1:フィールドワークへ向けて 松原永季
暗闇の中に、何か白いものがぼんやりと浮かんでいた。
地震でなぎ倒された電柱からぶら下がる電線を、道行くに人に気付かせるために引っ掛けられた白いタオルだった。無造作なあしらいだけれど、誰か見知らぬ人の配慮の気持ちを痛切に感じた。そして今和次郎を想い、「これから」をいかに記録すべきなのか、ぼんやりと考え始めていた。阪神・淡路大震災、初日の夜だった。
★
震災直後の喧噪が一段落すると、今度は自らの生活再建へ向けた作業に忙殺された。当然、私たちも被災者だったのだ。事務所のメンバーとの連絡体制の確立、仮事務所への移転、震災により遅れた日常業務の取り戻し。一方ではさまざまな、すまいづくり・まちづくり支援の提案作業も始まっていた。「バラック採集」という関心をもちつつも、冷静な眼で観察する余裕もないまま、最低限の復旧へ向かう日々が過ぎていった。ただ、バラックのような自力建設による住居は一般的には試みられず、むしろテント等のアウトドア用品が、わずかな生活の安らぎの場を人々に与えていた印象がある。コンテナハウスが恒久住宅化する例、鞘堂形式で住宅を増築してゆく成長する家、柱を一本ずつ取り替えてゆく「修繕」住宅等、いくつかの興味深い例も眼に留まったが、「被災者を観察すること」に対する躊躇が、積極的に記録を残すことへの障害となった。しかしマクロな眼でみれば、ごく普通の生活者が、自力で生活の場に形を与え、住まい続ける工夫を施す営為は、あらかじめ失われていたように感じる。
★
そして震災後の風景は、数カ月単位で目まぐるしく変化していった。さまざまな異なるレベルのダメージを受けた建築群が混在する災害時の風景、公費による解体が進行する工事現場が連続する風景、その後生じた原っぱが広がる茫漠たる風景、そして新築住宅が建ち始め、震災前の風景が一変されていった。おおよそ二年数カ月を経て、今ある風景の基礎が形作られたように思われる★一。その頃筆者は、ある地区でのまちづくり支援活動に関わることになり、頻繁にそこへ足を運び住民の方々の話を聞き、調整に走り回るという日常が始まっていた。そして同じ支援活動に携わっていた神戸大学の浅井保氏から指摘を受けたのだった。「震災後の新築住宅に変わったものが現われてきている」と。
確かに、奇妙な光景がそこここに生まれつつあった。
★
民間のまちづくりコンサルタントの間では、神戸市の震災復興計画の地域的色分けを「黒地」「灰地」「白地」地域と分けて呼ぶようになっていた。すなわち区画整理、再開発等の都市計画事業が施行されるエリアが「黒地」、いわゆる密集事業等の任意事業が施行されるエリアが「灰地」、何も施行されないエリアが「白地」地域と呼ばれることになった。そして全被災面積の八割以上が、この「灰地」と「白地」地域であり、そこでは住民や権利者による自発的な意志統一と相応の負担がなければ(それは実際にはほとんどなかった)、再建に向けた公的支援が全く受けられないという状況におかれたのである。つまり大多数の住民は、行政的支援や適切な助言者、調停者がいないまま、短いタイム・スケジュールのなかで、自らの生活環境の再建に向かわざるをえなかったのである。「灰地」「白地」の住環境は、多くがこのような背景のなかで生み出されている。そして私たちがまちづくり支援を行なっていた地域も、まさにこの「白地」地域だった。
★
一方、当時各所で開催されていた「まちづくりフォーラム」のひとつで、印象的な言葉を聞く機会があった。「震災後の状況は、日本の未来の課題を先取りしているのだ」という発言である★二。これはさまざまな社会システムに関する議論のなかでの言葉だったように思うが、その妥当性に共感すると共に「白地地域の住環境に関しても状況は同じではないか」というのが、そこで生じた仮説だった。先の浅井氏の指摘と合わせて、それを検証し、実際に体験するために「まちを歩くべき」との動機が、明確に筋道を与えられたのである。
★
その間、震災復興に関わる都市計画や建築設計の事務所に所属する二〇─三〇歳代のメンバーが集まり「プランナーズネットワーク神戸」(当時の名称「(仮称)若手プランナーネットワーク」)が結成されることになった。これは、震災復興を実質的に動かしていた五〇代を中心としたプランナーの方々とは異なる視点をもって「まち」を考えたいという動機を共有する、有志による任意のネットワーク組織である。ここでの活動のひとつとして、上記の観点からの「まち歩き」によるフィールドワークを筆者は提案したが、「今現在のまちを歩く」必要性は全員に共有されていたものの、その手法や問題意識に関しては齟齬があった。悉皆・観察・採集がフィールドワークの前提とされたが、「観察」と「採集」に関し、あらかじめテーマや項目を設定し、共有しておくべきか否かという考え方の相違である。結局、意見はまとまらず、一度実際にフィールドワークを行ない、その結果を元に再度手法に関して議論の機会を設けることとなった。そして何度かの実践を経て、私たちのフィールドワークの手法は、徐々に確立された。それは以下の三点に集約できる。
1 調査エリア内の全ての道を踏査すること
2 観察は数人の共同により行なうこと
3 着目した事象は全てカメラに収め、場所とコメントを付記すること
採集対象は個人の恣意と主観に委ねられることとなった。しかし観察は複数人で行なわれ、常に現場での議論が可能であった。ただし問題意識は必ずしも共有されていたわけではない。
テーマは常に揺れ動いていた。
註
★一──「住吉の下町未来まちづくり」『造景』no.18(建築資料研究社、一九九八年一二月一日)八六─八七頁参照。
★二──「神戸復興塾」を主催されていた小森星児氏の発言。
調査対象エリアは神戸市東部地域(灘区、東灘区)、阪急線以南の既成の住宅市街地を中心とした激甚被災地約600haの範囲であり、その大半が白地地域。「震災復興」が比較的早いと喧伝され、住宅の再建もある程度進んでいると言われていた。
私たちのメンバーが日頃、まちづくり支援の対象としている地区も多く含まれている。
1998年2月21日、最初のフィールドワークを実施。震災からすでに3年が経過していた。
2:「小さな物語」の構想 田中正人
すべてのフィールドワークが終了したのは、開始から一年と八カ月を経た一九九九年一〇月だった。最後まで各人の問題意識はさまざまに違っていたし、テーマはいつもゆらぎの中にあった。
震災発生から、すでに四年以上が経過していた。その間、都市には夥しい量の建設需要があり、供給があった。街並みは日々変化しつづけていた。被災都市は、やがて再生都市/新生都市などと呼ばれるようになった。行政は「八割復興」を標榜していた。「神戸ルミナリエ」の電飾の輝きは、「鎮魂」のともしびからやがて「復興」を誇示する光へと変わりつつあった。震源地・淡路島では壮大な博覧会が開催され、それは主催者の予想をはるかに上回る集客に成功した。阪神・淡路大震災というエポックについて語るとき、多くの人々が依拠するのはこうした「破壊と再生の物語」だ。それは十分に説得的ではあるが、そこにはいくばくかの矛盾があり、トラップがあり、語る者自らのとまどいがあった。なぜなら、それらはあまりにも「大きな物語」だからだ。
住宅の「破壊と再生の物語」もまた同じである。全壊家屋数や住宅着工統計という数字に裏打ちされた「大きな物語」は個人の「物語」とは無関係に成立するし、ときにその展開は食い違い、結末は乖離する。しかもそれは、「器」としての住宅の破壊であると同時に、コミュニティの破壊であり、記憶の破壊だった。私たちは、壊れた「器」の堆積からほとんど自動的に「廃墟」という言葉を連想したが、引き裂かれたコミュニティや寸断された記憶に対しては、それを的確に表現する言葉を知らなかった。あるいはそれは「廃墟」という表現に、すでに包摂されてしまっているのだと言うこともできるだろう。でもそれならば、「器」の再生はコミュニティの再生を随伴し、記憶の再生を引き受けていなければならない。それがいかに甘い期待であり、身勝手な世界認識であるかということは多くの人が知っている。
「廃墟」には、このまま眠らせてしまってはならないコミュニティがあり、記憶があった。それをうまく語りえない以上、私たちは「廃墟」という言葉自体を撤回しなければならない。そして、ルネ・マグリット風に「これは廃墟ではない」とつぶやきつづけるしかないだろう。たとえ目の前の「廃墟」の情景に口をふさがれそうになったとしても、そこにかすかなコミュニティの切れ端があり、記憶の欠片がある限り、これは「廃墟」ではないのだ、と。それは同時に「大きな物語」を仮構することへの異議申し立てでもあった。「大きな物語」にかき消される小さな声、声なき声に耳を傾ける必要があった。フィールドワークはその実践の場となった。排除と選別を行使する「大きな物語」に身を任せるのではなく、忘れ去られた「小さな物語」に耳をすます。振り返ってみれば、私たちの立脚点はいつもそこにあった。各人の問題意識の違いを包容し、フィールドワークを支えつづけていたのは、そんな共有の場所の存在だった。
★
「小さな物語」は、特殊・変則的な事例、理解不可能な事象、無視しうる部分などに潜在している。あるいはこう言うこともできる。「大きな物語」は、特殊・変則的な事例、理解不可能な事象、無視しうる部分を選別し、排除し、再生産する機能を付随する、と。
私たちは、「器」というものを街並みや住環境やスカイラインを構成する要素として物象化してしまう前に、それを住み手/作り手の「無意識」のメタファーとして見ようとしていた。住み手の声に実際に耳を傾け、あるいはありったけの想像力を働かせ、「器」の背後にある記憶の痕跡を見つめ、解釈し、議論しながら、アナロジカルに、アドホックに「小さな物語」を拾い集める。「小さな物語」の束は、フラグメンタルな集積にすぎない。一つひとつは舌足らずで、脈絡を欠き、ちぐはぐでさえあった。でもこの作業は、あくまで結果的にではあるにせよ、まちがいなく「大きな物語」しか語りえない建築・都市計画の一般的な調査フレームに対する批判的概念装置を構築してきた。
「小さな物語」は、さまざまな舞台装置(=「キーターム」)とともに語られる。私たちは、舞台の上で自ら演じるようにして、その現象の背後に隠された文脈を描き出そうとした。普遍化され、抽象化された空間ではなく、具体的でアクチュアルな場所に生起する「物語」を語ろうとしていた。
被災都市/再生都市の「キーターム」
松原永季+田中正人
震災後のまちが、未来の都市の状況を先取りしているとするのなら、住居の姿はどのように現われるのか? このようなテーマを設定することから、フィールドワークで得た成果は、結果的に震災前後の住宅、より敷衍すれば既成市街地での住環境の更新を連続的に考えることに繋がった。ここでは特に新築住宅を中心とした、震災後に生じたいくつかの「目に見える」特徴的な傾向とそこから推察される状況を記したい。そしてその背後には、人と人の関係が大きく変化したことがあるのは間違いがないのである。
震災空地 ─空地の遍在─
全半壊判定を受けた建築物は「公費解体」により、多くが解体撤去された。再建へ向けた補助を期待しての解体への同意が多かったと思われるが、現実にはその後の「白地」地域では何らの支援もなく、自力再建できない土地は、空地のまま放置されることとなった。それらは未接道/狭小な宅地であったり、権利関係が複雑にすぎたり、再建資金のメドが立たないなどの諸条件を、震災以前から備えていたと考えられる。すなわち既成市街地においては眼に見えてこない課題が、震災により一挙に顕在化したと言えるのである。そして権利者や住民によりうまく管理されない空地は、公費解体されなかった基礎部分を残して、工事用のバリケードで囲われたり[図1]、雑草除けのブルーシートを掛けられたり、あるいは全く放置されゴミ置き場となって地域の課題箇所と位置づけられたりし[図2]、被災エリアの全域にスプロール的に遍在している。(M)
1──バリケードに囲われたまま放置される空地
2──基礎が残るゴミ置き場と化した空地
狭小住宅 ─住宅の極小規模化─
震災復興の再建住宅は、仮設住宅の延長から始まるように思える。コンテナハウスを白く美しくペイントし、少し高級なイメージを持つ土地柄に馴染ませている事例[図3]。おなじくコンテナハウスにさまざまな生活の小道具が溢れだし、何十年も同じ佇まいをもっていたのではないかと感じさせる事例[図4]。あるいは恒久住宅として再建されたものでも、あえて床面積は増やさずに小さな規模でまとめている事例も多い。ここでは仮設と恒久の境目は極めて曖昧であり、むしろそのような分け方は無意味であることをすら、証明してしまっているように思われる。(M)
3──白くペイントされたコンテナハウス
4──下町感の漂うコンテナハウス
窓なし住宅 ─住宅の閉鎖化─
「閉鎖性」は、震災後の再建住宅の際立った特徴として観察される。下町的コミュニティが濃厚にあったとされる地域でさえ、各家の玄関はマンションの如き鉄扉で閉ざされ、1階部分の窓には全て曇りガラスがはめ込まれて、必要な採光は確保されるものの内外の様子は相互に遮断される。また特にプレハブ住宅★1に顕著に表われるが、全ての開口部にシャッターが施される場合が多い[図5]。日常使わない部屋のシャッターは閉めっぱなしという事例も採集されている。雨戸の延長にあることは容易に想像できるが、「閉鎖」の意志をあからさまにする外観により、周辺へ与える景観上の影響は大きい。そしてより印象深いのは、開口部を道路等の公共的空間に向けては設けない事例がいくつも観察されることにある[図6、7]。とりわけ3階建ての木造住宅になると、構造上の制約からも閉鎖性は増し、「塔状住宅」と呼ぶに相応しい形態をもつものまで現われている[図8]。特に密集市街地では、占有されたプライバシー空間は過度に閉ざされる傾向にある。それは必ずしも望ましい住環境を与えるものではないはずだが、そんな状況を打破するための近隣での適切な調停案や調停者が不在であり、また当事者自身が明確には意識していないことをも表明されてしまっている。(M)
5──シャッター住宅
6──窓なし住宅1
7──窓なし住宅2
8──塔状住宅
★1──震災後「プレハブ住宅が被災地を席巻した」と言われることが多いが、実際にはプレハブ住宅と同じテクスチャーをもった外層材をまとった在来工法の木造住宅も多く、また当時のプレハブ住宅が建設可能な敷地間口の制約もあり、震災後の風景を「プレハブ住宅」に一元化して記述することは少し的外れな面もあることに注意したい。
多世帯住宅 ─住宅の高密重層化─
形状の大きな変化はなくとも、住宅の実質的細分化、高密化の進行が推察される「多世帯住宅」の多様な事例が観察できる。「2枚表札」はその端緒と言えよう。震災以前は1世帯だが、震災後に2世帯が居住するようになったことが、2枚目の新しい表札から推察できる。インターホンやポスト等のディテールにも同じ事例が現われる[図9、10]。また、1軒の住宅の中で世帯が分離されると、それは玄関の数に現われることになる。多くは外階段をもち、上下階で世帯を分ける事例がはなはだ多い[図11]。一方、小規模アパートは、住戸規模と敷地規模をさらに小さくする方向で、極小規模化を進行させて新築されており、その典型は、上下同一プラン+それゆえの外階段というスタイルに落ち着きつつある[図12]。また文化住宅の形式を踏襲した事例も見受けられる[図13]。住宅がそのボリュームや形態を保ちつつも、より多くの世帯によって占有されるという、さらなる「高密化」「重層化」の進行が、さまざまなディテールに表われている。(M)
9──複数表札1/4つの表札、1つの看板、3つのインターホン、1つのポストが同居している
10──複数表札2/5世帯の住居表示、2つのインターホン、1つのポストが同居している
11──外階段上下階2世帯タイプ
12──外階段上下階同一プランアパート
13──現代文化住宅/玄関が5つあることに注意
群住宅 ─住宅の細分戸建化─
「群住宅」とは、その性格をより明確にするために私たちが新たに命名した呼称である。これは「単体としてではなく、それを群として位置づけた時に、その特徴をよく説明できる住宅の集まり」を意味し、例えばミニ開発による住宅の集合などを指す。震災後、特に顕著なのが、このミニ開発による極小住宅群であり、さまざまなタイプを観察することができる[図14─20、22]。これらは1階に駐車場を取り込み、3階建て、外観はすでに述べた閉鎖性を示し、他の大半の住宅と同様、サイディングの外壁に包まれる。隣り合う住戸は同じデザイン・モチーフでありながらも、あざといほどの小さな差を設け、微かなアイデンティティを主張する。同規模で立ち並ぶものの決して長屋ではなく、僅かでも建物間に隙間を設け(最小観測記録は50mm)、戸建であることを証明する。木造であるならば構造的に懸念があるように考えられるものも多い。大半は震災以前の比較的大きな規模の宅地を細分化される形で開発され、不思議なことにほとんどの事例では、住宅は供給過剰と言われるなかで即完売されている。おそらく今後密集市街地で一般的に供給される戸建住宅は、これら「群住宅」が基調をつくると想像される。それらは今のところ、あくまで開発業者の意図とマーケット上の欲望によって企画されているにすぎないが、そこに含まれるポテンシャルは、景観や近隣関係においてさまざまな論点と可能性を孕んでいると考えられる。なお、他の群住宅のタイプとして、複数の小規模アパートが同一敷地に数棟建ち、全体でひとつのアイデンティティを保っている「ミニ集落タイプ」なども観察されている[図21]。(M)
14──2戸色分けタイプ
15──4戸タイプ
16──シャッフルタイプ1
17──シャッフルタイプ2/各バルコニー毎の外装材が互いに異っている
18──卍タイプ
19──卍タイプを別の角度から見る/玄関の位置を隔てていることに注意
20──ゲタバキ車庫タイプ/3階建だが実質4階のヴォリュームをもつ
21──ミニ集落タイプを示す看板
22──群住宅のさまざまなタイプ
切断住宅 ─二極化モザイク都市─
これまで述べた震災後の新築住宅の特徴的傾向を、端的に示す事例「切断住宅」を紹介する。従前、借家の長屋形式だった住宅が、時代を経るにしたがって徐々に居住者によって購入され、土地建物の所有は分割されてゆく。その結果、同じ長屋でも隣り合わせの2軒が少し表情を変えて並ぶことになる[図23]。そして震災。倒壊した部分の家屋は解体撤去され、無事だった部分は残される。その境目はまさに所有の境界線と一致し、連続性を保っていた長屋は明確に「切断」される[図24、25]。さらに空地となった隣地には、より高密な住宅が新たに、全く無関係な相貌で建ち上がる[図26]。これらの事例は連続したひとつの長屋のなかで、同時に発現していたのである。これまでのフィールドワークといくつかの実証的な調査を踏まえると、ここには、放置された既成市街地、中でも住宅市街地の未来の姿に対する予見が表明されているように思われる。すなわち、建築可能な宅地はより細分化、高密化、重層化し、同時に占有された空間は相互に閉鎖する。一方では、細分化の最終的な形として再建不可能な宅地が生まれ、適切な対応がない限り空地として凍結される。つまり極度に細分化された宅地は、高密度に集積した閉鎖空間と空地と化した開放空間に二極化し、相互に関係なく隣り合い、モザイク状に遍在する状況が生まれることが想像されるのである。震災は、その状況をあからさまに顕在化した。そしてここに現われた「切断」からは、形態的空間的課題だけではなく、その背後にある人を巡る社会的諸関係の切断をも読み取るべきであろう[図27]。(M)
23──切断住宅1
24──切断住宅2
25──切断住宅3
26──切断住宅2を別の角度から見る
27──二極化モザイク都市を暗示する閉鎖住宅群と空地
被災地蔵
神戸にもたくさんの地蔵があった。コミュニティとともに歴史を歩んできた地蔵たちもまた、被災者であった。周知のとおり、復興プロセスは深刻なコミュニティのシャッフルを招いてきた。地蔵の姿はコミュニティの再生プロセスを可視化する。コミュニティから切り離された地蔵は今なお「住まい」を獲得できない。「仮設」暮らしをつづける地蔵もある。新たな「住まい方」を模索するものもある[図28—31]。しかし、これらの地蔵はたとえ祠がさまざまに変化していたとしても、多くは元の場所に「定住」している。「定住」は、地域コミュニティとのつながりを保持するための必要条件だ。「定住」しているからこそ、地蔵は人々の暮らしのなかに息づくことができる。人と人の関係もまた同じだろう。(T)
28──被災地蔵/祠は全壊した
29──集住地蔵/空き地の隅に集まって住む
30──仮設地蔵/コンクリートブロックで応急処置
31──新型地蔵/塀の一部に美しくとけ込んだ「住まい」
パノプティック・シティ
賞賛や賛同の感情はすたれて忘却や無関心に変わりつつある。解体してゆくこの曖昧な世界にあってはそうなのだ。
(G・バタイユ『至高性 呪われた部分』)
コミュニティが解体されたこの世界には、忘却と無関心を背景にさまざまな「ゲート」が現出している。モニターホン、監視カメラ、オートロックシステム・民間警備システムの設置など、震災後に見られる住宅は外部に対する排他性を指向する[図32、33]。その欲望は、近隣におけるコミュニケーションの不在を端緒としている可能性を多分にもっている。自閉した空間は住民間の距離を幾何学的/心理的に拡張し、いっそうコミュニケーションを困難にする。民間警備システムは、一軒が設置したとたんに隣へ、向かいへと波及しているように見える。その地域が特に物騒だとか、担当した警備会社の営業マンがきわだって有能だったというわけではあるまい。いずれにしても、その現象は相互監視というコミュニティの機能をスポイルし、逆に地域全体の安全性をおびやかすといったパラドクスを孕んでいる。コミュニティの機能不全は警備システムの設置に根拠と動機を与えている。まちは得体の知れない視線に包まれている。(T)
32──2つの郵便受けがそれぞれ民間警備システムの表示を掲げる
33──訪問者を見つめる監視カメラ(右上端)と民間警備システムの表示
コモノ
社会体の総体を貫く断層の広大な効果(…中略…)は、局地的対決に働きかけて、再分配し、列に整え、均質化し、系の調整をし、収斂せさる。
(M・フーコー『性の歴史1──知への意志』)
神戸を貫いた「断層」は、まちの至るところに「境界」を構築してきた。空間は再分配され、同列化し、均質化し、系統化し、「境界」の内部に収斂していく。だが、そんな風景とは相容れない場面にふと出会うこともある。
沿道にたたずむ「七人のこびと」「白雪姫」「ミッキーマウス」「たぬき」「カエル」「鳥獣戯画」、そして溢れる緑[図34─37]。これらは「境界」を飛び越えて、地域へのアクセスポイントを形成する。コモノたちは一様に家の外を眺め、声をかけてくれる人を待っているかのように見える。道行く人々もまた、鮮やかな花に目を奪われ、剽軽な「カエル」に思わず笑みをこぼし、「ディズニーランド」のスペクタクルに足を止める。「境界」は少しずつ、少しずつ取り去られている。あるときコモノは互いに共鳴し合うかのように連鎖し、波紋のような広がりを見せる。「境界」が自らを瓦解させていくときも、それほど遠くはないのかもしれない。だとしたら、まちのディズニーランダゼーションもそう捨てたものではない。
あるいはこうした見方は楽観的すぎるのかもしれない。しかしそこには、沈黙したファサードから漂うシニシズムを笑い飛ばす、住み手の力強い意志をはっきりと感じることができる。「境界」の向こうの声なき声は、かき消されそうになりながらも、確実に空気を震わせているのだ。(T)
34──沿道を見つめる「七人のこびと」/喋り声まで聞こえてきそうだ
35──箱庭のディズニーワールド/誰もが立ち止まりそうになる
36──「鳥獣戯画」とカエル/誰もが話しかけそうになる
37──無機質な壁面を華やかに彩るコモノたち
対面緑化
道路敷、鉄道敷、河川敷、その際に緑が張り付く[図38─40]。緑の設置者/管理者はその対面に住まう人々である。自らの庭先だけでは飽きたらず、眼前の空間に植木鉢やプランターを置いてみる。少し華やかになった。近隣の人々も、それに倣う。そうして緑の帯に挟まれた親しげな空間が生まれている。
道路や鉄道、河川の敷き際はむろん公的空間である。住み手の行為は、法的にはすなわち不法占拠である。不法占拠ではあるが、私的占有とは少し違って見える。公的空間である前面道路の対面に「私物」の緑を置く理由を想像してみる。もっとたくさん緑を置く場所がほしい、家の向かい側が寂しい、自分の育てた緑を多くの人に見てもらいたい……。そこにあるのは占有への欲望というよりもむしろ、非言語的なコミュニケーションへの欲望ではないだろうか。
この行為は、それが不法占拠であるかどうかは別問題として、空々しい公的空間を親密な「コミュニティのための場所」に変えている。この「コミュニティのための場所」は、ある種の境界領域において発生するという点でセミ・プライベート/セミ・パブリックの概念に似ている。しかしそれは境界領域にとどまらず、公的空間自体をも呑み込んでしまう物理的な領域的広がりの可能性をもっている。そして、何よりその領域に関わる人間の能動性を原理的に含んでいる。「対面緑化」とは、単なる「地」でしかなかった空間を「図」へと反転させる住み手の主体的行為の表象だと言えるだろう。(T)
38──緑に覆われた歩道/かつての長屋の路地を思わせる
39──道路を埋める緑/JR軌道沿いはグリーンベルトに
40──典型的な「対面緑化」/左側の緑の所有者は右側の住宅の住民か?
■「フィールドワーク」実施経緯
■第1回
□対象エリア:原田−岩屋
□調査日:平成10年2月21日
□参加者:慈憲一/野本馨子/藤本恵理子/中川啓子/槇本光展/松原永季
■第2回
□対象エリア:水道筋−味泥
□調査日:平成10年3月14日
□参加者:泉英明/野本馨子/中川啓子/松原永季
■第3回
□対象エリア:篠原南−新在家
□調査日:平成10年5月30日
□参加者:慈憲一/野本馨子/中尾嘉孝/中川啓子/松原永季/吉川健一郎
■第4回
□対象エリア:楠丘−浜田町
□調査日:平成10年8月22日
□参加者:慈憲一/野本馨子/中尾嘉孝/中川啓子/松原永季/山本和代/吉川健一郎
■第5回/第6回
□対象エリア:御影
□調査日:平成10年11月21日/平成11年5月8日
□参加者:慈憲一/太田耕司/田中正人/野本馨子/中尾嘉孝/中川啓子/松原永季/吉川健一郎/吉原誠
■第7回
□対象エリア:住吉
□調査日:平成10年9月23日
□参加者:田中正人/寺尾晋/中尾嘉孝/中川啓子/松原永季/山本和代/吉川健一郎
■第8回
□対象エリア:住吉−魚崎
□調査日:平成10年9月25日
□参加者:阿部直之/慈憲一/野本馨子/中尾嘉孝/中川啓子/松原永季/山本和代/吉川健一郎
■第9回
□対象エリア:岡本・本山
□調査日:平成10年10月2日
□参加者:阿部直之/岩壷祐里/野本馨子/中尾嘉孝/中川啓子/藤本恵理子/松原永季/山本和代
■第10回
□対象エリア:森・深江
□調査日:平成10年10月11日
□参加者:岩壷祐里/田中正人/野本馨子/中尾嘉孝/中川啓子/松原永季/山本和代
■「錯乱のNEW KOBE展」巡回地リスト
■港区
□会 場:建築会館展示ホール
□開催日:平成12年1月6日−17日
□内 容:パネル展示
□備 考:−
■神戸市
□会 場:神戸海洋博物館
□開催日:平成12年1月22日
□内 容:パネル展示
□備 考:「Memorial Conference」に併設
■世田谷区
□会 場:梅ヶ丘アートセンター
□開催日:平成12年3月11日−15日
□内 容:パネル展示+スライド上映
□備 考:−
■台東区
□会 場:谷中ギャラリーCASA
□開催日:平成12年4月13日−20日
□内 容:パネル展示+スライド上映
□備 考:−
■宇都宮市
□会 場:倉詩舎
□開催日:平成12年4月22日−
□内 容:パネル展示+スライド上映
□備 考:−
■墨田区
□会 場:一寺言問集会所
□開催日:平成12年5月27日−
□内 容:パネル展示+スライド上映
□備 考:向島ネットワークイベント実行委員会と共催
■京都市
□会 場:京都市景観・まちづくりセンター
□開催日:平成12年10月13日−20日
□内 容:パネル展示+スライド上映
□備 考:まちづくりセンター他と共催
■松江市
□会 場:県民会館
□開催日:平成13年1月20日−2月10日
□内 容:パネル展示+スライド上映+WS
□備 考:まつえ・まちづくり塾と共催
■プランナーズネットワーク神戸「錯乱のNEW KOBE展」スタッフ
岩壷祐里/慈憲一/田中正人/野本馨子/中尾嘉孝 /中川啓子/藤本恵理子/松原永季/山本和代/吉川健一郎
3:フィールドワークの展開 田中正人
プレゼンテーション
私たちはフィールドワークを通じて獲得してきた「キーターム」をもとに、一〇数枚におよぶフォトパネルを作成した。全体のタイトルは、レム・コールハースの著作をもじって「錯乱のNEW KOBE」と名付けられた。フォトパネル作成の意図は、「小さな物語」の一コマを描き出し、カタチにするという目的と、もうひとつ別の射程をもっていた。すでに触れたように、被災都市/再生都市の「キーターム」は「未来の住環境像を先取りした都市」の「キーターム」としても読み換えが可能であるという仮説に、それは基づいている。私たちは、その「仮説」のもとに「中央(東京)」の建築・都市計画家に向けたフォトパネル展「錯乱のNEW KOBE展」を企画した。目的は二つあった。ひとつは、私たちの「仮説」をめぐる対話と議論の可能性を拓くことであり、もうひとつは、その「仮説」がすこしでもリアリティをもつとき、建築・都市計画家は、「小さな物語」にどのように関わり、どのように「キーターム」を育て、組み替え、デザインすることが可能なのかを模索することだった。
「錯乱のNEW KOBE展」は東京の建築会館で一二日間にわたって開催された。ロビーでの展示ということもあり、多くの人の目に触れたのは確かであろう。だがやはり、視覚的なプレゼンテーションには限界があった。それは「中央」に「仮説」の議論をもち込むにはとうてい至らなかった。なかには熱心な批評を送ってくれた人もいた。パネルを見て、実際の神戸のまちに足を運んでくれた人もあった。だが、どうしてもメッセージを送りっぱなしという一方通行の感を拭うことはできなかった。私たちは、「仮説」をめぐる活発な対話と議論の場を求めていたし、「小さな物語」の重要性を再確認する場を望んでいた。
「展示だけでなく、自ら語り部になってスライド交流会をやろう」。私たちは、人脈をたどりながら、交流の場を求めて東京方面を巡回した。スライド交流会は世田谷区梅ヶ丘、台東区谷中、宇都宮市、墨田区向島の四カ所で開催された。参加者の側からは、新しい視座や異なった解釈、私たちが忘れかけていた事実などが次々に提出された。それは、「キーターム」の意味を揺るがし、「小さな物語」の自動記述に歯止めをかける。スライド交流会には確かな手応えがあった。
しかし、その議論は、結局どこまでいっても被災都市/再生都市・神戸の地平を離れることはなかった。ほとんどの参加者の目には、あくまでも「切断住宅」は震災による「心的外傷」であり、「群住宅」は再生プロセスにおける突然変異態にすぎなかった。「仮説」は未だリアリティを見出せていない。
フィールドの拡大
[二〇〇〇年一〇月・京都]
東京方面での巡回が一段落した頃、私たちは「中央」を離れ、新たに京都をフィールドに定めた。交流会は、京都市の外郭団体である「京都市景観・まちづくりセンター」、そして私たちと同じく建築・都市計画等の専門家集団である「まちづくりネットワーク京都」との共催という、これまでとは異なった形態による試みとなった。
共催である以上、それぞれに独自の目的意識があり、その整合が必要とされた。京都は、京都のまちへのインパクトを希求する。私たちの意図は、「仮説」のリアリティを共有することにあった。ただ、これまでの経験からその意図が京都のまちへのインパクトとして受け入れてもらえるかどうか、自信はなかった。といって、私たちには別の切り口でスライド交流会を実施するだけの準備も、意志もなかった。
「事前に京都のフィールドワークをやりませんか」。京都からの提案は、両者の目的意識を限りなく接近させるものだった。プレ調査を含め、フィールドワークは京都市の旧市街、西陣地区を中心に二日間行なわれた。
神戸に復興の「大きな物語」があるように、京都には京都の、長い歴史都市としての「大きな物語」がある。それはおそらく、神戸とは比較にならない巨大な「物語」であるだろう。京都でのフィールドワークの企図は、京都を覆う巨大な「物語」の中に神戸の「キーターム」を探すことだった。
私たちの予想を超えて、それはあった。「切断住宅」は、決して震災による「心的外傷」などではないし「群住宅」は再生プロセスにおける突然変異態ではなかった。もちろんその文脈はさまざまであったし、なかにはまったく相容れない現象もあった。むしろそれは当然だろう。重要なのは、「大きな物語」として捉えた場合には見えてこない二都市の共通項が、「小さな物語」の中にあるということだ。
スライド交流会は、二台の映写機を用いて二都市の映像を比較参照しながら進められた。並列された二枚のスライドは、時折、異様なまでにクロスした。私たちは「仮説」のリアリティを確信しつつあった。
[二〇〇一年二月・松江]
京都での交流会の直後、島根県松江市に拠点を置く「まつえ・まちづくり塾」という市民団体から連絡があった。松江での交流会開催の依頼だった。神戸と松江では市街地の規模も都市構造も歴史的背景もまるで違う。私たちの間で実施の意義が問われた。しかし、そもそも各地を巡回することの意味は、市街地の規模や都市構造や歴史的背景の異同を超えて「仮説」のリアリティを議論することにあった。松江での開催を拒む理由はなかった。
私たちと「(財)京都市景観・まちづくりセンター」、「まちづくりネットワーク京都」との関係は、京都での交流会以降より密になっていた。松江での交流会には京都も参画することが決定し、企画段階からともに検討を行なった。神戸、京都、松江、合同での事前フィールドワークが実現した。
松江における神戸の「キーターム」を語るうえで特筆すべき舞台は、堀川という掘割沿いである。近年、観光資源として遊覧船が通ることになった堀川は、従来、川沿いの住民にとっては単なる家の裏側の空間であったにちがいない。そこに突然、まったく見知らぬ観光客を乗せた船が通過し、住まいはその視線を浴びつづけることになった。見知らぬ「他者」からの視線を遮ろうとした結果が「窓なし住宅」であり、「他者」との対話を希求するのが「コモノ」の配置であったとすれば、堀川沿いの現象は明らかに後者だった。住民は裏庭を花や緑で飾り、船上にいる人々に向けて「七人のこびと」を並べていた。それは、単なる「地」であった掘割空間が「図」へと反転する瞬間でもあった。その意味で、掘割は「対面緑化」が形成する「コミュニティの場所」にもよく似ていた。
スライド交流会では、三台の映写機を駆使して神戸、京都、松江の三都市の比較が行なわれた。そして、今回の企画にはもうひとつ新しい試みがあった。それは、交流会を踏まえてのワークショップの開催だった。「神戸・京都の視点から、松江の具体的なまちづくりにアプローチしてみたい」という松江側からの提案だった。ワークショップは、神戸・京都というフィールドと新たなフィールドである松江との濃密な交流の場を生成した。それは、私たちの「小さな物語」を敷衍する機会をつくりだし、「仮説」のリアリティをより身近に理解する環境を醸成した。ワークショップは、参加者一人ひとりが「小さな物語」を物語る行為そのものだった。もはや「小さな物語」を被災都市/再生都市だけの悲喜劇だと理解する人は誰もいなかった。同時にそれは、「キーターム」の意味をつねに動揺させ、「小さな物語」をリライトする行為でもあった。
採集・分類・記述・比較の循環運動
考現学の方法は、採集・分類・記述・比較の四段階として説明される★一。私たちの作業もまた、形式的にはそのプロセスを踏襲している。しかしそこには、ある偶発的な展開があり、実験的な試行があった。それは紆余曲折と呼ぶにはあまりにも長く、あまりにも不器用な足取りだった。
まず、神戸におけるフィールドワークがあり、そこで採集されたものの分類、記述があった。次に京都でのフィールドワークがあり、同じく分類、記述という作業を経て、二都市の比較が行なわれた。比較はスライド交流会の場を通じて、さまざまな参加者の意見が反映される。さらに松江でのフィールドワークがあり、三都市の比較があった。ここではスライド交流会だけでなく、ワークショップを通じたより濃密な議論が行なわれた。
注意すべきは、ここでの二都市あるいは三都市の比較という作業は、各都市の実態を相対的に位置づけるということよりもむしろ、採集、分類、記述された事象を再定義するプロセスとしてあるという点である。比較の作業は、前段のプロセスへ逆行するベクトルをもち、既存の記述をいったん宙吊りにすることに意図がある。
むろん、このことは私たちのフィールドワークが考現学の手法よりも緻密であるということを意味していないし、逆に私たちの未熟さを強調するものでもない。より正確に言うならば、私たちの手法はその未熟さを補完するプロセスそのものだった。採集・分類・記述・比較・記述・比較……という循環運動は、無限のフィードバックを繰り返すことで、対象への眼差しの多数性を実現する。私たちの手法が、その実現に少しでも接近したとすれば、それが京都や松江の人々との交流によるものであることは言うまでもない。
象徴からの離脱、記号化の否定
すでに触れたように、「群住宅」や「切断住宅」は被災都市/再生都市に固有の「キーターム」だと理解される傾向があった。私たちの「仮説」は、決してそうではなく、すでにその「キーターム」は多くの既成市街地で姿を現わし始めているし、さらに将来の出現に向けての準備を整えつつあるだろう、というものであった。
フィールドの拡大を通じて、この「仮説」は一定のリアリティをもち始めている。「切断住宅」は震災復興の残滓ではないし、「窓なし住宅」は悲劇のトラウマを抱えたマイノリティではない。「パノプティック・シティ」は大都市の多くで知覚され、「コモノ」は路地に並んだ鉢植えが昔からそうであったように、非言語的コミュニケーションのツールとして今や巷間にあふれている。少なくとも「キーターム」=「震災の象徴」という等式は成り立たない。
他方、「キーターム」はつねに記号化の危険性とも隣り合わせにある。「小さな物語」への注視は、かならずしも「大きな物語」からの解放を意味しない。そのことを、私たちは松江でのワークショップで痛切に感じていた。ワークショップは、たしかに参加者一人ひとりが「小さな物語」を物語る行為を触発したし、その舞台は決して被災都市/再生都市だけではないのだということをより深く認識させた。しかし一方で、「キーターム」を松江のまちなかに見出そうとする意志は、例えば歴史的街並み保全の文脈における「高層ビル批判」や「現代風ファサード批判」の言説と奇妙に同居していた。これは、「キーターム」が一種の記号として理解される可能性を示唆している。「キーターム」は、具体的な場所における生の現象である「小さな物語」の舞台装置であり、「小さな物語」から離れて存在することはできない。「キーターム」を見出すのは、耳触りのいい、聞き慣れた「物語」に順応することを拒否し、そこに語られない、忘れられ、見捨てられた「物語」に耳を傾けようとする態度にほかならない。それは、「高層ビル」や「現代風ファサード」を結論的に批判することを排除しないが、高層/低層、現代風/近代風/近世風、といった既存の指標に基づく判断を無効にする。
「群住宅」は「一戸建ミニ開発」の別称ではないし、「コモノ」は「ホームセンターの商品」ではない。「対面緑化」は「整備された植栽帯」とは似て非なるものである。「キーターム」の記号化とは、「キーターム」の自己韜晦にほかならない。
註
★一──黒石いずみ『「建築外」の思考──今和次郎論』(ドメス出版、二〇〇〇)一五一頁。