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木造住宅に罪はない──本当に負の遺産か | 三宅理一
Timbered House is Not to Be Blamed: It Is Adverse Legacy, Really? | Miyake Riichi
掲載『10+1』 No.28 (現代住宅の条件, 2002年06月発行) pp.167-171

木造住宅密集地域、いわゆる木密地域の再生は、昨今話題となっている政府による「都市再生」プロジェクトの中心課題のひとつとなっている。大都市の中心市街地をかたちづくる狭小な宅地に、ほとんど隙間もないくらいぎっしりと詰まって建つ古い木造住宅群は、自然環境とマッチしゆとりある生活を保証する快適な住環境という都市計画上のゴールからみると、およそ正反対の場面を提示しており、いくら都心居住が重要だといっても望ましいものではない。ましてや、防災や安全という危機管理の立場からみれば、緊急に建て直さなければならない本当に危ない地域である。東京や横浜の密集市街地を歩くたびに、遅々として進まない整備事業に危機意識をつのらせるのは私だけではあるまい。少なくとも建前論でいけば、官民ともども密集市街地の整備の必要性を認識しているのは確かである。にもかかわらず、これだけ実現のチャンスが少ないのは、関係者から見てそこに開発利益の目処がまったく立たないという経済原則の初歩的な段階でつまずき、問題が先送りされてしまうからだろうか。実際、木密地域はマイナス要因が多く、住まいの快適度という住環境という点でも、道路やオープンスペースという都市インフラという側面でも、われわれが想定する基準を大きく下回る。狭く、老朽化して外部空間にもゆとりがない。火事が出たらおしまいということだ。この前も墨田区京島地区で不審火があり、建物四棟が焼失し、老人ひとりが命を落としている。危なくて、本当に気が抜けない。
ただ、木造密集市街地の形成というテーマで世界を眺めると、これは決して特殊な現象ではなく、実に多くの国で同じような事例に巡りあう。以前にも論じたように、こうした市街地の形成はまさに二〇世紀の鬼っ子とでもいうべき現象で、都市への急激な人口集中の結果、必然的に生み出されてきたことがわかる。広くはインナーシティ問題として捉えられ、都市内での階層の移動、産業の盛衰と大きく関わっている。木造という素材の側面に着目すると、木造文化圏の大半の国々はこの問題を抱え、古く劣悪化した住居が都心部に固まって残存するという現象がごく普通に認められるのである。たとえば東南アジアの国々を回ると、バンコクやマニラなどにその代表的な例を見出すことができ、また北方ではロシアの大都市が、密度は若干違うにせよ、老朽化した木造住宅を大量にかかえているのを眼にすることができる。だから、中心市街地における木造住宅の密集現象は、二〇世紀の一〇〇年を総括するうえで、やや文明論的な視角から整理することも可能である。明日にでも解決すべき火急の問題ではあるのだが、世界的な趨勢という観点から、じっくりとその内容を検討すべき課題でもある。
今回考えてみたいのは、こうした密集市街地を負の遺産の側面だけで捉えてよいのか、という点である。少なくとも木造文化圏においては、木造の住宅を造り供給することが社会のメカニズムの中で機能してきたわけで、時代ごとに様式が生まれ、空間的特徴を刻んできたのは事実である。
わが国の二〇世紀を通してみれば、明治・大正・昭和の木造住宅が一定の蓄積を果たしてきたことは間違いなく、近代和風に代表されるような社会の上部構造だけでなく、その基盤をかたちづくる都市組織がこれらの住宅によって形成されてきたことを知らねばならない。都市が生きた組織だとすれば、こうした住宅地は明らかにその時代の相を映し出しており、そこにかたちづくられてきた住宅のストックを、今日の視点から負の遺産だとして切り捨てるわけにはいかない。

償却年数が絶対か

そこで考えてみたいのが、木造住宅の資産価値を形成する償却年数の問題である。宅地を売買する時、日本では当然のように行なわれているのが、上物を取り壊し更地にして購入者に渡すというやり方である。これは欧米人の眼には、せっかく土地に住宅が建っているにもかかわらず、何故にそれを壊して土地の売買をするのか、と理解不能の行為のように映る。住宅を建てるのに原資がいくらかかっているのだから勿体ないと思う人もいるかもしれない。解体費用を上乗せするのは合理的ではないと判断する人もいるだろう。しかし、これはわが国の不動産の体系と欧米のそれとが決定的に違うことに起因している。欧米の不動産概念では、土地と建造物は等価であるのに対して、わが国では土地と建物はまったく異なる資産のカテゴリーに属し、建物は時間とともに価値を消失させていく存在である、新しく建った物件も、数十年で価値がゼロとなってしまうよう仕込まれているのだ。唯一土地だけが未来永劫価値をたたえ、個々人の財産として意味をもつものとされる。この建造物の償却という一言によって、物理的には何の不都合もない建築が、時間の経過とともに資産としての価値を失い、不要な上物として扱われてしまうのである。
わが国の都市開発はこのような考え方のもとに明治以降行なわれてきた。土地本位制とよくいわれるが、土地を担保にして資金を借り、それを投資に回すという経済メカニズムである。担保になるかならないかが建築物にとって決定的な意味をもつということは、償却年限の来た建造物は余計な付属物で、これを取り除かないと土地本来の価値が生み出されないということになる。だから古い建築がどんどん取り壊され、新しいものに置き換わっていくのである。短いスパンで移り変わっていくために、欧米型のストック経済に対してフロー経済と呼ばれており、特に戦後の高度成長以降の流れがこれによって特徴付けられてきた。文化論でいえば、一九六〇年代に流行した「メタボリズム」的都市発展論、つまりは生物の新陳代謝のように次から次に置き換えられていくシステムなどはそのイデオロギー的役割を果たしており、むしろ日本のフロー経済の特質を積極的に利用して都市と建築の更新を進めることに都市の未来を賭ける考え方である。実際、一九六〇年に出された当時の若手建築家グループによる「メタボリズム宣言」などは、積極的に古い市街地を新しいものに更新していこうとの気構えに満ちており、日本の活力を示すものとして世界から注目されていた。ところが、この考え方が災いして、その頃はふんだんにあった良好な環境ストックが見る見るうちに消費され、二〇年後には大半が消え去る運命となってしまった。今日に残ったのは、当時から経済価値の高くない不良不動産と見なされたものばかりである。木造住宅密集地は、フロー経済に良い意味でも悪い意味でも乗り遅れた不動産であった。
翻って、ヨーロッパの動向を眺めてみると、日本のように償却の考え方によって建造物が取り壊される例は少ない。むしろ建築構造という物理的ファクターにもとづく耐用年数が建造物の寿命を決定する。だから基本的には一〇〇年単位である。住宅更新の年数が、イギリス、フランスが一〇〇年近い耐用年数を誇るのに対して、日本が二〇年を割るというのは、まさにこのあたりの考え方の違いで、日本の建築構造が脆弱であるというのは第一義的な理由にはならない。
一般に日本の木造ストックに関してもっとも質の高い時代は昭和の初めだといわれる。江戸時代から明治・大正と時代を経るごとに、空間の規模、構法上の技術革新が向上するとともに、富裕なクライアント層が拡大して、全国レベルで質の高い木造住宅が造られるようになった。江戸後期から大正までの優良な木造住宅の建て替え期間を較べてみると、七〇年から八〇年くらいが普通であり、それ以降一九〇〇年代から三〇年代にかけて造られた住宅は、今日でもそのまま用いることのできるすぐれた例が多い。耐用年数は一九世紀から二〇世紀前半にかけて確実に長くなり、昭和の初めの価値観ならば、住宅はそのまま一〇〇年にわたって数世代が住む場所と想定されていたはずだ。しかし、戦後になって経済の規模と質が転換し、この考え方が通用しなくなった。
それに追い討ちをかけたのが、相続税の問題である。広い地所を所有している人であればあるほど、相続税の評価額は高く、多くはその額が支払えなくて土地を分割したり、売却したりする。
そのため、古き良き住宅は姿を消し、気がついたら、あたりは分割された土地に建売住宅が建つか、さもなければマンションとなってしまう。こうして良好なストックは取り崩されてしまった。皮肉にも、今日まで残った住宅の多くは、昭和の初めに応急的に建設された質の低いものばかりとなってしまった。

昭和の遺産

相続税の考え方は、資産を評価し、その一定率を税として公共に収めるというものである。資産は本来世代を越えて受け継がれるものである。環境論の範疇では、環境を資産と評定し、その継承が今日的なテーマとなっている。評価に際して、建造物の償却が進めばその税率は低くなるわけだから、古い住宅に住んでいれば相続税は低くなる。問題は土地であって、古き良き住宅を維持しようにも、なまじ都心に近い場所であれば土地の評価はどんどん高くなり、その分相続税も高くなる。仮に、税金が払えなくて不動産を物納したとしても、古い住宅は評価額がゼロに近づくから、取り壊され、土地だけが競売にかけられる。古き良き住宅を残す仕組みは想定されていないのである。どうしても建築を残したいのであれば、財団法人を設立して、住宅を美術館にでもするほかはない。鳩山邸、小笠原邸など、都心の旧家はそのようにして家族の思い出を後世に伝える道を選んだ。
さて、それでも古き良き木造は残っている。東京の住宅地図を良く眺めてみると、所々にかなり広い地所を構えている家が分布しているのがわかる。とりわけ、山手線の外側一帯、昔の御府内の外で明治末までは田園地帯であったところである。こうした場所には昔の庄屋層が今でも住み、地主として結構な土地経営を行なっている。その地域に同じ姓の家を分布させているので、一族を形成していることがわかる。そうした古い家の特徴は、長屋門をもち、塀で囲まれ、その内側に戸建ての格式ある家屋を構え、庭には樹木が生い茂っている。江戸風にいえば、武家屋敷のたたずまいであるが、江戸時代から武士であったわけではない。明治以降、身分による住宅の型の制限がなくなり、武家屋敷の型をそのまま取り入れて新しいタイポロジーができあがった結果である。こうした屋敷の多くは、先に語ったように昭和の初めの住宅を残しているが、建て替えたものも少なくない。地域の景観という意味では、都市の古層を残し、屋敷林などを含めてその土地の環境形成に寄与している。杉並区とか練馬区を評価するのであれば、特に圧倒的な歴史の痕跡はないが、こうした点的な屋敷の集合がここ一五〇年ほどの環境の歴史を提示していると理解できよう。このあたりについては、かつて法政大学の陣内研究室がフィールドサーベイを重ね、興味深いレポートを出している。地主層の屋敷だけでなく、社寺の境内や古道なども今日に引き継がれている例が多い。直線ではなく妙に曲がった道に出くわしたら、それが古い何らかの痕跡を引きずっていると理解したほうがよいだろう。
その意味で、まだ東京のそこかしこに昭和の初めの古き良き木造住宅が残っているのは事実である。しかし、これらの住宅の敵は、再開発といった問題ではなく、ずばり相続税である。いくら土地価格が落ちたとはいっても、相変わらず世界最高の土地価格を誇る東京であるから、土地評価額は中途半端な額ではない。その地域の名士であり、暮らし向きの良い生活をしていても、相続となった場合は、土地を分割せざるを得ない。さもなければ早めにマンション経営を行なうかである。残念ながら具体的な数値はわからないが、ここ一〇年ほどで取り壊された例はきわめて多いのではないだろうか。私の住んでいる目黒区でも周囲にそのような事例を多数眼にしてきた。
逆に、地方都市では、地価が東京ほどではなく、また開発の圧力も東京圏に較べて高くなく、昭和の木造遺産はまだ生きている場合が多い。また、名士たちの地域の文化に対する思い入れも強いのが普通であるから、自分たちの育った家を大切にする気持ちも相当であろう。木造住宅の実態がどうであるか、大半の都市では誰も調査などしていないから、詳しい数はわからないが、現在建て替えが急激に進んでいるに違いない。いくつかの都市を取り挙げて悉皆調査を行ない、データベースを作成してみると、そのあたりがよく見え、今後の予測に繋がるはずである。

長屋と集合住宅

市街地の形成には幾通りものパターンがある。とりわけ近世から近代へのプロセスの中で集住の形式がどのように生み出され発展していったかは、地域によって大きく異なっている。東京都内という限られた範囲においてもその差は歴然としている。たとえば、杉並区や目黒区のごく普通の住宅地を取り上げてみると、一見特徴がないように思われるが、実際はかつての近郊農村の構造を下敷きに土地持ちの古い豪農の屋敷を核として宅地経営がなされていった経緯が潜んでいる。点として存在していた屋敷の間が、いつのまにか中小さまざまな住宅によって埋められていったのである。他方、台東区や墨田区といった下町は、当初から密度の高い集住形態を示していた。江戸期以来の長屋の経営が都市構造の形成に大きく関わったと見るべきである。この種の長屋は、江戸における中心市街地の宅地の裏に発生した裏長屋を始まりとしているが、要は日本型の木造の集合住宅である。それが、大正の頃から規模を大きくして新興市街地に広まっていき、町家が並ぶ中に長屋群が混じるという都市景観を成立させていく。その頃から二階建ての長屋も一般的になってきた。墨田区京島地区に今なお残る長屋群は、関東大震災の後、大正末から昭和初めにかけて建造されたもので、当時の面影をきわめて良く示している。山の手のどこか人を拒絶する住宅街の雰囲気に対して開放的で、いかにも下町情緒を感じさせる。その点が、多くの研究者やプランナーを惹きつける所以であろう。
昭和の木造遺産という観点から見ると、この長屋も大変重要である。古社寺や民家を中心としてきた国の文化財保護的な視点から見ると、これらの長屋群は文化財のカテゴリーには入らないが、生活資料あるいは都市遺産という面では重要な歴史の証言者である。しかも今では長屋ですら稀少となっているということを考えると、これらの長屋に何らかの手を加えることも必要ではないだろうか。今住んでいる人たちがそのまま住み続けるのは難しいとしても、下町史料館にあるような実物(もしくは原寸大模型)展示も選択肢のひとつである。こうした長屋群が建ち並び、人々が相変わらず暮らしている京島地区は少なくとも外部の人々にとっては驚きである。
外国人がこの地区を好んで訪れるようになったというのも単なる偶然ではなく、その土地の潜在的なポテンシャルが人々を惹きつけてやまないに違いない。この問題は後日論じることにして、ここでは木造遺産としての長屋の話に留めるが、密集市街地にも必ずしも負の側面だけでは語れない資産があることだけはわかっていただきたい。むろん長屋は東京だけに限られるのではない。関西エリアにも数多く長屋は存在し、特に大阪は長屋住まいが日常生活の一部と見なされるほど一般的である。つまり長屋という木造集合住宅は市井の人々によって生み出されたすぐれた住宅類型であり、長屋住まいはわが国の市民文化形成にとってきわめて示唆的な意味をもつライフスタイルであったといえそうだ。落語のテーマだけでなく、昭和の文化を知るためにも、この長屋住まいについてより深い研究が望まれている。
ところで、長屋は一般的に民間による借家経営として営まれたと思われているが、昭和の初めには、公的な部門もこの長屋の計画と建設に乗り出していた。同潤会による木造集合住宅がそれである。
関東大震災からの復興をめざして同潤会は設立されたが、その仕事は世に知られている鉄筋コンクリートの集合住宅建設だけでなく、日本人に馴染みのある木造のプロトタイプも完成させていた。この時代の常として標準化がひとつのテーマとなっており、長屋をモデルとして二階建ての集合住宅の標準設計を行なった。当時の人間にとって木造の住宅には抵抗がなく、また既存の大工組織を介して建設が容易で迅速であるというメリットもあった。これらは東京王子などに建設され、その痕跡は今なお残っている。長屋というと貧乏長屋のようなイメージをもつ人が多いが、これらの住宅は中産階級をターゲットとしていたから、暮らし向きも少し上であった。
この計画が順調に進んでいれば、わが国は木造集合住宅の領域を広げていたかもしれないが、残念ながら、関東大震災の教訓は建築の不燃化に到りつき、大規模な建造物は鉄筋コンクリート造が主流を占めるようになる。同潤会の木造の試みは、例を限って実現されただけでその後の発展に繋がらなかった。

木造遺産が再生すると

日本の事例に較べて、ヨーロッパのいくつかの国々では公営の木造集合住宅建設に力を入れた例が少なくない。その代表格は北欧とロシアであろう。もともと木造の伝統をもち、木の家に住むことが当たり前の風土であったから、時代が近代に入ってごく当然のごとく木の集合住宅を造り始めた。フィンランドで傑出した事例とされているのは、首都ヘルシンキの北郊に建設されたカピラ集合住宅である。ロシアからの難民を収容するために一九二〇年に計画されたが、ローコストと標準設計を組み合わせ、事の性格上いかに迅速に建設するかが問われた。北欧ネオクラシシズムのスタイルを下敷きに簡素な木の装飾を取りつけた機能的な住宅群となり、計画史に残る集合住宅となった。しかし、この住宅が本当に評価を受けるのは、建設当初ではなく、それから半世紀以上たった一九八〇年代に入ってからである。ここでも市街地更新の動きが盛んで、この団地も古い建築群ということで、市当局からの取り壊し計画が提示されたが、これに対して市民グループが反対運動を起こしたのである。その結果計画は見直しになり、保存修復の手が加えられて今日に至っている。保存となった時点で、公営住宅だった建物が払い下げられ、希望者に売却されたが、その際、いわゆるジェントリフィケーションの現象が発生した。古い木造住宅が文化人たちの人気の的となり、比較的高い価格で取引されることになる。
かつてはつまらない木造公営住宅で住む人間も低所得層だったのが、時代性を蓄積することで高価な不動産物件へと変貌し、今やアーティストや文化人がここに移り住んでいる。
このような事例は、木造文化圏のスウェーデンやロシアでも垣間見ることができ、近代木造遺産の継承として貴重な経験をわれわれに示している。ある時代の産物が時を変えると価値が変化し、新たな商品となるということである。もちろん住宅は単なる商品ではない。しかし、一〇〇年単位でそのサイクルを考えると、時代によって価値観は変わり、また世代によってライフサイクルも変化するのが当然で、それに見合った再生とリノベーションのプログラムが必要になるわけである。社会構造や成熟度という観点から見ると、わが国も北欧もそう変わりはない。しかし、住環境に対する態度となると、その内容は大きく異なる。先に示した償却の考え方もとらない。また、徹底してリサイクルと環境保全を行なう。わが国ほど流行の波にこだわらない。こういった態度が、木造住宅への扱いによく現われている。残念なのは、わが国で近代木造遺産のリノベーションに関して、まだ良い事例がないということである。古民家の再生は最近流行っており、好んでそのような住宅に住む人も増えているが、昭和の長屋となるとまだ生々しすぎるのか、その再生計画はさほど進んでいないようだ。
木造密集市街地の中には、新旧さまざまな住宅が建ち並んでいるわけだが、その建築的ディテールに入って選別を行ない、かつてあったすぐれた資産を評価する仕組みを改めて打ちたてたいものである。

>三宅理一(ミヤケ・リイチ)

1948年生
慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授。建築史、地域計画。

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