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建築と映画あるいは映画館の思考 | 北小路隆志
Architecture and Cinema, or Reflections on the Movie Theater | Kitakoji Takashi
掲載『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) pp.30-31

この五月に三原港からフェリーで三〇分弱の瀬戸内海上に浮かぶ佐木島で「鷺ポイエーシスI──映画と建築の接線」なる野心的なセミナーが開催された。舞台となったのは鈴木了二設計による《佐木島コテージ》(一九九五)。海辺に面した簡素な要塞といった風貌のこの建築物については九七年度の建築学会賞を受賞したこともあり、知る人も多いと思う。ゴダールの『軽蔑』(一九六三)に登場するアダルベルト・リベラによる建築物に由来する名をもつ、セミナーの主催者「スタジオ・マラパルテ」は、コテージの中庭に大きなスクリーンを張り、私たちは背後に海の気配を感じつつ、映画の上映やゲストたちの対話に臨むことになった。
映画と建築の接線……。しかしそうした主題に相応しいただひとつの正解を導き出そうとする姑息な配慮はうかがえない。建築側からは当事者(?)である鈴木了二が出席して小林康夫と「海洋性をめぐって」対話し、映画側から召喚された二人の若い映画作家、井土紀州と諏訪敦彦が柄谷行人とともに「日本映画における〈主題〉の不在をめぐって」挑発的な言葉を連ね、詩人の吉増剛造と西谷修がレヴィナスや宮古島について意外なまでに熱気を帯びたトークを繰り広げるといった具合だ。上映作品にしても、少なくとも予定調和的な解答を引き出すべくそれらが選定された形跡はなく、「マラパルテ」を主宰する映像作家宮岡秀行はただ映画建築を接合する「と」の生産性と有効性に賭けたかのようだ。収斂ではなく拡散、解答ではなく問題、多彩な方向に分岐を繰り返す接線を散種すること……。
だが、それでもなお、セミナーに立ち会う私にとって否応なく意識させられる「映画と建築の接線」が存在し、それは要するに「映画館」をめぐる思考ということになるだろう。この場所で映画が上映されることになるとは想像もしなかった、と鈴木自身が何度か口にしていたが、建築家が設定した本来の用途らしきものを裏切るためのある種の「介入」がこうして実践される。建築家は原理上自らの作品がいかなる実践の場となるかについて制御することができない。あまりにも単純すぎる表現ではあるが、そうした事態こそがすべての「様式」の廃墟として出現する近代建築が引き受けるべき条件なのではないか。たとえば、人はもはやその外観から建築物の用途を推測できなくなった。住居なのか、工場なのか、劇場なのか、ギャラリーなのか、ブティックなのか、レストランなのか、あるいは映画館であるのか……。近代建築は必然的に作家によってさえ制御不能の「空隙」を抱え、それゆえ「介入」を待機し、つねに「不確かさ」のプロセスを生きるのだ。
では、映画と建築の出会いを組織する「映画館」とはいかなる場所なのか? 一八九五年にリュミエール兄弟がパリのグラン・カフェで自作のシネマトグラフを上映する……もちろんそれが映画誕生の日付となる。つまり上映される場所とそこに映し出された驚異に視線を向ける観客の存在をまずもって機械的に組み込むことで映画は誕生する。だが、グラン・カフェは言うまでもなく「映画館」ではなかったし、後に映画の上映を専門とする建築物が出現しても、「劇場」に似た外観をもつケースが多かった。劇場を模倣(引用?)せざるをえなかった事実が如実に物語るように、映画館はそもそも固有の外観をもたない「空隙」でしかない。映画館的な外観など存在せず、あったとしても、それは模倣や捏造にすぎない。そしてこのことは、先にも示唆したように「様式」に対抗する近代建築の原理でもあるように私には思える。近代建築の雛形としての映画館? 起源をどこに置くかさえ定かでない建築史ではあるが、近代建築の歴史となれば、それはほぼ映画史と重なりあうものであるだろう事実を、少なくとも建築家鈴木了二は意識してきたはずだ。
とりわけ八〇年代以降、わが国でも流行した「映画の死」をめぐる言説は、じつのところ「映画館の死」をめぐるそれだった。映画におけるポストモダニズムはヴィデオや増殖するTVチャンネルを介した映画鑑賞形態の一般化、つまりは「映画館の死」と密接な関わりをもつものとして語られてきた。いわゆる複合型映画館なるものにしても、それは私たちが一般的に想定する映画館のイメージ(しかし、それは幻影でなかったか?)を死に追いやる不吉な建築物と見なされたのだ。だから仮に「映画館の死」を認めるとしても、それは「映画の死」ではなく、単に映画がポストモダニズム的状況に突入した事実を意味する。映画は上映の場所を必要としたが、その場所が事後的に「映画館」と呼ばれたのであり、その逆ではない。つまり原理上、映画はただ暗闇さえあればどこででも──瀬戸内海に面した簡素な要塞においてでも──上映可能だろう。「映画館の死」をめぐる言説はしばしば湿っぽいノスタルジーに彩られ、ポストモダンどころか、映画が含意するモダニズム的性格──いつでもどこでも上映できるというある種の「普遍性」──さえも了解しかねているような内容でしかなく、ひどく醜悪だった。都市郊外に雨後の筍のごとく次々と出現する複合型映画館は映画館にまつわるフェティッシュな郷愁やゲニウス・ロキへの幻想を一掃してくれるだろうか?

原始時代というものが想像可能であるとして、そこにおいて建築─住居はけっして「自由」ではなかっただろう。そこにおいては生存の条件が住居の自由を制限していたに違いない。逆に、人間はどこにでも住むことができる……荒野にも廃墟にも海辺にも郊外と呼ばれる人跡未踏地、いたる所に……この一見原始的でプリミティヴな事実を発見したのは近代建築なのだ★一。


これはかつて《佐木島コテージ》をめぐって執筆されたある文章からの引用だが、この文章の筆者はそうした「近代建築」のモデルとして鈴木了二における「バラック」があることを示唆し、私はそれが「映画館」でもあると思う。
映画もまたどこででも上映することができる。いたる所で。パリに端を発した一九世紀的な都市空間の「爆破」(ベンヤミン)が遠く瀬戸内海に浮かぶ佐木島に及び、ついに瓦礫がその場所に飛来したということ。私が参加した二日間のセミナーが実証したのはそうしたプリミティヴな事実にほかならない。映画館が「同一性」への収斂を拒む場所である以上、中央に対する地方の反乱(!)の拠点が「映画館」と命名される機会は永遠にやってこないだろう。むしろ「映画館」は場所を「同一性」によって括らずにおかない従来の体制との戦いのための根拠地となる。海洋上に散在する島々にも似た、世界中に散らばる瓦礫のひとかけらとして。あるいは世界にはりめぐらされた不可視のネットワークの端末として機能することにおいて。
「鷺ポイエーシス」に戻ろう。昼間は初夏を思わせる温かな太陽の光を浴びた五月初めの佐木島も、日が暮れると関係者の予想を超えた寒気に苛まれ、壁や天井が不在であるこの「映画館」において──むろん建築家の責任(?)ではないのだが──セミナー参加者たちは背後の海から容赦なく吹きつける冷たい風に対し、どてらや毛布、カイロなどで身を守りながらスクリーンを見守りつづけることを余儀なくされ、その光景はさながらジミ・ヘンドリックスがステージに立つ頃の人影も疎らになったウッドストックの会場を連想させるものだった。いずれも深夜に及んだ二日間のスケジュールがほぼ終わりに近づき、スクリーンにロシアの異様な建築的映画作家アレクサンドル・ソクーロフの二七分ほどのヴィデオ作品『ロベール──幸せな人生』が映し出される。ピラネージの影響下で活動を開始し、廃墟を描きつづけた一八世紀フランスの画家ユベール・ロベールへの感動的なオマージュ……。

ロベールを信じないでください。彼が描いた建物は一度たりともこの世に存在しなかった──噴水も、大きなアーチも……★二。


そう、私たちは映画館を信じない。たぶんそのような場所は一度たりともこの世に存在しなかった。あのアール・デコ調の装飾も、貧乏学生が身を隠す名画座のうらぶれた気配も。しかし映画は、といえば話は別になる。


★一──丹生谷貴志「海辺に建てられた物質変換機」、『建築文化』一九九六年五月号、彰国社、五一頁。
★二──アレクサンドル・ソクーロフ『ロベール──幸せな人生』脚本、『sagi times』No.01(児島宏子訳、スタジオ・マラパルテ、一九九八)四一頁。

>北小路隆志(キタコウジ・タカシ)

1962年生
京都造形芸術大学映画学科准教授、東京国立近代美術館フィルムセンター客員研究員。映画評論家。

>『10+1』 No.14

特集=現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築

>鈴木了二(スズキ・リョウジ)

1944年 -
建築家。早稲田大学教授(芸術学校校長)。鈴木了二建築計画事務所主宰。

>小林康夫(コバヤシ・ヤスオ)

1950年 -
表象文化論、現代哲学、フランス現代文学。東京大学大学院総合文化研究科教授。

>西谷修(ニシタニ・オサム)

1950年 -
フランス文学・思想。東京外語大学大学院地域文化研究科教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...