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「つぎはぎ」交通の時代 | 山根伸洋
The Era of Crazy-Quilt Traffic | Nobuhiro Yamane
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.34-36

日本における交通網の近代化を考える際に、これまで注目されてきたものは「鉄道」であり軌道上の輸送経路の整備・拡充であった。この点については、多数の鉄道史研究、そして都市内交通網整備とあわせて都市における電化・電力供給事業の歴史に随伴する馬車鉄道・電気鉄道の整備事業史からみてもよくわかる★一。交通網の近代化という問題設定が、必ずしも近代国家形成に固有の問題設定ではなく、むしろ近代都市形成もしくは都市的生活様式の確立と大きく関連していることは、近代国家形成に先立って都市的近代の様相が明らかになってくることからみても自明なことであろう。この観点から日本近代をみた場合、都市交通の近代的確立を担った事業者たちが自らの事業を民業として展開してきたことの意味を読み解くことができるかもしれない。とりわけ都市内における馬車営業や路面電車の整備事業の中心的な事業者の明治期初頭からの展開には、官業としての展開が試みられる「鉄道」や「電信」、「郵便」とは異なる日本の近代の姿がある。にもかかわらず官営事業としての交通網の近代化の一環としての電信・鉄道・郵便事業の創始は日本近代を立ち上げていく重要な起動因であり、なおかつ「民業」としての地域交通を近代化していく「梃子」の役割を果たしたこともまた疑いようのない事実と言える。
明治期初頭における工部省主導の電信・鉄道事業の展開は、欧米からの「近代技術」の移転に積極的な役割を果たし、また「お雇い外国人」による事業展開に替えて、工部大学校を始めとする自前の技術者の養成機関を形成し、上記の民業としての都市・地域交通、電力供給事業などへ積極的に人材を輩出することになった。また、明治政府主導の交通網の近代化政策は移転技術を基礎とした都市・地域交通を積極的に担う事業者を新規に輩出することばかりではなく、日々脈打っている既存の、あえて言えば、在来の交通網の近代化にも大きな役割を果たしえた。とりわけ郵便事業の国家全域での展開は、特に明治一〇年代まで国内陸上輸送の近代化に重要な役割を果たしてきた。確かに、日本における交通学の嚆矢ともいえる富永祐治氏は「通信技術の革命は電気的通信手段の採用により実現する。日本への近代的郵便制度の導入も劃期的な事件であり、経済的或いは文化的発展に対するその寄与は電信電話に劣らず大であったが、しかしその変革の重点は組織にあって技術になかった」★二とするが、ここで言われている「通信技術」があくまでも通信装置の技術であり、電信・電話事業に不可欠な「電信柱の建設」に見られる土木技術的な側面(社会基盤形成に関する技術的側面)が抜け落ちている点は容易に指摘できる。
イギリスにおける汽船海運網の成立の動因が郵便請負にあることなどを含めて、郵便事業の展開と技術革新からみた交通網の近代化との関連の自明性の指摘を超えて、その関連性の内実に関する一層の検討が必要であることは言うまでもない。本稿では近代郵便事業の展開が交通網の近代化の動因となったという立場から、とりわけ道路輸送の技術革新という観点から明治初年代から一〇年代の郵便馬車の展開や河川水運の汽船化について触れることを通じて、交通網の近代化の過程にみられる新旧並存の諸相について考えてみたい。
山本弘文氏は『維新期の街道と輸送』(法政大学出版局、一九七二)の「まえがき」において、日本における道路輸送の近代化に関する問題を、イギリスにおける一六世紀後半以降、蒸気鉄道の出現する一九世紀はじめまでを「馬車」中心の「道路輸送の繁栄期」として位置づけ、明治以降の日本における鉄道技術と車輌技術の導入の同時性を「顛倒的」と表現している。もちろん馬車輸送から馬車鉄道、そして蒸気・電気鉄道輸送への輸送体系の移行こそが「近代化」の順当な道筋であるとする立場がここには色濃く示されて、それが「経済史」のひとつの理念型であることについて異論があるわけではない。けれども、明治期初頭における道路輸送の技術革新の基軸が馬車輸送と馬車が通行可能な道路整備にあったことは疑いようのない事実であり、このような長距離の都市間交通を積極的に担ったのは「内国通運会社」を中心とする民間事業者であったことは、記憶にとどめておかなくてはならないことであろう。
しかも内国通運会社に代表される民間事業者の登場は、国家主導の交通網の近代化政策のもとで準備されたわけではなく、近世期における飛脚業や駄賃稼ぎの同業組合化(中馬稼ぎに代表的な)などの一定の自立的な発展の基礎の上で開花したものであり、官業の保護の下に育成されたものではなかったのである★三。もちろん明治一〇年代から二〇年代初頭にかけての日本鉄道会社線、東海道線全通を契機にして基幹輸送が大きく鉄道へ移行することになり鉄道線路とはことなる長距離陸上輸送線路(定期的な輸送便の営業──とりわけ馬車輸送)が廃止されていくこともまた自明なことではあったが、圧縮された近代化の道筋の中に交通網の近代化の重要な側面を看取することができよう。
廣岡治哉氏が「財団法人・運輸調査局」に在籍していた際に、「内国通運会社と郵便馬車──東海道郵便馬車について」という題目の「調査資料第一三一号(通七)」という報告書を提出した★四。この報告書には内国通運会社の明治一〇年前後における基幹路線であった東海道輸送線路の実態が、当時平原直氏所蔵であった林家文書を基礎として解明されている。この報告書において廣岡氏は「日本資本主義」が「産業革命の結果として発達した鉄道」に関する技術と同時に、車輌技術や道路構築技術を摂取した点に着目する。実は内国通運会社が東海道輸送線路の積極的な車輌輸送を試みることに若干先行して、東京と高崎の間で郵便馬車が営業を開始していた。東京と高崎間の馬車営業については、駅逓寮自らが開業資金を貸し付け、東海道線路における馬車営業の起業家達には内国通運会社が開業資金を貸し付けることで、地域輸送の担い手を積極的に育成する方策が採られている。
また明治初年代後半には内国通運会社は汽船河川水運へ積極的にのりだした。日本通運株式会社が一九六二年に刊行した『社史』(一五七─一六二頁)によれば、水深の浅い川底の浚渫などの水路の基盤整備を行なったうえで、利根川や江戸川を中心とした定期汽船航路を明治一〇年代には確立していた。河川水運網や道路輸送網の構築自体が、橋梁建設をはじめとするさまざまな土木技術を動員してはじめて可能なことであることを考えるのであれば、また、利根川をはじめとする河川水運網それ自体が、東京と東京近郊を結ぶネットワーク形成機能を持ちえたとすれば、輸送網の近代化に対して内国通運会社をはじめとする民間事業者達がいかに積極的な役割を果たしたか、そして新規の輸送技術の地域的普及に貪欲であったかがわかるだろう。山本弘文氏は自身が編者となった『交通・運輸の発達と技術革新』(東大出版会、一九八六、二八─三八頁)の山本氏担当部分において、車輌輸送に不適当である「劣悪な道路問題」に直面した「中山道郵便馬車会社」の馬車営業の「困難」が指摘されている。そのうえで、明治一〇年代まで、鉄道線全通以前までの東海道筋における脚夫・人力車・渡船・馬車・鉄道の「混合」交通の形態を「つぎはぎ」交通の時代と位置づけ、馬車営業の拡大を「地方制度の整備」や「在来技術の改良」のひとつの指標として見る視点を呈示している。
上記の内国通運会社や中山道郵便馬車会社は、「郵便御用」の名目の下に積極的に輸送事業の起業を目指し、そのなかで郵便請負を担うことになった。この点から見ても官営郵便事業が民間輸送事業の近代的展開の「梃子」となったことは、もはや自明のことであろう。そればかりではなく道路・河川などが馬車営業や汽船就航が可能なものとなるべく整備していくことが推し進められた。もとより郵便線路は国家全域へ張り巡らされてはじめて全国一律の料金体系を確立するのであり、およそ既存の輸送経路のすべてを被覆していたといっても過言ではなかったわけである。そうした観点から考えてみた場合、郵便事業の全国的展開という事態は、先の富永氏の「通信技術の革命」と無関係であるというよりは、「交通技術」全般と密接に関わってきたということができるのではないだろうか。この点については一層深められなくてはならない重要なパースペクティヴ、即ち、交通網の近代化という社会変動過程が既存の交通網や地域社会を基盤としてのみ可能である点を含みこんでいるからだ。交通網の近代化の諸過程における漸進的な社会変動の契機としての技術革新(特に東アジアにおいては技術移転)の諸相は、実は「混合」「つぎはぎ」が表わす模様の読み解きのなかではじめてその姿を現わし、その姿の内には国家・地域・都市などの存立を読み解く鍵が隠されているように思われる。

1──東京日本橋区左内町「内国通運会社本店」 出典=日本通運株式会社『社史』

1──東京日本橋区左内町「内国通運会社本店」
出典=日本通運株式会社『社史』

2──東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図 出典=日本通運株式会社『社史』

2──東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図
出典=日本通運株式会社『社史』

3──東海道往復荷馬車広告『郵便報知新聞』明治14年3月29日付 出典=日本通運株式会社『社史』

3──東海道往復荷馬車広告『郵便報知新聞』明治14年3月29日付
出典=日本通運株式会社『社史』


★一──鈴木淳『新技術の社会誌』(中央公論新社、一九九九)一五八─二四〇頁。
★二──富永祐治『交通における資本主義の発達──日本交通業の近代化過程』(岩波書店、一九五三)二五五頁。
★三──郵便事業の官営独占が施行される以前の郵便線路においての飛脚業者と駅逓寮郵便事業との激しい価格競争は有名な話である。
★四──早稲田大学中央図書館所蔵、筆者はその報告書の存在を「郵便馬車研究会」(牧野正久氏他五名)に参加して知るところとなった。記して感謝したい。同報告書を基礎とした一層の研究は二〇〇四年九月「郵便史研究会」にて牧野正久氏が「東海道郵便馬車の実態」と題した報告を行なっている。

>山根伸洋(ヤマネノブヒロ)

1965年生
明治学院大学、玉川大学非常勤講師。歴史学、社会学。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること