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狩人たちの物語──都市博物誌の座に向けて | 田中純
Stories of Hunters toward the Society of Urban Natural History | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.2-13

1 写真という仮説形成の場

写真家森山大道が新宿を彷徨いながら行なう撮影行為は、さながら狩りに似ていた★一。荒野のような、あるいはアジールとしての森に似た都市空間で、写真家は犬に変身する。そこがアジールであるとは、裏を返せば、この森林がヴァン・ジェネッブの言う「中立地帯」であって、誰もが通過し狩りをする権利をもつ原生林であるということだ。写真家はそこで猟犬のように、もしくは狼のように写真を撮る。
新宿という街の人狼伝説。ひとそれぞれ狼になって、女が男を、男が女を、あるいは男が男、女が女を狩るチマタ。ひとが狼になるとは、中世ヨーロッパにおいて、いかなる法の庇護のもとからも追われた「平和喪失者」になることだった。しかし、それは法に守られた自由ではない、法からの自由をも意味した。世俗の絆を断ち切って「無縁」となった森のアウトローたちは、法的秩序が停止され、あるいは顛倒される一二夜やカーニヴァルといった期間のあいだだけ、死者たちの霊を体現する存在となって人里を襲ったという★二。
生と死の狭間に身を置く人狼の両義性は、野生の狼そのものよりも、飼い慣らされた肉食獣である犬がもつ、動物と人間、野生と文明、自然と文化といった両義性にむしろ通じていると言えるかもしれない★三。「犬婿入り」をはじめとする異類婚姻譚は、犬がすでに半ば人間であることを物語るものでもあろうか。こうした境界的性格ゆえに、この獣は生と死の境界を守る地獄の番犬ケルベロスにもなりえた。
「写真の森」としての新宿で、人狼あるいは獣と人の異類婚の産物である犬に身を変えた写真家は、背筋が寒くなるような恐怖を感じる。森の暗闇に潜む他の獣たちの気配がざらざらした空気の感触となって身体の細胞をざわつかせる。──それは彼の感覚が獣のそれに変化しているからにほかなるまい。獲物を目ざとく狙いながら、みずからが獲物になる危険をいち早く察知しようとする肉食獣の、研ぎ澄まされた感覚のセンサー。
撮影行為が狩りに譬えられることは多い。とりわけスナップショットにはそうした性格が強い。連続写真撮影のために考案された写真銃があからさまに示しているように、撮影と射撃や狩猟との身体感覚の類似は一九世紀から自覚されてきた。戦場における映像の利用は、撮ることと撃つことが等価でありうることを明かしてもいる。
港千尋は、このような直接的関係の次元とは別に、スナップショットには近代以前の、アルカイックな身振りが残っているのではないかと言う。そこにはアルカイックな狩猟文化の片鱗が保存されている。写真家としての港自身が帰属していると実感することのできる文化とは、特定地域の伝統文化であるよりもむしろはるかに、こうした太古の文化なのである★四。
港がここで狩猟の「文化」と呼んでいるものは、カルロ・ギンズブルグが「推論的パラダイム」の系譜として描き出した知の一形態にほかならない。この主題に関するギンズブルグの著名な論文「徴候」は、ジョヴァンニ・モレッリの絵画鑑定法とフロイトの精神分析、そしてシャーロック・ホームズの推理に共通する、細部の徴候に着目した分析手法の背後に、一八七〇年代における、医学的症候学に基礎を置く推論的パラダイムの(再)浮上を認めている★五。ギンズブルグ自身が絨毯に譬えながら描き出す、縦横に繋がり合う推論的知の系譜は、細かな差異にはいささか無頓着なまま一括りにされており、例えば精神分析における症候概念の認識論的な特質を見落としているとか★六、指紋による個人同定法をはじめとする司法的同一性形成のための知を狩猟的知と同じパラダイムに収めることの是非★七といった問題点を孕んでいると言わなければならない。
にもかかわらず、ギンズブルグの論文がきわめて魅力的なのは、一八七〇年代のさまざまな「徴候」を手がかりとし、それ自体症候学的な推論によって、太古につながる知の系譜を力強くたぐり寄せているからであろう。その探究を導き、時として道に迷いそうになる読者を強く支えるのは、こんな狩人のイメージである。

人は何千年もの間、狩人だった。そしていくたびも獲物を追跡するうちに、泥に刻まれた足跡や、折れた枝、糞の散らばりぐあい、一房の体毛、からまりあった羽毛、かすかに残る臭いなどから、獲物の姿や動きを推測することを学んだ。人は絹糸のように微細な痕跡を嗅ぎつけ、記録し、解釈し、分類することを覚えた。人は密林のしげみや、罠でいっぱいの林間の空き地で、こうした複雑な精神作業を一瞬のうちに行なえるようになったのである★八。


そして、このような狩人の知、あるいは感覚に根ざした「低い直観」こそは、動物としての人間を他の動物たちに緊密に結びつけているものなのである★九。
狩人がもつ推論的知のパラダイムは、例えば主人公が些細な手がかりを解読して目にしたことのない動物の様子を正確に物語る民話のようなかたちで伝承され、こうした民話はやがて『セレンディッポ王の三人の王子の遍歴』(一五五七)と題された書物に収められた。ヨーロッパで大成功を収めたこの書物に基づき、一七五四年、ホーレス・ウォルポールが「思わぬ発見をする能力」を意味する新語として作ったのが「セレンディピティ」(serendipity)という言葉である★一〇。他方、ヴォルテールは『遍歴』の説話を改作し、自作『ザディグ』のなかで主人公に、見たことのない馬と犬の姿をわずかな痕跡から推測させている。のちの一九世紀末、歴史学、考古学、地質学、天文物理学、古生物学といった学問に共通する方法は、イギリスの生物学者トーマス・ハクスレイによって「ザディグの方法」と命名された。ハクスレイによれば、それは「過去に向けられた予言」にほかならない★一一。
この「予言」という言葉も示唆するように、狩人的パラダイムと古代メソポタミアにおける占いのパラダイムとは酷似している。狩人が獲物の糞、足跡、毛、羽毛を仔細に探るように、占いの場合には動物の内臓、水面の油、天体の配置に運命解読の手がかりを求める。狩人も占い師も痕跡を「読む」。ギンズブルグは、物語を語るという思考そのものが、痕跡の観察を通じて「あるものがそこを通った」という物語的な配列を生み出す、狩人の経験から生まれているのではないか、と推測している。部分から全体を見て、結果から原因を探る狩人の痕跡解読法はそもそも換喩的なものであり、叙事詩的な物語の文飾に通底しているからである★一二。
こうした点から見るとき、写真家を「鳥占い師や腸卜師の末裔」と呼び、都市という「犯行現場」を撮影した写真のなかに罪を発見して、誰がその犯人かを示す使命が写真家にはある、と書いたベンヤミンは、写真を徴候として解読する、一種の推論的知について語っていたことが明らかとなろう★一三。ベンヤミンによれば、その原理はホフマンスタールが言う「まったく書かれなかったものを読む」ことである★一四。写真家カール・ダウテンダイが婚約時代の妻と一緒に写っている写真を取り上げ、その映像の目立たない箇所に「火花のような偶然」が残した「焦げ穴」に似た予兆(具体的には妻の自殺の兆し)を認めようとするベンヤミンは、過去において将来到来するはずだったものを、写真を媒体とした回顧を通じて発見するために、バビロニアの占い師にも似た身振りで推論的知を働かせている★一五。この知を彼は、魔術的な照応や類推、類似の認識を行なう、太古的な「模倣の能力」と呼んだ。
写真はベンヤミンにおける歴史哲学にパラダイムを与えている★一六。そして、歴史をめぐる彼の思索は、廃墟としての歴史の死相(ヒポクラテスの顔)を読み取る観相術だったのであり、それもまた医学的症候学をモデルとする推論的知の系譜に連なっていたと言ってよい。
そして、模倣の能力において働く推論的な知は恐らく、ベンヤミンが農夫や船乗り、あるいは中世の職人たちの手仕事と深く結びついた、同様に手仕事的なわざであるとした、物語作者の能力に通じている。狩人とは、定住者(農夫)と旅人(船員)という二つのタイプの語り手よりもさらに古い語り部なのだ。ベンヤミンは「ちょうど陶器の皿に陶工の手の跡がついているように」★一七、物語には語り手固有の痕跡が残されていると言う。それもまた語られる言葉のなかに埋め込まれた徴候である。
ここで改めて考えてみると、写真家が「鳥占い師や腸卜師の末裔」であるというベンヤミンの指摘は奇妙である。写真を解読するだけならば、別段写真家でなくとも十分可能だからだ。では、写真家が太古の占い師の血筋を引くとはいったい何を意味するのか。港がスナップショットに狩猟的知の残存を見たのは、スナップショットの撮影に際しては、推論的パラダイム特有の「臭覚、直感、一瞥による判断などの不測の要素」が否応なく介入してくるから、いや、そうした不測の要素によってこそ、スナップショットが可能になるからだった。言語化されて公式化した規範はそこでは通用しない。「そのような写真家たちが雑踏や広場の群衆のなかに入ってゆくとき、レンズを通して飛び込んでくる、ふだんは意識されない些細な部分を通して、わたしたちは日常とは別の顔を発見することがある」★一八。ヒポクラテスの顔でもあるような、そんな「顔」は瞬間にしか存在しない。足跡や体毛といった狩人にとっての痕跡が物質的であるのに対して、写真家にとっての徴候はイメージである。撮影行為によらなければ、徴候としての痕跡そのものが客観的には存在しない。スナップショットにおける撮影とは、狩人にとっての痕跡発見の瞬間であると同時に、その痕跡そのものをなかば生み出す営みでもあるのだ。
そして、その痕跡を徴候として読むためには、もう一度、推論的知が必要とされる。写真家はこの二重の徴候解読をになうがゆえに、「鳥占い師や腸卜師の末裔」なのである。写真のなかに隠されたしるしを読みとろうとすることばかりが、この占い師の占術なのではない。むしろ、現実世界の時空につかの間現われる「イメージ」としての痕跡を、視覚のみならず、聴覚、臭覚、直感、皮膚感覚、あるいは記憶や感情まで一挙に働かせて捕捉し、瞬時の判断によって定着する高速の認識と技術によってこそ、写真家には狩人や占い師のアルカイックな身振りが残存していると言えるのである。
写真を映像としてだけでなく、ひとつの実践としてとらえるべきことは、例えばフランスの精神分析医セルジュ・ティスロンによっても唱えられている。彼は、写真は単なる物理的刻印ではなく、ひとつの行為の痕跡であり、それを実現した主体の意志をも証言するとして、写真に「世界の心的な消化=同化のための一つの補助手段」★一九を見ようとする。だが、写真撮影が映像による象徴化とその失敗による限りない反復などという精神分析的な図式に収まってしまうだけのものならば、それは何と貧しい物語だろうか。そのような図式化は、アルカイックな地層にまで達する、写真撮影の経験における沸騰状態の野生の思考を見ようとしない、あまりに演繹的で近代的な規範化に過ぎまい。
ここで取り上げてきた推論的パラダイムの「過去に向けられた予言」とは、C・S・パースが言う、遡行法アブダクシヨンないし逆行法リトロダクシヨンにほかならない。パースによれば、それは仮説形成のための唯一の方法である。演繹が規則の必然的な結果を導き出すだけであり、帰納は規則が有効であることを示すだけであるのに対して、アブダクションだけが、新しい仮説を生み出す。アブダクションによる仮説形成のみが、ある個別の事例についての推論を可能にし、事実に関する発見の論理になりうるのである。
アブダクションは絶対確実な推論などというものではなく、あくまで蓋然的な仮説形成の営みである。それはいわば「憶測」なのだが、この憶測によって仮説を形成し、それを検証することがなければ、知識は何ら前進しない。パースはそこに、無意識に行なわれる知覚レヴェルの判断が働くと考えていた。シービオク夫妻の言葉を借りれば、アブダクションとは「世界の諸相を結びつける無意識裡の知覚を基とした本能であり、さらに言い換えれば意識下におけるメッセージの相互伝達」である★二〇。それは帰納や演繹とは無縁な一種の情動と結びつく。パースはこう書いている。

仮説構築にあっては一つの主体に与えられた記述の複合体が単一の概念によって置き換えられる。思考という行為には特殊な情動が結びついているが、それは各々の記述が主体にとって内在的な必然性をもっているという感覚である。仮説構築という推論においては、こうした複合的な感覚はより緊密度の高い一元的感覚にとって代わられ、思考は仮説上の結論へと至る。われわれの神経組織が複雑な過程をえて興奮状態にある時、その構成要素の間にはある関係づけがなされ、その結果として私が情動と呼ぶ一元的な調和をもった精神の動きが生まれるのである。かくてオーケストラのさまざまな楽器によって生み出された音が耳をうつ時、そこに生じるのは各々の音よりも高次の特異な音楽的情動なのである。この情動は本質的には仮説構築におけるものと同一のものであり、仮説構築にはつねにこうした情動が含まれているのである。したがって仮説構築は思考の情感的な要素を、帰納法は慣習的な要素を作り出すものといえる★二一。


蓋然的な推論の中核をなすアブダクションの過程に働き、そこから生じるのは、無意識的な知覚や興奮をともなった情動なのである。シービオク夫妻は、その感覚の作用と本能的・非言語的な力に対応するものを、ワトソンが描写する猟犬のようなシャーロック・ホームズの姿に見ている。推理の手がかりという「臭い」をかぎつけ興奮したホームズは、黒みを帯びて紅潮した顔色で、鼻腔は獲物を追う動物そのままに拡がり、声をかけても唸り声のような気短かな声が返ってくるばかりなのだ★二二。
徴候を解読する力、過去へと向けて遡行的な予言を行なう仮説形成の能力には、猟犬への変身を引き起こすような情動的興奮がある。スナップショットを撮影する写真家の身体に甦った太古の身振りを満たしているのは、ちょうどそんな思考の熱狂状態であるに違いない。撮影された写真にはそうした身振りの痕跡もまた残される。それらの写真とは、だから、アルカイックな狩人の身振りを「読む」ための痕跡でもあるのだ。
もしそうだとすれば、写真とは推論的知が己自身の身振りを解読することによって反省的に二重化され、そのことによる情動的高揚状態のなかで「火花のような偶然」が残した「焦げ穴」を探索することのできる、特権的な行為の場なのではないか。だからこそ、写真撮影という実践は、外界をたかだか個人の心的エコノミーの内部へと「消化=同化」するなどといった自閉的行為にとどまるのではなく、さまざまな感覚と無意識、情動が介在する大胆な仮説形成能力によって、世界の思わぬ相貌を発見する手段になりうるはずなのである。そこで必要とされるのは、古代の鳥占い師や腸卜師ばかりではなく、新石器時代の狩人の末裔となって行なわれるべき、狩りの技術であるに違いない。

2 魂鎮めとしての超芸術

足跡を解読して物語を語る狩人の知の実態は、例えばシートンの自然観察のなかに克明に記録されている。『動物の足跡とハンターの目印』(邦題『シートンの自然観察』)と題された書物には、イヌ、ネコ、ネズミに始まり、ウサギやシカ、キツネ、コヨーテ、オオカミ、アライグマ、ミンク、バイソン、クマ、そしてヒトにいたる、おびただしい獣や鳥たちの足跡がフリーハンドのスケッチで収められている。シートンは大地に残されたこうした足跡に、「エジプトの象形文字や、洞窟壁画のように古めかしい書き方」で記された、しかし、人類の記録よりもはるかに古い「文字」の性格を認めている★二三。つまり、それは「まったく書かれたことのないもの」としての、人類誕生に先立つ「文字」なのである。狩人たちが獲物を捕るために開発したこの文字解読の技術を、シートンのようなナチュラリストは野生生物の生活を知るための技術として活用する。その技術のおかげで、足跡は彼らに、森の生き物たちの物語を事細かに語り始める。その物語とは例えば、ウサギを追うミンクの物語であったり、スカンクのガスに撃退されたボブキャットの物語、あるいは一八八五年二月二五日に記録された、次のような「森の悲劇」である。

Aのところで、およそ一三センチ×二三センチの丸い場所を見つけた。そこは雪がすこし降った時に、ワタオウサギがうずくまっていたところだった。Bはウサギがとびだしたところで、ウサギはそこで止まって、あたりを見まわした。前にある小さな足跡は、前足でつけられたもので、長い二つの跡は後足のものだ。その後にある小さなへこみは尾のあとで、ウサギはそこで尻をついて座っていたわけだ。
つぎになにかがウサギに危機を覚えさせ、ウサギがフルスピードでCとDへむかって突っ走ったことが、はっきりわかる。その足跡には、はっきりした変化が見てとれる。つまり前足によってつけられた足跡が、後足でつけられた大きな足跡より、うしろについている。これはウサギがひとはねごとに大きくバウンドして、後足を前足よりずっと前につけたからだ★二四。


さらに、D、E、Fの地点でウサギはすごい跳躍と身をかわす跳ね方を何度も繰り返している。それは敵から逃れようとしたしるしのように見える。Gにはいくつか血の跡が見つかる。そこから二、三メートル先のHには、もっと大きな血痕が認められる。さらに二〇メートル先のIの地点で、シートンは、ウサギの両側に幅の広い翼で雪面を叩いた跡を見出す。
この痕跡によって、ウサギはワシかタカかフクロウに追われていたことが判明する。そして、その二、三メートル先には、体の一部を食われたウサギの残骸があった。ワシならば獲物を丸ごと運び去るから、敵はワシではない。刺客はタカかフクロウである。そこでどちらかを決める手がかりを探すと、足指が二つずつ前後に付いているフクロウ独特の足跡が見つかる。では、何というフクロウなのか。証拠を探したシートンは、近くの若木の上に小さな羽根(L)が引っかかっているのに気づく。その羽根には幅の広い三本の横縞があった。これによって、ワタオウサギを襲ったのはヨコジマフクロウと推測できる。

わたしがいそがしく記録をとっていると、谷筋を飛んで近づいてきた鳥があった。なんとそれは、まぎれもないヨコジマフクロウで、どうやら残しておいた獲物を片づけるために、現場へもどってきたようだった。そのフクロウは、わたしの頭の上三メートルのところにとまったが、そこはウサギの残骸のま上だった。(…中略…)
この場合の最後の証拠は純粋に副次的なものだった。だがわたしは、つぎのような結論を導くことが可能だと思う。つまり、雪の上に残された足跡という証拠は完全なもので、説得力にとむということだ★二五。


「完全な」証拠という語り手の確信に注目しよう。シートンはこの書物のなかで、「動物たちの姿をまったく目にせずとも、足跡を解読して語った自分の物語は紛れもなく真実である」といった発言を繰り返している。そこには狩人の知を背景として叙事的物語を語る語り手の、権威のようなものがうかがえる。それは恐らく、パースが「各々の音よりも高次の特異な音楽的情動」に譬えた、仮説構築がもたらす思考の情感に根ざしている。
この書物でシートンは、動物たちが一種の「名刺」のようにして、同類とのコミュニケーションの道具にする糞の特徴を取り上げたのち、ネィティヴ・アメリカンが使用する狼煙や、木の皮を剥がしたり、石を積み上げたりして作られた各種の目印について言及している。それらはいわば、樹皮や石、小枝、草の束などを用いて書かれた、非言語的な文字である。そして、それらの根本原理は都会生活のなかでも決して失われてはおらず、交通標識をはじめとして、姿を変えて生きている、とシートンは言う。このナチュラリストはそこで、自然と人工をつなぐ痕跡の記号論を語っていたのだととらえてよいだろう。
道案内標識をはじめとして、社会的・文化的背景と強く結びついた都市のナヴィゲーション・システムは、その背景を共有しない場合、理解困難であることも少なくない。居住者にとっては自明な目印が、部外者にとっては「読みえない文字」となる。そして逆に、一見したところ自明なものばかりで埋め尽くされた都市の記号空間は、異質な目印を書き込もうとする活動を生む。例えば、「タグ」と呼ばれる一種の署名を建物の壁面などにスプレーで描きつける現代のグラフィティ・ライターたちの行為には、儀礼的なコミュニケーションの側面があると言われる★二六。「トライブ」などとも称される集団のメンバーは、タグという痕跡によって異なるライターの存在を知り、挨拶代わりに己の痕跡をその近くに描きつけたり、わざと上塗りすることによって攻撃の意志を示したりする。そこに生まれるのは「俺のあれがここにあって、あいつのあれがあそこにあってと、すぐ目に浮かぶ」と語られるような心理地図であり、「ここの裏にはあいつのがあるなと思って見たら、たいがいある」といったように、タグの在処を探り当てることのできる、独特な推論的知である★二七。直感されるように、そこで強く働いているのは恐らく、都市環境に対する社会批判的な意志と言うよりも、マーキングによって縄張りを確認しあいながらコミュニケーションを行なう動物的欲求であって、それは同時にヴァンダリズム(公共物破壊)にともない、みずからが「狩られる」者になるスリルと一体なのである。

1──E・T・シートン『シートンの自然観察』より、 「森の悲劇」

1──E・T・シートン『シートンの自然観察』より、
「森の悲劇」

2──E・T・シートン『シートンの自然観察』より、 「木の皮をはがして示す目印とインディアンが使う目印」

2──E・T・シートン『シートンの自然観察』より、
「木の皮をはがして示す目印とインディアンが使う目印」

シートンによる痕跡の記号論が都市論と接点をもつことは、一九八〇年代にすでに荒俣宏が指摘している。荒俣はシートンの自然観察記録のなかに、博物学と路上観察学とを架橋する、収集行為の楽しみ方を見ていた。荒俣にとってシートンが代表しているのは、「自然の中にも、動物たちの生活する巷があり、都市にだって人間という生きものが住みついていると考える両義的視点、ないしは幸福な逸脱」だった★二八。
路上観察や超芸術トマソンにおいて、都市は一種の自然だった。そこで「物件」と呼ばれていたものは、人間の意図によらずに残されてしまった、作者をもたない痕跡であるかのようにして、博物誌の系譜に連なる収集と分類の対象になっていた。荒俣が指摘したのは、そこに生まれる最大の楽しみとは、獣の足跡から都市の交通標識にまでいたる記号を収集し解読して語ったシートンのように、厳密な区別を最初から設けることなく、多様なしるしを発見し集めて、それらをめぐる推論を物語る営みにあるという点だった。
その実態を超芸術トマソンを例として詳しく見ておこう。トマソンは雑誌『写真時代』における赤瀬川原平の連載を舞台として展開された。赤瀬川は「四谷の純粋階段」をはじめとする実例によって、徹底した無用性を特徴とする超芸術の概念を提示したのち、雑誌という媒体を利用して、読者からの「トマソン物件」の報告を募った。報告書には、物件の写真、発見場所、発見日時、発見者、そして、物件の置かれた状況の言葉による記述が求められた。誌面では赤瀬川がその報告に基づき、それぞれの物件がトマソンであるかどうかを最終的に判定し、ときには「〜タイプ」などの命名と分類がなされた。
報告にあたっては、物件の由来を厳密に調査することが要求されたわけではない。むしろ、そのような現実の経緯を離れて、ある種の美意識、というよりも、無意味であることを積極的に評価する屈折した趣味のもとに、建築物の無用化した部分的痕跡が愛でられ、それらをめぐる物語が紡がれたのである。判定者である赤瀬川は、物件写真から出発して妄想じみた物語を語ることで、都市の奇妙な痕跡をつなぎ合わせたところに浮かび上がる、うらぶれたはかないモノたちの神話を、報告者たちとともに作り上げていたと言えるかもしれない。
ここで注目したいのは、それが判定者を中心とした競技の性格を帯びていたという点である。それぞれの報告はまず、物件がトマソンであるかないかをめぐって選別され、さらにその写真の「美しさ」や報告文の文体が論評された。投稿者と選者という関係が結社性をともない、類似した活動と一体化して、路上観察学会と称するパロディ的組織の結成にいたったことも周知の通りである。それが無目的な趣味を共有する者たちの結社である以上、主唱者たちの自意識としてはともかく、そこに自閉的なセクト性があったことは否定できない。それゆえに、この活動が孕んでいた、集団的な競技としての写真による都市論の方法論的可能性は、明確に自覚されることなく終わったように見える。さらに、今和次郎らの考現学との関係を除いては、荒俣が行なったように路上観察を精神史的な系譜のなかに位置づける歴史的展望がほとんどなされなかったこともまた、その背後で働いている知的パラダイムの検証を等閑にする結果となった。
後者については、超芸術や路上観察が、ギンズブルグによって示された狩人の推論的知の系譜に属していることは言うまでもない。なるほど、妄想じみた物語化へと逸脱する傾向を抱えていたにせよ、路上観察や超芸術が出発点としたのは、何よりもまず路上の物件という痕跡であり、その発見術だったからだ。超芸術の中心メンバーだった田中ちひろは、はじめのうち、なかなか物件を見つけ出せずに悩んでいた頃、超芸術の集団探査に参加し、あるヴェテランの身振りを目にしたときに訪れた転機についてこう語っている。

彼は、食後の散歩くらいのゆったりしたスピードで我々の先頭を歩きながら、街から漂ってくる臭いでもかぎわけるかのように、「こっちへ行ってみましょう」とか「あっちがクサイですね」とか言いながら、「あっ、こっちにもありますね」「これも疑わしいですね」という具合に、街中に埋もれている超芸術の原石を、我々の前へ次々に掘り出してくれたのです。
こうしたS君の仕草を八ミリのファインダーの中で見ていた私は、やがて自分の前に立ちこめていたモヤが、いきなり晴れるような不思議な気分を味わい、突然にして超芸術発見のコツのようなものが、パアーッとわかってしまったのであります★二九。


このS君が示した能力こそ、セレンディピティであろう。超芸術の概念のもとに、都市において「まったく書かれなかったものを読む」営みが実践されていたのである。
一方、集団的な競技としての写真を用いた都市論については、後藤範章が集団的写真観察法として独自に展開している。それを受けた関根康正による「東京」の人類学的フィールドワークは、「仮説発想」を主軸としている点で、まさしくアブダクションとしての、情動と深く結びついた発見的な仮説形成の可能性を、写真という媒体を用いた都市調査に見ている★三〇。
そのとき、とくに後藤は、写真の集団的な観察と討議から生まれる共同主観性を重視することによって、社会学の実証的手法としての根拠をかたちづくろうとしている。そこでは、超芸術における赤瀬川のような判定者の存在に代わるものとして、他の社会学的調査法を用いた検証とデータの均質化が、共同主観性として形成されるべき、写真をめぐる一定の解釈を可能にしているように見える。
しかし、社会学的な解釈という枠組みのないところでは、集団的写真観察法は容易には共同主観性には達しえないだろう。より自由度を増した関根の方法が仮説発想的なものにならざるをえない所以でもある。しかし、それは方法としての欠陥や弱さであると言うよりも、むしろ、そもそもここで追求されている技術そのものが、異なる知的パラダイムに拠っていることの帰結である。セレンディピティを均質で反復可能なデータ収集法に還元することはできない。
仮説形成的なフィールドワークとして超芸術を見るならば、そこにはいわばゲームのルールと言うべきものを認めることができる。「四谷の純粋階段」をはじめとする事例の提示によって開始されたゲームは、いくつかのタイプの変種や異なるタイプの物件の発見を連鎖的に生んでゆく。厳密に規定された特徴群に基づく悉皆調査ではないからこそ、新種発見の可能性がつねに開かれている。赤瀬川は書いている。

トマソンということでいちおうその論脈をたどっていきながら、その先のところでまた何かしら妙なものがあらわれてくる。大昔の地球の原始の海から有機物が生れてきたようなことが、いまここでもおこなわれているのである。トマソンの物件の一つ一つは滅びていきながらも、そこに何かしら、いまはまだ見えない透明な有機体のような思考が生れているのだ★三一。


このゲームには連歌にも似た構造があるのではないだろうか。周知のように、連歌は発句に続けて、複数の参加者が句を継いでゆき、合作する詩形である。発句と脇句から生み出される情景は、第三の句、第四の句で次の情景に移り、さらに続く句によって別の情景へと転じてゆく。和歌であれば、本歌取りによって他の歌との関係づけをするにしても、個人の枠内で一回限りのこととして終わってしまうが、連歌はそれを集団的なものとすることで、自分では思いもかけなかった世界が他人によって開かれるという経験を生む。
その際に、規則のチェックを行なうのが句を書き留める執筆しゆひつであり、最終的に採否を決めるのが宗匠である。連歌の座をどのように動かしてゆくかは宗匠の捌き方にかかっている。中世に枝垂れ桜の下で行なわれた「花のもと連歌」では、採用された句に懸賞がかけられ、さまざまな階層の参加者が投句を競い合った。それは言葉が言葉を紡ぎ出してゆく、「言葉のまわし飲み」(松岡心平)★三二がもたらす知的興奮の場だった。
超芸術に連歌の座のような即興的場面転換による知的高揚があったわけではない。しかし、各地から寄せられた報告が赤瀬川の手によって巧みにアレンジされ、いくつもの系列をなしながら連鎖して多様な物語につづり合わされてゆくとき、あるいは「トマソニアン」たちの集団的な路上観察が遊行めいた遍歴となって街の隠れた相貌を明らかにしてゆくとき、そこには奇妙なオブジェたちのイメージとそれにまつわる物語の「まわし飲み」によって酩酊したかのような、夢見る集団の姿がありはしなかっただろうか。
超芸術の物件が素早く撤去されて都市から消え去ってしまうはかなさを、赤瀬川たちは感傷を交えることなく淡々と自覚していた。四方田犬彦は、吉田兼好と赤瀬川は、過剰ないし欠落という逸脱を抱えた事物にユーモアの契機を求め、時間が事物をどのように変容させるかという点に驚きの眼を失わなかった点で多くを共有している、と指摘している★三三。そこで四方田が述べるように、確かに赤瀬川には、兼好に通じる無常の哲学はなかったかもしれない。
しかし、たとえ無常感や感傷からはほど遠かったとしても、超芸術を特徴づけていたものが、四方田が強調する、事物を純粋状態のオブジェとして玩弄するユーモラスで醒めたまなざしだけであったとすることはできない。そこには根深い終末感と暗い死の気配もまた漂っていたのである。赤瀬川自身がトマソンを「都市の幽霊」と呼び★三四、「トマソンというのはだいたい恐ろしいものです」と書いていた。

だいたいが世の中のコンクリートに埋め込まれたものですから、それはいつも死体発掘のようなことになります。時にゾッとするのは、そこに霊的なものがあるからでしょう。建物の霊、というか、空間の霊、といったものです。空間も生きている、というか、人間によって生かされている空間がある。人間の息のかかった空間といいましょうか。だから生きていた空間の死ということも起り、空間の霊というものもその場所で発生を待ち構えている。いずれにしろそれを感知するのは人間ですから。人間にとっては恐しく感じる可能性大のものであります。その恐しさが一挙に出るのではなく、小さく分散して表われると、時に可憐な表情を見せたりするのです。
香水の匂いだってもとはウンコのようなものだといいます。それをごくごく薄く伸ばしてほんの少量を取り出すと、それはほのかに上品な香りとなるのだそうです。
だからトマソンのもとにぎっしりと詰まっているのは死というものですね。(…中略…)
私たちが超芸術トマソンに興味をもつのも、この死というものへの興味なのでしょう。死の恐怖が分散して薄まりながら、恐怖が興味に転化している★三五。

 
花の下連歌が、冥府への入り口と考えられた枝垂れ桜の下で、言葉の熱気によって死者怨霊を鎮魂しようとする営みであったように、超芸術の実践者たちもまた、都市の屍体の存在を感じながら、トマソンという幽霊の気配を写真に記録していたのかもしれない。枝垂れ桜が「冥界のシグナルを現世にことぶれる樹」であったとすれば★三六、トマソン物件もまた、そんなシグナルを発するアンテナではなかったか。桜の樹は土中に埋められた屍から出た液を吸い上げて花を見事に咲かせるのだという梶井基次郎の、中世における花鎮めの観念に通じる幻視に倣って言えば、超芸術物件の美しさとして愛でられていたものも、そのような腐爛した屍体に根ざした妖しい美であったのかもしれぬ。超芸術のユーモラスでありながらどこか暗い熱狂は、トマソニアンたちがそんな都市の死臭に酔わされていたからだろうか。そして確かに、魂鎮めには、しかつめらしさよりも、カーニヴァルのような祝祭的笑いと熱狂こそがふさわしい。
関根が集団的写真観察法を東京の人類学に転用したとき、「異界」をテーマとしたことには、それゆえ十分な理由があったのだ。この方法が深く情動を揺り動かす仮説形成的なものであるためには、都市空間の死臭こそが間近に必要とされるのだろう。狩人の知によって探索されるべきは、埋められて隠された都市の屍体たちなのである。だからこそ、あらゆる街路は犯行現場なのだ。その死臭を感知する臭覚を備えた猟犬の群れとして、遊行の集団が街を徘徊する。写真はそのとき、鳥占い師や腸卜師の末裔にとっての占いの媒体として、「まったく書かれなかったものを読む」ことで語られる、都市幽霊譚のシナリオとなるだろう。ベンヤミンは、物語られたものの根源には、死にゆく者だけがもつ権威があると書いていた。物語作者は死から権威を借り受ける。そして、その物語が指し示すことになる源とは、自然史(Naturgeschichte)、すなわち博物誌の世界なのである★三七。
花の下連歌で一般大衆は、神の依り代であり異形のシンボルでもある笠を着て、匿名で投句したという。身元を不明にする笠着かさぎはのちの笠着連歌に引き継がれた。それはひとびとを無縁化し、花の下をアジールにするための象徴的行為だった★三八。蓑笠とは荒野を彷徨った「根の国」の支配者スサノオの装束であり、ゲルマン神話の最高神にして死者の神ヴォーダン(オーディン)のそれでもある。すなわち、笠着とは死者に近づく作法だったのである。
ひとが誰であるかはもう問われず、誰でもありうる存在になる変身の場を、港は「群衆」と呼んだ★三九。しかし、ここではもはや、観察され撮影される生身の群衆ばかりが問題なのではない。超芸術においてあらゆる意図性の排除というかたちで追求された作者の不在は、トマソンの物件をいわば「群衆」の産物としか呼びようのないものにしていた。その物語の根源に潜んでいた者とはそうした「見えない群衆」なのである。この不可視の群衆が残したかすかな痕跡をたどる狩人は、隠れ蓑に似た変身のあらたな作法を身につけねばならないのかもしれない。「都市の幽霊」たちの博物誌は、そんな無縁の者同士がかたちづくる多声的で開かれた結社的な「座」を、今ひとたび必要としている。

3──浅草地下道にある階段の窒息死体 (段上の空間部にコンクリートが充填されたもの。 かつてのステップ上にかなりの靴の跡が見られた) 引用出典=赤瀬川原平『超芸術トマソン』

3──浅草地下道にある階段の窒息死体
(段上の空間部にコンクリートが充填されたもの。
かつてのステップ上にかなりの靴の跡が見られた)
引用出典=赤瀬川原平『超芸術トマソン』


★一──拙論「犬の街──境界の都市人類学のために」(『10+1』No.42、INAX出版、二〇〇六、二─一二頁)参照。
★二──拙論「狼たちの時」(『Intercommunication』No.57、NTT出版、二〇〇六)参照。
★三──Bruce Lincoln, Death, War, and Sacrifice, Chicago & London: The University of Chicago Press, 1991, p.101. 参照。
★四──港千尋『予兆としての写真──映像原論』(岩波書店、二〇〇〇)八─一二頁参照。
★五──カルロ・ギンズブルグ「徴候」(『神話・寓意・徴候』竹山博英訳、せりか書房、一九八八、一七七─二二六頁)参照。
★六──次の論文におけるジョルジュ・ディディ=ユベルマンの批判を参照。ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「形式的特異性の人類学のために──ヴァールブルクの発想に関する考察」(三宅真紀+赤間啓之訳、展覧会カタログ『記憶された身体──アビ・ヴァールブルクのイメージの宝庫』国立西洋美術館、一九九九、二三七─二四五頁)。
★七──渡辺公三は、アルフォンス・ベルティヨンによる個体識別法に関する論考の註で、「徴候─推論の知」とベルティヨン的な「判別─同定の知」は峻別すべきだとして、後者を前者からの延長と見なすギンズブルグを批判している。渡辺公三『司法的同一性の誕生──市民社会における個体識別と登録』(言叢社、二〇〇三)四一一頁参照。
★八──ギンズブルグ、前掲論文、一八九頁。
★九──同、二二五─二二六頁参照。
★一〇──ただし、手紙で簡単に書かれたのみのウォルポールの記述は、確かに『遍歴』中のラクダ発見のエピソードに触れてはいるものの、全体としては意図が曖昧で、必ずしもセレンディピティを推論的知と明確に結びつけているわけではない。これが現在にまでいたるこの言葉の多義性を生むもとにもなった。この点については次を参照。Robert K. Merton and Elinor Barber, The Travels and Adventures of Serendipity, Princeton and Oxford: Princeton University Press, 2004.
★一一──ギンズブルグ、前掲論文、二一三頁参照。
★一二──同、一九〇頁参照。
★一三──ヴァルター・ベンヤミン『図説  写真小史』(久保哲司編訳、ちくま学芸文庫、一九九八)五四─五五頁参照。
★一四──ヴァルター・ベンヤミン「模倣の能力について」(『ベンヤミン・コレクション2  エッセイの思想』浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九六、八一頁)。
★一五──ベンヤミン『図説  写真小史』一六─一七頁参照。
★一六──この点については、拙論「歴史の現像──ベンヤミンにおける写真のメタモルフォーゼ」(近藤耕人+管啓次郎編『写真との対話  How to Talk to Photography』国書刊行会、二〇〇五、六三─七五頁)参照。
★一七──ヴァルター・ベンヤミン「物語作者──ニコライ・レスコフの作品についての考察」(『ベンヤミン・コレクション2エッセイの思想』三〇一頁)。
★一八──港、前掲書、二三頁。
★一九──セルジュ・ティスロン『明るい部屋の謎──写真と無意識』(青山勝訳、人文書院、二〇〇一)一七四頁。
★二〇──トマス・A・シービオク+ジーン・ユミカ=シービオク「『僕の方法は知っての通り』──パース対ホームズ」(ウンベルト・エーコ+トマス・A・シービオク編『三人の記号──デュパン、ホームズ、パース』小池滋監訳、東京図書、一九九〇、二五頁)。
★二一──Charles Sanders Peirce, Collected Papers of Charles Sanders Peirce. Vol.2: Elements of Logic. Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1932, p.387, 2.643. 訳文はトマス・A+ジーン・ユミカ=シービオク、前掲論文、二五─二六頁による。
★二二──同、二六─二七頁。
★二三──E・T・シートン『シートンの自然観察』(藤原英司訳、どうぶつ社、一九八〇)一〇頁。
★二四──同、九四、九六頁。
★二五──同、九七、一〇〇頁。
★二六──南後由和「動物化するグラフィティ/タトゥー──都市/身体の表面への偏執」(『10+1』No.40、一四八頁)参照。
★二七──あるグラフィティ・ライターのインタヴューより。同、一四七頁参照。
★二八──荒俣宏「博物学はお父さん──路上観察学への進化史的論述」(赤瀬川原平+藤森照信+南伸坊編『路上観察学入門』筑摩書房、一九八六、二八一頁)。
★二九──田中ちひろ「トマソニアンは街のコメットハンター」(同、二二四頁)。
★三〇──拙論「犬の街」四─五頁参照。
★三一──赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、一九八七)三〇六頁。
★三二──松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫、二〇〇四)七〇頁。
★三三──四方田犬彦『摩滅の賦』(筑摩書房、二〇〇三)一五三頁参照。
★三四──赤瀬川『超芸術トマソン』一〇頁。
★三五──同、二九二、二九四頁。
★三六──松岡、前掲書、五四頁。
★三七──ベンヤミン「物語作者」三〇五─三〇六頁参照。
★三八──松岡、前掲書、一六頁および六〇─六四頁参照。
★三九──港、前掲書、二四頁参照。

*この原稿は加筆訂正を施し、『都市の詩学──場所の記憶と徴候』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>港千尋(ミナト・チヒロ)

1960年 -
評論家、写真家。多摩美術大学美術学部教授。

>国立西洋美術館

東京都台東区 美術館 1959年

>ヴァルター・ベンヤミン

1892年 - 1940年
ドイツの文芸評論家。思想家。

>管啓次郎(スガ・ケイジロウ)

1958年 -
比較詩学。

>南後由和(ナンゴ・ヨシカズ)

1979年 -
東京大学大学院情報学環助教/社会学、都市・建築論。東京大学大学院。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。