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ユニヴァーサル | 石川初
Universal | Ishikawa Hajime
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.138-139

正しい景観

「景観」は本来、単にある状態を指すところの、ニュートラルな言葉であって、必ずしもあらかじめ善し悪しの価値が含まれているわけではない。しかし、昨今、この言葉が実際に用いられるときには、例えば「健康」や「快適」といったような言葉に似たような、ある種の想定された「正しさ」、社会的な善の響きを帯びることが多い。景観的「善/悪」「優/劣」が想定されるとき、この言葉は都市を構成する個々の事情を超える、いわば上位概念となって、そこに設けられる物体への「(良き)景観的要請」を生み出す。「景観」に配慮することが、「環境」に配慮したり「文化」に貢献したりすることなどと同様に、政治的に正しい振る舞いとなるわけである。
景観法が制定された今日、「景観」はいわば、さらなる「正義性」を獲得しつつあるように見えるが、いまのところは未だ無敵のコンセプトではない。例えば、「戦後の経済成長によって私たちは経済的な豊かさと利便性を得たが、引き換えに良好な景観を失った」というような物言いにおいて、「いま、あらためて景観を見直そう」という言葉が続くとき、そこには少なくとも達成している経済的豊かさはなるべくそのままにする、あるいは経済活動を阻害しない範囲で、ということが前提になっている。「良き景観の実現のために、経済的な凋落低迷や生活の不便さを甘んじて受け入れよう」というような言い方はなされない。景観はあくまで「衣食足りて景観を知る」ものである。いや、もちろんそれは程度の問題でもあるのであって、良き景観の実現のために利便性を犠牲にすることを、享受する側が主体的かつ自覚的にあえて選んでいる場合は、一種の「粋」な行為だと見なされるかもしれない(ソウル市の河川の「再生」事業に喝采を送るように)。しかし、少なくとも計画する側、供給する側は、良き景観のために利用者に不便を強いることは(通常は)できない。

景観よりも正しい

例えば、「安全」は明らかに、強力に「景観」をオーバールールする。「安全」の前には「ほんとは手すり付けたくないんだよね」とか、「ここに消防水利の標識立てたくないなあ」という「景観」の思惑は膝を屈する。今日、都市の「構え」として、「安全」は至上の命題である。「セキュリティ」の追い上げも顕著だ。この手の「正しさ」に対しては、景観の「正しさ」はまだけっこう脆弱である。
こうした、その社会、その時代の価値観を映す「正しさ」は、「景観」の(表層的な)「美しさ」よりも優先されるべきこととして、場合によっては「美しさ」と「あえて対立するもの」として、「景観」に介入する。そして、「景観」の「正しさ」の中途半端な強さは、そうした社会の価値観を推し量るに、なかなか優れた物差しになる。
例えば、首都高が建設された当時、都内の道路渋滞を解消し、物流を促進する「都市の近代化」は切実な正しさをしていたのだし、渋谷川を暗渠化した当時、「衛生」は崇高な正しさだっただろう。
現在では景観は、「地域の活性化」に対しては弱いが、「私企業の事業性」に対しては(理念としては)強くなりつつある。「景観 vs.経済性」は「いい勝負」である。「バリアフリー」には歯が立たない。「エコロジー」に対しては、エコロジー自体の解釈に幅があるために、今のところ勝負は微妙である。しかし、この地域主義、郷土主義に結びつきやすい、したたかなコンセプトは急速にその「価値」を上げつつある。「景観vs.エコロジー」の行方は注目に値する。


>石川初(イシカワ・ハジメ)

1964年生
株式会社ランドスケープデザイン勤務、登録ランドスケープアーキテクト(RLA)、関東学院非常勤講師。ランドスケープデザイナー。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?