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街の記憶とマテリエル──パリ | 南明日香
Memories of the Cities and Material: Paris | Minami Asuka
掲載『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) pp.28-30

「まちづくり」に際して、ことさらコンテクスチュアリズムを標榜せずとも、界隈を表現するために使われてきた言葉を確認するのは必須の作業だ。とはいえ街のイメージは往々にしてひどく恣意的なものだ。与えられた言葉のその背景まで読みの対象になる。目下世界中の注目を浴びているパリ市のレ・アール地区再開発は、歴史と物語を過剰なまでに背負った住民と行政と建築家グループの、思惑と記憶とが複雑に絡んだ典型的な例と言えよう。
遡れば一三世紀以来小売商が密集していた界隈を、一八五二年に、整備された中央市場にする目的で、バルタールの設計による鋳鉄建築の一〇のパヴィリオンが建てられた。それらが一九七二年より高速地下鉄道(RER)駅設置と市街地中心部の開発のために取り壊され、半地下のショッピングセンター(バスコーニ+プランシェアシュ設計、一九七九)と地下公共施設群(シュメトフ設計、一九八五)がそれに取って替わった。ドイツに比べて戦後復興に遅れを取ったフランスが、次々に取り組んだ国土近代化の最後を飾る計画のはずだった。現在、一日の交通機関利用者は八〇万、商業施設利用者は一〇万人に上る。しかし建物の老朽化、安全性での問題が浮上すると同時に、住民側の強い不満が明るみに出てきた。かつて作家エミール・ゾラが『パリの胃袋』に描いた場所はまた、首都の「coeur」(「中心」と「心臓」の意味がある)とも言われていた。それが今では「trou」(穴)でしかないというのだ。しかも地上と四層ある地下での光景、さらに周辺の界隈との間に大きな「coupure」(断絶)があるという。coupureに「切り傷」という意味もあるのを考え合わせると、住民側にとってはトラウマにも似た思いがあったのが伝わってくる。古い教会があり大きな広場があり、なのに朝市も立たない慌しく通り過ぎるだけのスペースは、彼らにとっては空虚な空間なのであろう。
実際ゾラの描いたレ・アールの光景は迫力がある。一〇棟のガラスと鉄骨の建築は、あたかも骨組みと臓器だけが見える透明な生物であるかのようだ。牛一頭を丸ごと解体して脳から血入腸詰ブーダンまで売る肉屋の集まるパヴィリオンをはじめ、べとつく鱗を弾き飛ばす魚屋、濃厚な匂いを発散させるチーズ屋、それぞれに色と重みで存在を主張する野菜の積み上げられた八百屋などが、生々しく圧倒的なエネルギーをガラスの外に放射する。大量の食材が連日馬車や荷車で大量に持ち込まれ、より分けられ、売られる。生産者と小売商の間の必死の駆け引き。衒いもなく表わされる食欲と物欲。「visc屍al」(内臓の、奥深い)という形容のふさわしい欲望が、整った骨組みの中でうごめく。多分このあくなき生のエネルギーの噴出がレ・アールの「coeur」(核心)だったのだ。それが地下鉄道の通過以来臓物を取り除かれ、骨抜きにされ、つまりヴォイドになってしまった。
パリ市長ベルトラン・ドラノエはそうした声を汲み取って(対立する政党のシラク現大統領が市長時代に推進した計画であったという政治的理由もあるようだが)、二〇〇三年六月に再開発の計画に着手した。幾度もの公聴会を経て、この四月七日にプロジェクトが報道関係者に公開された。奇しくも二人のフランス人(ジャン・ヌーヴェルのAJNとダヴィッド・マンガンのSeura)と二人のオランダ人(レム・コールハースOMAヴィニー・マースMVRDV)の四グループによるコンペとなった。
それでは日本人にとってここはどのような場所であったのか?  ゾラの描写に誇張があるのは当然のこととしても、その生々しさは受け入れがたいものだったろう。あれほどまでに熱っぽく花の都パリを語った日本人滞在者の書き残したものに、この場所の描写はまずみられない(例外的に『巴里の胃袋』の翻訳者であるアナーキーな文学者武林夢想庵が短いコメントを残している)。このよく使われる「花の都」という形容は、フランス人にとっては換喩的表現になって花の産地であるオランダの首都が想像される。が、日本では華やかで美しい街という意味を込めて隠喩的にパリを表わしている。しかしその名にふさわしい区域は、山手線の内側分の面積しかないと言われるパリ二〇区の中の四分の一にも満たないだろう。だいたい日本人が集まっていた二つの地区は限られており、高級住宅街を控える一六区とモンパルナス地区が圧倒的に多く、行動半径もけっして広くなかった。たとえばル・コルビュジエが「ヴォワザン計画」(一九二五)で、老朽化した不健康な地区として一掃しようとした右岸の東北の地区は、ほぼ無視されている。
そもそも体験記やそれに基づく小説での記述を鵜呑みにするのは危険だ。実際パリのようにさまざまな小説の舞台となっている街の場合、現実に何をしたかよりも、自分が滞在中にいかに「花の都」にふさわしい存在であったかを、日本人読者向けにドラマ化することが執筆の主眼になる場合が多々ある(岡本かの子など)。東京のような街の外観を批判的に見るまなざしがパリの街の美しさを強調するケースもあり(永井荷風など)、そうしたツーリストへの反動のようにして悲惨な生活を綴るものもあり(金子光晴、宮本百合子など)、伝統や文化が建築に造形化されている街での経験を概念化して、西洋ひいては日本について考察をめぐらすのもひとつの系譜としてある(森有正など)。それぞれが先行するテクストに対して独自性を差異化して見せていて、その結果扱われる対象は反復される。昨今のあまたのパリ体験の研究はこの点を見過ごしているけれども、こうした執筆の現場の事情が街の記憶を言説化するときに方向付けている事実は、考慮しなければならないだろう。
具体例を見よう。モダニスト作家として名を馳せていた横光利一は、一九三六年から半年間、現在の毎日新聞の特派員としてヨーロッパを周った。小説『厨房日記』(一九三七)では、自身が画家岡本太郎とダダイストのトリスタン・ツァラ邸を訪問した夜の出来事を敷衍して書き入れている。このモンマルトルの住宅は、ウィーンの論争家ポレミスト建築家アドルフ・ロースが、傾斜地を巧みに利用しつつラウム・プランに基づいて設計している(一九二六)ので有名だ。だが『厨房日記』では、室内に置かれた幾つかのアフリカの民芸品に眼を留めているくらいで、建築そのものには触れていない。
一方彼のフランスと日本を舞台にした長編小説『旅愁』(一九三九─四六)では、西洋なるものを街並みや建築を通して理解しようとしている。モダンよりもクラシックに遡るのが知識人として正当な視点なのだろう。主人公を通してシャンゼリゼからコンコルド広場にかけての大通りの景観を礼賛している。広場の中心にモニュメンタルな銅像やオベリスクを置き、そこから延びる軸線にそって大通りを設けたバロック都市の構成は、遠近法によって世界を秩序付けたのと同様の意思が伝わり、際立って「ヨーロッパ」的と感じられる風景だ。西洋と日本の対立的特色についての議論を提出しようと試みた物語にうってつけの景観であったと言えよう。翻って今日の言葉で言えば、3Dとスーパーフラットとの比較文化でもできようか。
だが、比較文化論でも通用しなくなっているものもある。石壁と舗石に囲まれた街路の息苦しさがもらされたシーンで、「新しい野菜と水ばかりのやうな日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかつた」とある。日本を木の思想、ヨーロッパを石の思想とみなす二分法は今でも根強くある。だが、集成材を用いない木造建築が珍しくなり、軽やかな皮膜をまとった建築が世界中に蔓延しつつある時代になって、そろそろこうしたヴィジョンは通用しなくなってきている。
『旅愁』では執筆の時代を反映して西洋の真髄をカトリックに、日本のそれを神道に認めており、カトリック教徒の女性と、祖先をキリシタン大名に滅ぼされ神道に惹かれる男性の恋愛の成就を主たるモティーフにしている。この設定自体は今日となっては面白みを欠くが、そのために可能になった表現もあるのは見過ごせない。パリの中心部を流れるセーヌ川の島のひとつにそびえるノートル・ダム寺院である。
実は日本人にとってカトリックの寺院の印象を言葉で表わすのは容易ではなかった。幕末の遣米欧使節以来長い間、一部の美術史家とキリスト教に特に関心のあるものなどを除いて日本人渡航者は多くを語れなかった。漢籍で学んだ高楼を形容する語彙のうち「壮麗」、「精巧風致」、「金光爛然」などを用いて「前面」、「外壁」、「内景」を記したりしたものだ。美術史家の森口多里は一九二一年にゴシック建築の解説書(『ゴシックの文化と建築』)を執筆したとき、その訳語を仏和辞典など参照にしながら、もっぱら日本の社寺建築の語彙に置き換えた。しかしそれが今日ではあまり使用されず、むしろ英語の語彙をカタカナに表記して通用している。それほど日本人の宗教建築に関する表現体系から遠かったのであろう。だがこの近づきがたさは、かえって日本人が「西洋」という本来実体のないものをイメージ化する際に役立った。これはアメリカ合衆国政府をホワイトハウスと言い換えるのにも似ているが、ゴシックの寺院はその外観ゆえにより神話化して「日本」の対蹠地アンチポツドに据えるのを可能にしたのだ。

西洋といふものの純粋の形がこれだな。全体の精神が、空を向いてゐる秩序で維持されてゐるでせう。けれども、その秩序を造つてゐる精神の合理性が、対象となるべき空を想定してゐるといつても、よくよく見ると、空から下に向つて延びてゐる非合理的な必然性にまで、ちやんと独自性と自立性とを与へてゐるよ。あの沢山な翼の姿がさうだ。
    横光利一『旅愁』


もっともここで西洋・一神教による個の統制・石の文化・カテドラルといったグルーピングができ上がってはいないだろうか?  丹下健三安藤忠雄のものをはじめ日本人建築家が国内で設計するカトリックの教会や聖堂で名作といわれる建築は、鉄筋コンクリートが重力に逆らって空間を造形し、光と内部を統御するその効果を見事に活かしている。しかしその求心的な空間表現は、西欧のカトリックの寺院で聖人を祀った祈りの場のチャペルがいくつもあり、それぞれに物語を織り成して空間に重層性を与えているのとは異なっている。むしろ原始キリスト教の厳しさがあると言えようか。つまり文化レヴェルで建築言語の翻訳的解釈にずれがあるのだ。
他方でパリに多くある並木道については皆が饒舌だった。横光もそうだが、作家、画家、フランス学研究者らは必ずといってよいほど筆をふるった。確かに広い葉を透かしてやわらかい日のきらめきを見せるプラタナス、初夏の何時までも続く淡い黄昏時にキャンドルのような白い花をあふれんばかりにしているマロニエなど、しみじみと美しい。が、並木道の美しさをエッセイなり小説なりの公開目的の文章で表現するのは、単に感動の強さにのみ起因しない。まずは自然の風景、ことに樹木についての言語表現に森林国の日本人が平安時代の昔より盛んであったからにほかならない。
今回のレ・アール地区再開発計画でも、自然の導入は考慮されている。既存の約四ヘクタールの緑化されたオープンスペースを活かさなければならない。高さ九メートルのガラスの屋根を架けて一九世紀のパサージュやかつてのパヴィリオンを偲ばせるSeuraの案、OMAは緑地に色とりどりの香水瓶のような高層の建物を配置し、MVRDVは植栽の合間に地下に光を通す色ガラスを敷き、ヌーヴェルは空中庭園を掛け渡す。血なまぐさい出来事は海の向こうの世界に任せたかのような今日のフランスの首都で、ガラスの建築は明るさ、軽やかさ、そして万人に開かれ平等に光を注ぎ、自然を感じさせる民主主義のシンボルになったかのようだ。
目下ヌーヴェル案に人気が集中している。面白いのはAJNのCGによるイメージの最後に、近隣に位置するポンピドゥ・センターを臨む原っぱに日本人の若い女性の後姿があることだ。この光景はどこか近未来を描いた劇画の世界に似ている。たとえば核戦争のあと生き残った若い者たちが目にする風景。骨も内臓もない透明な風の吹く世界。ここに木の文化や石の文化といったカテゴライズを超えて、新たに景観を語るための発想はないだろうか。
さて、パリ市民が差し出すあやういガラスの靴(二度目の失敗は許されない)にサイズがあったのは誰か?  この号が出る頃には決定しているはずだが。    [了]


四組の魅力的な模型やCGイメージなどがフォーラム・デ・アールに展示されている。またこのプロジェクトの公式HPでも、建築家の説明と併せて見ることができる。
URL=http://www.projetleshalles.com

>南明日香(ミナミ・アスカ)

1961年生
比較文学・比較文化。相模原女子大学教授。

>『10+1』 No.35

特集=建築の技法──19の建築的冒険

>ジャン・ヌーヴェル

1945年 -
建築家。ジャン・ヌーヴェル・アトリエ主宰。

>レム・コールハース

1944年 -
建築家。OMA主宰。

>ヴィニー・マース

1959年 -
建築家。MVRDV共同主宰。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>スーパーフラット

20世紀の終わりから21世紀の始まりにかけて現代美術家の村上隆が提言した、平板で...

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>安藤忠雄(アンドウ・タダオ)

1941年 -
建築家。安藤忠雄建築研究所主宰。

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>ポンピドゥ・センター

フランス、パリ 展示施設 1977年