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いま長谷川堯が再読されるのはなぜですか? | 中谷礼仁
Why Reference Takashi Hasegawa's Work Now? | Nakatani Norihito
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.146-147

長谷川堯は建築評論家である。彼の一連の著作、そのなかでもとりわけ重要な初期の著作集が書店から姿を消して久しい。興味を持つ少数の人は、それらを所蔵する図書館に行くか、あるいはなけなしの金をはたいて古書店でそれを入手するかであった。著者も二十代の頃そのようにして彼の本を手に入れた。だから氏の著作集が復刊されることになったことはすばらしいことだと思う。
しかしなかでも、当方が自ら入手した『神殿か獄舎か』(相模書房、一九七二)は、復刊決定後においてなお、なけなしの金をはたいて買ったことがぴったりくる本であったという印象が消えない。文字通り心血を注いだ著作に対して、読者がその「血」を買った。そんな特別な取引が成立しえたという希有な書籍であったという意味においてである。

長谷川を建築評論家であるという当然の事実から紹介したことには訳がある。というのも彼ほど建築家という存在にこだわり、それがゆえに、そのプロブレマティークを純度高く指摘しえた書き手は日本近代においては極めて少数だったからである。
彼が建築家の現前からその論拠を組み立ててきたことに、「創作主体」へのロマン的な信仰を読み取ることもあながち否定できない。とはいえなお特に『神殿か獄舎か』に収録された珠玉の論文、特に表題作である「神殿か獄舎か」は今でも充分に読み直しうる普遍性を獲得している。
端的に言ってしまえば自らの発見や独創に基づいて建築設計を主体的に行ないたいのが建築家の初源的な欲望である。クリストファー・アレグザンダーはそのような契機がことさら建築家のみに存するわけではなく、万人の無意識下に潜在していることを主張した(本誌一四四─一四五頁参照)。しかし長谷川はそれをあえて「建築家というフレーム」に限定した。そしてその場合、一体どのような特性が「建築家による建築」に刻み込まれるかを精密に問うたとも言える。その後の展開如何では、独自かつ普遍的な空間論にさえ到達したかもしれない計り知れなさがある。すでに別に書いたことでもあるが★一、それを確認しておきたい。

「神殿か獄舎か」という題名は考えてみると不思議な題名である。なぜ獄舎が神殿との二項対立をなしうるような位置に置かれているのか? その当方なりの結論を書いてしまえば「建築家というフレーム」こそ獄舎だったのではないか、ということである。
同論はモニュメンタルで国家的な「神殿」的建築と、個人や生活といったそれ以外の領域を象徴する「獄舎」的建築の二元論が基本となっている。そしてその二元論によって建築の役割が国家を装飾することのみならず、自己意識や生活、都市などさまざまな分野に拡散し実践を見た「獄舎」的たる大正建築の重要性を掘り起こしたと言われている。しかしそんな解説だけでは、長谷川がよりによってなぜ「獄舎」を提起したのかが見えないからである。
なぜ建築家と獄舎とが通底するのか。そのプロットが鮮やかなかたちで描き出されるのが、《豊多摩監獄》(一九一五)の設計者と収監者との物語であった。その設計者とは東京帝国大学出身の後藤慶二(一八八三─一九一九)であった。そしてそこに収監されていたのがアナーキスト・大杉栄(一八八五─一九二三)という同時代人であった。彼らの循環・転移を指摘した部分が同論の白眉といってよい。
後藤は、大正期の建築活動ならびにその精神を最もよく体現した人物であった。とりわけ《豊多摩監獄》はその短かった生涯のなかで光彩を放つ作品であった。長谷川は当時の後藤の言説を渉猟し、とりわけ建築の美的側面の所在を論じた後藤の文章のある一節に着目した。それは「體材の内力が宇宙の外力に逆らって震えるところの線と面との魔力にある」★二というフレーズであった。
〈建築は震えながら立つ〉、この言葉から長谷川は建築家による空間づくりの初源を導き出そうとする。それは建築をつくる側の建築家のみではけっして語ることができない。むしろそこに生活──収監された大杉の存在を一方の根拠としてのみ、その初源ははじめて語れることになると言うのである。
長谷川は収監者大杉の日記から、《豊多摩監獄》内部の様子を活写していく。真冬の獄舎の底冷えを紹介しつつ、その前年に他界していた後藤自身の身体の奥の寒さに結びつけていく。大杉を自らつくった監獄に閉じこめられた第二の後藤として記述していくのである。つまり監獄づくりはそれがいかに外部から設計されようとも、その内部で自ら閉じこめられているという想像的な身体なしには、単なる外面の装飾屋を超えて、建築家による空間づくりは不可能だと長谷川は述べるのだ。空間の成立は以上のような、監獄づくりとその収監者という二重に引き裂かれた身体の内外からの拮抗なしには成立しない。だからその空間は〈震えるように〉立ち上がるのである。これは建築家による空間生成の特性を、根源的に示しているように思われる。
このモチーフを起点にして、彼はこの空間の誕生のあり方を太古にまでさかのぼって証明しようとする。というのも神殿が国家を飾る建築であるのならば、国家は神殿に先行する。しかし空間の初源としての獄舎は絶対的に国家よりも古いはずだからである。この獄舎の先行性を長谷川は、ある王の話を例にして語る。王はその世界の統括者でありながら、自らが城の中に幽閉されることによって王足りうるのだと。このような独自なプロットで縦横に現在から超古代を行き来する同論は独自な空間論として新しく把握される可能性を持っていると思う。
長谷川の作業は七〇年代的な建築評論と言われる。その意味はよくわからない。そのような「わかったような」まとめですますことなく、論そのものにあたることが最も有益かつ刺激的である。同論は今後ともいくばくかの発見的な可能性を持つに違いない。特に、公共建築の多くに「住民参加」や「ヒアリング」が介入し、むしろ建築家の存在基盤が問われている状態において★三、長谷川を批判的に再読することは有効であろう。

蛇足になるが、同書に収められた菊竹清訓論「建築の〈降臨〉のゆくえ」は、日本近代建築史上の最も優れた現代建築家批評のひとつである。菊竹の《萩市民館》(一九六八)に内包されたホール内部の骨組みは、むき出しの細い鉄骨で巨大な廃虚を思わせるものである。そこを訪れた長谷川は、その構成に対して、直感的に菊竹、いや多くの日本人が被った空襲の夜空の記憶につながっていることを指摘している。このような鮮烈なイメージもまた、長谷川の数多くの著作の魅力の源である。
当方は、言葉がイメージの源泉になることを信じているひとりである。そしてまた優れた言葉が建築設計の現場に介入し、彼らの苦闘のなかにひとつの光のトレースを描きうることをも信じている。それを教えてくれたのが長谷川であった。

ともかく今私は建築に飢えている。しかもこの渇望が確かなたった一つの手がかりなのだ。
同論末尾より

1──菊竹清訓《萩市民館》ホール内部 筆者撮影

1──菊竹清訓《萩市民館》ホール内部
筆者撮影


★一──拙論「なぜ獄舎か」(『INAX REPORT』No.168、二〇〇六年一〇月)。
★二──「鉄筋混凝土コンクリートに於ける建築様式の動機」(一九一四)。
★三──最近一般向けに丹下健三の足跡についての授業をした。その時のアンケートに「建築家は単なる調整役だと思っていたが、丹下の存在を知って驚いた」という旨の感想があった。建築家の役割の変質をそこにまざまざと見る思いだった。

>中谷礼仁(ナカタニ・ノリヒト)

1965年生
早稲田大学創造理工学部准教授、編集出版組織体アセテート主宰。歴史工学家。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32

>クリストファー・アレグザンダー

1936年 -
都市計画家、建築家。環境構造センター主宰。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。