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岐阜県揖斐郡徳山村。一九八七年に廃村になり地図から消えた村である。福井県との県境に位置したこの村は、下開田、上開田、本郷、山手、櫨原、塚、戸入、門入という八つの集落からなり、一五〇〇人あまりの住民が暮らしていたが、二〇〇六年に門入地区を除いた全村がダムの底に沈んだ。揖斐川の水源地にあたる徳山村は残雪が夏まで残る山間に位置し、豊富な水資源が狭い断崖を塞ぐだけで一カ所に集まるというダム建設に理想的な地形にあったという。高度経済成長の黎明期にあたる一九五七年にダム計画が持ち上がり、二〇〇六年の試験湛水があるまで、起業主体は電源開発会社、建設省、水資源機構と変わり、その目的も発電、利水、治水と二転三転した。いつまでも本格着工しない「幻のダム」によって未来の展望を失った村は徐々に荒れ、住民たちは「どうせ水没するなら……」と先行きのないその日暮らしを長期間強いられた。
ドキュメンタリー映画『水になった村』(二〇〇七)は徳山村最後の日々を記録している。正確に言うならば、廃村という「村の最後」の後もこの地に戻り、住み続けた老人たちの姿が記録されている。試験湛水が始まる前のダム湖は何度か見たことがあったが、スクリーンで目にした現在の徳山村は水没を免れた山の稜線だけがかつての風景と合致していたものの、揖斐谷にあったわずかな平地はまさしく「水になった」といっても過言でなく、かつての姿を思い浮かべるのは難しかった★一。見慣れたアングルから望む本郷地区は感情移入の余地のないほどの圧倒的な水に覆われてしまっており、日本一の多目的ダムと言われた意味が、水の入った今ようやくわかる。ダム湖の面積は諏訪湖とほぼ等しく、満水時には浜名湖の二倍の貯水量になるという。カメラはダム湖の上を滑走し、水の中から顔を出す徳山小学校の校舎や電柱をゆっくりと映し出していくのであるが、かつてあれほど騒がしかった工事の音は止み、水の上を進むボートの音だけが静かにこだましていた。
公共事業と土地をめぐる三里塚闘争をその内部において撮影した小川紳介の映画のように、カメラが闘争や集会の渦中にあるのではなく、監督である大西暢夫が訪れた時すでに徳山村と呼ばれる共同体は消滅していた。しかし、春から秋にかけて街の移転地から山に戻り、そこで村があった時と同じように自給自足の生活を送るわずかな老人たちが存在したのであり、大西は徳山村の残像を慈しむようにその姿をカメラにおさめてきた。大西暢夫は徳山村の五〇キロメートル下流にある揖斐郡池田町の出身の写真家であり、一四歳の時にダムに沈む徳山村を描いた劇映画『ふるさと』(神山征二郎監督、一九八三)を見たのをきっかけに、廃村後のこの地を一五年間撮影し続けてきた。徳山の老人たちは大西を田舎へ帰ってきた孫を迎えるように山の幸でもてなし、大西も村の一員のように山菜採りやトチ餅作りなどを共にする。当初、文章と音声の入らない写真での発表をメインに考えていたためか、映画のなかの大西は「観察者」としては余りあるほど饒舌である。「これ何?」「なぜ?」とあらゆるものに次々と疑問をぶつける大西とカメラの存在によって、わずか数人の村は活気づき、賑やかに見える。旧石器時代から縄文期にかけての遺跡が二〇カ所以上発掘されたというこの地には、太古の昔から脈々と受け継がれてきたとおぼしき食糧確保の手段や保存方法があり、大西は徳山最後の山の民たちからその方法を教わり、丁寧に写し込んでいく。周囲を一〇〇〇メートル級の連山に囲まれ、揖斐谷の最奥部に位置したこの村は、冬は雪に閉ざされるような僻地であったために、古い習慣が吹きだまるようにして残されたのである。また昔は東海から北陸へと抜ける最短の交通路であり、尾根ルートでさらに広域へとつながっていたがゆえに長い時間をかけてさまざまな文化が持ち込まれ、小さな村にもかかわらず数多くの伝説や民話が語り継がれていた。
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『水になった村』のなかで大西が「ジジババ」と呼ぶ登場人物たちはいずれも忘れ難い身振りや表情とともにおさまっている。それは「ダムに沈む徳村の住民」という一般的な理解を逸脱し、具体的な顔を持った人間として浮き立ってくるために、会ったこともないその名前と顔を記憶してしまうほどなのだ。例えば笑い出すと止まらなくなる櫨原の徳田じょは驚くほどの大食漢であり、櫨原名物の接待である山のような盛飯やぼた餅で大西を圧倒する。自分の姿を「撮ってくれよ」と歌い始める廣瀬司や農作業やタバコをくゆらす姿を見せてくれるその妻ゆきゑはカメラの存在を受け入れながら、「徳山村住民の日常」を演じる役者のようにも見える。村で過ごす最後の姿を残してほしいという彼らの願いに応えるようなかたちでなされる記録は大西が自らの意志というだけでなく、その被写体によって撮らされたものであるといっても過言ではない。水没を予告された空間で残り少ない時間を共有する者たちの間に、ある種の共犯関係が生まれることによって、「記録と虚構」「撮るものと撮られるもの」という境界は溶解し、映画をアンビヴァレントな場所に連れていく。
廃村前の徳山村でロケを行なった劇映画『ふるさと』には多くの住民がエキストラとして出演していた。加藤嘉演じる「じい」の葬儀シーンで、涙ぐむ参列者を演じた住民に対して、スタッフの一人が「徳山の人はみんな、演技が上手だ」と言ったのだという。冗談まじりの一言であったが、住民たちは「演技じゃない。離村を前にした老人の死は、他人事とは思えない。本当の涙だった」★二と怒ったのだという。葬儀で目頭を押さえ、離村前の全校発表会で『ふるさと』を合唱しながら涙する住民たちの姿はフィクションとして演出─撮影されたにもかかわらず、ドキュメントの相貌を帯び、演技を超えた「過剰さ」としてフィルムに焼きつけられてしまっている。『水になった村』の公開記念としてポレポレ東中野で『ふるさと』が同時上映されたのだが、劇場に来ていた廣瀬ゆきゑ親子は観客の涙を誘った離村のシーンで、知った顔や場所を見つけては身をのり出し、うれしそうに笑っていた。そのような細部は物語とは関係のない場所で生き延びてしまうのだ。住民たちが暮らしていた場所には今現在水が入っており、徳山村の暮らしは現実にはすでに存在しないものとして、失われゆく光景の哀愁をまとって、スクリーンの上を過ぎ去っていくのである。その意味で徳山村を舞台にして撮られた二つの映画は風前の灯であったこの村の遺影であり形見であるといえる。
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移転地である街との往復を許していた村に残る家もついに解体の日を迎える。立退契約には家屋は撤去して、更地にすることが条件になっていたからである。大西は通い慣れた家に駆けつけるのであるが、壁が剥がされ、日用品を燃やす煙が立ちこめるその場所は戦場のようにも見える。あっさりと崩れ去る家を見つめ、手を合わせる徳田じょの横で「情けないなぁ……」という聞き覚えのある声がフレーム外から入ってくる。一聴してそれとわかる、「徳山のカメラおばあちゃん」の声である。「カメラおばあちゃん」と呼ばれた増山たづ子は六〇歳を超えてからピッカリコニカを手にし、消えゆく故郷を写真に残そうと三〇年以上ものあいだ徳山村を撮り続けた。戦争で行方不明になった夫が帰って来た時のためにという動機から始まった記録行為は「感動の物語」として度々マスコミに取り上げられ、繰り返されてきた。
増山がこの村のシンボルのごとき存在になった理由として、徳山の土地柄というものがあったのかもしれない。この村には子供に昔話を聞かせた最後に「ムゴウ、ベッタリみーそつーけて、べたべた」(今の話は、みそベッタリに口つぐんで、よそで語るな)と結ぶ風習があり、気心のしれない相手には余計なことはしゃべらないという性格があるのだという★三。長期間の因習で身についた一種の自衛本能だというが、それゆえにダムについて語りたがらない住民たちから外部の者が話を聞き出すのは容易ではなかったはずである。そんな徳山村で彼女は外部の取材からの窓口となり、住民一五〇〇人の代弁者のごとき存在にされていったのではなかったろうか。戸入から岐阜市に移転した増山は次のような言葉を残している。
国のやることには勝てんからな。戦争もダムも、大川に蟻が逆らうようなことをしとってもしょうがないで。そんなバカげたことをするよりも、本当に村がのうなってしまうかもわからんから、そうならんうちにすこしでもな、いろんなことを残しておこうと思うようになったんだな。残しておきたいという気持ちは、あきらめからきてるもんだな。(…中略…)村が団結して反対してたら、ダムはできないで。せめてそういうもんが村に半分以上おったらな、こんないりもしないダムなんか、できないで★四。
一九七三年のオイルショックを境に経済は低成長期に入り、水需要も減退したが、一度加速したダム建設の流れは止まらず、徳山ダムは計画から半世紀を経てようやく完成に至る。徳山で離村までの数十年を目にしてきた江口義春によると、「起業者はもっともらしい建前だけを述べて、後は住人同士の争いを傍観しておればよかった」★五のであり、「相手である起業者ではなく、今まで仲間であった住民に、故郷を追い出されて行った」★六という。かつて山村の暮らしを支えた農林業もかげりの色が濃くなり、ダム関係の土木工事が住民の生活の糧になっていった。他の過疎地域に比べて「ダム建設があるからこそ、補償などのからみで、この村では人口があまり減らなかった」★七という指摘もある。ダムと徳山村とはいつの間にか切り離しえないほど密接に絡み合ってしまっていたということだろう。
『水になった村』は徳山ダムという巨大な存在の前景に隠れ、背景に引いていた一人ひとりの顔と生活をクローズアップすることで、ダム完成までの長過ぎる年月によって固定化されていった徳山村の「物語」を撹拌する。ほとんどのシーンが食べ物にまつわることで構成されているのであるが、「徳山」という名に現われているように、それこそが山の恵みを受けてきた村の生活にとって最も重要なものであったからに違いない。そして、大西の行為は水没ですべてが見えなくなる前に、まだかろうじて可視的であった村の姿を写し(=移し)撮るものであり、部外者であった青年が故郷を失う者たちの痛みに随伴していくプロセスであった。大西自身「とにかく楽しい映画にしたい、なぜなら僕の知っている徳山村は本当に楽しい村だったから」★八と語っているように、全編にわたって笑い声が絶えない。村の跡で過ごす「ジジババ」たちの姿に「皆が仲良くいつも笑って過ご」す「天国の様(ガイ)な所」★九といわれた在りし日の徳山村の残像が見える気がする。
しかし、一五年という決して短くない時間のなかで大西は「僕の知らない徳山村での暮らしについての話ばかりに時間をかけてきた」★一〇のだといい、その暮らしを最も変容させたはずの徳山ダムについて踏み込んで話してもらうようなことはしていない。確かに『水になった村』はかつての徳山村を思わせるような「楽しい映画」かもしれないが、そこにおいてダムは村と切り離された外部にのみ存在してしまっている。同じその村がうわさ話と疑心暗鬼に包まれ分裂し、近所同士で争うような暴力性を胚胎していたことも事実であるだろう。そして大西の甘受した楽しさとはすでに村ではなく、いまだダムではないというエアポケットの中で存在したのであり、避けられない立ち退きへのあきらめを条件にしていたはずである。補償交渉に浮き足立った住民はいつ果てるともしれないダム論議に疲弊し、「お国のために」「生きるためには流れにしたがうしかない」と言い聞かせて、故郷を手放さざるをえなかったのであり、村は自ずから「水になった」のではない。村を水没させた主語の行方が問題なのだ。徳山ダムが「天国の様な所」と呼ばれた共同体の中にどのように入り込み、いかにしてその存在を許容せしめていったのか? 荒れ果て、半ば奥山と化した集落、ただ一軒になってもその地に住み続けた「ジジババ」たちが、なぜ故郷を手放さざるをえなかったのか? 自然さを装い、住民たちを離村に追いつめていった「流れ」の正体こそが問われねばならないのではないか。
『水になった村』はアスファルトの村道に浸みてきた水に追われるバッタのショットから始まる。撮影の足下に置いておいた大西のヘルメットも気づいた時には水没していたのだという。ダムは抗いようのない天災のように外部から村を襲ったのではなく、まさしくこのように住民たちの内部に忍び寄り、徐々に村全体を飲み込んでいったのではなかったろうか。そしてそれゆえに住民にとって、ダムについて語ることとそれを受け入れてしまった自分たちについて語ることとは不可分であったはずなのだ。『水になった村』のなかで明るく笑う彼らの口からそのことが語られることはないが、それは撮る(盗る)者としての加害性を回避しようとする大西のやさしさであったとも言える。しかし、私には彼らの沈黙が、あきらめと妥協という名の肯定を強いる力の存在を、当事者たちの語りをせき止め、よどませる不可視のダムの存在を指し示しているように思えてならない。ダム建設に揺れた徳山村五〇年の傷跡を覆い隠すかのようにすべては水の底へ消えてしまっている。
映画『水になった村』より
註
★一──徳山村の小学校には父親の友人が教師として赴任しており、小さかった私も夏になると連れて行ってもらっていた懐かしい場所であった。水没前に見ておきたくて試験湛水が始まる前にも何度かこの地を訪れてみたものの、その頃にはもうほとんどが更地になっており、在りし日の面影はすでになかった。
★二──朝日新聞岐阜支局編『浮いてまう徳山村』(ブックショップ「マイタウン」、一九八六)一一一頁。
★三──江口義春『故郷の灯は消えて』(ブックショップ「マイタウン」、一九八七)二五〇頁。
★四──増山たづ子『ふるさとの転居通知』(情報センター出版局、一九八五)一三四頁。
★五──江口、前掲書、二三四頁。
★六──同、二三五頁。
★七──朝日新聞岐阜支局編、前掲書、三八頁。
★八──『「水になった村」パンフレット』(ポレポレタイムス社、二〇〇七)三一頁。
★九──増山たづ子『ありがとう徳山村』(影書房、一九八七)四頁。
★一〇──大西暢夫『僕の村の宝物』(情報センター出版局、一九九八)二三四頁。