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「批判的工学主義」のミッションとは何ですか?2── 「虚の不透明性」をめぐる空間概念編 | 柄沢祐輔
What is the Mission of "Critical Engineering-ism" ? 2: "Phenomenal Opacity" and the Spatial Concept | Yuusuke Karasawa
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.96-97

社会の飛躍的なコンピュテーション化にともなって私たちはまったく新しい空間認識と身体感覚を手に入れつつあるのではないだろうか。かつて情報革命が飛躍的に進展した折に建築や都市がどのように変容してゆくか盛んに議論されたことはまだ記憶に新しい。しかしそこでは情報空間をどのように実空間へと投影するかという問題系に議論は終始してしまった。しかしその一方で日々飛躍的に増大してゆくネット空間に構築されているデータベースの堆積と検索技術の発達は私たちの身体感覚と空間認識を一変させているのではないのか。そしてさらに言うならば、それらは主に現代の日本における先鋭的な建築家の実践に、その空間感覚の変化をすでに見出すことができるのではないのか。
例えば西沢立衛の《森山邸》(二〇〇五)、藤本壮介の《T house》(二〇〇五)、妹島和世の《鬼石町多目的ホール》(二〇〇三)、これらの空間には近代建築の空間性には存在していない特異な空間的な特質が見て取れる。かつてコーリン・ロウは『マニエリスムと近代建築』において、ル・コルビュジエの建築に代表される近代建築の特質を「虚の透明性」という言葉で表現した。広く知られるように彼はW・グロピウスの建築に見られるような透明なガラスのファサードを用いた建築を「実の透明性」と呼び、対して透明な物質は多用されてはいないものの、コンクリートの壁面によって構成された重層的な迷宮のような空間を彷徨った挙句に全体的な空間構成(=知覚的な透明性)が獲得されるようなル・コルビュジエの建築における知覚体験を「虚の透明性」と名づけ、近代建築に特徴的な空間的特性であるとした。

ここでは、まずロウの「虚の透明性」という概念が最終的な全体像が事後的に獲得されるという特質を抉り出している点に最大限注目したい。これは当時興隆を極めつつあった映画フィルムというメディアの特性と比肩されるからである。フィルムというメディアにおいては複雑に織り成されるモンタージュの連なりの迷宮を彷徨った挙句にその終局点でドラマは全体像が獲得される。局所的な迷宮を彷徨った挙句に全体性が最後に獲得される瞬間。それがロウが「虚の透明性」という言葉で語ろうとしたひとつの要素である。一方で篠原一男は著書『住宅建築』(紀伊國屋書店、一九六四)において、S・ギーディオンの言葉を要約しながら「空間を記述する新しい方法が見つかれば新しい空間が生まれる」と語っている。篠原は同論考において映画というメディアの切り取る空間性と近代建築における空間性(例えばF・L・ライト《プレーリーハウス》の長い水平の回廊)との類似点について指摘しているが、映画という空間記述方法の発達が「虚の透明性」を孕んだ近代建築の空間的特徴を顕在化させてきた事実は特筆すべき事柄であると言ってよい。

私たちが二一世紀の初頭において直面している空間的現実、二〇世紀の初頭に人々が直面していたそれを仮に映画的現実とでも呼びうるならば、私たちのそれはすでに大胆な変化を遂げてしまった。私たちは日々莫大な情報がストックされた情報空間をGoogleなどの情報システムによって検索し局所的な情報を獲得してゆくが、そこではまず全体性が先んじて存在しており、次に身体的な局所性がやってくるという特徴を見て取ることができる。具体的には例えばGoogle EarthやGoogle Mapsを用いれば私たちはどこに何があるかすべて概念としては把握できるが、そこに実際にたどり着くためには実際に長い物理的な障壁を乗り越えなくてはならない。つまり私たちのメディア環境においては概念の全体像の把握が先にあり、次に身体の局所性が後からやってくる。言ってみればかつての「虚の透明性」の図式が反転しているのだ。概念の一望性と身体の局所性。このような空間概念の今日における変貌が、私たちの空間知覚と建築の創作をめぐる現状に大きな影響を与えているのではないか。

ここで先ほど例に取り上げた西沢立衛の《森山邸》を見てみよう。白いヴォリュームが立ち並ぶその平面は極めて図式的であり、訪れる者はすぐ相互のヴォリュームの位置関係が把握できる。それぞれのヴォリュームには通常ではありえないほどの大きさのガラスの窓が相互に設けられており、それぞれのヴォリュームの関係性の図式的明瞭性はその視覚的貫通によってさらに強化される。いわば訪れる者はまず最初に図式的平面と視覚的透明性によって全体像を瞬時に把握することになる。しかし、そのヴォリュームはガラスと鉄板の壁面によって明瞭に区切られており、視覚的には連続性のある空間の中で身体的には局所的に拘束されてゆく。そして身体には概念の一望性を侵蝕する不透明な感覚が次第に襲ってくる。

同様の感覚は藤本壮介の《T house》にも見られる。この不規則な間仕切りを持つ平面は、しかし一方で空間の中央において一体となっており、連続したワンルーム、ゆるやかに分節された全体ともいえるこの空間を訪れた者はまず全体性を知覚すると同時に、その知覚の余韻を味わいつつもそれぞれのエリアにおいて身体が拘束されるという局所性を知覚する。訪れた者は先にワンルームとしての全体性を知覚しながら、次に不規則な軸線によって分節された各領域を知覚することによって、概念的一望性と身体的局所性の二重性の両義性を張りつめた緊張感とともに知覚することになる。

さらには妹島和世の《鬼石町多目的ホール》。この空間においてはガラスの褶曲する壁面が通常の距離感覚を無効にするかのような配置で伸びてゆき、ガラスの壁面の先のわずか一五センチメートル先の空間にたどり着くためには一〇〇メートル近い迂回を経なければならないという迷宮性が顕著である。しかし、すべての壁面は視覚的な透明性のみなぎるガラス面によって作られているため、視覚的一望性が獲得されている。いわば視覚的全体性、概念の一望性の後に、物理的な距離を伴う身体の局所性が到来することになる。

このような概念的、視覚的一望性の後に身体の局所性が到来する空間を、ロウの「虚の透明性」を反転させて「虚の不透明性」と名づけようと思う。私たちが生きる二一世紀初頭の社会の空間。それはかつて近代建築がその特徴とした「虚の透明性」を反転させた「虚の不透明性」の空間である。インターネット上にストックされる膨大なデータベースとそれを検索する行為の日常化は、私たちの空間概念を水面下において一変させつつある。そこでは概念の一望性と身体の局所性という知覚の二重性を孕んだ新しい空間概念が台頭しつつある。このような新しい空間概念を実際の建築空間としてどのように実現させてゆくかが二一世紀初頭を生きる私たち建築家の大きな課題なのではないだろうか。

1──西沢立衛《森山邸》 提供=西沢立衛建築設計事務所

1──西沢立衛《森山邸》
提供=西沢立衛建築設計事務所

2──藤本壮介《T house》 提供=藤本壮介建築設計事務所、撮影=阿野太一

2──藤本壮介《T house》
提供=藤本壮介建築設計事務所、撮影=阿野太一

3──妹島和世《鬼石町多目的ホール》  撮影=崎川瑛子

3──妹島和世《鬼石町多目的ホール》 
撮影=崎川瑛子

>柄沢祐輔(カラサワ・ユウスケ)

1976年生
柄沢祐輔建築設計事務所。建築家。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32

>西沢立衛(ニシザワ・リュウエ)

1966年 -
建築家。西沢立衛建築設計事務所主宰。SANAA共同主宰。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA准教授。

>藤本壮介(フジモト・ソウスケ)

1971年 -
建築家。京都大学非常勤講師、東京理科大学非常勤講師、昭和女子大学非常勤講師。

>妹島和世(セジマ・カズヨ)

1956年 -
建築家。慶應義塾大学理工学部客員教授、SANAA共同主宰。

>コーリン・ロウ

1920年 - 1999年
建築批評。コーネル大学教授。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>篠原一男(シノハラ・カズオ)

1925年 - 2006年
建築家。東京工業大学名誉教授。