長谷正人, 中村秀之
青弓社、2003年、378ページ
ISBN=4787232207
[映像のトポス 3]
〈都市の言説〉としてのコニーアイランド(承前) こうして、『あれ』と『スピーディ』におけるコニーアイランド(ルナ・パーク)は、「俗」のマンハッタンに対する「遊」の世界というきわめて常識的な構図のなかに登場する。しかし、かつてボードリヤールがディズニーランドとアメリカの関係について語った洒落た警句を借りるなら★一、コニー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.27-39
[映像のトポス 4]
1〈機械の言説〉──英雄的個人主義 機械は、諸言説の外部にあってそれを産出する〈現実的な〉力の源泉ないし集合であると同時に、それ自体が言説の主要な構成契機として機能する。とりわけ二〇年代にあって顕著な現象は、都市=機械という局域的な複合体が社会=機械へと全域化するという過程において、表象としての「人間」と「機械」との関...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.20-29
[映像のトポス 1]
映画、都市、ベンヤミン 映画と都市の関係を探究することがモダニティの理解にとって有効な戦略であろうということ、これは、ベンヤミンが晩年にその萌芽を示しながら自分では発展させる時間がなかった直感的洞察のひとつである。「複製技術時代の芸術作品」(一九三五─三九)や「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(一九三...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.33-44
[映像のトポス 2]
つまり、新たに始めること、わずかばかりのもので遣り繰りすること、そのわずかばかりのものから拵えあげること、そしてその際に、右や左をきょろきょろ見ないこと。 (ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」)★一 遊歩者からサンドイッチマンへ 一九世紀後半以降、都市が高速高密度の交通空間として編成されてゆくにつれて遊歩は不可能と...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.22-29
[批評]
1 都市空間と映画空間 映画研究が(少なくとも合衆国では)アカデミズムにおける地歩を確立した八〇年代後半は、知の多様な領域で「空間」や「場所」への関心が急速に高まってきた時期でもある。したがって、それ以後、都市と映画、あるいは都市空間と映画空間との関係を扱う文献がしばしば目につくようになってきたのも、さほど不思議なこと...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.138-150
[翻訳]
序──隠喩としての「OJシンプソン裁判」 「アメリカでマイノリティであるということは、いつも試されているということだ」 ──ラジオ番粗「LAどっちへ(Which Way LA)」の出演者 「OJシンプソン裁判」は、ほとんどのマイノリティや女性がすでに知っていること──現実の知覚のしかたは多様であること──を、衆目に...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.134-149