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時を建てる──WTC、ザクセンハウゼン、伊勢神宮 | 田中純
Building a Moment: World Trade Center, Sachsenhausen, and the Ise Shrine | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) pp.2-12

 

一、「アメリカのイコン」

二〇〇一年九月の同時多発テロによって崩壊したニューヨーク世界貿易センター(WTC)跡地では、二〇二年五月三〇日に犠牲者の遺体捜索と瓦礫撤去の作業打ち切りが宣言され、その終了式典がおこなわれた。これによってこの土地は、再開発へと向けて動き出すことになった。
WTC跡地利用計画の実施主体となっているのは、ローアーマンハッタン開発公団(LMDC)とニューヨーク・ニュージャージー港湾局である。港湾局はこの土地の所有者であり、LMDCは九・一一事件を受けてローアーマンハッタン地区の再建のため、州と市が協力して創設された組織である。七月一六日には、WTC跡地とその周辺地域の将来をめぐる議論のフレームワークを提供するという趣旨のもとに、LMDCによる再開発計画案が発表されている★一。
この計画案は三段階ある計画策定プロセスの最初のものと位置づけられており、六つのコンセプト・プランを提示している。当初の予定では、これらのプランに対する市民の意見を公聴会などを通じて得たうえで、それらを反映するかたちで九月に三つの修正案が出され、最終的な実施案を一二月に決定することになっていた。
LMDC案は、事件のメモリアル、交通機能の回復、オフィスや賃貸スペース、ホテル、その他のインフラといった、この場所に必要とされる諸要素を網羅しようとするものであった。計画案を解説する文書中で列挙された目的の筆頭には、記憶と想起のための場所としてのWTC跡地を尊重し、ひとつないし複数の恒久的なメモリアルのためにその一部を確保すべきことがあげられている。一方、第二の目的としては、ローアーマンハッタンの長期的な活力を高めるために、この土地の継続的再活性化の促進が唱われている。メモリアルと都市機能の再活性化という、必ずしも両立するとはかぎらない二つの要求の併立が、これによって示されていると言えるだろう。この分裂はWTC跡地の処遇につきまとうことになる。メモリアルを中心にオープンスペースや文化施設を充実させる一方で、ローアーマンハッタンの経済力を以前同様に維持するために、商業的オフィス利用の規模を回復しようとするLMDC案は、目標設定からしてすでに折衷的なものだった。
具体的な都市デザインの諸要素を検討するにあたって、LMDC案の文書ではまずはじめに、メモリアルの先行例を数多くあげている。その第一が日本軍の真珠湾攻撃によって撃沈された戦艦のメモリアルであり、このリストはさらに、オクラホマ・シティー爆破テロ事件の慰霊碑、ベルリンのユダヤ博物館、アーリントン墓地のJFKメモリアルなどへと続いてゆく。真珠湾攻撃のメモリアルが真っ先に取り上げられている点は、WTCの崩壊をもたらしたテロが、この計画案の策定者たちの間で、どのような歴史的記憶と強く結びついているかを暗示していると言ってよいかもしれない。
LMDCによる六つのコンセプト・プランは「メモリアル・プラザ」「メモリアル・スクエア」「メモリアル・トライアングル」「メモリアル・ガーデン」「メモリアル・パーク」「メモリアル・プロムナード」と名付けられ、それぞれ敷地図や模型写真、あるいはハドソン川から見たスカイラインなどのCG図版付きで解説がなされている。都市グリッドに対する関係や周辺地区へのアクセスを考慮した敷地の区画割りなどの点で違いを見せつつ、しかし、これらのプランは、メモリアルが設置されるオープンスペースとそのまわりの高層ビル群(スカイラインを特徴づけるためのアンテナないし彫塑的な頭頂部を備えた、特に高い一─二棟を含む)という基本構成において、与える印象はすべてきわめて類似している。
こうしたプランはいずれも最終案ではないばかりか、敷地利用と建物のマッスをあくまでコンセプトとして示しているにすぎず、建築物のデザインを提供するものではない、とLMDCは強調している。しかし、模型やCGを使って視覚的なイメージを提供している以上、それが具体的な都市景観の提案として受け取られることを回避できるはずもなかった。このいかにも折衷的なコンセプト・プランに対する世論の反応は冷ややかなものだったと言ってよい。七月二〇日と二二日に開かれた公聴会には、両日合わせて四五〇〇人が参加し、全体の傾向としてはメモリアルと経済・生活再生との両面のバランスを計画に要求し、その策定プロセスそのものについては、設計競技などによる質の高いデザイン実現が強く求められた。LMDC案は大胆な提案に欠けているうえ、巨大なビルが稠密に林立しすぎていると批判され、オフィス以外の生活用途をもっと重視した、貸借権に縛られない開発が必要だという指摘を受けている★二。
世論のこうした反応を受け、八月一四日には世界の建築家に向けて、「追加的なコンセプト計画」の募集が開始された★三。それによると、九月一六日に資格認定書の応募が締め切られ、九月末までに過去の実績などに基づいて、五チームが選出される予定であった。すべてのチームには一一月末までに設計図、手書きのスケッチ、完成予想図、CG、サイト模型を含む最終案と説明書の提出が求められており、それぞれの案は二〇〇二年の年末までに一般公開されるスケジュールとなっていた。一種の設計競技を取り入れたこの募集に際し、LMDCは公聴会の意見を反映すべく、あらたな代替案に盛り込まれるべきポイントとして、「特色あるスカイライン」と「ツインタワーの痕跡保存」などをあげている。
この設計競技の実施により、修正されたコンセプト案を九月中に三つに絞ろうとしていた当初のスケジュールは大幅に変更されることとなった。ただし、ここで選出される五チームは、あくまでLMDCなど、今までの計画策定主体と共同で、代替となる「追加的な」コンセプト案をかたちづくるにとどまっている。再開発プロセスの根幹(特にデザイン決定の主体)は変化していないと言ってよい。
九月二六日、WTC跡地のデザイン・スタディに参加する六チームが発表された★四。これらのチームは四〇七の応募(三四カ国)から選出されており、年末までに少なくとも三つの案が一般に公開される予定とされている。二〇〇三年春までには最終案が決定される見込みである。六チームの内訳は次の通り。
ダニエル・リベスキンド事務所
フォースター・アンド・パートナーズ
リチャード・マイヤー、ピーター・アイゼンマン、チャールズ・グワスメイ、スティーヴン・ホール
ユナイテッド・アーキテクツ(ライザー・ウメモト、FOA、グレッグ・リンほか)
SOM(+SANAAほか)
THINK(坂茂、フレデリック・シュヴァルツ、ラファエル・ヴィニオリほか)
それぞれのチームが受け取る給付金が四万ドルであることや、計画全体のなかでの必ずしも主導的とは言えない位置づけからすれば、この計画への参入はさほど魅力的なものではなかっただろう。四〇七という応募数は決して多くはない。にもかかわらず、著名な建築家たちの参加があったのは、WTC跡地再開発計画がいまだ多分に流動的で、大規模な介入の余地を残しているとともに、困難であるがゆえに挑戦する価値のあるものと受け取られたことを示すのかもしれない。リベスキンド、フォースター、アイゼンマンといった、いずれもベルリンにおける象徴的建築物(ユダヤ博物館、国会議事堂、ホロコースト・メモリアル)を手がけた建築家たちが選出されて名を連ねていることからも、このプロジェクトがきわめて象徴性の強い、メモリアル志向のものである点が見て取れるだろう。また、チーム編成からは、建築家の世代的な競争関係もうかがえる。
それぞれのチームがどのような構想のもとにWTC再開発計画に参入し、結果としてどんな案にいたったかが明らかになるまでには、いまだしばらくの時間が必要である。一方、LMDCは、チームを選定したのちの一〇月一一日にあらたな計画指針を発表し、彼らのデザインを拘束する枠組みを提示してみせた★五。
「ローアーマンハッタンのための新しいヴィジョン」と題されたその指針は、冒頭に「二一世紀のダウンタウン」というフレーズを掲げている。デザイナーである「あなた」に呼びかける形式をとったこの文章は、その「あなた」のデザインが、この国第三の規模のビジネス街を二一世紀のダウンタウンに変容させるためのコーナーストーンになるだろう、という呼びかけから始められている。それによれば、この土地は国際空港へのアクセスを備えるとともに、文化・娯楽・ショッピングの中心でなければならない。そして、もっとも重要なのは、その心臓部にメモリアルが位置することだ。このメモリアル(それは二〇〇三年に予定される国際的な設計競技で決められることになるという)は、自由の女神やエリス島といったランドマーク同様に、周辺のどこから見ても「アメリカのイコン」になるだろう。一方、回復されたスカイラインは大都市住民に同一化できる象徴を与え、ニューヨーク市のための「新しいイコン」になるに違いない……。
注意が必要だが、ここで呼びかけられている「あなた」の仕事は、ニューヨークの「イコン」としての特徴的なスカイラインの回復までであって、もうひとつのイコン、すなわちメモリアルのデザインを含んではいない。この計画指針中でもそのことはわざわざ太字で「象徴的メモリアルとそれに関連する要素は国際設計競技の対象となるだろう。あなたはメモリアルをデザインしなくてよい」と強調されている。プログラム上の要求項目ではよりいっそうはっきりと「メモリアルをデザインしないこと」と明記され、「メモリアルがどんなものになるか知る方法はないが、そのコンペティションに含まれるであろう適切な場所やセッティングを示しなさい」と命じられている。
メモリアルを敷地の全体計画から切り離し、コンペティションによって選出するという手続きは、これまで必ずしも明確にされてきたプロセスではない。この指針は、公聴会などを通じてWTC跡地の再建計画に強く求められていた二つの象徴的要素であるメモリアルとスカイラインを分離し、前者を別の場での決定にゆだねている。メモリアルがその規模によってはスカイラインをも変えずにはおかないことを考えれば、この二つの「イコン」がそう簡単に分離できるものでないことは明らかだ。LMDC自体がコンセプト・プランでメモリアルの先行例に言及していたことから考えても、あるいはこの計画指針においてあえて「メモリアルをデザインするな」という禁止を強調している点を見ても、選定された六つの建築家チームが、このようなメモリアル的要素の分離をあらかじめ承知していたかどうかは疑わしい。うがった見方をすれば、メモリアルへの志向が前面に押し出された計画策定プロセスに建築家たちをおびき寄せたうえで、メモリアル本体のデザイン決定権を彼らには与えないことをあとになって通知した、というわけである。
なるほど、スカイラインという象徴的「イコン」への取り組みが彼らには残されている。メモリアルがどんなものになるともわからない状態で、「コンペティションに含まれるであろう適切な場所やセッティングを示しなさい」という課題が与えられたことにより、自分たちにゆだねられたスカイラインのイコン性に比重が置かれ、メモリアル用のスペースは相対的に小さくされてしまうといった顛末が予測できよう。巧妙な誘導作戦と言うべきだろうか。LMDCは、公聴会や電子メールなどを通じて得た市民の意見を計画に反映させると述べ、計画策定プロセスの民主性を強調しているが、この場合、メモリアルのデザインを全体計画から切り離すという一方的な決定の根拠がそもそも判然としない。そこに何らかの政治的思惑が感じられてしまうのである。LMDCや港湾局、ニューヨーク市と州、あるいは選出された建築家チームといった、複雑な協力・競合関係にある構成員たちが、相対立するさまざまな要求と感情を抱えた市民たちの意見を反映しながら動いてゆく計画策定プロセスは、単純に「民主的」なものと言うよりも、はるかに錯綜した政治的駆け引きの場であろう。
しかし、可視的な「イコン」への願望それ自体は終始根強く、幅広く共有されているように思われる。公聴会の場では市民たちに、WTC跡地にふさわしいメモリアルの具体的デザインが求められる場合もあった★六。CNNのサイトには、この敷地に建てられるべきものを一般人が自由にデザインし投稿したイラストやCGを三〇〇〇以上も掲載したページがある★七。二〇〇二年一─二月には、リベスキンドやハンス・ホラインなどを含む五〇人以上の建築家たちによる新しいWTCのデザイン案の展覧会がニューヨークで開かれ、秋にはヴェネツィアの建築ビエンナーレでも展示された★八。この展覧会を企画したギャラリー関係者が言うように、それがあえて楽天的に建築のヴィジョンを掲げてみせたものであったのだとしても★九、一般市民から建築家にいたるまで、そこで提案されたこの土地に建つべきメモリアルや建造物のイメージは溢れかえるほどに過剰で、その噴出のさまそれ自体が、建築に対する楽天的な信仰どころか、建築の根深い不能を示しているように見える。
公聴会ほかの市民の意見を集約したLMDCの見解としては、WTCタワーの痕跡(文字通りには「足跡(footprints)」★一〇)保存が課題なのであって、必ずしもそれは巨大なメモリアルの建造を意味しない。その意味では、メモリアルとスカイラインの造形を切り離した決定は正しいのだが、メモリアルに「アメリカのイコン」などという過重な意味を与えることで、LMDCの要求は結果的に矛盾しあい、混乱を来たしてしまっているように思われる。
メモリアルにしろ、スカイラインにしろ、WTC崩壊による欠落が補償され、その空虚が補填されなければならないと見なされたとき、この空白地帯めがけて無数のイメージが押し寄せる。その性格上、それらはすべて代理物でしかなく、欠落してしまったものを完全に埋め合わせることはできない。その意味でイコンとしての「あらたなWTC」とは各人各様のフェティッシュなのだ。そのフェティッシュが逆に覆い隠してしまいかねないものは、ツインタワーの「足跡」という、破局の物質的な痕跡にほかならない。
WTCの足跡は、『ショアー』でヘウムノ絶滅収容所のかつての収容者シモン・スレブニクが再訪し、そのわずかな痕跡を歩いてたどった収容所施設の輪郭を連想させる。「足跡」という呼び名が暗示しているのは、それがすでに不在になった何者か(擬人化された双子の建築物)の物理的接触による名残りであること、つまり、「それはかつてあった」という形で過去を現前化させるインデックス的な記号であるということだ。
かつてゴードン・マッタ=クラークはビルの空洞を穿つことで、その空間に異質な時間を導入して見せた。ロザリンド・クラウスはそこに写真のフレーミングに似通った効果を見いだしている。マッタ=クラークの作品においては、建築物そのものがこの「切り取り」の操作により、コード化を前提とすることなく作品というメッセージとして現前化され、同時にそこは過去の時間によって満たされる。「というのもこれらの作品はある物理的な原因によって生み出されているにもかかわらず、その痕跡、刻印、目印は、それ自体もはや所与の記号においては現前していない原因の名残りだからである」★一一。このような痕跡によるフレーミングのおかげで、建物は現前していると同時に再─現前化される。そして、この二重化のうちに現在と過去の時間の重合が起こるのである。切り通しという手続きによって生じた空虚は「建物を亡霊というかたちで、見る者の意識にもたらす」。WTCの足跡というフレームによってマンハッタンに導き入れられるのは、この「亡霊」の時間、途方もない過去の感覚ではないだろうか。
都市を亡霊化するこのような空虚をニューヨークは許容できるだろうか。たとえWTCの足跡が保存されることになったとしても、そこにはさまざまな手が加えられ、「足跡」という剥き出しの物理的痕跡が与える印象は和らげられてゆくのではないだろうか。WTC跡地再開発計画の経緯が示しているのは、メモリアル機能の重心を、都市の時間を浸食するこのインデックス的空虚から、あらたに建造されるべきシンボル記号(「アメリカのイコン」)へと置き換える動きであるように見えるからだ。メモリアルという想起のための装置が作り出されるのに伴って、過去の現前というパラドクスは都市空間から排除されてゆくに違いない。

1──LMDCのコンセプト・プラン 「メモリアル・プラザ」3Dレンダリング 出典=http://www.renewnyc.com/plan/plaza/ 3d_6_large.htm

1──LMDCのコンセプト・プラン
「メモリアル・プラザ」3Dレンダリング
出典=http://www.renewnyc.com/plan/plaza/
3d_6_large.htm

2──CNNのサイトより Peter Ka-wo Li(Toronto, Ontario)の投稿したイメージ 出典=http://www.cnn.com/SPECIALS/2002/ wtc.ideas/designs/page.88/

2──CNNのサイトより
Peter Ka-wo Li(Toronto, Ontario)の投稿したイメージ
出典=http://www.cnn.com/SPECIALS/2002/
wtc.ideas/designs/page.88/

3──ハンス・ホライン「新ワールド・トレード・センター」 出典= http://www.maxprotetch.com/SITE/PREVIOUS/ ANEWWTC/HOLLEIN/index.html

3──ハンス・ホライン「新ワールド・トレード・センター」
出典=
http://www.maxprotetch.com/SITE/PREVIOUS/
ANEWWTC/HOLLEIN/index.html

4──ダニエル・リベスキンド 「新ワールド・トレード・センター」 出典= http://www.maxprotetch.com/SITE/PREVIOUS/ ANEWWTC/LIBESKIND/index.html

4──ダニエル・リベスキンド
「新ワールド・トレード・センター」
出典=
http://www.maxprotetch.com/SITE/PREVIOUS/
ANEWWTC/LIBESKIND/index.html

5──ゴードン・マッタ=クラーク 「Conical Intersect」(1975) 出典=http://www.guggenheim collection.org/site/artist_work_lg_105A3.html

5──ゴードン・マッタ=クラーク
「Conical Intersect」(1975)
出典=http://www.guggenheim
collection.org/site/artist_work_lg_105A3.html

二、歴史という時間のデザイン

マッタ=クラーク的な切り通しの方法を建築デザインにおいて実現したのが、リベスキンドのベルリン・ユダヤ博物館である。なるほどその「空虚(ヴォイド)」は既存の建物に対して空洞を開けたものではなく、博物館とともにあらたにかたちづくられてゆく空間にほかならない。だが、その効果は、ユダヤ人の虐殺や追放を「象徴」したシンボル的なものと言うよりも、無造作にその場に残された痕跡のそれだろう。この空虚によって博物館は内側からフレーミングされ、過去の時間で満たされて、亡霊化されるのである。
破局的な過去をめぐるこのような博物館あるいは記念碑において問題なのは、空間のデザインである以上に、それを通じた時間のデザインなのだ。ユダヤ博物館のみならず、ベルリン・アレクサンダー広場計画案やオラーニエンブルクの旧ナチ親衛隊施設跡地計画案などにおけるリベスキンドのコンセプトを特徴づけているのはこの視点である。彼自身はそこで問題になっている対象を「構造的なトラウマ」と呼んでいる★一二。それはかつてただ一度だけ起こった破局によって残されたものである以上に、都市やある地域のトポグラフィ、ヨーロッパや世界のトポグラフィを今現在構造化している何かにほかならない。そして、リベスキンドのプロジェクトそのものが、こうしたトラウマによって物質的に構造化されているのだと言う。
「トラウマ」という概念は、ホロコーストに始まり、さまざまな惨事をめぐって多用される符帳になっている。例えば、歴史的記憶についてのドイツの言説ではこの概念が、「絶対的な非文字」、単なる痕跡にすぎない、読みえない印といった意味を帯びているという指摘がある★一三。ドイツに限らず、「トラウマ」をキーワードとして展開される、読みえないもの、語りえないもの、描写しえないものをめぐる定型化された言説の流布が、具体的な事件の可読性をないがしろにする危険を孕んでいることは確かだろう。
そのような事例のひとつとして、リベスキンドも参加した旧ナチ親衛隊施設跡地計画の設計競技選考過程をめぐる分析がある★一四。この親衛隊施設はザクセンハウゼン強制収容所に隣接していた。さらにその全体はオラーニエンブルク市の外れではなく、まさに中心部に位置している。そこでは一般市民の日常と収容所内の殺戮とが境を接していたのである。

ダイアナ通りの当時の住民たちは九年間、囚人たちの輸送車が通り過ぎるのを目にし、彼らやイエーガー通り(今の国民通り)の隣人たちは大量射殺の射撃音や犠牲者たちの悲鳴、号令の数々、夜中の収容所査察や収容所内の移送の騒音を耳にし、作業場で焼かれる屍体の悪臭を嗅いだ。こうしたすべてが五〇年前のことなのである★一五。


オラーニエンブルク市は廃屋と化した親衛隊施設の跡地を住宅地にするため、一九九三年に設計競技を実施した。その目的は「この土地の歴史的なコンテクストを止揚すること」であり、「収容所のあったところに都市あるべし(Wo Lager war, soll Stadt sein)」なのだという★一六。言うまでもなくこれはフロイトの「エスがあったところに自我が生じなければならない(Wo Eswar, soll Ich werden)」という言葉のもじりである。ここではつまり、収容所に刻まれた加害者の歴史は無意識的な衝動のなせる行為と位置づけられ、それとは対照的に、土地の都市化はそのような衝動を制御する自我的な審級の確立と同一視されているのだ★一七。

ここで正常な──三角形の収容所から石を投げて届く距離内にいることが、正常さを意味しうるのであれば──生活が営まれるべきだとすれば、親衛隊的な性質はあらゆる手段を講じて粉砕されなければならない。これはとりわけ次のような決定的な条件のもとにおいてである。中心的な収容所群がそこでついに目に見えるようになるということだ★一八。


東ドイツ時代にすでに歴史的記念物とされていた強制収容所跡地は、その周辺を囲む一戸建ての住宅群によって覆い隠されることをやめて、「都市を記念の地に向けて開き、記念の地を都市のなかで目に見えるようにする正しい街区」が生み出されなければならない★一九。親衛隊施設が跡形もなく破壊され、不可視化されて、住宅地に取って代わられる一方で、記念物としての収容所は「正しく」「目に見える」ように、都市構造のなかに組み込まれるというわけだ。都市化されるべき収容所(「収容所のあったところに都市あるべし」)と記念物として保存される収容所とが明確に分離されるのである。収容所の可視化はこの場合、親衛隊施設の不可視化とあくまで対になっているのだ。
このような分離とそれによる収容所(の一部)の記念物化は、空間的なコンテクストを破壊し、土地に刻み込まれた歴史の解読可能性を抹消してしまうものだ、という批判は恐らく正しい★二〇。設計競技の枠組み自体に対する同様の批判から計画案を構想したリベスキンドは、問題の土地とザクセンハウゼン強制収容所との緊密な関係そのものを可視化しようとしている★二一。この強制収容所は一種の「死の理想都市」であり、二等辺三角形の形をした整然とした幾何学的秩序をもっていた。リベスキンドはまず地図上で、親衛隊施設の一帯にまで広がる巨大な三角形の全敷地を強制収容所部分とそれ以外とに分割し、後者の形状をわずかに傾けて再配置する。そのうえでリューベックを通る経線によって、この傾けて配置された敷地を二分割する。なぜリューベックか。それは第二次世界大戦末期にザクセンハウゼン収容所から三万を超える囚人たちが北西に位置するリューベックへと向けて強制連行され、その途上で数千人が命を落とした「死の行進」に由来している。
二分された敷地の西半分については土地が掘り起こされ、隣接する運河から引かれた水で灌漑されて、そこに建つナチ親衛隊施設の建物を水没させてしまう。廃屋は一挙に破壊されるのではなく、水中でゆっくりと崩壊させられてゆくのである。訪問者は桟橋などからその崩壊過程を目にすることができる。
敷地のもう一方には、掘削された土を使って傾斜した台地が造成され、植林がなされる。西の水域はこの地区の地下トンネルによって運河と結ばれ、全体として循環する水系を形成している。リベスキンドはさらに、広大な台地に巨大な細長い長方形の切れ目を刻み込み、その内部に建築複合体を配置することで、新しいトポグラフィを出現させようとした。それを彼は「希望の刻み目」と呼んだ。
リベスキンドの案は、設計競技の趣旨を大きく逸脱し、この土地を住宅地化するという考えに真っ向から批判を加えたものだった。従って、それが優勝を逃したのは当然だったが、この案は「オラーニエンブルク市、ブランデンブルク州、ひょっとしたら連邦共和国にさえ担うには荷が重すぎる次元の規模と強度」ゆえに★二二、特別賞に選ばれている。しかしその一方で、設計競技の審査委員会からは、「このプランの実現は、オラーニエンブルク市にあらたなトラウマを与えることを意味するだろう」という評価を受けた★二三。この「あらたなトラウマ」という表現をめぐっては、次のような批判がある。

それが暗示しているのはまさしく、加害者と傍観者たち、つまりドイツ人たちこそが、トラウマを与えられ、傷つけられ、それゆえに免責されるべきであって、他方で罪は逆方向に投影されて、あたかもこの建築家のほうが、市に提案された彼のコンセプトによって、この都市に「あらたな」損害を加えることで、負債を背負っているかのようだ、といった次第なのである。われわれはこのような立論のなかに、負債の償却や「犠牲者」と「加害者」の立場の交換に向けた願望のために、トラウマ概念がいかに役立っているかを見るのだ★二四。


トラウマが「読みえない非文字」という沈黙の領域と見なされることで具体的な意味内容を失い、このように都合のいい利用に応じてしまう空洞化した概念に陥る危険は確かに大きい。とはいえ、この計画案でリベスキンドは、ザクセンハウゼン強制収容所とナチ親衛隊施設が相互に、そしてさらには周辺地区やリューベックという他の都市との間に織りなすネットワークの形成を通じて、地理的・空間的・物質的レベルでオラーニエンブルク市を構造化しているトラウマこそを可視化しようと試みたのであり、審査委員会の怯えは決して根拠のないものではないのだ。ただし、それは「あらたなトラウマ」ではなく、すでに存在して、都市の内部で構造的に作用しているものと言うべきなのだが。
その後、オラーニエンブルク市は当初の決定を覆し、リベスキンド案の実現を検討することになった。協議の過程のなかで、人造湖の建造が運河新設による水系づくりに変えられるなど多くの変更が加えられ、親衛隊施設の建造物も保存する方向で計画が進行中である。なかでも「希望の刻み目」は六〇×六五〇メートルという巨大な規模で維持され、この計画案の中心をなしている。
リベスキンド案が、強制収容所と親衛隊施設との過去の歴史的つながりを抹消し、前者を単なる記念物として隔離することに対する対抗策として、あくまで歴史的コンテクストを読む可能性を提示したものであることはなるほど確かだとしても、それだけでは、この計画案の「規模と強度」をいささか低く見積もってしまうことにもなりかねない。例えば、親衛隊施設跡地の敷地に楔を打ち込むような「希望の刻み目」という亀裂について言えば、それが法外に大きな存在でありながら、しかしあくまで単なる刻印としてえぐられている点にこそ、「トラウマ」的な強度が生まれるのではなかろうか。それは読みえない「絶対的非文字」だからこそ、歴史的コンテクストを引き裂く「希望」という未来の痕跡になりうるのではないか。アレクサンダー広場計画案をめぐる建築家自身の言葉を借りれば、それは「未だ生まれざるものの痕跡」なのである。インデックス記号によるフレーミングがここでもまた、敷地の時間性を重層化させるために用いられている。ただし、そこで過去は現在と二重化するばかりではない。現前と再現前が交錯することで時間の錯乱したこの場には、いまだ到来しない「未現前」的なものがすでに(つまり過去から来た未来として)痕跡を残しているのである。
一次案にあった人造湖による建物の廃墟化も、水という素材がもつ象徴性を用いながら、崩壊の時間をデザインしようとする発想である。それは、ただ親衛隊施設を放置して廃墟になるのを待つのではなく、その崩壊の過程を建築の側から管理することにほかならない。過去の即座の抹消でもなく、記念物として保存することで非歴史化してしまうのでもない、より柔軟な時間のデザインがそこにはある。建築家はいわば廃墟を、崩壊へと向けて逆向きに建てているのだ。その転倒した建造プロセスの時間を、彼は可視化しようとしているのである。
空虚というフレームによって過去の時間で満たされたユダヤ博物館からこの水中の建築群まで、リベスキンドという時間のデザイナーが建てる「建築の亡霊」はいずれも、既存の建築物や都市構造、あるいはより広範なトポグラフィに対する一種の「接ぎ木」であり、その場所に異なる時間を導き入れる裂け目にも似た開口部である。まさにその接ぎ木性において、それは歴史の「エンブレム」なのだ(「エンブレム」の語源には「野生の果樹に接ぎ木されたさし枝」の意味がある)。そのエンブレムとは、言うまでもなく、事物の世界のアレゴリーである廃墟にほかならない。もちろんそこで問題なのは、ピクチャレスクな廃墟の美学ではなく、廃墟化の時間を可視化することである。「構造的なトラウマ」とはこの廃墟化の時間、アレゴリーの時間を意味している。
オラーニエンブルクの計画案に顕著な一種のアースワーク、ランドアートとしての時間のデザインに通じるものを、われわれは伊勢神宮に認めることができる。周知の通り、その特徴は、二〇年ごとに同形の敷地に交互に建物が建てられるという式年造替のシステムにある。このシステムは、様式の継承過程を保証するとともに──実際には式年造替が長く中断されたうえに、古い形式がつねに受け継がれたわけではないにしても──建築物の「起源」を過去に遡及させる力をもっている。絶えず新しいモードを生み出す近代の時間性に逆らって、伊勢神宮ははるかに長期的なスパンの伝統を実現しているように見える。その結果、それは一挙に古代を現前化させるのだ。
伊勢神宮はみずからが「心の御柱」だけを残して二〇年ごとに建て替えられる仮初めの見せかけであることをあらかさまにシステム化する。この見かけ以外の何ものでもない見かけにおいてこそ、不可視の古代的な「カミ」、空虚にして無であるような「カミ」が現前する。だからこそ、内宮、外宮の殿舎に隣接して同じ形、同じ大きさでぽっかりと空いた「古殿地」の空虚こそは、このような「カミ」の現前にとって欠かせない要素である。それは、伊勢神宮の建物そのものが、物神(フェティッシュ)としての「心の御柱」を囲むこの空虚な場を束の間覆い隠す装置にすぎないことを告げている。
古殿地における建物の不在は、隣接する殿舎の現前によって、もはや現前していないもののインデックス的な痕跡として受容される。覆屋によって隠された「心の御柱」もそうした意味作用を強化する。その結果として伊勢神宮は「古代の現前」という感覚を生むことになるのだ。われわれは伊勢神宮が〇〇一九九年代に建てられた「現代建築」であることを十分知っているにもかかわらず、そして明らかに新しい建物であることを熟知しているにもかかわらず、それがたいそう古いものにも見えてしまう。ここでは意識において理解していることが、無意識的には否認されている。つまり、伊勢神宮が新しい建築であることを意識では受け入れながら、無意識の次元では、それが古代建築であることをいまだに信じているのである。このような知と信仰の分裂において、それは精神分析的な意味におけるフェティッシュであると言ってよいだろう。古代との時間的隔たりの感覚が高まる近代においてこそ、このフェティッシュ性は強まる。それは意識的な知と無意識的な信念との緊張が強まることを意味している。
伊勢神宮という建築物は、こうしたフェティッシュ性の呪縛を逃れれば、実はキッチュになりかねないものだろう。しかし、この「まがいもの」、古代のシミュラクルは、みずからが見せかけであることを隠蔽することに巧みで、「起源」のイデアをファンタスムとして生み出し続ける。いや、それは実は、みずからがキッチュな見せかけとしての見せかけであることを通じてこそ、そのようなファンタスムを生み出し続けると言ったほうがよいかもしれない。
ある種のキッチュ、見せかけであることを十分了解しながら、それに魅せられてしまうことがフェティシズムであるとするならば、伊勢神宮の呪縛から意識的に逃れることは意外に困難だ。それは内在的に組み込まれたアナクロニズムによって歴史的なアプローチそれ自体を混乱させてしまうのだから。中谷礼仁は「歴史的対象物としての条件を意図的に具備しないのが神社建築の最大の特徴とすら言える」と言う★二五。伊勢神宮はまさに歴史的対象物であることの拒否によって、誘惑を続ける。歴史年表のなかに伊勢神宮は位置づけられない。そこでは「オリジナル」が何かを確定できないにもかかわらず、「オリジナル」すなわち「起源」がファンタスムとして生み出され続けているのである。
伊勢神宮は古代と現代の両義性とともに、自然と歴史というもうひとつの両義性を孕んでいる。多くの伊勢神宮論では、それが歴史的な構築物でありながら、同時に自然の産物でもあるかのように、その起源に大いなる「自然」が据えられている。
ベンヤミンによれば、廃墟こそは、没落してゆく歴史と腐敗してゆく自然とが二重化した、歴史的にして自然的な存在のアレゴリーであった(『ドイツ悲劇の根源』)。バロックの歴史感覚がこのようないわば「腐敗してゆく自然=歴史(Natur-Geschichte)」にあったのに対して、ドイツ古典主義は理想化された古代という起源へと一挙に遡行することによって、腐敗してゆく自然=歴史という歴史感覚から訣別する。
では、伊勢神宮が示している歴史感覚とは何か。式年造替の制度は、あたかも自然のサイクルのように、生まれては死んでゆく循環的プロセスを繰り返すことによって、神宮が置かれた「歴史」的時間を浄化された聖なる「自然」の時間へと変容させてしまう。伊勢神宮は腐敗することのない聖なる自然に高められた歴史の具現なのだ。その意味では自然=歴史のアレゴリーである廃墟とは対照的な、自然=歴史のシンボル、象徴と呼んだほうがよい。そして、そこには実は歴史が欠如していると言うべきだろう。この点でそれは、リベスキンドのアレゴリー的な廃墟化の時間の建築と鋭く対立する。
伊勢神宮というシンボルは、廃墟化に逆らいながら、つねに新しい古代を反復する。そこには、歴史的な過去もなければ未来もない。式年造替の年、同形の敷地に並んで建つ二つの神殿は、マンハッタンの双子ビルを連想させないだろうか。それはちょうど、ジャン・ボードリヤールがツインタワーに認めたような「それ自体の内部で二重化」された純粋な記号、互いが互いのモデルでありコピーであるような二つの記号なのである。「このような二つのまったく同一の建築が向かい合って存在するという事実は、一切の競争の終わり、オリジナルなものへの一切の準拠の終わりを意味する」★二六。この記号に外部の指示対象は存在しない。向かい合わせの鏡のように、相互に反映し合う記号同士がひとつの閉ざされたシステムをなしてしまう。ツインタワーはこうしていわばポストモダンな「歴史の終わり」を象徴する建築物となった。一方、伊勢神宮は二つの記号の反射関係に時間のずれを組み込むことで、歴史的な時間の蓄積そのものを希薄化し、その裏返しの効果として古代を現前化させている。それはモダンの現実原則からポストモダンのシミュレーション原則への転換といった歴史上の変化すら、単調な反復でしかないものにしてしまう、はるかに強靱な時間デザインのシステムなのである。
「歴史の終わり」のシンボルは、足跡(空虚なままの二つの「古殿地」)だけを残して姿を消した。「歴史の終わり」のこの終わりが示したことが、そもそも歴史は終わってなどおらず、破局的な大惨事もまた歴史的に重層決定された出来事のひとつだという事実なのだとすれば、これから可視化されなければならないのは、ローアーマンハッタン、あるいはニューヨークやアメリカ合衆国、そして世界のトポグラフィを、地理的・空間的・物質的レベルで構造化している「トラウマ」にほかなるまい。メモリアルの建造や足跡の記念物化と保存だけでは、テロという一事件の記憶を残すことにはなっても、この構造的トラウマの可視化にはつながらない。グランド・ゼロの空虚とスカイラインの空白を一挙に埋めようとするフェティッシュ的なイメージの誘惑に逆らって、アレゴリー的な時間の廃墟が、この都市を亡霊化しなければならない。性急に「アメリカのイコン」「ニューヨークのイコン」を求める再開発計画のテンポに抵抗する時間こそが、それによってデザインされなければならないのである。
「新しいWTC」展に寄せられた高層建築のデザインを見るかぎり、マンハッタンではリベスキンドもまた、象徴的イメージの誘惑に屈しているように見える(地脈を読むような歴史的コンテクストの解読を伴わないプロジェクトでは、彼の提案はしばしば、いかにも脱構築的なフォルマリズムに陥る)。だが、そもそもひとりの建築家、あるいは建築家チームの提案が直接に最終案に反映されるものではない以上、これから展開される計画策定プロセス内でのさまざまな対立と不調和、プロジェクトの停滞と迂回こそを通して、「構造的トラウマ」の所在が浮かび上がることを期待するしかないだろう。時間をかけてこのトラウマと取り組むことなしに「アメリカのイコン」「ニューヨークのイコン」が実現されてしまうとすれば、それはキッチュな見せかけとしての見せかけにとどまるしかあるまい。ニューヨークは失われていた歴史的時間というトラウマを回復することができるだろうか──WTC再開発計画の課題はそこにこそある。

6──旧ナチ親衛隊施設跡地計画案(現行)敷地図 左上の三角形部分がザクセンハウゼン強制収容所 出典=http://www.bundesvermoegensamt-potsdam.de/ images/projekte/sachsenhausen/uebe rsichtsplan_1.jpg

6──旧ナチ親衛隊施設跡地計画案(現行)敷地図
左上の三角形部分がザクセンハウゼン強制収容所
出典=http://www.bundesvermoegensamt-potsdam.de/
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7──ダニエル・リベスキンド、 旧ナチ親衛隊施設跡地計画案「哀悼=朝(Mo(u)rning)」模型 出典=磯崎新┼浅田彰監修『Anyway』NTT出版、1995

7──ダニエル・リベスキンド、
旧ナチ親衛隊施設跡地計画案「哀悼=朝(Mo(u)rning)」模型
出典=磯崎新┼浅田彰監修『Anyway』NTT出版、1995

8──古殿地から見る伊勢神宮内宮 出典=http://www.isejingu.or.jp/naigu/94b.htma

8──古殿地から見る伊勢神宮内宮
出典=http://www.isejingu.or.jp/naigu/94b.htma


★一───URL=http://www.renewnyc.com/concepts.htm
★二──この公聴会については次のサイトを参照。
URL=http://www.listeningtothecity.org/
★三──次を参照。URL=http://www.renewnyc.com/press/08-14-02designstudy.htm
★四──次を参照。URL=http://www.renewnyc.com/press/09-26-02.htm
★五──次を参照。
URL=http://www.renewnyc.com/Content/AVisionforLowerManhattan.pdf
★六──二〇〇二年二月七日の公聴会記録を参照。
URL=http://www.listeningtothecity.org/previous_event/Listening-finalreport.pdf
★七──次を参照。URL=http://www.cnn.com/SPECIALS/2002/wtc.ideas/
★八──次を参照。URL=http://www.maxprotetch.com/SITE/PREVIOUS/ANEWWTC/
★九──ヴェネツィア建築ビエンナーレのサイトにおける発言。
URL=http://194.185.28.38/gb/archi/Next/Padi.cfm?PositionID=1&padiglioneID=USA
★一〇──例えば★三にあげた八月一四日のニュースリリースを参照。
★一一──ロザリンド・クラウス『オリジナリティと反復』(小西信之訳、リブロポート、一九九四)一七四頁。
★一二──Elisabeth Bronfen, et al.: Trauma: Zwischen Psychoanalyse und kulturellem Deutungsmuster. Köln: Böhlau, 1999, S.4.
★一三──Birgit R. Erdle: Die Verführung der Parallelen. Zu  Übertragungsverhäl tnissen zwischen Ereignis, Ort und Zitat. In: Brofen, Trauma, S.34参照。
★一四──Ibid., 34-44.
★一五──オラーニエンブルク・旧ナチ親衛隊施設跡地計画趣旨書より。引用は次による。Peter Neitzke: "Wie es sich denn auf Fla¨chen des Verbrechens lebe". In: Arch+, 117, 1993, S.15.
★一六──Ibid.
★一七──『精神分析入門(続)』でフロイトは、「エスがあったところに自我が生じなければならない」という言葉に続けて、「それはオランダのゾイデル海干拓のような文化事業である」と述べている。リベスキンドはこの言葉を逆手にとるようにして、 親衛隊施設跡地を逆に水中に沈めようとしたのである。Sigmund Freud: Neue Folge der Vorlesungen zur Einführung in die Psychoanalyse. In: Sigmund Freud: Gesammelte Werke. Bd.XV. Frankfurt am Main: Fischer, 1999, S.86.
★一八──Ibid.
★一九──この計画策定に深く関わった建築批評家Dieter Hoffmann-Axthelmの言葉。Dieter Hoffmann-Axthelm:  "Wo Lager war, soll Stadt werden...". In: Arch+, 118, 1993, S.22.
★二〇──Erdle, op.cit., S.38-39.
★二一──この第一次案については次を参照。ダニエル・リベスキンド「哀悼=朝 Mo(u)rning」(田中純訳、磯崎新浅田彰監修『Anyway』、NTT出版、一九九五)一六九─一七〇頁。ただし、一部を修正した。
★二二──計画趣旨書より。Neitzke, op.cit.
★二三──Ibid.
★二四──Erdle, op.cit., S.43.
★二五──中谷礼仁「空間の創出と喪失に関するメモ」(『10┼1』No.17、INAX出版、一五頁)。
★二六──ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』(今村仁司┼塚原史訳、ちくま学芸文庫、一九九二)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『死者たちの都市へ』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.30

特集=都市プロジェクト・スタディ

>スティーヴン・ホール

1947年 -
建築家。スティーヴン・ホール建築事務所主宰。

>foa(エフ・オー・アーキテクチャー)

1995年 -
建築設計事務所。

>SANAA(サナー)

建築設計事務所。

>坂茂(バン・シゲル)

1957年 -
建築家。坂茂建築設計主宰、慶応義塾大学環境情報学部教授。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年 -
歴史工学家。早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>脱構築

Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>浅田彰(アサダ・アキラ)

1957年 -
批評家。京都造形芸術大学大学院長。