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ミレニアムの都市(前編)──一九九九年、ポストバブルの東京論 | 五十嵐太郎
The City in the Millenium Part 1: Tokyo Studies in the Postbubble Era, 1999 | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000, 2000年03月発行) pp.221-231

情報端末としての建築

電飾、看板、ファーストフード、カラオケ、ゲームセンター、カフェ、居酒屋、ドラッグストア、電化製品の量販店、百貨店、金融ビル、JR線の高架、スクランブル交差点。数々の情報と人々が行き交い、数々のストリートにつながる渋谷のターミナル。そして「二〇〇〇年へのカウントダウンを目指して、渋谷にQFRONTが誕生する」★一[図1]。QFRONT、すなわちQueen of the FRONTは、二一世紀の高度情報化社会における前衛のクイーンを目指し、渋谷の活性化のために設立された。二〇世紀前半の近代建築が機械をモデルとしたのに対し、世紀末は情報モデルに移行する。QFRONTがもっともわかりやすく情報の建築を表現するのは、「最新鋭のテクノロジーを駆使した商業ビルとしては日本最大のモニター『QユS EYE』」だろう[図2]。かくして、渋谷の駅前に三つの巨大なスクリーンが並ぶ。それは海外の欲望するテクノ・オリエンタリズムの風景を引き受けたかのようにして、一九九九年一二月に登場した。

1──QFRONTのスクリーン 2000年へのカウントダウン 撮影=槻橋修

1──QFRONTのスクリーン 2000年へのカウントダウン
撮影=槻橋修

2──QFRONTの夜景 設計は株式会社アール・アイ・エー 筆者撮影

2──QFRONTの夜景 設計は株式会社アール・アイ・エー
筆者撮影

QFRONTのブックレットによれば、「いわゆる『建築』という空間の形態的なデザイン性を拒否し、『不在建物』を目指す」。二〇世紀の建築は、過去の様式や比例に代わって、いかに「空間」を構成するかをめぐって思考を続けてきた。しかし、QFRONTに著名な建築家が演出した劇的な空間のデザインはない。内部はいたって凡庸である。それが「建築」ならば、伊東豊雄が設計した《せんだいメディアテーク》(二〇〇〇)のように、洗練された空間の形式によって情報のモデルを表現するだろう[図3]。もうひとつの情報の建築メディアテークは、柱を排除し、くねる樹状のチューブを一三本ランダムに挿入して、光や空気、水や情報を伝達する。そして壁の代わりにスキンと呼ばれるガラスの皮膜が全体を覆う。予算の問題のせいか、意図的に放棄したのか不明だが、QFRONTに建築的な操作は存在しない。先端的なデザインを期待すれば、裏切られてしまう。『新建築』二〇〇〇年一月号では、わずか二ページしか紹介されなかった。QFRONTを好意的に解釈すれば、空間のメタファーにより、情報のモデルを表現しなかったのである。
QFRONTも、ガラスが覆い、物理的な存在感が希薄だ。両隣のビルが壁面に設置された黒い画面のスクリーンであるのに対し、QFRONTはダブルスキンのガラスのあいだに、ルーバー状のLEDパネルを仕込み、ファサードと一体化した透過性の高いスクリーンをもつ。したがって、無数の電球を散りばめたラスベガスの
 《フリーモント・ストリート・エクスペリエンス》(一九九五)のアーケードのように、スクリーンの向こうが透けて見える[図4]。フリーモントのそれは全長四二〇メートルのアーケードに二一〇万個の電球と二〇八個のスピーカーをとり付け、毎夜、コンピュータ制御により光と音のショーを繰り広げる。約六分のパフォーマンスは、森や虹、星座や美女、ジェット機などが登場する決まった内容だが、筆者は一九九九年へのカウントダウンをここで経験し、特別プログラムを鑑賞する機会を得た[図5]。この施設は凋落傾向だったフリーモント・ストリートに再び活気を与える。いずれも建築の一部である壁や天井を壮大なイリュージョンに変えてしまう。可変式の装飾である。QFRONTはファサード自体が最新の映像情報を発信するとともに、半透明ゆえにガラス越しに建物の内部と外部の情報を相互浸透させる。ラディカルなデザインとは言えないが、透明建築が流行した九〇年代をよく表わした建物である。
QFRONTの施設の概要を見よう。地下二階から四階までの六フロアは、テナントとしてカルチュア・コンビニエンス・クラブ社が入り、ヴィデオ、CD、ゲーム、書籍など各種のソフトの販売とレンタルを行なう最大級のTSUTAYAを収容する。各フロアには数台のTSUTAYAインフォメーション端末を設置し、欲しい作品の検索を行ない、地下二階には音楽データをダウンロードするキオスク端末を置く。そして五階にインターネット放送局と連動した「情報発信型イベント・スペース」のe-style、六階にデジタルハリウッドを含む新しいクリエイターを育成する学校と展示の施設、七階に駅に一番近い映画館、一階と六階にカフェがある。一階の液晶パネルと各階の情報端末により、渋谷の映画館の上映時間と空席情報を表示する。まさに情報の倉庫になっている。ここでは物理的な奥行きがなく、情報のアーカイヴへの接続が行なわれるだろう。アクセス可能性が重要なのだ。旧来の「空間」が失効する。

3──伊東豊雄《せんだいメディアテーク》の模型 出典=『せんだいメディアテーク新築工事』パンフレット

3──伊東豊雄《せんだいメディアテーク》の模型
出典=『せんだいメディアテーク新築工事』パンフレット

4──ジャーディー・パートナーシップ 《フリーモント・ストリート・エクスペリエンス》 (1995) 筆者撮影

4──ジャーディー・パートナーシップ
《フリーモント・ストリート・エクスペリエンス》
(1995)
筆者撮影

5──フリーモント・ストリート 1999年へのカウントダウン 筆者撮影

5──フリーモント・ストリート
1999年へのカウントダウン
筆者撮影

コンビニという建築のモデル

こうした端末機としての倉庫は現代の都市に遍在している。例えば、無人契約機、カラオケボックス、キャッシュ・ディスペンサー。九〇年代の都市は異空間とつながる個室の増殖を目撃した。そして二四時間発光する倉庫、コンビニがある。これが日常風景と化したことを反映し、建築界は情報化社会における新しい建築のモデルとしてコンビニを挙げるようになった。例えば、伊東豊雄は、「コンビニエンスストアでの物の配列とか均質さは、建築家がずっと言ってきた、ドライなとか、あるいは機能的なといったような言葉を遥かに徹底的に、合理的に成し遂げている。それはわれわれの身体感覚を決定的に変えていっている」と言う★二。超機能性としてのコンビニ、イメージとしてのコンビニ。美術界も参照する。例えば、中村政人の「トラウマトラウマ」展(一九九六)はそのサインを[図6]、間島領一の「アートのコンビニ マジアート」展(一九
九七)はその販売形式を画廊に持ち込む。いずれも現代の消費社会に関心をもつ作家である。
しかし、ここではコンビニ自体をもっと考察しよう。そもそも戦争における前線への物資補給のために進化したロジスティクス(兵站術)の原理は、バーコードのシステムと融合しつつ、民間の物流にも活用されてきた★三。これがコンビニにも使われる。阪神大震災の直後、コンビニは物資供給の場として活躍したらしいが、非常時の災害において、戦争のためのロジスティクスという本来の機能があらわになったからにほかならない。日本のセブンイレブンは一九八二年にPOS(小売店の販売状況を情報管理するシステム)を導入し、流通革命を起こした。アメリカはそれよりも一〇年早くPOSを使い始めていたが、レジの簡略化と社内不正の防止が主な理由になっていたのに対し、日本はマーケティングなど経営戦略のツールに活用して急成長を遂げる★四。そして日本側のイトーヨーカ堂がアメリカにおける本家のセブンイレブンを買い取り、二年で黒字にした。現在、コンビニこそが散在する都市の前線基地であり、コンピュータによる商品管理を行ない、迅速に生産→輸送→販売→消費という資本主義のサイクルを動かしている。
情報サービスの多様化は進む★五。九〇年代の後半以降、各コンビニ・チェーンは、情報端末を設置し、各種のチケット、物販、書籍からATM、派遣社員の情報検索、結婚式場のカタログ請求まで行なう。今後、インターネットとの競合や共存が注目されるはずだ。例えば、金融業のプロミスはインターネットを利用した「サイバーショップ」を開設し、時間と場所に縛られない「シームレス・キャッシング」を始める。またセブンイレブンは、全国八〇〇〇店舗をインターネットショップと連動させて、「安心・確実な新しい代金収納サービスを立ちあげ、二〇〇三年には取扱い件数約一、六〇〇万件、預り金額約一、〇〇〇億円」を目指している★六。すでにセブンイレブンは、公共料金などの収納代行サービスで年間七〇〇〇万件、五〇〇〇億円を扱う。日本のインターネット上のオンライン・ショッピングの代金決済は、銀行振込や代金引換が大半を占め、クレジットカードの利用率は一割強にとどまっているが、そうした状況にコンビニが介入する。二〇〇〇年一月六日、セブンイレブンはNEC、ソニー、JTBなどと合弁会社を設立し、独自のインターネット・サイトと各店舗の情報端末を通じて、店頭で決済と商品取引を行なうシステムの立ちあげを発表した。三年後までに電子商取引市場の一割にあたる三〇〇〇億円の売上高を見込む。これを追撃するように、一月一一日、ファミリーマートは同業の四社と電子商取引の合弁会社を設立し、端末と商品の共同開発や他企業の代金回収ビジネスを推進することを明らかにした。五社の合計店舗は、一万二五〇〇店となり、セブンイレブンを上回る。コンビニ戦線は、生き残りをかけてネットビジネスに参入する。
かくしてネットワーク化するコンビニは、ウェブ上でのみ決済や宅配を進めるのではなく、リアルとヴァーチュアルな世界を結ぶ、信頼性をもったターミナルとして機能する。それゆえ、コンビニに対する街の「ステーション」という形容は偶然のものではない。

6──中村政人「トラウマトラウマ」展(1996) 出典=「QSC+mV/中村政人」展(1999)パンフレット

6──中村政人「トラウマトラウマ」展(1996)
出典=「QSC+mV/中村政人」展(1999)パンフレット

ターミナル・アーキテクチャーへ

ところで、QFRONTの総合プロデュースを担当したのは、浜野安宏である。彼の構想は大きい。かつて渋谷の街は七〇年代以降の109とPARCO、八〇年代の丸井の展開によって、若者が支持するファッショナブルな文化圏を形成した。九〇年代にはチーマー、渋谷系の音楽、コギャル、厚底ブーツ、茶パツが話題を集めた。が、浜野によれば、QFRONTは、二〇〇〇年代に渋谷を世界的なデジタル・クリエイターの街に変貌させる起爆剤になる。つまり、「デジタル・アレー」と化した地域のシンボルなのだ。彼が「広域渋谷」と呼ぶ、渋谷を中心とする広尾、松濤、恵比寿、千駄ヶ谷までの地域には、三万人近い高収入のデジタル系クリエーターが住み、さらにその周辺には関連の仕事につく人々や予備軍の学生が三〇万人くらい集まっており、高いポテンシャルがあるという。場所性を否定しがちな情報建築でありながら、戦略的に場所性を重視しているのだ。しかし、この構想の実現化は難しい。未発達な街ならともかく、あまりに複雑化した渋谷を変革するからだ。便利なレンタル店が渋谷の駅前にできただけで終わってしまうかもしれない。だが、QFRONTが理想に掲げたビルディング・タイプと都市環境は、幻想も含めて九〇年代の都市の変容を的確に象徴する。彼は街をつくるために居住空間が必要だと考え、自ら明治通りの裏道キャットストリートに引越した。以前、彼が表参道から根津美術館をファッション・ストリートに変えるべく仕掛けたとき、近くに転居したように。そして渋谷をデジタル・キッズの街に変えるために、次のような新しいスタイルの集合住宅が提案された。

7──黒川紀章 《万博パヴィリオンのための カプセル建築》1960年代 出典=『ホモ・モーベンス』

7──黒川紀章
《万博パヴィリオンのための
カプセル建築》1960年代
出典=『ホモ・モーベンス』

団塊ジュニアの世代が住みたい部屋というのは、余計なものはいっさいない、間仕切りもない、ただ箱のような空間。でもISDNなどのデジタル時代に必要不可欠なプラグインは、すべてあるというような部屋です。そんな部屋が大量に必要になると思います。それは安い値段でできるんです。だけど今までのマンション業者は発想が硬化しているからできない。私は必死に業者に働きかけています。また、自分でも計画しています★七。


浜野が提示した倉庫のような居住空間も興味深い。間仕切りが少ない、がらんとした部屋。最近の若手建築家と施主が共有する住宅のイメージに同種の傾向を認めることができるからだ。押しつけがましいデザインは廃棄され、使い手が自由にふるまう。さらに情報端末さえあれば、倉庫は情報の海に漂う。アーキグラムメタボリズムが考案した単位空間のダイナミックな組み換えなど、一九六〇年代の都市のヴィジョンは、コンピュータにより、修正したかたちで現実のものとなりつつある。例えば、かつて黒川紀章は、工業都市から情報都市へのパラダイム変革を唱え、日本人の騎馬民族的性格に触れつつ、ネットワーク社会におけるホモ・モーベンス(動民)の誕生を予言した★八[図7]。そしてカプセルがドッキングしたり、離れたりする、「動く建築の時代の到来を告げる」。しかし、この発想は自動車という携帯空間がモデルになっていた。が、現在はサイバースペースの拡大により、実際には動くことなく、空間を移動することが想像されている。
建築が情報のターミナル(端末)になる。それは同時に建築のターミナル(終焉)でもあると、マーティン・ポーリーはいう。彼もコンピュータ制御による巨大物流センターに関心を抱く[図8]。窓のないデカイ箱。建築家の出番は少ない。ポーリーによれば、「これらの単調な壁に囲まれた建物は、抽象的で見えないデジタル・ネットワークの視覚的なマニフェストである。そのネットワークはいまやEC諸国とその近隣国を生産・物流・消費の縫い目のないウェブに統合してしまう。それらはコンテナ・ポート、空港と鉄道、自動冷凍の貯蔵庫、倉庫、広大なトラック・パーク、モービル・ホームの停車場を通して、二四時間稼働するスケジュールと旅程をつなぐ諸々のターミナルのネットワークの一部である」★九。つまり、情報環境の変化は、ぐにゃぐにゃしたデジタル表現主義のサイバーアーキテクチャーによってのみ表象されるわけではない。だが、こうした建築の位置の変動は世紀末に始まったことではない。ミシェル・フーコーは、パノプティコンのモデルを提示しながら、一八世紀において空間と権力は建築を介在して効果的に関係したことを考察したが、一九世紀に鉄道が登場してからは両者の関係が変化し、二〇世紀において建築家はもはや地域、コミュニケーション、速度の技術者ではなくなり、空間の支配者ではなくなったことを示唆している★一〇。

8──イギリスにおいてコンピュータを導入した 初期の物流センター(1970) 出典=Terminal Architecture, 1998

8──イギリスにおいてコンピュータを導入した
初期の物流センター(1970)
出典=Terminal Architecture, 1998

室内空間としての都市

続いて一九九九年初頭の東京に出現した二つの都市開発をとりあげたい。いずれも山手線の駅と高架の遊歩道を介して接続する巨大な施設、品川インターシティとゲートシティ大崎である。前者は日本設計と大林組、後者は日建設計がデザインを担当した。松葉一清は「わたしが感心するのは、それらの空間が有名建築家の作品だからというのではなく、そのものがもつ魅力によってひとを集めているところである」と語り、小田急建設による新宿サザンテラスを加えて、三つの大規模な開発がどれも建築専門誌の巻頭を飾らなかったことに注目している★一一。「建築家の卵たち」にとっての「流行の先端を読むスタイルブック」としては、ふさわしくないからだという。これらの開発に建築家の思想を読むことはできない。ともあれ、こうした都市開発を個人事務所の技術だけで遂行するのは困難だ。大きな設計組織の力に頼らざるをえない。
一九九九年に増設された建築家による東京の新名所としては、谷口吉生の秀作、上野公園の
 《法隆寺宝物館》程度の規模しかない。品川や大崎の開発に匹敵する九〇年代の建築家の作品は、原広司の《京都駅》(一九九七)ぐらいだろう[図9]。《京都駅》は古都に対する暴力的なスケールが批判されたが、それはプログラムの与件として決まったものであり、ロマンティックな未来志向の長大な空間構成とデザインの密度はむしろ評価されていい(ガメラが京都駅の外部ではなく、内部で暴れるほど巨大な室内である)。外観もミラーガラスを用い、存在を消去するよう努めていた。ある編集者は、京都駅が「ニュータイプ」のための空間ではないかと語ったが、そうした意味で新人類はすでに存在する。若者はコンコースにたむろし、半戸外の室内空間として全長一五〇メートルのアトリウムを楽しむからだ。また廃墟化したら醜いという意見もあったと記憶しているが、個人的には廃墟になっても十分に凄い建築ではないかと思う。なお、一九九九年の春には小樽と福岡でも、巨大なアトリウムをもつ商業施設が開業した★一二。マイカル小樽は、全長八〇〇メートルの建物であり、チャンバーと命名された複数のアトリウム、吹き抜け広場のコート、モールを連続させている。博多リバレインは、ビルの五階から八階にかけて大きな三〇〇〇平方メートルのアトリウムガーデンを設けた。
フロアガイドによれば、品川インターシティは、ビジネス環境と飲食店と商店、そして多目的ホールから構成された「巨大な街」である[図10・11]。都市の中の都市。外出することなく、一日を過ごせるだろう。ここには品川駅の東口からスカイウェイでアクセスするが、さらに三つの高層オフィス棟を二階レヴェルの二七〇メートルに及ぶスカイウェイが南北方向につなぐ★一三。この半屋外歩行空間は、西側に向かって開かれており、現在、隣で進行中の工事現場と増改築中の品川駅を眺めるための格好のギャラリーになっている。つまり、品川駅の東側一帯では、企業本社ビルと高層マンション、四〇〇メートルの緑の歩行者大空間と新幹線品川新駅、そして東京都中央卸売市場の整備など、さらなる都市開発が進む。特に基礎の工事を行なっていた時は、地下部分が見え、スカイウェイの高さが余計に感じられる。また大林組の入るB棟の高層ビルには、ダニエル・ビュランや草間彌生などの作家によるインスタレーションが数多く仕掛けられた。建築としてのインターシティはモダニズムを洗練させた良質なデザインである。ポストモダンの建築家が設計した奇抜な外観をまとう八〇年代とは対照的に、九〇年代は内部の空間に向かう。
ところで、南側のインターシティギャラリーでは、オープニングの企画として「悲劇と栄光 ポンペイ展」が開催された。新築の建物に廃墟の都市を展示することは、磯崎新的なアイロニーのようだが、そういう諧謔精神は微塵もない。皮肉ついでに言えば、筆者にとって品川インターシティの第一印象は、一九九〇年頃の「優秀な卒業設計」だった。学生の設計した理想の建物は存在しないはずだが、それが実際に建っている。インターシティは、三つのオフィスとショップ&レストランとホール棟という五つのヴォリュームを細長い敷地に沿って、手堅くまとめている。しかも、全体をスカイウェイが貫き、その下部には屋内のアトリウムと屋外のガレリアが展開し、階段とエレベーターを絡めながら、空間の画一化を避けて回遊性を与えている。適度な迷宮性をもつ巧みな計画と言えよう。考える暇のなかったバブルの崩壊後に設計されたおかげで、十分に時間をかける余裕があったからなのかもしれない。せいぜい南側のガレリアに張り出したポンピドゥー・センター風のエレベーターが蛇足と言うべきか。とはいえ、インターシティには既視感がつきまとう。決定的に新しい何かではない。それが懐かしい卒業設計を思い出させたのだろう。

9──原広司《京都駅》(1997) 筆者撮影

9──原広司《京都駅》(1997)
筆者撮影

10──日本設計+大林組、品川インターシティの外観 筆者撮影

10──日本設計+大林組、品川インターシティの外観
筆者撮影


11──品川インターシティの吹き抜け 筆者撮影

11──品川インターシティの吹き抜け 筆者撮影

ゲートシティ大崎へは、品川の隣駅である大崎駅から連絡デッキをたどり、大崎ニューシティを経由して訪れる。高層のオフィス棟、ウェストタワーとイーストタワーが、南欧をイメージした低層の商業施設、ゲートシティプラザと広大なアトリウムを挟む[図12・13]。その周囲にはノースガーデン(トーマス・バルズレー設計)とサンクンガーデン(フレデリック・トマ設計)のランドスケープや、文化施設棟のゲートシティホールが付随する。フロアガイドによれば、五・九ヘクタールの敷地に「多彩な都市機能」を複合し、「二一世紀の東京を象徴する街」を目指す。ファサードの見せ場となるサンクンガーデンは、品川インターシティとは逆に古典主義風のデザインを採用したポストモダンになっている。そして空間のハイライトとなるアトリウムには多くの人々が休息し、おそらくインターシティよりもにぎわう。またゲートシティには、高田洋一の《水辺の時》など、いくつかのパブリック・アートが設置されている★一四。だが、各部のデザインを異なる作家に依頼したせいか、ばらばらという印象をぬぐいえない。つまり、個々には面白い部分もあるが、断片的なシーンの寄せ集めになっており、つなぎ目はぎくしゃくする。部分的に南欧風という味付けも必然性が感じられない。空間の構成もインターシティのほうがよく練られている。

12──フレデリック・トマ、 ゲートシティ大崎のサンクンガーデン 筆者撮影

12──フレデリック・トマ、
ゲートシティ大崎のサンクンガーデン
筆者撮影

13──日建設計、ゲートシティ大崎のアトリウム 筆者撮影

13──日建設計、ゲートシティ大崎のアトリウム
筆者撮影

世紀末東京のパサージュ

東京は巨大な胃袋のような都市なのかもしれない。磯崎新は次のような発言をしたことがある★一五。東京には完結した建物の形がない。すべてがインテリアになっており、アトリウムや地下室など、囲まれた空間が特徴的である。しかし、バブル建築は自律した形態を見せようとして失敗したのだ、と。確かにバブル後の都市開発は再び内部を志向する。巨大な開発であるにもかかわらず、インターシティやゲートシティの外側は無表情に近い。高さはあるものの、モニュメントとして存在を強く主張する形態をもたない。ただ交通空間としての内部がある。ベンヤミンが注目したパサージュが思い出されるだろう★一六。「家であるとともに道路でもあるパサージュ」は、街路の室内化を示す。例えば、インターシティの計画にはさまざまな歩行空間が織り込まれている。もっともベンヤミンならば、オースマン的な開発として品川インターシティを嫌うはずなのだが。九〇年代における東京国際フォーラム(一九九六)、サンストリート(一九九七)[図14]、新宿サザンテラス(一九九八)、品川と大崎の開発、そして後で論じるヴィーナスフォート(一九九九)。また近年のスターバックスコーヒー(驚くことに、ほとんどの新開発に参入している)を含む、オープン・カフェの流行。いずれも建築にストリートの感覚を持ち込む。
ベンヤミンの言葉「室内空間が外に歩み出る。……街路が部屋になり、部屋が街路になる」は、九〇年代後半の東京にも当てはまるようだ。では、建築の内部が街路化するのに対し、街路が室内化するとはどういうことなのか。これは宮台真司が言う第四空間論と共振するだろう★一七。彼によれば、八〇年代以降に家・学校・地元の均質な「学校化」が進行し、若者はそれから逃げるためにまったりと生きられる第四の空間を探し求める。同時進行したコンビニの普及は、八〇年代後半に居場所のない子供たちに一時的な集いの場を提供し、家族共同体の崩壊に拍車をかけた。そして九〇年代にチーマーやコギャルは最終的に第四空間を街の路上に見出し、ストリートに流れ出る。コギャルは仲間以外の他者をただの風景として無視し、都市において室内に居るかのように振る舞う。例えば、彼女らが平気で路上の地べたに座ったり、公共空間である駅のホームで人目を気にすることなく自然な行為として着替えをするのは、そこが部分的に従来の個室として認識されるからだ。公共性が変容し、恥の文化が崩壊する。これに対し、九〇年代のナショナリズムは公共性の復権を掲げ、人々の共感を得ようと画策した。
鹿島茂も、ベンヤミンの考察に接続しつつ、「二〇世紀末の日本において、だれよりも都市の遊歩を積極的に実践しているのは、コギャルと呼ばれる女子高校生の一団である」と言う★一八。携帯電話でしゃべりながら歩く彼女らは、意識の多くを周囲の環境ではなく、彼方に向かわせている。ベンヤミンはこうも語っていた。「群衆の中で都市はあるときは風景となり、またあるときは居間になる」、と。アメリカの危険な都市環境は、街路を戦場に変え、空間をゲットー化した★一九。だが、日本の治安の良さは緊張を弛緩させ、都市の街路を室内と感じるようになる。女性は電車内で化粧を行ない、恋人たちは人目を構わず振る舞う。世紀末東京の大規模開発は、半室内/半戸外の建築的な装置を通して、心地よい都市空間を提供している。

14──サンストリート(1997) 筆者撮影

14──サンストリート(1997) 筆者撮影

人工環境としての建築・都市

一〇〇〇年に一度のチャンスの年、女性のためのテーマパークが誕生する。一九九九年の夏、ザビエル隊と称する三人の外国人サンドイッチマンがテレビCMに登場し、こう伝えた。臨海副都心の女性の砦ヴィーナスフォートは、八月二五日の開業から一週間で四九万人、一カ月で二〇〇万人近い来場者を集めた。マーケティングの狙い通り、およそ八割が女性客だという。目標は年間来場者数一二〇〇万人、三〇〇億円の売上げだから、まずまずの出だしである。ゲートシティと同様、一七─一八世紀の南欧をイメージした内装で知られるショッピング・モールだが、その規模と凝りようは大崎を凌駕している。一方、ほぼ同時期に新港地区でオープンした横浜ワールドポーターズ(一九九九)の外観デザインは、中途半端なだけに酷く、異国情緒漂う懐かしいレンガの街を再現した五階の横浜ブロードウェイの出来も安易だ[図15]。みなとみらい地区のランドマークタワーやランドマークプラザから、九〇年代のクイーンズスクエア、ワールドポーターズになって、だんだんクオリティが落ちている。経済の冷え込みと並行するかのように。
ところで、ヴィーナスフォートも有名建築家が設計したものではない。九〇年代では、ヨーロッパの街並みを模倣したデザインは、悪趣味かつキッチュなポストモダンとして否定されるものだ。奥行きがない書き割りの街。実際、『新建築』誌におけるヴィーナスフォートの紹介もオープンから数カ月遅れ、一九九九年一二月号の後ろの方に載っていた。次号の月評における建築家のコメントも興味深い★二〇。仙田満はインテリアの写真しかない作品は『新建築』に掲載する必要はなく、『商店建築』で紹介すればいいと述べ、出江寛の欄では人をバカにした作品ではないかという厳しい意見を記述している。巨匠に対してはとても書けないような口調で、ヴィーナスフォートは安心して批判された。資本の欲望に身をゆだね、堕落したテーマパークが、誤って専門誌にまぎれ込んだからである。なるほど、建築家の顔は見えない。「建築」として評価すべき空間のオペレーションもない。しかし、こうした「施設」を手がかりとして、人工環境を生む、現代の建築・都市を読むことが可能ではないか。
ヴィーナスフォートはパレットタウンに建っている。ゆりかもめの青梅駅を降りると、右側のイーストモールにはMEGA WEB(トヨタシティショウケースとフューチャーワールド)、ライヴハウスのZEPP TOKYO、ネオジオワールドや大観覧車などの娯楽施設、左側のウエストモールは一階に商業施設サンウォーク、二、三階にヴィーナスフォート、ヒストリーガレージが入っている。一九九九年三月にオープンしたMEGA WEBには、施設を貫通する電気自動車のライドコースや、車を立体的に展示するディスプレイタワーなどがあり、若い世代を対象としたショールームとアミューズメントの機能をもつ[図16]。休日は平均四万人、平日は一万五〇〇〇人が訪れている。電通がプロデュースを行ない、わずか九・五カ月の期間で施工された。確かに巨大な仮設展示場のような建物である。ヴィーナスフォートが女性のための空間だとすれば、MEGA WEBは男性のための空間になるだろう。パレットタウンは男女で楽しめるというわけだ。

15──横浜ワールドポーターズ(1999) 筆者撮影

15──横浜ワールドポーターズ(1999)
筆者撮影

16──トヨタ自動車+大成建設、 MEGA WEB(1999) 筆者撮影

16──トヨタ自動車+大成建設、
MEGA WEB(1999)
筆者撮影

七月一四日に開業したサンウォークは、「『太陽の散歩道』をコンセプトに装飾された幅八メートル、長さ一七〇メートルに及ぶ『ストリート』がフロア中央部を東西に貫き、その両側に七メートルの階高を活かした大型専門店(メガショップ)を中心とした店舗が並ぶ、総店舗数二四店舗、総店舗面積一一、八〇〇平方メートルの広大なショッピングモール」である★二一。そして家具やスポーツ用品などを扱う個性的な大型店を集積し、東京ドームを上回る規模の巨大さを誇り、「子供から大人、カップルからファミリーまで幅広い層」をターゲットとし、年間六〇〇万人の来館者と約七〇億円の売上げを見込む。おそらくパレットタウン全体では、さまざまな層を集客することにより、相乗効果も期待される。しかし、こうした利潤と大きさだけが追求される世界に従来の建築家の入り込む余地はない。前述したヴィーナスフォートに対する建築家の苛立ちが発生するのもこの点ではないか。レム・コールハースは、一九九〇年代にビッグネスの概念を掲げ、巨大建築の論理を提出した。「ビッグネスにおいて、コアと外被の距離は増大し、ファサードはもはや内部で起きることを明らかにできない。『正直さ』というヒューマニストの期待は裏切られる。すなわち、内部と外部の建築は別々のプロジェクトになる」★二二。彼によれば、一定の大きさを突破すると、古典的な建築の常識は無効になってしまう。パレットタウンの施設はデカさが売り物である。
パレットタウンはヴィーナスフォートの参入により、グランドオープンを迎えた。ヴィーナスフォートは全長四〇〇メートル、幅約一一メートルの二層吹き抜けのメインプロムナードのほかに小径や広場を抱え、すべての道を合計すると一・五キロメートルに及ぶ。つまり、単体の建築を超えて、ヨーロッパ風の街をまるごとのみ込む人工環境である。だが、東京の湾岸と西欧は関係がない。こうした奇妙な事態をハンス・イベリングスは、ジャーディー・パートナーシップのプロジェクトやラスベガスに言及しつつ、「その領域においては、一貫した内なる論理を維持しながら、外から見れば、自律した囲い地を形成しており、実際は周囲の環境と無関係のものだ」と説明していた★二三。そしてポストモダン建築が重視した場所性の文脈というモラルに違反しているという。八〇年代のポストモダン以上にフィクショナルなポストモダンを徹底させたといえる。ちなみに、先に触れたフリーモントストリートやマイカル小樽、またキャナルシティ・博多(一九九六)[図17]、ユニヴァーサルスタジオのシティ・ウォーク(一九九〇─九三)[図18]など、エンターテインメント志向の人工環境は、いずれもジャーディーの事務所が設計した。さらに九〇年代のラスベガスは、ルクソール(一九九三)、ニューヨーク・ニューヨーク(一九九七)[図19]、ザ・ベネツィアン(一九九九)、ザ・パリ(一九九九)[図20]など、次々とテーマ・ホテル&カジノを建設し、世界の名所を模造する★二四。

17──ジャーディー・パートナーシップ、 キャナルシティ・博多(1996) 筆者撮影

17──ジャーディー・パートナーシップ、
キャナルシティ・博多(1996)
筆者撮影

18──ジャーディー・パートナーシップ、 ユニヴァーサル・シティ・ウォーク(1990─93) 筆者撮影

18──ジャーディー・パートナーシップ、
ユニヴァーサル・シティ・ウォーク(1990─93)
筆者撮影


19──ガスキン&ベザンスキー、 ニューヨーク・ニューヨーク(1997) 筆者撮影

19──ガスキン&ベザンスキー、
ニューヨーク・ニューヨーク(1997)
筆者撮影

20──建設中のザ・パリ(1999) 手前はベラッジオの踊る噴水(1998) 筆者撮影

20──建設中のザ・パリ(1999)
手前はベラッジオの踊る噴水(1998)
筆者撮影

ラスベガスから東京へ

よく知られているように、ヴィーナスフォートはラスベガスのシーザース・パレスがもつフォーラム・ショップス(一九九二)を模倣している[図21・22]。つまり、ヨーロッパのコピーではない。ヨーロッパをコピーしたラスベガスのコピーなのだ。ラスベガスが現実の複製だとすれば、東京はそのイメージを複製している。もともとヴィーナスフォートの計画は、九〇年代初めにゲームソフト会社のスクエアを創業した宮本雅史が大前研一に若い女性のためのテーマパーク型ショッピングモールの構想をもちかけて始まった。そして森ビルがちょうど臨海副都心にナイキタウンの建設を考えたものの、ナイキ側の無理解から計画が中止となり、代わりにヴィーナスフォートの共同出資を申し出たことにより実現した。計画では、宮本が最初にフォーラム・ショップスを参考にすることを提案し、プロジェクトを推進するために、一九九八年に小売業社やマスコミ関係者を集めた二〇〇人の大視察団の現地訪問を企画している★二五。わずか二年で完成させるには、既存のモデルが必要だったのだろう。九〇年代の後半、『エイビーロード』が調査したOLの「行ってみたい旅行先」では、三〇位以下だったラスベガスが一七位から四位に躍進し、女性の人気が急増したことを踏まえれば、正しい選択と言える★二六。ただし、ラスベガスと同じドゴール・デザインに設計を依頼した。ゆえに、同じに見えても仕方がない。しかも、立地条件が似ている。湾岸の埋立地と砂漠のラスベガスは、過去の記憶がない場所である。いかなる風景を作ろうとフィクショナルにならざるをえない。ならば、その無根拠性を徹底させること。それが人工環境を生む。

21──ドゴール・デザイン+ 森ビル設計部・日本設計、 ヴィーナスフォートの噴水広場(1999) 筆者撮影

21──ドゴール・デザイン+
森ビル設計部・日本設計、
ヴィーナスフォートの噴水広場(1999)
筆者撮影

22──ドゴール・デザイン、 フォーラム・ショップス(1992) 筆者撮影

22──ドゴール・デザイン、
フォーラム・ショップス(1992)
筆者撮影

とはいえ、ヴィーナスフォートとフォーラム・ショップスは微妙に違う。アトラクションに注目すれば、ともに天井の空が朝、昼、夜と変化する演出は同じだが、ラスベガスのフェスティヴァル・ファウンテンにおけるオーディオ・アニメトロクスを駆使した神々の像のショーに比べて、東京の教会広場のレーザーアニメーションはあまりに幼稚である。しかし、ラスベガスの場合、カジノで儲けた利益を無料のショーで還元することを考慮すれば、そうした資金源のない東京と単純に比較するのは酷だろう。またラスベガスが一層であり、水平方向にのみ展開するのに対し、東京は積層するために立体的な構成をもつ。したがって、後者では噴水広場などの吹き抜けにおいて垂直方向の視線のやりとりが楽しめる。ラスベガスの方が東京よりも土地に余裕があるという条件が両者の違いを生んだのかもしれない。ヴィーナスフォートは女性のために六四の個室をもつ日本最大級のメガトイレを設置したり、雑誌とのタイアップ企画による一坪ショップの出店も企画している。決定的に異なるのは、外部のデザインだろう。ラスベガスでは、エントランスに古代ローマ風のゲートを設けているし、連続するシーザース・パレスは外観にも古典主義建築のデザインを採用した[図23]。しかし、東京では、犯罪的なまでに無関係である。外観は巨大な倉庫風になっており、内部と外部が完全に分離しているのだ[図24]。ヴィーナスフォートを含むパレットタウンは、一〇年の期限で借りた土地のプロジェクトであり、短い寿命を考えて外観のコストを徹底的に切り詰めたからなのかもしれない。さらに他の施設がないために、青梅駅を使う人間が間違いなく立ち寄るならば、あえて客寄せのデザインを加える必要もないだろう。その分、経済的に表現を内部に集中させる。

23──メルヴィン・グロスマンほか、 シーザースパレス(1966─) 筆者撮影

23──メルヴィン・グロスマンほか、
シーザースパレス(1966─)
筆者撮影

24──ヴィーナスフォートの外観 筆者撮影

24──ヴィーナスフォートの外観
筆者撮影

フォーラム・ショップスは内部と外部の一致を維持している。実際、ヴェンチューリが論じた六〇年代のラスベガスでは、外部のサインと内部の機能が分化した「装飾された小屋」だったのに対し、九〇年代のラスベガスのデザインは巨大な「あひる」建築として外部と内部を統合させ、ある意味で保守化した★二七。一方、ヴィーナスフォートはよりラディカルに内部と外部を断絶した人工環境を創出する。その中にブランドの洋服や化粧品店、カフェ、レストランなど一三七店が、記号の組み替えゲームのように配列された。恵比寿ガーデンプレイス(一九九四)は洋風を基調とする異物の挿入でありながら、周囲に開放された無料のテーマパーク的な趣をもっていたが、ヴィーナスフォートは外界からは閉じた囲われた場所である。周囲の環境とのインターフェースはない。むしろ、有料だが、ともに昭和三〇年代をビルの内部に再現する新横浜ラーメン博物館(一九九四)や池袋サンシャインのナンジャタウン(一九九六)の空間に近い[図25]。これらは外界と切り離すことにより、現実の感覚を麻痺させる。まわりのノイズによって興ざめすることなく、完全にゲーム的な世界に没頭できる。柏木博が指摘したように、ヴィーナスフォートでは、誰も「『まるでヨーロッパみたい』とは思わず、『ヨーロッパみたいな虚構空間』を珍しがって」おり、「むき出しのフェイク感」を楽しむ★二八。
昨年末、筆者はヴィーナスフォートにフランス人の女性を案内したことがある。彼女らはヨーロッパのコピーを軽蔑するのではないかと思ったら、意外に楽しんでいる風だった。それはヴィーナスフォートに懐かしいフランスの風景でもなく、唾棄すべきアメリカの商業主義でもなく、現代東京の肖像を発見したからではないかと思う。

25──ナンジャタウン(1996) 筆者撮影

25──ナンジャタウン(1996) 筆者撮影

註 
★一──http://www.qfront.co.jp/ver6/concept/22.html
★二──伊東豊雄×坂本一成×篠原一男「建築の問題は『コンビニ』から生まれる?」(『世紀の変わり目の「建築会議」』、建築技術、一九九九)。
★三──大川信行五十嵐太郎「世界をコード化する施設『倉庫』」(『10+1』No.7、INAX出版、一九九六)。
★四──鈴木敏文×牧野昇「コンビニ情報革命」(『VOICE』一九九六年一一月号、PHP研究所)。
★五──「コンビニ 情報端末広がる」(『朝日新聞』一九九九年一〇月三〇日)。
★六──http://info.sej.co.jp/news/019.html
★七──『デジクリ』三号(ソニー・マガジンズ、一九九八)における浜野安宏のインタビュー。
★八──黒川紀章『ホモ・モーベンス』(中央公論社、一九六九)。
★九──M. Pawley, Terminal Architecture, Reaktion Books, 1998.
★一〇──M・フーコー「空間・知そして権力」(八束はじめ訳、『現代思想』一九八四年一〇月号、青土社)。
★一一──『東京人』一九九九年一〇月号、特集=現代建築ガイドブック(都市出版)。
★一二──『日経アーキテクチュア』一九九九年五月一七日号(日経BP社)。
★一三──http://www.sicity.co.jp
★一四──http://www.gatecity.co.jp/about/obje.html
★一五──磯崎新監修『磯崎新の革命遊戯』(TOTO出版、一九九六)。
★一六──W・ベンヤミン『パサージュ論』(今村仁司ほか訳、岩波書店、一九九三─九五)。
★一七──宮台真司『まぼろしの郊外』(朝日新聞社、一九九七)。
★一八──鹿島茂「コギャルの『室内』と化す街路」(『朝日新聞』一九九七年一二月四日)。
★一九──拙稿「アポカリプスの都市」(『10+1』No.17、INAX出版、一九九九)。
★二〇──『新建築』二〇〇〇年一月号(新建築社)。
★二一──http://www.mori.co.jp/press/news/sunwalk/
page1.html
★二二──R. Koolhaas, “Bigness or the Problem of Large”, S,M,L,XL, the Monacelli press, 1995.
★二三──H. Ibelings, Supermodernism, NAi Publishers, 1998. 本誌一八一頁に縮約を掲載。
★二四──F. Anderton, Las Vegas, Ellipsis, 1997 や、松葉一清「パリ、ラスベガス」(『朝日新聞』一九九九年九月六─一四日)を参照。
★二五──大前研一ほか『感動経営学 ヴィーナスフォート』(小学館、一九九九)。
★二六──『広告』一九九七年一一+一二月号、特集=ラスベガスのつくり方(博報堂)。
★二七──R・ヴェンチューリ「古典期以後のラスベガス」(『建築のイコノグラフィーとエレクトロニクス』、安山宣之訳、鹿島出版会、一九九九)や、拙稿「ラスベガスの六〇年代と九〇年代──死へと向かう果てしなき欲望と消費の街」(『二〇世紀建築研究』、INAX出版、一九九八)を参照。
★二八──「ニッポン現場紀行 ヴィーナスフォート」(『朝日新聞』一九九九年一〇月八日)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.19

特集=都市/建築クロニクル 1990-2000

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>マーティン・ポーリー

建築批評家。

>松葉一清(マツバ・カズキヨ)

1953年 -
建築評論。朝日新聞編集委員。

>谷口吉生(タニグチ・ヨシオ)

1937年 -
建築家。谷口建築設計研究所主宰、東京藝術大学美術学部建築学科客員教授。

>原広司(ハラ・ヒロシ)

1936年 -
建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>ハンス・イベリングス

1963年 -
建築批評、建築史。

>柏木博(カシワギ・ヒロシ)

1946年 -
デザイン評論。武蔵野美術大学教授。

>坂本一成(サカモト・カズナリ)

1943年 -
建築家。東京工業大学教授。

>篠原一男

1996年7月

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年 -
建築史。東北大学大学院工学研究科教授。

>八束はじめ(ヤツカ・ハジメ)

1948年 -
建築家。芝浦工業大学建築工学科教授、UPM主宰。

>S,M,L,Xl

1998年