1962年生まれ。文芸批評、編集者。
(最終更新:2010年8月10日)
[新しい書き言葉をもとめて 4]
この連載の最初で考えていたのは、このところブームになっている「日本語論」や「身体論」は、ここ数十年にわたって起こってきた「口語的な文章によって物事を考える」という日本語に起こった大変化に対して逆行しているのではないか、ということだった。「口語的な文章」のことを言文一致ではなく「書き言葉の口語化」と表現してきたのは、サブ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.51-52
[新しい書き言葉をもとめて 2]
前回は「書き言葉の口語化」と「(伝統的な)書き言葉の再身体化」の間で起きている日本語の表現をめぐる「闘争」とでもいうべきものの周辺をウロウロしただけで話が終わってしまった。今回も問題の核心にはあえて突入せず、その周りを旋回しながら考えてみる。とりあえず、次の文章を読んでいただきたい。 あの日はなにをしたっけ。おとと...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.11-13
[新しい書き言葉をもとめて 1]
以前、山形浩生にインタヴューをした際、ポール・クルーグマンの翻訳をああいう文体にした理由について尋ねたら、彼の本に書かれている文体と、クルーグマン自身が講演などで話す言葉とのあいだにはあまり差がない、ようするに本をそのまま朗読してもそのまま話し言葉として通用してしまうんだ、という話になった。それに比べると日本語の書き言...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.15-17
[新しい書き言葉をもとめて 3]
小説を読むことの面白さが、物語の筋を追うことではなく、小説を構成するテキスト、つまり言葉の連なり自体を追うことの快楽にあるということは、少しでも小説を意識的に読んだ経験のある人なら直ちに同意してもらえると思うけれど、ではそのときに感じている「快楽」はいったい何によって生み出されているのか、と考えるとよくわからなくなる。...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.15-16