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九坪ハウス考 | 五十嵐太郎
On "Kyutsubo House" | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ, 2003年01月発行) pp.184-193

九坪ハウスという現象

二〇〇二年一〇月一二日、TNプローブにおいて「九坪ハウスシンポジウム二〇〇二」が開催された。これはBoo-Hoo-Woo.comが仕掛けた住宅事業「九坪ハウス」により、八人の建築家・デザイナーがそれぞれにデザインした九坪ハウスを発表し、同時にそのシンポジウムを行なうイヴェントである。筆者は、このシンポジウムのモデレーターをつとめたが、当日はなかなか興味深い議論が行なわれた。そこで今回は九坪ハウスをめぐって考察したい。九坪ハウスが誕生した経緯は、いささか込み入っている。
話はちょうど五〇年前にさかのぼる。
一九五二年、建築家の増沢洵は最小限住宅の自邸を設計した[図1]。現在、これは戦後の小住宅を代表する作品のひとつとして評価されている。
一九九九年一月、リビングデザインセンターOZONEの「柱展」において、《増沢邸》の軸組が再現された[図2]。会期の終了後、これはスクラップになるはずだった。しかし、展覧会を企画した萩原修がその柱梁をもとに住宅をつくることを決意する。
一九九九年一〇月、萩原邸の《スミレアオイハウス》が完成した[図3]。わずかな変更はあるものの、オリジナルの最小限住宅と同じサイズ、同じ構成である。建築雑誌はさほど取り上げなかったが、『CASA BRUTUS』や『男の隠れ家』など、一般誌における空前の建築特集ブームにのって、大きな話題を呼ぶ。九坪ハウスのプレス・リリースによれば、一九九九年から二〇〇一年末までに、『CONFORT』や『クロワッサン』など、三三回も雑誌に取り上げられている。驚異的な数だ。
二〇〇〇年、萩原修は『九坪の家』を出版する[図4]。
二〇〇一年、彼の妻である萩原百合も『九坪ハウス狂騒曲』を刊行した★一。主婦という異なる視点から同じ住宅を楽しめる。まさに物語を生む家なのだ。その結果、萩原夫妻のもとに、同じ家が欲しいという問い合わせが多数寄せられたという。こうした現象に注目した若手建築家の岡崎泰之が、九坪ハウスの企画をプロデュースする。最小限住居の形式をパッケージとして販売するというシステムだ。
二〇〇二年、九坪ハウスのプロジェクトが始動した。七月一日現在のデータによると、『POPEYE』や『サイゾー』など、二〇のメディアが数カ月のうちに紹介している。『The Japan Times』(二〇〇二年六月二〇日号)でも取り上げられ、「新しい住文化を築くことがわれわれの目標です」という岡崎のコメントが掲載された。また『日経流通新聞』二〇〇二年四月では、デザインジャーナリストの山本雅也が「今回商品化されたのは(…中略…)モノとしての家ではなく、九坪の家に暮らすという、ライフスタイルそのものなのだ」と述べている。前述のシンポジウムは満員御礼。そして九坪ハウスはグッドデザイン賞の金賞を受賞した。
なぜ九坪ハウスは、これほど話題になるのか。

1──増沢洵《最小限住宅》外観 写真=Masuzawa Architects and Associates

1──増沢洵《最小限住宅》外観
写真=Masuzawa Architects and Associates

2──「柱展」で再現された《最小限住宅》の軸組 出典=『九坪の家』

2──「柱展」で再現された《最小限住宅》の軸組
出典=『九坪の家』


3──《スミレアオイハウス》外観 写真=筆者撮影

3──《スミレアオイハウス》外観
写真=筆者撮影


4──萩原修『九坪の家』(広済堂出版、2000)

4──萩原修『九坪の家』(広済堂出版、2000)

増沢の最小限住居について

最初に増沢洵の最小限住居が発表された一九五二年とは、どんな時代だったのか。
当時の『新建築』を繙くと、一九五二年一月号では坂倉準三の《神奈川県立近代美術館》、一二月号では丹下健三の《東京都都庁舎》の選定案を紹介している。五〇年前の日本は、まさに戦後の近代建築が本格的に動きはじめたときだった。そして清家清池辺陽、山口文象、広瀬鎌二篠原一男らの住宅作家も誕生した。増沢の最小限住居が掲載されたのは、一九五二年の七月号である。同誌の二番目の作品として、増沢のデビュー作は登場した。当時の解説文を引用しよう。

三×三=九坪の一階、三坪の吹抜をもつた九─三=六坪の二階、という小さな家であるが、全体が一空間的に構成されているので、コムパクトな広さをもつている。作者自身のすまいであり、家族三人の住居として決して狭いものではない。明晰な構造と素材の生地が、綺麗なディテールを以て納められている。広い敷地にこの様な箱型の家が出来たことには、多くの異論があるかも知れない。だが、Case studyとして日本の伝統的手法をハッキリと近代化してゆこうとする意図は高く評価されるべきであろう。なお設計者増沢氏はレーモンド建築事務所の若い所員である★二。


建坪は、三間×三間=九坪。九坪+六坪=一五坪という総床面積である。三×四=一二本の杉丸太。きれいに六分割された立面。南側の大きな開口とスノコのテラス。吹抜けが居間になっており、その奥が寝室、二階が書斎と家事室である[図5]。細かいディテールは設けず、構造がそのまま表現になっているシンプルな家だ。規模は小さいが、とるべきところは思い切って空間を確保し、小ささを感じさせない。現在、江戸東京たてもの園にある《前川國男邸》(一九四二)も、スケールは大きいが、こうした爽快な吹抜けの居間があり、力強いシンプルさをもつ。増沢も前川も、レーモンドの事務所に在籍していたからではないか。
一九五〇年代は最小限住居の時代だった。戦前にCIAMでも「最小限住居」をテーマに掲げていたが、特に敗戦後の日本では切実な問題だったはずである。都市が焦土となり、圧倒的な住宅不足を経験し、さらに極端な資材不足に陥っていた。こうした状況から一九四七年に臨時建築等制限規則を施行し、一二坪までの住宅が許可され、一九四八年には一五坪まで緩和される。最小限住居は、建築家の大きな課題となった。これに呼応して、一九四七年に第一回一二坪木造国民住宅のコンペ、一九四八年に第三回一五坪木造国民住宅コンペが行なわれている[図6]。やがて住宅制限は解除され、住宅金融公庫法が公布された。
増沢も住宅金融公庫の抽選にあたり、借りられる建築資金が一五坪だったことから、一五坪の自邸を設計したのである。現在の都心の小住宅ブームのイメージで考えると、増沢も狭小の土地に家を建てたという印象を抱くかもしれない。しかし、実際は二〇〇坪の敷地にぽつんと建ち、まわりは空地になっており、子供たちが遊び場にしていたという。増沢は「建築の使い方が大衆生産的なものに変化して居る現在特に住居は任意の敷地に敷地条件に余り左右されることなくその実現を可能ならしめるものとし度い」と述べているが、配置図を見ると、やや無造作に家を置いている[図7]。
完成してから五年後、増沢は「私の家」として最小限住居に言及し、以下のように反省している。

敷地に対してどう解決するかということよりもむしろ逆に、どんな処にでも建てられる家といったものを(物干も含めて)目標にして、その方向へそれまで学んできたことを集注した。その結果、建物そのものには時間をかけて設計したが、その反面、周囲の環境とか、敷地をゆっくり眺める余裕を失い、この大切な過程を深く考えずに終ったので、道からのアプローチとか、積極的な土地の利用といった点は曖昧になってしまった★三。


敷地よりも、まず家を建てることで精一杯だったのである。

箱の家とケーススタディ・ハウス

最小限住居と言えば、有名なのは池辺陽の《立体最小限住居》(一九五〇)だろう[図8]。これも延床面積が一五坪。「立体」とうたっているように、小さいながらも、平面の操作に終わることなく、三次元的な空間をめざし、断面の構成を強く意識した。難波和彦は、さまざまな制限のなかで、「融通無碍な畳の部屋を使うことなく、機能分化した椅子式の生活が可能であることを、池辺は証明しようとしたのである」という★四。戦前の池辺は、日本的なモニュメンタリズムに傾倒したが、戦後はマルクス主義の影響を受けながら、新しい時代のラショナルなモダニズムに向かい、やがてモデュール、ユニット、システムの問題を技術的に追求していく。現在、池辺の問題提起は、弟子である難波が引き継いでいる。
難波は、一九九四年から「箱の家」という住宅のシリーズを展開している★五。七年間で五〇戸以上が誕生した。これはローコストながらも、性能を落とさない住宅をめざし、そのために、寸法や部材を標準化している。デザインは、大きな窓をもつ箱型の家であり、外部に対して開く。内部は間仕切りを減らし、吹き抜けのある一室空間。難波は「箱の家」を設計しているあいだ、いつも池辺の《立体最小限住居》を意識していたという。確かに、池辺は最小限の容積に最大限の機能を集積させるために、寸法システムを考慮し、住まいの機能分化を進めながら、吹き抜けにより空間の一体化を行なう。増沢の小住宅の試みも、難波は参照しているが、やはり池辺の可能性に注目し、それを現代にいかそうとする。
ここでも一九五〇年代の試みが五〇年後に再生している。
《箱の家─一》(一九九五)は、近代建築の精神を継承するプロトタイプになった。《箱の家─一〇》(一九九七)では、標準化を考えはじめる。《箱の家─二一》(一九九八)は、《箱の家─一》を改良した五人家族の住宅だが、難波はここで第一ステージを終え、室内環境の条件やリサイクルの問題を視野に入れて、次の段階を開始する。《箱の家─二三》(一九九八)は、住宅とアトリエを融合させた。そして平面の多様性だけではなく、さまざまな構造も追求する。《箱の家─三三》(一九九九)や《箱の家─三四》(一九九九)は、集成材造を採用した。他には、鉄筋コンクリートのシリーズや連続住居化も試みている。さらなる発展形として、実験的な《アルミエコハウス》(一九九九)を手がけた。住宅の構成要素をできるだけ部品化し、工場で生産された精度の高いアルミニウムの構成材を現場で組み立て、工期を短縮した住宅である。
増沢の最小限住居は、雑誌発表時のタイトルを見ると、「最小限住居の試作」のほかに英語で「MINIMUM CASE STUDY HOUSE」 と記されている。当時、山口文象も住宅の「CASE STUDY」を語った。一九四五年にアメリカで開始した近代生活と住宅のプロジェクト、「ケーススタディ・ハウス」を意識したのではないか。例えば、《イームズ邸》が完成したのは、一九四九年である[図9]。増沢の自邸の三年前だ。一九八〇年代のポストモダン全盛期にはほとんど忘却されていたが、一九九〇年代に入り、ミッドセンチュリーのモダンデザインが再評価されている。昨年東京都美術館で開催された、イームズ夫妻の展覧会では、建築・デザイン系以外の一般人も多く訪れ、大盛況だった。増沢の最小限住居の復活も、こうした流れにのっている。
九坪ハウスと《イームズ邸》の共通性という点では、手軽な組み立て感覚が挙げられるかもしれない。よく知られているように、実験的なイームズの自邸は、すべての部材をカタログから選ぶことによってつくられた。これはコストの削減、工期の短縮、建設の簡易化につながる合理的な方法であると同時に、カタログの時代におけるデザインの方法も提示している。各々のパーツは既製品だが、住宅用ではない工場用の規格品を使うなど、選び方によって独自性を獲得した。また現場に鉄骨が到着してから、二階建てに計画を変更した際、鉄骨の梁を一本追加しただけで済んだというエピソードも、限られた部材をもとにしたパズル的な操作を示すだろう。イームズ夫妻は、そうした編集的なセンスに長けていた。

5──増沢洵《最小限住宅》平面図 出典=『現代日本建築家全集13』(三一書房、1972)

5──増沢洵《最小限住宅》平面図
出典=『現代日本建築家全集13』(三一書房、1972)


6──第3回15坪木造国民住宅コンペ1等入選案(1948) 出典=「新建築」1948年11+12月号

6──第3回15坪木造国民住宅コンペ1等入選案(1948)
出典=「新建築」1948年11+12月号

7──増沢洵《最小限住宅》配置図 出典=「新建築」1952年7月号

7──増沢洵《最小限住宅》配置図
出典=「新建築」1952年7月号

8──池辺陽《立体最小限住居》外観 出典=難波和彦「戦後モダニスム建築の極北」

8──池辺陽《立体最小限住居》外観
出典=難波和彦「戦後モダニスム建築の極北」

9──チャールズ&レイ・イームズ《イームズ邸》 出典=『Houses of the Century by Computer Graphics vol.2』(プランネットデジタルデザイン、2002)

9──チャールズ&レイ・イームズ《イームズ邸》
出典=『Houses of the Century by Computer Graphics vol.2』(プランネットデジタルデザイン、2002)

スミレアオイハウスの誕生

戦後日本の小住宅において計画学は有効に機能した。計画学は、小さい空間を無駄なく活用する方法を追求したからだ。当時の社会状況が必要としたものである。池辺も増沢も、一九五〇年代に最小限住宅の傑作を残した。しかし、一九六一年、篠原一男は、あえて戦後に小住宅ばかりが注目された風潮を批判している★六。そして、むしろ大きな家の無駄な空間に建築的な可能性があると述べた。小住宅では、建築計画学を理論的な武器として使えたが、大きな住宅ではそれが使えないからである。やがてポストモダンの時代を迎え、一九七〇年代には強烈な個性を発揮する住宅群が出現した。住宅の小さいことが話題になる機会は減っていく。
最小限住居を《スミレアオイハウス》としてよみがえらせた萩原修は、新宿のリビングデザインセンターでデザイン系の展覧会や出版を手がけるかたわら、若手のクリエイターのネットワークD-netを構築したり、吉祥寺をベースとしたKISS CAFEの運営に関わっている。そして一九九九年の「柱展」の企画において、《増沢邸》の実物大の軸組模型を制作したことが、《スミレアオイハウス》誕生のきっかけになった。展覧会の終了後、軸組を処分せず、これを引き取り、住宅を建てることを彼が考えたからである。そこで家族を説得し、急いで敷地を探す。つまり、ル・コルビュジエの母の家のように、先に家があって、後からそれにあう二八坪の敷地を取得したわけだ。
萩原は、五〇年代の住宅を九〇年代風にアレンジするために、デザイナーの小泉誠に設計を依頼した★七。その際、いくつかの点が変更される。例えば、階段下に小さい玄関や一階に畳の空間を新しく設けている。正面以外の開口部も変わった。大きな窓からはブレースが、軒下からは斜めの雨樋がなくなっている。もちろん、階段や手摺など、細かいデザインはいろいろと変更している。当初は南北にのばす増築も検討したというが、結局それは中止となり、正方形の九坪にこだわった。全体的には、小泉テイストが入り、オリジナル以上にすっきりとしたデザインになっている。また、もともと展覧会の時点で、柱は杉の丸太から檜に変化した。
基本的には、かなりオリジナルに忠実である。おそらく九坪というサイズと三坪の吹抜けという大きな骨格が復元されたことによって、もっとも重要な空間の性格は継承された[図10]。萩原は、家は大きければ大きいほど良いのではなく、「適正な住居の大きさ」があり、この小さな家において「贅沢ではなく身の丈にあった暮らし」が実現できたと述べている。それゆえ、一九五〇年代の最小限住居の試みから学ぶものは大きいという。もちろん、地球環境の問題もある。この家は、娘二人の名前をとって、《スミレアオイハウス》と命名された。筆者は、実際にこの家を見学したが、確かに小さいが、とても大らかな雰囲気をもった家である[図11・12]。住人と家の性格が非常によくあっていた。
以前、筆者は九〇年代の若手建築家の態度をあらわす概念「アプロプリエイト」の事例として、《スミレアオイハウス》に言及しつつ、「これは約五〇年の時を超えて、萩原修、増沢洵、小泉誠の三人がコラボレーションしたわずか九坪の最小限住宅といえよう」と指摘した★八。「アプロプリエイト」とは、「適切な、ふさわしい」、または「流用する」という意味をもつ。つまり、建築を状況に「適切な、ふさわしい」ものにすること。そして適切にリサイクルすることだ。《スミレアオイハウス》の現代的な意義はここにある。すべて新しく設計するのではなく、既存の形式をうまく流用すること。かつてみかんぐみが提唱した非作家性の議論ともつながるだろう。

10──《スミレアオイハウス》平面図 出典=『九坪の家』

10──《スミレアオイハウス》平面図
出典=『九坪の家』


11──《スミレアオイハウス》内部 写真=筆者撮影

11──《スミレアオイハウス》内部
写真=筆者撮影

12──《スミレアオイハウス》内部 写真=筆者撮影

12──《スミレアオイハウス》内部
写真=筆者撮影

建築ブームと九坪ハウス

《スミレアオイハウス》という事件から商品化されたデザイン住宅の九坪ハウスへ。
間違いなく、この追い風となったのは、三〇代の建築家への注目と並行して起きている、未曾有の一般誌の建築特集ブームである。おそらく、この動きを最初に仕掛けたのは、マガジンハウスだろう。五年程前から『BRUTUS』は、定期的に建築家のデザインした集合住宅を不動産の物件のように紹介した★九。しかし、一九九九年には「東京二三区に家を建てられますか?」という特集を掲げ、賃貸ではなく、狭くても戸建てで都内に住むことを提案し、同時に若手の建築家のリストを掲載する。そして二〇〇〇年の『CASA BRUTUS』の月刊化。ともあれ、都心回帰の流れが小住宅への関心を高めているようだ。一般誌の建築特集も、多くが小住宅を扱う。例えば、『MEMO』は、毎号のように、狭小住宅を特集し、その集大成として『MEMO別冊 狭小住宅のすべて』(二〇〇一)を刊行した。
筆者も、ここ数年の一般誌の建築特集に注目し、気がつくと購入していたが、最近はあまりにも多過ぎてすべてを把握できない。そこである程度確認できた、一九九九年から二〇〇一年の前半までの雑誌のリストを挙げてみよう。

・『BRUTUS』一九九九年一一月一五日号「特集=東京二三区に家を建てられますか?」(マガジンハウス)。
・『BRUTUS』二〇〇〇年一〇月一六日号「特集=安藤忠雄があなたの家を建ててくれます。」(同)。
・『Hanako』二〇〇〇年二月九日号「特集=建築家やデザイナーが作ったアパート&マンション賃貸情報」(同)。
・『MEMO男の部屋』二〇〇一年二月号「特集=狭い土地だからこそ個性的な家が建つ」(ワールドフォトプレス)。
・『MEMO男の部屋』二〇〇一年三月号「特集=住みよい家が欲しい」(同)。
・『MEMO男の部屋』二〇〇一年六月号「特集=都会に建てる狭小住宅のすべて」(同)。
・『MEMO男の部屋』二〇〇一年七月号「特集=二四時間、家を考えるひとたち」(同)。
・『男の隠れ家』一九九九年一月号「特集=あの建築家の設計した集合住宅に住む方法」(あいであ・らいふ)。
・『男の隠れ家』二〇〇〇年一二月号「特集=こだわりの家造り」(同)。
・『男の隠れ家』二〇〇一年六月号「特集=わがままな家 新進気鋭の建築家二八人」(同)。
・『pen』二〇〇一年二月一五日号「特集=美しいマンション」(TBSブリタニカ)。
・『モノ・マガジン』二〇〇一年五月二、一六日合併号「特集=家は最高の遊び道具だ!!」(ワールドフォトプレス)。
・『マンスリー・エム』二〇〇〇年一二月号「特集=三〇代建築家『居住空間の新発想』」(BELLSYSTEM24)。
・『エスクァイア日本版』一九九九年一二月号「特集=二一世紀住宅進化論」(エスクァイア マガジン ジャパン)。
・『エスクァイア日本版』二〇〇一年三月号「特集=週末は美術館へ」(同)。
・『スタジオ・ボイス』二〇〇一年五月号「特集=カジュアル・アーキテクチャー」(インファス)。

繰返すが、これらは建築雑誌ではない。普段は建築以外の特集を組む。しかし、同じ雑誌が建築特集を続けているところを見ると、確実に売り上げが良かったものと想像される。ほとんどの特集は、家づくりを取り上げていることも注目したい。《ケーススタディ・ハウス》の試みも建築界だけの企画ではなく、『アーツ・アンド・アーキテクチャー』誌を通して、ポピュラリティを獲得していたが、雑誌は建築を売り込むための重要なメディアである。松村秀一は、近年、消費における住宅の位置づけが変化したことを指摘していた★一〇。これまでは住宅にかける費用が犯されざるべき神聖な領域として別に確保されていたのに対し、現在は旅行やクルマなど、ほかの消費アイテムと同列に並んでいるという。カジュアルな感覚の小住宅が人気なのも、これと関係しているのではないか。
プレス・リリースによれば、九坪ハウスのプロジェクトとは、「建築家・デザイナーによる優れた住宅デザインを商品化し、流通させる新しい住宅産業を目指すもの」であり、増沢の最小限住居を原型として、その魅力を受け継ぎながら、リメイクデザインするという。二〇〇二年四月から、Boo-Hoo-Woo.comは、インターネットを活用しながら、小泉誠のデザインによる「TYPE1」、「TYPE2」の販売を開始した。両タイプは、基本的には《スミレアオイハウス》とほぼ同じものであり、「TYPE2」は「TYPE1」から玄関や家具を省き、トイレ、バス、洗面所を一体化してシンプルにすることで、コストダウンを計る。また《スミレアオイハウス》の有料見学会も企画しており、購入希望者が、デザインされた住宅でありながら、建売住宅のように、実際に見学できるのは興味深い。
九坪ハウスの最大の利点は、施主が事前に想像可能なデザイン住宅を購入できることだろう。建築家に依頼すると、完成するまで全体像がわからない。だが、九坪ハウスという形式が固定され、しかも実物を見学できるならば、そうした不安をなくせる。建築家の側も、最初から施主と具体的なイメージを共有できるため、そこに到達するまでの労力を省けるだろう。大変な作業をとばせるのだ。設計の効率化はコストダウンにつながる。かといって住宅メーカーのような無個性の家でもない。九坪ハウスのプロジェクトは、建築家とメーカーのちょうど中間を狙う、したたかな戦略である。
こうした試みが以前になかったわけではない。筆者が知見したなかでは、塚本由晴が似たようなアイデアを持っていた。建築家が個別に住宅を設計するのでは採算があわない。そこでいろいろな敷地条件に対応するプロトタイプを幾つか共有し、個別の設計では細部を修正する。そうして浮いたお金から資金をプールして、新しいプロトタイプを開発するというものだ。F.O.B. HOMESも、建築家とメーカーのあいだを意識したデザイン住宅の販売を行なう。これはF.O.B. COOPのイメージを利用していたが、九坪ハウスは、有名な最低限住宅を下敷きにした点が決定的に違う。デザインの関係者にはよく知られた家であり、メディア受けする話題性をもつ。しかも、これをプラットフォームとして、さまざまな建築家・デザイナーの参与を可能とする、開かれたシステムなのだ。

OSとしての五原則

二〇〇二年、九坪ハウスのプロジェクトでは、増沢の息子である建築家・増沢幸尋の助言を受けて、以下のようなデザインの五原則を設定した。

1.正方形のプラン(三間×三間)汎用性と美学
2.吹抜け(三坪)空間の連続性
3.外部は切妻屋根単純性、合理性
4.丸柱を使う構築性、柔らかさ
5.メインファサードの開口部
(幅一二尺×高さ一三尺)比率、内外の一体化

いうまでもなく、ル・コルビュジエの近代建築の五原則にならったものだが、実は増沢洵も、その師匠のレーモンドも五原則を記している。レーモンドはこうだ。

1.自然性
2.単純性
3.直截性
4.正直性
5.経済性

増沢の五原則は次のようなものである。

1.時代性
2.調和
3.合目的性
4.機能性
5.経済性

これらを比較すると、増沢の五原則はレーモンドの影響を受けたせいか、よく似ており、いずれも建築のモラルに関わる提言といえる。一方、九坪ハウスの五原則は、構成のルールに限定し、あえて思想に踏み込まない。むしろ、ピロティや屋上庭園など、建築の文法だけを挙げたル・コルビュジエの五原則に近いだろう。つまり、これらに従えば、自動的に特定のデザインが生産できるというわけだ。ただし、ル・コルビュジエが「近代建築」という様式を推進したのに対し、九坪ハウスは「最小限住居」という作品を反復することを目的にしている。
またル・コルビュジエの五原則は、すべて近代以前の古い建築の文法に対抗するアンチの態度だった。例えば、祖積造が不自由なプランとファサードだったのに対し、軸組による近代建築は自由なプランとファサードを可能にする。つまり、それぞれの主張を単純に裏返せば、近代以前の五原則になるだろう。一方、九坪ハウスの五原則は必ずしもそうした革新性を意図しない。一九五〇年代のリヴァイヴァルとして想定されている。と同時に、これはコンピュータをメタファーにした新しい住宅デザインのあり方だという。どういうことか。Boo-Hoo-Woo.comの企画書では、以下のように記している。

九坪ハウスは、住宅デザインを「新しいライフスタイル」を生み出すソフトウェアである」と捉え、各建築家/デザイナーは個別のライフスタイルを想定してデザインする。(…中略…)九坪ハウスの五原則はコンピュータのOS(Windows XPやMac OS Xなど)、建築家/デザイナーのリメイクデザインはOS上で走るアプリケーション(例えばMS WordやAdobei Photoshopなど)、そしてユーザーがそれを「ライフスタイル」として使用する★一一。


ソフトの比喩は、F.O.B. HOMESのコンセプトでも使われている。ハードとしての住宅生産のラインよりも、デザインというソフトからシステムを変えること。かつて石山修武セルフビルド的な活動が不透明な住宅生産をゲリラ的に批判したのに対し、若い世代は自ら住宅産業と近い立場をとって、システムをずらそうとする。グレッグ・リンも、コンピュータにより住宅ヴァリエーションを無限に提示し、消費者に選択させる方法論を唱えていた。これらはコンピュータ的な想像力から導かれている。ともあれ、九坪ハウスのプロジェクトは、五原則を提示しつつ、八人の建築家・デザイナーに設計を依頼した。

複数化する九坪ハウス

五原則により規定された最小限住居をプロトタイプとして、多様なデザインが展開する。何度か打ち合わせに参加し、その過程を見ながら、小さいこと、厳格なルールは俳句の形式性のようだと思った。実際、五原則を遵守すると、かなりの自由度が失われる。つまり、俳句のような家。さて、リメイクデザインを依頼されたのは、以下の八組。阿部仁史、五十嵐久枝、小泉誠、佐々木龍郎、手塚貴晴手塚由比、西森陸雄、橋本夕紀夫、山本健太郎である。彼らはどのような案を提示したのか。
西森と橋本は、主にライフスタイルに関わる案だった。西森の《セラーハウス》は、ワインを好む施主を想定し、住宅の中央に一坪の冷蔵倉庫を設置する[図13]。そして通常は倉庫の壁面は可動パネルで閉じられるが、パーティのときは外され、陳列物が姿を現わす。しかも施主の寝室はセラーの真上である。西森自身がワイン通で知られ、生活の楽しさがリアルに表現されていた。橋本の《FUZEI ─土間のある家─》は、土壁を外部に張りだすとともに、限られた内部空間にあえて大きな土間をつくり、自然を呼び込み、内部と外部の境界を曖昧にする[図14]。和風というよりも自然素材の選択にこだわったという。いずれも貧乏ミニマリズムの時代とは違い、趣味の家という性格を打ち出している。
スケールに関しては、五十嵐と阿部の案を見よう。五十嵐の《コレクターハウス》は、コレクターの施主というライフスタイルを考慮しつつ、小さい家の壁面を全体的に棚とし、コレクションを陳列する[図15]。《スミレアオイハウス》では引っ越しするときにモノをどんどん捨てたらしいが、逆にこのサイズは好きなモノに囲まれて暮らすのに適当な大きさだと読み替え、棚の家が提案された。阿部の《九坪ハウス Tall》は、原型を垂直方向に約三メートルのばし、三階建ての高さに変え、どんな土地にも対応できるよう開口部を四方向に対して均等に配置する[図16]。「Tall」は、スターバックスのコーヒーのサイズにひっかけたものだが、ただ空間の量が増えるだけではなく、空間の質も変容するだろう。
阿部の案は、開口部など、五原則の一部を違反しているが、空間を操作するすぐれて建築的な思考といえよう。もっともルールを破っていたのが、手塚貴晴+手塚由比の《LGS Kit House》だ[図17]。組立てキットハウスは、手で運べる超軽量パネルを使い、厳しい敷地条件でも対応できる。そして吹抜けをなくす代わりに、前後の窓を大きく開く。増沢幸尋のチェックによれば、正方形のプラン以外はルールを厳密に守っていない。だが、オリジナルがもっていた垂直方向の抜けを水平方向に転換し、突き抜けた空間の質は維持されていると解釈できよう。実際、萩原に今度はこの家に住みたいと言わしめた。もっとも、この家は都心よりも景観がいい場所のほうがふさわしいかもしれない。
手塚案は、五原則に対する意義深い問いを投げかけた。山本の《ガレージライフ》は、四方に開くルーバー庇により、一階のガレージを開放的に演出する[図18]。打ち合わせの際、彼の途中段階の案を見たのだが、五原則は縛りとして作用し、デザインに迷いを残していた。しかし、最終案は、思いきって四方向に全開し、ルールを破ることで明らかに洗練されたものになる。反対に、小泉の《九坪ハウスで働こう! ─TYPE3─》は、最小限住居の骨格が好きだと述べ、それをまったくいじらない[図19]。可動のキャラクターウォールのみを加えることで、固有の空間を発生させるのだ。そして居住空間にこだわらず、事務所や商店として使うことも提案する。
総じて言えば、手塚、阿部、山本らの建築家は五原則を違反し、小泉、五十嵐、橋本らのデザイナーは守る傾向があった。それはデザイナーが、インテリアを仕事にすることが多いという職能に起因するのかもしれない。もっとも、九坪ハウスのプロジェクトの依頼の順番は、デザイナーのほうが早く、五原則がより強く機能していたという事情もあるようだ。ともあれ、八人が独自の解釈を示したことにより、最低限住宅の同一性とは何かを改めて考えさせる機会が生まれた。
佐々木の《present house/gift house》は、建築としての五原則に商品としての五原則を追加する[図20]。一.EV(シニアライフスタイル)、二.WATERLIVING (水廻りの居場所)、三. 1F FREE(フレキシビリティ)、四. SWALL(ビジネス/デザインプラットフォームとしての九坪ハウス)、五.PLUS-MENU(生活の拡張、縮小、交換)である。興味深いのは、取り外し可能な壁を贈り物として使うアイデアだ。プレゼントとしての住宅のパーツ。例えば、結婚などのお祝いに家具を贈る感覚で、高性能の壁を贈るというのだ。つまり、住宅がまるごと商品になるというよりも、さらに部品に解体し、それぞれが他の産業とネットワークを結びながら、新しい贈与の関係を創出する。
九坪ハウスのプロジェクトは、堀井義博が指摘するように、トリュビートアルバムと似ているかもしれない★一二。さまざまなミュージシャンがリスペクトするアーティストの楽曲をカバーするように、さまざまな九坪ハウスのリメイクデザインが寄せられているからだ。もともとオリジナルの最小限住居も、さまざまな変更を経験している。三人で住みはじめ、二年後に長女が生まれ、すぐに二階の床をはったらしい。そして一九六五年、増沢事務所の所員だった淀川潤三が譲り受け、世田谷に移築される[図21]。それから三五年以上もこの家は現役として使われている。ただし、吹抜けはなく、総二階であり、増築も行なわれた。生き残る家である。今やその遺伝子は各地の住宅に移植されようとしているのだ。
筆者に九坪ハウスがビジネスとして成功する、しないを論じる知識はない。だが、これが建築のデザイン論にとって重要な問題提起であることは間違いないといえる。

13──「9坪ハウス」模型 西森陸雄 写真=ナカサ&パートナーズ

13──「9坪ハウス」模型
西森陸雄
写真=ナカサ&パートナーズ

14──「9坪ハウス」模型 橋本夕紀夫 写真=ナカサ&パートナーズ

14──「9坪ハウス」模型
橋本夕紀夫
写真=ナカサ&パートナーズ

15──「9坪ハウス」模型 五十嵐久枝 写真=ナカサ&パートナーズ

15──「9坪ハウス」模型
五十嵐久枝
写真=ナカサ&パートナーズ

16──「9坪ハウス」模型 阿部仁史 写真=ナカサ&パートナーズ

16──「9坪ハウス」模型
阿部仁史
写真=ナカサ&パートナーズ

17──「9坪ハウス」模型 手塚貴晴┼手塚由比 写真=ナカサ&パートナーズ

17──「9坪ハウス」模型
手塚貴晴┼手塚由比
写真=ナカサ&パートナーズ

18──「9坪ハウス」模型 山本健太郎 写真=ナカサ&パートナーズ

18──「9坪ハウス」模型
山本健太郎
写真=ナカサ&パートナーズ


19──「9坪ハウス」模型 小泉誠 写真=ナカサ&パートナーズ

19──「9坪ハウス」模型
小泉誠
写真=ナカサ&パートナーズ

20──「9坪ハウス」模型 佐々木龍郎 写真=ナカサ&パートナーズ

20──「9坪ハウス」模型
佐々木龍郎
写真=ナカサ&パートナーズ


21──最小限住宅の移築 出典=『九坪の家』

21──最小限住宅の移築
出典=『九坪の家』


★一──萩原百合『九坪ハウス狂騒曲』(マガジンハウス、二〇〇一)。
★二──『新建築』一九五二年七月号(新建築社)。
★三──増沢洵「敷地と建物の関係」(『新建築』一九五七年三月号、新建築社)。
★四──難波和彦『戦後モダニズム建築の極北──池辺陽試論』(彰国社、一九九九)。
★五──難波和彦『箱の家に住みたい』(王国社、二〇〇〇)。
★六──篠原一男『住宅論』(SD選書、一九七〇)。
★七──萩原修『九坪の家──Sumireaoihouse』(広済堂出版、二〇〇〇)。
★八──拙論「アプロプリエイトする若手建築家」(『GA JAPAN』No.49、エーディーエー・エディタ・トーキョー、二〇〇一)。
★九──『BRUTUS』一九九七年一一月一日号「特集=有名建築家が作った集合住宅情報2」(マガジンハウス)や、同誌「特集=スタイルのある集合住宅情報3」一九九八年一二月一日号など。
★一〇──「リノベーション・スタディーズ 三」(タマダプロジェクト、二〇〇二年二月一九日)のレクチャーにおける発言。
★一一──「九坪ハウス展」(二〇〇二年八月)企画書より。
★一二──シンポジウム当日の筆者との会話から。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.30

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>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

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1918年 - 2005年
建築家。東京工業大学名誉教授、東京芸術大学名誉教授。

>池辺陽(イケベ・キヨシ)

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建築家。

>広瀬鎌二(ヒロセケンジ)

1922年 -
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>篠原一男(シノハラ・カズオ)

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建築家。東京工業大学名誉教授。

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建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

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>松村秀一(マツムラ・シュウイチ)

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建築構法、建築生産。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。

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1965年 -
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>阿部仁史(アベ・ヒトシ)

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>手塚貴晴(テヅカ・タカハル)

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建築家。手塚建築研究所共同主宰、武蔵工業大学准教授。

>手塚由比(テヅカ・ユイ)

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