはこの著の表面的意図に反し、あたかも「虚の透明性」から何者かの到来を待ち受けているかのようにも見受けられる。以来、建築という三次元的構造体の透明性の概念は、ポスト・モダンの時代を経て今日のツヴァイテ・モデルネの時代に至るまで不透明であり続け、真の根拠を見出せないでいる。かつてアンソニー・ヴィドラーが指摘したごとく「モダニズムに見出せる反射の特性」からも「同時性と誘惑の〈ポストモダン〉な表面の戯れ」からも区別された建築の真の透明性をわれわれは今日、獲得することができるであろうか。
このシンポジウムでは現代建築における意味伝達手段としてのガラスの多義性と透明性の表層的空間構造、そしてガラスの反射性と偏光性(例えばK・マイケル・ヘイズがその著『ポストヒューマニズムの建築』の〈人間主義の危機、対象の解体〉で述べたように)、建築物の内部空間の貫通性と同時性、そしてモダン、ポストモダン、ツヴァイテ・モデルネにおける建築の透明性が論議される。

まず七月二日は、財団学術評議委員のカリン・ヴィルヘルム博士が「表層構造とイマジネーションとしてのバウハウス校舎──透明性と超越性の間の空間浸透」と題した講演を行なう。次にデ・ステイル、構成主義、バウハウス史研究のレギーネ・プランゲ博士とハノーファー大学現代ドイツ文学理論教授のハインツ・ブリュッゲマン氏が「古典的アヴァンギャルドのガラスのイコノグラフィー──クリスタル・モニュメントと視覚のパッサージュ」と題した同テーマの講演をそれぞれが行なう。ちなみにブリュッゲマン氏は『Arch+』誌の一四四/一四五号(一九九八年一二月)が特集した「透明性(トランスペアランスィ)」に「ヴァルター・ベンヤミンとジークフリート・ギーディオン、または近代性の道程」と題した論説を掲載し、キュービズムが到達した「動的な視線による、形象の多様性への解放」という問題に言及している。次に建築家のラインハルト・ヴーストリヒ教授が「約束としての透明性──解放された建築、揺れ動く空間」と題した講演を行なう。
翌七月三日は、ミュンヒェンの建築家トーマス・ヘルツオーク氏と『Arch+』誌編集委員のアンゲーリカ・シュネル女史が「ツヴァイテ・モデルネ(第二の近代)の透明性──表層構造のルネッサンスか?」と題した講演を行なう。シュネル女史は、『Arch+』誌の一四四/一四五号に同誌編集委員のニコラウス・クーネルト氏と共に、「未だ来たらざる透明性」と題した論説を掲載し、ギーディオンが『フランスにおける建築』(一九二八)でル・コルビュジエの「ペサック集合住宅」(一九二五)の「空気が家を通り抜けて行く」ような「透明性」を讃えたことを「虚の透明性」の次元とし、彼がモホリ=ナギと同様、動きの中の知覚で構造的な透明性を見出したと指摘する。また、モホリ=ナギの『ヴィジョン・イン・モーション──動きの中で見る』(一九四七)は、まさしく「虚の透明性」に関して言及しているが、それは彼の「材料から建築へ」(一九二九)とEATのジョージ・ケペッシュの「ヴィジョンの言語」(一九四四)とギーディオンを結びつけ、「動きの中の知覚」はデ・ステイルとロシア構成主義によって刻印された近代の方向性に決定的な転換を与えたと指摘する。ル・コルビュジエが動きの中の知覚に魅了されていたことは知られているが、構造的な透明性がまさしく動きに依存するものと見なすならば、ル・コルビュジエの一連の「建築的散策路」から、レム・コールハースのOMA建築事務所よるベルリン・オランダ大使館の「トラジェクト(通行)」構想に至る過程は、「動きの中の知覚」の全く新しい発展形態としてまた、ツヴァイテ・モデルネの建築への新しいパースペクティヴとして把握することができるかもしれないと指摘している。
次にオランダの建築事務所MVRDV代表の建築家ヴィニー・マース氏と現代建築批評家のマーク・リー教授によって「ツヴァイテ・モデルネ(第二の近代)の透明性──空間編成としての透明性」と題した講演が行なわれる。両講演とも、『Arch+』誌一四三号(「近代の近代」特集号)で紹介された両建築家の実作等(トーマス・ヘルツォーク氏は、ハノーファー・メッセ会場北入り口に建設する管理部門用高層ビル、ヴィニー・マース氏はオランダのユトレヒトに建設した二世帯用住宅「ヴィラKBWW」等)をモデルとして行なわれ、建築におけるツヴァイテ・モデルネと透明性が論じられる予定となっている。なお、両日とも自由討論が予定されている。

●「モダニズム」部門
「デッサウのバウハウス校舎・芸術と世界文化遺産の統合」展

「モダニズム」部門では、七月一日―九月一二日まで『デッサウのバウハウス校舎・芸術と世界遺産の統合』展が開催される。展示会は、前半第一部と後半第二部に分かれ、第一部では、バウハウス校舎の建設プランとその実現化・工事過程、バウハウス各工房によって作成された校舎内の家具/備品/調度品(マルセル・ブロイヤー、マックス・クライエフスキー、マリアンネ・ブラント等によって作成された機能美を映し出すドアのノブや照明器具、スチールパイプの家具、壁装等)、校舎のデザイン成立に至る史実の研究調査が展示され、ガラスのカーテンウォールに包まれたバウハウス校舎の全構造が解明される。工房棟、学校棟、アトリエ館の三棟の直方体が連結する三万二四五〇立方メートルのバウハウス校舎建設は、マイスター・ハウスと共に一九二五年六月、社会民主党政権のデッサウ市議会において決定され、九月には工事が開始され翌年三月には上棟式を迎え、一九二六年一二月四日、バウハウスのマイスター、ヴァシリー・カンディンスキーの六〇歳の誕生日に盛大な落成式が挙行された[図6]。校舎の建設現場において指導的役割を果たしたのは、後述のエルンスト・ノイフェルトとバウハウスの建築教師カール・フィーガーである。工房棟のガラスの水平連続窓は機械的システムによって一斉に開閉され、ガラス壁面の立体的透明性は、あたかも鉄筋コンクリートの構造体から自立しているかのように見受けられる。垂直線と水平線が直交する開放的な空間システムは新たな立体的建築構造を体現させたのである。
また、第二部においては、バウハウス校舎が歴史的推移のなかで、どのような社会的政治的干渉を受けて来たのかがテーマとされる。ミース・ファン・デル・ローエ学長のデッサウ・バウハウス市立造形大学は一九三二年一〇月一日台頭するナチスの圧力によって閉鎖され、その後バウハウス校舎は、ナチスの地方指導者養成所、ユンカー航空機工場、ヒトラー側近の建築家アルベルト・シュペーアの建築委員会用等として使用され一部改装されたが、一九四五年三月七日連合軍の空襲によりガラスの壁面は全壊する。破損部分は一九四六年から四八年にかけて暫定的に煉瓦で補修され、戦後の旧東ドイツではその独自な文化政策により非社会主義的産物と見なされ放置されていたに等しかった。その後、海外でのバウハウス再評価の高揚のなかで、旧東ドイツ政府は落成五〇周年に当たる一九七六年国家的行事としてバウハウス校舎を一九二六年当時そのままに復元し、公式の祝賀会を催し、翌年「バウハウス・デッサウ学術文化センター(WKZ)」を設立した。さらに、一九八四年には教育文化センターとしての活動を開始し、一九八六年一二月には落成六〇周年祭が盛大に開催され、デザイン研究センターが開設されるに至った。.そして、一九九〇年東西ドイツ統一と共に旧東ドイツの国家施設から私立の協会へ、一九九四年には連邦政府・州・市によって構成された財団へと発展していったのである。当展示会では、こうした歴史的背景、外部からの政治的干渉が史実に則して展示される。なお、バウハウス・デッサウ財団では、第一部・第二部のテーマ内容を昨年、財団コレクション部門代表マルグレート・ケントゲンス=クレイグ博士編によって刊行した『The Dessau Bauhaus Building 1926―1999』に収録している。

6──926年のバウハウス校舎落成式バウハウス講堂(アウラ)

6──926年のバウハウス校舎落成式バウハウス講堂(アウラ)

7──バウハウス講堂 

7──バウハウス講堂 

「エルンスト・ノイフェルト
──二〇世紀における建築の標準化と建築文化」展

六月四日―九月九日までは「エルンスト・ノイフェルト(Ernst Neufert)──二〇世紀における建築の標準化と建築文化」展が開催される。エルンスト・ノイフェルト(一九〇〇―一九八六)はその著『バウエントヴルフスレーレ Bauentwurfslehre』(初版一九三六、邦訳=『建築設計大事典』吉武泰水総括、彰国社、一九八八)[図8]と『バウオルドヌングスレーレ Bauordnungslehre(建築規格教程)』(初版一九四三)において二〇世紀建築に標準規格を与え、特に工業建築に独自のモデュールを導入しドイツ建築産業の合理化に貢献した。『バウエントヴルフスレーレ』は現在、一三ケ国語に翻訳されておりドイツ本国では三五版を重ねている。ノイフェルトは一九一九年、ワイマール・バウハウスの建築学科に第一期生として入学し、グロピウスはイエナ市立劇場建築とライン河畔アルフェルトの大規模工事に際し、彼を現場監督に指名した。その後グロピウス・アトリエの主任とバウハウス建築学科の教師を務め、特にデッサウのバウハウス校舎とマイスター・ハウス建設の現場指導を行なったことで知られている。一九二六年には、建築家オットー・バルトニングが校長を務める新設のワイマール建築大学の教授となり、一九三〇年にはヨハネス・イッテンが設立したベルリンの私立美術学校「イッテン学院」の建築学科長に就任し、工業建築家として活躍を開始した。そして一九三六年、建築産業の工業化に呼応し、モデュラー・コーディネーションの基礎となった『バウエントヴルフスレーレ』の初版を出版する。戦後は、ドイツ建築家連盟(BDA)を創設し、ダルムシュタット工科大学の教授を務め、建築規格研究所所長に就任する他、工業建築家として活躍し、日本にも講演のため来日している。ノイフェルトの建築標準化は、まさしくバウハウスの伝統に由来しており、彼が近代建築に与えた建築モデュール(例えばノイフェルトの提案による「オクタメーター」等)とノルムは現代建築に依然として大きな影響を及ぼしている。
展示会では、ノイフェルトの工業建築物や建設プロジェクトの設計図、模型、写真等が数多くが展示される予定となっている。また、基準モデュールは、空間モデュールでもあるので建築物の外観と空間に決定的影響を及ぼす。まさしく「モデュールは視覚的リズム、統一、自由をその範囲内で創造している」(ヒルベルザイマー)。例えば、ミース・ファン・デル・ローエは、イリノイ工科大学新キャンパス建設に際し、建造物の多様性を可能にし、同時に統一性を確保するために効率的かつ経済的な三次元の独自の「反復モデュール」を採用している。展示会では同時に、近・現代建築における「標準化」と空間配置の適応性──「融通性(フレキシビリティ)」の問題が住宅建設に基づいて分析解説され、今世紀の建築デザインの発展が「バウエントヴルフスレーレ」に関連して検討されることになっている。なお、三〇〇点のモノクロ図版を収録した四〇〇ページの展示会カタログ(Edition Bauhaus;5)が、建築家ヴェルナー・ドゥルト氏、ヴィースバーデン大学建築学教授ティロ・ヒルペルト氏、建築家ハルトムート・フランク氏、フランクフルト社会研究所(IfS)の社会学者クラウス・ロンネベルガー氏、財団アカデミー部門代表ヴァルター・プリッゲ博士等の解説によって刊行される予定になっている。

8──エルンスト・ノイフェルト『バウエントヴルフスレーレ Bauentwurfslehre』

8──エルンスト・ノイフェルト『バウエントヴルフスレーレ Bauentwurfslehre』

シンポジウム
「スタンダード、タイプ、ノルム──バウハウスの後に続く合理建築」

また、この展示会と関連して八月六日―七日までシンポジウム「スタンダード、タイプ、ノルム──バウハウスの後に続く合理建築」が開催される。グロピウスの提唱したバウ・カステン、ル・コルビュジエのドミノ(規格住宅)、「トラセ・レギュラトゥール」、人体の黄金比で考案した「モデュロール」からモダニズムと透明性の連結、フーコーの規律(ディシプリン)、規格化(ノルマリザシオン)等に至るまで、モダニズム建築、ポスト・モダニズム建築を多様な側面から支配した各ノルム(規範)の原則にさまざまな吟味が加えられる。
初日六日は、財団コレクション部門のヴォルフガング・テーナー案内によるテルテン・ジードルンク見学会の後、バウハウス講堂でサブ・タイトル「建築の合理化──過去と現在」と題したシンポジウムが開催される。司会は、財団アカデミー部門代表のヴァルター・プリッゲが行ない、まず、『国家社会主義におけるバウハウス・モデルネ』(一九九三)、『建築家ヴァルター・グロピウス』(一九九六)、『ル・コルビュジエ』(一九九七)等多数の著書を著わしているミュンヒェン工科大学教授ヴィンフリート・ネルディンガー氏によって「生活空間の合理化──一九二〇年代ノイエス・バウエン(新建築)の方法と過ち」と題した講演が行なわれる。その後、ティロ・ヒルペルト氏によって「戦後の合理的建築」と題した講演が行なわれ、次に日本での研究滞在経験のあるミュンヒェン工科大学建築学教授トーマス・ボック氏によって「ドイツと日本の建築におけるプレファブリケーションの限界と可能性」と題した講演が行なわれる。住宅建築の量産化・工業化にとってまず前提となったのは、建築生産のプレファブリケーションと建築の標準化・規格化・部品化であった。グロピウスは、一九二七年、ドイツ工作連盟が「集合住宅」をテーマとして開催したヴァイセンホーフ・ジードルンク展において、後にアドルフ・ベーネによって批判的見解を加えられるトロッケン・モンタージュ・バウと称する組み立て工法の住宅を試作し、プレファブ建築の基礎を作ったのである。ボック氏の講演は、現代建築の先進的工業化・技術革新を出発点とし、独自なハイテク技術の研究分野に至る内容として行なわれる。
また、翌七日午前の部では、サブ・タイトル「近代の合理的原理」をテーマとして、『ポストヒューマニズムの建築──ハンネス・マイヤーとルートヴィヒ・ヒルベルザイマー』(一九九二)、『一九六八年以降の建築理論』(一九九八)の著者として知られるハーヴァード大学デザイン学部助教授K・マイケル・ヘイズ氏によって「ルートヴィヒ・ヒルベルザイマーとハンネス・マイヤー」と題した講演が行なわれる。その後、『建築の神秘性、近代の非無装飾性について』(一九九二)の著者で、かつてAnyoneコンファレンス(一九九一)に出席したプリンストン大学建築史教授アンソニー・ヴィドラー氏によって「近代の不気味さ」と題した講演が行なわれる。
午後の部では、サブ・タイトル「現代建築における合理的位置」をテーマとして、建築家のラインハルト・ヴーストリヒ教授によって「規格化された柔軟性(フレキシビリティ)」と題した講演が行なわれる。その後、ベルリン工科大学のヴェルナー・ゼーヴィング博士によって「今日の建築におけるミニマリズム」、さらに『Arch+』誌編集委員のフィーリップ・オズワルド氏によって「無定形」と題した講演が行なわれ、午前の部ではポスト構造主義的視点による近代建築の検証、午後の部では現代建築におけるポストモダン的フレキシビリティ以降の合理的建築の可能性が具体例に即して検討される予定となっている。なお両日共、自由討論が予定されている。

「東西ドイツの建築:一九四九―一九八九年」展

引き続き「モダニズム」部門の行事として、一〇月三日から来年二〇〇〇年一月九日まで、バウハウス・デッサウ財団と〈ドイツ建築コレクション連盟〉の共催で、ドイツ連邦運輸・建設住宅大臣フランツ・ミュンテフェリング氏後援による大規模な「東西ドイツの建築:一九四九―一九八九年」展が開催される。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、かつてのドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国されてから五〇年、「ベルリンの壁」が崩壊してから一〇年を経過した今日、展示会では二つのドイツの建築発展を比較しながら、東西ドイツの建築方法の分岐と収束、相違と類似が対比され明らかにされる。とりわけ第二次大戦後のバウハウス史評価の文脈において、旧東ドイツ建築物への評価は資料が少なく、多分に例証的であったため、今回は未公開の旧東ドイツ建築が多数紹介展示される。展示会では、各エポックの建築デッサン、設計図、模型等が展示され、展示会カタログが刊行される予定となっている。

●「プロジェクト」部門
「工業的庭園国家──その概要と展望」展

六月三日―九月五日まで、「プロジェクト」部門の展示会として「工業的庭園国家──その概要と展望」展が開催される。「工業的庭園国家(Industrielles Gartenreich)」構想は、バウハウス・デッサウが一九八九年一一月四日から九日まで開催していた「第二回ヴァルター・グロピウス・セミナー」の際、折しも「ベルリンの壁」が崩壊しデッサウ市から程近い首都ベルリンが騒然としていた象徴的な秋の日に誕生した。ユネスコの生息物・自然景観保護区「デッサウ・ヴェルリッツ庭園国家」を中心とする「デッサウ・ビッターフェルト・ヴィッテンベルク」地域に適用されたこの地域再開発構想プロジェクトは一九九四年、当該地域が旧東ドイツ唯一のエキスポ2000(ハノーファー万博)モデル地区に指定されたことにより、各都市部と周辺地域、旧工業地域は既に一九九八年大規模な工事段階へと進出している。この複合的長期的プロジェクトは、バウハウス・デッサウ財団ワークショップ部門とアカデミー部門並びにモデル地区各地方自治体、ザクセン・アンハルト州政府の共同プロジェクトとして運営されており、「フェロポリス──鉄の都市」を始めとする一〇数件の主要プロジェクトは全て、各モデル地区の地域的コンテクストと都市住民達と密着した形で現在、進行し続けている。一九九六年には、『建築家達の寵児──シンケルのベルリン建築アカデミー校舎に関するモノグラフィー』(一九九六)の著者で財団学術評議委員のベルリン自由大学建築史教授ハラルド・ボーデンシャッツ氏、財団ワークショップ部門代表のハラルド・ケグラー博士、財団ワークショップ部門ハイケ・ブリュックナー、マルティン・シュタイン両氏達の執筆によって、カラー図版入り三二〇ページの『バウハウス・デッサウ──工業的庭園国家』が刊行されており、本展示会に際し同書の第二巻がダルムシュタット工科大学教授ゲルノート・ベーメ博士、財団のハラルド・ケグラー博士等の執筆によって刊行されることになっている。展示会には、当モデル地区の再開発の経過、完成図、未来像、都市生活の変貌、国際情勢の介入等の資料が展示され、六月二五日にはワークショップ・ディスカッションが予定されている。また、八月二九日から九月五日まで「バウハウス演劇週間」が開催され、八月二八日には「第三回バウハウス・サマー・フェスティヴァル」が開催されることになっている。

「国際ヴァルター・グロピウス・セミナー、二一世紀の都市景観」

一一月四日―一〇日まで開催されるヴァルター・グロピウス・セミナーは、バウハウス・デッサウで一九八〇年代からの長い伝統を誇っている。今回のセミナーでは、外国の都市計画家、建築家も加わり、今世紀の都市計画とモダニズム建築、現代建築、伝統と近代化、環境問題、景観問題をエキスポ2000モデル地区と他のヨーロッパ地域を対比させながら検討する。特に、既に工事に入りつつあるバウハウス都市デッサウの二一世紀に向けての都市開発が研究対象とされる。また、会期中にシンポジウム「二一世紀の地域開発──工業化と庭園国家」が予定されている。

バウハウス・デッサウ財団企画展示
 1998.1-1999.5

財団コレクション部門は、本年のバウハウス設立八〇周年祭と来年のハノーファー万博―エキスポ2000を控え、活発な企画展示を開始しているので昨年から本年五月までの主な展示会を紹介しておきたい。
昨年一月二五日―三月二二日まで、一九二四年チューリッヒで前衛建築誌『建築へのABCの貢献』を創刊しエル・リシッキー、ハンス・シュミットと共に急進機能主義的建築理念を発展させ、一九二七年ドイツ工作連盟ヴァイセンホーフ・ジードルンク展にグロピウス、ヒルベルザイマー、ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、ブルーノ・タウト等と共に参加し、一九二八年ハンネス・マイヤー学長によってデッサウ・バウハウス造形大学の建築・都市計画の客員教授に招聘され、その後ソ連の都市計画に携わったオランダの建築家マルト・シュタム(一八九九―一九八六)の展示会「マルト・シュタム、建築家・予見者・造形者」が、ドイツ建築博物館の協力によって開催され、ドローイング、設計図、当時の記録資料等が多数展示され財団によって三一ページの解説冊子『bauhaus themen No.1, MART STAM』が刊行された。
四月五日―六月七日までは「東方のバウハウス、スロヴァキアとチェコのアヴァンギャルド・一九二八―一九三九」が開催され、一九三九年ナチスの進出によってチェコスロヴァキア共和国が解体するまで、スロヴァキアの首都ブラチスラバでバウハウスの影響下に活動した「ブラチスラブスキー・バウハウス」派一二年間の絵画・グラフィック・彫刻・写真・建築デザイン・タイポグラフィー・陶器・テキスタイル等約四〇〇点が展観された。フリードリッヒ・ヴァインヴルム、エミール・ベルシ、ミハル・シェールの機能主義的建築デザイン、ヤロミール・フンケシュ、イレーナ・ブルホヴァ女史の写真、リュドヴィット・フラの絵画、バウハウス・デッサウに学んだチェコのズデニエック・ロスマンの建築デザイン、スロヴァキアとチェコの民俗工芸の影響を受けた手工芸等が多数出品され、解説書『das bauhaus im osten 1928/1939』がレーヴァクーゼン市立美術館のズザンネ・アンナ女史と財団編によって一九九七年、Gerd Hatje社から刊行された。七月一日―九月二〇日には「フリードリッヒ・エンゲマン生誕一〇〇年展」が開催され、バウハウスのデッサウ、ベルリン時代に講師と教授を務め射影幾何学・製図数学・設計・建築構造等の建築教育を行なったエンゲマン(一八九八―一九七〇)の生涯の軌跡と作品、一九二八―一九三三年までのバウハウス記録資料、彼の妻でバウハウスのテキスタイリストであったアルマ・エルゼ・エンゲマンが保管していた作品資料等が展示された。また、同会期に「バウハウス・一九一九―一九三三年」展が開催され、財団所蔵コレクションから約四〇〇点が時代別に展示され、かつて「表現主義的総合芸術」の統合とジャンルを越えた教育実験として出発し、デッサウにおいてモダニズム建築の歴史的開花をなし遂げたバウハウスのワイマール・デッサウ・ベルリンへとワイマール共和国と共に変遷する一四年史が展観された。なお、同展示会でザクセン・アンハルト州が財団のために購入したワイマール・バウハウスのマイスター達の画帳(一九二三年ワイマール・バウハウスで制作されたもので、ファイニンガー、カンディンスキー、クレー、ゲルハルト・マルクス、ゲオルク・ムッヘ、モホリ=ナギ、オスカー・シュレンマー、ローター・シュライヤーの作品が含まれている)が初めて一般公開された。
続く一〇月一四日―九九年一月一〇日までは、「ヨーゼフ・アルバース、works on paper」展が開催された。一九二〇年から一九二三年までワイマール・バウハウスに学生として在籍し、一九二三年一〇月から一九三三年四月までバウハウスの教員及びマイスターとしてバウハウス史と命運を共にし、一九三三年アメリカに亡命後シカゴのブラック・マウンテン大学教授、エール大学デザイン学部長、ウルム造形大学等の客員教授を務めた画家ヨーゼフ・アルバース(一八八八―一九七六)の紙製作品約一二〇点(油彩習作、グワッシュ、水彩、デッサン、版画等)が展観された。出品作品の大部分はコネチカット州オレンジのヨーゼフ/アンニ・アルバース財団から貸与されたもので、ウルム美術館、ボン市立美術館、シュヴェリーン国立美術館の協力も得、財団コレクションからも出品され、アルバースが一九五〇年以降取り組んできた「正方形への賛歌」等が展示されると共に、財団コレクション部門代表マルグレート・ケントゲンス=クレイグ博士とボン市立美術館フォルカー・アドルフス等の解説による展示会カタログが刊行された。又、同会期に「ヨーゼフ・アルバース、デッサウでの予備教育課程(フォーアクルス)」展が展観された。グロピウスの「ワイマール国立バウハウスの理念と組織」(一九二三)において、同心円に図式化されたバウハウス造形教育プログラムに設定された「予備教育」は、ワイマールでは一九二三年春まで主にヨハネス・イッテンが担当し、その後はアルバースとラースロー・モホリ=ナギが引き継ぎ、特に一九二八年モホリ=ナギがデッサウを去った後は、主にアルバースが基礎教育全体を担当し一九三三年のベルリン閉校まで続いた。財団コレクションから選ばれた作品資料の元にアルバースの紙・ガラス・金属を使用した造形演習等当時の美術デザイン教育が紹介された。なお、「ヨーゼフ・アルバース、works on paper」展はウルム美術館においても、一月二四日―三月一四日まで展観された。
一月二三日―二月二八日までは、財団とドレスナー銀行との共催で「具象アートと構成主義の位置(Positionen der konstruktiven und konkreten Kunst)」が開催され、リチャード・ポール・ロース、エンゾ・マイオリーノ、ボブ・ボニーズ、アティラ・コヴァックス、マティ・クジャサロ、フランソワーズ・ピエルズー、ベルンハルト・ザントフォルト、キネティック・アートのレフ・ヌスベルク等、第二次大戦前後広まった具象アート(コンクリート・アート)と一九二〇年代以降の構成主義の系譜を受け継ぐ作家達の作品約六〇点が展観された。
三月二〇日―四月二四日までは、財団、ベルリン・バウハウス資料館、ワイマール美術コレクションとの共催で「Das Bauhaus webt──バウハウスの織物工房」展が開催され、ワイマール、デッサウ、ベルリンのバウハウス織物・繊維工房で製作されたテキスタイル(タペストリー、絨毯、ゴブラン織り等)が多数展示された。バウハウス織物部は、女性で占められワイマールの「アム・ホルン実験住宅」の内装には数多くの絨毯を提供し、デッサウでは工業デザインに進出し抽象的図柄のバウハウス織物が製作された。ワイマールに学びデッサウのマイスターと成った織物師グンタ・シャロン=シュテルツル女史、ヨーゼフ・アルバースの妻アンニ・アルバース女史、ワイマールに学んだマックス・パイファー=ヴァーテンフール、ベニータ・コッホ=オッテ女史、イーダ・ケルコヴィウス女史、デッサウに学んだオッティ・ベルガー女史、グレーテ・ライヒハルト女史等の作品が展示され、ベルリン・バウハウス資料館のマグダレーナ・ドロステ博士とマンフレート・ルーデヴィヒ編によって三一二ページの展示会カタログが刊行された。尚、同展はベルリン、デッサウ、ワイマールの巡回展に成っており、ワイマール市では九月二六日―一二月五日に開催される事に成っている。
五月八日―六月一三日までは、「エルフリーデ・シュテーゲマイヤーの写真」展が開催されている。シュテーゲマイヤー女史(一九〇八―一九八八)は、一九三〇年代ケルンのアヴァンギャルド芸術家集団「Gruppe Progressiver Künstler」と接触しながら、特にベルリン・ダダイストのラウル・ハウスマンに影響を受け、ダダ運動の印画紙上に直接物の影像を焼き付ける「フォトグラム」とアジプロ的な「フォトモンタージュ」の技法(これらはモホリ=ナギの構成主義的技法によってバウハウスでまた、別個の展開を遂げることになる)を用いた独自の記録写真、風景写真を作成した。その期間はほぼ一九三二―一九三八年に限られ、一九三五年にはハウスマンと共に地中海スペイン領イビザ島を訪れ建築物と風景の写真を撮影し、その後ルーマニア、ユーゴスラヴィア等を訪れ撮影を行なっている。作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、ドイツ国内の美術館、ヨーロッパ、アメリカの個人所蔵家の協力によって約一三〇点が展示され、ブレーメン美術館のクリスティーネ・ホプフェンガルト博士等の解説によって一〇〇点の図版を収録した一二八ページの展示会カタログがCartz社から刊行された。      
また、バウハウス・デッサウ財団では、昨年、財団コレクション部門代表責任者マルグレート・ケントゲンス=クレイグ博士編の『The Dessau Bauhaus Building 1926-1999』をBirkhäuser社から刊行しており、財団学術評議委員のグラーツ工科大学美術史教授カリン・ヴィルヘルム博士が「seeing/walking/ thinking, the Bauhaus building design」を寄稿する他、ハイデルベルク大学政治学教授クラウス・フォン・バイム博士、建築家のベルトルト・ブルクハルト教授、美術批評家のティルマン・ブーデンズィーク教授、財団コレクション部門等のメンバーが執筆し、かつて「新しい来たるべき時代の象徴」(グロピウス)と呼ばれたバウハウス校舎等のカラー図版三〇点、二色図版三〇点、モノクロ図版二四〇点が掲載され、二〇八ページの英語版とドイツ語版が発行されている。尚、コレクションに関しては既に『Stiftung Bauhaus Dessau die Sammlung(バウハウス・デッサウ財団コレクション)』(一六〇ページ、二一一点の図録を収録)が、財団コレクション部門ルッツ・シェーベ/ヴォルフガング・テーナー両学芸員編によって、一九九五年Gerd Hatje社から刊行されている。又、バウハウスの代表的テキスタイリスト、グンタ・シャロン=シュテルツル(一八九七―一九八三)の生誕百年を記念して一九九七年八月三〇日―一九九八年一月四日まで財団で開催された大規模かつ国際的なシュテルツル展示会に際し、『Gunta Stölzl, Meisterin am Bauhaus Dessau-Textilien, Textilentwürfe und freie Arbeiten 1915-1983』(ベルリンのドイツ歴史博物館館長クリストフ・シュテルツル博士、バウハウス織物史のイングリット・ラーデヴァルト博士、バウハウス大学ワイマール・デザイン史科のアンヤ・バオムホフ博士等が執筆。二六三 ページ、二六九点の図録を収録)が、バウハウス・デッサウ財団編によって同じくGerd Hatje社から刊行されている。

1──マルト・シュタム

1──マルト・シュタム

2──ヨーゼフ・アルバース

2──ヨーゼフ・アルバース

3──グンタ・シャロン=シュテルツル

3──グンタ・シャロン=シュテルツル

>大口晃央(オオクチ・アキオ)

1947年生
バウハウス・デッサウ財団日本事務所代表。

>『10+1』 No.17

特集=バウハウス 1919-1999

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>ジークフリート・ギーディオン

1888年 - 1968年
美術史。チューリッヒ大学教授。

>空間・時間・建築

1955年3月1日

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>インターナショナル・スタイル

International Style=国際様式。1920年代、国際的に展開され...

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>ヴィニー・マース

1959年 -
建築家。MVRDV共同主宰。

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>ヴァルター・プリッゲ

バウハウス・デッサウ財団アカデミー部門代表責任者。都市社会学博士。

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...