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メタボリズムとの関係を聞かれるので、 その頃を想い出してみた。──日本の建築アヴァンギャルド私註 | 磯崎新
I am often asked about my relation to the Metabolism Group, so I have tried to recall that period.: Personal Note on the Japanese Architectural Avant-Garde | Isozaki Arata
掲載『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) pp.25-32

私は年齢的には一九六〇年世代だけど、建築家としての思考の仕方は一九六八年に属している、とこれまでに折りにふれて語ってきた。そして、一九六八年から一九八九年の二〇年間、つまり文化革命からベルリンの壁の崩壊した間を歴史の宙吊りと呼ぼうとした。核の崇高の下に二極対立したまま、世界が動かず、そのなかで世界金融資本だけが異様に膨張して、生産より消費へ、実体より記号へ、実像より虚像へと、つまりモダンよりポストモダンへとこの世界を変質させた。そのまだ線的な移行とみえた状況が、一気に非線型へ、多様性へ、複雑性へと渦状にねじれる、そんなはじまりが九〇年代にいたって顕著にみえてきた。大げさにいうと、歴史が帰ってきた。気がつくと、もう一〇年近く経ってもいる。いったい、この九〇年代とはどんな時期なんだろう。それをアクチュアル/ヴァーチュアルというメディア空間の特性から説明したりする試みもあるが、じつはそんな兆候は六〇年代に全部起こっていた。実情が追いつかず、二〇年間宙吊りになっていただけではないか。
こんな事後的な説明をしたくなるほどに、昨年(一九九七)は、六〇年代レトロばかりだった。少なくとも私にとって、私の建築家としての出発、つまり私のはじまりは何だったのか、と問い続けることになった。九〇年代を六〇年代の反復にすることでやり過ごそうというわけではない。自分の個人的な経験は、自分だけに所属しているし、それを利用するのも忘却するのも自分の勝手だ、と思ってきたのに、三〇年を過ぎるとそういうわけにはいかなくなった。あのときに起こり、あのときに夢中でやっていたものが、記録されてしまい、自分の外部にでていってしまった。私的所有権が消えてしまった。どうにもならない。それだけでなく、不正確だったり、ほとんど誤解されてもいる。そこでレトロとつき合うこともいいだろうと考えるうちに、そんな機会がつくられてしまった。
二つの展覧会企画につき合った。《日本の夏一九六〇─六四》(水戸芸術館)と《磯崎新と新宿ホワイトハウスの仲間たち》(大分アートプラザ)である。前者は一九六〇年から五年間の日本全国での新しい芸術運動を展望するもので、ここでは私の一九六二年の《孵化過程=ジョイント・コア・システム》が再演された。後者は六二─六六年にかけて設計・建設された大分県立図書館が保存・転生して、新たにギャラリーとなった。そのオープニングの展覧会で「プロセス・プランニング論」(一九六三)にはじまる一連の建築的言説が建物の存続問題とかさねて再考されることになった。いずれもが一九六〇年をひとつの区切りとしてはじまった動向で、この際に都市と建築についての私の出発になるようなプロジェクトがあらためて検討材料になっている。 あげくに『メタボリズム』(八束はじめ吉松秀樹著、INAX出版刊)が出版され、ここでは六〇年代がすでに歴史的な記述の対象になっている。
メタボリズム・グループが旗揚げしたのは一九六〇年である。この本は「一九六〇年代──日本の建築アヴァンギャルド」という副題がついているが、このグループの五〇年代末における成立過程を概括しながら、その命名者であり、実質的なリーダー役の川添登、そしてメンバーであった建築家、菊竹清訓・黒川紀章・大高正人・槇文彦の四人の六〇年代の仕事が細かく紹介されている。そしてその周辺にいた四人の建築家に部分的な参照がなされる。丹下健三、浅田孝、大谷幸夫、磯崎新である。この建築家は、すべて五〇年代には丹下健三研究室で一緒に仕事をしていた。そして、一九六〇年前後に各自ばらばらに動きはじめた。黒川紀章・槇文彦はいずれも丹下研究室に在籍していたことがあるので、五〇年代の丹下研究室が、この時期にいったん分解して、その一部がメタボリズム・グループを形成し、残りは個別の活動をはじめた、といいかえてもいい。四〇歳代半ばの丹下健三をのぞくと誰もエスタブリッシュしていたわけではない。例えば、『再読/日本のモダンアーキテクチャー』(モダニズム・ジャパン研究会編、彰国社刊)は五〇年代、六〇年代の日本の建築物を二四件選び出し、それぞれに論評を加えることによって、この二〇年間での日本の建築モダニズムを浮かび上がらせようとしているが、メタボリズムおよびその周辺にいた建築家たちの仕事はまったくとりあげられていない。エスタブリッシュしているとは認められなかったためだろう。建築アヴァンギャルドと建築モダニズムのそれぞれの視点の相違というべきか。前者はアンビルトの言説に傾き、後者は実務的なビルトだけを選び出したのかも知れない。ともあれ、編集意図として、まったく交錯することのない両方の視点が、じつは日本の五〇年代から六〇年代という同じ時期をカバーしようとしており、メタボリズムがその丁度中間の時点で旗揚げしていることはまぎれもない事実である。これまでのところ、日本の現代建築を論じたものは、おおむねビルトされた建物に即している。つまり建築モダニズムについて語られるが、アンビルトの建築アヴァンギャルドはやり過ごしている。これはメタボリズムについてのまとまった研究がなかったことも理由のひとつではあろう。その欠落を補填するためにも『メタボリズム 一九六〇年代──日本の建築アヴァンギャルド』の出版は大きく評価されていい。
私は日本の近・現代建築を記述するにあたって、建築物と同時に言説に注目すべきであって、この両側からみてはじめてそこで動いているものの全貌がみえてくると考えている。その点からするならば、三〇年代および四〇年代において、モダニズムが受容され、その和様化を進行させていく過程は、言説と建築物の両側からかなり詳細な記述がなされはじめている。そのモダニズムは戦前においてはアヴァンギャルドだった。だが、その和様化過程を経た戦後のモダニズムは、『日本のモダンアーキテクチャー』ではもうアヴァンギャルドではなくなったとみられているのかも知れない。そこで、『メタボリズム』が新たにその過激な言説によって、日本の建築アヴァンギャルドとして登場させられる。こんな構図がみえる。おそらく事態はもっとねじれているだろう。メタボリズムのメンバーである大高正人・槇文彦の両氏に直接アヴァンギャルドたろうとしたか、そしてみずからの仕事がアヴァンギャルドだとみなせるか否かを問えば、おそらく否定的な返事がかえってくるはずである。ではモダニズムなのかといってもおそらく返答に困るに違いない。アヴァンギャルドとモダニズムは日本においてそれぞれ勝手な範疇を組み立ててしまったのだからいたしかたない。
アヴァンギャルド達はまずマニフェストをしている。「分離派」建築会もマニフェストからはじまった。それに続くいくつもの建築運動も、いずれもマニフェストをまず発表している。運動はグループ活動であり、志を同じくするもの、同志がそれを構成する。マニフェストはその志の確認である。これがなければ運動は進まない。同時に建築運動において、それは思想であり方法でなければならない。イデオロギーが明晰にされることが必要で、政治的言説をともなうことはないとしても、広義の言説を組み立てていく。「メタボリズム」もマニフェストをもった。その点においてアヴァンギャルドの伝統をひいている。その後の日本の建築界において、この種のマニフェストはない。つまり「メタボリズム」が最後のアヴァンギャルド運動だった。
広義の近代建築は一八世紀の中期に古典主義の継起的展開が停止したときにはじまった、とみられている。建築の展開を作動させるために一九世紀は歴史的様式を再利用することで新しい企画を組み立てた。これを様式の交代史観が支えた。先頭にたって牽引していく何物かが必要で、芸術家がそれを自任する。政治においても同様で、政治と芸術に同時にアヴァンギャルドがうまれた。二〇世紀になっての建築の運動はこの近代の構造をそっくりひきずっている。近代建築運動はアヴァンギャルドが先導することになっていた。「分離派」以後、四半世紀の日本の近代建築の展開は、その筋書きで説明できる。そして、その末端に位置することになる「メタボリズム」は運動の形式としてはアヴァンギャルドなのだが、何故継続しなかったのか。機関紙は何故一号止まりだったのか。
言行が必ずしも一致していないとはいえ、「メタボリズムの十字架を背負って歩きつづける」と語る菊竹清訓氏をのぞいて、他のメンバーが転向ともみえる言説と作風を展開してエスタブリッシュしていく有様をみると、あのマニフェストはいったい何だったのか。あげくに日本の建築モダニズムにくくり込まれてもまったく違和感のないポジションに移行しているとするならば、六〇年代のいつの時期かに、アヴァンギャルドが骨抜きにされてしまうような地殻変動が起こってしまったのか。それらの疑問は、日本の六〇年代を全体として把握する歴史的な視点がどこにあるのかを問うことと同じだが、新著『メタボリズム』では、資料の発掘に多くのエネルギーが注がれているが、これらの私の疑問に応えてはくれない。

磯崎新《孵化過程=ジョイント・コア・システム》

磯崎新《孵化過程=ジョイント・コア・システム》

ついでながら、私なりのモダニズムの解釈を記しておく。国際建築様式と呼ばれるものは二〇世紀中期にニューヨークMoMAを起点にしての動向が成立したと考えられる。三〇年代のはじめの《近代建築》展において、ヨーロッパの建築アヴァンギャルドが多様なマニフェストをもって展開した運動を、一九世紀的な様式理解の枠に押し込んで、ひとまとめにしたあげく、マニフェストのかかえこんでいたイデオロギーを脱色し、洗い流して、産業主義に直結したひとつの様式にくくり込んでしまった。それをモダニズムと呼びはじめ、フォルマリズムがいずれ思想的にバックアップする。出自はアヴァンギャルドである。そしてイデオロギーの刺を抜いて政治体制、風土、伝統の相違を超えて全世界への浸透が可能になった。しかも地域性の名のもとに、それぞれの場所の固有性と習合を許容している。日本においては容易に和様化もされる。「日本の建築モダニズム」とも呼ばれておかしくない。このモダニズムの全世界伝播は、古代末期のヘレニズムと同様の特性をしめしている。地中海全域からさらには東方へとひろがったヘレニズムは地中海文明として今日にまで影響しているが、その建築の基本形式は古典主義であり、その緻密な操作によって、洗練されながら、東方的なものと習合して、快楽だけが文明のさまざまなレベルで浮上する。モダニズムも、あいまいな定義と自在な対応によって、全世界に伝播した。このように爆発的に伝播がなされるのは、二〇世紀中期以降のアメリカの政治的・経済的な全世界支配と無縁ではない。それを近代建築運動として、思想的・方法的に推進したのは、まずは戦前のCIAMである。このヨーロッパを中心とした三〇年代から四〇年代にかけての動きを五〇年代に内部から変革するべくつくられたセクトであるチームXが、結局のところとどめをさしてしまった。それが六〇年代の初期である。いうならば、CIAMという運動集合体を組織することで、近代建築はアヴァンギャルドの体裁を維持していたが、その内部に新たなセクトが発生すると、これがあらためてアヴァンギャルドが本来もっている特性としての反抗と批判を反復的に開始し、その攻撃目標としてすでに世界伝播をはじめていた建築モダニズムに焦点をあてる。CIAMの中心メンバーが年齢的に引退しはじめることによって、自壊していく。チームXは次世代を担うはずだったが、攻撃目標が消えたことによって、みずからの存在理由を失う。「メタボリズム」が旗揚げした時期にチームXのこのような動向が国際的にあったことを明らかにしておかねばならない。その旗揚げは、一九六〇年の東京における世界デザイン会議においてであって、ここにはチームXの主要メンバーがほとんど出席していた。報告は直接的に彼らにむかってなされた。チームXの東京グループとしての認知を求めている。
メタボリズムの建築運動としての出発の動機が、このような国際的な動向への参加だったことが、その運動の限界を予告している。チームXは間もなく消滅した。その担い手たちは、世界各国で建築モダニズムの建築家としてエスタブリッシュしていく。実務的なビルトの建築に専念する。メタボリズム・グループの建築家たちはもうひとつ下の世代に所属していたのだが、日本の経済成長の波にのり、六四年のオリンピック、七〇年のEXPOユ70といった国家的な事業が奇跡的になされていくという時代に遭遇して、チームXのメンバーの大部分よりもいっそうスピーディーにエスタブリッシュする。アンビルトからビルトへと一気に移行する。だからアンビルトとしてのプロジェクトを組み立てながら、方法を再編していくような期間は残っていない。著作『メタボリズム』はメンバーの四人の建築家たちの六〇年代の仕事を克明に追跡しているが、その質量ともに多産な作品の数は驚くばかりである。すべて彼らの三〇代の仕事である。結果的にEXPOユ70に流れ込む。メタボリズムをグループ名称ではなく、ひろく六〇年代の日本におけるモダニズム/アヴァンギャルドの仕事の総称とみるならば、さしずめEXPOユ70はメタボリズムの総決算だったと語ることも可能だろう。多かれ少なかれ、一九六〇年に旗揚げされたメタボリズムは近代建築の初心であるユートピアへと先導するアヴァンギャルドの意図を反復的に保持していたから、ここで提案されるものは、空想の域にとどまらず、必ず実現できると信じようとしていた。だから六〇年代を通じて、その一〇年間の提案の数々は、一九六〇年のマニフェストが具体的な仕事によって検証されていく期間であるとも考えられ、そのテクノロジーおよび、テクノクラートに直結した方法へ再編されることによって、七〇年のEXPOユ70の会場光景を現出させえたと総括してもいい。いやビルト/アンビルトの区別などなかった。具体化できない提案は不毛であって、重要なのは、その方法が有効に作用して、新しいデザインがうまれることだから、方法は具体化できるものに限られる。メタボリズムの方法は何よりも実用化へとむけて編成された。その総括をEXPOユ70にみたのである。
いまアンビルトと呼ばれている空想的な建築ドローイングは、実現不可能であることを目的化して描かれている。いかに機が熟しても、決してこの地上に具体的には出現しない。だからこそ重要視され、賞賛される。このようなイマジナリー・モデルと私が呼ぼうとした発想はメタボリズム・グループのなかにはなかった、とはっきりいっていいだろう。周辺にいた私にも声のかかった《未来の都市と生活》展(一九六二)の準備段階において、私は瀧口修造が責任編集した『現代のイメージ』(『美術手帖』一九六二年四月増刊号)に与えられた機会に制作した《孵化過程》の廃墟と未来都市イメージの混在状態を描いたモンタージュを出品すべく持参したが、ディレクター役をしていた川添登によって、いったんは展示不許可とされた。おぞましい未来の光景を描いたりしたものを展覧会に含むと、この展覧会そのものが不真面目だと誤解されてしまうという理由だった。廃墟の部分を消して、あらたに描きなおしてこい、ともいわれた。廃墟を描くことこそが私のコンセプトなのだから、描きなおすわけにはいかない。せっかくだが降ろさせてもらいます、といって、私は残りのドローイングも全部ひきあげることにした。この一件は菊竹清訓のとりなしで落着し、私は小さい展示コーナーをもらうことができた。そして、昨年三五年ぶりに水戸芸術館で再演した《孵化過程=ジョイント・コア・システム》の観客参加パフォーマンスをやることになった。
これは、もう誰も記憶していないような小さいエピソードであるが、メタボリズムのグループとしての組織方針の特徴を示してもいる。まずはバラ色の未来都市(社会)を描くという近代が固執してきたユートピアにむけて、共同歩調をとることを内部的に強制していること。そして、この規律に、違犯するものは排除される。シュルレアリスム・グループの内部で政治化路線をめぐって対立があり、相互に除名がなされているし、コミンテルンを頂点とした共産党の組織が同じような規律を要請していたのは、グループというものが存在しはじめるときに不可避的な構造ともいえる。六〇年頃にはこんな組織のイメージが普通でもあったので、私は別に批判したりしているのではない。メタボリズム・グループがあくまで近代のアヴァンギャルド運動の構図をいかに忠実に模倣していたかという証拠と思っているだけである。おそらく、その理由で、六〇年代の中期にはグループの維持が無意味になり、六八年の文化革命といったもっと巨大な波のなかにのみ込まれる。すると、脱出、転向、エスタブリッシュ、こんな段取りが自然に踏まれていく。
アンビルトとビルトの基本姿勢の対立と私は記したが、これは今日におけるヴァーチュアルとアクチュアルの視点の相違と似ていなくもない。ともあれ近代にかかわる言説はすべてリアルにむかって組み立てられていた。この際、リアルはアクチュアルと同義であるが、実体として実現することを指してもいる。当然ながらメタボリズムの内部において、実用化できるもの、現実に適用可能なものが評価され、単に空想の域にとどまるもの、非現実的とみえるものは排除されている。私の廃墟と未来の混在などは否定されて当然だったろう。これは案外単純な視点から説明できる。つまり建築的なもしくは都市的な提案は、ひとつの技術体系なのであり、提案とは、技術的新案のことで、それは具体的に用いられてはじめて証明でき、そして評価されると考えられていた。だから、「未来都市は廃墟だ」と記したりしたのは、美術の文脈においてのみ許容されるものであって、これが当時の日本の建築的言説の文脈においては、無視され、拒絶されるであろうことは、充分承知してもいた。グループのメンバーにならなかったのは、建築や都市を美術のコンテクストで思考していたからでもあり、メンバーになる必要も必然性もないだけでなく、仮にメンバーになっても除名されるのがオチだろうという予想もした。とはいっても私が敢えて対立的なグループや運動をつくる考えもなかった。せめて共同研究をやればいい。これは建築家の仕事ではなかったので居心地も悪くはなかった。だから、私は遅延し、脱落していこうとする。そして、情況に徹底して追従しながら底を踏み破ることを考える。あげくに落っこちた地点から別の道筋を捜す。そこを出発点にする。こんな具合に私はメタボリズム・グループのねらったものを分析し、彼らがカバーできなかった思考の領域へむかおうと考えた。六〇年代の終わりから書き始めた『建築の解体』(一九七五)はやっと五年後に本のかたちとなったが、それは、私の同世代の建築家たちが同時多発的に開始した作業のサーベイである。私個人の仕事と思考もここに組み立てた枠組みに所属していると考えている。その特徴をメタボリズムと比較するならば、メタボリズムはあくまで近代建築を展開してきた建築アヴァンギャルドの継続と展開であったのに対して、『建築の解体』はこの建築アヴァンギャルドの継続的な展開を拒絶し、停止させようとしていることで共通している。ここにみられるのは、五〇年代までに繰り返し語られた弁証法的思考ではなく、ラディカリズムであった。根源的なものにむかって自滅するまで、突き進んでしまう。それ故に一九六八年にあらゆるレベルでの解体現象がみられた。私自身もその時点で解体した。六八年の国際的な文化革命の波にのみ込まれたあげく、身動きならぬダブルバインド状態に追い込まれ、心身ともに破局へ到達する。そのような道程はメタボリズムの組み立てていた方法と言説の底を踏み破ったときに、もう選択されていた。それを、メタボリズムの技術論が、すべて予定調和によって組み立てられているのをうさんくさく感じたためだ、などと記したこともあるけれど、別ないいかたをすると、不確定性、および決定不可能性こそが言説の根底に据えられるべきなのに、メタボリズム・グループの提案する構想はあまりに辻褄が合いすぎている。整合しすぎている。未知のはずの未来までが透視可能のように語られる。私が生活していた東京という都市は、そのような美意識とは無縁にみえる。それを改造するために提案されるとすれば、不整合を整合へ、無秩序を秩序へと再編するロジックへと到るのは当然の帰結だろう。だが、現実の都市の動きは不連続であり、乱雑であり、偶発的であり、未知の他者の介入にさらされ、予見など不可能なんじゃないか。ザラザラの手ざわりをしている、それをこそ論理化し、提案に組む必要がある。私はメタボリズムの諸氏の言説をフォローし分析しながら、予定調和されている新陳代謝を繰り返していくのではなく、変動の過程そのものを非可逆性として直視すべきだろうと考えはじめる。そして「プロセス・プランニング」というアイディアを思いついた。一九六一年から六二年にかけて、それを都市と建築の両方でプロジェクトに仕立てた。
何故遅れて開始したのか。一九六〇年いっぱいは単純にひとりの聴衆ではあったが、私は東京デザイン会議は完全にパスして、安保闘争のデモとネオダダの深夜の宴と、《東京計画一九六〇》のメディア発表用の資料作成と《大分県医師会館》(一九六〇)の現場に追われていて、個人的なプロジェクトをまとめて整理する余裕がなかった。この過密スケジュールのあげくにメニエル氏病症候群の疑いで入院し、六一年の秋にその回復を待っていた。この時にはじめて「プロセス・プランニング」のアイディアに到達した、こんないきさつだった。都市と建築について、《孵化過程=ジョイント・コア・システム》と《大分県立図書館》第一案がそれぞれ六二年に制作された。それらは当然ながらメタボリズムの批判として組み立てようとしている。批判であるということは、メタボリズムが眼前にいまも日本の建築界の主流を構成するような強度によって存在していたからである。私のプロセスについての思考はだからメタボリズムがなければなかったといってもいい。
当時私がむかい合った問題構制は、不確定性アンサーテインテイ決定不可能性インデサイタビリテイの二つだった。この両者はいずれも〈不〉がついているから、その部分で通底しているともいえようが、つかみどころがなく、支配的だった唯物弁証法や科学的な三段論法では扱いきれない不安定なものばかりである。その具体的なイメージはジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングとジョン・ケージの偶然性の音楽に代表されていよう。五〇年代の中期から六〇年代の初頭にかけて、日本の美術界と音楽界はアンフォルメルとチャンス・オペレーションの二つの衝撃波を受けていた。私の同世代のアーティスト達がその衝撃波をまともに受けて、それぞれの出発をこころみた。さしづめメタボリズムはその建築版、日本ヌーベルバーグはその映画版であっただろうが、建築と映画はその主題の変更に成功したが、私のみる限りでは、方法はまだそれ以前の残骸を引きずっていた。それに比較して、アクション・ペインティングとチャンス・オペレーションはその名称から推定できるように、ネーミングが方法そのものを指示している。絵画の描きかた、音楽の作曲の仕方、そのものを変えることだけが目的化されている。元来、方法を変革することが芸術のアヴァンギャルドだった。主題を排除してしまうことはフォルマリズムに通じるから、革命後のロシアにおいては社会主義リアリズムから目の敵にされた、六〇年代以後アメリカ美術が世界を席捲していくのは、このフォルマリズムを美的判断の基準に据えたことと無縁でない。
不確定性と決定不可能性をプロジェクトの核に据えようとしたのは、ポロックとケージの仕事をイメージとしてひたすら参照しながら、そして私の現実の都市、とりわけ無気味な胎動をはじめた東京から受け取っている一種の混沌の気分を表現するためだった、といってもいい。《未来の都市と生活》展で制作した《孵化過程=ジョイント・コア・システム》は都市をキャンバスに見立てて、その上に不確定な他者の介入によって発生する都市の生成がアクション・ペインティングでシミュレーションされる。ポロックが自己の意識下の動きに頼ったのに対して、ここでは他者としての観客の自発的参加を予定した。
それはこの時期にハプニングと呼ばれていたパフォーマンスでもあった。そして結末として、石膏がドリッピングされてキャンバスの全面を埋める。当然のことながら制作された結末はポロック由来のアクション・ペインティングとそう変わらない。私のはじめての都市的建築論として《大分県医師会館》(一九六〇)が完成して発表するときにつけた文章「シンボルの再生」(一九六一)はモンドリアンを否定するためにポロックをかつぎだしている。だからこうして制作されたものはいかにもポロック的でありすぎた。そこで私は失敗作として、数枚の写真を記録として残しただけで廃棄処分にした。保管する場所がなかったためでもある。いやアーティストになるつもりのない私にとって、この結果はあまりにアーティスティックであり過ぎた。保存する理由もなかった。ところが九〇年代になると六〇年代はレトロになるのか、この写真の需要がでてきた。
それはとりもなおさず「メタボリズム」が歴史的な記述対象となり、そこに参加せず、離脱するようなプロジェクトをつくることによって出発した私の消えてしまっていた仕事を再検討するスタンスが生まれたからに他ならない。
昨年の春、独立したひとつのプロジェクトとして組み立てた「海市」(一九九四─)をICCギャラリーにおいて、インターネットを用いて、ウェッブ・サイトにおいて立ちあげてみるために、一種のワークショップを構成してみたが、その準備段階で、これまで文章でわずかに記録してあった《孵化過程=ジョイント・コア・システム》をあらためて想い出した。このいきさつはその展覧会のためのカタログ『海市──もうひとつのユートピア』(一九九七)に収録されている。そして、三五年後の水戸芸術館での再演となった。その期間に、この都市モデルのパフォーマンスは、いくらか説明がつくようになっている。当時は単に都市光景の偶発性を観客参加によって具体化するという程度であったが、それは「都市や建築を最終的には有機体のモデル(単一の制作主体)に回収してしまわざるをえないメタボリズムの限界を示唆するかたちで、計量不可能な他者が自在に出入りすることによって、建築的統制や単一の創作主体による計画性が自然発生的に解体されてしまう」(椹木野衣「『熱』狂と『熱』力学」、《日本の夏一九六〇─六四》カタログ、水戸芸術館)と解釈されるようにもなった。クリストファー・アレクザンダーの「都市はツリーではない」(一九六五)、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリの「リゾーム」(一九七六)が、偶発性と非可逆的なプロセスのうみだす形式の原理的な説明を可能にしている。そして、創作主体と他者という、これらの形式が内包している問題が浮上する。複雑性に到達する数々の幾何学がこれを補強して、ひろく九〇年代の問題構制となっている。その萌芽的なプロジェクトとして、《孵化過程=ジョイント・コア・システム》があらためて想起されるということか。
五〇年代、武谷三男の自然認識の三段階論が注目を集めていた。それは、技術論であると同時に自然弁証法的な認識論であった。現象論的段階、実体論的段階、本質論的段階と表相から深相にかけて認識が弁証法的に深化していくとされ、この自然現象の科学的認識過程が、技術の展開にも適用できると説かれていた。菊竹清訓の「か、かた、かたち」の三段階論はこれに呼応しており、デザインの認識論であり、これをやはり建築における技術論に適用する、そしてメタボリズムの方法は、そのひとつの事例である、ととらえられていた。この論に最初に接して、私はほとんど圧倒された記憶がある。武谷三男の三段階論を魅力的だと思いながら、私は最後の一点で、どこか違和感をもっていた。その三段階論を一気に日本の古語に変換している。「ことだま」に認識論的概念をふりあてている。「ことだま」は西欧渡来の哲学上の概念よりは、はるかに伝達力がある。飛翔力がある。イメージ/タイプ/シェイプとこれを転換していくと、ルイス・カーンのフォーム/シェイプ論も包含可能である。ルイス・カーンの設定は新プラトン主義的なイデア論の枠組みを出ることはない。それに比較して、武谷三男の技術論は徹底して唯物弁証法たろうとしている。菊竹清訓の三段階デザイン論は、加えて「ことだま」による言語論的な三段論法である。絶妙な構図がここでつくられている。
私が武谷三男の三段階認識論に最後の一点で違和感をもったのは、おそらくエンゲルスの自然弁証法をさらに形式化してしまったスターリニズムの論法にそれは近いと感じただけである。私は当時、これらのマルクス主義者を自称する理論構成よりも、同じようにマルクスを論じていながら、それをもっと雑駁に展開していた毛沢東思想の方に共感をもっていた。毛沢東は口では弁証法をいいながら、無限に矛盾をつくりだしていく永久革命の信者である。弁証法を八方破れにして完結させない。それを暴力的に実践する。そのほうがリアルじゃないかと私は感じたし、非可逆的で偶発性をもつ不確定性アンサーテインテイはそのようにしてはじめてとらえうる。これをつきとめると、実はあの違和感は弁証法的思考そのものにあるのではないか。少なくとも私自身は弁証法的思考なんかやってない。毛沢東が巨大な流れと渦をつくってしまったように、その流れと渦をこそ、つまりプロセスだけを信じればいい。
ジョン・ケージは易経からチャンス・オペレーションを引き出している。ここには形式化した弁証法の割りこむ余地はない。そこで武谷三段階論を弁証法的な認識論ではなく、方法の単なる段階論にしてしまう。私の「都市のデザインの四段階説」(一九六三)はこんな具合で、弁証法をひたすら逃れるレベルで組み立てた。
 《孵化過程=ジョイント・コア・システム》はそれを他者の介入のもとに可視化する。こんな具合の思考には全面的な予定調和はありえない。ケージは「いまやっていることだけを正確に行なう」といっていた。それは来たるべき未来を想像することを断念することである。だから「未来都市は廃墟である」。それしかない。
「プロセスプランニング」のアイディアは《大分県立図書館》の設計過程で思いついたのではない。それはすでに都市のデザインを構想しているなかで、ひとつのアイディアとして浮かび上がっていた。それを建築デザインに適用してみようと図書館の建築型を分析するなかではっきり意識するようになった。一九六三年の春、前年の秋に組み立てた《大分県立図書館》の第一案を雑誌に発表するときにそれをまとめた。実施設計が済んで着工の段取りになったとき、「媒体の発見」(一九六五)という文章にした。このとき「プロセス・プランニング論」(一九六三)を手続きとして整理しながら、その最後に「切断」という行為を附加した。実施設計をやり終えてはじめて「切断」が決定的な行為であり、ここでデザインを私のやりかたで行なう際のたったひとつの手法であると確信できたからである。
「切断」されたデザインはその切り口が露出するので、偶発的な停止や破壊を想わせる。だからそれが廃墟のようにみえる、とその後になって説明されるようになった。これは元来、未来都市を廃墟と連結するモンタージュをつくるときに、そんな切断面を破壊面として描いていた、その描法をあらためて意識化したものだった。「切断」とは停止である。想像のなかで揺れ動くイメージをフリーズさせることだ。それを死と結びつけて考えてもいた。暴力的な介入でもある。できるだけ唐突な事故のようにみせる。不吉なイメージであったことに間違いない。
「プロセス・プランニング論」は、じつはプログラムとしての与件が決まらない条件下で、仮定的に与件を分類し、その空間的特性を分析しながら、予算と規模の決定を待つというすべてが未知数のままデザインだけは進行させねばならないという、ごくありふれた機会に偶然に最初から遭遇していたなかから、ほとんど苦しまぎれに生まれてきた、といってもいい。建物は想像のなかでは、有機体のように伸縮している。それをある瞬間にぶった切らねばならない。デザインの決定とはそんなものだと考えた。するとその切断面に伸縮する全過程が露出する。
三五年以上たった現在、この事態を決定不可能性という問題構制に繰り込むことは可能だろうと考える。私自身やっと七〇年代の後期から接するようになったジャック・デリダの六〇年代の著作に、この決定不可能性が問題構制の核心に置かれている。この「切断」という手法がそんな枠組みのなかに繰り込みうるかどうかなどまったく感知もできないままで当時はいた。ひたすら具体的なデザインとしての手法を捜していたに過ぎない。むしろこのときに抱いた問題意識が、八〇年代の終わりに、ベルナール・チュミ、ピーター・アイゼンマンを介して、ジャック・デリダの思考が〈建築〉と結びつくことの遠いきっかけをつくっている。ANY会議をはじめるときの大きい枠組みともこの決定不可能性はかかわっている。
一九六二年に制作した《大分県立図書館》の第一案は、ユニットにした部屋の構造に、設備系統を組み込んだプレキャスト・コンクリートを用いている。プレキャスト・コンクリートは、建築を一体化させるのではなく、組み立てにできるという点において、システマティックな取りかえを予想したメタボリズムのコンセプトにはぴったりで、いずれはこれが居住単位を丸ごとつくるカプセルに展開する。六〇年代のメタボリズムのもっとも特徴ある達成とみられよう。黒川紀章のメタボリズムの時期のほとんど独壇場ともなったデザインの領域である。カプセルは六〇年代のアイコンたりえているともいえるだろう。だから、第一案は、そのデザインの解法において、あくまでメタボリズムに追随している。ちょっとの間を置いて、私はもういちど設計をやりなおした。それは西欧の古典主義的な建築の内部の空間体験をしたこともかかわっているが、プレキャスト・コンクリートのシステムが実情にそぐわず、コストアップするだけであることもかかわっている。同時に、現場打ちコンクリートを新案の工法によって大スパンにすることで、日本でそれまで試みられることの少なかった光線のコントロールされた空間がうまれるのではないか、という予感もあった。大げさにいうと、プレキャスト・コンクリートの工法を棄てることによって、メタボリズムの方法の核心にあるデザインに直結する工業主義へむかわずに、〈建築〉を私が空間的に体験できた西欧の古典主義的な建築物の保持するような特性へと近づける。技術の表現ではなく空間の表現を選択した、といってもいい。私は技術的に後退すると考えた。単なる工業主義的新案を追いかける、いわゆるアヴァンギャルドとは訣別するだろう。むしろ〈建築〉の本質にある『空間へ』とむかわねばなるまい。そして、この変換を「切断」という概念に仮託した。それがデザインだった。
こういう具合に一九六二年頃の私の思考を整理してみると、私はメタボリズムと明瞭に逢遇している。けれど接触だけで旋回してしまった、というべきだろう。そして、建築と都市の両方にむけたプロジェクトは、メタボリズムの予定調和と技術主義にたいして、偶発性と決定不可能性という、いたって概念的な問題構制を組み立てることで、空間的なものの構築へとむかおうとした、と自分自身で整理できるように思う。ごくわずかな違和感へこだわることが、別なディレクションに押しやってしまう。そんな瞬間瞬間の選択だけがある。だが後から振り返ると、それが宿命になってしまっている。
三〇年という間隔は、やはりレトロにさせる。いまではその選択がはっきりみえるけど、そのさなかでは一寸先もわからなかった。こんな感想が記せるのも『メタボリズム』が出版されたためである。これが歴史を扱う本だとみるならば、レトロとして歴史との境界にいる私がぼんやりみえはじめたような気分にもなった。

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