村松伸
作品社、1998年10月25日、395ページ
ISBN=9784878937569
[東アジア建築世界の二〇〇年 1]
...の等級を表わす図表 出典=拙著『中華中毒──中国的空間の解剖学』(作品社、1998)国際秩序の空間化... ...この点についてはすでに、村松伸『中華中毒──中国的空間の解剖学』(作品社、一九九八)五九─九...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.189-200
[東アジア建築世界の二〇〇年]
三─一 帝国主義とその手先 帝国主義とその発端 一八八七年六月二一日、ほぼ一一五年前のこの日に戻って世界のあちこちを見渡してみたならばその賑やかさには圧倒された...然予想される。 ★二三──拙著『中華中毒──中国的空間の解剖学』(作品社、一九九八)二八六─二...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.196-204
[東アジア建築世界の二〇〇年]
[第五章つづき] 五─三 中国人建築家の覚醒とナショナリズム 東遊と過去からの「分離」 中国で「建築」が意識的に学ばれ、建築の「中国」が自覚されるのはいつからのことだろうか。もちろん、一八六〇年代に始まった洋務運動ではない。そこで用いられたスローガン「中体西用」に端的に現われているように、西洋の技術はこの時、中国にと...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.212-224
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.201-216
[東アジア建築世界の二〇〇年]
五─一 オリエンタリズムと「簒奪様式」 畏敬の存続★一 ウィーンのバロック建築家フィッシャー・フォン・エルラッハ(一六五六─一七二三、Johann Bernhard Fischer von Erlach)が『歴史的建築の構想』という世界の建築物を比較した書物★二を、ドイツ語とフランス語で刊行したのは一七二一年のことで...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.172-181
[東アジア建築世界の二〇〇年]
四─一 異域の建築的統合 「開化」のかたち 西郷隆盛と勝海舟との協議により、江戸城無血開城が行なわれたのは、慶応四(一八六八)年四月一一日のことであった。最後の将軍徳川慶喜はその前年一〇月一四日に大政奉還を行ない、二四日には将軍職を辞した。翌年二月一二日には江戸城を出て、上野の寛永寺で謹慎している。そして、慶応四年の...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.162-175
[東アジア建築世界の二〇〇年]
一─一 モデル都市シンガポール ラッフルズのユートピア トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(一七八一─一八二六)がシンガポールに足を踏み入れ、海岸沿いの地にユニオン・ジャックの旗を立てたのは一八一九年一月二九日のことだった。東アジア、そして、東南アジアの都市・建築が「近代」へと向かう契機となった小さな小さな都市シンガ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.181-194
[中国]
1956年北京生まれ。南京工学院建築系卒業。84年渡米して、建築を学ぶ。ライス大学で教鞭をとっていたが、中国の変化に魅力を感じ96年帰国。妻とともに93年、「非常建築工作室」を設立。99年、北京大学建築中心の主任教授となる。 2000年、第7回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展に出品。 主な作品=《席殊書屋》など。 ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.124-125
[中国]
紅石 潘石屹(Pam Shichi)と張欣(Zhang Xin)が1995年北京で創設した土地開発会社。デザインを重視した果敢な住宅開発を行ない、21世紀の中国建築界をリードする。 チャイニーズ・ドリーム 二〇〇〇年北京大学日本人建築家レクチャーシリーズの第一回は、山本理顕さんだった。隈研吾さんは一日遅れてやってき...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.126-127
[論考]
質問への答を出す前に、なぜ「全球都市全史」というような大風呂敷を広げようと思ったかを述べておきたい。一言で言えば、「五十而知天命」(『論語』)。五〇歳にして天命を知った。こう言えたら、格好いいかもしれない。自分でできることとできないこと、やりたいこととやりたくないことの分別が、五〇歳くらいでつくようにはなった。ぐずぐず...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.120-121
[東アジア建築世界の二〇〇年]
二─一 「洋」を馴らす 上海スタイル 約一五〇年前にできた上海租界のバンド沿いの建物は、現在までに三代替わってしまい、いまは凍結保存の対象であるからもはやこれ以上は変化しないであろう。その第一代はそろいもそろってベランダ植民地スタイルであった。だが、一棟だけ奇妙な建物が混じっていた。《江海関》と呼ばれる上海税関は一八四...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.201-213