1 都市の誕生と兄弟殺し
古代ローマにおける「まち」の理念をめぐって、ジョゼフ・リクワートは、ローマという都市の創建にまつわる物語に言及している。それはプルタルコスの『ロムルス伝』にある、双子の兄弟レムスの死に関するものである。
ロムルスがそこに市壁の基礎をすえることを予定していた溝を掘っていたときに、(レムスは)その仕事のある部分を嘲ったり、他の部分の進行を妨げたりした。ついにレムスが侮辱してそれを跳び越えたとき、ある人によればロムルス自身が、またある人によればロムルスの仲間の一人がレムスを打った。レムスは斃れた、しかし……★一。
跳び越えられるようなちっぽけな堀と壁、理由のない殺害、ためらうような説明といった奇妙な記述の背後にリクワートは、都市の誕生に関わる忘れ去られた儀礼の名残りを読み取っている。これと同型の物語はギリシア神話にも見つかる。そのひとつでは、カリュドーンの葡萄酒神オイネウスが、自分の葡萄畑の周囲に掘った溝を息子トクセウスが跳び越えたために、この息子を殺している。また、別の物語では、英雄ポイマンデルが、自分の城砦の新しい城壁を跳び越えた皮肉屋の建築家ポリュクリトスに石を投げたが、失敗してその建築家の息子レウキッポスに当たり、これを殺してしまう。
別の著作でプルタルコスは、ロムルスがレムスを殺した理由は、神聖にして侵すべからざるべき場所をレムスが跳び越えたからである、と述べている。しかし、それがなぜ小さな堀と壁でしかなかったのかは依然としてわからない。この点を不明にしたまま、プルタルコスは、都市創建の儀礼について語り始める。都市の創建に着手する人々は、その領域全体を、まず犂を使ってぐるりと取り囲む。こうしてまわりを犂き返された土地は、神聖にして侵すべからざるものとなる。
創建者は、犂に青銅の刃をつけて、牡牛と牝牛をそれに繋ぎ、自分で逐いながら境界に沿って深い筋すなわち犂溝をつくった。一方、そのうしろからついて来る人びとみなの仕事は、犂で起こされたものがすべて都市の側つまり境界の内側に掻き入れられて、いかなる土くれも外側にこぼれることのないように見とどけることであった★二。
都市はこのような儀礼によって創設されることを通じ、物理的存在を越えた意味を獲得した。だからこそ、古代の慣習では、戦争の勝利者は都市を焼いたり、破壊することだけでは満足せず、都市を儀礼によってもまた解体しなければならなかった。「まちが占領されて破壊されたのち、その敷地は犂かれねばならなかった、というよりむしろ、『犂きもどされ』ねばならなかった。創建者の犂が都市の敷地の周囲を反時計まわりに引かれたのに対して、おそらくこの犂はその廃墟を時計まわりに引かれたであろう」★三。
犂くことは、「大地と天空とをひとつのものにする聖なる婚儀」★四にほかならなかった。大地は犂かれることによって豊穣になる。都市の創建儀礼は、大地を耕すという営みによって、豊穣多産を約束する、農耕儀礼のヴァリエーションなのである。大地と天空との聖婚の場であることによって「壁」は聖なる対象となる。この場合の「壁」とは、都市共同体を囲む物理的な防御壁ではなく、都市創建儀礼において形成された、犂によってかき上げられた畝を指す。神聖なのはこの儀礼によって大地に刻まれた溝と畝であり、これらの境界を汚す者は断罪された。レムスが跳び越えたのは、このような儀礼上の壁と溝であったに違いない。
ロムルスは耕された大地の痕跡という、「農耕」の記号としての都市の境界を侵犯した双子の兄弟レムスを殺した。ローマという都市の誕生にはこの兄弟殺しが伴っている。周知のように、旧約聖書創世記において、「羊を飼う者」である弟アベルを殺す「土を耕す者」カインは、エデンの東に追放され、最初の都市創建者となる。「カインは町を建てていたが、その町を息子の名前にちなんでエノクと名付けた」(創世記4─17)。カインによるアベルの殺害は、先行する牧畜社会が農耕社会によって駆逐されてゆく過程を象徴的に表現したものと解釈されている。同じ兄弟殺しをともなったローマもまた、農耕定住社会の基礎をなす「耕す」という行為を通じて都市の境界を確定し、創建された。そして、都市再生あるいは都市破壊の儀礼は、この創建の身ぶりを模倣しつつ反復していたのだ。
ロムルスが定めた最初のローマの境界線はパラティウムの丘の麓をめぐっていたと、古代ローマでは信じられていたらしい。リクワートは、大勢の人々で取り巻かれたパラティウムの丘のまわりを、裸の司祭たち「ルペルキ」が走り回って祓い浄める「ルペルカリア祭」に、都市創建神話との深い結びつきを見いだしている。この祭りは毎年二月一五日におこなわれた。ルペルキと呼ばれた二つの若者の集団(クインクティアレスとファビアーニ)が、丘の周囲を競走しながら、山羊皮の細長い帯で、妊娠するようにと、既婚婦人を打ったという。ルペルカリア祭が記念しているのは、ロムルスとレムスの兄弟が、それぞれ若者の集団を率いておこなったとされる競走である。この競走ではレムスの集団が勝利し、犠牲の山羊の肉を手に入れる。それに対してロムルスの集団は残された骨しか得られない。国家の二元的な支配体制が「肉」と「骨」の対立によって示されるとともに、食物を得られなかった者のほうが未来の王、ローマの創建者とされるのである★五。
カルロ・ギンズブルグが指摘するように、こうした二元論に基づく構造は古代ローマに限ったものではなく、非常に異なった文化的文脈のなかでも観察されうる。このような類質同像の観点から注目すべきは、ルペルカリア祭が古代ローマの祭暦のうえで死者に捧げられた日々のちょうど半ばにおこなわれていた点である。ローマ暦によれば、この期間は、死者がうろつき回り、死者のために整えた食物を生者が食べる時期にあたっていた。ここからギンズブルグは、ルペルキ・クインクティアレスとルペルキ・ファビアーニという、競い合う二つの通過儀礼集団間の相似性に、バルト海沿岸の狼憑きたちと、彼らが恍惚状態で闘うその敵の死者=魔術師との相似性に通じるものを見ている★六。こうした二つの集団への分化に認められるのは、死者/生者という究極の対立にほかならない。そしてさらに、死者と動物との間には、それらがいずれも生者にとって「他者性」の表現である点で、深層における同一性が存在している。ルペルキの単数形「ルペルクス」は、「ルプス(狼)」から派生したという説もある。そして、ロムルスとレムスを自分の乳で育てた継母はほかでもない雌狼だった。古代世界では、狼は死者の世界と深く関係していた。このようにしてすなわち、ルペルカリア祭とは、狼あるいは死者と化した者たちの集団同士が繰り広げる競争であり、この競い合いを通じて、ローマの市民たちは死者たちをいわば地上に召喚し、自分たちの都市を祓い浄めたのである。
リクワートが、この祭礼全体が示唆しているのは「文明化された国家、すなわち養子関係を通して英雄=王の秩序に組み込まれる農耕国家、への移行」★七であったとしているように、この場合も、浄められた都市が依拠するのはあくまで、農耕定住社会の秩序にほかならない。農耕定住社会の都市はその前段階をなす牧畜社会(アベル)を、あるいはそれが基づく大地の秩序をあざ笑い侵犯する者(レムス)を殺し、その殺害された死者の記憶のうえに創建される。それゆえに都市は、この死者たちを恐れ続けている。リクワートが指摘しているように、ルペルカリア祭で走り回る集団は、確かに古い境界のまわりを走っていたにしても、彼らが浄めたのは、そこに集まっている人々であって、都市の領域ではなかった。とするならば、その行為は、都市を創建するために犂で形づくられた境界を再確認するものではなく、むしろ、境界をあざ笑うように侵犯する死者たちとそれを追う者たちとの、狩りにも似た闘いではなかったのだろうか。一見したところ、それは農耕定住社会のための豊穣儀礼のようにも見える。しかし、実際に演じられていたのは、この社会が成立するために犠牲となって葬り去られた死者たちを、この世に呼び戻して思うままに駆けめぐらせ、それによって都市空間を浄めようとする、招魂と鎮魂の振る舞いではなかったか。
1──都市の創建儀礼を表わすと思われる大理石板。
3世紀、アクィレーイア
2──初期ローマの地形
ともに出典=ジョーゼフ・リクワート『〈まち〉のイデア──ローマと古代世界の都市の形の人間学』みすず書房、1991
3──雌狼に育てらるロムルスとレムス。
古代ローマの銀貨
出典=ジョーゼフ・リクワート『〈まち〉のイデア』
2 増殖する死者の群衆
死者たちと獣たちに対するこうしたアルカイックな恐怖の淵源は、エリアス・カネッティによれば、彼らがおびただしく増殖してゆく「群れ」をなすところにある。死者も獣も、一方では、直立する人間の足元に、なすすべもなく横たわっている弱者であり敗者である。直立しているという状態は、彼らに対して人間の生者がふるう権力そのものにほかならない。しかし、このように横たわった低い位置、あるいは目に見えぬ地下から、死者や獣たちは「見えない群衆」として、人間の世界を脅かす。
「群衆(Masse)」を考察するために、『群衆と権力』でカネッティは、古代や未開社会の分析から、四つの「群れ(Meute)」の原型を抽出している。それが「狩猟の群れ」「戦闘の群れ」「哀悼の群れ」、そして「増殖の群れ」にほかならない。「群れ(Meute)」という言葉そのものが「猟犬の群れ」を意味しているが、カネッティは獣たち、とくに、人間が数千年をかけて猟犬へと馴致した、共同で狩りをおこなう狼たちの群れを、「狩猟の群れ」の原型と見なしている。人間の「狩猟の群れ」は、狼のような獣に学び、獣を模倣しつつ、他の獣を捕獲して殺し、その肉を喰らって同化する。そこには、カネッティが強調する、獣への人間の変身能力が発揮されている。人間は無数の獣たちに変身し、さまざまな獣の特性を取り入れることではじめて、人間となった。四つの群れのうち、群れと群れとが衝突する「戦闘の群れ」や死者を弔うために集まる「哀悼の群れ」がすでに人間世界に属すのに対して、これらのなかで最も注目に値する「増殖の群れ」の原型もまたやはり、獣たちの世界にある。たとえば、カネッティが引いているフクロネズミ・トーテムの神話では、その祖先のフクロネズミであるカロラの臍と脇の下から無数のフクロネズミが生まれたのち、同じ脇の下からは次々と人間が生まれ、その人間たちはフクロネズミを食べて生きる。獣と人間との間で二重化したこの増殖過程のなかに、強烈な「増殖の群れ」への衝動が表現されているのである。
そして、死者たちもまた増殖することを欲望している。カネッティが取り上げている例として、一九世紀半ばに南アフリカのツォサ族は、ある日死者たちの霊に出会い、自分たちへの捧げものとして家畜を屠り、穀物を廃棄せよという命令を受ける。そうすればやがて死者の軍勢が現われて、敵である白人たちを駆逐するだろう、というのだ。この命令に従ったツォサ族は、ついには飢餓で人口を激減させてしまう。カネッティは、白人たちとの闘いに死者の軍勢を呼び寄せるため、といったツォサ族の幻想的な期待を裏切って、死者たちの側に関心があったのは自分たちが増殖することだけだったのだ、死者たちはツォサ族を騙したのだ、と書く。生者の家畜や穀物を取り上げた挙げ句、人々を餓死させることで勝利したのは、まぎれもなく死者たちだった。彼らこそが最後に最大の群衆となったのだ。この「見えない群衆」は自分たちをひたすら増殖させ続けるために、生者を奴隷と化して、その集団を自壊させてしまったのである。
「見えない群衆」がもつ現実性へのカネッティの敏感さは、彼が生まれ育った環境と無縁ではないだろう。ブルガリア公国のルスチュクで過ごした幼年時、カネッティは母親から、狼が橇の御者を襲った話を、あるいは農家の娘たちからは狼男の童話を聞かされている。ユダヤ教の祝祭日には、眠っていた彼を、狼の仮面をかぶって仮装した父親が驚かせた。この出来事ののち、カネッティは夜ごと狼の悪夢にうなされたという。獣への変身をめぐる思考の端緒がこうした体験にあるばかりではない。狼憑きや「死者の軍勢」といった主題は、互いに密接に結びつき合いながら、ユーラシア大陸に広く分布する神話複合体の一部をなしている。カネッティが根ざしているのはこの風土であり、ツォサ族を破滅させた不可視の群衆、この「死者の軍勢」は、彼の想像力にとって、非常に近しいものであったに違いない。
カネッティはツォサ族に通じる自滅の過程をヒトラーに見ている。ヒトラーがベルリンに計画したメガロマニアックな凱旋門には、一八〇万の第一次世界大戦戦没者たちの名が彫り込まれることになっていた。これは、ひとつの群衆内部に達成可能な限度をはるかに越えて、群衆を蝟集させようとする目論見だ、とカネッティは言う。
死者たちの群衆に対する微妙な感覚は、ヒトラーの内部において決定的なものである。それはかれの本来の群衆である。この感覚を抜きにしては、かれという人間、かれの淵源、かれの権力、この権力をもってかれが企てたこと、かれの企ての帰着点といったものを理解することは、そもそも不可能である。この死者たちこそ、無気味な活気を帯びて立ち現われたかれの憑依状態にほかならない★八。
しかし、そこで増殖してゆく群衆は、必ずしもヒトラーの味方となる「死者の軍勢」ではない。彼が根絶やしにしようと殺戮してきた者たちこそが、そこに蝟集してくる。「殺された者たちの群衆は、自らの増大を求めて止まない」★九。彼らの絶滅計画の事実が秘密にされてきたことによって、ヒトラー内部でのこの「見えない群衆」の働きはいっそう強化されてゆく。よく知られているように、大戦末期、ヒトラーはドイツのすべての産業施設を破壊する焦土作戦を命じている。
かれら[殺された者たちの群衆]はかれの秘密である。かれらは、あらゆる群衆の例にもれず、増大を迫る。かれらに対して、もはや敵たちを追加することができぬため──敵たちが優位を占めるに至ったからである──、かれは自国民を犠牲にしてかれらの数を増大させるしかないという強迫を感じる。かれは自分よりも先にできるだけ多くの人間を、自分より後にできるだけ多くの人間を死なせなければならない★一〇。
ヒトラーを強迫的に突き動かしていたのは、彼が意のままにすることのできたドイツの生ける群衆ではなく、ひたすら増殖を迫る死者の群衆であった。巨大な凱旋門やドームを配置された首都ベルリンの計画案は、こうした死者の軍勢のための都市計画にほかならない。そこは見えない群衆のための都市、千年王国のネクロポリスである。ルペルカリア祭がおこなっていたであろうような、帝国の首都における死者たちとの和解の儀式は、そこにはもはやありえない。「殺された者たちの群衆は、自らの増大を求めて止まない」。都市空間が生者たちのために浄められることはもはやない。そこは初めから、死者の群衆のために計画され、創建されるのである。
4──「総統のアイディアに基づく」アルベルト・シュペーアによる
ベルリンの凱旋門案
出典=Hans J. Reichhardt und Wolfgang Schähe, Don Berlin nach Germania, 1990.
3 よろめく英雄たちの迷宮舞踊
このようなパラノイア都市はひとつの極限的な形態にとどまるにせよ、あらゆる都市は死者たちの世界に接している。古代ローマの都市では「ムンドゥス」と呼ばれる穴が大地(あるいは岩)に掘られ、そのなかへ初生りや植民者たちの母国の土が投げ入れられた。リクワートはそれを地下冥界の入り口であったと考えている。ローマの地面は黄泉へと開いた口で穴だらけだった。都市内部の、このような「ムンドゥス」に似た場所への感覚は、近代にいたっても失われてしまったわけではないだろう。もちろんそれはもはやあからさまな穴であったりすることはなく、街路上で束の間遭遇する都市風景のイメージに変貌しているのだが。ベンヤミンは『ベルリン年代記』でこう書いている。
素面の、騒音にあふれたベルリン、労働の都市、商業の首都ベルリンには、他の多くの都会に劣らず、むしろそれ以上に、この都会が死者たちを証しし、死者たちで埋まっていることを示す場所と瞬間がある。こうした瞬間と場所にたいするおぼろげな感覚が、おそらく他の何物にもまして、幼年時代の思い出に、ちょうど半ば忘れかけた夢のように、なかなか把えがたいけれども同時に誘惑的で胸苦しいような性質を与えるのであろう。というのは、いかなる先入観をも知らない幼年時代は、生にたいしてもそれをもたないのだから。子どもは、かれが生者の国に首を伸ばしてゆくその土台である死者の国にたいして、生そのものにたいすると同じく、気取ったふうに親近な(むろんこれに劣らず控え目な)態度を見せるのである★一一。
『ベルリン年代記』、あるいは『一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代』といった著作にとどまらず、多くの都市論や『パサージュ論』においてもまた、ベンヤミンがここで述べているような、死者とすれ違う「場所と瞬間」が、しばしば「敷居」の形象をとっていることはすでに指摘されている★一二。それが通過儀礼のモチーフと重なることも言うまでもない。典型的な一節を引いておこう。
ところで、当時私をじっと見つめていた
女像柱 たちや男像柱 たち、天使像 たちやポーモーナ像たちのうちで、私のいちばん身近なところにいたのは、生 に踏み入るその一歩、あるいは家屋に踏み入るその一歩を守護する、境界域の事情に通じた一族の、あの埃をかぶった像たちだった。というのも、彼らは待つことに熟達しているからである。そしてそうであればこそ、異郷の者を待つのであれ、古き神々の帰来を待つのであれ、また、三十年前に学校鞄を背にその足許を通り過ぎた子供を待つのであれ、彼らには同じことだった。彼らの合図で、ベルリンの旧西区 は古代の西の国 になった★一三。
古代的な想像力は、境界となる門の守護者として数々の怪物を生み出した。都市の門は、刻まれたり彫られた異形の獣たち、獅子やグリフォン、牡牛、蠍男、牛男、獅子男や獅子女、あるいはスフィンクスによって守られた。スフィンクスについては、それは最初は人間であって、敷居あるいはその両脇の柱の下に生贄として埋められたために、頭部だけを人間のままに残し、残りが怪物と化してしまったのだ、と言い伝えられている。つまり、この怪物の姿は人身供犠の変形された記憶なのである。幼いベンヤミンを見つめた
では、敷居はなぜ怪物たちによって守られなければならなかったのか。都市の創建儀礼において、門を作る予定の場所では、牛に繋がれた青銅の刃は取り外され、犂を持ち上げてわざわざ隙間が空けられたという。都市の境界を印づける壁が聖なるものと考えられていたにしても、それはあくまで、門のところを除いて、であった。門の位置する場所は、大地を犂き返す象徴的な身ぶりによって聖別されてはいなかった。だからこそ、他の場所では横断することが禁止された境界である壁を、門を通ってならば通過することが許されたのである。逆に言えば、そこは農耕定住社会の掟が刻み込まれていない、無法の空間だった。門とは「おびやかす力を帯びた禁断の地帯の上に架された橋」★一四なのであった。それゆえ、生贄によって、そして彼らが変身した怪物たちによって、迫り来る侵入者たち、襲いかかる災厄、あるいは回帰してくる死者たち(都市の内部における埋葬は十二表法によって厳重に禁じられていたから、死者の屍は門を通って都市の外部に運び出された)の脅威から、都市の門は守護されなければならなかったのである。
門のところで謎をかける怪物は神話にたびたび登場するモチーフである。このモチーフは、門を通ろうとする者は迷路を通過しなければならない、というかたちに変形されることも多い。謎や迷路は厄払いであり、護符であった。
そこが再生の場であるためには、しかし、迷宮においてひとは、一度死ななければならない。迷宮舞踊の名となった「トロイア」という町が、何よりもまず、戦争に敗れて破滅した都市であったことを思い起こさなければならない。迷宮が表わすのは死の観念である。カール・ケレーニイが述べているように、そこには神話学的観念として、「迷宮状の冥府の観念」★一六が浮かび上がってくる。とするならば、都市が迷宮であるとは、そこが冥府であるということではないか。なるほど究極的には再生をもたらすものではあるにしても、迷宮性を帯びた都市空間には、死者たちの町が重ね合わされているのではないだろうか。
ベンヤミンは近代的大都市の「最も隠された側面」は、それが単調な街路と見通しのきかない家並みによって、古代人たちが夢見た建築、すなわち
ボードレールにおける大衆。それは遊歩者の前にヴェールとなってかかっている。それは孤立している者の最新の麻酔薬である。──それは次に個人のすべての痕跡を消し去る。それは追放された者の最新の隠れ家である。それは、ついに、都市の迷宮の中で、最新で、もっとも究めがたい迷宮となる。大衆によって、これまで知られていなかった冥界の相貌が都市像の中に刻み込まれる★一八。
遊歩者が町を徘徊するとき、そこには「
最初は左方向へ、ついで中心に到達してから右方向へ回転する。この体験はくり返し〈
霊的浮上 〉現象を随伴した。この病気に罹ると、猛烈な風に鷲づかみにされているもののように地面から持ち上げられるような傾向を感じる。患者はなんとかして地面につかまり、しがみつかなくてはならない★二〇。
これに似た強烈な浮上感ゆえに、「
ヨーロッパから中国にいたる、ユーラシアを横断した神話や伝説、儀礼の比較検討を通じて、ギンズブルグは、跛行、傷ついた足を引きずること、踵に弱点をもつこと、片足だけ裸足で歩くこと、躓くこと、片足で跳ねることといった歩行の障害を示す特徴が、一時的ないし恒久的な死者の世界との関係を意味することを見いだしている。歩行障害を示す神や英雄は、生者の世界と死者の世界をつなぐシャーマン的形象にほかならないのである。たとえばシンデレラ物語が象徴的に示しているように、他界に行った者は、跛行になったり、靴をなくすなど、歩行の不均衡を印づけられる。ギンズブルグはこうした象徴的形象の幅広い分布から、ユーラシア大陸のシャーマニズムが共有する神話的基層の存在を推測している。
ベンヤミンの語る遊歩者とは、近代的大都市という迷宮の舞踊において、恍惚状態で死者の世界へと旅するシャーマンではないだろうか。そのぶらぶら歩きは、一九世紀のパリでは、馬車をはじめとする交通機関の速度に対してできるかぎり「遅れる」点で、一種の「歩行障害」だったと言ってよいのではないだろうか。
歩行者は、そのノンシャランスを場合によっては挑発的に誇示する術を知っていた。一八四〇年頃、ほんの短いあいだだったが、亀をパサージュの散歩に連れていくのが上品とされた。遊歩者は歩調を亀に合わせるのを好んだ★二二。
近代的な「速度」に対するこのような抵抗の術を、ベンヤミンは幼年時代に母と町中を二人並んで歩くときにすでに実践していた。彼は「いつも半歩遅れて歩く習慣を身につけてしまっていた」のである。「この夢想じみたレジスタンスに、私がどれほど多くのものを負うているかは、ずっとのちになって、都市の迷宮が性欲に対して開かれたときに判明した」★二三。「のろのろした、寝ぼけているような歩きぶり」によって、街路と同盟すれば、母の支配から逃れられるかもしれないという思いは、性欲の訪れとともに、街路で娼婦に声をかけるという行為の魅力に姿を変える。実際に声をかけるまでには何時間もかかり、ひとたび声をかけたところで、「私はその場から逃げ去っては、その同じ夜に──さらに何度やったことか──この無謀な試みをまた繰り返すのだった」。
それから、もう明け方になっていることもたびたびだったが、ついに諦めてとある門道に立ち止まったとき、私はとっくに、街路というアスファルトの帯に絶望的に搦め取られてしまっていた。そして、それを解いて私を自由にしてくれたのは、最も汚れなき手というわけにはいかなかった★二四。
「街路というアスファルトの帯」が織りなす迷宮に囚われたこの「よろめく英雄」は、迷宮の女主人である零落したアリアドネ、娼婦の導きによってはじめて、そこから自由になることができたのである。
街路が遊歩者を連れてゆくのは、はるか遠くに消え去った時間であり、どんな街路もそこでは「急な下り坂」で、この坂は彼をひたすら下へ下へと導いてゆく。「母たちのところというわけではなくとも、ある過去へと」★二五とベンヤミンは言う。しかし、その坂が下ってゆく底の底にはやはり、ゲーテ『ファウスト』の「母たちの国」が横たわっているのではないだろうか。街頭に立つアリアドネである娼婦はその遠い末裔ではないか。場所も時間もないところに座を占める「母たち」、語りようのない「母たち」、ファウストが「異様な名」と驚くこの女神たちは、言うまでもなく歴史以前の存在、歴史の根源/根源の歴史に位置する存在にほかならない。そこは死者やいまだ生まれざる者たちの、形をなさない世界である。生者の都市はそんな幽冥界とごく間近に隣接して、いや、一枚の紙の表裏のように一体化している。
古代の都市創建儀礼から近代の遊歩者まで、都市は死者たちの影に怯えつつ魅せられ、死者たちとの和解を通じて浄化されることを願ってきた。都市にはいまも、他界へと通じる坂道の門が開いているに違いない。その「敷居」に敏感であること──それは死者の気配をそこに感じ取ることにほかならない。カネッティの言う「見えない群衆」としての死者たちが増殖する群れとなって、ひとたびその「敷居」を越えたときには、ツォサ族のように、あるいはヒトラーの妄想におけるように、生者たちは破局的な自滅を経験することになろう。だからこそ、この門を守る護符が都市には必要なのである。
しかし、われわれの都市はそんな護符を、あるいはそれに代わって町を守護してくれるような、みずからにふさわしい迷宮の舞踊をもっているだろうか。都市のなかで「迷うこと」としての迷宮舞踊「トロイアの遊戯」──ベンヤミンが言うように、それは習得すべきひとつの「技術」にほかならない★二六。躓きよろめきながら異界を彷徨うための、「母たちの国」に根ざした、あらたなシャーマニズムの技法が見いだされなければならない。
5──二頭のスフィンクス。エトルリア・アルカイク期、前6世紀。カエレにある墓で発見
6──前7世紀のエトルリアの水差し
出典=ジョーゼフ・リクワート『〈まち〉のイデア』
7──中段に描かれた絵の展開図。中央に「トルイア」と書かれた迷路がある
出典=ジョーゼフ・リクワート『〈まち〉のイデア』
註
★一──ジョーゼフ・リクワート『〈まち〉のイデア──ローマと古代世界の都市の形の人間学』(前川道郎・小野育雄訳、みすず書房、一九九一)五〇頁。ただし、訳語を変更した。
★二──同、五二頁。
★三──同、一一五─一一六頁。
★四──同、二〇三頁。
★五──この点については、カルロ・ギンズブルグ『闇の歴史──サバトの解読』(竹山博英訳、せりか書房、一九九二)四一八─四一九頁参照。
★六──同、四二三頁参照。
★七──リクワート、前掲書、一五三頁。
★八──エリアス・カネッティ「ヒトラー(シュペールに拠る)」(『断ち切られた未来──評論と対話』岩田行一訳、法政大学出版局、一九七四)二四頁。
★九──同、二九頁。
★一〇──同。
★一一──ヴァルター・ベンヤミン「ベルリン年代記」(『ベルリンの幼年時代 ヴァルター・ベンヤミン著作集12』小寺昭次郎訳、晶文社、一九七一)一六〇頁。
★一二──たとえば、ヴィンフリート・メニングハウス『敷居学──ベンヤミンの神話のパサージュ』(伊藤秀一訳、現代思潮新社、二〇〇〇)を参照。
★一三──ヴァルター・ベンヤミン「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」(『記憶への旅 ベンヤミン・コレクション3』浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、一九九七)四九八─四九九頁。
★一四──リクワート、前掲書、二一四頁。
★一五──同、二二六頁。
★一六──カール・ケレーニイ『迷宮と神話』(種村季弘・藤川芳朗訳、弘文堂、一九七三)四六頁。
★一七──Walter Benjamin: Das Passagen-Werke. Hg. von Rolf Tiedemann. Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1982, S.1007.
★一八──ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論III』(三島憲一ほか訳、岩波書店、一九九四)一三二頁、断片番号M16,3。
★一九──同、七一頁、断片番号M1,5。
★二〇──ケレーニイ、前掲書、六一頁。
★二一──ギンズブルグ、前掲書、三八五─三八六頁参照。
★二二──ヴァルター・ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(『近代の意味 ベンヤミン・コレクション1』久保哲司訳、ちくま学芸文庫、一九九五)四八三頁、原注9。
★二三──ベンヤミン「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」六二八頁。
★二四──同、六二九頁。
★二五──ベンヤミン『パサージュ論III』六九頁、断片番号M1,2。
★二六──ベンヤミン「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」四九二─四九三頁参照。