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コンピュータの屍肉──サイバースペースの〈生ける死者〉たち | 田中純
Computer Corpses: The Living Dead of Cyberspace | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) pp.16-27

1 サイバースペースと建築──流体的アナモルフォーズの罠

ヴァーチュアル・リアリティ、サイバースペース、サイバーアーキテクチャーと、どのように呼ばれるのであれ、コンピュータとそのネットワーク上に形成される空間、ないしは空間的構造関係の構築を〈建築〉の課題として語ることが現在のモードであるらしい。そのような前提に立つならば、サイバースペースのデザインを扱う職能として〈サイバーアーキテクト〉の必要性を唱えることも時代の要請ではあるだろう。この空間には〈ホームページ〉や〈アドレス〉といった、土地の所有関係を表わすかのような隠喩も流通している。例えばマーコス・ノヴァクはこう述べる。「人間と情報の現在の関係が逆転して人間は情報空間内部に含まれるわけだから、その限りではサイバースペースの問題は建築の問題であるともいえよう。ところが問題はそれに留まらない。サイバースペースはそれ自身の建築をもち、さらには建築を自らの内に含みうるのである。繰り返そう。サイバースペースは建築であり、建築をもち、建築を包含する」★一。こうしてサイバースペースは建築と等置され、ピラネージからルドゥー、マレーヴィチ、タウトまで、建築家や芸術家たちが描き出してきた空想的建築はサイバースペースの萌芽としてとらえ直される。このようにサイバースペースが建築空間と見なされ、そこが資本投下の場所として喧伝される事態には、現実の大地に新たに建物を建てる可能性が狭まっていく経済状況下での、建築家の生き残りを賭けたイデオロギー戦略が認められるべきなのかもしれない。そこではヴァーチュアル化の拡大と高速化に経済的・イデオロギー的利害関心を有する〈仮  想  階  級ヴアーチユアル・クラス〉、〈仮   想ヴアーチユアルエリート〉(アーサー・クローカー)★二への建築家たちの参入がもくろまれているというわけだ。
VRMLやナヴィゲーション・システムといったインターフェースのデザインが問題であるならば、建築家であろうとなかろうと、デザイナーは存在したし、存在し続けるだろう。だが、ディスプレイ上で多次元空間を表象しようとしたところで、三次元より高次の空間を視覚的に把握する能力をわれわれが持たない以上、そのシミュレーションはスクリーンへの三次元空間の遠近法的投影に頼らざるをえず、その疑似三次元空間に三次元空間を襞[図1]のように畳み込むという手法がたかだか想定されているにすぎない★三。重力による制限のある現実空間に対するサイバースペースの自由度などを殊更に強調したところで、それは果たして建築の可能性として語りうるものだろうか。むしろそのような自由度は、建築にとっての外部(不可能性の領域)を失うことによって、建築固有の経験を解体するものではないのか。とするならば、〈建築家の構成力〉などと、この職能の特権であるかのように語られるものは、実はサイバースペースの許容する自由度のなかで意味を失ってしまうのではないか。サイバーアーキテクチャーとは、「建築は存在しない」という現実(それはモダンな時代において建築が建築家の欲望の対象となる事態に対応している)を隠蔽するイデオロギー的空想ではないのか★四。
ピラネージやタウトのドローイングが建築の創造に対して何らかの意味を有してきたのは、それらがメディアの差異において建築という領域に関与していたからであった。ドローイングの文字どおりの実現がそこで問題なのではなかった。優れた建築ドローイングとは、既存の建築の再現=表象でもなければ、来るべき建築の単なる模像シミユラクルでもない。それは二次元と三次元との次元差においてだけ機能する建築固有のメディアなのである。ルドゥーたちのドローイングをコンピュータ・グラフィックスにより三次元的に表象してみせたとしても、そこではこの次元差の機能が脱落してしまう。サイバースペースの先駆として幻想建築の系譜をたどってみたところで、コンピュータによるそのヴァーチュアルな現実化は、技術的手段が欠けていたがゆえに挫折した構想の実現などといった意味をもつわけではなく、むしろ建築幻想にしかありえない効果の解体に終わる。
サイバースペースは現実空間よりも自由であると語られる。では、そこにおける建築のイメージが、奇妙に表現主義的なフォルマリズムに陥ってしまうのはなぜか。ノヴァクは〈流体的建築〉という比喩によってサイバースペースの建築を表現している。この呼称はイタリア未来派やドイツ表現主義の流体力学的な造形を連想させる。イタリア未来派の造形思想の背後には物理学の〈場〉の理論があった。アインシュタインの物理学が代表するこの〈場〉の理論が、他の領域に翻訳された時、それはしばしば流体力学に類似したモデルによって表現された。ノヴァクはこう述べている。「流体的建築が目指すものはたったひとつの建物ではない。それは複数の建物の連続体であり、時間と空間の両方においてなめらかにあるいはリズミカルに進化してゆく建築なのである」★五。つまりそれはまさしくネットワークの建築であり、分節されることなく連続し、絶えず変化をやめない。ノヴァクも引用しているブルーノ・タウトの《アルプス建築》、《都市の解体》、《宇宙建築師》といったドローイングに現われる、ガラス建築が地球と宇宙を覆いつくすグローバルな建築幻想はいわば、帝国主義の世界戦争によって触発されて建築家の脳髄に投影された、地球規模のネットワークをめぐるパラノイアックなヴィジョンであった。「そのうちにはもはや〈もの〉などが存在しないような想像上の集団的な作品」(マンフレッド・タフーリ)★六としてのタウトのこのヴィジョンは確かに、ネットワークの建築的表象である〈流体的建築〉を先取りしている。サイバースペースを視覚的隠喩によって表現すべく、コンピュータから生成されてくる建築的構造体のグラフィックが、〈場〉の建築やタウトの幻想に似て、明確な分節を欠いた流体モデルに接近することは注目されてよい[図2]。クローカーはこの流体的な空間とその背後に働いている美的論理を〈アナモルフォーズ〉にたとえた。「アナモルフォーズの視覚世界には、視界の限界線もなければ、加速され減速されるパースペクティヴ内での特権的視座たる孤高の(主権者的)主体もなければ、パースペクティヴ上の模像シミユラクルを取締まるための幾何学的グリッドも全くない。その代わりに現われるのは、幻想的に歪められたパースペクティヴからなる流体的世界である。ヴァーチュアリティは、歪んだリアリティとそのフラクタルな蒸留物との間に、流体的ヴィジョンからなる第三の地帯を提示するのだ。ヴァーチュアリティは、われわれの消失が流体的ヴィジョンの非─空間へと至るであろうことを仄めかして、われわれを誘惑する」★七。
ヴァーチュアル・リアリティが遠近法的投影による現実の再現=表象を乗り越えて、指向対象のない、もうひとつの現実空間を構築しようとする時に、その〈非─空間〉を生み出す美学として選び取られるものがこのアナモルフォーズである。周知の通り、アナモルフォーズは、ホルバインの『大使たち』に描き込まれた髑髏の歪像のように、遠近法的空間内の奇妙な染みとして、表象の光学を惑乱させる要素として存在した[図3、4]。それはいわば〈禁じられた光学〉でもあったが、今やそのアナモルフォーズこそが、デジタル・リアリティの中心に位置する。「もはや、アナモルフォーズは権力の倒錯ではなく権力の美学的言語であり、社会的リアリティの表象化の論理を倒錯的に使用する。アナモルフォーズは、単にリアルなものの歪曲であるばかりでなく、技術的自動装置オートマンのヴァーチュアルな世界や非─空間へと至る、リアリティの消失でもまたあるのだ」★八。それはもはや髑髏の歪像のように部分的な染みではなく、全体化された錯乱である[図5]。現実とイリュージョンの関係は転倒する。アナモルフォーズは、「ヴァーチュアルなものを現勢化しようと働きかける一方で、リアルなものをヴァーチュアル化する」★九トリックとして機能する。
このアナモルフォーズ的、流体的世界の意味づけにあたって、条理空間/平滑空間といった概念を手がかりに、ドゥルーズの哲学とハイ・テクノロジーを結びつけることもまた、建築家たちのイデオロギー戦略におけるモードであるらしい。ドゥルーズにおけるヴァーチュアルなものをヴァーチュアル・リアリティと関連づけるこのモードは、それが観念論を排して平易な言葉で具体的なデザインの可能性を探っているかのように語っている時にも、いやまさにそんな身ぶりの時にこそ、きわめて抽象的で観念論的である。なぜならそれはサイバースペースの構築やデザインを主題としていながら、実はサイバースペースの〈イメージ〉(ドゥルーズが思考の〈イメージ〉をめぐって用いた意味において)についてしか語ってはいないからである。イメージとはこの場合、広く流通している凡庸な紋切り型にほかならない。そこには紋切り型のイメージに依拠しつつ、その凡庸さの範囲内で戯れるという悪循環しかない。サイバースペースそのものが、建築家であれ、誰であれ、任意にデザイン可能な空間であるのならば、そこにおける経験はすでに予測可能な範囲内のものでしかなかろう。サイバースペースの建築をめぐる論議の多くは、電子メディア環境との接触経験をそれ以前の知覚の延長線上でしか理解せず、この環境によってわれわれの身体が被る変容を見ない。なるほどサイバースペースの構築がインターフェースの視覚的イメージのデザインに尽きるものでないことは誰もが認める。しかし、そのような不可視の次元を留保して、現実に行なわれているのはやはりフォルマリスティックな視覚的イメージの探求なのだ。サイバーアーキテクチャーのイデオロギー性はこのギャップにある。では、それが隠蔽している事態とは何か。

1──電子の襞 electronic pli(デザイン 浜田邦裕、CG制作 千葉敬介)

1──電子の襞 electronic pli(デザイン 浜田邦裕、CG制作 千葉敬介)

2──NOX《SoftSite》(NTT出版、『InterCommunication』No. 19より)

2──NOX《SoftSite》(NTT出版、『InterCommunication』No. 19より)

3──ハンス・ホルバイン《大使たち》(1553年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)2人の大使の足もとに髑髏の歪像が描かれている。

3──ハンス・ホルバイン《大使たち》(1553年、ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)2人の大使の足もとに髑髏の歪像が描かれている。

4──同上(部分)

4──同上(部分)

5──シモン・ヴーエ流『ウェヌスとアドーニス』 (18世紀、ミラノ、個人蔵)

5──シモン・ヴーエ流『ウェヌスとアドーニス』
(18世紀、ミラノ、個人蔵)

2 欲望のデッドロック──電子メディアの近くて遠い他者

サイバースペースの建築が自らの職域とするのは、この空間への参入者に対して可能な限りの偶然の出会いを組織すること、パサージュ的な遊歩の空間を作り出すことであるらしい。マイケル・ベネディクトはサイバースペース・デザインのための原理の一つとして、次のような〈交通の原理〉と呼ばれるものをあげている。「サイバースペースにおける二点間の移動は、いかに高速であっても(ただし無限の速度は除く)、現象として間に介在するすべてのポイントを経由して行なわれなければならず、また、移動者にとってのコストは、何らかの測定基準のもとでの移動距離に応じたものでなければならない」★一〇。
このような原理が必要とされる理由は、さまざまなタスクの〈間〉にあるという事態が、思いがけない偶然の出来事に対してもっともオープンな状態であり、それが非公式的な個人間のネットワーク成立にとって不可欠なものだからだ、とベネディクトはいう。サイバースペースの必要性はこのような出会いにこそあると彼は見なす。サイバースペースとは従って、個人が占有できる建築空間であるよりもはるかに、異質な他者が遭遇する交通空間としての都市に見立てられているといったほうがよい。こうしてサイバーアーキテクチャーよりもむしろ、サイバーシティとその都市計画が問題であることになろう。
なるほど、都市がこのような偶然的ネットワーク生成の場として発展し、そこから都市固有の文化が生み出されてきたことは事実だろう。このような可能性を与えないサイバースペースは、確かに貧しいものかもしれない。しかし、一方でこのような都市計画が利潤獲得のための配慮のもとになされていることは、ベネディクトの叙述の後半部分からも明らかだ。ベネディクトも認める通り、時間がコンピューティングの基本的な通貨である以上、迂回と遊歩に伴う時間の消費は直ちに金銭的な消費なのである。ボヘミアン詩人にとってのパリのパサージュとはまったく異なり、このデジタル・パサージュでは遊歩そのものが課金される。「百貨店は、ぶらぶら歩きさえ商品の売り上げに利用する。百貨店は遊歩者が最後に行き着くところである」(ベンヤミン)★一一。ベネディクトが構想するようなデジタル・パサージュとは、そこにいるだけで消費を強いられるサイバーモールではないのか。そこにきわめて善き意図があることは否定しないにせよ、こうしたサイバースペースの構想はきわめてイデオロギー的なものでありうる。
それゆえベネディクトがここでしきりに回避しようと恐れている事態こそが逆に、サイバースペースにおいて現実に進行している現象なのではないか、という推測が可能だ。ベネディクトはこう述べている。
「人間と情報にとっての瞬時的なアクセスがサイバースペースに特有の事象だということになれば、自己と対象の間の距離を接近させるという行為に本来的に備わっている進歩的な啓示的発見のプロセスは消え去り、人間の物語、すなわち〈旅〉の物語を紡ぎ上げていく基本的な骨組がなくなってしまう。目的地はすべて、いわば既に出された結論のように確定したものとなり、時間と歴史、物語られることと忘れられないこと、状況の発展と展開、欲望の対象とわれわれ自身との間の距離──実際のところ、この距離こそが欲望とエロティシズムの全存在論を生み出すのだ(…中略…)──は崩壊し、この物理的世界にのみ存在する、しかも、その世界のあちらこちらに散らばる不完全なメタファー的構築物としてのみ存在する、そんな状態に戻ってしまうことになるだろう」★一二。
この点に関してスラヴォイ・ジジェクは、現在さまざまな原理主義や政治的正当性(PC)の議論が答えようとしている袋小路的な精神状況の一例として、サイバースペースがわれわれの欲望する能力の基本構造を破壊しているという現象をあげる。われわれが入り込んでいる袋小路とは「性的な対象が、簡単に手に入るせいで──価値を高めるような障害がないせいで──どんどん価値を下げている時代である今日において、交接する欲望をどうよみがえらせるか」というものだ★一三。ベネディクトの構想は、欲望の対象のあまりの近さがもたらす不安に対して、〈交通の原理〉という禁制を与えることによって対処しようとしたものだということになろうか。サイバースペースを通じて、あらゆる情報が瞬時に入手可能となるならば、それらは瞬間的に価値を失ってしまうことだろう。なぜなら、欲望の対象という目標に近づくことを邪魔する妨害があってはじめて、われわれはつねにすでに失われている〈もの(dasDing)〉とあれこれの経験的対象とを短絡させ、「この妨害がなければ欲望は満たされるのに」という幻想を抱くことが可能になるからだ。妨害の消失は〈もの〉の到達不能性にわれわれを直面させるのである。到達しえない限りで目標はリアルなものでありえている。その逆に、瞬時に手に入れた対象はたちどころにそれまで有していた魅力を失い、非現実化されてしまう。この行き詰まりを回避しようとする限り、資本主義は、欲望を保持するための遅延の時を作り出さなければならない。〈仮想階級〉はCPUやネット回線速度の高速化を絶え間なく進めることによって、この遅れを生産している。後期資本主義の課題とはこのような遅延という時間の生産なのである。
電子メディアによって情報の伝達速度が極限的なものにまで高まってしまうことの帰結として、大澤真幸は、電子メディアに接続された身体が、自己自身に対する他者性をはらみ、内的な断絶を被るという点を指摘している。電子メディアを利用することによりわれわれは必然的に、伝達の相手を(たとえ相手が身近にいたとしても)現前しない遠隔の存在者として位置づける。電子メディアの伝達速度の上昇によって、物理的な現前/非現前の差異はもはや、伝達時間の落差としては検出されえなくなる。それは、現前しない遠隔の他者との伝達を、現前する他者のもつ直接性において実現してしまう。
「こうして、電子メディアは(電子メディアを経由して関与する限りでの相手は)、直接に現前する他者とも、また端的に遠くにいるだけの他者とも違う、独自の他者として現われざるをえないわけだ。とりわけ、(遠隔に措定された)他者の自己の領域への固有化・近接化が徹底的なものにまで進められれば、つまり他者の直接性の程度が高められれば、それは、やがて、自己自身とそのまま等置されるところまで来るにちがいない。それは、一方では、自己自身と同じ直接性において存在していながら、他方では、自己にとって疎遠なものとして存在しているような、自己自身における他者性とでも表現するほかないものとなろう」★一四。
電子メディアは他者の非現前性(遠さ)を現前性(近さ)に接合してしまう。そこでは電子メディアと身体との接合が〈アウラ〉(「どんなに近くにあっても遥かな遠さ」)を帯び、〈無気味なもの〉を生み出すのだといえるかもしれない。無気味なものとは、抑圧を経て回帰してきた、慣れ親しんだ対象である。このような無気味な他者はもはや、欲望の対象ではありえない。そこに働くものはむしろ死の欲動だ。死の欲動は、主体が欲望の構造的な不可能性をもはや禁止によって回避せず、それとの直面に耐える時に出現する。大澤はマクルーハンの著書に記された、ある死刑囚が死刑執行の直前に自分が映像化されたニュースをテレビで見たというエピソードを紹介している。ここにおいてテレビの画像を死の領域に近づけているものを大澤は、自己の経験の内部からは到達不能な差異である〈他者の他者性〉としての死のあり方であるとする★一五。死すべきものとしての自己をテレビの映像を通じて見ている囚人たちは、いわば純化された他者性を自己において確認しているのであり、テレビという電子メディアはそこで、それに接触する身体のうちに〈自己ならざるもの・自己以上のもの〉をはらませる触媒として機能しているのである。大澤はこの囚人の行為に「カントの哲学が自己否定的に予告している享楽」、「苦痛をともなう快楽」★一六、つまり死の欲動に伴う享楽を認めている。決して自分の欲望を諦めず、死の欲動に同一化するアンティゴネーの英雄的な倫理とはほど遠い即物的な電子メディアの現前によって、後期資本主義の住人たちは死の欲動に晒されているということになろうか。
電子メディアに映し出されるわれわれの身体、サイバースペース内に投影されたわれわれの身体とは、この囚人の例に似て、死という純粋な他者性を体現した仮想的な屍体なのかもしれない。クローカーが〈ヴァーチュアリティへの意志〉と呼ぶものは、このような屍体(クローカーの言う〈データトラツシユ〉)に代替されることへの意志であり、「死の欲動に対する反動形成としてのテクノロジーの魅惑」★一七 に依拠している。「自分の一番深く隠してある秘密を何百万人からなるテレビ視聴者の前で話す、といった事態にどうしてなるのか? 理由は、肉体や感覚としての〈あなた〉が、もはやリアルではないからだ。テレビ放映されることで、あなたの生物学的身体は、それについてのイメージ、つまりはレアリズム的存在(ensrealissimum)よりも劣等なものにされる。あなたはそれによって罪から救われる。なぜなら今やあなたの分身がそれを引き受けているのだから。あなたは、テレビ放映されるあなたの分身の、大本のリソースであるのだ」★一八。
ラカンによれば、われわれにとっては自己そのものがすでに鏡像というイメージとの想像的同一化によって構成されており、現実は象徴的虚構によって支えられている。つまり、現実そのものがつねにすでに仮想的である。これに対して、サイバースペースの仮想現実において新たに生起する事態とは、現実を支える象徴的虚構の次元と幻想の次元との一種の融和であるとジジェクはいう ★一九。サイバースペースは参入者に、現実世界と等しいコミュニケーションを許すような透明な空間ではない。〈幻想の窓〉としてのコンピュータの画面には、われわれの空想のシナリオが投影され、それによって仮想の空間における経験は現実以上にリアルなものとして感受されることになるのである。
そのリアルさは、自分の身体が無媒介的に感覚する直接性の生々しさのことではない(しかし、その〈直接性〉は実はすでに想像的、象徴的同一化によって媒介されている)。むしろそれは無限に近くて遠く、直接的でありながら疎遠なあの電子メディア固有の他者性の感触である。仮想屍体というこの他者は、われわれの自己のうちにあって自己以上の何かであり、そのような剰余である限りで現実以上に現実的な存在なのだ。「自分の一番深く隠してある秘密を何百万人からなるテレビ視聴者の前で話す、といった事態にどうしてなるのか?」それは電子メディアと身体の接合が、物理的な身近さよりもはるかに自己にとって親密な他者をそのメディアの空間内に生み出すからである。

3 寄生的肉体としてのコンピュータ

ジジェクが指摘する融和が存在する以上、サイバースペース内のコミュニケーションは現実空間におけるコミュニケーションの代行ではありえない。電子メディアの空間でわれわれは無気味な他者として、あの屍体としてコミュニケーションしているのであり、だからこそ、現実の自分の秘密をあからさまに語ることもできる。ジジェクは任意のアイデンティティを身にまとうことが可能な〈仮想共同体〉におけるコミュニケーションの問題は、誰もが単に嘘をつけるということではなく、「いつでも身を退き、解放されることができる以上、私が決して真に関与しないということなのだ」と述べている★二〇。仮想共同体においては、言葉はもはやわれわれを拘束しない。その結果として結局のところ、そこには相互主観的な他者との出会いが存在しない。電子メディアが自己の内部に他者をもたらすものであるとすれば、身体のこの内的分裂は電子メディアとの接合状態から、ナルシスティックに閉ざされた即自充足的コンサマトリーな快楽を得ることを可能とするだろう。電子メディアは他者性と自己性を直接に重ね合わせてしまう。その表われを大澤は電子メディアの〈触覚性〉に認めている。自己が他者に触れる能動性が、同時に他者によって触れられている受動性でもあるという触覚的性格は、電子メディアそのものに身体的な実在性を与えている。クローネンバーグ監督の古典的な映画『ビデオドローム』において主人公を呑み込んでしまうテレビ画像のように[図6]、電子メディアに対してわれわれは潜在的に、それを皮膚感覚的なものとしても受容している★二一。「想像界イマジナリーは、技術を通じて、また技術において、その最も特権的な形態、ハイパーリアルであるという形態を具現化マテリアライズする」★二二 とクローカーはいうが、そのようなリアルさはこの皮膚感覚と関連している。
テクノロジーと身体の融合をテーマとしているアーティスト、ステラーク★二三 のパフォーマンスは、電子メディアとのこうした皮膚感覚的接触をおぞましいほどあからさまに示している[図7]。彼は〈第三の腕〉という機械装置を身につけたり、自分の体のいたるところにコードでインターネットと接続されたセンサーやスティミュレーターをとりつけて、ヴァーチュアル・リアリティと身体との物理的な結合を表現する一方で、「サスペンション」と題されたイベントでは、自分の皮膚にケーブルを引っかけて、身体を空中に吊すパフォーマンスを行なっている[図8、9]。彼はこう述べている。「形而上学的に考えてみると、過去においてわれわれは皮膚を表面として、インターフェースとしてとらえてきた。皮膚は魂にとって、自我にとっての境界であり、そして同時に世界の始まりでもあった。テクノロジーが拡大し皮膚を貫通してしまうと、防壁としての皮膚は抹消される」★二四。こうした認識に基づいて、「胃の彫刻」というパフォーマンスでステラークは、自分の体内に小型の金属彫刻を展示するという試みにまで至っている。身体の表面を裂開し、皮膚を突き抜けようとするこのような衝動そのものが、苦痛を伴った触覚的接触を志向しており、ステラークの場合、電子メディアやサイバースペースと身体の融合もまた同じ志向のうちにある。
ジジェクはロバート・ハインラインの『人形使い』に登場するエイリアン、人間に取り付き寄生する生命体をとりあげて次のようにいう。「〈エイリアン〉は、まさに一人の人間の主体の失われた充満を回復する補完として機能する。彼らは、ラカンが『セミネールIX』で〈ラメラ〉と呼んだもの、身体をもたない、破壊できない無性的器官、人間が性化するときに失われた神秘の部分である。つねに不足によって媒介され、それ自身は〈ありえない〉、失敗する定めの〈正常な〉性的関係とは対照的に、〈エイリアン〉との関係は、それゆえに、完全に満足のいくものである」★二五。ジジェクがそこで示唆するように、コンピュータはわれわれにとってすでにこの〈エイリアン〉に似た寄生的補完物である。コンピュータはクリーンで無垢な機械であるどころか、おぞましくも魅惑的な他者だ。そして、このコンピュータとの接触からわれわれは即自充足的コンサマトリーな快楽を得ているのである。サイバーパンクの夢想を文字どおりに実現し、センサーとスティミュレーターによってインターネットと合体したステラークの身体は、もはや過激で前衛的な芸術的マニフェストであるどころか、携帯電話とモデムカード付きノートパソコンを肌身離さず持ち歩くわれわれの日常の戯画的な再現にすぎないのかもしれない。ポストヒューマニズムの身体、それは〈廃物身体(obsolete body)〉(ステラーク)と呼ばれる。電子メディアが身体の付属品であるのではなく、まったく逆に、メディア・ネットの補綴としての身体。一面からとらえれば、このような廃物身体こそが、権力の規律・訓練に完全に従属した従順な身体であるかのように見える。ヴァーチュアル・リアリティの有効な利用法としてクローカーは、性犯罪者に犠牲者の苦痛を体験させる拷問効果のアイデアをあげる。受刑者がVRスーツを付けられ生活する在宅刑務所という、パノプティコンを凌駕する拷問の可能性 ★二六。しかし、現代社会において権力が作用する主たる対象はこの廃物身体ではなく、むしろデータ  トラツシユ  の集積としての仮想身体のほうではないだろうか。そのような権力はもはや、フーコーが分析した規律・訓練型の権力ではない。「規律・訓練型の権力の原的なイメージが〈軍隊〉であるとするならば、新たな権力の原的なイメージは、アクセスが制限されている〈データベース〉である。新たな権力のもとでは、分解不能だったはずの個人(individual)も、分解可能(dividual)なものとして扱われるのである」(大澤真幸)★二七。WWW上に散乱するわれわれの仮想身体を支配する、分散的で一時的なウェブ状の権力。
もちろん、肉体がサイバースペース内の仮想身体に完全に代替されることはない、ということは誰もが知っている。しかし、われわれは電子メディアやコンピュータとの接触に際し、あたかもそこに実在のコミュニケーション空間、共同体の空間があるかのようにふるまうことによって日常生活を成立させている。サイバースペースというイデオロギーはこの日常的な行為実践の次元で作用している。サイバーシティなどは所詮虚構であり、現実の都市で起こっている矛盾を隠蔽するものだ、という指摘によるだけでは、このイデオロギーは揺るがない。リアリティを直視せよ、と言っても無駄なのだ。なぜなら、すでにサイバースペースという虚構によってわれわれの日常生活のリアリティは構造化されているのであり、サイバーシティというこの〈想像的な現実の世界〉(M・クリスティーヌ・ボイヤー)★二八 はさらに、現実の都市の荒廃と腐敗といった矛盾からこそ、エロティックな魅惑をもたらすリビドー・エネルギーの備給を受けているからだ。ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』以来、サイバースペースはサイバーパンク小説において、無秩序で周縁化された非都市的な場所と対になって描かれる。サイバースペースの魅惑を支えているのは、停滞して死んだ非都市的な空間と流動するアナモルフォーズ的交通空間とのこのギャップそのものである。一方には欲望の瞬時の満足という飽和状態、他方では生活の最低条件すら満たされない欠乏状態という後期資本主義の昂進し続ける二律背反は、もとより構造的なものであり、サイバースペースはその一方の極を過激化する要素にほかならない。そしてその極限において、現実を維持している欲望の経済は崩れ、われわれは廃物身体と仮想屍体に分裂している自己を見いだすのである。それらはいずれも、あのテレビ画像と化した死刑囚のように、いまだ死にきれない宙づり状態でさまよう〈生きている死者リビング・デツド〉たちである。そのようにおぞましくも〈現実的なもの〉が、サイバースペース、ヴァーチュアル・リアリティという色鮮やかな想像界のみならず、この現実世界を支える象徴秩序もまた引き裂いて立ち現われる。サイバースペースにわれわれが誘惑される究極の理由はおそらく、この致死的な享楽とのありえない遭遇にこそ存在するのだろう。そして、サイバースペースをめぐる〈仮想階級〉のイデオロギーから逃れる道がもしあるとすれば、それはこの致死的な他者との遭遇、つまり死の欲動との直面をもはや回避しないことであるのかもしれない。
電子メディアと身体、インターネットと身体とが機械状に接合しつつ、われわれにとっての〈現実〉を重層的に形成している以上、サイバースペースの内部と外部それぞれの一方だけにおいて、何らかのリアリティが構成されることはない。〈仮想階級〉は日常的な現実の安定を信じ、サイバースペースを虚構と見なして、この仮想空間を利潤獲得のために搾取しつくそうとする。しかし、彼らが仮定している現実と虚構の間のシニカルな距離は実は無なのであり、だからこそ、このシニシズムはサイバースペースという虚像の現実性にやがて復讐されざるをえない。非都市的なものはリアルな都市とサイバーシティを横断して出現する。
電子メディアとしてのコンピュータとは、われわれを内部から崩壊させる何ものかの物質化した形態であったのかもしれない。それは寄生虫のように身体にはりついて、われわれを廃物化する。けれどいまや、われわれにとっての現実に一貫性を与えているものもまたこの寄生生物にほかならないのだ。このような意味において、コンピュータはわれわれの文明の〈症候〉なのである。現実の裂け目としてのサイバースペース──コンピュータという享楽の肉化。われわれの社会体(社会という身体)の皮膚上に開いたこの傷口は、ヴァーチュアリティとリアリティをメビウスの帯のように縫い合わせる、その縫い目であると同時に、この両者を共に引き裂く亀裂の場でもあるのだ。

6──デヴィッド・クローネンバーグ 『ビデオドローム』より

6──デヴィッド・クローネンバーグ
『ビデオドローム』より

7──ステラークによるパ フォーマンス (NTT出版、『InterCommunication』 No. 19より)写真=Jan Sprij

7──ステラークによるパ
フォーマンス
(NTT出版、『InterCommunication』
No. 19より)写真=Jan Sprij

8、9──ステラークのWWWサイトより

8、9──ステラークのWWWサイトより


★一──マーコス・ノヴァク「サイバースペースにおける流体的建築」、マイケル・ベネディクト編(鈴木圭介ほか訳)『サイバースペース』(NTT出版、一九九四年)所収、二三五頁。
★二──Arthur Kroker, Michael A. Weinstein: Data Trash. The Theory of the Virtual Class. St. Martin's Press, New York 1994.
★三──浜田邦裕ほか「サイバーアーキテクチャーの可能性──建築の新たな全体像」、『10+1』No.6(INAX出版、一九九六年夏)、五四─六九頁参照。
★四──拙論「歴史という廃墟──危機の計画=企画」、磯崎新監修・田中純編『磯崎新の革命遊戯』(TOTO出版、一九九六年)所収、六二─七四頁参照。
★五──ノヴァク、前掲論文、二六一頁。
★六──マンフレッド・タフーリ(八束はじめ訳)『建築のテオリアあるいは史的空間の回復』(朝日出版社、一九八五年)、一九二頁。
★七──Kroker, op. cit., p.49. ただし、訳文は次に従う。アーサー・クローカー(瀧本雅志訳)「ヴァーチュアリティへの意志、西洋の没」、『10+1』No.7(INAX出版、一九九六年秋)、一一五頁。
★八──ibid. 日本語訳、一一四頁。
★九──ibid., p.50. 日本語訳、一一五頁。
★一〇──マイケル・ベネディクト「サイバースペースの空間原理と可視化モデル」、『サイバースペース』所収、一七八頁。
★一一──ヴァルター・ベンヤミン(三島憲一ほか訳)『パサージュ論I』(岩波書店、一九九三年)、二〇頁。
★一二──ベネディクト、前掲論文、一八〇頁。
★一三──Slavoj Žižek:The Indivisible Remainder. An Essay on Schelling and Related Matters. Verso, London 1996, pp.189-190. ただし、訳文は次に従う。スラヴォイ・ジジェク(松浦俊輔訳)「仮想化された現実/仮想化しきれない残余」、『現代思想』一九九六年一二月号(青土社)、九四─九五頁。
★一四──大澤真幸『電子メディア論──身体のメディア的変容』(新曜社、一九九五年)、七六頁。
★一五──同、八八頁。
★一六──同、二四一頁。
★一七──Kroker, op. cit., p.163.
★一八──ibid., pp.61-62. 日本語訳、一二三頁(ただし、訳文を補った)。
★一九──Žižek, op. cit., p.195. 日本語訳九九頁。
★二〇──ibid., p.196. 日本語訳、一〇〇頁。
★二一──大澤、前掲書、八五─八六頁参照。
★二二──Kroker, op. cit., p. 45. 日本語訳、一一二頁。
★二三──ステラークについてはWWWサイト(http://www.merlin.com.au/stelarc/)を参照。
★二四──Paolo Atzori, Kirk Woolford: Extended Body: Interview with Stelarc In: CTHEORY
(http://www.ctheory.com/a29-extended_body.html).
★二五──Žižek, op. cit., p.192. 日本語訳、九七頁。
★二六──Kroker, op. cit., p.45. 日本語訳、一一二頁。
★二七──大澤、前掲書、二三八頁。
★二八──M・クリスティーヌ・ボイヤー(毛利嘉孝訳)「サイバーシティという想像的な現実の世界──電子コミュニケーション時代の都市」、『10+1』No.7(INAX出版、一九九六年秋)、九二─一〇八頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市表象分析I』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.08

特集=トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて

>ブルーノ・タウト

1880年 - 1938年
建築家、都市計画家。シャルロッテンブルグ工科大学教授。

>マンフレッド・タフーリ

1935年 - 1994年
建築批評家、歴史家。

>大澤真幸(オオサワ・マサチ)

1958年 -
社会学。京都大学大学院人間・環境学研究科。

>ニューロマンサー

1986年7月1日

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年 -
表象文化論、思想史。東京大学大学院総合文化研究科教授。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年 -
建築家。芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。

>瀧本雅志(タキモト・マサシ)

1963年 -
表象文化論、哲学。岡山県立大学デザイン学部准教授。

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>パサージュ論I

2003年6月1日

>毛利嘉孝(モウリ・ヨシタカ)

1963年 -
カルチュラル・スタディーズ/メディア&コミュニケーション論。。