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チャールズ、チャールズ──ポスト・モダンの折衷主義と保守主義 | 五十嵐太郎
Charles vs. Charles: Postmodern Eclecticism and Conservatism | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) pp.226-236

二人のチャールズ

一九七二年七月一五日午後三時三二分、アメリカのセントルイスでモダニズム建築は死亡した。
チャールズ・ジェンクスの著書『ポスト・モダニズムの建築言語』(一九七七)は、このように第一部の冒頭でミノル・ヤマサキが設計したプルーイット・アイゴー団地が爆破された事件を劇的に紹介する★一[図1]。この団地は犯罪率が高く、建物が破損されつづけ、何度も修理を試みたのだが、結局、ダイナマイトで破壊されることになってしまった。なにが失敗だったのか。ジェンクスは、高層アパートがCIAMの理念にもとづき建設され、「居住者の建築コードと一致しない純粋主義者の言語によってデザインされたこと」が悪かったではないかと言う。それゆえ、彼はミース・ファン・デル・ローエらを槍玉にあげて、合理性や普遍性から正当化された一義的なシステムしかないコミュニケーション不足のモダニズムを批判し、来るべきポスト・モダニズムの建築は、情報機能に意識的であり、多様な意味をもつべきだと主張する[図2・3]。
この本の邦訳は原書のわずか一年後に刊行され、『a+u』誌はこれに刺激を受けて一九七九年の初頭に「ポスト・モダニズム建築とは何か」という特集を組み、日本の建築関係者によるジェンクスへのさまざまなコメントを掲載した★二。一世を風靡したわりに、現在では議論がやや粗雑であったために評判の悪いジェンクスだが、刊行直後から建築界で広く読まれ、建築以外の分野でもときに参照されるテクストになっている事実は無視できない。むろん彼は精密な記号論の応用をしたというよりは、建築を語ることがうまい人物なのだろう。ポスト・モダニズムとともに踊った楽天的な評論家なのである。ただ自ら八七年の第五版で「ポスト・モダニズム」が歴史化したことを告げたように、新しい言葉を人口に膾炙させ、いち早く六〇年代以降の新しい建築デザインの雰囲気を説明した功績は評価されるべきではないか。
次に、もうひとりのチャールズを召喚したい。一九四八年、バッキンガム宮殿にてエリザベス王女が出産した赤ん坊、すなわち後にプリンス・オブ・ウェールズとなり、その私生活が世界のメディアを騒がすことになるチャールズ皇太子である。むろん、彼は建築を専門とする人物ではないが、一九八四年五月三〇日の王立英国建築家協会(RIBA)の創立一五〇周年の祝賀パーティにおけるスピーチで景観を乱す現代建築への批判を展開して以来、建築界に対して保守反動的な介入を行なっており、有名人であることから社会的な影響力も決して小さくはない。ある建築家トランプは、各カードに有名建築家を対応させていたが、外部から建築界をかき乱すジョーカーとして、ジャック・デリダとチャールズ皇太子をわりあてたくらいだ。ちなみに彼は問題のスピーチで以下のように語った。

計画者と建築家たちは、いつも普通の人々の感情や願いを無視しているように思います。(…中略…)建築家は施主のためでなく、同業者や批評家の称賛を得るために住宅を設計しがちだと、われわれは考えるようになっています。(…中略…)コミュニティに根ざした建築について重要なことは、各自の見方をもつ価値のある「普通」の人々を示したことではないでしょうか。建築家と都市計画家が趣味、様式、計画について最高の知識を独占する必要はないのです。気どらない自分の好みが小さな庭や、アーチ、ポーチ、中庭などの「伝統的な」デザインであっても、それを恥じたり、教養がないと卑下する必要はありません。(…中略…)わが国の首都の個性やスカイラインがさらに破壊され、ロンドンよりシカゴのダウンタウンにふさわしい巨大なガラスのビルが建設されて、セントポール大聖堂が小さく見えるようになったら悲劇です。(…中略…)優雅なファサードをもつナショナル・ギャラリーの増築に際しては、円柱とドームの考え方を継承せずに、消防署をつくるかのようです。(…中略…)提案されているのは、愛すべき優雅な友人の顔にできた奇怪な腫瘍のようです★三[図4]。


かくして「ラディカルな折衷主義」を標榜するジェンクスと、歴史的な景観を重視する保守主義のチャールズ皇太子は相反する立場にあるかのようだ。一方、二人ともが一部の理解しか得られないモダニズム建築に対抗し、ポピュリズム的な感情に耳を傾けようとしている点では、共通した姿勢を認められなくもない。また両者ともに現代の建築界ではやや胡散臭いと思われている節があり、あまり本格的に論じられていないように思われる。そこで両者に明快な交点があるわけではないが、二人のチャールズの軌跡を平行してたどりながら、今回はラディカリズム以降の建築を読む。

1──プルーイット・アイゴー団地の爆破 『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

1──プルーイット・アイゴー団地の爆破
『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

2──ミース・ファン・デル・ローエ 《レイク・ショア・ドライブ・アパート》1950 筆者撮影

2──ミース・ファン・デル・ローエ
《レイク・ショア・ドライブ・アパート》1950
筆者撮影

3──AAスクールの記号論セミナーで描かれた、ル・コルビュジエのロンシャン教会のメタファー 『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

3──AAスクールの記号論セミナーで描かれた、ル・コルビュジエのロンシャン教会のメタファー
『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

4──批判されたナショナル・ギャラリーのコンペ当選案 A Vision of Britain, 1989

4──批判されたナショナル・ギャラリーのコンペ当選案
A Vision of Britain, 1989

チャールズ・ジェンクスの意味論

チャールズ・ジェンクスは、一九三九年にアメリカのボルティモアで生まれ、ハーヴァード大学にて英文学と建築学を専攻し、ロンドン大学のレイナー・バンハムのもとで研究し、建築史の博士号を取得する。ギーディオンにも学んだという。彼はイギリスのAAスクールなどで教鞭をとるかたわら、おもに『アーキテクチュアル・デザイン』誌で評論活動を行ない、三〇歳の頃からキャッチーなキーワードを掲げて、次々と現代建築に関する本を刊行し、多くの著作をもつ。また彼はポスト・モダニズム的な作品の設計も手がけ、自著で紹介しているが、特筆すべきものではない[図5]。彼を同じく建築評論家として大きな影響力をもつケネス・フランプトンと比較すれば、前者は表層的なデザイン論であるのに対し、後者は技術への視座を欠くことがない。またフランプトンはポスト・モダニズムの語を安易に用いることはせず、つねに批判的に現代建築を考察しており、それゆえジェンクスは彼のことを建築警察と揶揄しているようだ★四。
建築の意味伝達に注目する方法論は、ラスベガスの商業デザインを研究し、近代建築とは異なる戦略を抽出したロバート・ヴェンチューリに似ていよう。だが、ジェンクスは都市のフィールドワークから学ぶことはしないで、理論から方向性を導く。そして彼はより記号論に傾倒しつつ、作品の受容者を想定する社会学的な構えをもつ。ヴェンチューリとジェンクスの態度の違いは、志向するデザインにも表われている。前者が「あひる」(機能そのものの形をした建築)を否定し、「装飾された小屋」(象徴的な記号を付加した建築)を情報化時代の洗練されたデザインと結論づけたのに対し、後者は二者択一がモダニズムと同じ排他的な考えだから、いずれもコミュニケーションの手段に使うべきだという[図6]。さらにジェンクスは、メタファーを誘発する「あひる」の建築が充分に普及されていないので、もつとつくったらどうかと提言する。なるほど、ヴェンチューリは、より上位のデザイン原理を想定し、エリート主義的な態度を残している。一方、ジェンクスは無節操なまでに、あれもこれもOKの包括的な姿勢である。
建築を分析する際の言語論というモデルは、構造主義の影響を受けて、一九六〇年代以降にしばしば導入されるようになった。記号論的なアプローチを試みたダイアナ・アグレストなどが知られている。またアイゼンマンによるテラーニ読解は意味内容に触れず、シンタックス(統辞論)の問題として思考しており、設計のフォルマリズムにも接続させるだろう★五[図7]。一方、ジェンクスは単にシンタックスをズラした建築は遊園地のビックリハウスになってしまうし、アイゼンマンの作品を理解するには解説書が必要であると述べ、反対にセマンティック(意味論)を重視する。ジェンクスによれば、例えば、ポップ・アート的な手法と古典主義建築の引用によって構成された、チャールズ(!)・ムーアのイタリア広場が、ポスト・モダニズム建築の典型になるのだ[図8]。
一九八〇年にはウンベルト・エーコらと建築の意味論に関する共著を発表し、ジェンクスは近代建築においては「空間」が本質とされ、それが場所性や個性化に代わり、続いて環境やエコロジーに移行していることを指摘しつつ、どれかに還元することはしないで、「建築とは、何らかの手段(構造的、経済的、技術的、機械的なもの)を利用しながら、シニフィエ(生活様式、価値、機能)を分節するための形式的なシニフィアン(材料や囲うもの)を使うことである」とつけ加える★六。こうすれば、形態、機能、技術の基本的な三要素を意味作用の過程に包含でき、さらに歴史的な意味も付加されうるのではないか、と。そして彼はジェームス・スターリングのケンブリッジの歴史学部を使用者がどう評価しているかを調査したように、意味が多様に受容される部分に関心を抱く。エリート主義とポピュリズムの二種類のコードしか想定しないのは、単純過ぎるように思われるが、ジェンクスは使用者のために次のような提案を行なう。例えば、建築家と一緒に伝統的なコードに慣れ親しんだ室内装飾家を関わらせて、二度デザインすること。あるいは、建築家が二重の役割を演じられるよう、ラディカルな精神分裂を教え込むことだ。
ところでAAスクールに通っていたジェンクスの妻、マギー・ケスウィックは先祖代々アジアにゆかりが深い、中国庭園の研究者であり、その著作に彼は論文を寄稿している★七。彼によれば、中国庭園には意味をひとつに還元できない多義性があり、対立する要素を内包し、例えば、儒教的な秩序と道教的な自然が同時に認められるという。中国庭園がポスト・モダニズム的だというよりも、明らかにポスト・モダニズム的な庭園の読解である。彼は『ポスト・モダニズムの建築言語』でも中国庭園の洞門をとりあげて、「これはポスト・モダンの空間だ。曖昧で断片的で絶え間なく変化するからだ。……ここは数ある壁の一例だが、『月の門』という記号、つまり円形であると同時に(銭、硬貨や)完全性をも象徴する記号によって、それは丸い穴なのである」と説明していた[図9]。

5──C・ジェンクス《ガラジア・ロトンダ》1977 『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

5──C・ジェンクス《ガラジア・ロトンダ》1977
『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

6──あひる ヴェンチューリ『ラスベガス』 (鹿島出版会、1978)

6──あひる
ヴェンチューリ『ラスベガス』
(鹿島出版会、1978)

7──P・アイゼンマン《住宅3号》1971 『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

7──P・アイゼンマン《住宅3号》1971
『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)

8──C・ムーア《イタリア広場》1975 Charles Moore, Whitney, 1980

8──C・ムーア《イタリア広場》1975
Charles Moore, Whitney, 1980

9──中国庭園の洞門 筆者撮影

9──中国庭園の洞門 筆者撮影

チャールズ皇太子の建築批判

一方、チャールズ皇太子は、祝福された誕生の後、一〇代でオーストラリアに留学し、二〇代で軍事教練に参加するなど、さまざまな経験を積む。興味深いのは、一九七〇年代の後半に彼は精神世界や神秘的な思想に関心を抱いたことだ。この時期、彼はアーサー・ケストラーが提唱する超心理学の学問化を後援しつつ、神秘主義者の作家と親交を深め、東洋の宗教思想にものめり込んでいる。つまり、全体論的なニューエイジ思想に感化され、チャールズは科学的かつ合理的な方法で物事を説明する態度に疑問を抱く。一九八二年のイギリス医師会の記念行事で、彼が薬づけ治療の現代医学批判を行なったのも、こうした全体論の影響を受けていたからにほかならない。彼は「現代医学は堂々たる大建築になっていて、驚くべき成功も数多いのですが、あの名高いピサの斜塔のように少しバランスをなくしています」と語り、医者は患者との精神交流から健康になろうとする意志を引きだし、自然の力を利用すべきだと主張したのである★八。
そして一九八四年に問題のRIBA(王立英国建築家協会)でのスピーチを行なう。当日、金メダルを授与されたインドの建築家チャールズ(また同じ名前!)・コリアや、テクノロジー志向が強いノーマン・フォスターはいきりたち、ナショナル・ギャラリー増築の設計者として批判されたピーター・アーレンスは、皇太子が前を見ずに後ろばかり向いているとタイムズ紙で反論したらしい。チャールズは現代建築に関心がないと思っていたRIBAにとって寝耳に水のような事件だった。しかし、彼が現代医学を攻撃したのと同様、根底には地球環境の調和という全体論的な思想があり、建築においては伝統的なデザインヘの回帰として現われたのではないか。むろん、門外漢のチャールズは見解を共有する建築の専門家(歴史家や建築ジャーナリスト)を相談役にもっていた。ともあれ、当選案を形容した「奇怪な腫瘍」はモダニスト攻撃の標語となり、結局、予算の問題もあってアーレンスの計画は実現しなかった。そして一九八六年に再び行なわれたコンペでは、ヴェンチューリの案が選ばれる[図10]。
一九八七年にチャールズはマンション・ハウス・スピーチを行ない、再び建築界を震憾させる。セントポールの周辺の再開発コンペにおけるアラプ・アソシエイツの当選案を「馬鹿でかいガラスの切り株」と呼び、尖った屋根で大聖堂を収容所に閉じこめるようだと酷評し、コンペの結果に干渉したのである[図11]。そもそも彼は最終選考に残った七つの案(フォスター、スターリング、磯崎新など)のどれもが気に入っていなかった。かくして演説では「クラウゼヴィッツは戦争をもうひとつの外交手段であると語ったが、セントポールのまわりでは、計画がもうひとつの戦争の持続になってしまった」と言い、専門家に都市を委ねてしまうと美しいロンドンの景観が破壊され、「イギリスの陵辱」になると非難する★九。彼の結婚式が行なわれた場所、セントポール大聖堂は「最も偉大な国家的モニュメント」であるがゆえに守らねばならず、将来的にはロンドンを高層ビルを廃した「塔のない都市」にしようという。そして密室で計画案を決めずに、公開討論などの民主的なシステムで決定する必要性を唱える。が、民衆の判断をあおぐことを提案しながら、結局はチャールズの了解が得られないと自分の影響力を利用して圧力をかけることになるだろう。とすれば、ディヤン・スジックが指摘するように、これは王室特権の乱用と言えるかもしれない。事実、ジョン・シンプソンによる古典主義的な対抗案を紹介する展覧会が開かれたし、アラプ・アソシエイツは環境に配慮したデザインに変更した[図12]。チャールズの望みは、古い広場の雰囲気を復元することだったらしいが、そのふるまいは過去の大英帝国の栄光が二〇世紀のモダニズム建築に浸食されることに抵抗しているかのようだ。

10──R・ヴェンチューリ他 「ナショナル・ギャラリー増築案」 Post-Modernism, Rizzoli, 1987

10──R・ヴェンチューリ他
「ナショナル・ギャラリー増築案」
Post-Modernism, Rizzoli, 1987

11──アラプ・アソシエイツ「ペタノスター広場計画案」 A Vision of Britain, 1989

11──アラプ・アソシエイツ「ペタノスター広場計画案」
A Vision of Britain, 1989

12──J・シンプソン「アラプヘの対抗案」 A Vision of britain, 1989

12──J・シンプソン「アラプヘの対抗案」
A Vision of britain, 1989

愛すべきイギリスのために

一九八八年一〇月二八日、BBCが放映したチャールズ皇太子による七五分のドキュメント番組「英国の未来像」は現代建築を痛烈に批判し、大きな反響を呼び、約五〇〇〇通の手紙が寄せられ、本人曰く九九パーセントが賛同の意を表わしたらしい。そして一年後に本として刊行された★一〇[図13]。同書は、イギリスの誇りを地方の風景や建築様式に見出し、それを破壊する近代化を攻撃したり、一九世紀に画家のターナーやコンスタブルが描いたテムズ川沿いの景観に比べて、現状がひどいのを嘆くことから始まる。中世と産業革命以後の風景を並べて、前者を称賛した一九世紀のピュージンの『対比』(一八三六)を思わせるような手法である。そしてシーザ・ペリがやるような高層ビルはアメリカならともかく、イギリスにはふさわしくないという。また自らが火種となったモダニストと伝統的な建築家の争いを「非人間性」と「人間性」の対立にすり替えながら、チャールズは後者が断じてパスティーシュではないと力説し、すぐれた伝統のあるところにまやかし物はないと語る。いささか強引な論の展開であるが、ここに王室のエリート意識が見えかくれしていよう。仮に本人にその意志がなくとも、高度に政治的な行為になっているのではないか。彼は主張を一〇の原則にまとめている。すなわち、尊重すべき「場所」の感覚、「秩序」をわきまえたデザイン、人間的な「スケール」、統一性を生む近隣との「調和」、心地よい「囲い地」を作ること、地方産の「材料」を使うこと、手作業による「装飾」、「芸術」とのコラボレーション、自動車のための醜悪な広告とは異なる美しき「看板と照明」、「コミュニティ」の自発的な参加による環境の改良である。こうした項目は何ら目新しいものではない。場所の異化作用すら仕掛けるツォニスとルフェーヴルの言う批判的地域主義に比べれば、単に回顧的な地域主義である★一一。だが、ポスト・モダン建築が席巻した八〇年代の終わりに、これが影響力をもった人物によって語られたことは充分に興味深い。この時期、チャールズはサンテリアを批判しつつ、ルイス・マンフォードやフランク・ロイド・ライトの建築思想への共鳴を表わして、自ら喜んで反動的であろうと述べていた★一二。
やがてチャールズの関心はより大きなスケールで展開し、建築から環境の方に移り、一九九〇年五月二三日に「調和のとれた地球」というBBCの番組で自説を披露する[図14]。最初に宇宙から見た地球、次にスコットランドの自然が映り、彼のガイドによって世界各地の様子を考察し、「われわれはノーベル賞をとるような科学者になって、何をなすべきかを決める必要はない。目と人間の心がもつ常識による迅速な対応がとても良い指針になる。われわれはきわめて普通にすべてを実践的に行なうことができる。われわれはエネルギーを節約できる」と導く★一三。悪しき巨匠の存在を否定し、一般人の行動をうながす彼の考えは変わっていない。だが、皇太子という特権的な立場を利用してはじめて、主張をメディアに流布させ、人々を啓蒙することが可能になっていることは留意しておこう。後にこれを収録する『AD』誌の「建築と環境」特集号では、一九八八年から一九九二年までのスピーチを掲載しているが、当時は繰り返し、エコロジーの問題を説いていたことがうかがわれる。日本の皇室も自然を愛でることになっているが、現代においてチャールズほどの建築や医学の専門分野への介入はちょっと想像しにくい。
もっとも私生活では、チャールズはダイアナの趣味に譲歩していたようだ。チャールズの趣味はカントリーハウス風を好むダイアナと一致していなかったが、ケンジントン宮殿やハイグローヴ邸の内装は彼女に任せており、ダイアナは母が提案したデザイナーを指図して、好みの空間に仕上げていた(別居後、すぐに模様替えされたらしい)★一四。ただし、ハイグローヴ邸における庭園や屋外施設、そして自らの思想の実践のための有機下水処理システムの設置などは、チャールズが計画を担当した。

13──チャールズ皇太子著『英国の未来像』1989 表紙 A Vision of Britain, 1989

13──チャールズ皇太子著『英国の未来像』1989
表紙 A Vision of Britain, 1989

14──番組のラストシーン、海辺を歩く皇太子 AD, 1993

14──番組のラストシーン、海辺を歩く皇太子
AD, 1993

チャールズ・ジェンクスの系統図

七〇年代以降、チャールズ・ジェンクスは現代建築に介入する多彩な評論活動を続けている。一九七二年にネイサン・シルヴァーと共同で提唱した「アドホック主義」は、近代建築の「良き趣味」が個別の要求を制限していたのに対し、その場かぎりの多様な対応を目指すものだった。ほかにもル・コルビュジエの二面性を描いたり、意味作用をもつ風変わりな建築や塔状の構築物を集めたり、ロサンゼルスの異質な建築美を『ヘテロポリス』(一九九三)で論じたり、ポスト・モダン理論のアンソロジー『ポスト・モダン・リーダー』を編纂するなど、実に精力的である★一五。ポップなデザインヘの共感は、アーキグラムらを応援した師匠のバンハムゆずりなのかもしれない。とはいえ、やはり『ポスト・モダニズムの建築言語』がジェンクスの主著になるだろうし、これに関連して「レイト・モダン」や「ネオ・モダン」といった目新しい言葉を使う、幾つかの著作群が位置づけられる。かつてMoMAの展覧会が「インターナショナル・スタイル」なる言葉を流行させたように、ジェンクスは様式史的な枠組みにより次々と造語を行ない、建築の動きを仕掛けようとしているのだ。またその際に特徴的なのは、彼の著書において頻出する建築の系統図である。
博士論文として書かれた『現代建築講義』(一九七三)は、さすがに最も歴史的な叙述になっており、序でニコラウス・ペヴスナーの描いた近代建築の生成がガウディやサンテリアを奇人としてしか評価できなかったことを批判しつつ、時代精神による単一的な歴史ではなく、不連続な複数の運動の系列として近現代史を描くことを述べている(だが、ジェンクスも時としてモダニズムを不当に単一化してはいないか?)★一六。師匠のバンハムがサンテリアを再評価をしたとすれば、弟子のジェンクスはガウディを近代以前に実現された「ラディカルな折衷主義」の重要な事例として称賛することになろう。彼によれば、一九二〇年代から一九七〇年代は六つの潮流が存在し、これを「進化の木」として図示している[図15]。そしてレヴィ=ストロースの構造分析を参考にしながら、対から成る六つのカテゴリー、すなわち「論理主義」、「理想主義」、「直観主義」、「行動主義」、「自己意識主義」、「無自己意識主義」を分類する。フレッチャーの建築史に出てくる系統図に似ているが、大きな幹から枝分かれするのではなく、ばらばらの動きが並列しているのが特徴的である。同書では続いて、ミース、グロピウス、ライトに認められる一価的な部分を批判し、反対にル・コルビュジエとアアルトの多価性を評価する。ゆえに『ポスト・モダニズムの建築言語』の基本的な枠組みは、この時点でほぼ用意されていたのだ。
では一九八五年に増補された『現代建築講義』の後記で、彼の言うレイト・モダニズムとは何か。これもポスト・モダンと同様、一九六〇年代からモダニズムヘの批判として登場したが、近代を継承したところがあって、テクノロジーを表現するハイテク風のデザインに代表されるという[図16]。この言葉自体は『ポスト・モダニズムの建築言語』の付記で既に使われており、ジェンクス以前に別の論者が語った「ポスト・モダニスト」のデザインは、むしろ「レイト・モダニスト」と呼んだほうがいいと述べている。ゆえに、ジェンクス版「ポスト・モダニズム」の定義を明確にするために、この概念は導かれ、後に発展されたものと考えられる★一七。もっとも、これは二者択一ではなく、彼は両方を使う建築家としてフィリップ・ジョンソンや磯崎新を挙げているし、リカルド・ボフィールはポスト・モダニズムの表現性とハイテクの抽象性を融合したとみなしている。
八〇年代後半に彼はポスト・モダニズムの展開を三期に分けている★一八。つまり、一九六〇年代はポップ・アート、カウンター・カルチャー、アドホック主義、一九七〇年代は多元的な政治性と折衷主義、一九七九年以降の第三段階はポスト・モダン・クラシシズムが特徴になるのだという。その本では美術と建築における新しい古典主義の動向をやはり幾つかの潮流に分類している。建築の古典主義は、さらに原理主義的(L・クリエ、M・ボッタ)、復興主義的(P・ジョンソン、K・ペダーソン)、都市的(R・ボフィール、J・スターリング)、折衷的(R・ヴェンチューリ、磯崎新)なものの四つに分かれ、モダニズムに抑圧された古典主義の感覚がよみがえった状況を論じている[図17]。なるほど、八〇年代にそうした徴候を認めることは可能である。だが、ポスト・モダニズムをあえて西洋建築の正統的な文脈に置きなおす行為は、チャールズ皇太子の言動とも近接しているのではないか。
一方、一九九〇年代に入り、ジェンクスは一九七六年以降にネオ・モダンの動きもあったことを指摘していた★一九。お得意の系統図によれば、おおむねレイト・モダンの進化形としてネオ・モダンは位置づけられるが、同時にポスト・モダン的な性格も強く混入している。彼は「断片」と「差異」、「分離的な複雑性」や「爆発する空間」などを特徴に挙げているが、明らかに「ディコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展(一九八八)を意識して選んだ言葉と言えよう[図18]。実際、紹介されるのはベルナール・チュミやダニエル・リベスキンドらであり、ほとんどの建築家が重なる。ゆえに、ネオ・モダンは命名ばかりが先行し、独自の主張がなされないまま、単に流行りのディコンストラクティヴィズムを言い換えたように思われる。また「進化の木」は大変にわかりやすいのだが、初期には存在した対立項の構図がなくなり、もはや惰性で作成している印象は否めない。
ところで、皇太子をめぐる建築論争について、ジェンクスは批判的に言及したことがある★二〇。彼によれば、皇太子は「聖戦」において効果的な「王室の爆弾」を投下してきたが、『英国の未来像』以降、建築の「十字軍」は誤った道を歩もうとしている。ジェンクスは、皇太子の言説が部分的にポスト・モダニズムの理論と近接しつつ、彼のおかげで多くのメディアが現代建築を取り上げ、多くの人々が建築を考えるようになった功績は評価する。しかし、ボブ・ゲルドフを気取る皇太子の現代建築を軽蔑しきった一方的な見方や、本人は力がないと言うけれども、幾つかの計画案をつぶしたように、「実際はすさまじい破壊力をもつ」非民主的な状況は、解決につながらず、悪い戦略ではないかと述べている。つまり、ジェンクスは初期の皇太子の活動には好意的だったようだが、対立の構図を強化する姿勢は失敗だと考え、次のような非難を紹介している。ある歴史家は「パブロフの犬」のように、皇太子の趣味は限定されており、古い建築要素を見ると尻尾をふって、コンクリートを見たり、装飾のついたおわんを奪われると吠えるのだという。

15──6つの潮流を示す、進化の木 Modern Movement in Architecture 1985

15──6つの潮流を示す、進化の木
Modern Movement in Architecture 1985

16──R・ロジャース&R・ピアノ 《ポンピドゥーセンター》1977年 筆者撮影

16──R・ロジャース&R・ピアノ
《ポンピドゥーセンター》1977年 筆者撮影


17──R・ボフィル《アブラクサス》1982 筆者撮影

17──R・ボフィル《アブラクサス》1982
筆者撮影

18──B・チュミ《ラ・ヴィレット公園》1991 筆者撮影

18──B・チュミ《ラ・ヴィレット公園》1991
筆者撮影

ジェントルマンの建築改革

皇太子は単に建築を外部の立場から批判しただけではない。彼は戦後の建築物が生みだす、非人間的な環境に心を痛め、まず都市問題に取り組む。もともと彼は一九七六年よりプリンス・トラスト(皇太子信託基金)を発足し、慈善事業を展開していたが、八〇年代の後半にはその延長としてビジネス・イン・ザ・コミュニティの初代総裁になり、工業都市のハリファックスを舞台に地域再生のプログラムを実験的に試みようとした。その際、「可能ならば、住民が自分たちの家の全体設計、庭、玄関や窓に関する希望を出せるようにしたい。地元の建築家なら彼らの言い分がよく分かるだろうし、設計の経験がない人たちとも一緒にやっていけるだろう」と考えている★二一。
ただし、こうしたやり方はチャールズの独創ではない。すでに一九六八年の五月革命において建築家の社会的な役割を問い直す動きと共振するかたちで登場した、ルシアン・クロールのルーヴァンの学生寮(一九六八─一九七二)や、ラルフ・アースキンのバイカー・ウォール(一九六八─一九七四)によるユーザー参加型の設計に連なっているからだ。居住者が設計のプロセスに関与することは、もはやラディカルな行為ではない。クリストファー・アレクザンダーであれば、方法論の精緻化に向かうだろう。とはいえ、クロールは古い建築家の役割を解体しつつ、誰もが自由に参加し、想像を働かせるポピュリズムを目指したのだから、必ずしも都市再生を主眼にしていたわけではない。そうした意味では、チャールズは、『英国の未来像』の序で伝統的な構法を実践するエジプトの建築家ハッサン・ファトヒーに言及したように、地域性を主眼においている。
一九八六年には、地域密着型の建築家ロッド・ハクニーが持ち込んだスラム改善計画、インナーシティ・エイドの総裁に彼はかつぎ上げられた。しかし、これはプログラムが明確でなかったことや、募金目標額を大きく割り込んだこともあってうまく機能せず、やがてハクニーと距離を置くようになる。一九八九年には、チャールズの肝入りでさまざまな職種の建築関係者から成るアーバン・ヴィレッジ・グループを設立し、複合機能を謳う都市開発の指針を調査した。そして一九九二年にその成果が以下のように発表された。「建物と同様、そのあいだを占める空間は重要である。すなわち、道路、広場、路地、歩道、緑の空間、硬質な空間の全体配置と、これが含む舗装やストリート・ファニチャー。また環境のバランス、パブリック・アート、そして身体障害者や動きの不自由な人々のための使いやすさも必要である。(…中略…)既存の建物がもつ質の高さ、歴史的な意義、あるいはとても心地よい性格は、場所の感覚と歴史的な連続性を強める。ゆえに、それらは視覚的かつ心理的な資産として利用されねばならない。(…中略…)アーバン・ヴィレッジ、すなわち都市的な村落の諸々の特質は、マスタープランにおいて規定される必要があり、その際はインフラストラクチャー、都市の形態、建築言語、そして公共空間などの性格と条件を統制する詳細なコードによって支えられることになる」、と★二二。一九九〇年には、ソールズベリー大聖堂修復の資金集めのために、チャールズ自身の描いてきた水彩画の展覧会が行なわれた[図19]★二三。当然、現代建築を描いたものはなく、ほとんどが古い建造物や牧歌的な風景を絵の対象としている。また長い間、彼はイギリスの古い建造物の保存や有効な活用を積極的に支持してきた。こうしたチャールズのイギリスにおける行動は、ダイアナ妃が世界的に展開する派手な慈善事業に隠れて、あまり知られていないのではないだろうか。

19──チャールズ皇太子《農家》1987 王立美術院の展覧会入選作 偽名と他人の住所で応募したから、自らの地位で入選したものではないという。 『チャールズ皇太子水彩画集』1992

19──チャールズ皇太子《農家》1987
王立美術院の展覧会入選作
偽名と他人の住所で応募したから、自らの地位で入選したものではないという。
『チャールズ皇太子水彩画集』1992

変革は教育の現場から

次に皇太子は建築教育に着手した。劣悪な環境は貧困よりも建築家に責任があると考えていた彼にとって、望ましい人材の育成は当然なされるべき課題となろう。幾度か建築のサマースクールを主催した後、一九九二年に彼はプリンス・オブ・ウェールズ建築専門学校をロンドンのカムデンに設立し、建築と建設技術を基礎から学べるようにしたのである。オープニングのスピーチにおいて彼は、「過去の一世紀間、建築の専門職にひとつの間違いがあったとしたら、それは建築家ではない人々や建設の過程で関わる人々と切り離されていたことであった。私はこの協会が分野ごとの関心からは自立し、自由になり、こうした断片を和解させることに貢献したいと思う。したがって、ここは理論を教える一方で、すぐれた建設の実践にも根ざしたものになろう。そして建設者と建築家の美的な感覚を養うと同時に、各々のなかに建設者が存在するのを思いおこすことを失いはしないだろう」と述べている★二四。この協会は『英国の未来像』の主張を実現するための手段なのだ。
当学校のパンフレットによれば、初年度には二八人の生徒が参加し、講師陣には建築家のレオン・クリエ、デミトリ・ポルフィリオス、クリストファー・アレクザンダー、そして建築史家のデヴィッド・ワトキンなどがいたようだ。こうした顔ぶれからも、都市のコンテクストを重視し、抑制された保守的なデザインを推奨する授業が行なわれたことは想像に難くない。チャールズ・ジェンクスが教育に関わった同じロンドンのAAスクールが、ピーター・クックザハ・ハディドレム・コールハースらを講師に迎え、アヴァンギャルドなデザインを推進したのとは対照的ですらある。生徒の作品は、幾つかの刊行物で紹介されたものを見る限り、チャールズが嫌うようなモダニズムや過激な形態はなく、おとなしいデザインが多い。ちなみに一九九四年度は一〇代から四〇代まで一九人の学生がおり、一年を通じて次のような教育が行なわれている★二五[図20]。

秋期(一四週)
基礎研究プログラム 七週/構造幾何学 一週/絵画 一週/技能 二週/都市デザイン・プロジェクト 二週/ポートフォリオ作成 一週
春期(一二週)
実測ドローイング 一週/イスラム模様 一週/建築の古典言語 二週/技能 二週/読書 一週/デザイン・プロジェクト 五週
夏期(一〇週)
計画と建設 五週/絵画とドローイング 一週/ポートフォリオ作成 一週/展覧会準備 一週/展覧会 二週


やはり目立つのは、実際に体を動かして小さな建築物をつくる夏期のプログラムである[図21]。イスラムの模様を学ぶ授業が含まれているのは、確かに幾何学を習得するという大義名分はあるものの、チャールズ個人の趣味が強く反映しているように思われる[図22]。なぜならば、彼自身は東洋文化への関心をもち、イスラム教やヒンドゥー教の建築における形態の調和に魅せられていたことが知られているからだ。学校の歴史は浅いし、決して多い学生数ではない。が、卒業後も研究を続けられるよう夜間のクラスやワークショップを開いたり、ニュースレターを刊行するなどして、学校との関係を維持するように努めている★二六。
一九九八年の八月、チャールズはプリンス・オブ・ウェールズ建築・都市環境財団を東ロンドンに創設したことを発表し、「どうして私は近代的であっても、モダニストではないか?」というスピーチで以下のように述べた。「新しい私の財団はモダンなものにはなるが、モダニストではない。その価値観と文化は、建築、デザイン、建設術における伝統的な技術を尊重しつつ、こうした技能を革新しながら、近代的な応用も促進するだろう(…中略…)最良の伝統から最良の近代性が生まれるという私の考えは変わらない」、と★二七。そして、今後、人間にやさしい住宅をつくる建築教育にも力を入れるという★二八。

20──学校を訪れるチャールズ皇太子 1994 The Prince of Wales7s Institute of Architecture: Prospectus 1995-7

20──学校を訪れるチャールズ皇太子
1994
The Prince of Wales7s Institute of Architecture: Prospectus 1995-7

21──共同作業の様子 プロジェクトには有機的なデザインを行なう建築家のイムレ・マコヴィッツが招かれ、生徒のジム・ゴメス案が選ばれた。 Foundation Course End of Year Catalogue 1994

21──共同作業の様子
プロジェクトには有機的なデザインを行なう建築家のイムレ・マコヴィッツが招かれ、生徒のジム・ゴメス案が選ばれた。
Foundation Course End of Year Catalogue 1994

22──生徒によるイスラム模様の習作 Foundation Course End of Year Catalogue 1994

22──生徒によるイスラム模様の習作
Foundation Course End of Year Catalogue 1994

未来へのシナリオ

一方、ジャーナリズムに飽きられないよう、キーワードを数年おきに変えるジェンクスは、自らポスト・モダン的な主体を実践しているかのようだ。次なる彼の転機は「ここ数年の間、メディアは王室の話題に夢中だった(…中略…)だが、表層のあぶくはもっと深い波の動きを隠してきた」という、一九九五年の著書『飛躍する宇宙の建築』で示される★二九。特徴的なのは、意味や歴史の問題ではなく、カオスや複雑系などの現代科学を援用して、新しい建築の形態論を展開していることだろう。彼は、八〇年代に開花したポスト・モダンの建築家が大企業や巨大娯楽産業に関わったことを否定的にみており、次なるポスト・モダンのパラダイムは「複雑系やカオスの理論、自己組織システム、非線形力学を含む、新しい『複雑系の科学』と呼ばれるものによって解明された新しい世界観である」と考える。そしてハイテクから有機的なオーガニ・テクヘのシフトを指摘したり、襞の建築としてアイゼンマンやグレッグ・リンを取り上げているように、コンピュータの普及によって流行したぐにゃぐにゃの形態を現代科学の世界観に接合させる。ゆえに、ネオ・モダンでは独自の視点を打ち出せなかったものの、その関心を延長させて、今度は現代科学に理論的な枠組みを求めたのが本書であると言えよう。
ここでもさまざまな見取図を駆使しているが、系統図は一切使われない。代わってモデルとなるのは、科学理論である。例えば、ジェンクスによれば、現在にいたるまでに世界は四つの宇宙(エネルギー、物質、生命、意識)を段階的に移行しており、次の段階の宇宙はバタフライ効果のように予想もつかない細部から発生している[図23]。ほかにも幾つかの図表があるが、驚くべきことに、熱力学の第二法則、エントロピーを考慮すれば、建築の未来ができるかのような記述になっている。実際、本書で彼は単なる解釈ではなく、建築を変革することを意図しているという。建築の指針としては、審美性と抽象性による「二重のコード」というポスト・モダニズムの戦略は残しているが、現代科学に学ぶべきことを繰り返し述べている。しかし、これは古典主義の時代、すなわちコスモロジーによる建築論の復活ではないだろうか。
実は初期の著作『建築二〇〇〇』(一九七一)で、ジェンクスは大胆にも二〇〇〇年までの未来予想をしたことがある★三〇。これは『現代建築講義』と近い時期に書かれたこともあって、前述した六つの潮流がまったく同じになっており、SF的な発想を加えながら、「進化の木」を二〇〇〇年まで伸ばしていた[図24]。むろん、二〇〇〇年には実現していた予定の「宇宙植民」や「サイボーグ」はまだ先の話だろうが、意外に当たっているものもある(もっとも、予言とはそういう風につくられるのだが)。特に「一九九〇年代に、これら二つの伝統(直観主義と行動主義)は、生物形態派に合流し、二〇世紀終りには、最強唯一の運動になるとも十分考えられる。なぜならば、生物学とオートメーションに予見される多くの技術的飛躍は、より個人的な自律と自由を満足させるだろうからだ」と述べているのは興味深い。理由づけは全然異なってしまったが、その序文でも言及しているように、『飛躍する宇宙の建築』の注目する形態と重なりあうからだ。もっとも、同一人物が本を書いているわけだから、自らの手で予言を実現させたと言うべきかもしれない。

23──意識に至る4つの飛翔の図 The Architecture of the Jumping Universe, 1995

23──意識に至る4つの飛翔の図
The Architecture of the Jumping Universe, 1995

24──2000年までの進化の木 Architecture 2000, 1971

24──2000年までの進化の木 Architecture 2000, 1971


★一──C・ジェンクス『ポスト・モダニズムの建築言語』(竹山実訳、エー・アンド・ユー、一九七八)。なお、原書は一九七七、七八、八一、八四、八七、九一年と版を重ね、改訂を重ねるごとに第三部の分量が増補されている。
★二──『a+u』(エー・アンド・ユー、一九七九年一月号)。
★三──URL=http://www.princeofwales.gov.uk/speeches/architecture_30051984.html
★四──『a+u』(一九八五年一月号)。
★五──P. Eisenman, "From Object to Relationship Ⅱ", Perspecta 13/14, Yale Univ. Press, 1971.
★六──C. Jencks, "The Architectural Sign", Signs, Symbols, and Architecture, John Wiley & Sons, 1980.
★七──C. Jencks, "Meanings of the Chinese Garden", M. Keswick, The Chinese Garden, Academy Editions, 1978.
★八──J・ディンブルビー『チャールズ皇太子の人生修業(下)』(仙名紀訳、朝日新聞社、一九九五)。
★九──HRH the Prince of Wales, "Mansion House Speech", 1987. URL=http://www.princeofwales.gov.uk/speeches/architecture_01121987.html
★一〇──HRH the Prince of Wales, A Vision of Britain, Double Day, 1989.
★一一──A. Zonis & L. Lefaivre, Architecture in Europe since 1968, Thames And Hudson, 1992.
★一二──URL=http://www.princeofwales.gov.uk/speeches/architecture_22021990.html
★一三──AD: Architecture & the Environment, Academy Editions, 1993
★一四──L・C・キャンベル『ダイアナ〈本当の私〉』(小沢瑞穂訳、光文社、一九九八)。
★一五──例えば、C. Jencks, Bizarre, Architecture, Rizzoli, New York, 1979. C. Jencks, Sky Sprickers, Sky Scrapers, Sky Cities, Rizzoli New York, 1980. C. Jencks, Heteropolis, Academy Editions, 1993. C・ジェンクス『ル・コルビュジエ』(佐々木宏訳、SD選書、一九七八)などを参照。
★一六──C. Jencks, Modern Movement in Architecture, Penguin Books, 1985.
★一七──C. Jencks, Late-Modern Architecture and Other Esseys, Academy Editions, 1980. レイト・モダンについては多くの本で説明しているが、八〇年代以降のそれについては、C. Jencks, Architecture Today, Academy, 1988. を参照されたい。
★一八──C. Jencks, Post-Modernism: The New Classicism in Art and Architecture, Rizzoli, 1987.
★一九──C. Jencks, The New Moderns: From Late to Neo-Modernism, Rizzoli, 1990.
★二〇──C. Jencks, "Death for Rebirth", Post-Modernism on Trial, Academy Editions, 1990.
★二一──★八に同じ。
★二二──The Urban Villages Group, "Urban ViIlages", 1992, C. Jencks & K. Kropf, eds., Theories and Manifestoes, Academy Editions, 1997.
★二三──『チャールズ皇太子水彩画集』(日本テレビ放送株式会社、一九九二)。
★二四──Foundation Course in Architecture and the Building Arts, The Prince of Wales's Institute of Architecture, 1993.
★二五──Foundation Course End of Year Catalogue 1994, The Prince of Wales's Institute Of Architecture, 1994.
★二六──The Prince of Wales's Institute of Architecture: Prospectus 1995-7, The Prince of Wales's lnstitute of Architecture, 1997.
★二七──HRH The Prince of Wales, "Why I'm Modern but not Modernist", 1998. URL=http://www.princeofwales.gov.uk/speeches/architecture_08081998.html
★二八──http://www.prince0ofwales.gov.uk/trusts/foundation_arc.html
★二九──C. Jencks, The Architecture of the Jumping Universe, Academy Editions, 1995.
★三〇──C・ジェンクス『建築二〇〇〇』(工藤国雄訳、SD選書、一九七四)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『終わりの建築/始まりの建築──ポスト・ラディカリズムの建築と言説』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>CIAM

シアム(Congrès International d'Architecture...

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>ケネス・フランプトン

1930年 -
建築史。コロンビア大学終身教授。

>ノーマン・フォスター

1935年 -
建築家。フォスター+パートナーズ代表。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>ディヤン・スジック

1952年 -
ジャーナリスト、編集者、デザイン・建築評論家 。雑誌「ブループリント」の編集長。

>批判的地域主義

クリティカル・リージョナリズム(Critical Regionalism)。アメ...

>フランク・ロイド・ライト

1867年 - 1959年
建築家。

>アーキグラム

イギリスの建築家集団。

>インターナショナル・スタイル

International Style=国際様式。1920年代、国際的に展開され...

>フィリップ・ジョンソン

1906年 - 2005年
建築家。

>ピーター・クック(ピータ・クック)

1936年 -
建築家。アーキグラム所属。

>ザハ・ハディド

1950年 -
建築家。ザハ・ハディド建築事務所主宰、AAスクール講師。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。