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建築的無意識 | 難波和彦
Architectural Unconscious | Namba Kazuhiko
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.206-213

『建築的無意識』は一九九一年に出版された僕にとって初めての本のタイトルである。この本は一九八〇年代に書いたエッセイをまとめたもので、住まいの図書館出版局から「住まい学体系」第三九号として出版された(現在は絶版になっている)。副題に「テクノロジーと身体感覚」とあるように、テーマは一九世紀以降に急速に進展したテクノロジーが、建築空間を通して人間の身体感覚をどのように変容させたかという問題である。序で僕は建築的無意識について次のように述べている。

建築的無意識とは、建築と人間との相互作用によって形成されるシステムの中の固定的な回路である。ユーザーだけでなく建築家もそのような回路を持っている。記号論においては、そのような回路をコード(記号体系)とよぶ。それは種としての人間に埋め込まれた遺伝コード、歴史的に形成された文化的・慣習的なコード、性癖や習慣といった個人的なコードなど、さまざまなレベルの回路が絡み合ったネットワークである。(…中略…)ぼくとしては、たんに建築的無意識を明らかにするだけではなく、それを揺り動かし変容させる作業としてのデザインという視点を導入することによって、テクノロジーの問題に結びつけたいと考えた。テクノロジーと建築的無意識とが一体となってマインド・エコロジカルなデザインが生み出されるというヴィジョンである★一。


建築的無意識というキーワードは、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を読んだときに思いついた。一九〇〇年代初頭のモダニズム期を生きたベンヤミンは、この本の中で、映画という新しいテクノロジーが大衆の知覚を変容させるモデルとして、建築の経験を取りあげている。彼は「映画の受容と建築の経験は、散漫な意識と慣れを通じて知覚に働きかける点において共通している」といっている。僕はベンヤミンのこの視点に、建築が生活に働きかける回路を探るヒントを得た。そしてそのアイディアを記号論、マイケル・ポラニー、グレゴリー・ベイトソンらの理論によって展開させた。建築的無意識という概念には、一九八〇年代に隆盛を極めたポストモダニズム形態主義に対する暗黙の批判が込められている。それは、建築空間のもっとも重要なはたらきは、形態による視覚的刺激にあるのではなく、生活のアクティヴィティの背景を通じて、人間の感性にはたらきかける点にあるという主張である。建築的無意識は、長期にわたって生活が営まれる住宅において、とりわけ重要な意味を持つように思える。このアイディアは現在も基本的に変わっていない。しかし当時から二〇年を経た現在では、建築を取り囲むテクノロジーの様相は大きく変わっている。そこで今回は、建築的無意識の理論的展開をもう一度巡り直し、問題を整理してみたい。

機能主義から記号論へ

建築空間はどのような回路を通じて人間生活に働きかけるのだろうか。この問題に対して、モダニズムは機能主義という回答を与えた。建築空間が生活の容器だとすれば、生活のアクティヴィティはその中味である。アクティヴィティを建築の機能と考えるなら、機能主義とは、容器としての建築の形態は、中味である機能から導き出すべきだという主張である。しかしながら機能主義は、規範としては成立しても、現実に実行することは困難である。生活のアクティヴィティと建築空間との対応は不確定であり、一方から他方を自動的に導き出すことはできない。
一九七〇年代にモダニズム批判として勃興したポストモダニズムは、建築の形態を機能から引き離し、形態は機能から独立した、自律的なシステムであることを明らかにした。とはいえポストモダニズムにおいて、建築空間と人間生活とが完全に切り離されたわけではない。ポストモダニズムの理論的基盤となった記号論は、両者の関係に機能主義とは異なる視点を持ち込んだ。記号論のモデルとなったのは言語である。言語は差異の体系であり、「意味するもの」=音(あるいは文字)と、「意味されるもの」=概念(意味)との関係は恣意的である。しかし両者の間に安定した関係がなければ、言語は意味を伝えることはできない。恣意的ではあっても、安定した体系としての言語のモデルが、建築における形態と機能の不確定な関係に投影された。記号論は建築を記号としてとらえ、建築の形態を「意味するもの」、機能を「意味されるもの」とみなした。記号論によれば、意味するもの(形態)と意味されるもの(機能)とは、コードによって結びつけられている。コードとは人々が無意識のうちに共有している暗黙の規則(ルール)である。その構造が明らかになれば、両者の関係をデザインに適用することができる。さらにコードが恣意的である以上、それをつくり変えることも可能である。建築記号論は、形態と機能を結ぶ安定したコードに従うだけでなく、新しい形態や新しい機能を通じてコードを揺り動かし、時にはコードを組み替えることも、デザインの重要な役割であることを示唆した。
しかし言語をモデルとする建築記号論には、ひとつの盲点があった。それは機能のとらえ方である。「意味するもの」が形態だとすれば、「意味されるもの」は果たして機能だろうか。形態と意味との関係に対してならば、記号論は通用する。一般に、形態の意味とは、形態が連想させるなにかである。しかしそれは容器としての空間=形態と、中味としてのアクティヴィティ=機能の関係とは、様相が異なる。形態がなんらかのアクティヴィティを連想させることはあるかもしれないが、それは想像上のアクティヴィティに過ぎない。これに対して、機能は現実のアクティヴィティである。記号論は形態と想像上の機能との関係には通用するが、リアルな機能との関係を明らかにすることはできない。とすればほかにどのような方法があるのだろうか。
記号論を理論的根拠にしたポストモダニズム形態主義は、形態が放つメッセージには注目したが、形態が喚起するアクティヴィティには重きを置かなかった。形態と意味は暗黙のコードによって結びついているが、形態と機能の間にも、両者を結びつけるなんらかのコードがあるはずである。クリストファー・アレグザンダーが考案したパタン・ランゲージは、そうしたコードの一種だといってよい。アレグザンダーは形態と意味との関係には興味を持たず、もっぱら形態と機能の関係に注目した。パタンは空間(Space)と出来事(Event)との結びつきを曖昧な型としてとらえたものである。アレグザンダーは人間のアクティヴィティだけでなく、空間で生じるすべての現象をEventとしてとらえた。Eventは広い意味でのアクティヴィティといってよいだろう。

記号論から建築的無意識へ

記号論もパタン・ランゲージも、暗黙のコードの存在を前提にしている。しかしいずれも、コードがどのようなプロセスによって形成されるかについては明らかにしていない。コードの形成プロセスについてヒントを与えてくれたのは、前述のヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』である。この本の中で、ベンヤミンは、自然を制御するプレモダンな技術と、自然から離れて遊戯性に向かうモダンな技術の相違について論じながら、映画に代表される新しい技術による芸術が、社会に浸透し、大衆の知覚を変容させるプロセスについて考察している。本書は技術論としても深い洞察に満ちているが、僕がもっとも興味を持ったのは、新しい技術による芸術の浸透と受容のモデルとして、建築に注目している点である。きわめて刺激的な視点なので、少し長いが引用しよう。

建築の及ぼす作用を考えてみることは、大衆と芸術の関係について究明しようとするすべての試みにとって、意味がある。建築物は二重のしかたで、使用することと鑑賞することとによって、受容される。あるいは触覚的ならびに視覚的、といったほうがいいだろうか。このような受容の概念は、たとえば旅行者が有名な建築物を前にしたときの通例のような、精神集中の在りかたとは似ても似つかない。つまり、視覚的な受容の側での静観に似たものが、触覚的な受容の側にはないからだ。触覚的な受容は、注目という方途よりも、むしろ慣れという方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる。また、視覚的な受容にしても、もともと緊張して注目するところからよりも以上に、ふと目を向けるところから、おこなわれるのである。建築において学ばれるこのような受容のしかたは、しかも、ある状況のもとでは規範的な価値をもつ。じじつ、歴史の転換期にあって人間の知覚器官に課される諸課題は、たんなる視覚の方途では、すなわち静観をもってしては、少しも解決されえない。それらの課題は時間をかけて、触覚的な受容に導かれた慣れをつうじて、解決されていくほかない。慣れていくことは、くつろいだひとにもできる。それどころか、ある種の課題をくつろいで解決しうることこそが、初めて、ひとが課題の解決に慣れてきたことを、あかしする。知覚に課された新しい課題がどの程度まで解決可能になったかは、芸術が提供するべきくつろぎを目安として点検できよう★二。


ここにはいくつかの視点が重なり合っている。ベンヤミンはまず、建築の受容のされ方を「鑑賞することと使用すること」の二つの側面からとらえている。この二側面は、そのまま「形態と機能」の対比に重ね合わせることができるだろう。ベンヤミンはこの二側面を「注目と慣れ」の対比としてもとらえ、さらに「視覚的な受容と触覚的な受容」へと展開させている。それぞれのとらえ方には、微妙なズレがある。そのズレをはっきりさせるために、僕はさらに二つの視点を導入してみたい。ひとつは「空間的受容と時間的受容」、もうひとつは「意識と無意識」という対比である。建築を鑑賞することは、視覚的に注目し、意識的にとらえることである。触覚的鑑賞というようなものもあるかも知れないが、いずれにせよ意識をそばだてることによって受容されることに変わりはない。鑑賞されるのは形態や空間であり、機能ではない。一方、建築を使用することは、時間をかけて空間や形態に慣れ親しみ、触覚的な体験を通して身体化し、形態や空間を無意識の背景に沈めることである。たとえば住宅に住み始めるときのことを考えてみるとよい。最初のうちは、形態も機能も新鮮に見え、すべてが意識の上に浮かび上がってくる。形態はまるで芸術作品を鑑賞するように見えるだろうし、機能はいちいちマニュアルを見ながら意識的に使いこなさねばならない。しかし時間をかけて少しずつ住まいに慣れ親しみ、そこに住み込むようになると、形態も機能も意識の上から消え、空間は身体に馴染み、無意識の背景の中に溶け込んでいく。こうして物理的な存在としての住宅が、「生きられた家」となる。それを僕は「建築的無意識」と名づけたのである。
このように見てくると、形態と機能には、意識的な関係と無意識的な関係という二種類があることがわかる。あるいは、形態と機能の関係は、時間の経過によって変容するといってもよい。ベンヤミンの映画技術論からいうなら、形態と機能の関係を、意識的にとらえるのは専門家であり、無意識的にとらえるのがユーザーだという見方もできる。前近代においては、つくり手と使い手は一体だった。しかし近代以降、つくり手と使い手は分離し、作り手は専門家となり、使い手は大衆化した。これはそのまま建築にも当てはまる。専門家はすべてを意識化しよう試み、大衆はその結果を無意識的に受容する。この問題を、ベンヤミンは映画という新しい芸術において考察したが、同じことは建築にもいえるだろう。両者の対比を強調し過ぎることは危険だが、近代建築がそうした分離の上に成立していることは明らかである。そのような近代性を背景にした建築のあり方をとらえるために、僕は時間的な受容を建築のもっとも重要な特性だと考えた。専門家である建築家は、すべての条件を意識化することによってデザインしようとする。しかしできあがった建築は、ユーザーによって無意識的に受けとめられ、身体化される。デザインの有効性を確かめるには、建築家はそのプロセスについても知らねばならない。建築家は建築的無意識を意識化するだけでなく、同時に、それに身を任せ、体験することもできなければならない。

意識から無意識へ

形態と機能が、建築的無意識という時間的受容を通して結びつけられるのだとしたら、そのコードは一体どのようなものだろうか。あるいは、そのコードはどのようにして形成され、変容するのだろうか。コードとは、そもそも人工的に制御できるものなのだろうか。
先にも述べたように、形態と機能を結びつけるコードをもっとも体系的にとらえたのは、クリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージである。パタンは空間と出来事との関係を、曖昧な型として表わしたものであり、建築空間は複数のパタンをネットワークに組み合わせることによってうみ出される。パタン・ランゲージは二五三のパタンから成る。個々のパタンは、アレグザンダーと彼のチームによって、世界中の事例から経験的に抽出され、実際の設計への適用によって検証された。アレグザンダーは、初期の『形の合成に関するノート』(以下、『ノート』)では、機能を形態に結びつけるために、形態が解決すべき条件としての機能を徹底的に細分化・客観化し、そのネットワークをグルーピング化することによって、形態のダイアグラムを生み出そうとした。しかしその方法がうまくいかないことに気づき、パタン・ランゲージへと向かったのである(このあたりの詳しい経緯については「現代住宅論四:クリストファー・アレグザンダー再考」[『10+1』No.47所収]参照)。とはいえアレグザンダーが提案した方法のなかでは、いまだに初期の『ノート』の方法にもっとも可能性があると考えられている。なぜだろうか。その理由は、設計条件としての機能を可能な限り意識化、明示知化しようとした点にある。『ノート』の「デザイン・プロセスの三段階」にも示されているように、アレグザンダーは、コンテクストと形をすべて記号化したうえで、両者を結びつけようとした。これは専門家がもっとも理想とする意識化の方法だといってよい。ではアレグザンダー自身は、なぜその方法を捨て、曖昧なパタン・ランゲージに向かったのだろうか。第一の理由は、アレグザンダー自身も述べているように、細分化・明示知化されたコンテクストの項目をネットワークに組み、ダイアグラム化する方法では、明示知化されたコンテクストを満足するだけの、単純なツリーシステムの形態しかつくれないことがわかったためである。たしかにそのとおりだが、僕には、もっと積極的な理由があったように思える。それは『ツリー』において一旦意識化した方法を、ふたたび無意識化するためだったのではないだろうか。
科学哲学者のマイケル・ポラニーは『暗黙知の次元』の中で、知識には明示知化できる知識と、できない知識とがあることを明らかにしている。ポラニーは、人間は「語ることができるよりも多くのことを知っている」と主張する。ポラニーは明示知化・意識化できない知識を「暗黙知(Tacit Knowledge)」と名づけた。暗黙知はつねにふたつの要素によって構成されている。この点を説明するために、ポラニーはひとつの実験を例にあげる。それは無意味な綴りを被験者に見せ、ある特定の綴りを見せたときにだけ、被験者に電気ショックを与えるという実験である。この実験を繰り返すと、被験者は「ショック綴り」(第一項)が示されるとき、ショック(第二項)を予想するようになる。しかし被験者はショック(第二項)を意識することはできるが、「ショック綴り」(第一項)がなんであるかを言い当てることはできない。この実験結果は、被験者が「語ることができる以上のことを知っている」ことを証明している。さらにポラニーは、顔の部分的認識(第一項)と、顔全体のゲシュタルト認識(第二項)との関係など、同じような例をあげながら、第一項と第二項を結びつける暗黙知の構造について論じている。暗黙知においては、第二項は意識されるが、第一項は意識されない。しかし暗黙知は両者の結びつきをはっきりととらえている。暗黙知は無意識のうちに、あるいは身体に埋め込まれた知識である。この点について、ポラニーはこういっている(以下、括弧内は筆者註)。

我々は、対象を構成している諸細目の集まり(第一項)を統合して、対象をひとつのまとまった存在(第二項)として理解するが、そのとき我々は、それら諸細目の集合を身体に同化させることによって、身体を世界へと拡大させ続けているのである★三。


暗黙知は身体化された知識である。それは言葉によって説明される知識ではなく、行動することにおいて知られた知識である。したがって、暗黙知は、第一項と第二項の関係を明示知化することによって明らかにすることはできない。というよりも、暗黙知は明示知化されると、本来のはたらきを失うのである。こうしてポラニーは暗黙知の構造について、次のように結論づける。

(1)まとまりを持つ存在(第二項)を暗黙知が知る場合、その存在の諸細目(第一項)についてわれわれが感知していることは、その存在に注目するための手がかりとされる。(2)もし我々が関心を諸細目(第一項)に移すならば、諸細目のこの機能は失われ、我々がそれまで注目していた存在(第二項)は見えなくなる。存在論においてこれに対応するには次の二点である。(1)包括的存在(第二項)を制御する原理の活動は、その包括的存在の諸細目自身(第一項)を支配する法則に依拠して行われる。(2)それと同時に、その諸細目(第一項)を支配している法則は、諸細目の全体が形成する、より高い存在(第二項)の組織原理を説明することはない★四。


要するに、暗黙知の第一項である諸細目は、全体性をもった第二項を構成する部分であり、両者は存在のレヴェルが異なるために、部分を寄せ集めても全体を形成することはできないということである。これは機能の集合によって形態をみちびき出そうとする、機能主義の方法についてもあてはまる。
アレグザンダーは『ノート』において、コンテクストと形だけでなく、両者の関係までも明示知化・意識化しようと試みた。ポラニーの暗黙知理論によれば、コンテクストを明示知化・意識化すれば、それを統合する形は見えなくなる。コンテクストと形を明示知化したままで、両者を結びつけることは不可能なのだ。アレグザンダーがパタン・ランゲージに向かったのは、コンテクストと形の関係を暗黙知化するためだったのではないだろうか。
ポラニーの暗黙知理論と同じような議論を、もっと広い文脈で展開しているのが、文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンである。ベイトソンは「情感(ハート)には、理性(リーズン)が感取しえない独自の理性がある」というパスカルの箴言を引きながら、「ハート」が、言語によって明示知化できる「リーズン」とは異なる、精密な演算規則(Algorithms)を持っていると主張する。

そうした「ハート」の、いわゆる「無意識」の、演算規則は、言語の演算規則とはまったく別の方法でコード化され、組織化されている。しかも我々の意識は、大部分言語によって組み立てられている。そのために、無意識の演算規則を意識でとらえることは二重の困難をともなう。意識に支配されている限り、精神はこうした対象を掴むことはできないというばかりでなく、かりに夢、芸術、詩、宗教、酩酊などによって、それが運よく把握できたとしても、それを言葉に翻訳するのが、また途方もなく難しいのだ★五。


さらにベイトソンはシステム論や進化論の視点から、これを次のようにも言い換えている。

最初は計画的、意識的に行われていた行為が、しだいに習慣化されていく。習慣はしだいにより無意識的な、意図による制御のきかないものになっていく。そして生命体の最深部にまで落ち切った習慣は、そこで「記憶のボディ」に統合される。この記憶のボディは、(現代の生物学が想定する遺伝子型genotypeのように)次世代の特性をも決定する★六。


恒久的に真であり続ける関係性についての一般事項は、無意識領域に押しやり、個別例の実際的処理に関わる事項は、意識領域に留める、という答が、システムの経済適用性からでてくるのである。思考の前提は沈め、個々の結論は意識の上に残しておくのが得策である。しかしこの「沈め」は、経済的であるといっても、やはり「手放す」ことの代価を払って得られるものである。沈める先が、隠喩とイコンの演算規則が取りしきるレベルである以上、そこからはじき出されてきた答が、どのように導き出されたのか、もはや知ることは難しい★七。


暗黙知とは、知識というシステムの作動を効率化させるために、ブラックボックス化したサブシステムなのである。

形から機能へ

ベンヤミン、ポラニー、ベイトソンらの思想は、建築の形態と機能の関係を、意識と無意識をめぐる広大な領域の中に位置づけてくれる。彼らの理論が明らかにしたのは、形態と機能の結びつきは、意識的にとらえられるものではなく、時間の経過の中で徐々に結びつき、無意識の底に沈むことによって、人びとの生活にはたらきかけるということである。ポストモダニズムの形態主義が、問題をとらえ損ねたのは、意識に直接訴えかけるような特異な形態を追求するだけで、形態が無意識にはたらきかける回路を忘れていたからである。特異な形態は、当初は視覚を刺激し意識に訴えかけるかもしれないが、時間の中で徐々にその効力を失っていき、最終的にはたんなる異物と化す。そして限定された形態によって、形態と機能のフレキシブルな結びつきを阻害することに終わるだろう。
とはいえ建築デザインの役割は、無意識の演算規則に馴染みやすい、ありふれた形態と機能の結びつきを提供することにあるわけではない。そうではなく、むしろ意識をつうじて無意識を揺り動かすことによって、生活のアクティヴィティを新たに再組織化することにある。さらにいうなら、生活の変化に対応できるように、無意識化される空間とアクティヴィティを、緩やかでフレキシブルに結びつけることにある。
建築デザインにおいて、機能(生活のアクティヴィティ)が重要な条件であることはいうまでもない。しかし建築デザインにおいて、現実の操作可能な変数は、形態である。形態をとおして機能を制御することが、建築デザインの基本的なスタンスである。先に述べたように、形態と機能がそれぞれ独立したシステムだとするなら、建築デザインとは、機能から形態を導き出す作業というよりも、むしろ形態を第一項とし、機能を第二項として、機能にはたらきかけることではないだろうか。機能が生活のアクティヴィティのネットワークだとするなら、それをひとつのシステムとしてとらえることができる(事実、アレグザンダーはそうした)。ならば逆に、形のシステムをつうじて、機能のシステムを再編成することも、不可能ではないはずである。
美術史家のエルンスト・H・ゴンブリッチは、形態と機能の関係について、ユニークな視点を提示している。ゴンブリッチは、子供の遊具である棒馬(ホビー・ホース)に注目しながら、形態と機能の関係について、次のように述べている。

こうしてみると、一本の棒がわれらの棒馬になるためには、二つの条件が必要だったということになる。第一は、その形がちょうど馬乗りできるようなものであったこと。第二に──おそらくこれが決定的なものであるが──乗ることが重要だったということである。(…中略…)乗るという欲求が大きければ大きいほど、馬として役立つ特徴の数は、それだけ少なくなるだろう★八。


子供たちにとって、たんなる棒や箒が遊具としての棒馬になるのは、馬に乗るという機能が、なによりも重要だからである。大人たちが考えた馬の遊具のように、形態が馬に似ているからではない。むしろ単純で抽象的な形態だからこそ、棒や箒は、子供たちの想像力と創造力に訴えかけ、遊びを誘起するのである。ゴンブリッチの所見を敷衍すれば、以下のように考えることができるだろう。ある機能に対する欲求が大きければ、形態がその機能を誘起するような場合が、多々ありうること。そのような場合、その機能に対する欲求が強ければ強いほど、形態に求められる条件の度合いは弱まるということである。これは形態と機能に関する、昨今流行のアフォーダンス理論を想起させる。しかし機能への欲求を考慮している点において、さらに一歩踏み込んだ主張だといってよい。ある特定の機能への欲求が大きいとき、それに応えるために提示された形態は、最小限の表現によってその機能を満足させる。それだけではなく、表現を抑えられた形態は、ユーザーの想像力・創造力をかき立て、さまざまな機能を誘起させるだろう。
先にも述べたように、無意識の底に暗黙知化された形態と機能の関係を、明示知化することはできない。というよりも、明示知化することによって、暗黙知の構造は破壊される。しかし、あらためて考えてみるなら、こうした暗黙知の構造が明らかになったのは、そもそもそれを明示知化しようとしたからにほかならない。暗黙知に関するポラニーの研究も、明示知化をとおして、暗黙知の明示知化の不可能性を明らかにしたのである。暗黙知の構造を、暗黙知によって明らかにすることはできない。暗黙知に身を任せている人は、暗黙知の存在を自覚することはないし、暗黙知の構造を知りたいとも思わないだろう。同じように、建築における形態と機能の関係は、たとえそれが無意識的にはたらくのだとしても、その構造は、明示知化・意識化することを通してしか、明らかにすることはできない。
ひとつの例として、アレグザンダーの理論展開を再び辿ってみるのがいいだろう。彼は『ノート』において、徹底した明示知化・意識化の方法を試みた。その結果、明示知化・意識化の方法の限界を察知し、形態と機能を曖昧な型としてとらえるパタン・ランゲージへと方向転換した。さらに彼はパタン・ランゲージの加算的なデザインの限界を見極めたうえで、形態が機能を組織化するという「形の幾何学的性質」の研究へと展開していき、現在では、それを自然界の秩序へ結びつける“NATURE OF ORDER”の探索へと向かっている。アレグザンダーが辿った道は、暗黙知を徹底的に明示知化・意識化し、再びそれを暗黙知化することによって、暗黙知をつぎつぎと新しい段階へとステップ・アップさせていくプロセスである。ベイトソンもいうように、明示知を暗黙知化すると、システムの効率はよくなるが、その内部構造はブラックボックス化し、システムはルーチン化する。形態と機能の相互喚起作用を維持するには、たえず暗黙知を明示知化・意識化しなければならない。暗黙知を明示知化・意識化することは、暗黙知を揺り動かし、見慣れないものへと変容させることである。そうした暗黙知の明示知への転換について、ポラニーはこういっている。

諸細目に関心を集中させることによって破壊された意味が、ふたたびとりもどされるための方法は、もちろん、諸細目の暗黙的な再統合のほかにないわけではない。分析によって包括的存在が破壊されることにたいして、多くの場合にとられる対抗策は、諸細目の関係を明確に述べる、ということである。これは明示的な統合といえるが、これが実現可能な場合には、この明示的な統合は、暗黙的な統合の範囲をはるかにこえる★九。


形態のシステムから機能のシステムへのはたらきかけが目指すのは、こうした明示的な統合である。
設計プロセスにおける建築家とユーザーとの協同作業は、機能に関するユーザーの知識を明示知化し、機能に対するユーザーの欲求を強化する。それに対して建築家は、必要最小限の要素によって構成された空間を提供する。このような建築家とユーザーとの相互喚起作用が、新しい建築へのユーザーの創造力・創造力をかき立て、機能の変化にフレキシブルに対応する建築を生み出す。そのようなプロセスがもっとも有効にはたらくのは、なによりも住まいの設計においてである。


★一──拙著『建築的無意識──テクノロジーと身体感覚』(住まいの図書館出版局、一九九一)。
★二──ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(野村修訳、岩波文庫、一九九四)。
★三──マイケル・ポラニー『暗黙知の次元』(佐藤敬三訳、紀伊國屋書店、一九八〇)。
★四──同前。
★五──グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(佐藤良明訳、思索社、一九九〇)。
★六──同前。
★七──同前。
★八──エルネスト・H・ゴンブリッチ『棒馬考』(二見史郎+谷川渥+横山勝彦訳、勁草書房、一九八八)。
★九──ポラニー、前掲書。

*この原稿は加筆訂正を施し、『建築の四層構造──サステイナブル・デザインをめぐる思考』として単行本化されています。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年生
東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。建築家。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>複製技術時代の芸術

1965年11月1日

>クリストファー・アレグザンダー

1936年 -
都市計画家、建築家。環境構造センター主宰。

>パタン・ランゲージ

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>アフォーダンス

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