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シフターとしてのディテール | 後藤武
Detail as Shifter | Goto Takeshi
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義, 1999年03月発行) pp.110-112

《バルセロナ・パヴィリオン》[図1]や《チューゲントハット邸》において用いられた、四本のアングルを組んでクロームメッキのプレートで包まれた十字柱は、ミース・ファン・デル・ローエの署名とでもいえるものだ。ミースのディテール思考が集約されたようにも見えるこの十字柱は、しばしば荷重を支える柱の物質感をカルテジアン・グリッド上において消去しようとするものだと解釈されることが多いようなのだが、しかし実際に眼に映るそれは、周囲の風景を写し込みながら輝き、決して自身を消去しようとしているようには見えない。むしろそれは、眼に見えない空気のエッジを形成し、積極的に不可視のヴォイドを定義している存在のように見えるのである。それによって、建築として構築されてはいない不可視のヴォイドがリアルな存在として提示される。ミースは、物質的な構築の主題を一つひとつ生み出してはそれに解決を与えているというやり方をしているのではあるが、その物質的な構築そのものが、ディテールの水準においていわばくるりとひっくり返され、反転して物質のネガが提示されるという仕組みになっているようでもある。

1──ミース・ファン・デル・ローエ《バルセロナ・パヴィリオン》Jean-Louis Cohen, Mies van der Rohe, Hazan,1994.

1──ミース・ファン・デル・ローエ《バルセロナ・パヴィリオン》Jean-Louis Cohen, Mies van der Rohe, Hazan,1994.

ミースの建築においてディテールが決定的な鍵を握っているとすれば、その具体的な効果のひとつは、物質的な構築とそのネガとしての眼に見えない空間のヴォリュームとがディテールという蝶番、シフターを介して等価に置かれている点ではないかと思う。劇的な空間の発生のために奉仕するバロック的な構築から遠く離れて、あるいはまた空間が構築に隷属して残余空間と化すこともなく、ただ単に構築と空間とが同一の水準に置かれてしまっているという事実には驚かされる。《バルセロナ・パヴィリオン》の汲み尽くしえない面白さは、大理石の壁も十字柱もガラス面もヴォイドも、それぞれがあたかも別々の秩序をもってばらばらに基壇の上に同時共存しているようにも見えるし、部分的に関係しあっているようにも見えて、全体が掌握しきれないところにある。《バルセロナ・パヴィリオン》の奇妙な構築形式は多くの論者によって指摘されているが、柱が基準モジュールを決め、それに従って壁やガラス面の位置が決定されるのでもなく、トラバーチンの割り付けがモデュール寸法と合致するにもかかわらず、ガラス面の単位寸法は微妙にずれていたりして★一、多くの矛盾を抱え込んでいるわけである。全体を統御していく専制的な構築形式があるというよりは、全体へと統御しえないことがその特性となっているかのようである。あるいはまた一連のコートハウスにおいても、柱のシステムと壁のシステムは齟齬をきたし、決して調停されることがない。コートハウスを構成するエレメント群が、庭も柱も壁もあたかもただ同じ場所のなかに互いに無関心に投入されているかのようでさえある。ひとつの囲い込まれた閉域のなかに投げ込まれた統合しえぬ全体。ミースの建築ディテールのことなら、もはや誰もがあの精巧なディテールの数々を想い描くことが出来るだろうし、今更ながらその見事さを賞賛してみせたところでほとんど蛇足に響くには違いないのだが、それでもここであえて再びミースのディテールに注意を喚起してみたい誘惑にかられるのは、ミースをミニマリズムの美学的イデオロギーに回収しようとする運動にあらがって、ミースのディテールのいわば「倒錯的な」側面を強調しておきたいからだ。例のミースの「Less is more」という理念を出発点として、基本的に形態をミニマムにしているという基準によって安藤忠雄やヘルツォーク&ド・ムーロン、アルヴァロ・シザらの建築群がグルーピングされることがしばしばあるのだが、そもそもミニマリズムと美学とは無縁なのだし、ミニマリズムという理念の抽象性の埒外へとこれらの建築群を解き放つ必要があるように思う。しばしば引き合いに出されるフィリップ・ジョンソンの《グラスハウス》とミースの《ファンズワース邸》[図2]。ともに鉄骨とガラスによる箱形のコンストラクションであるにもかかわらず、この二つの建築が与える印象は著しく異なっているわけだが、この印象の違いを引き起こすものが、端的にディテールであることは誰しも認めることだ。ジョンソンの《グラス・ハウス》がガラスの箱による透明性の即物的な提示となっており、容易にひとつの全体を構成してしまっているのに対し、《ファンズワース邸》はそのディテールの力によって硬直的な全体性を解体しえているからだ。私たちは、ディテールの集積によって建築作品という全体が成立していると考えるのが−般的である。例えばルイス・カーンの建築を眼にするとき私たちが感嘆するのは、ディテールが全体へと統合されていく手つきの鮮やかさであり、一つひとつのディテールが全体を成立させるために奉仕しあい、意味ある部分として位置づけられている点ではないだろうか。単純な対比と抽象化は慎まなければならないが、ミースの建築に接するときに受ける感覚はそれとは微妙に異なっているように感じられる。建築に近づいていき、徐々に視像の解像度が上がっていくにしたがって、全体からディテールヘと視線は推移していくわけだが、ディテールから全体を再構成しようとすると途端に全体がぼやけてしまうようではないか。ミースの建築が還元という操作によって成り立っているということは確かだろうが、しかしそれは建築の要素を本質的なものへと純化していくというのとは異なっているように思う。建築全

体のヒエラルキーの下位要素としディテールが行儀よくおさまっているわけではなく、ディテールが全体を横溢してしまっているように見えるからである。そしてそれはアメリカ時代においても変わることはなかったのだと思う。例えば《ファンズワース邸》にせよ《ナショナル・ギャラリー》にせよ、ミースはコーナーに柱がくることを極力避けている。コーナーに柱がくることによって箱が完結し、即物的な表現になると同時に、構築と空間とのあいだに硬直化したヒエラルキーが発生するからである。《シーグラム・ビル》や《IIT同窓会館》[図3]のようにコーナーに柱がくる場合には、意図的に四隅を欠き取っている。これはちょうど、《バルセロナ・パヴィリオン》における十字柱が反転したものでもあるかのようである。例えばかつてパラッディオは、柱の配列によってコーナーに生じる矛盾を解決するのに、もう一本柱をコーナーに置くことでコーナーを強調することをしばしば行なったが、ミースは逆にコーナーを欠き取り、そこにいわばネガティブなヴォリュームを作り出す。それによって箱は、視覚的には複数の要素に分解される。欠き取られたコーナーは、建築のヒエラルキーの統合化を回避する方向性を与えることになるのである。太田浩史氏は『20世紀建築研究』に収められた「ピーター・ズントー──〈事態〉の建築家」と題された論考のなかで★二、ミースとズントーを貫いているSachverhalt〈事態〉という語に着目している。氏は〈事態〉という概念を、物質を制御する意図を含む操作系を再検討し、「もの」より「こと」を対象化する試みとして定義し、ミースとズントーの建築行為に共属する試みを摘出している。ここでの〈事態〉という概念は建築をめぐるきわめて創造的な可能性をもつツールに仕立て上げられている。だがここでの私たちの文脈からいえば、ミースの建築のなかに、ひとつの事態を成立させるのではなく、ひとつの事態が成立すると同時に侵入してくる他者性、事態の成立を脅かすような事態を引き起こす舞台の設営を見ることはできないだろうか。シフターとしてディテールを介して。もしミースのなかにその可能牲がありうるとすれば、その方向性を極端に推し進めたのは現在ではやはりレム・コールハースなのかもしれない。コールハースによる《コングレクスポ》は、平面でみると単純な楕円形であり、全体が一貫したシステムのなかに収められているようにも見える。《コングレクスポ》の特性を浮き彫りにするために、同じく巨大なスケールをもつ槇文彦の《幕張メッセ》と比較してみてもよいかもしれない。ともに巨大なスケールのわりには(というより巨大スケールだからこそ)、一瞥のうちに全体形を想起しうる形態をしている。だが、近づくにつれて両者の相違は明確に浮き上がってくるように思う。《幕張メッセ》では、内部に入って、あるいは周囲を経巡って、その期待が裏切られることがない。ディテールの一つひとつに至るまで統一的な計画コンセプトに基づいて丁寧に設計されているからだ。全体から部分までが統一的なヒエラルキーのもとにあるといえる。《コングレクスポ》は《幕張メッセ》が与える印象とは全く異なっている。周囲を廻り込んでいくにしたがって立ち現われてくる立面は、場所ごとに与える印象が異なるので、全体を容易に想像することができない。地面に直接金属波板が接地している場所もあれば、基壇の上に乗っている場所もあり、また基壇が宙吊になっている場所もあり、ミースの構築形式をデイコンストラクトしたとでもいわんばかりの戦略。立面の金属波板は内側に弧を描いて廻り込み、面の単一性を破つてしまっている。ここでのディテールは、ミースの洗練とはほど遠いブルータルなものではあるのだが、その一方でミースの「倒錯的な」一側面の肥大化したパラノイド=クリティカルな徴候がここに示されているのかもしれない。

2──同《ファンズワース邸》Jean-Louis Cohen, Mies van der Rohe, Hazan,1994.

2──同《ファンズワース邸》Jean-Louis Cohen, Mies van der Rohe, Hazan,1994.

3──同《IIT同窓会館》 Mies van der Rohe

3──同《IIT同窓会館》 Mies van der Rohe



★一──難波和彦「柱と皮膜──ミース問題の展開」(『建築文化 特集=ミース・ファン・デル・ローエVol.1』彰国社、一九九八年一月号、九二頁)。

★二──大田浩史「ピーター・ズントー──〈事態〉の建築家」(『20世紀建築研究』INAX出版、一九九八、一九八─一九頁)。

>後藤武(ゴトウ・タケシ)

1965年生
後藤武建築設計事務所主宰。建築家。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>ミニマリズム

1960年代のアメリカで主流を占めた美術運動。美術・建築などの芸術分野において必...

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>ファンズワース邸

アメリカ、イリノイ 住宅 1950年

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>太田浩史(オオタ・ヒロシ)

1968年 -
建築家。東京大学生産技術研究所講師、デザイン・ヌーブ共同主宰。

>ピーター・ズントー

1943年 -
建築家。自身のアトリエ主宰。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。