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ボナパルティズムの署名──都市クーデターの技術 | 田中純
The Signature of Bonapartism: Techniques of the Urban Coup d'Étet | Tanaka Jun
掲載『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) pp.2-13

1 蜂起機械と暴力の神

一九九九年に刊行された福田和也による奇妙な書物『日本クーデター計画』には、「自由の擁護者たちに捧げる」という献辞につづけて、クルツィオ・マラパルテの『クーデターの技術』から、次のような一節がエピグラフとして掲げられている。

あのばかばかしい伝説によれば、今日の、また将来のありとあらゆる革命の責任は私にあるのであり、私はいわばヨーロッパの全動乱の「全能の神デウス・エクス・マキナ」、現代革命の「陰気な恋人」、イタリア・ルネサンス人につきものの例のシニズムが、マルクス主義者とファシストのシニズムに重ね焼きされた、現代のマキアヴェリということになっている★一。


この一文は一九三一年にフランスで刊行された『クーデターの技術』が、一九四八年に新しい版で公にされるにあたって書き加えられた序文「自由の擁護は《引き合わぬ》こと」から採られている。福田の献辞はおそらくこの序のタイトルに由来しているのであろう。マラパルテは新版の序文を「私はこの本を憎む」★二という言葉によって書き始めている。『クーデターの技術』は国際的に反響を呼び、三〇代初頭の作家マラパルテを一躍有名にした。しかし、彼は一九三三年に在外反ファシスト活動の罪により、ファシスト政権に逮捕され、リパリ島へ流刑にされている。マラパルテはこの投獄と流刑に始まるファシズム下の迫害を『クーデターの技術』が招いた災厄として、この書物に呪詛を浴びせかけるのである。
『クーデターの技術』がムッソリーニやヒトラーを激怒させ、その後の長年にわたる迫害を引き起こしたという経緯にしろ、自分を反ファシスト的な自由の擁護者として描き出す回想にしろ、新版序文におけるマラパルテの記述を鵜呑みにすることはできない。ファシズム体制に対するマラパルテの関係ははなはだ曖昧なものにとどまっている。『クーデターの技術』と同じ時期にマラパルテは、ファシストの実力者イータロ・バルボに関する追従めいた伝記を共著でものしている。流刑の直接の原因は『クーデターの技術』ではなく、この表面的な追従の裏でマラパルテがおこなったバルボに対する脅迫であるという説もある★三。事の真相はただちに明らかにはできないものの、いずれにせよ、新版序文に脚色が強いことには注意しなければならない。
だが、それにもかかわらず、『クーデターの技術』が一九三〇年代初めのヨーロッパにおいて、左右両翼の陣営に衝撃をもって受け止められたことは確かに事実なのである。マラパルテが「全動乱の『全能の神デウス・エクス・マキナ』、現代革命の『陰気な恋人』」と呼ばれかねない事情がそこにはあった。この書物は、ロシア十月革命(マラパルテはそれをボルシェヴィキ・クーデターと見る)に始まり、トロツキーの失脚にいたるソヴィエト連邦内の権力闘争から説き起こし、一九二〇年代にポーランド、ドイツ、スペイン、イタリアで実行されたクーデターの数々を分析している。そのときマラパルテの関心は徹底してクーデターの「技術」にあって、クーデターの背後の政治イデオロギーにはない。一九二〇年代ヨーロッパの政治状況はそこで、議会主義国家を擁護する自由主義的・民主主義的政党と、マラパルテが古代ローマの政治家の名から「カティリナ党」と呼ぶ、議会主義国家の革命を志向する極右、極左政党の闘争に還元されている。そして、ファシストやコミュニストが権力奪取のために採った戦術は何であったかという問いが立てられる。
革命ないしクーデターを技術の問題として捉えるという視点は、国家権力奪取あるいは逆にその防衛のための応用可能性を見据えている。したがって、そのような技術はクーデターが引き起こされた歴史的な特殊要因を捨象したところに見出されなければならない。ボルシェヴィキ・クーデターにマラパルテが発見するのは、まさにそのような技術としてのトロツキーの戦術であった。

現代ヨーロッパでは、各国政府が防衛しなければならない共産主義の危険は、レーニンの戦略ではなく、トロツキーの戦術である。レーニンの戦略は一九一七年のロシアの一般的情勢を離れては理解できない。これに反し、トロツキーの戦術は、国内の一般的情勢に束縛されないのであり、その実際の適用は、レーニンの戦略には欠くことのできないものである諸状況によって左右されることはないのである★四。


レーニンの戦略は反乱の技術を応用するために必要不可欠の条件ではない。マラパルテは、ソヴィエト会議でまず過半数を取ることに固執し、民衆の蜂起を期待するレーニンと、ごく小人数の特殊部隊による都市の占拠と重要拠点の奪取を優先させるトロツキーとの対立を、作家としての技量を発揮して鮮やかに描き出している。反乱とは技術である以上に、むしろひとつの「機械」なのだ、とマラパルテはトロツキーに語らせている。この意味において、ここでトロツキーの蜂起作戦は「見えない機械」作戦と呼ばれている。この機械の攻撃対象は国家の政治・官僚機構(内閣、国会、首相官邸)ではなく、発電所、鉄道駅、幹線道路、電信電話局、港湾、ガスタンク、水道局だった。前者を防衛の拠点としたケレンスキー内閣に対して、蜂起はその防衛対策の裏をかいたのである。押し寄せる大衆の反乱に対しては有効であったかもしれない防衛措置も、秘かに建物内部に侵入した小人数の部隊による奇襲攻撃には効き目がなかった。なるほど、ケレンスキーをはじめとする閣僚たちは冬宮内にいていまだ自由な身であったにせよ、交通や通信機関を奪われた彼らはすでに統治能力を失っていた。
マラパルテによるこうした分析の魅力は、彼が革命につきまとう神話を政治イデオロギーとともに切り捨てて、一九一七年一〇月の出来事を軍事的な技術の次元にのみ容赦なく還元してしまうところにある。その過程で露呈するのが、ひとたび議会主義的な法秩序が暴力によって解体されようとするとき、すなわち法が宙吊りにされてしまう非常事態のもとにおいて、国家権力を支える実体にほかならない。権力の所在する場としての首都はそのとき裸にされてしまう。権力はもはや内閣や国会、首相官邸といった代表=表象の空間を通じて作用することはできない。反乱の機械は、水道や電気を供給する都市のインフラストラクチャーと交通・通信のネットワークを簒奪することによって、権力の代表=表象関係を無効にする。「見えない機械」は、最小限の人員が行使する最小限の暴力による最小限の拠点確保によって、権力のこうした無力化を最も合理的、効率的におこなう機構であるからこそ、「機械」と呼ばれるのである。
マラパルテはこのような反乱機械の暴力に対する対抗暴力としての権力防衛のメカニズムを、トロツキーに対するスターリン一派の戦術に見ている。この著者は警察的手段に基づいた防衛戦術がクーデターの技術に対してはまったく無力であることを繰り返し説いている。「見えない機械」には「見えない機械」によって応戦しなければならない。警察から防衛組織を分離し、権力が機能するための基盤となる拠点を秘かに守護防衛させなければならない。国家転覆の暴力とそれに対する対抗暴力を軍事技術の戦術的次元においてのみ論述してゆくマラパルテの筆致は、ここではなはだ両義的なものとなる。自由民主政のもとで、『クーデターの技術』が国家防衛マニュアルと見なされるどころか、「暴力的国家権力奪取術のマニュアル」★五としてブラック・リストに載せられたことを、彼はのちに告白している。この書物においては著者が権力の奪取と防衛のいずれの側に立っているかが判然としない。その代わりに、「見えない機械」の破壊力ばかりが際立つことになるのだ。
十月革命とそれ以後のソヴィエト連邦の権力闘争を範例として、マラパルテの分析はヨーロッパ諸国におけるクーデターの事例に向かっている。彼は一九一九年一〇月、駐ワルシャワ・イタリア公使館付参事官に任命されており、一九二六年にクーデターを起こすことになるピウスツキとの接触を中心とした一九二〇年のポーランドにおける実体験がそこでまず物語られている。ポーランド情勢を一例として、一九一九年から一九二〇年にかけてのヨーロッパでは、革命の機は十分熟していたにもかかわらず、左右両翼のカティリナ派はボルシェヴィキ革命の経験を活用する術を知らなかった、とマラパルテは診断する。自由主義ブルジョアジーによる国家防衛方法が、警察制度を単純にそのまま運用することであったのと同様、革命政党もまた、こうした使い古された国家防衛策にトロツキー流の近代的攻撃方法を対置できず、革命を警察的問題と見なしていた。
一九二〇年三月のベルリンにおけるカップ一揆に対するバウアー政権の対応は、国家防衛のために労働者のゼネストに訴えたという点で画期的なものだった、とマラパルテは評価している。ただし、そこにはゼネストがコミュニズム革命に転化しかねない危険があった。権力をクーデターから防衛する戦術としてのゼネストは警察的手段をはるかに凌ぐものであると同時に、国家転覆の契機となりかねない二重の効果をもつ暴力なのである。
カップ一揆、あるいはピウスツキや一九二三年スペインのプリモ・デ・リーベラ将軍によるクーデターに共通する特徴をマラパルテは、合法性を尊重しつつ、暴力を使用し、軍隊によって議会主義的な革命を起こそうとする点に見ている。そして、その戦術の起源はナポレオン・ボナパルトによるブリュメール一八日のクーデターに求められている。ボナパルトのクーデターは、「現代ヨーロッパにあっては、いかなる議会的クーデターであれ、ブリューメル一八日と同じ概念上、実行上の誤りを伴わずには起こり得ないという点」★六において、初めての現代的クーデターなのである。さらに、この「誤り」のなかで最も重大なものとは、「ブリューメル一八日の計画を合法性の尊重と議会手続のからくりの上に建てたこと」★七にほかならない。カティリナやカエサルをはじめとする古代ローマに範を求めた古典古代的なクーデター概念と異なる特徴とは、合法性をめぐるボナパルトの苦心にあった、とマラパルテは言う。この「誤り」ゆえに、ボナパルトのクーデターは議会的な手続きのなかに埋没してしまう危険があった。議会は時を稼いで、問題をだらだらと長引かせることを戦術になしえたからである。議会的手続きの強みはその緩慢さにあった。にもかかわらず、議会はボナパルトの公権を剥奪するという積極的な攻撃をおこなうことによって、逆に軍隊による暴力的な制圧を招き、クーデターを成功させてしまった。
ボルシェヴィキ革命の戦術、カップ一揆におけるバウアーの国家防衛策、そして、ナポレオン・ボナパルトに始まる現代的クーデターの「誤り」に学んだ者がどのような反乱を実現するか──マラパルテの真の関心が、そのような視点のもとに捉えられた、ムッソリーニによるファシスト・クーデターにあることは紛れもない。一九二二年一〇月におけるクーデター最中、マラパルテはフィレンツェにいた。トスカナ一帯ではファシストの奇襲によって、戦略拠点であるガス施設、発電所、郵便局、電話局、橋、駅などが占拠されていた。フィレンツェで知り合ったイギリスの或る作家にマラパルテは「ファシスト的蜂起機械」★八をつぶさに見せようとする。この作家との対話の形を借りて、彼はファシスト・クーデターの性格を説明する。人々が平静かつ無関心な様子で日常生活をつづけ、バリケードも市街戦もなく、路上に死骸のないこのクーデターという「革命」をイギリス人は「喜劇」と呼び、しかしその一方で、ファシズムが行使してきた暴力を批判する。これに対してマラパルテは、今回のクーデターにおける流血はむしろファシストの革命組織に欠陥があったことを証明するものだと言う。流血とは機械に生じた「事故」にすぎない。ただし、それはこのクーデターが暴力的なものでないという意味ではない。「ムッソリーニが四年も前から政治闘争をおこなってきたのは、甘言や手管によってではなく、暴力しかも最もし烈で最も冷酷な最も科学的な暴力によってだからです」★九。この暴力ゆえにファシスト革命は喜劇ではありえない。暴力による内戦を継続したからこそムッソリーニは支持をつなぎとめることができた。「武器をとるものの神は暴力の神以外にはありえないということを忘れてはならないのです」★一〇。
ファシスト・クーデターを阻止しうるのは労働者のゼネストであるはずだった。しかし、労働組合や社会党、共産党はこれに先立つファシストとの苛烈な流血の闘争にすでに敗北し疲弊していた。一九二二年八月の反ファシスト・ゼネストもまた、ファシスト黒シャツ部隊と治安警察の前に悲惨な失敗に終わった。「喜劇」どころではない徹底した暴力的破壊はクーデター決行前に何年にもわたってつづけられていたのである。その挙げ句に生み出されたのが「蜂起機械」という、あたかも何の障害もないかのごとくに機能する権力奪取のメカニズムだった。
マラパルテの記述には、このクーデターの季節にファシストであった自分の過去の見解と、その数年後にファシスト党の内在的な批判者となった立場からの歴史的な回顧とが分かちがたく織り込まれているように思われる。ここにおいてもまた彼が位置する場所はきわめて両義的なものなのだ。また、ファシスト・クーデターが実際には、フィレンツェにおける「蜂起機械」の運動のように整然とした経緯をたどったわけではないことにも注意しなければならない。藤沢道郎の『ファシズムの誕生──ムッソリーニのローマ進軍』に克明に記録されたクーデター当時のムッソリーニおよびその周辺の動向から浮かび上がってくるのは、それぞれの異なる思惑によってばらばらに暗躍するファシズム首脳部の分裂であり、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世の戒厳令に対する署名拒否によって辛くも救われたこのクーデター計画の脆弱さである。クーデターの間、ムッソリーニはミラノに陣取り、ローマをはじめとする各地との電話連絡によって政治的な駆け引きをつづけ、最終的にどうにかその「電話戦争」に勝利した★一一。諸都市、農村の暴力的な制圧がこうした交渉の前提であったことは言うまでもない。だが、クーデターの目的はムッソリーニを内閣首班とする要請を取りつけることであり、議会制の枠内にとどまってあくまで形式的には合法的に権力を得ることだったのである。この意味では、ムッソリーニのクーデターもまた、マラパルテの言う現代的クーデターの「誤り」を免れているわけではない。
クーデター戦術の機械的作動を強調してきたマラパルテの筆が、一九二二年一〇月の出来事を記述するにいたるや、にわかに暴力の必要性を唱えることになるのは、彼自身とファシズムとの関係を反映したものであろうか。明示的には書かれていないにせよ、マラパルテを捉えているのは、合法性を追求した議会的手続きとは別の次元に出現する赤裸な暴力だったように思われるのだ。その意味では、彼が信じたものもまた「暴力の神」の神話だった。日和見主義者としてのヒトラーのなかに「変態性欲的なもの」★一二、女性的なものを見て軽蔑するマラパルテは、「独裁政権の合法性はその革命的暴力に存するのであり、即ち、それに安定性を確立する力を与えるものはクーデターにほかならない」★一三と断言することを辞さない。

長崎浩は『クーデターの技術』におけるマラパルテのラジカリズムに共通するものをカール・シュミットのなかに見ている。そのラジカリズムは彼らの主張内容よりも、文体に宿ったものだった。その文体が示しているのは、「時代の政治を一挙に純粋な力学主義にまで還元しようとする意志の力」★一四にほかならない。「政治という最も欺瞞的な存在に欺瞞なく直面しようとする意志の力のために、彼らの文体はほとんど政治的とも反政治的ともいえる極端な局面にまで達するのだ」★一五。この文体のラジカリズムによって、『クーデターの技術』は政治権力を支えるメカニズムの急所を議会制的な代表=表象の空間以外の場所に見出し、国家秩序を機能させる都市のインフラストラクチャーが何であるかの把握こそが、蜂起機械の暴力行使に不可欠であることを明らかにするのである。
オウム真理教の事件をはじめとするテロの事例を考えてみても、このような視点から現代の都市構造を見直してみることは意味のないことではあるまい。マラパルテに学んだ福田の『日本クーデター計画』では以下の場所が、陸上自衛隊のクーデター部隊によってまず制圧されるべき首都東京の要所とされている。

警視庁とその通信中枢
日銀と、全都銀の本店及び計算センター
東京証券取引所とコンピューター中枢
東京電力の配電中枢
NTTの通信中枢
NHK
JR、私鉄、地下鉄などの首都圏公共交通の制御中枢★一六


こうした拠点の選択がトロツキー的な戦術の焼き直しであることは明らかだろう。いかにもそれは治安、通信、交通などの「中枢」を制圧することによって都市機能を掌握するもののように見える。しかし、東京という広大で膨大な人間を抱えた都市において、さらに二〇世紀初頭よりも通信ネットワークが多様化し、中枢機能がはるかに分散された状況下で、そして、ゼネストなどによる生活機能の停止状態をはじめとする混乱状況が市民の間に存在しないにもかかわらず、こうした戦術が容易に可能であるとは思えない。いや、実現可能性を云々すること自体が馬鹿げて見えることは確かなのだが、こうした想定そのものが如何ともしがたくそれこそ「喜劇」的な色彩を帯びてしまうのだ。それはまず第一に、このクーデター計画に「暴力」が徹底して欠如しているからだろう。福田は次のように言う。

クーデターは出来るだけ「透明」なものが望ましい。つまり、見えないクーデターこそが、成功したクーデターなのである。その過程が、大袈裟に市民や報道機関の目にさらされるようでは、失敗と云わざるを得ない。国民には、すべての片がついた後に周知されるべきで、帰趨が解らない状態でその全容を見せることは好ましくない。そのためには、出来るだけ物理的な衝突、損害は起こらない方がよいのである★一七。


「見えないクーデター」とはマラパルテの言う「見えない」蜂起機械を念頭に置いているのであろう。福田はクーデターの手法について論じて、一九二二年のファシスト・クーデターの折り、「ローマ市内はまったく平穏でカフェに人々は憩い、交通も市民生活もまったく通常のままであったと云われている」★一八と述べている。国会議事堂の周辺で銃撃戦をおこなうようなクーデターは「それだけで失敗」というわけである。ところで実際には、クーデター当時、首都ローマでは治安当局の守りが固く、フィレンツェをはじめとする多くの都市とは異なり、ファシストがたやすく権力を得たわけではなかった。ムッソリーニは帰趨の際どかった「電話戦争」によって首班の地位を得たのちにはじめてローマ入りしたのであり、いわばクーデターはそのときすでに決着していた。いずれにしてもローマがクーデターの最中、比較的平静だったのは当然である。また、フィレンツェのように蜂起機械が理想的に稼働していた都市があったにせよ、そのような事態はファシストと労働組合や左翼との血で血を洗うすさまじい暴力闘争の結果としてもたらされたものにほかならなかった。例えば一九二一年四月の状況を藤沢は次のように記述している。

全土にファシスト武闘の嵐が吹きすさんでいた。その攻撃の対象となる左翼の側は、分裂と内紛を繰り返し、ファシズムに対しては個々ばらばらの散発的な抵抗にとどまり、それも非組織的な暴力行動、個人的な報復が多かったから、かえって「懲罰遠征」の口実を与えるだけで、結局損害を大きくすることになった。第二次世界大戦後に公表された内務省関係の機密文書によると、一九二一年一月一日から四月七日までの期間に生じたファシストと社会主義者の衝突の中で、百二名の死者が出ている。その内訳は、ファシスト二十五、社会主義者四十一、まきぞえになった者十六、警官等治安関係者二十である。負傷者は総数三百八十八名と記録されている。また、同年五月十五日から三十一日まで、わずか半月間に、おどろくなかれ七十一名の死者(ファシスト十六、社会主義者三十一、まきぞえになった者二十、公安関係者四)と二百十六名の負傷者が出ている。ゲバルトとか武闘と言うより内戦、内乱に近い状態であり、一般市民は恐怖に慄えて暮らさなければならなかった★一九。


暴力はすでに日常茶飯事だった。大衆は混乱と社会不安に疲れ切り、ファシストの唱える「革命」にはもはや無関心になっていた。この無気力状態のもとで、市民は「交通も市民生活もまったく通常のまま」に送ることで何とか生と精神の安定を保っていたのである。こうした血塗られた経緯をまったく無視して、ファシスト・クーデターは都市の機能中枢をあたかも暴力をほとんど用いることなく占拠し、「熟柿が落ちるようにして政権を奪取した」★二〇とは、無知によるものか故意かは別にせよ、あからさまなデマゴギーと言わざるをえない。福田が言うような理想的クーデターの「透明性」とはそれ自体がイデオロギーである。マラパルテは少なくとも「暴力」がクーデターの鍵であった事実を隠蔽するような粉飾はしなかった。
長崎はマラパルテとシュミットの文体に触れて、「私たちは二人の理論や主張自体にたいしてではなく、まっすぐに彼らの文体に、つまり二人の不安のまん中に到達しそこに自らの不安の反映を見いだすのだ」★二一と書いている。長崎が指摘するように、マラパルテの議論そのものは「観客の戦術談義」★二二に堕する性格のものだが、時代の大混乱を前にしたこの不安ゆえに、彼らの文体のラジカルさはひとつの挑発であることをやめない。マラパルテ自身、アイロニカルに「本当の私を知る人の一人は、私のことを暖房のきいた部屋にいるデカルトだといった」★二三と新版の序文に書きつけていた。書斎の生ぬるさのなかにいるこの思索者に、不安に彩られた文体を与えたものが時代の混乱だったのだとすれば、『日本クーデター計画』を滑稽な書物としている時代的な条件とは何なのか。われわれはここで、マラパルテが『クーデターの技術』で触れることのなかったひとつのクーデター、それ自体が「笑劇」であったクーデターを取り上げなければならない。ことによるとこのクーデターはマラパルテの議論を内部から解体しかねないものであったがために、彼はそれに触れることを避けたのかもしれない。その「笑劇」とは言うまでもなくもうひとつのブリュメール一八日、ルイ・ボナパルトによるクーデターである。

2 反復と笑劇

一八四八年の二月革命によってフランスには第二共和制が成立した。その後、ブルジョア共和派を中心とする体制下における労働者のデモや蜂起の武力的鎮圧によるプロレタリアートの敗北、年末の大統領選挙でのルイ・ボナパルトの当選、ルイ・ボナパルトと結んだ秩序党とブルジョア共和派の対立、そして秩序党独裁の期間を経て、一八五〇─五一年にはルイ・ボナパルトと議会とが激しく対立し、一八五一年一二月のクーデターに帰結する。この間における諸党派間闘争のダイナミズムは、例えばカール・マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』が分析的に活写している通りである。
なるほど、一二月二日のクーデターは議会解散と主要議員の逮捕、戒厳令布告、さらには共和派による蜂起の武力的制圧といった過程をたどり、そこには当然ながらボナパルト派軍隊による軍事的暴力の行使が伴っていた。だが、このクーデターによる権力掌握が孕んでいる本質的な問題は、軍事的戦術よりもはるかに、ルイ・ボナパルトをフランス国民の代表とするにいたった議会制=代表制のメカニズムそのものにあり、マルクスの分析もそこに焦点を置いている。
ルイ・ボナパルトによるクーデターと第二帝政の成立は、二月革命がもたらした普通選挙に基づく代表制=議会制に内在していた危機のひとつの表われと捉えられる。柄谷行人が明快に説いているように、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』はrepresentationの問題を次の四つの点において考察している★二四。第一は議会制=代表制の問題、第二は議会=立法権力と大統領=行政権力という二つの代表制の差異、第三はre-presentationとしての反復の問題、そして最後は表象システムとしての資本主義経済における恐慌の問題である。マルクスはルイ・ボナパルトの勝利を政治・経済的な表象のシステムが必然的に陥る危機を想像的に止揚する試みとして捉えた。普通選挙に基づく議会制=代表制という表象のシステムにおいて、「代表するもの」と「代表されるもの」との間に必然的な関係はありえない。「代表されるもの」である諸党派や階級は「代表するもの」の差異、言説的な差異を介してはじめて立ち現われる。そして、この代表=表象関係の恣意性ゆえに、ほぼあらゆる階級が行政権力の代表者として、ナポレオンの甥であるにすぎないルイ・ボナパルトを選ぶという事態が起こりえたのである。
しかし、こうした恣意性は階級の代表という観念それ自体をぐらつかせるものであるがゆえに、ジェフリー・メールマンが指摘するように、「マルクスの言説の内部にあってのスキャンダル」★二五でもあったのではないだろうか。なぜならボナパルティズムとは「その階級的内容をからっぽにしてしまった国家」★二六、もはや実質的には何ものも代表しない国家の出現を意味することになろうからだ。「網膜のようにフランス社会の肉体に絡みついて、そのすべての毛穴を塞いでいるこの恐ろしい寄生体」★二七としての国家、社会と敵対関係にある国家という観念に、マルクスは苛立っているように見えるのである。その苛立ちゆえに彼は「国家は空中に浮かんではいない」★二八と言い、ルイ・ボナパルトは分割地農民を「代表」していると述べることが必要だったのではないだろうか。
だが、こうした抵抗にもかかわらず、マルクスのテクストそのものは、あらゆる階級の「くず、ごみ、残り物」★二九でしかないようなルンペンプロレタリアートの首領としてルイ・ボナパルトを描き出すラブレー的、スウィフト的で、スカトロジカルな愛好を示す文体によって、ボナパルティズムという倒錯的な「笑劇」に孕まれた過剰をおのずから露呈させてしまっている。ルイ・ボナパルトという存在を媒介として、いずれも社会の「寄生体」であるルンペンプロレタリアートと国家が交差してしまうかのような、代表=表象関係の齟齬、転倒、短絡が、そこには哄笑とともに描かれている。この「笑劇」は、諸階級の代表という正常で透明な表象関係を汚染する雑多な異質性が、例えば次のように歴史/テクストの表層に浮かび上がり、増殖することによってもたらされるものにほかならない。

いかがわしい生計手段をもつ、いかがわしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険家的なブルジョアジーの息子と並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ、すり、手品師、賭博師、女衒、売春宿経営者、荷物運搬人、日雇い労務者、手回しオルガン弾き、くず屋、刃物研ぎ師、鋳掛け屋、乞食、要するに、はっきりしない、混乱した、ほうり出された大衆、つまりフランス人がボエーム[ボヘミアン]と呼ぶ大衆がいた。自分とは親類のこういう構成分子でもって、ボナパルトは一二月一〇日会の元手を作った★三〇。


周知のように、マルクスはこの書物の冒頭でヘーゲルの言葉をパラフレーズし、歴史における反復に言及している。世界史的な事件は「一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として」★三一生じる。一八四八年の革命は共和制から皇帝制にいたった一七八九年以後の事態の反復である。しかし、一七八九年の革命もまたすでに、古代ローマの反復的再現として演じられていた。柄谷が指摘するように、そこで反復を生むのは「王殺し」による共和制成立に始まる歴史的なプロセスの構造的必然性であるに違いない★三二。だが、それが構造的変容の必然に根ざしているのだとしたら、逃れがたい拘束のもとにあるという意味においていずれも「悲劇」的なものと呼ばれるべきだろう。では何故、ここで殊更に「悲劇/笑劇」という差異が導入されなければならないのか。
メールマンは『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』と『フランスにおける階級闘争』中のマルクスのテクスト的な戦略のなかに、「悲劇/笑劇」だけではなく、「悲劇/喜劇/笑劇」という差異の存在を認めている。具体的には一八四八年六月のプロレタリアート蜂起とその制圧が「悲劇」であるとすれば、一八四九年六月のプチ・ブルジョアジーによるデモとその粉砕は「喜劇」である。

悲劇/喜劇。ここでの戦術は、「付属物」をアンチテーゼの位置に押しこめることで、その姿を目立たなくし、より巧みに隠蔽することにあった。これが弁証法の計略であり、笑いである。しかし、喜劇的なものがここでは悲劇的なものの滑稽なイミテーションとして定義されており、分析の運動をつうじて、ついには後者の審級に吸収されてしまうのである以上、この笑いはすぐさま消えてしまう笑いにすぎない★三三。


これに対して、第三のジャンルである「笑劇」こそがボナパルティズムの審級である。この笑劇における反復は国民をとっくの昔に死んだはずの時代に回帰させる。その時代状況とは、王政派と共和派といった本来対立する二派がそれぞれの立場を入れ替えたかのような主張をするといった、はなはだしい矛盾の混合物であり、そこにはもはや弁証法的な歴史の運動が存在しなくなったかのように見える。

英雄的行為をしない英雄、事件の起きない歴史。カレンダーがその唯一の原動力であるように見える発展は、同じ緊張と弛緩をたえず繰り返すことで人を疲れさせる。周期的に自らを絶頂へと駆り立てるように見える対立は、その結果、ただ鈍くなりしぼんでいくだけで、解消されることはない★三四。


それは「灰色に灰色を重ねて描かれた歴史の一齣」であり、「人間も事件も、あべこべのシュレミールとして、すなわち肉体を失った影として、現れる」★三五。このアナクロニックに混乱した時間のなかで、悲劇/喜劇の主人公だったプロレタリアートとブルジョアジーの二極は弁証法的対立の緊張関係とダイナミズムを失い、一方では、それらのはるか下方に位置するはずの「くず、ごみ、残り物」であるルンペンプロレタリアートがルイ・ボナパルトという代表を得て、社会秩序の頂点に流入する。雑多な「くず」が散種されたこの笑劇的審級において、弁証法的な全体化はもはや機能しない。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』第二版で、冒頭の「偉大な悲劇」と「みじめな笑劇」という対を単に「悲劇」、「喜劇」と書き換え、「天才のブリュメール一八日の代わりに白痴のブリュメール一八日」といった一節を削除している★三六。つまり、ルイ・ボナパルトをナポレオンの偉大さに寄生したパロディと見なすニュアンスが弱められているのである。メールマンは初版以後のマルクスの発言中に同じ傾向を確認している。そうした発言はむしろ、ルイ・ボナパルトは伯父であるナポレオンその人の卑小さを表現しているという観点を示していた。すなわち、笑劇は反復を通じてそれが寄生している悲劇の「偉大さ」を内部から掘り崩すのである。メールマンはここに、寄生的笑劇が偉大な悲劇というオリジナルな物語をあらかじめ汚染しているという構造を見ている。

マルクスのボナパルティズムは一般化された寄生性となり、究極的には、寄生前のものが現前する可能性そのものを排除してしまう。これこそは、歴史の弁証法がみずからのうちに同化することによって中和しようと躍起になってきたあらゆる「付属物(Anhängsel)」によって弁証法にくわえられる復讐というものなのだ★三七。


われわれはこの寄生性の論理、あるいは付属物による汚染をルイ・ボナパルトによるクーデターの戦術そのもののなかに発見することができる。蓮實重彦が明らかにしたように、このクーデターの実行にはルイ・ボナパルトの義弟であるド・モルニー伯爵が大きく与っている★三八。ルイ・ナポレオンの母の私生児として生まれ、みずからの血統とは無縁の名を貴族めいたものに修正して名乗っていたこの人物は、国民の支持が国民議会にではなく大統領にこそ向けられている事態を見て取り、帝政への移行が必須のものであるという判断を度重ねて義兄である大統領に進言していた。議会との妥協が困難な段階にいたるまで合法性の枠内にとどまることを望み、決断をためらっていたのは、ルイ・ボナパルトのほうだったのである。
蓮實が注目するのは、クーデターが決行された一八五一年一二月二日早朝、パリ市内の壁という壁に貼り出された布告文である。「第一条、『国民議会』は解散する」に始まるこの布告は、普通選挙の再実施などを唱ったのち、最後の第六条で「内務大臣は、本布告の実施の任を負う」と告げ、最後にこの日の日付とエリゼ宮という場所、そしてルイ・ナポレオン・ボナパルト、および内務大臣ド・モルニーの署名を備えていた。ちなみに、ド・モルニーはクーデター以前の、布告の原稿が書かれた時点ではいまだ内務大臣の職にはなかった。この布告をはじめとして、パリ中に貼り出された何種類かの印刷物は、クーデター決行日の前夜に国立印刷所に送られ、ひとりの印刷工には絶対に全文を読めないような複雑な順序で活字に組まれていったという。そこで印刷され大量に複製された布告における署名の機能について蓮實は次のように言う。

肝心なのは、権力者の決断を国民に知らしめる目的で綴られたこれらの文書に権威を与えるものが、執筆者の署名という「起源」ではないという点である。そもそも、ここでは、文章の「起源」たるべき署名という行為は現実には演じられてさえおらず、印刷された名前は、むしろある種の行為の「結果」であることが明らかなのだ。つまり、「現実」の十二月二日に「現実」の内務大臣としてのド・モルニーが「現実」に署名したことで「布告」と「市長各位」が権威を持つといったかたちで事態は進展していない。「現実」にはそんなことは起こらなかったにもかかわらず、「形式的」には十二月二日に内務大臣ド・モルニーが署名したものと読める文書が大量に印刷され、それがフランス全土に発送され、あるいは公共の場に貼りだされ、あるいは公式文書として通達され、いずれにしても、あらゆる人の目に、平等に触れうる状態に置かれたことの「結果」として、ド・モルニーの名前が権威を帯びるにいたるという、まったく逆のメカニズムが始動しているのである★三九。


この陰謀にあっては、まがいものにほかならない署名というシミュラークル、オリジナルなモデルをもたないままに反復される複製こそが唯一の政治的現実だった。ド・モルニーはそのことを確認するかのように、クーデターの十年後、「模倣」によって成功した「陰謀」を主題とした『シューフルーリ氏、今夜は在宅』という題名のオペレッタ・ブッファの脚本をド・サン=レミという筆名で書いている。この脚本にはジャック・オッフェンバックによって曲がつけられた。蓮實の言い方を借りれば、ルイ・ボナパルトのクーデターは「笑劇」ではなく、「オペレッタ・ブッファ」だったのであり、「まだ上演されてさえいない作品を、それが書かれるよりも正確に十年前にあらかじめ上演してしまったもの」★四〇だったのである。ここに生じている事態の逆転ぶりこそが「反復」であると蓮實は言う。なるほどそこで指摘されている通り、それはマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』冒頭で提示しているヘーゲルの弁証法的な歴史観には収まりえない事態ではあるが、すでに見たように、起源的なものを汚染するこの反復の論理、寄生性の論理それ自体は、マルクスのテクストのなかにも書き込まれていたと言うべきだろう。
さて、われわれの「笑劇」のテクストに戻ろう。『日本クーデター計画』の「あとがき」末尾には「福田和也」という署名とともに「一九九九年二月二六日」という日付が記されている。この日付が参照を促している歴史的な事件が何であるかは言うまでもないだろう。福田は本文中で二・二六事件に触れ、それを拙劣なクーデターであったとしながらも、「蹶起将校」たちの「精神の珠玉」を讃えている。署名の日付が示唆するのは、この書物が精神においては「蹶起将校」たちを、クーデター後の政策シミュレーションにおいては北一輝の『国家改造法案大綱』を「反復」しようとするものであるという意図だろう。しかし、二・二六事件がいくばくかの「悲劇」性を帯びているとしても、その反復である福田のテクストはパロディとしての笑劇にとどまっている。いや、すでに三島由紀夫による、笑劇であることを自覚した反復が先行している以上、それはもはや使い古されたパロディであるとしか言いようがない。「クーデターの本質は、現実政治の切断によって、本質的なものの持続を回復することにある」★四一という福田の言葉とは裏腹に、このクーデター計画そのものが「英雄的行為をしない英雄、事件の起きない歴史」の一齣である。そして、文芸評論家によるこの計画が事後的に明らかにしているのは、それがモデルとしている『国家改造法案大綱』がすでに、政治的というよりもはるかに文学的なテクストだったという事態にほかならない。福田の思惑とは逆に、この反復は或る視点から見た二・二六事件の「悲劇」性を掘り崩すことになるだろう。

松浦寿輝が指摘するように、『国家改造法案大綱』に先立つ北の『国体論及び純正社会主義』には、「国体」という概念が正常な表象として流通していない状況に対する生理的とも呼びうる苛立ちが認められる★四二。「正常な表象」とは「表象するもの」の背後に「表象されるもの」が規定可能な状態で実在する事態を意味する。このような関係の不在ないし脱臼に対する苛立ちは、社会と国家が敵対しているかのような、ボナパルティズムにおける代表=表象関係の混乱を前にしたマルクスのそれを思わせないだろうか。あくまで正常な代表=表象関係に徹底的にこだわる彼らの言説はともに結果として、スウィフトを連想させるスカトロジカルな過剰さのユーモアを帯びることになる。

マルクスの直面したものがボナパルティズムにおける反復とシミュラークルの支配であったとすれば、北が脱構築しようとしたのは国体という「シニフィエの空虚それ自体によって初めて有効に機能しうるシニフィアン」★四三の支配だった。そして、『日本改造法案』が「国民の総代表」と位置づける天皇は、北にとってナポレオンに似たカリスマだった「明治大帝」のシミュラークルにすぎない昭和天皇ではありえず、現実の天皇制とは無縁であってもよい架空の国家改造主体、クーデターの主体に与えられた仮の名に過ぎなかったはずだ。蓮實はルイ・ボナパルトとド・モルニーが署名した布告文が行為遂行的な言説の形式をとっていることを指摘し、慣習的なコードの共有を行為遂行的言説の条件としたオースティンの理論に逆らって、この布告文はクーデターという日常的なコンテクストが覆され慣習が揺らいだ状況下で、というよりもそのような状況をもたらす強制力をもった言説として現実に機能した歴史的事実に注意を促している★四四。「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんがために天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」という『法案』冒頭の一文はまさにその行為遂行的な性格によって、橋川文三が言うように、北が遠望したかもしれぬ「最高国家」のイメージを暗黒の背景に浮かび上がらせる強制力を漂わせている★四五。
しかし、そのとき、北自身がド・モルニーにはなりえたにしても、彼の署名を従えるもうひとつの署名がこの『法案』には決定的に欠けていた。それを「天皇」と呼ばざるをえなかったところに、北のジレンマがあったと言うべきだろう。国体という曖昧で稀薄な、ボナパルティズム的なと言ってもよいかもしれぬシニフィアンが形成する現実に苛立っている北が、しかし、その現実を明晰な法学的思考によって改造しようとするとき、彼が依拠できるものは、現存するボナパルティズムとしての天皇制しかなかったのである。
福田は、エピグラフからも明らかなように、マラパルテに自分を擬している。石原莞爾らの画策による満州事変がクーデター計画のモデルとなっている部分もある。しかし、福田が演じているような北、石原、マラパルテの反復は「本質的なもの」の回復であるどころか、まがいもののまがいもの、複製の複製であるしかない。ファシズム体制から距離を取りつつあった一九二六年、クルト・エーリッヒ・ズッケルトが採用したあらたな名前「悪い部分マラパルテ」がすでに、「良い部分ボナパルテ」のもじりであり、ナポレオンの名のパロディであった。
だが、『日本クーデター計画』はまさにそれがきわめつきのまがいものであるがゆえに、われわれの政治的現実の一部をなしていると捉えるべきだろう。「『第二帝政』という政治的=文化的な空間の建築設計技師」★四六としてのド・モルニーの強みは、「政治の非深刻化というシニカルな政治性」★四七にあったと蓮實は述べている。それこそが「帝国」の維持に威力を発揮した。福田の書物がおそらく意図に反して落ち込んでいるのは、パロディによる政治の非深刻化というプロセスであり、それはこの「帝国」に蔓延するシニシズムにきわめて適合的である。ド・モルニーの日和見主義的シニシズムやマラパルテのシニカルなマキャベリズムとは対照的な「本質的なもの」への志向を殊更に騒ぎ立てることで逆に、福田のテクストは現状維持的なシニシズムに埋没してゆく。
マラパルテやシュミットの「文体のラジカリズム」にしたところで、それが本当に「政治という最も欺瞞的な存在に欺瞞なく直面しようとする」ものであるのか、むしろその内部にあらかじめ欺瞞的な政治を孕んでいないか、といった点は疑わしい。また、「本質的なものの持続の回復」といった言辞は、欺瞞でありまがいものであるシミュラークルが形成する政治的現実のなかで繰り返し発せられてきた、最も使い古されたクリシェであろう。もとより、パロディである笑劇もまた、極度に暴力的で悲惨な結果を生むものでありうる。その帰趨を決定するのは今なおやはり、笑劇のテクストに誰が署名するのかという──現実には演じられなくともかまわない──出来事でありつづけている。ルイ・ナポレオンは「たえざる不意打ちによって公衆の目をナポレオンの代役としての自分に向けさせる必要」、「毎日ごく小規模なクーデタを行う必要」★四八に駆り立てられている、とマルクスは語っていた。これから暴かれなければならないのはおそらく、『日本クーデター計画』などというテクストよりも目立たぬ形で、しかしはるかに効果的に、都市=メディア空間内で日々上演されている小規模な無数の笑劇、稀薄なクーデターの数々に書き込まれた署名の「技術」であるに違いない。

註 
★一──福田和也『日本クーデター計画』(文藝春秋、一九九九)六頁。なお、これは海原峻と真崎隆治による訳文である。
★二──クルツィオ・マラパルテ『クーデターの技術』(矢野秀訳、イザラ書房、一九七一)八頁。
★三──古賀弘人「クルツィオ・マラパルテ 経歴」(クルツィオ・マラパルテ『壊れたヨーロッパ』、古賀弘人訳、晶文社、一九九〇所収、四一五─四一六頁)参照。
★四──マラパルテ『クーデターの技術』三七頁。
★五──同、九頁。
★六──同、一六二頁。
★七──同。
★八──同、二〇六頁。
★九──同、二一三頁。
★一〇──同、二一四頁。
★一一──藤沢道郎『ファシズムの誕生──ムッソリーニのローマ進軍』(中央公論社、一九八七)五八八─六五〇頁参照。
★一二──マラパルテ『クーデターの技術』二六二頁。
★一三──同、二六四頁。
★一四──長崎浩「付論」(マラパルテ『クーデターの技術』別冊)三頁。
★一五──同。
★一六──福田、前掲書、八一頁。
★一七──同、八四頁。
★一八──同、八五頁。
★一九──藤沢、前掲書、二三六頁。
★二〇──福田、前掲書、八六頁。
★二一──長崎、前掲書、一頁。
★二二──同、四頁。
★二三──マラパルテ『クーデターの技術』一一頁。
★二四──柄谷行人「表象と反復」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』植村邦彦訳、太田出版、一九九六所収、二三六─二六七頁)参照。
★二五──ジェフリー・メールマン『革命と反復──マルクス/ユゴー/バルザック』(上村忠男+山本伸一訳、太田出版、一九九六)二五頁。
★二六──同、二六頁。
★二七──マルクス、前掲書、一七七頁。
★二八──同、一八〇頁。
★二九──同、一〇四頁。
★三〇──同、一〇三頁。
★三一──同、六頁。
★三二──柄谷、前掲書、二五七頁参照。
★三三──メールマン、前掲書、二二頁。
★三四──マルクス、前掲書、五二─五三頁。
★三五──同、五三頁。
★三六──マルクス、前掲書、六頁、註二、および一〇頁、註四参照。
★三七──メールマン、前掲書、三四頁。
★三八──蓮實重彦『帝国の陰謀』(日本文芸社、一九九一)参照。
★三九──同、五九頁。
★四〇──同、一二二頁。
★四一──福田、前掲書、九二頁。
★四二──松浦寿輝「国体論」(小林康夫+松浦寿輝編『メディア──表象のポリティクス 表象のディスクール五』、東京大学出版会、二〇〇〇、三一八─三三一頁)参照。
★四三──同、三一六頁。
★四四──蓮實『帝国の陰謀』、六二─六七頁参照。
★四五──橋川文三「昭和超国家主義の諸相」(『橋川文三著作集五』、筑摩書房、一九八五、四四頁)。
★四六──蓮實重彦「署名と空間」(磯崎新+浅田彰編『Anywhere』、NTT出版、一九九四所収、一五八頁)。
★四七──蓮實『帝国の陰謀』、一二二頁。
★四八──マルクス、前掲書、一九八頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『死者たちの都市へ』として単行本化されています。

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年生
東京大学大学院総合文化研究科教授。表象文化論、思想史。

>『10+1』 No.22

特集=建築2001──40のナビゲーション

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フランス文学者/詩人/映画批評家/小説家。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)・教養学部超域文化科学科教授。

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Deconstruction(ディコンストラクション/デコンストラクション)。フ...

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1950年 -
表象文化論、現代哲学、フランス現代文学。東京大学大学院総合文化研究科教授。

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建築家。磯崎新アトリエ主宰。