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討議:「東京オリンピック計画二〇一六」のための序──四つの提言と討議 | 今井公太郎+今村創平+日埜直彦+吉村靖孝
Introduction for the "Tokyo 2016 Olympic Games' Project": Four Proposals and Discussion | Imai Kotaro, Imamura Sohei, Hino Naohiko, Yoshimura Yasutaka
掲載『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) pp.26-32

オリンピックによる都市改造──インフラ再整備・リノベーション | 今井公太郎


なぜわれわれはオリンピックをテーマにするのか

東京都は二〇一六年のオリンピックを招致することを決めました。もし、東京に決まれば東京大改造が行なわれることになるかもしれません。
かつて一九六四年の東京オリンピックのときには、環七、青山通り、六本木通りの三本の道路が開通し、代々木や駒沢には公園ができました。そして、今の東京の風景を決定づける首都高や、さらに観光地である京都に人を送る目的で東海道新幹線が開通するなどして、急激な整備が実行されました。その結果、東京の風景は大きく変貌しました。
都市改造は、目的の重大さよりも、きっかけや契機のほうが実行力となるのではないでしょうか。東京には地震対策や火災対策が十分とはいえない地域も多数あり、身動きが取れない状況が続いています。国家事業でしかも期限付きという、いわば緊急事態の圧力が効果的に働いてこそ、思い切った都市改造のハードルを乗り越えることができるのです。
そうした改造が、仮に二〇一六年に再びやってくるとすれば、それが東京の風景をどう変えることになるのか極めて興味深いと思います。日常的に、われわれは建築の設計を通して間接的にしか、都市を考察することができませんが、オリンピックを契機にインフラや大規模な公園など都市施設について直接的に考察してみることは、かなりエキサイティングなことだと言えるでしょう。

インフラの再整備・リノベーション

では、次のチャンスに、東京をどうすればいいのでしょうか。競技場を改修したり、選手村をどこかにつくったりするのは当然としても、インフラや公園など都市施設をどう見直すかが大きな課題のひとつとなるでしょう。
インフラはそれ自体が都市のストラクチャーですから、それの再生計画によって文字通り東京の都市構造を抜本的に変えることができます。しかし経済的にインフラは、競技場の建設などに比べると一ケタ多いお金がかかります。もちろん、発展途上国でもない限り、今以上に新しく大規模なインフラを整備することは可能性が低いと思います。ただし、何も修正されないということも考えにくい。たとえば、前回の東京オリンピックの際に建造された首都高は、頻繁にメインテナンスされているとはいえ四〇年以上経過し、老朽化が懸念され始めています。つい最近では日本橋上空の首都高に関して地下化する案が、物議を醸しています。また、首都高には未完成部分(一〇号線)もあります。
したがって、オリンピックを契機として首都高に何らかの修正を加える可能性が考えられるでしょう。ただし修正がされる場合、一回目のオリンピック時に突貫で造ってしまったことがもたらしている歪みを少しでも解消するような、もう少し肌理の細かい仕事が望まれます。
その際、いったいどういう価値観によってリノベーションするのかが問われることになります。それが観光なのか、環境なのか、サステイナビリティなのかわかりませんが、いずれにしても、その価値は、成熟した先進国にふさわしい風格あるグランド・ヴィジョンにつながるものであって欲しい。カオスの魅力を持つ未来的な街・東京というキャッチフレーズでは、都市の持続的な成長には、ちょっとつらいものがあります。

都市改造の思考実験

仮に、観光という価値を念頭に置くなら、水上交通のような穏やかなインフラを充実させて、その周りの風景くらいは優雅で整理された街を展開させたいところでしょう。マラソンコースには、そのような、緑や自然と有機的に連関した都市の風景が展開していくコースを設定したいところです。
例えばパリは一九世紀の万博以来、エッフェル塔、シャイヨー宮など多くの都市施設を整備してきたことで、「博覧会都市」と呼ばれたりします。戦略的にセーヌ川沿いの博覧会整備に幾度も取り組んできたことで、豊かな水際の都市空間が完成しています。しかし、それも前世紀のこと。万博が世界的に求心力を失いつつある現状においては、サッカーのワールド・カップやオリンピックのようなスポーツ・イヴェントくらいしか、都市を大きく改造する手段は残っていません。

さらに東京の場合、首都高と同様に、未完成の環状道路や放射状に伸びる道路の主要道路の開通は、円滑な交通と渋滞回避のために必須です。反対に、現実的でない都市計画道路は取りやめたりして、ゾーニングも修正すべきです。
例えば、バルセロナは、街の中心部をグリッド状のセルダ・プランが占めます。一九九二年のオリンピックではその周囲に衛星のように、四つのスポーツ都市が造られました。この配置によって、セルダ・プランを貫通するダイアゴナル(斜交路)の意味が変容し、グリッド形状とその周囲の地形的な都市が有機的な結びつきを獲得するに至ったのです。これは、すでにあるインフラをうまく生かした成功事例として大いに参考にすべきです。
東京に今あるインフラを生かすために、メイン会場の場所を中心部ではなく、郊外多摩地区とするのか、あるいは、お台場とするのか。国立競技場をどのようにしていくか。また、首都四県の連関はどのようになるのか、などなど。立地とゾーニングに多くの課題を挙げることができます。

もちろん現実的には、一回の招致で簡単に東京にやってくるとは思えません。なぜなら、二〇〇八年に北京が行なわれるので、その八年後にすぐアジアに戻ってくるとは考えにくいからです。しかし、一九六四年のオリンピックも三回目の招致でようやく開催を実現したのですから、今回招致を宣言した意味は大きいのかもしれません。同様に、ワールド・カップも最近あったばかりですから、当面は東京での大きなスポーツ・イヴェントは考えられないでしょう。
しかし、インフラの再定義、ゾーニングのリノベーションという視点で東京を考え直す機会が到来したわけです。これらの問題をオリンピック招致の機会に思考実験することで、東京が潜在的に持っている問題を顕在化し、東京の構造を見つめなおすことが可能となります。しかも特定の状況を伴ったリアリティのあるイメージとして、思い切った都市の大改造をシミュレーションしてみることができるわけです。もちろん、こうした問題は、オリンピックがなかったとしても考えておかねばならない問題であり、そうした実験は仮にオリンピックが東京にやってこなくても価値のあることだと考えます。

建築にとって五輪とは | 吉村靖孝

言葉をさらに言葉によって反芻してきたのだから、読者諸兄にはまだるくて読み苦しい点もあったに違いない。期間にすると短くはないが、時間にするとけっして長くはなかったこの会も次なる展開に踏み出さなければならない時期に来ていたのだと思う。だから「東京オリンピック計画二〇一六」の話は湧くようにして議題に上り、あっと言う間に小さなコップを満たすまでにはなった。しかしなぜオリンピックなのか。それはこれから繰り返し問い繰り返し答えていかなければならないだろう。初回となる今回は、まず少なくとも僕個人がなぜオリンピックについて考えるのか、そのことについて考えておきたいと思う。

もったいつけてしまったようだが答えは簡単だ。僕は、もしも東京でオリンピックが開催されるなら、東京を改悪するものであって欲しくないのだ。つまり、オリンピックでできた傷はオリンピックで癒すとばかりに首都高地下化を強権発動したり、手狭になった競技場をスクラップ・アンド・ビルドしたり、セキュリティ対策と称しやたらとカメラを仕込むようなまねをして欲しくないのだ。もちろん、せっかくオリンピックを開催したのに何にも変わらないような事態はもっと避けたい。東京が二度目の五輪招致へ向け動き始めたからには、どこかで必要な議論が始まらなければならないのだ。東京のあるべき姿を考え、そのために五輪が貢献できることを考える。僕らは所詮建築家なのだから、ただ議論を積み上げて終わるのではなく、最後には提案の体裁にすべきと思う。これからはじまる議論はその布石となるべきである。

その議論をこのテーブル、すなわち「現代建築思潮研究会」でなすべきと考えるのにはいくつかの理由を書き並べることができるだろう。しかし、一番直接的な理由は「ほかに受け皿がない」ことではないだろうか。ひどく消極的に読めるやも知れぬが、これは偽らざる心境である。建築家、まして僕のような駆け出しの建築家がオリンピックという国際イヴェントに口を挟むような回路は閉ざされている。無論、関連施設を建てる段となれば誰かが設計業務にあたることにはなるが、そのときにはすでにすべてが決していて、建築家は先生などと呼ばれながら最後にイチゴを添えるだけ。僕は巷を席巻するファサード建築に否定的な感情を持ち合わせていないが、それはそのほかの建築もファサード建築と同様多くがイチゴに安住していると感じるからである。何のために何をどこに建てるか、あるいはそもそも建てるのか建てないのかという問題に建築家は近づこうとせず、やがて議論の受け皿さえ失ってしまったのだ。最後のイチゴにだって探求すべき課題は山積しているのだからそれはそれでいいのだが、ほんの少しだけ外に目をやれば状況がまったく変わるのではないか。そんな想像をすると僕の場合単純に胸が躍るのである。しかしだからと言って闇雲にゼロから思考することが功を奏するとも思えないから、オリンピックという目鼻立ちのはっきりしたイヴェントはケーススタディにうってつけだ。つまり順序はどうあれ「ほかに受け皿がない」という消極的な選択が実は「イチゴ」に甘んずる現代建築の構造的な問題に接続しており、オリンピックを通じてその打破がかなえば現代建築の可能性を広げることになるかもしれない。そう考えているのである。「現代建築思潮研究会」としても自己言及的に現代建築思潮を模索する場になれば、当初の目論見を大きく逸れることにはならないのではないか。その際当然のことながら、これまでしてきた議論も大いに蒸し返し、積極的に別の意味を付与していくべきなのだろう。

さて、ではいったいどんな議論が待ち受けているのだろうか。僕はオリンピックの空間について考えてみたいという漠然とした願望を抱いている。しかし正直に言えば僕はオリンピックにとって建築がどんな意味を持ちうるかについてはあまり興味がない。たとえば近代オリンピックの転回点として語られるヒトラー指揮下の第一一回オリンピックにとって、レニ・リーフェンシュタール監督による『民族の祭典』の舞台ともなった建築家ヴェルナー・マルヒのスタジアムは大きな意味を持っていたに違いない。この一例だけを取り出してすべてを論ずるわけにはいかないが、しかしスポーツの祭典にそもそも代弁すべき意味などないのだから、過剰な演出は眉に唾をつけて見たほうがいい。僕の関心が向いているのはむしろ、建築にとってオリンピックとはなにか、である。オリンピックが端緒となって建築という得体の知れない集合が動くか否か。そしてもし動かすことができたなら、それが東京にとって悪くない選択肢になると信じるのである。であるから空間を考えると言っても、これまでに建てられたオリンピック関連施設を振り返ることは意味をなさないであろう。それよりはむしろ、オリンピックに移植可能なビルディング・タイプを別のカテゴリーで検索したり、都市を劇的に変えたオリンピック以外のファクターを探して地図を広げるほうが有効に違いないのだ。そうしてやがて再編されるであろうオリンピックの空間に興味がある。

僕はこの小さなコップから議論が溢れ出し、オリンピック招致計画のなにがしかに賞賛の美酒を送ったり、はたまた冷や水を浴びせるような事態になることを大いに期待している。近い将来どこぞで策定される(あるいはすでに策定された?)計画と何らかのかたちで呼応するものでありたいと願っている。しかし同時に、オリンピックについて考えることがなにがしかの突破口を開き建築と都市のあたらしい局面を提示できるなら、それは単にオリンピックを成功に導くことよりは重要なことだろうとも考えている。

オリンピックを契機とし、都市の再構成を構想できるか? | 今村創平

何らかの都市イヴェントを機に、都市を構想することは今日可能なのだろうか。
昨年の愛知万博においては、ある入場者数には達したのだろうし、個別の見所はあったのであろうが、結局なぜ万博なのかは、最後まで釈然としないものが残った。〈環境〉というテーマそれ自体はまったく否定できない。建築はそうしたテーマに寄り添って見せはしたものの、大きな枠組みを揺さぶるような役割にはならなかったし、またそのような期待も建築にはされていなかったと思う。
万博は、すでにその役割を果たしたとの意見もある一方、オリンピックには開催する意義というものが認められるし、それは世界各地で紛争がある現状では、ますます重要になる可能性がある。また、サッカーのワールド・カップをはじめ、国際的なスポーツ・イヴェントは、ますます活発になる趨勢にある。そうした国際的なイヴェントの重要性は認識されつつあるようだが、それが行なわれる都市との関係には、まだ議論のされていない可能性が大きく残されている。
そのひとつが、そうした機会を都市再生のきっかけにしようという期待だろう。オリンピックのようなイヴェントは、現代のお祭りのようなものであり、その大義名分もあいまって、普段では行ないがたい改革を一気に実現することを可能とする雰囲気がある。しかし、イヴェントの期間そのものはせいぜい数週間であり、瞬間的なイヴェントと長期にわたる都市整備とを直接的に結びつける理屈を生み出すことはそれほど容易ではない。
寂れた一地方都市に過ぎなかったスペインのビルバオが、フランク・O・ゲーリーのグッゲンハイム美術館をきっかけに奇跡的な復興を遂げたことは、今では神話のように語られる。それに倣ってか、世界の各都市でスター建築家がモニュメンタルな建物を建て、都市再生のシンボルたらんことを期待されるという風潮は今まさに進行中であり、オリンピック施設においても、その傾向は垣間見ることができる(北京のヘルツォーク&ド・ムーロンやロンドンのfoaなど)。
とはいうものの、多くの外国からの旅行者が長年にわたって訪れる美術館と、短期の使用を目的とされるオリンピック施設とでは、性格はまったく異なる。だとすればこそオリンピックの施設には、会期が終了した後にも、それがオリンピックで使用されたという象徴性が求められるのではないか。オリンピック発祥の地、ギリシアの競技施設が今でもギリシア文明の象徴として伝えられているように(次回のオリンピックを機に、丹下健三の代々木の体育館を壊そうという議論は、まったくナンセンスであり、目的を終えてもその後もずっと残し続けることがまずは大切なのだ)。
一方で、瞬間的なイヴェントが、都市とどう関わるのかというのは、フィジカルな建物のみならず、もう少し広い視点からも興味深い。シチュアシオニストが〈スペクタクルの都市〉と言ったり、ベルナール・チュミが〈イヴェント・シティ〉を唱えたりしているが、そうしたアイディアとオリンピック・イヴェントはどう結びつくのか。それとも、東京のような現代都市にあっては、日常の都市の光景や状態が、スペクタクルでありイヴェントであって、ことさらオリンピックによって、影響を受けたりはしないのだろうか。
また、オリンピックは、一カ所に一〇万人近くの人が集まり、また移動するのであって、そのための器とインフラの整備が不可欠なのは疑うべくもない。とはいうものの、それはごく短期間の要求であって、膨大なコストと時間をかけてインフラを整備することの間には、根本的な矛盾があるように思える。であれば、仮設的な対応や将来的な転用を見据えた整備を考えられるであろうが、そうした手法でもってオリンピックが求める高度な要求を満たし、同時に相応しい象徴性を持ちえるかも課題だ。
オリンピックに経済効果を期待し、都市整備の契機にしようという姿勢は、素直に受け取ってもいいのだが、一方ではオリンピックを利用しているともいえる。かつてほど純粋なアマチュアリズムの順法を謳うこともなくなってきているようだが、商業主義や都市間の競争にオリンピックが翻弄されるのは、オリンピック開催の精神と反する。本当に必要な都市改革であれば、わざわざオリンピックを持ち出さなくとも、説得をし実現すべきではないか。そして、毎度オリジナルのテーマを掲げられる万博と異なり、オリンピックはIOCが規定するイヴェントを、四年ごとに異なる都市が担当する性格を持ち、まったく斬新な枠組みを提案することはほとんど意味をなさない。オリンピックの基本線をも守りつつも、独自の運営を目指すという性格がオリンピックにはある。
ここで考えたいのは、巨大イヴェントは、都市づくりに貢献しうるのかということである。もちろん、オリンピック関連の施設が、現代建築としてすぐれたものであって欲しいという思いは持っているし、この機会に革新的な建築が実現されるのであれば喜ばしいと思う。ただし、その場合はおそらくオリンピックという文脈を切り離して、単体の建築として魅力的かどうかという価値判断であって、「オリンピックの」という場合には、それはもう少し広がりを持った都市的なスケールの問題となるのではないか。
オリンピックを持ち出さずとも、各都市は都市再生に向けてさまざまな処方箋を試している。東京においては、いくつもの再開発事業が同時に進行中であるが、そうした都市の更新が果たして良い方向に向かっているのか、それとも単に既存の都市を破壊しているのかは、十分に議論されているとはいえない。そうしたなかで、もっと大きなスケールで都市改革を迫るオリンピックを導入することは、大きなポテンシャルを秘めている一方、大きなリスクをも伴なう。
オリンピックをきっかけとして、都市に関する議論が盛んになればいいのだと思う。そして、今、都市を構想することは可能なのだろうか。そして構想する主体は誰なのか。建築家か、知事か、市民なのか。そうしたさまざまな課題が、浮び上がってくる。

「東京オリンピック」以降の東京 | 日埜直彦

例えばここに一枚の写真がある。撮影者は桑原甲子雄、戦前からの東京をさりげないスナップでとらえた写真家だ。キャプションには「港区麻布、一九六三年」とだけ記されている。
道路工事中なのか未舗装の砂利道をトヨペットクラウンとおぼしき車が走り、画面中央に基礎工事かなにかの山留め工があって水溜まりになっている。少年が数人夕陽を浴びて、たぶん泥遊びでもしているのだろうか。あたりには仮設用らしきH型鋼が無造作に転がっている。右手には混雑した車通りをチンチン電車が走り、左手奥には建設途中の高速道路の高架橋脚が街並のスケールと不釣り合いに屹立している。翌年に開催される東京オリンピックに向けて急ピッチで進められた高速道路の建設工事である。
しかしこれは具体的にいったいどこだろうか?  現在と相当に様子が変わっているだろうから、高速道路が二階建てになっていて道路のカーブが似た場所を探すのだが、麻布と名のつく近辺に該当する場所がない。路面電車が見えることから都電の操車場があった広尾から西麻布近辺かと思うが、どうもちがうようだ。しばらくこの写真とにらめっこしてようやく判明した撮影地点は六本木一丁目であった。左手が現在の赤坂アークヒルズ、高架は飯倉方向へと延びる都心環状線。右手の道路は六本木通りで、桑原の立ち位置は正確にはわからないが、どうやら今は車道にあたるようだ。そう思って写真を見ると六本木アマンド方向に緩やかに上る坂が見えるような気もしないでもない。
しかし想像していたとはいえ、なんという変わりようか。この少年たちも今となってはおそらく五〇代、当時を知る人にとってはなにを今さらという話なのだろうが、そんな変化を具体的に対照にしてみるとなにか目眩がするような気がする。一体ここでなにが起こったのか。

町殺しが進行中であるにもかかわらず、反対運動はおろか、批判的言辞を口にしたとたんに、「保守主義者!」とどやしつけられかねなかった空気が私の〈不安〉になっていた。町殺し=東京オリンピックのため=反対するものは非国民──という図式が、すんなり信じられているのがやりきれなかった。立ち退きを拒む家は孤立し、狂人扱いされていた。
小林信彦『私説東京繁盛記』
(中央公論社、一九八四)七二頁


小林信彦はオリンピックによる都市改造を「町殺し」と表現している。かつて東京下町(当時の下町は文字通りダウンタウンだった)に息づいていた生活の総体としての「町」が殺されたというぐらいの意味だろう。関東大震災、戦災、オリンピック、その後のバブルもその列に並ぶだろう。東京は幾度も殺された。街区が整理され、道路拡幅によって表通りの家並が失われ、裏通りが剥き出しになる。住人が入れ替わり、かつてのコミュニティも歯抜けになってまとまりを失う。殺す主体が誰であれ、そのたびごとに町は切り崩された。こうした意識は小林信彦だけのものではない。八〇年代に盛り上がりを見せた「江戸東京論」の類いも背景として同じような意識から、失われつつある過去の東京、そしてその向こうに透かし見える江戸に関心を寄せた。いわゆるバブル経済真っ盛りの当時にあって闇雲な再開発ラッシュへの抵抗意識のよすがとなった面もあったのだろう。あるいは路上観察学会も関心のフィールドこそ違えどおおむね当時の都市改造の圧倒的な勢いに対して成立した視点だったはずだ。経済合理性に基づく再開発とその足元の生活空間への関心の拮抗は当時の都市論の基本的構図であった。
東京オリンピックが再び開催されるとしたら──。もちろんこれは仮定にすぎないが、六〇年代のような大改造が今後一〇年で東京に起こるだろうか?  もちろん高度成長真っ盛りの当時と現在では可能なことはかなり異なるだろう。だがなにが起こるのか予見するために、かつてなにが起きたのか掘り起こし直視してみたい。そこで起きた変化はもはや「町殺し」と言って嘆いていられるようなものではない。例えばアトリエ・ワンの『メイド・イン・トーキョー』をパラパラとめくってみれば、そこに登場する多くの建物のルーツが、オリンピックのための都市改造と多かれ少なかれ関係しているのに気が付くだろう。そういう意味でそれはもはやわれわれの現在であり、そこでわれわれは生活している。いくらネガティヴに思えても、今となってはそれを所与としてわれわれの現在は成立しているのである。そういう「町殺し」を現在から実定的positiveに見直し、それがなにを現在にもたらしているかを確認したい。
また東京を巡る都市論は、一方で江戸東京論的な歴史・文学的視線を確立し、他方で例えば森川嘉一郎『趣都の誕生』のようなポストモダン以降の都市生態学的な視線を育てた。さまざまな方向性を持つ現在の都市論が関心を持つ領域は微妙にずれているが、しかし最終的にはあくまで同じ現実の東京に向かっているはずである。だとすればなにが起きたかということから逆照射して、さまざまな都市論の指向性がどのあたりに関心を持ち、どのあたりに無関心であるか、それぞれ布置を確かめてみることが可能であるはずだ。都市改造のある部分には深い関心を持ち、他の部分にはそうでもない、そういった偏差が指向ごとに見えてくるはずだ。都市は切り口によってさまざまな断面を見せるが、特定の断面に固着した関心は特有の都市観を生成しているのではないか。そうしたことにまで踏み込めると「東京オリンピック計画二〇一六」もずいぶん面白くなってくるのではないかと思っている。

桑原甲子雄「港区麻布、1963年」 引用出典=桑原甲子雄『東京1934〜1993』(新潮社、1995)

桑原甲子雄「港区麻布、1963年」
引用出典=桑原甲子雄『東京1934〜1993』(新潮社、1995)

六本木1丁目、2006年 筆者撮影

六本木1丁目、2006年
筆者撮影

討議 | 今井公太郎×今村創平×日埜直彦×吉村靖孝×村井一×梅岡恒治×岩元真明×金子祐介


オリンピックが先か、都市計画が先か

今村──今年(二〇〇五)から招致合戦が始まった「東京オリンピック二〇一六」ですが、オリンピックのメイン会場を東京の何処に設定するかというような、関連する話題が新聞にも出始めていますね。ワールド・カップもそうですが、オリンピックは短期的なイヴェントでしょう。だから、たとえ大きな施設であってもインフラストラクチャーを作るという発想とはちょっと違う。そして、短い期間であり、しかも世界中から人々が集まるわけですから、一切破たんが許されない精密な企画を立てることが要請されます。その精密さはそれぞれの施設規模や配置についてもさることながら、セキュリティ問題についても同様です。いずれにせよ、「東京オリンピック計画二〇一六」を研究するにあたっては実にさまざまな切り口があるわけで、まずどの入り口を選ぶかが重要です。
日埜──今回のオリンピック招致は都が抱えている事業を推進させるためのお題目という意味合いがあるようなことも言われてますね。そもそも一九六四年の東京オリンピックでは首都高を整備したり新幹線を通したりという国家事業が一気に行なわれたわけですが、「東京オリンピック二〇
一六」では石原都知事が羽田空港から築地付近まで海底トンネルを引くなんて言っている。その裏には「オリンピックに合わせた都市開発」であれば反対する世論が形成されにくいという読みがあるんでしょう。
今村──たしかに、石原都知事はオリンピック招致を東京改造の契機にすると公言していますね。「オリンピックに合わせた都市開発」が受け入れられやすいのは、国民にとっても地域活性化が半ば保証されているという思いもあるからでしょう。国としてもそれを口上にして一気にインフラ整備にかかりたいわけです。
ところで、横浜の客船ターミナルを作ったfoaは二〇一二年に開催されるロンドン・オリンピックのマスター・プランナーですね。提案を見ると、建築家がこれまで斬新なデザインを前面に出したオリンピックというのは、このところなかったのではないでしょうか。実施がどうなるかはわかりませんが、とても興味を惹かれますね。
吉村──僕の場合、普段すべてお膳立てされた後で最後の最後に貼り付けるアップリケのような設計を繰り返していて、都市そのものに対する関心や憧れを形にすることの困難だけが理解できているという感じです。だから、東京のどこでなにをすべきか勝手に提案していくという部分でもう期待が膨れあがっていて、そのための起爆剤としてオリンピックには潜在的な力があるように見える。建築家が都市にコミットすることで建築がどう変わるのかという部分に興味があります。
10+1──「東京オリンピック二〇一六」は都市を舞台にした状況をつくることになると思いますが、そこには建築的、都市論的、社会学的、メディア論的等々のさまざまなアスペクトが含まれますよね。この大きなテーマを支えるにあたって、「現代建築思潮研究会」のかたちも変えていく必要がある。そこで第一回目の今日、まずは四人の学生の方々にお越しいただきました。
村井一──大きな開発の構図と、小さな変化への配慮がどういった協調関係のもとに都市環境へと還っていくかに関心があります。オリンピックというイヴェントを対象として、この関係を評価できれば面白いのではないでしょうか。
梅岡恒治──大学で都市プロジェクトを専攻しています。「東京オリンピック二〇一六」についてはまだ把握していませんが、過去のさまざまな都市プロジェクトと比較をして、もうひとつの都市の在り方を考えられないかと思っています。
岩元真明──都市的なスケールを研究対象にした場合、現状に対して受動的なり無批判に研究を進めてしまうことがままあります。しかし、未来のオリンピックが契機となる都市像について考える場合は、具体的な可能性を伴って考えることができますよね。そのことに興味を持っています。来年一年間ヨーロッパに留学をするので、二〇一二年のオリンピックに向けて動いているロンドンの現地調査をしてみたいと思います。
金子祐介──六四年の東京オリンピックでは、市川崑監督が記録映画を撮っています。その一方、その公式性に対して当時集まった映画人たち(新左翼運動の関係者)がオリンピックに対して反対運動を起こしたそうです(もちろん市川崑監督の作風がモダニズム的であったことも原因のひとつではあるのですが……)。彼らは公式性の何に抵抗しようとしていたのでしょうか。このことはどこかで国家事業の力学につながる問題にも触れているように思われ、入り口として調べてみたいと思っています。もちろん、日本に特有の問題とも限りませんので、各国のオリンピックなどの国家レヴェルの催しとそうした体制に対する反対運動の関係も調べてみたいと思っています。
日埜──たしかに前回の東京オリンピックの時に都市開発を指して「町殺し」という言葉が出てきたりして、都市生活と景観の問題が注目される契機にもなったわけですね。最近も小泉首相が「日本橋上の高速道路を撤去したい」なんて言ってますが、景観というのはますます重要なトピックになってきている。「東京オリンピック二〇一六」の全体の仕組みや施設などについての話はかなり壮大な問題設定ですが、とりあえずかつて東京で何が起きたのか、これから何が起きるのかという二つの視点は問題に接近するにあたって足がかりとなるのではないかと思います。ある施設と敷地を仮定すればそこに線を引くことはできるけれども、なにがそこで問題なのかを都市的視野から具体的に考えることはなかなか難しい。過去のリサーチから出発して、なにが問題になるのかということを抽出していくことができればいいんじゃないでしょうか。
今村──同じ東京で行なうオリンピックといっても、四〇年前にくらべると切り口が格段に多くなっています。環境問題、経済、システム、セキュリティ等々といった、すべての要素をインテグレートする面白さもあるのでしょうが、「現代建築思潮研究」では一〇〇人のチームを組めるわけじゃないから、明快な切り口を設定しないと中途半端なレポートに終わってしまい、それではつまらない。これまでにも「東京オリンピック計画二〇一六」展として展覧会を計画しようとの話がありましたが、実際に提案をしてレスポンスを受けることを前提として、展覧会や出版などのかたちで確実なアウトプットをするべきだと思う。
今井──研究会のスタディの成果として展覧会をしてみたらと言いだしたのは僕なんです。展覧会というメディアが、建築や都市のなんらかの手法、考え方や主張を示すのにふさわしいのではないか。しかし、それをやる機会が通常業務ではあまりないので、こういう機会になんらかのヴィジョンを示しておきたいんです。オリンピックそのものが大事なのではなく、たまたまオリンピックがあって東京が改造されるかもしれないという契機がある。東京を考えるうえでオリンピックがちょうどいいんじゃないか、という順番です。オリンピックもサステイナブル・デザインも、誰も駄目って言えない対象、みんなが良いとしか言えないところがある。
日埜──オリンピックというチャンネルを介して都市をどう捉えるか。
今井──そう。本当に考えたいのは現状の東京が抱えている諸問題についてであって、明確な意志を持った批判的行為として、東京の上にドローイングを描きたい。それはかつて丹下先生がやった「東京計画一九六〇」のような、計画をドーンと投下するのとも違うし、かといって単にリノベーションでなんとかするということでもない。それを両極とすれば、そのどちらでもない規模、トップダウンでもボトムアップでもない手法で、むしろデザインそのものよりも、現実的、戦略的な手法を示したいと思っています。一〇年後に控える契機に対してスケジュールを立てていくというのは、都市の転換という大問題を考えるにあたって適した時間量なのではないかとも思うんです。

提案主体の不在

今村──東京というテーマについてのグランド・ヴィジョンがない場合、提案者の主体のあり方を疑問に付すべきでしょう。かつてのオリンピックは国家プロジェクトであって、国家が主体になって都市を計画した。それが官僚社会になり、システムを動かして絵を描く方法が続いてきましたが、ごく最近、五─一〇年の範囲で都市を変えていったのは民間ディヴェロッパーですね。ディヴェロッパーの力や個人の投資家がファンドで都市を変えていく。それらは経済行為であって東京にヴィジョンを与えようとしているわけではないから、東京に介入する主体が限りなく不明だということになる。こうした潮流があるなかで、われわれがオリンピックについて計画を立てようとしても主体的に関わることができるのか。これは提案することについてまわる懸念なのかもしれない。愛知万博もそうだったけれど、国家は予算組みをした後、広告代理店に丸投げします。外国でもそうなのではないかな。広告代理店はすべてをパッケージにして納品しますから、主体性が要請されることもない。
今井──近いところでは二〇〇八年の北京オリンピックがありますね。ヘルツォーク&ド・ムーロンがメイン・スタジアムを設計しましたが、大幅な設計変更のあげく、二〇〇七年あたりにできるそうです。今は高速道路や地下鉄をばんばんつくっていて、そろそろインフラが形になり始めている。北京の場合は完全に都市改造で、イメージとしては前回の東京オリンピックに近いんだと思います。
今村──一方、われわれは東京に関心があるから東京を扱い、オリンピックというとその端緒に丹下さんという建築家像を思い出すわけです。東京オリンピックの時に丹下さんが《代々木体育館》という象徴的巨大建築を築き、やがて世界的な建築家になった。しかし、これからは自国の建築だから自国の建築家がやる、ということではなくなってくるんじゃないかな。二〇一二年のロンドン・オリンピックのマスター・プランをスペイン人のfoaがやるように、また同年のオリンピックにノミネートしていたニューヨークの案件をイラク出身のザハ・ハディドがやったみたいに、東京オリンピックだからといって日本人がデザインするのではなくなってくることも想像できる。
社会主義型の北京はさておき、メトロポリスでオリンピックをやるということは建築にとってどういう影響をもつのか。結局、既存のインフラなり施設なりをいじらなければいけないということですよね。しかし、パリ、ロンドンにしてもそれなりに大都市として用地は埋まっているはずなのに、競技用の大きな施設を新たにつくるということがなぜ可能なのか。地方都市ならば納得できるものの、成熟した都市の真ん中で何故あえてやるのか。北京はほかの国の都市では許されないような乱暴な手法を用いて都市部を更地にしてしまったけれども、メトロポリスの改造計画は東京だけではなく、世界的にシンクロして起きているんです。例えば、来年あたりパリには環状トラムができるでしょう。あんなに古い街で今になってよくできるなと思いますよね。こうした状況が根ざしている機運を一般化できれば、「東京にトラムを」という提案だって無効ではないでしょう。二〇〇一年のワールド・カップでは、観客を大量に輸送する必要から、単純に地下鉄をつくってみたりという手法が多かったですね。郊外に巨大な駐車場もしくは地下鉄駅を作って、そこ以外はすべてからっぽ。しかし、将来東京でオリンピックが行なわれれば、都内に拡散した各種施設間の往来をスムーズに行なう手段を考えなければならない。
村井──大きなイヴェントにおいては、ピークのコントロールが必要とされますよね。平穏な状態に大きなものが一回投げ込まれる。ピークは短期間に収集される事態ですが、その後その余剰をどうコントロールするかということが重要だと思います。
日埜──そうですね。長野オリンピックの選手村は、大会の終了後集合住宅として利用されているようですが、むしろ先に集合住宅の需要があったところに選手村が建てられたのでしょう。選手村に特有のセキュリティなどの付加設備を撤去すれば、普通に集合住宅として継続使用できるということでしょう。
村井──ほとんどの施設がオーバー・スペックで残ってしまいますね。それを時間的にどうコントロールするか。
日埜──一〇〇m走はオリンピックだろうが一般の運動場だろうが一〇〇mですけどね(笑)。スペックが過剰になるのは基本的にフィールドよりもスタジアムですよね。一〇万人も収容できるスタジアムをつくって後でどうするのか。都は具体的に神宮外苑周辺をメイン会場にしようという提案をしていますが、現在の国立競技場のスタジアム収容人員は六万人弱、メイン・スタジアムについては建て替えも考えているようですね。
今村──仮設を足すのでしょうかね。後ろのほうの仮設席に陣取った観客はもう「おまけ」ですよね。競技なんか観えませんから。一方、長野の冬期オリンピックのメイン・スタジアムは仮設でしたから、仮設建築のメイン・スタジアムを提案するということもありえます。
秋に愛知万博が閉幕して以来、この三〇─四〇年の歴史のなかでは、日本は国際イヴェントが予定されていない初めての経験をしているらしいんです。これまでは、今の中国同様、東京オリンピック後は大阪万博があり、沖縄海洋博、つくば博等々があり、ワールド・カップがあったように、だいたい一〇年周期の大きなイヴェント・スケジュールがあった。それが今の日本にはひとつもない。全部中国にいっている。おそらくその後は台湾だとかほかの国がやりはじめるでしょう。そういった意味でも、大きな国際イヴェントは日本をスルーして、みなさんが六〇歳くらいになって「昔は大きな国際イヴェントって時々あったらしいけれど、学生の頃以来ひとつもないね」という話になるかもしれない(笑)。一〇万人のスタジアムを作ってその後誰がどう使うのか、使うことすらないかもしれないですよね。人口だって少なくなっていくわけですから。
日埜──普段は国立競技場程度で十分だけど、オリンピックだと全然尺が合わなくなるというのは、イヴェントの都合上どうしようもないのかな。
吉村──国立競技場のトラックは八レーンですが、オリンピックは九レーン必要らしいですね。それくらいだったらなんとかなる程度なのかなとも思いますが、しかしあそこは観客席が道路の上までせり出している状態で、もともとかなり無理して建てたことが伺えます。
今井──本当はそれを理由に、やっぱり壊して建て直したいという意味ではないかな。

オリンピックを機に、われわれは都市とどう向き合うか

日埜──都心から離れたところにマスター・プランをつくるという事例は今も多くありますが、次回の東京オリンピックはともかく都市のど真ん中でやるということを選択した。だから、旧来の都心に対して副都心を活性化するというタイプの都市改造とは話が違って、こういうオリンピックはまだそんなに例がないんじゃないでしょうかね。
吉村──福岡が沿岸部中心の計画になるとすれば、バルセロナ・オリンピックを思い起こさせます。東京が都心部型だとするとロンドンなどは参考になるのかもしれません。しかし先ほどあったように、ロンドンはfoa、ニューヨークはザハ・ハディドと、建築家を全面に押し出した提案がでてきていますね。都市計画の主体というのは、都市計画や社会工学の専門家からディヴェロッパーや個人の投資家へと移行しているけれども、そうなると建築家の役割を再定義する必要があるのではないか。
今村──だから逆に経済学者がマスター・プランを描いたっていいという流れになるのかもしれない。都市計画家や建築家の職能ではなく、都市を作る主体がより現実的なというか、都市活動に合った即物的な方向にスライドしていると言ってもいい。それこそ環境アセスメントの側面から都市を見ている人が主体になり、個別の建物を建築家に頼むというシーンだってありえるのかもしれない。
日埜──丹下さんにしても、戦後の荒廃した都市の再生を背景にしていた頃と比べ、世界的な「成長の限界」を迎えてそれまでとは異なった経済システムが都市を成立させるようになるにつれて、活動のあり方を変えていかざるをえなかったわけですね。八〇年代後半から九〇年代初めのバブルの頃まで、世界的に都市改造という言葉が使われました。ニューヨーク、ロサンゼルスのダウンタウンの再開発や、東京の「世界都市博」もその表われだったと思います。オリンピックもそうした流れに組み込まれているわけですが、事業主体が国家や都市そのものではないですから、現実には通常とは異なる回路でプロジェクトが運営されることもありえるわけですね。
今村──五年以上前になると思いますが、TNプローブのシンポジウムで、レム・コールハースの「資本主義と戯れるのがいいんじゃないのか」という発言に対して、経済学者の岩井克人さんが「その場合、倫理の問題はどうなるの?」って訊いたんですね。「倫理なんかくそくらえ」って、レムは言ったそうですが(笑)。まあそれはある種の偽悪的な態度であって、やはり建築家は都市に関わる倫理性が問われるわけです。例えば六本木ヒルズについてやっかみ半分で「ディヴェロッパーがやった仕事だ」と批判的に言うけれども、じゃあ逆に攻撃された時にどうするのか。われわれ建築家はしらじらしく「頼まれたからやった」と答えるのか。
日埜──できたものが建築として良いかどうかにとどまらない意味が問われますよね。個々の施設の善し悪しと、オリンピックというイヴェントにおいてそれがどうかということは違うわけだし、さらに都市へのインパクトにおける意味というのはまたこれも違うはずですね。
今村──オリンピックに関して、何を持って成功とするのか。経済的に収支で黒を出すというだけではないでしょうね。まあ、基本的に黒を出すようにしか仕組まないでしょうし。
今井──収支についてはそうでしょうが、オリンピックの主体にとってなにか転機になるようなことがあれば成功とするんじゃないですか。漫然と同じことをやっていてもIOCの存在感が失われていくだけですから、今で言えば、テロの問題とかサステイナブルという問題に対して何かを言うことができればIOCにとっては大きな成功なのでしょう。
それよりも僕としては都市の構図を変えてみたい。傾斜を変えて、その後の起爆剤にしたい。
日埜──でも、二〇〇六年の年末に国内候補地の絞り込みがあって、二〇〇八年にIOCによる絞り込みと正式承認、それを経て二〇〇九年に決定投票があるって、長いよね。東京がいきなり落ちてしまったらこのプロジェクトどうするんですか(笑)。
今村──パリとニューヨークは毎回手を挙げているじゃないですか。
吉村──二回やらないと受からない。受験と一緒みたいな(笑)。
今井──僕の記憶では、仮に招致に至らなくてもスタジアムの計画だけは実施したり、そういうことはあるみたいですけれどね。ドミニク・ぺローの《ベロドローム・スタジアム》は二〇〇〇年の幻のベルリン・オリンピックのために計画されたはずですが、実際にできちゃいましたよね。着地の仕方が変わるというのはよくあることです。安藤忠雄さんの「中之島プロジェクト」も場所は変わりましたが、《地中美術館》として実現しているわけです。今考えるべきことを考えようとか、やりたいことをやっておこうということ自体に意味がないわけじゃない。それはもちろんオリンピックに対する態度だけではない、ということでもあります。オリンピックが思考を駆動する契機やエンジンになってくれるとは思いますが、こういうことがなくても都市に対してどう向き合うかという問題をきちんと考えたい。
[二〇〇五年一二月二七日]

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.42

特集=グラウンディング──地図を描く身体

>フランク・O・ゲーリー(フランク・オーウェン・ゲーリー)

1929年 -
建築家。コロンビア大学教授。

>foa(エフ・オー・アーキテクチャー)

1995年 -
建築設計事務所。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>アトリエ・ワン

1991年 -
建築設計事務所。

>森川嘉一郎(モリカワ・カイチロウ)

1971年 -
意匠論。明治大学国際日本学部准教授、早稲田大学理工学部総合研究センター客員研究員。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>金子祐介(カネコ・ユウスケ)

1978年 -
理論批評、インテリアデザイン史、建築史、都市デザイン史。芝浦工業大学博士課程在籍。

>ザハ・ハディド

1950年 -
建築家。ザハ・ハディド建築事務所主宰、AAスクール講師。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。