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カウンターカルチャーと建築──アーキグラムの一九六〇─七〇年代 | ピーター・クック+デニス・クロンプトン+デヴィッド・グリーン+マイケル・ウェブ+磯崎新+五十嵐太郎
Counterculture and Architecture: Archigram's 1960-70s | Peter Cook, Dennis Crompton, David Green, Mike Webb, Isozaki Arata, Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間, 2005年06月発行) pp.174-184

アーキグラムとカウンターカルチャー

五十嵐──「アーキグラムの実験建築一九六一─一九七四」展は、展示の構成を巡回しながら少しずつ変えていくもので、アーキグラムの手法や雰囲気がすごくよく出ていると思います。これは、このシンポジウムに先だって行なわれたアーキグラムのメンバーによるレクチャーと似ているという気がしました。つまり、あらかじめ綿密な打ち合わせを行なってから始めるというより、現場で組み立てていくというレクチャーの手法自体が、完成がない、つねに進行中であるというアーキグラムの作品の特徴と共通している。また現在「アーキラボ」という展覧会が森美術館で開かれています。こちらも実験的な建築をテーマとしており、アーキグラムの作品もいくつか紹介されています。展覧会の構成は、森美術館のほうが整然と見せていて、まさにフランスのコレクションから来た展覧会であるのに対して、水戸芸術館のアーキグラムの展覧会は賑やかでハッピーなライヴ感覚です。
アーキグラムがやってきたことの重要なポイントのひとつに建築概念の拡張ということがあったと思います。古代から、建築は建築を模倣する、という自己模倣をずっと続けてきて、一九世紀くらいに新しい技術や構造、素材といった建築の外部が出現し、それを参照しながらモダニズムが稼働しました。
そして二〇世紀半ばを過ぎたあたりでアーキグラムの時代がやってきます。一九六〇年代の宇宙開発は大きなインパクトをもち、アーキグラムの提案やアイディアには、当時の最新のテクノロジーをどう建築に取り込むかということがあったと思います。冷戦構造のなかで二つの巨大な国家が衝突し、まさに両者が技術でしのぎを削り合うようなかたちで宇宙開発は展開したのですが、そのはざまにアーキグラムが登場した。テクノロジーは権力と結びついていましたが、アーキグラムはそれを転用して、技術のイメージを反文化、すなわちカウンターカルチャーのエネルギーに結びつけ流動させていった。
磯崎新さんは日本でアーキグラムについて本格的に紹介する論考を最初に書かれ、カウンターカルチャー的な特徴も指摘された。日本でおこったメタボリズムの動きとアーキグラムは、両者とも同じ六〇年代の空気を吸い、表現上の類似性も見受けられるけれど、そこには決定的な違いがある、と。つまり、メタボリズムはマニフェストを出すけれど、カウンターカルチャーではない。一方アーキグラムは明快なマニフェストをつくるグループではないが、カウンターカルチャーの文脈に接続される存在だと述べられています。実際、カウンターカルチャーの波と繋がったことによって、アーキグラムは建築の枠を超えて、デザイナーや美術家、多くの人に知られた存在になったと思います。それでまず最初にアーキグラムとカウンターカルチャーについてご説明いただいて、次にアーキグラムに出会った辺りの話をしていただけたらと思います。

磯崎──僕は今度の展覧会のカタログでピーター・クックにインタヴューをしました。アーキグラムは一九六一年に始まって、約一五年間がピークの活動期間でした。いまのわれわれから見ればアーキグラムは歴史ですから、その歴史のなかでのポジション、位置づけのなかで二つのポイントを是非チェックして考えていただけたらと思います。ひとつは彼らの活動が始まる前のことで、先ほどのレクチャーでピーターが自分の先生はピーター・スミッソンだったと言いましたが、五四、五五年頃インディペンデント・グループというのがロンドンにありました。いろいろな意味で、これが世界のポップ・アートの発祥だと美術のほうで言われています。美術、演劇、文学も全部そうなんですが、インディペンデント・グループから始まったロンドンにおける動きというのがありました。建築もそうなんですが、その後、一〇歳くらい上の彼らを先生にして現われてきたのがアーキグラムのグループでした。このことを頭に入れておくと彼らがロンドンでやろうとしたことが理解できるだろうと思います。
ここにいる四人に亡くなられたウォーレン・チョークとロン・ヘロンの六人がアーキグラムのメンバーで、その後、さまざまな人が協働したり、一緒に動いたりしましたが、そのなかのひとりにセドリック・プライスがいました。インタヴューで僕はピーターにセドリック・プライスとはどういう関係になっていたのかと聞きました。展覧会にはセドリックのプランとアーキグラムと重なっているのが出ています。セドリック・プライスはさまざまなかたちでアーキグラムとパラレルに仕事をしていたのですが、二年前に亡くなりました。アーキグラムは彼と私的な交流、アイディアの交流はさまざまにあったと思います。六〇年にセドリック・プライスはジョアン・リトルウッド(Joan Littlewood)という演劇界で活動していた人と組んで「ファン・パレス」というプロジェクトをやりました。これは移動演劇を中心としたサーカスを組み立てていくというプロジェクトですが、そのきっかけになるアイディアはアーキグラムとの関わりのなかから生まれてきたのではないだろうか、と思っています。そうするとポップ・アートのインディペンデント・グループと移動演劇のグループ、この二つのアイディアが前にあって新しいタイプの運動になりアーキグラムが生まれてきた。セドリック・プライスと一緒にやったプロジェクトはノルウェーのソリア・モリア・ステューデント・ビルディングというコンペティションのプロジェクトだったと言っていました。つまりひとつはポップ・アート、ひとつは新しい都市の生活のなかでの動きという二つが当時あり、これがアーキグラムのスタートにあったと思います。これは、ある意味では別々の領域でのカウンターカルチャーで、建築は彼らが担っていましたが、その他の領域にも同じような動きがさまざまにあったということです。それがおそらく五〇─六〇年代にかけてロンドンで、まったく違うものを文化的に生み出してきたひとつの現象、歴史的にも重要なポイントになっていると思います。
僕は六〇年代後半からそういう人たちと付き合い始め、アーキグラムを日本語で紹介したのはおそらく最初だと思うし、アーキグラムの本が出るたびに遠く離れた東京から私なりの反応を書いたり、と、こういう関係を続けてきております。
そこでカウンターカルチャーという問題ですが、この水戸芸術館のホールを見ていただきますと、一五年も前なんですが、この表面をはぐと彼らがあそこで書いていたようなドローイングが裏にあるんですね。エンジニアとして図面を作れば同じなんだけど、表面はこういうふうにカバーしている。彼らもカバーするんですが、その仕方が違う。先ほどピーターもデニスもコンクリートのカーテンの話ばかりしたけれど、天井の話を誰もしなかった。この天井は彼らは知らない、あるいは関心があったにしても絶対にやらない。これはジョン・ソーンなんです。ジョン・ソーンの浅いヴォールトというのを僕はロンドンで見つけて使った。天井のヴォールトはジョン・ソーンから来ました。ということは彼らは絶対にロンドンではやらなかった。これは僕が遠くから行ったからわかったんです。彼らがもし日本に来ていたら桂離宮のような低い天井を「レント・ア・ウォール」に使ったかもしれない。「レント・ア・ウォール」は完全に日本の昔の住宅の作り方と一緒ですからね(笑)。それから「プラグイン・シティ」は日本のお寺の骨組みの斗供ときょうと同じです。僕は彼らの気づかないジョン・ソーンを密かにもらってきた。まあこういう関係があるんですが、彼らと人間的に最初に付き合ったのは、「ユートピア・プロジェクト」と当時言われていたもので、キャラクター・タイプは全然違う。僕から見ると彼らは本当に真面目に近代建築が持っていた初心、常に前のものを壊して新しいものを作る、しかも新しいテクノロジー、あるいは社会生活というものを狙いながらやっていく。この人たちは本当にピュア・モダニストなんですね。ピュア・モダニストはすなわちカウンターカルチャーのクリエイターなんです。このことをよく考えておいてほしいし、これが彼らがとりわけ重視されていくポイントだと思います。それに対して、ウィーン、フィレンツェにも僕らと同じジェネレーションの連中がいますが、こういう連中には、僕らも含めてもうちょっと歴史的重圧があった。歴史的重圧という点ではロンドンもそうなんですが、ロンドンには最初に文化的退廃、別の意味で言うとエキセントリシティのほうに行くような、そういう社会が組み立てられていたせいだろうと思います。腰砕けになるのが日本の基本的なパターンだし、ウィーンはリジッドに固まって動かない。話しだすときりがないのですが、まずはそういう関係があるということをカウンターカルチャーとの関係で申し上げました。

五十嵐太郎氏

五十嵐太郎氏

磯崎新氏

磯崎新氏

モダニズムとの距離

五十嵐──いまおっしゃったピュア・モダンに関しては、例えばル・コルビュジエ、あるいはバウハウスは工場、サイロ、自動車、飛行機などの写真を、新しい創作のためのインスピレーションの源にし、スミッソン夫妻は「われわれは広告を集める」と言いました。これはヴェンチューリに繋がっていく流れを作ったと思うのですが、アーキグラムもケープケネディのロケット組み立て工場や海底基地、その時代の最先端の技術の写真を集めていて、これは正しくモダニズムの態度を継承しているなと、共感するところがあります。インディペンデント・グループ、スミッソン、セドリック・プライスとの関わりについてピーター・クックさん、どうですか。

クック──はやくコメントしたくてうずうずしていました。ピュア・モダニズムという話が二度ばかり出てきましたが、それはどうなのでしょう。本当のモダニストはピュア・モダニストではないんです。ピュアリストというのは、また別ものだと思います。いずれにしても、私たちはピュア・モダニストじゃない。一番退屈なモダニストが、ピュア・モダニスト。私自身はモダニストと呼ばれても別に腹は立たないし、それはむしろ褒め言葉でしょう。なぜなら、モダニズムにはまだまだ余地があり、またモダニズムは一種の分水嶺として広範に可能性を広げたのですから。
二つ目には解体ということについてです。単純な意味では、この世代は前の世代の何々を解体した、こういった政治的な姿勢が、他者のこういったものを解体したと言うことができる。でももっとおもしろいのは、すべてをコラージュするような、複数の時系列に沿ったかたちでの解体です。先週やったものを私自身の手で解体するかもしれない。デニスと私が一緒になって、デヴィッド・グリーンが一カ月前にやったことを解体するかもしれない。デヴィッドが三〇年前にやったことを今日自ら否定するかもしれない。そういうように解体し、再構築することのほうが、「そんなくだらないものには反対だ!」という意味での解体より、よっぽどおもしろいと思います。
次にロンドンのノリについて。イギリス人と日本人との類似点はともに雨の多い小さな島国出身だということ。そして大きな文化から始まり、哲学的にも、言語的にも不健全に関係を持ちながら意識していると思います。ただ、どちらの国も一見非常に折り目正しい、王室や皇室だとか古いくだらないものを抱えている国であると同時に、実はとんでもなくおバカなんです。皆さんも私もよく知っての通り、イギリス人でも日本人でも飲んだくれるし、おもちゃやガラクタが好き、噂話も大好きです。ドイツでも中国でもおそらくそういうことは「されません」。もしくはできない。
そしてほかのところで言うのはいやなのですが、来日以来毎日九三回くらい聞いているような気がする「アーキラボ」について。私もそのコレクションに選ばれて、模型などが買い上げられていますが、忘れてはいけないのはフランス人はとにかく分類するのが大好きで、そういう姿勢で物事に取り組む。アーキグラムの展覧会は、ポンピドゥー・センターでのものが一番堅苦しかった。美術史的に見て折り目正しい、正確なものになっていました。冗談じゃない! 筋違いというものです。そうしたものがフランス風のオーセンティックな、ラディカルな建築に対する視点なのですが、明日は大変な興味を持って「アーキラボ」展を拝見し、あの時代の精神を美しく再現した水戸のものと、きれいな標本のような展覧会とを比べてみたいと思います。
もうひとつ言いたいのは、人には自分自身に対する内面的なカウンターカルチャーがあると思います。磯崎さんと私と亡くなったロン・ヘロンとは、長年にわたってさまざまな話を夜遅くまでしたものです。そうしたなかで自分と、あちこちに住んでいる友だち、長谷川逸子さんとか、そういった遠くに離れて暮らしている友人の間に、国際的なカウンターカルチャーがあるのです。同時に同じことをするわけではないけど、例えばこういう風にしたとき相手が怒るよね、ということに気づいてきます。「あいつら」が何者かをわざわざ言わなくてもわかり合う仲間同士。すなわち、何でも標本箱に入れてしまってきれいに整理整頓したい人たちのことを「あいつら」と呼んでいたわけです。あなた方はあっちで、こっちではないということだったら、わざと嫌がらせのためにこういうことをしてやろうという企みを昔はしていました。私には、デザインをしたことがない文化的なコメンテーターほど腹が立つものはありません。というのは、モノをつくるときには整理整頓がつかないようなものが山のようにあるということに、なかなか皆さん気づかないからです。

磯崎──ピーターは英語のネイティヴで、僕は英語は全然できないに等しいから、ピュア・モダニストに対して、ピュアじゃない、むしろリアルという英語の表現は正しいというのはその通りだと思うけど、同じような意味をアンビギュアスに言うのは日本語の特徴ですから、日本人の理解だと思って下さい。

五十嵐──モダニズムがモダニズムを模倣して退屈な状況になったということに対して、アーキグラムが出たということは十分に理解しているつもりです。モダニズムの形態ではなく、その態度は継承しているのではないか。ル・コルビュジエが五〇年遅く生まれていれば、アーキグラムと同じものに興味をもったのではないかと思います。ともあれ、イギリスの保守性という背景が強くあって、その反動としてアーキグラムはラディカルなエネルギーを持ちえた気がします。日本でも、六〇年代は未来的な建築に対して興味は持っていたけれど、むしろ社会がそれを求めていたところがあります。丹下健三の「東京計画一九六〇」も、メタボリズムもそうです。オリンピックで東京が改造され、大阪万博で実験的な建築が求められた、そういう時代の状況の違いがあったと思います。ところで、当時の日本にピーター・クックもデニス・クロンプトンもいらしてますよね。

磯崎──デニスは大阪万博の時に来ましたよね。

グリーン──その前に私、デヴィッド・グリーンからいいですか。カウンターカルチャーとは、ここでは正確にはどういう意味で言っているんでしょう(笑)。私は、建築はカウンターカルチャーではありえないと思っています。コンクリートのカーテンを作るのにはあまりにお金がかかりますし、それからいわゆる支配的なエリートには抵抗できないと思います。そもそも文化って何ですか。別にどうしても答えてもらわなければいけないわけでもないのですが。デニスが何か言いかけようとしていたのを中断してしまいました。デニスが前に建築とは何かということに関して示唆に富んだことを言っていたので。デニス、文化とは何でしょう。

クロンプトン──デヴィッドの質問の通りで、私もカウンターカルチャーという用語は、何のことだろうと思いました。でも別に口を挟むまでのことはないだろうとも思いました。ただ、われわれの視点からすれば、教育と知識は非常に奇妙なものです。われわれは何かを解体しよう、前のものを否定しようと考えていたわけではなく、もう一回検証しようとしていたわけです。例えば、オランダの集合住宅は二〇世紀初頭どうだったのか、その社会的な意義を考えてみるのはすごくおもしろい。しかしそれは六〇年代には当て嵌まらない。ある文化的なコンテクストにおいて公共的な住宅に関して期待されたものがあり、そこでの基本的な概念、あるいは原則は何なのかということを考え、それを再導入、再検討しようとしたわけです。ロッテルダムなどには古くて素晴らしい建物がありますが、二度と同じようには作らないのは、前の時代の建築文化を解体するとか拒否するとかいうことではなくて、それをもう一回検討するということだと思うんです。以前に比べてもっといろいろなことを知っているわけですから。何回も言っていますが、例えばデヴィッドが「ロッグ・プラグ」をやりましたが、当時のわれわれには携帯電話みたいなものは思いもつかなかった。そうしたテクノロジーは当時にはありませんでした。しかし、技術的な進展があったからといって、かつてのプロジェクトが解体されるわけではなくて、概念がどう変わるかなのです。社会的な活動は、以前はその時の文脈のなかにあって、それがいまは別のかたちで提示されるわけです。例えば、電子的な通信によって、みんなが集まる場所を作るということも考えられる。ある装置によって、それぞれの空間を結びつけ、コミューン的な空間を創設することができます。私個人としては、カウンターカルチャーがどういう意味で使われているかを知る必要はないし、まったく無視しても構わない。文化とは一種の連続体であり、革命的なものだとは捉えていません。私は初期のモダニストをたいへん尊敬していますが、彼らがやったことを私ができるはずもありません。コンテクスト自体がまったく違うのですから。

五十嵐──カウンターカルチャーについてですが、既成の価値観や社会システムに対する異議申し立てといったような意味で使っています。先ほどデヴィッド・グリーンからも指摘があったように、建築はそれとは相容れないところがあるのもまさにその通りで、建築は体制側にずっと奉仕してきたという歴史もあるし、ひとつのプロジェクトを動かそうとすれば、お金を出すクライアントがいて、社会的に承認されるというプロセスが必要ですから、建築とカウンターカルチャーというのは本来結びつきにくい。でも、宮殿や神殿、あるいは硬直化したモダニズムにNO!をつきつけたのが、アーキグラムだったのではないでしょうか。アーキグラムに対して建築の世界のビートルズという比喩が使われますが、六〇年代にロック・ミュージックが登場したときにはカウンターカルチャー的な意味合いがあった。「インスタント・シティ」も巨大なコンサート会場が移動しているのと近いものを感じます。ただ、ロックも一方では巨大化すればするほど、資本主義や商業のなかにのめり込んでいき、本来カウンターカルチャー的な意味合いをもっていたものが、意味が変わっていくということがあると思います。ただ幸か不幸か、実現しなかったからこそカウンターカルチャーとして強度を持ち続けたという気がしています。日本では、類似した建築のアイディアを万博会場で実現させましたが、そうした国家のシステムに取り込まれ、イメージが大衆に消費されたときに、カウンターカルチャーとしての強度が無くなっていくのかなと考えています。

磯崎──ちょっとだけ補足させて下さい。僕はアーキグラム、ホライン、ヴェンチューリ、セドリックも入れてシリーズでまとめて『建築の解体』というタイトルの本にしました。「解体」というのは、六〇年代当時、「大学解体」だとかいうのが普通の言い方ですから、それを使ったんです。それを英語にするときにDismantling of Architectureとしました。それが果たして正確な訳であったのか、と思うと、悪い影響も与えたんじゃないかという感じがあります。建築の解体業者のようにある形をバラバラにしていくことを「解体」と言うものですから、文字通りの解体と取られてしまって、何でもかんでもきちんとした形の建築をバラバラにすれば「建築の解体」だと単純に受け取られた人がたくさんいて、それで僕はあとで迷惑をしているという状態なんですね。そのときに「解体」、dismantlingと言ったのは、建築というコンセプトを解体しようとしたんです。ヨーロッパの歴史にある、カルチャーのエッセンスに潜んでいたその概念です。その概念にわれわれ建築家は一九世紀以来縛られていて、近代建築は本来そこから抜け出そうとしたのにみんな建築のコンセプトを保持している。これを崩そうとしたのがわれわれのジェネレーションの仕事だったと言うために「解体」という言葉を使ったつもりなんです。

ウェブ──いま話に出てきているのは、どういう背景、どういう設定でもって建築が実現されるのかですね。建築を作る前に、自分が何をしているかを理解しているかどうかということだと思います。しかし会場にいらっしゃる方々のなかで、コンピュータの前に座って何かを生み出す方は、そういうふうに感じるのでしょうか。私の経験では考える前に、とにかく座って何か描いてみるわけです。例えば、今回の展覧会にも出ている家具のような建物が発表された際、ニコラス・ペヴスナーという著名な建築史家がそれを見て、「いままで見たなかで最悪のものじゃないか、何か蝶がいっぱいくっついているみたいだ」ということを言ったわけです。そういうものを作って、それを元に新しい冗談のような動き──これはちょっと日本語にしにくいでしょうが──、蝶の蠕動運動とひとつの運動というのを絡め、こういった建築的な運動を生み出そうとしていると言ったんです。だけれど、みんな図面を引くのがを好きだから、座って図面を引いて、それで何をやっているのかということは問いかけませんでした。自然に出てくるようにしてたんです。ただ皆さんはどうでしょう。こうした問いかけというのは、話すことを職業にしている人たちへの質問になるかと思います。

クック──私も話をすることを仕事にしているところが少しありますが、必ずしも自分が話していることを描くわけではありません。後からまったく違ったかたちでそれを説明するとか、セミナーで使えるようなものにするということもあるわけです。ドローイングを描いているときは、描くことに専念しようとします。これは合成するプロセス、参照するプロセス、文化的なコンテクストを考えるんです。要するにそこにあるものは何であり、ある側面は後から自分なりほかの人が発見することもあります。まあほかの人が発見した場合は大体間違っていて、自分が発見したときも違っていることが多い。要するに合成的なプロセスのシンプルなところに戻るわけで、どうしてこれが早く動く、それからもっとものすごく変な形で、何で急にこんなものを作ったのか、あるいは急に左に行ってうごめいて、凍ったキノコみたいなものが入っているのか自分でもわからない。でも「キノコだ!  これは何かの象徴だ!」とか、左に行ったのは何かに気を奪われていて手首を動かしたからかもしれません。まあ、こうしたことがいま話されていることの本質になるのではと思います。

グリーン──どうですかね(笑)。その通りとも言えませんね。自分が何をやるのかということを語る場合に、それが自然発生的、自動的なプロセスなのかと言えば、必ずしもそうではない。すでに膨大な知識を持っているのですから、自分の描くものが非常にナイーヴなところから出てくるとは言えないと思います。
私はフランス人が大好きなので擁護しなければならないんですが、フランスというのは、例えば全国どこでもきちんとお昼が食べられるようにその間は駐車禁止を解除しています。こうしたことは素晴らしい都市計画、新しい建築の方法ではないかと思っています。非常にソフトな戦略家がいて、大きな環境的な影響を生み出すことができるんじゃないでしょうか。例えば無料の電話とか。文化の定義で私が気に入っているのは、マーシャル・マクルーハンの「文化というのは多くの人が、多くの時間に行なっていることだ」というものです。ですから、これに異議を唱えるということ自体奇妙だと思います。アーキグラムというのは何なのかと言うと、ほとんどの人が日常的にやっていることの延長です。例えばピーターが、自分のグラーツのプロジェクトで人々が日常生活を営んでいる様を楽しんでいるということは、素晴らしいと思う。多くの人はテレビを見たり、車を運転してあちこちに行っている。ほとんどの時間はそうしたことをしているのであって、それに対して異議を申し立てるのは変だと思います。

ピーター・クック氏

ピーター・クック氏

憧れの地としてのアメリカ

磯崎──ひとつだけ意見を聞きたいことがあります。六〇年代はロンドンから始まったんですが、その六〇年代後半からほとんどの人はアメリカの大学へ行って教え始めた。僕もその頃アメリカで一緒になったりしたわけですが、極端に言うとカルチャーのないところへ行って教えるわけです。カルチャーのありすぎるロンドンでそれと闘いながら作ったアイディアを持って、カルチャーのないアメリカに行くのですからどうだったんだろうか、と思います。そういう違う文化、文化のないところに行って教えた経験がその後のそれぞれの人にどう影響しているのかを聞きたいと思います。

クロンプトン──アメリカには文化がないというのは間違いだと思います。アメリカには異なった文化があるのです。そして当時はアメリカが魅力的だったわけです。東海岸を代表するニューヨーク、西海岸を代表とするロサンゼルス、これらの街はすごくおもしろかった。先ほどインディペンデント・グループの話がありましたが、ご存知のように、五〇年代の後半にアメリカの漫画雑誌からの影響が、リチャード・ハミルトンらによって持ち込まれました。そしてアメリカの文化が入ってきたことから、これまでとは違ったあり方に対して、私たちの欲望がかき立てられました。ロンドンで自分たちがそれまで馴染んでいたものとまったく違うものを見ることができました。彼らの最初の展覧会「リビング・シティ」を見れば、アメリカ文化の一部である広告、シンボリズムという、イギリスの文化には本来的になかった手法を非常に多く活用していることがわかります。私は、ウォーレン・チョークのようにアーサー・ミラーやトム・ウルフといった作家が大好きというわけではないのですが、そういうものに何を見出すのか。彼らが自分たちの解釈を広げることができるということを、すごいと思ったんです。
個人的には、ボーイングに文句を言いたい。どうやってみんなロサンゼルスに行くのか。ピーターはクイーン・メリー号で行きました。ロサンゼルスにではないですけどね。今日、いくぶん批判的にグローバリゼーションと呼ばれているものは、六〇年代初めに出てきたと思います。そして交通と通信の両面におけるコミュニケーションが急激に変化、拡大し、すぐにさまざまなものの存在に気づき始めました。かつて一八、一九世紀に少し似通った例がありました。善意からながらもまったく勘違いした英国貴族たちが、ギリシアやさまざまなところから大理石の彫刻を運び出して、それを文化の代表として展示し、賞賛したわけです。

クック──最初にロスに行って以来、アメリカにはその後二五回行っています。大好きなんです。なぜ好きかと言ったら、ボーンマスをもっと素敵にしたような感じだと思うからです。子供のとき映画で見ていた夢、そういったものが全部凝縮されたような気がします。アメリカの映画を見ているときのあの雰囲気。磯崎さんも一緒でしたよね。一緒に肩を並べて授業をやり、二日ごとに、小さなフォルクスワーゲンにギューギュー詰めになって、建築家らしく三カ月の間にできるだけたくさんの建物を見て廻ったんです。まるで日本やヨーロッパの建築家のように建物巡りをしていました。
もうひとつには、さまざまな点でアーキグラムが持っていた理念に非常に合っていたんです。アメリカではなく、つかの間のはかない存在の都市として。ハリウッド・ヒルズにある家などには、未だに学生を案内して行きます。アメリカの中西部というのは、率直に言って最低だと思います。でもロスは別格です。本当に本当に素晴らしいところで、まるで空母みたいなものです。ちょうどロンドンが、退屈きわまりないイングランドの海岸に打ち上げられている空母であるのと同じように。ある日のことでしたが、UCLAかどこかの食堂のテーブルでいきなり気づきました。「アメリカ人は誰もいないじゃないか!」シーザー・ペリはまだアルゼンチン人らしさを残していました。フランク・ディームスソンはルーマニア人。レイナー・バンハムはイギリス人。磯崎、私、そしてロンがいて、アメリカ人がひとりもいないからおもしろい話ができたと思ったんです。もうひとつにはロスでは、おもしろい建築はすべてオーストリア人によるものです。そして音楽的におもしろいものはロシア人、ストラヴィンスキーとかシェーンベルクがやっていて、ケージは、まあアメリカの生まれかどうかわかりませんけど、ちょっとばかりおもしろいものに気づき始めたようです。そういった場所があるほうがいくつかのことが可能になってきます。そしてそこに出てくる反応というのは、自分自身の持っている偏見、思い込みに基づいて見るものを選んでいきます。暴行だとか、人殺しだとかはどこにだって、水戸にだって探せばあるのでしょうが、それ以外に素晴らしいものだってもちろんたくさんあります。確かロン・ヘロンだったと思いますが、「どこへ行くにも自分と一緒に」と言ったんです。私にとっては東京もそういうものすごくおもしろくて刺激的なところで、刺激がないところには人は行かないという傾向にあると思います。アメリカと関係あるかどうかわかりませんが、ハミルトンは私よりはるかに政治的な意識を持っている人です。ヨーロッパと日本の人たちのなかで、クレイジーというかオブザーヴァーな人たちが、自分たちが欲しいと思っているものを特定のところから奪い取って、ほかのものは全部退屈だと投げ出すということが想像できると思います。私の場合ニューヨークはそりが合わず、どうも意識的に退屈なところだと思っていますけど、ほとんどの人たちはそういう反応はしません。確か一昨日でしたが、デヴィッドとマイケルがバージニアのブラックスバーグはいいじゃないか、子供を育てるには良いところだと言っていました。でも私にはそこはともかく耐えられなくて、この信じられない場所から一瞬でも早く逃げ出したかった。ですから、どの街を好きかということは、まったくそれぞれの性格によると言えます。

グリーン──六〇年代には、行くべきところはアメリカでした。美しいサンダーバードを運転して、三四ものラジオの局を切り替えて、口笛を吹きながらハイウェイをぶっ飛ばし、ときにはハンバーガーをかじる。これ以上美しくって、詩的なところはなかった。アメリカの風景というのは圧倒されるぐらい美しいものです。そしてどのルートだったか忘れましたが、ケープ・ケネディまで運転し、宇宙センターの見学をしました。もう、本当に詩そのものだったんです。むしろ気になるのは、いま時の若い建築家はどこに行くんでしょう。まずは仲間が必要だけど、それからどこに行くべきなのか知らなくてはいけない。私はちょっと最近のことに疎くなってしまっていますが、若い建築家の憧れの地ってどこですか。私たちの世代にとっては、目指すところはともかくアメリカだったんです。どうしてアメリカに行きたがらない人がいるんでしょう。

ウェブ──私にとってアメリカというのは、レイナー・バンハムの眼差しを通じて見たものです。彼は見事な記事を書いていました。そのひとつが「ホーム・イズ・ノット・ザ・ハウス」というもので、アメリカの建物は非常に壁が薄くて、そこに大変なエネルギーを注いでいる。そして、私たちがすばらしいと思っていた、インフレータブル、膨らますことができるもの。バンハムによるもうひとつ有名な記事が「グレート・ギズモ(素晴らしい仕掛け)」です。アメリカの実態は本当に異質なものだったけれども、彼はそれをヨーロッパ人にとってわかりやすいかたちに関連づけてくれました。ドライヴ・インに対してはもう本当にびっくりしました。建築的に見れば、誰もいない時には建物は存在せず、人が戻ってきた時に建物がまた息を吹き返し、存在を出現させるものでした。そういったアメリカの読み解き方というのは、アメリカの実態とはまったく違っていたんですけども、それがおもしろかったと思います。

グリーン──私にはアメリカにあった実際の物がすばらしかった。アッシュフェルトは二〇世紀における優れた建材のひとつだと思います。ジョン・ソーンが生きていたら、おそらくアッシュフェルトを使って床を張り詰めていたと思います。サー・ジョン・ソーンは確かフィレンツェに行っていますよね。ですから、彼にとってはフィレンツェで、多くのイギリスの建築家にとってはアメリカが憧れの地だったのです。いまみんなはどこへ行くのでしょう。マルセル・デュシャンには、アメリカが十分によかったわけです。ならば誰にもアメリカ行きには文句はつけられないと思います。

デヴィッド・グリーン氏

デヴィッド・グリーン氏

日本・宝塚・ラブホテル・歌舞伎

磯崎──もうひとつ、文化の問題です。七〇年代初めだと思いますが、初めてピーターが日本に来たとき、二つの場所にぜひ行ってこいと言いました。ひとつは宝塚。彼は音楽が好きなんで、こっそり宝塚に連れて行ったことがありました。それからもうひとつは、ちょうどラブホテルが日本で初めて生まれた頃で、回転ベッドなんていう物があるらしいから、ぜひ見に行かないといけないよと言って、彼はひとりで行ったんです。そしたら入れてくれない。それでまたダミーを連れて研究に入った。日本の文化をどうやって紹介しようか、あるいはアメリカの一般的なカルチャーというのはわかっているから、これを日本の角度で見たらどうなるかということで二つのところへ連れていった覚えがあります。その時彼はもう少し真面目な物を探しているんだよというような顔をしていたんだけど、本当はどうだったのか聞いてみたいと思います。

五十嵐──先にちょっとだけ間に入ってよろしいですか。いままでの議論を整理します。先ほどのカウンターカルチャーという言い方は、こちらが考えていたよりも強い意味があったことがよくわかりました。アーキグラムのプロジェクトに政治的意図があると言っているわけでもないし、解体するとか破壊するとかそういう暴力的な意味で言っているわけでもない。つまり日本人が使うカウンターカルチャーとはちょっとニュアンスが違うのかもしれない。ただ、建築の破壊というよりも拡張していることは間違っていないと思うんです。先ほどデヴィッド・グリーンがおっしゃったように、テレビをみんなが見るようになった。そういう日常に起きていること、あるいはアメリカですでに起きていること、そういったことも含めて建築をもっと広く見ようじゃないか、と。そういう意味では、カウンターカルチャーは解体というよりも拡張です。ただ、それはイギリスの文脈では、アーキグラムがつまらないと思っているものを作っている人に対しての皮肉やからかいだったと思うんですね。
先ほど出てきた議論で、どこに行くかというのは結構おもしろいテーマだと思います。磯崎さんが以前、ピーター・クックを宝塚とラブホテルに連れて行った。そういう意味で若い建築家はどこに行くの、と言った時に、なかなかそういう圧倒的な風景にはもう出会いにくくなっている。ひょっとして、アジア、特に中国で起こっている風景の変化は、その類なのかもしれません。あるいは去年、磯崎さんはヴェネツィア・ビエンナーレで森川嘉一郎君をキュレーターに推薦して「おたく:人格=空間=都市」という展示が行なわれましたが、あれもこれまで建築だと思われていなかった驚くべき秋葉原の風景にまなざしを向けている。もしご覧になっているようでしたら、それへのコメントも含めて磯崎新さんの質問をピーター・クックに戻します。

クック──磯崎さんはすばらしく頭がいいんです。こっちの方向に話題が行くのかなと思っているうちに、だんだんと追い詰めて、最後には私に歌舞伎の真似をさせるように追いこまれるぞって嫌な予感がしていました。われわれは宝塚のチケットをもらったけれども、それが何なのか前もってまったく教えられていなくて、すごく真面目な演劇だと思って見ていたら、二〇分くらいしてからはっと気づいたんです。これはある意味で私にとっては、非常にわかりきったことについてです。文化とは本当はこんなもんだと教えられたのですが、あれこそブラックプールにある、純然たる社交ダンスのボールルームのような雰囲気のものです。それが神戸の奥地にある。
ラブホテル! めちゃくちゃ笑えたのは、初めて日本に来たときに湯島に行きました。「あのおかしな建物は何?」って聞きました。「どのおかしな建物?」、「あれ?  ああ、おかしな建物ね」。日本人ははっきりと答えないという、毎度のあの雰囲気が漂っていた。つまりはぐらかされたんです。しつこく繰り返し聞いたら「特別なホテル」と言うだけで、それがどういうものかははっきり言ってくれないんです。「特別ってどういうこと。キャベツか何かなの?」って聞いたら、そうしたらようやく誰かが、ラブホテルだと教えてくれました。それで、いいじゃないかと思って、いろんな人に「ラブホテル行ったことある?」って聞いてまわったけど、実際に行ったことあることを認めた人は、誰もいなかった。会場の皆さま、ラブホテルにいらしたことがある方、何人いますか。五〇パーセント以上だと思いますが、もしも五〇パーセントを下回っていたらちょっとがっかりです。でも絶対に誰も行ったことを認めないのです。
こうしたことは文化についていろいろ教えてくれます。歌舞伎を見に行った際に、磯崎さんに「おもしろいね。でも、あの黒い服を着ている人たちは何?」と聞いたんです。そしたら、磯崎さんは「そんなもんいない」。「いやいや、黒い服着ている人たちを見たよ。五人くらいいて、ちょこまかやってきて、みんな黒を着て、こうパカパカってやって、それで消えてくじゃない」って言ったら、「いないよ」って。「だっていたじゃん! 五人もいたよ!」って言うと、そしたら「コンセプト的には存在しない」と。京都で一〇〇年前の松の木を支えているあのつっかえ棒と同じように、イギリス人は「いるじゃない」って言うんですけども、コンセプト的には存在していないことになっている黒子っていう存在を教えてもらいました。どんな文化にも、そういった口にするのを普通ははばかるような、そうした領域があるんです。アメリカでもそういう風に結局はものによっては見えなくするようなメガネがあって、日本の場合にはそういったことが非常に高度に発達していて、イギリスの場合ようやくそれが始まっています。ラブホテルの隣には古い湯島天神があるんですよ。いずれにしてもものすごく進んだ文化じゃないでしょうか、日本の文化は。

ウェブ──いや、思っていたよりも興味深い時代になったと思います。われわれがやっていたことは、将来はこういうようなものだという未来像を描いていたわけではない。何か自分たちが興味を持ったものをやって、それを当時普通だと思われているのとちょっと違う方法でどんどん探索したんだと思います。その時にはそれが相応しかったと思います。だからそれだけの話で、ほかに言うことは思いつかないんですが。なんだか頭がくらくらしてきました。

グリーン──ひとつ、建築にできることがあるとすれば、それはわれわれがいまどこにいるのかを教えてくれることです。現在は時間と距離と地理がどんどん解体されて、ゴチャゴチャになっている時代だと思います。先日、「前に日本に来たことある気がする」、「いや日本にはいたことがないよね」、「時差ボケのせいかな」という会話がありました。私は一四年前の日本車を持っていますし、みんな何かしら日本的な物をもっています。そのように現在は、場所というのが非常にあいまいになっていると思います。ひとつの可能性としては、本当の意味でどこかに帰属していることを、建築によって感じることができると思います。
もしかしたら、東京というのはいまぜひ行くべきところなのかもしれません。ロサンゼルスではなくて東京じゃないか。コールハースはラゴスに行けと言うかもしれません。というのはラゴスみたいな所は、いろんなインフラを飛び越えているわけです。電話もいまだったら無線で構わないわけですから、古いテクノロジーを全部飛び越えて新しいものに行くことができると思うんです。

クック──中国とそれから南米もすごく人気があります。特に学生や若い建築家の間では。でもいずれほかの所になると思います。

グリーン──私は中国には行ったことがありません。中国に行った江頭慎に何がおもしろかったかと聞いたら、例えばアヒルとか鶏が庭に放し飼いになっているのに、窓から外を見てみると冷房が完備した高層ビルがあって、そうした極端なコントラストだと言っていました。

デニス・クロンプトン氏

デニス・クロンプトン氏

メタボリズム/セドリック・プライス

会場──磯崎さんに質問したいのですが、アーキグラムとメタボリストを比べると、アーキグラムにはすごく楽しさや自由があり、メタボリストは苦しさや抑圧があったと思うんです。そしてアーキグラムは一〇年間続いた。しかしメタボリストは一年で終わってしまった。アーキグラムは九号のパブリケーションを出したけれど、メタボリストたちはたった一冊しかなかった。この違いはなんなのか? ピーターと磯崎さんからお伺いしたいのですが。

磯崎──僕はアーキグラムと比較されても非常に困るんです。カタログでピーターにインタヴューしたときに、セドリック・プライスの話をした理由は、セドリックはアーキグラムに入っていなかったわけです。僕もメタボリズムに入っていなかった。だからポジションが全然違う。つまりセドリック・プライスがアーキグラムに対するのと同じような関係を、僕はメタボリズムに対して持っていた。僕がなぜ入らなかったかという理由は、メタボリズムはエンジニアであって、僕の考える建築家でも、文化を考えるアーティストでもなかった。だから付き合わなかった。だけどおそらくセドリックとアーキグラムの関係は違っていたと思います。

クック──おそらくお互いに義務を負っていると感じないからこその強い関係というのがあると思うんです。初めて日本に来たときにも、そうした人間関係に関して非常に大切なことがありました。その頃磯崎さんは小さなアパートに住んでいて、いろんな人が集まっていたんです。そのなかの何人かは、いまこの会場にいますが、ヨーロッパにはまだ知られていない彼よりも若い世代で、こうしたことはちょっと珍しいと思うんです。もうすでに国際的な評価ができているような人が自分の国に人を招いたときは、通常自分の競争相手になる人は呼ばないものです。だから、すごく若くてどうでもいい人や、ものすごく年寄りでどうでもいい人には紹介してくれるけれども、本当に才能がある人、特に自分よりちょっと若い人は紹介してくれません。ところが磯崎さんは、これは私の友だちだということで、例えば長谷川逸子さん、石井和紘さん、伊東豊雄さん、それから山本理顕さん、毛綱毅曠さんを紹介してくれました。一年くらい後にもまた招待してくれて、そのときにもまたみんないたんです。その後、そのうちの幾人かとは世界のどこか、時にはロンドンで会うようになりました。それから言葉の制約もありましたが、いろいろ話題が広がって、退屈な会議の後には一緒にカラオケに行って──今日はそうはならないと思いますが──、そうしたことから非常に重要な教訓を学びました。これは人に関係する普遍的な文化で、例えばアーキグラムもそうですが、近づいてそして離れてということがあって、セドリックはちょうどすぐ側にいて、非常に好きだけど嫌いみたいな、そんな関係にあったわけです。例えば磯崎さんが丹下健三のところで仕事をしていたときに、丹下健三が「黒川は徹夜していたが、お前はどうなんだ」などとプレッシャーをかけることもあったと思うんです。そういうことにイライラさせられたということがあり、メタボリズムの場合はちょっと丹下流のところがあって、そうしたことを話し始めるとまたいろんな話が出てきますが。
セドリック・プライスに関してもうひとつ。デヴィッドが最もセドリックの思考に近いと思いますが、彼はスタイルがすごく違っていたし、表現方法も違っていました。それから、彼は政治的にも非常に強いところがあり、また矛盾したスタイルを持っていました。彼はマーガレット王女とデートをしたこともあり、ずば抜けて社交的でした。硬い白いカラーのついたシャツを着て、同じ夜に五つのパーティを梯子するような人で、次の朝になったら「うちのパーティに来てた」、「いや、そうじゃなくてうちのパーティに来てた」とみんなが言う。たまたま私が一晩に二回会ったときは、彼はロンドンの黒いタクシーを借り切って、それで梯子をしていた。これはイギリス人が得意なことのひとつだと思いますし、日本人もそうだと思うんですけど、急に消えてしまう。そうしたことがとても得意なんです。例えば中央ヨーロッパでは、ポーランド人はさよならと言いながらいつまでもそこにいると言います。イギリス人は行ってしまうけれども、さよならの挨拶もしない。セドリックは消えてしまうのが本当に得意で、急に現われたかと思うと、急に消えてしまいました。まるで歌舞伎のように。

マイケル・ウェブ氏

マイケル・ウェブ氏

アーキグラムの六〇年代

会場──アーキグラムは最初からこの名前を付けて活動されていましたが、この名前がグループの活動に強度をもたらしたと思います。それで、この名前をつけられたいきさつ、そして、この名前に込められた意味について教えていただけませんか。

クック──はい、単純なことです。アーキは、アーキテクチャー=建築、グラムは、テレグラム=電報という言葉からとりました。

グリーン──カウンターカルチャーの話に戻りますが、現在圧倒的な存在感を持っている文化が若い人のなかにあるとすれば、それはコンピュータを使ったデザインです。若い人ならば本当に徹底的に知るべきなのは、そういったソフトウェアシステムが、デザインに対してどういう風に働きかけているかです。「アーキラボ」のカタログを見ますと、ニール・ディナーリなどによる素敵なドローイングがいっぱいある。しかし、そもそも誰のためのシステムなのかと考えると、大規模な事業であり、その多くは軍需産業の関係者のために開発されたプログラムです。ちなみに私はパワーポイントが大嫌いです。ものすごく便利でしょうが、誰にとっての利益なのかと言ったら、メルセデスベンツとかホンダとか保険を売っている人たちのためのものです。そういう人たちのためにパワーポイントが作られていて、非常に邪悪な構造をデザイナーに押しつけていると思います。というのは、それを使ってデザインのプレゼンをすることによって、クリエイティヴな要素がまったくどこからも必要とされないようなシステムのなかに自分たちを置くことになるからです。私は年をとりすぎていますが、若かったならばこういうものは一体どういうからくりなのか、自分のやっていることに対してどういう影響を与えるのかということを真剣に考えると思います。こういうシステムは建築のドローイングを作成するなかで非常に大きな影響を与えていますし、また、デザイン指向のアプローチに対しても非常に影響を与えています。まずドローイングを作って、諸々後付けで考えていくこととはまったく逆の現象になっています。

会場──私は建築の専門知識があるわけではないのですが、アーキグラムの作品が大好きです。グラフィック・アートとしてポップですごいワクワクして楽しい。見たことないようなものがいっぱい誌面から溢れ出ていて魅了されているんですけども、二〇、三〇代の時に、ロンドンでどんな生活をしていたらあんな楽しいものが出てくるのだろうか、仕事や勉強以外の生活でどんな音楽や映画に興味を持っていたのかというミーハーな質問なんですが、その辺をお話ししていただけませんか。

グリーン──いろんな人と会って、食べて、飲んで、女の子とデートして。六〇年代については、みんないろいろと嘘ばっかり言うんですよ。すでに歴史ですし。過去のことからずいぶんと教えられますけれど、アーキグラムが何か現在の再結晶のインスピレーションになればと思っています。それを私は何よりも強く願っています。もしかなうならば、私たちのやったことがいまの皆さんのあり方を考えていくための刺激になることを願ってます。

クロンプトン──四〇年前だからあんまりよく覚えていないんですよ。私は田舎から出てきたので、それまでロンドンにはたまに日帰りで行ったことがあるかどうかというくらいだったんです。街自体に魅了されました。ものすごく普通で退屈極まりないことですが、毎日夕方や週末になると歩いて街を発見していました。探検していたのですが、まるで魔法みたいでした。建築を見ていたんじゃないですよ、それは確かです。ロンドンのあっちこっちを歩いて、あの時代はどこにジャーナリストがいるのかとか、どこに印刷工場があるのか決まっていましたから、そうした人たちがいつもたむろしているパブに行ってみたりとか、そういうことがおもしろくてなりませんでした。ロンドンという街がどういう風にして存在していたのか、その有り様に私はともかく魅了されていたのです。あちこちの街を発見するのが私は好きです。日本の場合にはまだできずにいますけれど、ミラノに初めて行った時は、ガレリアからあんまり離れて迷子にならないように気をつけながらする探検が好きでした。

ウェブ──われわれ四人がいきなり魔法のようにしわが消えて、若返って白髪もなくなって、また二〇歳に戻って、そしていまが二〇〇五年だったとしたならば、おそらくまったく違うことをするだろうと思うんです。というのは、世の中すべてがアヴァンギャルドになっている現在、アヴァンギャルドであることは非常に難しいんですね。「アーキラボ」でも、例えばスーラン・コラタン&ウィリアム・マクドナルドとか、全部非常にクレイジーです。然るべき時に、いいタイミングに生まれ合わせることが大事だと思います。結局その時代に生まれて、そこで最大限うまくやるしかない。

クック──私は非常に早く結婚して、六〇年代はアパートの中でずっとシベリウスを聞いていました。デニスと違って、私にはパブはいつも居心地が悪く感じられたので行きませんでした。ずっと立ちっぱなしでいなきゃいけないし、なんとなくごたごたしているところが嫌だったんです。儲けて、とっても気持ちのいいホテルのバーに行って飲みたいなあと、いつも思っていました。そういうところだとクッションもちゃんとフカフカで、そして人の話がちゃんと聞こえますから。ドラッグもやらなかったし、それは道徳的にということではなくて怖かったんです。正しいブルジョワとしての暮らし方に憧れていたんだと思います。そして、当時、ロンドンに住んでいたときには、チェルシーやハムステッド、ハイゲートといった都市の中の小さな村みたいなそういったご近所さんの街を訪ね歩くのが好きだったんです。ちょっとフランス風のブルジョワみたいなところがあって、そういうところがよかった。大都市が怖くて、だからロスが好きなのかもしれません。あそこは大都市としてのいわゆる集積がありませんから。一九世紀の終わりから二〇世紀初頭にかけての郊外、例えばシュトゥットガルトなど大好きです。そういったところのお屋敷街ですね。木のあるところが好きで、木のないところに住むのは嫌です。このように、いろいろな目的がメンバーそれぞれにあって、それがアーキグラムの強みだったんだと思います。みんなが同じところへ行って同じような音楽を聞いて、何でもかんでも同じようにやっていたらはるかにつまらなかったと思います。原則を説くようなグループになってしまったり、自分たちの楽屋内だけで終わっていたでしょう。

[二〇〇五年一月二三日、水戸芸術館にて]

>ピーター・クック(ピータ・クック)

1936年生
アーキグラム所属。建築家。

>デニス・クロンプトン(デニス・クロンプトン)

1935年生
アーキグラム所属。建築家。

>デヴィッド・グリーン(デヴィッド・グリーン)

1937年生
アーキグラム所属。建築家。

>マイケル・ウェブ(マイケル・ウェブ)

1937年生
アーキグラム所属。建築家。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年生
磯崎新アトリエ主宰。建築家。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.39

特集=生きられる東京 都市の経験、都市の時間

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ニコラス・ペヴスナー

1902年 - 1983年
美術批評、美術史。ケンブリッジ大学教授。

>トム・ウルフ

小説家、ノンフィクション作家、ジャーナリスト。

>グローバリゼーション

社会的、文化的、商業的、経済的活動の世界化または世界規模化。経済的観点から、地球...

>シーザー・ペリ

1926年 -
建築家。シーザー・ペリ&アソシエイツ主宰。

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>森川嘉一郎(モリカワ・カイチロウ)

1971年 -
意匠論。明治大学国際日本学部准教授、早稲田大学理工学部総合研究センター客員研究員。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>山本理顕(ヤマモト・リケン)

1945年 -
横浜国立大学大学院教授/建築家。山本理顕設計工場 代表。

>毛綱毅曠(モヅナ・キコウ)

1941年 - 2001年
建築家。