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討議:部分的/離散的──ヨコミゾマコトと藤本壮介の建築 | 藤本壮介+ヨコミゾマコト+今村創平+今井公太郎+日埜直彦+吉村靖孝
Divisional and Discrete: Yokomizo's Architecture and Fujimoto's One | Fujimoto Sosuke, Yokomizo Makoto, Imamura Sohei, Imai Kotaro, Hino Naohiko, Yoshimura Yasutaka
掲載『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) pp.45-52

セシル・バルモンドの『informal』を読む

今井──前回、オランダ建築の話をするなかで離散型に関する話題が出てきました。そして連続ではなく不連続、コンクリートでなくディスクリートなものにいったい何があるのか、どういった美学が潜んでいるのか、という興味が出てきたわけです。そこで、新しいディスクリートな建物の構造を、OMAなど世界中の建築家とともに手がけているセシル・バルモンドに注目しました。バルモンドの書いた『informal』という本に鍵があるのではないかと思い、この研究会では読書会をやりました。わかったのは、この本は最新の構造技術の解説本というよりも素数論やカオス理論、DNAの構造などの離散的な美学を背景とした現代建築のマニフェストであるということでした。
たとえば、素数は一か自分自身でしか割り切れない自然数のことですが、それは局所的(ローカル)で単純な規則で出来ているにもかかわらず、小さいものから順に数列としてみると、全体として出現が予期できない謎めいたリズムを表現します。バルモンドはそこに離散的な美を見ています。
タイトルの「インフォーマル」とは設計の構えのようなもので、実は具体的にインフォーマルというものがあるわけではありません。初期条件と建築のルールを決めて形を作っていくとき、初期条件の与え方によって建築の様相がまったく変わってしまう。そういったルールを作り、そこで出てきた結果をまたフィードバックして建築の形を変えていくといった設計プロセスが考えられる、そのような便宜的で非線形な設計の進め方のことをインフォーマルと呼んでいるわけです。
本文中ではインフォーマルであることを満たすためのいくつかのコンセプト、条件が挙げられています。『新建築』(二〇〇二年一月号)に掲載された講演会ではコンプレックス、エクスペリメンタル、サプライズなども追加で挙げていたのですが、この『informal』の本ではローカル、ハイブリッド、ジャクスタポジションなどを中心に挙げています。私は特にローカルであることが重要であるような書き方がされていると感じました。
ローカルであることとは、部分からの論理で全体が記述されるということです。トップダウン的に全体を分節していって形が決まるのではなく、ボトムアップ的に部分を積み上げたときに全体は、結果的に決まる。そのような論理でできているときに、建物は安定的な状態から不安定な、自由でダイナミックな状態へ導かれるのです。そこには、全体像を決めつけてしまうような強い秩序はありません。構造解析の方法では当たり前のことかもしれませんが、バルモンドはローカルな構造を考えるとき、同時に意匠的にも、建物の微小な隣接関係を、微分方程式のように局所の関係のみで定義していくイメージで考えていると思います。
今回お二人をお呼びしたのは、お二人ともローカルな、部分からの論理でできている建物を作ろうとされているのではないかと思ったからです。ヨコミゾさんの《富弘美術館》では非中心性、非全体性、相対性、非均質性、ローカルなネットワーク、といったキーワードが並列されていますので、イメージが直結しているのではないかと感じました。
藤本さんも何度となく「部分の建築」ということをおっしゃっています。またInformalをフォーマルではないことと解釈すれば、全体の決まった形を持たない《安中環境アートフォーラム》のような建築のイメージが連想されるのかもしれません。インフォーマルのイメージは藤本さんが言われていることに近いのではないかと思うのですが、一方でかなりずれている部分もあります。バルモンドは結局ひとつの式で記述可能な整合的な形・パターンにしようとしていますが、藤本さんの場合は最後まで整合的には記述不可能な形ではないかと思います。その差が面白いと感じています。
そのあたりの興味、設計の進め方についてお話いただけたらと思います。お二人はインフォーマルにまつわる日本を代表する若手建築家ということです(笑)。今回お二人をお呼びした経緯はそういったものです。
ヨコミゾ──初めてセシル・バルモンドと会ったのは、伊東豊雄建築設計事務所で都市博覧会の全体計画をやっていたときです。あのプロジェクトの構造をセシルさんが所属するアラップが担当していました。彼は構造家でありながら、ランニングコストのかからない自然換気を、構造体の隙間を利用してやれないだろうかといった話をして、それをきっかけに同席している設備担当者とセッションを始める。その姿を見て、今まで付き合っていた日本の構造・設備とはまったく違うと思ったわけです。その後、非線形ということをリアルに感じたのは《せんだいメディアテーク》のときでした。そこでは構造を佐々木睦朗さんと池田昌弘さんがコンビでやっていました。非線形解析では初期値を変えると非常に大きなぶれが出るので、その初期値をどう選ぶかで、長年の勘、職人芸が重要になるといった世界があることを知り、構造はスタティックなもので答えはひとつしかないというようなそれまでの認識が崩されました。さらに言えば、モデルを組むときにはすでに答えがあり、それを確認するためのモデル化であり、モデルを組むところが実は最も面白い。そういったことをリアルに感じたわけです。アラップの金田充弘さんとは、《メディアテーク》竣工の頃現場をご案内しながら、今度一緒に何かやりましょうということになって、《富弘美術館》のコンペに参加したわけです。その後、金田さんが『informal』を見せてくれました。もちろん金田さんはセシルさんを大変よくご存じですが、彼の話だと『informal』の世界と今われわれがやっている《富弘美術館》とは、ちょっと違う世界であるとおっしゃっていました。だから、今日はセシルさんの思想と《富弘美術館》との関係といったことは、ひとまず置いておいて、《富弘美術館》がどのようなプロセスを経てきたかをお話したいと思います。

吉村靖孝氏、今井公太郎氏

吉村靖孝氏、今井公太郎氏

今村創平氏、日埜直彦氏

今村創平氏、日埜直彦氏

《富弘美術館》の設計プロセス

 《富弘美術館》に先行して一つのプロジェクトをやっていました。同志社大学の京田辺キャンパスに新しく情報メディアセンターを作るというコンペがあり、それに参加しました。これはキャンパスの様子です[図1]。学生たちがぶらぶらしていて、芝生の斜面に寝転んで音楽を聞いていたり、木陰でおしゃべりしていたり、ベンチで本を読んでいたり、居眠りしていたり、結構好き勝手なことをしている。もしこの場にワイヤレス・ネットワーク環境と電源が用意されたら、もうそれだけで情報メディアセンターとしては、十分なのではないかと思ったのです。屋根を架けて雨をしのぎ、突風が入ってこないように最低限の囲いを作ってあげればよいではないかと。そこであらためてよく見ると、微妙な環境の違いがモザイク状に散らばっていて、学生たちはほとんど動物的勘のようなもので最適な場所を選んでいるのです。太陽が陰ったりして、環境がちょっとでも変われば、状況もガラッと変化する。すごく自由で自然な姿というか、大げさに言えば、環境と人間のあるべき姿を見たような気がしました。なぜ建築の内部には、こういった環境ができないのだろうと考えてしまったわけです。コンペ案[図2]では、柱をすべて外周に出したことでこのような感じの外観になってしまいましたが、このとき初めてサークルが集まっているプランが出てきました。中央通路を挟んで、コンピュータ・リテラシー教育を一対多の授業形式で行なうゾーンと、二四時間オープンの学生・教員の自主的研究活動の場という二つのゾーンとがありまして、前者がグリッド・プラニング、後者がサークル・プラニングだったわけです。サークルの世界では、各サークルに異なる空間の質や機能が用意されていて、そのなかを利用者は能動的に自分の知的要求や気分にあわせて最適な空間を求めながら、サークルからサークルへ渡り歩くわけです。
 《富弘美術館》では、四つのコンセプトを掲げました。非中心性、非均質性、非全体性、そして相対性です。個々の解説は割愛しますが、簡単に言ってしまえば、初期条件によって何通りものプランが書けてしまうような、非線形的シミュレーション可能な仕組み。しかも、どんな結果となっても、建築の基本的な骨格はまったく揺るがない。そんなユニヴァーサルなものをイメージしていました。それを非常にプリミティヴな円と正方形という幾何学でやってみようと考えたのです。
独立しながらも連続するサークルの非均質な空間の質の違いは、アクティヴィティを誘発し、能動的な空間を生み出すに違いないと考えました。それは均質空間を作り続けてきた二〇世紀の建築に対する批判でもあります。かつて、均質な空間を作るために照明設備や空調設備、昇降設備などのテクノロジーが建築に導入されました。今、必要なのは、ユーザーの要望に応える多様な空間や環境が同時に存在するために、そういうばらつきを許容できる環境をバックアップするためのテクノロジーだと思うのです。このことは
 《せんだいメディアテーク》で実験したことも関係するのですが、間仕切りも廊下もない環境でいかにアクティヴィティを発生させるか。空間を貫くチューブとその周辺の余剰空間が、多様なアクティヴィティの発生を誘発しているとも言えます。
ここで「自己最適化」というキーワードに触れたいと思います。「自己最適化」とは、ある集合体や組織体が、自らを構成している最小単位のコードやルールを状況に応じて書き換え続け、そのことにより、環境や状況に合わせて常に最適な状態を保ち続けるということなのですが、伊東さんが《メディアテーク》で「アンダーコンストラクション」、つまり建築は常に非完結的であり流動的であると言われたことと同義であると思っています。ちょっと飛躍しますが、これはシャボン玉の写真です[図3]。シャボン玉は常に自己最適化をはかっているそうです。最大限の気積を最小限の表面積で包もうとすると、このような球体になります。それを、水平面上で膨らました場合はドーム形になります。そこに屋根を架けたらどうなるだろうと思って実験してみました。綺麗なシリンダー状になりました。ライズを変えると、直径がかわる。内部の体積を一定に保つために膜厚を調整しながら自己最適化をはかっているわけです。これに似たことは、生命体であれば、環境への適合という形でだれもが行なっていることなのです。ハード的にも、ソフト的にも、こういった建築ができればいいなと金田さんと話していました。複数のシャボン玉の場合、お互いがひとつの平面をもって接します。安定状態になってしまうと、一二〇度の角度で多角形になってしまうので、その一歩手前の状態で止めて、隙間が残っている状態をフリーズしたような建物にしようとしました。こちらの図は構造解析です[図4]。三つの半径の異なるサークルがバラバラに立っていますが、ここでは壁の内部応力が色で表現されています。これに外力がかかると一番大きいサークルの色が赤になります。このままやっていくと、一番大きなサークルが先に潰れる。ところが、三つのサークルがお互い接するように構造的に縫い合わせてしまうと、同じ外力を与えても、真っ赤なところがなくなる。つまり大きいサークルが潰れそうになると、隣の小さいサークルが支える。さらに外力が大きくなると別のサークルまで潰れそうになるのですが、そうするとまた別の接しているサークルが支える。横力だけでなく、鉛直方向の力にも同じような効果が生じていつまでも倒れない。これをネットワーク効果と呼びますが、これはわれわれ人間を含む集団生活を営む生物の個体と集団との関係に非常によく似ています。均質な同じ径のサークルが集まっているだけではこうはならなく、ばらつきが不可欠で、細いサークルや太いサークルがあるからこそ発生する効果なのです。
話を美術館に戻しますと、水彩画を掛ける部屋は、照度・温度・湿度が厳密に決められています。そこにいきなり入ると、体温調整ができないし、目も眩むので、調整するためのバッファとして前室と後室が必要だろうということに気がつきました。展示にかかわらない部屋は、開放的で、外の風景が見え、外気や紫外線がバリバリに入る部屋があっていい。用途や機能に応じて微妙に環境の異なるサークルを並べると、このようになるわけです[図5]。扉の部分、つまりサークル同士が接している部分の開け閉めをコントロールすることで動線を変えて、大きな展覧会をやったり、二つの展覧会を同時に開催することもできる。少し挑戦的な会場構成になりますが、順路を設定しないで観客が自分でルートを探すという能動的な動線計画の設定もできます。
余談ですが、設計段階で、円形の空間の大きさは体感しないとよくわからないと思い、実際に村の体育館を借りてパネルを使って作ってみました。ここでは壁に実際にコピーの絵を掛けて、絵を鑑賞している人の背後をパスしながら移動する人が、中央のベンチに座って休んでいる人の目障りにならないだろうか、などと検証しました。見たこともない丸い部屋だらけの建物ですから、どうなってしまうのだろうという不安が、幾分解消され、村のボランティアの人たちや美術館の職員たちも、もちろんぼくたちもちょっと安心しました。

1──同志社大学キャンパスの様子

1──同志社大学キャンパスの様子

2──情報メディア教育センターコンペ案の模型 撮影=坂口裕康

2──情報メディア教育センターコンペ案の模型
撮影=坂口裕康

3──シャボン玉の写真 出典=L’Architecture d’Aujourd’hui

3──シャボン玉の写真
出典=L’Architecture d’Aujourd’hui

4──構造解析図、左側の一番大きなサークルが赤になる

4──構造解析図、左側の一番大きなサークルが赤になる


5──富弘美術館コンペ案の模型

5──富弘美術館コンペ案の模型


部分の建築/相互作用の建築

藤本──一〇年くらい前になりますが、大学を卒業してすぐ、友人が化学者のイリヤ・プリゴジンの『混沌からの秩序』を紹介してくれました。この本は散逸構造やカオス、複雑系などについて書かれていて、それは僕にとってすごく新しい世界でした。全体の秩序がまずトップダウン的にあるのではなく、局所的な対応関係の仕方に秩序があって、それが広がっていくことで秩序が生まれてくるという考え方で、それは近代建築の空間概念とは少し違った概念に発展しうるのではないかという可能性を感じたんですね。
それから少したって、ある病院の設計をやることになりました。病院とは中廊下があって両側に病室があるというのが普通だったわけですが、たまたま『混沌からの秩序』を読んだ時期と重なっていたので、たとえば中廊下型の建築が大きな秩序であるなら、局所的な秩序で成立する建築というのはどのようなものだろうと考えました[図6]。その結果、廊下というものがない、部屋と部屋のつながりだけで全体ができている病院を九八年から九九年にかけて設計し、実現しました。これは僕にとっては重要な一歩だったと思います。
そしてその後に青森県立美術館のコンペがあり、やはり同じような視点から設計をしていきました。敷地が全部森だったのですが、例えば雲、森などは、局所的な対応関係だけで成立します。しかしだからといって渾沌になるわけではなく、そこには秩序が発生している。森の中の美術館であるし、森と同じように局所的な秩序でできている建物というのは新しいのではないかと考えました。最終的には一〇メートルくらいのグリッド・パターンを設定して、行き当たりばったりで角を結んでいくような壁を立てました[図7]。そして壁が屏風上にうねっていくのを抜けながら散策していくような美術館としました。そうすることで、予想しない方向に森が見えたり、開けたり、そういう、建築的な計画とはちょっと違った体験ができるのではないかと思って設計していました。高低差の激しいところだったので、山肌を這うような感じで伸びていく、万里の長城やクリストのランニングフェンスのようなものをイメージしていました。万里の長城はいつも面白いと思っていて、なんと言うか、自然と人工のちょうど中間のようなあり方だと思うんですね。地形に沿って、とにかく行き当たりばったりに伸びていくところが、何か新しい建築を予感させると考えています。
それから、スラブの重なった住宅があります[図8]。まず床があり、三五センチくらい上に違うレベル、さらにその上のレベルに床がある。床が積層して等高線のようになっている。それ自体は構造体として完結していて、床の重ねだけでできています。スラブの重なりは、床であると同時に椅子であり、机であり、本棚であり、屋根であり、ともかく全部が小さなレベルのあいだの関係の中に立ち現われてくるわけです。床というのが大きな秩序だとしたら、それを一度ばらして、三五センチという部分同士の関係性だけを残してしまう。そうすると、今までとは全く違う、なんというか複雑なものができてくる。複雑だけれども、混沌ではない。
その後「部分の建築」(『JA』二〇〇一年秋号)という文章を書きました。そこで囲碁の話を書いているのですが、囲碁で設定されているグリッドは支配的な秩序であるけれど、碁石の置き方は結構自由です。しかし碁石を一個置くごとに状況ががらっと変わって、一手ごとに状況が変化し、全体としての流れを作る。そのあたりが面白い。「部分の建築」では、フランク・ゲーリーの《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》についても触れています。紹介しますと、《ビルバオ》の形態は一見、彫刻的に作られているけれど、あの形態は、まず全体があるのではなく部分の連続だけで構成されていて、自然にできたものに感じられる、ということです。僕は《ビルバオ》を見たとき、中世あたりのヨーロッパの集落に近いと思いました。そこではおそらく家を建てた人には全体の計画はなくて、そのときどきで勝手に建てているのですが、あるルールがある。その結果全体としては複雑だが、ある秩序がある。そういった集落の情景に似ていると思いました。
僕は以前はグリッドを引いていたのですが、グリッドによって大きな秩序ができてしまうことに疑問もあって、今、北海道に建設中の病院ではちょっと違う方法を試しています。正方形の家のようなものがあり、隣の家はある角度で振っています。そして三種くらいの角度をもって家を並べていくと、ぐねぐねとしていて一見集落のようなものができます。また建物の中に入ると基本的に片廊下なのですが、予想できない曲がりくねり方をしていて、いろんな場面が展開する。自然に作られる類のものを、人間が計画できるという状況が、ありえるのではないかと考えているんです。バーナード・ルドフスキーの『建築家なしの建築』という本が、憧れとか、感嘆の対象ではなくて、そういうものをデザインする手法が、実はもう少しで僕たちの手に入るのではないか、そんな気がしています。少なくとも、ある方向を与えることができるのではないかということを「部分の建築」には書きました。
次に《安中環境アートフォーラム》についてです[図9・10]。自分で設計した《聖台病院》や、ヨコミゾさんの《富弘美術館》、妹島和世さんの《スタッドシアター》、《金沢二一世紀美術館》などのネットワーク的なプランニングに対して、なんとなく違和感を感じ始めていたのは確かなんですね。良いとか悪いとかというよりも、もうちょっと違った方法はないのかなと。それで去年ギャラリー間のシンポジウム「この先の建築」で原広司さんの話を聞く機会がありました。原さんは「離散空間」と言って、インターネットなどが建築の空間になるんだという話をされ、それはネットワークのように平面を並べていくものとは違うとおっしゃっていて、完全に理解できたわけではないんですが、すごく刺激的だった。しかしネットと建築との違いを考えたとき、建築には避けがたく距離ができます。「離散空間」ではなくそこから出発しなくてはいけないと思いました。距離や隔たりは避けがたいからこそ重要で、そうでなかったら建築がなくなってしまう。
そういったことを考えているうちに、たとえば向こうに見えている場所は、見えているという意味では繋がっているけれど、場所としては違うというように距離感の違いだけで場所ができてくるというのは面白いんじゃないかと思ったんですね。その面白さは非常に建築的だとも思った。これははじめは原さんに対するアンチテーゼのつもりでした。それでこのような放射状のプランを作りましたが、空間が繋がっているけれど離れているということは、じつは原さんの言う「離散」と近いのかもしれない。コンペの二次審査の頃には建築的に実現できるレヴェルでは、一つの解としてあるという気がしてきました。繋がっているけれど離れている、ある空間を共有しているけれど別のことが起こっている、そういった非常に建築的なことがインターネット、webなどと重なり合うのではないかと、期待しています。
一方で、この安中の案には、離散的なもののほかに「相互作用建築」という側面があるのではないかと考えています。安中のコンペは、環境アートフォーラムという名前なのですが、そもそも環境とは何なのかといったときに、ソーラーパネルとかリサイクルとか屋上緑化とか、そういう直接的な応答では物足りない。僕は環境とは相互作用だと考えます。では相互作用的な建築とは何なのか。ここでは、まずワンルームのようなものがあり、そこに作用が働いたときに秩序が発生する。そういうプロセスの相互作用があり、さらに完成した後には場所と場所が相互作用する。空間がつながっているということは、距離感によってそれぞれの場所がさまざまに相互作用するわけです。だから、二重の意味で相互作用的な建築だと言えます。庭で行なわれていることが建物の中に影響を与えるように、どこかで行なわれていることが、常に他のどこかに影響を与える、そういった相互作用が面白い。そうするとシンプルだけれども、多様なものが生まれます。局所性、相互作用などによって建築が新しい形になりえるのではないかと考えました。

6──部屋と部屋のつながりだけでできている病院の模型

6──部屋と部屋のつながりだけでできている病院の模型

7──青森県立美術館コンペ案、ダイアグラム

7──青森県立美術館コンペ案、ダイアグラム


8──スラブの重なった住宅の模型

8──スラブの重なった住宅の模型

9──安中環境アートフォーラムコンペ案、パース

9──安中環境アートフォーラムコンペ案、パース


10──安中環境アートフォーラムコンペ案、模型

10──安中環境アートフォーラムコンペ案、模型

多様さを作りだすシンプルな仕組み

今井──お二人の話をうかがって、それぞれ違っていながら接近したことを考えられていると感じました。特に自然と建築の距離をどうとるか、自然とどう向き合うかという点です。ヨコミゾさんは自然に存在する秩序を建築に導入してみるという方法で考えられていて、シャボン玉という自然現象の持っている自己最適化のメカニズムを使ってゆらぎの表現などを建築に応用しようとされている。その話と藤本さんの自然と建築の局所の秩序による決定の話には「結果的にそうなってしまう」的な共通のニュアンスがあって面白かったです。
『informal』の話と関連させると、ここで述べられているのは構造の部材メンバーをどう決めるかという話ではなくて、幾何学─ジオメトリーをいかに決めるかという話であり、どのようにして形を作るかということが主題なわけです。『informal』では建物全体をひとつのシステムとして記述することにかなり労力を使っていて、部分の論理と言いながら、最終的に建物全体の形状はある式に置き換えられる。その思い込みがこの『informal』に対しての違和感としてあります。それが藤本さんの建築では曲線の決定は幾何学的に整合するものではなく、部分の記述だけで最終的に全体ができることを目指されている。そこがバルモンドと違う点だと思います。その意味でヨコミゾさんのお話で気になるのは最後に正方形で切り取る瞬間です。丸いものが連鎖した状態で終わるのではなく、最後に切らなくてはいけない。そこについてお聞きしたいのですが。
ヨコミゾ──「ユニヴァーサル」でありたいと考えていました。特定の場所でしか成立しないものは作りたくなかったわけです。世界中どこでも、あるいは地球外惑星でも成立する、戦略としてそういったものにしたかった。それでどこへでも持っていける基本的なジオメトリーは正方形です。とにかく方向性を感じさせない、裏表がない、僕としては正方形にはすごく強いこだわりがあります。ある特定の敷地に合わせた特殊な形態は避けたかったのです。
今井──全体像をニュートラルな形にすることで消去してしまうという感覚があるんでしょうか。
ヨコミゾ──形を消去すると言いながら正方形というのは非常に強い形で、実は、そこが戦略なのです。
今村──ヨコミゾさんには、環境のばらつき、つまり木漏れ日のようなイメージがある。藤本さんも自然な状況に対して親近感を持っているように聞こえました。しかし、お二人は最終的には、図像的にきわめて明解なものを出されている。一見相容れないようであるこのことに非常に興味があるのですが、それに関して少し話していただけますか。
ヨコミゾ──僕が思うに、藤本さんとの共通性は、「多様さを作り出す単純な仕組み」を探っているということなのかなと感じます。複雑なものは複雑なままの状態にしておこう。その代わり、それをできるだけ単純な仕組みで作り出すことができないかということを考えていると思うのですが……。
藤本──多様なものをシンプルな方法で作れれば楽しいというのは確かにあります。ただ、特に自然が好きということではなく、自然の持っている秩序、その作られ方には人間が今までやってきたこととは違う資質がたぶんあり、そこから何か引き出せないだろうかと思っているんです。だから木漏れ日を直接的に実現したいというのではなく、あくまで建築を作りたいという意識を持っています。建築として実現したい。そして建築という概念を拡張し続けて、建築でありながらまだ見たことのない建築を作りたい。そう考えたとき、自然は面白いものを隠し持っているという気がしています。

建築の形──一般性と恣意性

日埜──なんらかのアイディアに依拠して具体的な形が現われてきたとき、それは本当に建築なのかという問いがある段階で問い返されるわけですけど、ヨコミゾさんが言われた正方形で切断するという操作は、まさしくその端的な瞬間だろうと思います。また藤本さんは別のところで、太線で輪郭を描いてもなにか主張がそこに見えるような明快な建築をめざしたい、というようなことを言われていましたが、そこでも全体像と建築に関するある種の意識が窺われます。アイディアと建築は、確かに似て見えることもあるけれど、まったく違うものでもある。そしてそこがコンヴェンショナルでない建築を作るときに問題になるわけですね。集落の話が出てきましたが、集落というのは確かにコンヴェンショナルではない空間の成り立ちをしていますが、それを建築と呼ぶかというと微妙なところがある。どこでそれが分かたれるのか。一方からアイディアが芽生えてきて、他方で建築としての姿がどこかから飛来するのか、それとも両方とも最初から予期されているのか、建築という固定枠と照らし合わせるのか、その辺りの意識のあり方はいかがでしょう。どこからそういった一種の切断が出てくるのでしょうか。
ヨコミゾ──形を作りたくはないけれど、現実には作らざるをえない。今回の《富弘美術館》に関しては、全体像からフィードバックしての正方形という外観ではなく、単純なシステムであることを言い表すための選択であったと考えています。それに、正方形でスパッと切ったときが、一番その断面部分をシャープに見せられるような気がしました。
藤本──先ほどヨコミゾさんがユニヴァーサルと言われましたが、僕はちょっと違う意識を持っています。正方形でユニヴァーサルを実現するというのもひとつの考え方だと思います。例えば、この安中の不定形な形は、ある意味では正方形と対極ですが、これ自体は同じようにユニヴァーサルである可能性があると思うんです。ウェットではないものができれば面白い。正方形というのはドライだと思うんですが、そうではないドライ、違った一般性というものがあり得るのではないかと思います。
今村──藤本さんの案は、図式として非常にわかりやすい。また、今回はプログラムが決まっていないなかで提案し、くねくねと描いたラインは自由であると言っても、実際に描かれているプランの形は非常に格好いい。ただ、《環境アートフォーラム》は住民参加のプロジェクトということですが、ここをこう変えたいと要望が後から寄せられたとき、この洗練された形は守れるのでしょうか。また、一方で、藤本さんの場合、恣意的なものを繰り込まないと自分のデザインができないと考えている、との印象を受けますが、どうでしょうか。
藤本──正方形などの今までの幾何学には恣意性がなくて、新しい幾何学、つまりぐちゃぐちゃしたものを人間が触ろうとした瞬間に恣意性が出てくるといったことを、たぶん疑っているんだと思います。あるいは、そのぐちゃぐちゃしたものを一般性をもってコントロールできるのではないか、そういった可能性を期待しています。新しい幾何学と言うのでしょうか、そこに踏み込んでいく時期なのではないかと。フランク・ゲーリーの話をしましたが、あれを個人の表現と言ってしまってはいけない気がしているんですね。新しい一般性を持った幾何学なのではないか、つまり、自由な曲面を作ろうとすると、誰がやってもゲーリーと同じようになってしまうと思います。そのくらい一般的な曲面の幾何学を持っている。ハンドリングできる幾何学が拡張しているんだと思います。
今村──ダニエル・リベスキンドの「ヴィクトリア&アルバート美術館増築案」という、よく知られたプロジェクトがあります。リベスキンドというデコンストラクティビズムの建築家が、恣意的にさまざまな角度を持つ建築を提案する。すると構造家がそこにある法則性を当てはめ、こうやると解けるといった発見をしていく。それがバルモンドの役目のようです。ゲーリーの《グッゲンハイム》ができた直後、バルモンドに感想を伺うと、あれはつまらないと言っていました。構造家が形を再定義することなく、映画のセットのようなはりぼてで、つまり裏に鉄骨を組めばどんなものでも作れるわけです。ゲーリーがあのような破天荒な形態を差し出したときに、それをどういったルールで作れるかを考えるのが構造家の仕事だと、彼は考えているのです。
藤本──構造的に合理的であることと、フォルムとして一般的であることは必ずしも重ならないと思います。そこが面白いところだと思います。
今井──バルモンドは構造の部材を決める論理と、形を決めるジオメトリーの論理を明らかに分けて考えている。かなり割り切っていて、ジオメトリーさえ決まれば、部材は後から自動的に決まり、肉厚をあげればいいんだという感覚で、純粋に形をどう作るかという論理が書かれています。

シンプルなものと多様なもの

吉村──部分と全体という切り口だとすると、建築は本質的にこの考え方と親和性がありますから、なかなか新しい話になりにくい。でも藤本さんの話を伺っていると、どこかこれまでとは違うと期待したくなる。そこで、もう少し建築の歴史との関係について踏み込んでお話が伺えればと思うのですが。たとえばメタボリズムにおいて、菊竹清訓さんは幹から枝、葉と階層構造を見ていると思うのですが、槇文彦さんは、木に葉を、また同時に葉に木を見ている気がします。藤本さんのアプローチは、槇さんに近いようにも思える。
藤本──メタボリズムについて、それほど詳しく知らないのですが、実はメタボリズムはすごかったのではないかという感覚はあります。ただ、メタボリズムは樹状にしてしまったのが間違いだった。しかし根本は同じかもしれません。ある生物学的ともいえる複雑さを、コンピュータが出てきて、ハンドリングできるようになってきたのが大きい。それから部分と全体の話では、新しい部分と全体の関係性があるとしたら、それは全体があって初めて部分が意味を持つ、部分があって初めて全体が意味を持つというように、双方向ではないかと思います。単にパーツが増えていく、というのではなく、パーツが常に全体からのフィードバックを受け得る、という関係が新しいのではないかと考えています。
吉村──さきほどヨコミゾさんがおっしゃったように、複雑な状態をいかにシンプルなルールで描けるかという課題の設定が重要な起点になっています。そのギャップがどれだけ深いかというところに「美しさ」の基準がシフトして行っているようにも見えます。でもこの操作をどんどん先鋭化していくと、結局、無に宇宙を見るような話で瓦解してしまうことも考えられる。多様なものには文字通り多様なルールを設定すればよいのではないかという考え方もありますが、そのあたりはいかがでしょう。
藤本──そのあたりは実は深刻な問題をはらんでいる気がします。つまり、シンプルに表現できると素直に嬉しいけれど、でもこの嬉しさ自体が、そろそろダメなのではないか。多様なものをシンプルに表現するとき、そのシンプルさに疑問は感じます。むしろ、多様性の表出の仕方に面白さがあれば、それはそれで面白いのかもしれない。
ヨコミゾ──シンプルであればあるほど、そのものが持っているテンションとポテンシャルが高まってくる気がします。吉村さんがおっしゃるとおり、多様性を許容する単純さ、その落差が大きいほどスリリングで面白いと思いますね。ちょっと麻薬的な誘惑さえ感じます。
藤本──感覚的には共感できます。西沢立衛さんとの対談(『新建築』二〇〇三年一月号)でヨーロッパの教会の話が出ました。ヨーロッパの教会は作るのに何百年もかかるから、途中で様式が変わるわけです。そうすると新しい様式で継ぎ足していき、一個の建物に多様な様式が混じっていて、面白いと思いました。そういった方向もあるのかもしれません。
ヨコミゾ──ちょっと藤本さんにお聞きしたいのですが、行き当たりばったりが面白いということですよね。いろいろな様式が混じっているけれど、全体として秩序や統一感が感じられ、それが面白いと感じていらっしゃるのだとしたら、最終的に藤本さんがめざすことは、統一感や秩序ってことになってしまうのでしょうか。

藤本壮介氏

藤本壮介氏

横溝真氏

横溝真氏

システムに内包される美学

藤本──秩序というもののなかには、いわゆる秩序というものでないものがあるのではないか、その可能性を感じたいということかもしれません。ここでいう秩序とは、バシッとしているといった単純なものではありません。それこそ混沌のなかの秩序のように、秩序立っていないもののなかにも秩序があるのかもしれない。
学生──藤本さんにお聞きしたいんですが、《安中環境アートフォーラム》の空間の中心は結構面白い場所だと思うんです。円とはある意味で逆で、ほとんどの壁が自分から垂直に出ていて、囲われている感じがしない。中心なんだけれど中心らしくない、どこにも寄り掛かるところがない場所になっている気がします。そういった場所をこれからどういった方向に持っていこうとしているのでしょうか。
藤本──正直なところ、真ん中の部分は意外と無防備でした。むしろ周囲のスペースから発想していったという感じなので、最終的に真ん中にできた空間は、ある意味予想外のものだった気がする。ただこのプランは、ある意味で古典的な放射状プランなわけですが、しかし中心が保留されている。中心のない放射状というか、何か新しい可能性がある気はしています。しかし先の見通しというのは常にないといって良いですね。先が全く見えない状態で、できれば設計していきたい。そのくらいに最前線に行きたいという感じです。
今村──長谷川逸子さんの袋井のプロジェクト《月見の里学遊館》は、一見してプログラムにしても形態にしても、今回の藤本さんの案に似たところがあります。ただ、《月見の里学遊館》では、形こそイレギュラーですが、割と計画学的と言っていいのでしょうか、真中に交通の場所としての廊下が通っており、それに取り付くように、ここがホール、ここがワークショップスペースと明快に決められている。藤本さんの案では、ここら辺がたまり場ではないかなどとしながら、時間や使い方によって非常に緩やかにそれらが動いていく。そういったことをされているのだと思います。
藤本──今年の初めに長谷川さんと西沢さんと対談する機会があって、「がらんどう」をテーマとしました。それまで僕はがらんどうというものをどう作るかということを考えたことがまったくなくて、対談としては非常に困りましたが、同時に刺激になった。その後、僕ならばがらんどうをどう作るかという意識はあったんです。また、去年の秋にベルリンでミース・ファン・デル・ローエのナショナルギャラリーを見たのですが、個人的には強烈な体験で、これはまさに空間だなと思ったんです。なんというんでしょう、空間というものの生の姿を見せられたというか。つまり近代の空間ということですが。空間というものをやらなくてはいけなくなったとき、そういうことに対しての意識もどこかにあったのかもしれません。
僕の場合は、まずシステムが独自に生まれ、そこから空間を作り始めるという方法ではない。まず空間とセットになったシステムがある。なんというか、空間の情景のようなものです。《安中》では向こうが見えなくなっている空間やプラン、単なるフォルムとしての面白さとセットになってシステムが生まれてくる。そうすると、それ自体にシステムの持っている美学のようなものが内包されていないと、面白いシステムとは言えないと思います。もし自由にやっていいと言われれば、おそらくそのシステムの持っている美学をできるかぎり表現できるような最終形になるのではないでしょうか。
今井──表現したい内容というのは、最終的には空間の様子であったりするわけですか。それを実現するためのシステムなのでしょうか。
藤本──両方が分かちがたく結び合わされている状態が面白いと思っています。ある空間を実現するためのシステム、というのではなく、あるシステムを実現するための空間でもない。ある新しい空間が、ある新しいシステムによって生まれてくる、そうしてそこに新しい美学がある。そういう状況が好きです。だから安中のプレゼンのとき、なぜ僕がプランをこの形にしたかというと、それはただひたすら形の格好よさを求めたんです(笑)。しかし、これはすごく重要なことだと思います。つまりそのシステムに価値があるかどうかは、美しいものを生み出すことができるのか、美しさを内包しているのかにかかっていると思うからです。そして願わくば、それが新しい美しさであってほしいと思っています。
 [二〇〇三年一〇月二九日]

>藤本壮介(フジモト・ソウスケ)

1971年生
京都大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師、昭和女子大学非常勤講師。建築家。

>ヨコミゾマコト(ヨコミゾマコト)

1962年生
aat+ヨコミゾマコト建築設計事務所主宰。東京藝術大学建築科准教授。建築家。

>今村創平(イマムラ・ソウヘイ)

1966年生
atelier imamu主宰、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院非常勤講師、芝浦工業大学非常勤講師、工学院大学非常勤講師、桑沢デザイン研究所非常勤講師。建築家。

>今井公太郎(イマイ・コウタロウ)

1967年生
キュービック・ステーション一級建築士事務所と協働。東京大学生産技術研究所准教授。建築家。

>日埜直彦(ヒノ・ナオヒコ)

1971年生
日埜建築設計事務所主宰。建築家。

>吉村靖孝(ヨシムラ・ヤスタカ)

1972年生
吉村靖孝建築設計事務所主宰。早稲田大学芸術学校非常勤講師、関東学院大学非常勤講師。建築家。

>『10+1』 No.33

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>セシル・バルモンド

1943年 -
構造家。ペンシルヴァニア大学教授、オブ・アラップ・アンド・パートナーズ特別研究員。

>伊東豊雄(イトウ・トヨオ)

1941年 -
建築家。伊東豊雄建築設計事務所代表。

>佐々木睦朗(ササキ・ムツロウ)

1946年 -
構造家。法政大学工学部建築学科教授。

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

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建築家。原広司+アトリエファイ建築研究所主宰。

>メタボリズム

「新陳代謝(metabolism)」を理念として1960年代に展開された建築運動...

>槇文彦(マキ・フミヒコ)

1928年 -
建築家。槇総合計画事務所代表取締役。

>西沢立衛(ニシザワ・リュウエ)

1966年 -
建築家。西沢立衛建築設計事務所主宰。SANAA共同主宰。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA准教授。

>ミース・ファン・デル・ローエ

1886年 - 1969年
建築家。