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デザイン・マインドと資本とのあいだで | 山名善之
Between Design Mind and Capital | Yoshiyuki Yamana
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.252-262

山名善之──ジャン・プルーヴェは、家具デザイナー、エンジニア、プレファブの始祖という言い方がされてきています。もちろん、彼のデザインは個人の卓越した才能によって生み出されたものであります。しかし、プルーヴェに対する私の興味はそこだけに留まらず、彼の制作態度が二〇世紀という時代においていかに実験的であったかというところまでに及びます。そこから二〇世紀という時代がどういう時代であったかということも推察できるからです。実際プルーヴェがなにをもとに活動していたかというと、アトリエ(工場)という自分の生産手段を持って金属部品を作り続けてきました。プルーヴェというひとりの名前を冠した工場において、プルーヴェ個人と工場というチームが一体となって作り上げていったことは、工業化時代のフランス建築の変遷を概観する上で貴重な存在です。一九五〇年代初頭に自身の工場を失った後も、社会構造の変化のなかで、それに対応しながらも一貫した制作態度で実験的試行を続けてきました。プルーヴェの仕事を構法的に捉えようという動きが日本にも一九七〇年代にあったわけですが、今日は、彼が建築家とどう付き合ってきたかということと、二〇世紀のフランスにおいて、建築の工業化というものがどういう意味合いを持っていたのかということを中心に話していきたいと思います。

素材としての「鉄」に学ぶ/一九〇一─二三年

ここに映っているのは、プルーヴェのお父さんのヴィクトール・プルーヴェとジャン・プルーヴェです[図1]。ヴィクトール・プルーヴェは、アール・ヌーヴォー運動の展開に深く関与したエコール・ド・ナンシーの中心人物でした。
ナンシーはパリから電車で三時間くらいで、ストラスブルグとパリの間にある街です。そのストラスブルグとナンシーという街は、フランスとドイツが領土を争ったところなんですね。そこは鉄とかあるいは石炭とか、重要な地下資源の宝庫でもあって鉄鋼業産業が栄え、歴史的にはガラス産業がありました。なぜナンシーにアール・ヌーヴォーという文化が生まれたかというと、一八世紀ロレーヌ公国の時期、ドイツやフランスに攻められているなかで、領首の地位にあったポーランド王スタニスワフ一世(スタニスラス)によって、街の景観が整えられました。その後、一九世紀の後半に、新興の工業資本家の支えにより、ナンシーに芸術文化を作り出していこうという機運が高まっていったわけです。そのおかげで鉄やガラスを中心としたインダストリーというナンシーの公国の新しい産業と、アートが結びついていくわけです。そうしてエコール・ド・ナンシーがつくりあげられていきました。
プルーヴェがこういった環境で育ってどのような教育を受けたかということですが、ナンシーにもいわゆる美術学校がありましたし、あるいはパリに行けば、ボザールに行って建築家になる道もあったかもしれない。でも、父のヴィクトール・プルーヴェが彼に勧めたのは、職人学校(ecole d’apprentissage)でした。それで彼は中学を卒業するかいなかの時に、パリの北郊外のオンギャン(Enghien)というところにあったエミール・ロベール(Emile Robert)の主宰する職工学校に通って(一九一六─一九年)、実際に鉄を叩いて、鍛鉄の訓練を受けたわけです。どういうふうに鉄を叩き、つなげるのか、あるいはどう組み合わせていくのかといった訓練を一〇代のうちから受けます。金属類の硬さや質感の伝わる図面は、このときの実体験によるものがベースにあると思います。素材を知り尽くしている人が、紙の上で考えているというのが伝わってきます。

1──ヴィクトール・プルーヴェとジャン・プルーヴェ 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

1──ヴィクトール・プルーヴェとジャン・プルーヴェ
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

モノを生産し構想するためのアトリエ(工場)/一九二四年

一九二四年、ナンシーに帰ってきたプルーヴェは自分のアトリエ(工場)を街の中に開きます。「Ferronnerie d’Art J. Prouve」と書いてありますが、これはプルーヴェが立ち上げた工場の判子になります[図2]。フェール(fer)というのはフランス語で鉄という意味ですから、アート(人間の営為)としてその鉄をいじくるという意味です。日本でも洋館屋敷なんかに行くと金物工芸の門扉などがありますが、いわゆる金物工芸品をつくるという意味です。「フェロヌリー・ダール(Ferronnerie d’Art)」に近い金属二次製品としては、「セルリエ(Serrurier)」、「ムニュイズィエ・メタリック(Menuisier Méttalique)」などがあり、この世界の話は大変面白く、私の博士論文のテーマでもありますが、別の機会に話したいと思います。
話を戻しまして、一九二五年にパリで「アール・デコ博(パリ万国装飾美術博覧会)」が開かれます。ル・コルビュジエエスプリ・ヌーヴォー館を発表したのもこの「アール・デコ博」です。この博覧会は、装飾美術としての工芸品を展示するような博覧会だったわけです。そのなかでル・コルビュジエはどちらかというとちょっと外れているような展示をしていて、ある意味、批評的でもあったわけですけれども、そのアール・デコのなかで正統中の正統をいっていたのがジャン・プルーヴェの鉄工芸品でした。これがそこで発表したプルーヴェの作品です[図3]。一九二〇年代、彼はこういった金物工芸的なものをつくって発表していくわけです。照明器具あるいは家具の金物部分、叩いたり、貼付けたりロウ付けなど、そういったテクニックが使われております。
一九二五年というとジャン・プルーヴェは二〇代半ばですけれども、今までナンシーを中心にして活動していたのが、この二五年の「アール・デコ博」を契機としてパリの社交界にデヴューしていくわけです。当時パリ社交界でかなりもてはやされた建築家の一人に、ロベール・マレ=ステヴァンというひとがいましたが、そういった建築家の設計した高級な集合住宅、例えば《ライフェンベルグ夫人のアパート》のエントランスの金物などをプルーヴェは制作しております[図4]。この辺になると今日の話題の中心になってくるのですけれど、建築家が図面を描いたとか、あるいはプルーヴェがデザインしたとか、果たして建築家は鉄をどこまでデザインできるのかというところが疑問になってくるわけです。プルーヴェと建築家とのコラボレーションがこの時期から始まっていきます。

2──プルーヴェの工場の判子 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004)

2──プルーヴェの工場の判子
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004)

3──アール・デコ展で発表した作品 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

3──アール・デコ展で発表した作品
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

4──《ライフェンベルグ夫人のアパート》 エントランス 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

4──《ライフェンベルグ夫人のアパート》
エントランス
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

工業化の美学/一九三〇年代

一九二九年にはUAM(Union des Artistes Modernes/現代建築家連盟)という集団ができ、プルーヴェはその設立メンバーになります。UAMというのはさきほど話した「アール・デコ博」の関係者のなかが大きく二つに割れて、伝統工芸的な世界に留まろうとする保守的なグループに対抗して集まった、工業化のなかで新しい美学を求める人々によって設立されました。なかにはル・コルビュジエも入っていましたし、シャルロット・ペリアンなど、日本でも知られている二〇世紀フランスのデザイナー、モダン・ムーブメントの建築家のほとんどはここに入っていたわけです。一九二九年のUAMがどういう意味を持っていたかというと、より工芸の世界が建築に結びついていくのと同時に、インダストリーと鉄工芸的なものとが結びついて、一九世紀末的な装飾の世界から少しずつ変化していくわけです。
一九三〇年になると、プルーヴェは初めて工場生産による椅子デザインを手がけます[図5]。三〇年から工場の規模も大きくなって、シリーズで量産していく動きが起こってきます。これはプルーヴェに限ったことではなくて、UAMに属していたほかのデザイナーもそうです。東フランスは第一次世界大戦後、戦後の混乱がずっと続いていましたが、一九三〇年に入ったところでやっと工業的な体制が整い、稼動し始めます。そこで大量生産やシリーズ化の動きがあり、それからフランスの政府もかなりの後ろ盾となってその勢いを増していきました。しかし、同時にアメリカから世界恐慌が起こり、フランスは不況の時代に突入します。
今日、大量生産というとどちらかというとネガティヴなイメージがあります。しかし、大量供給するといっても一九二〇年代はル・コルビュジエも『建築をめざして(Vers une architecture)』『プレシジョン』などで書いていますが、大量生産の美学、あるいは規格化への憧れというのが時代精神としてありました。手の感覚を残しながら、大量生産を目指すという時代であったともいえます。
パリに出て、建築家とのつながりをつくって、プルーヴェのアトリエも大きな建物に対しても受け応えられるという体制が整ってきたのが一九二〇年代の後半から三〇年代の初頭にかけてです。初期に出会った建築家ロベール・マレ=ステヴァンのための《ライフェンベルグ夫人のアパート》のエントランス・グリルは工芸的な域を出ていないと思いますが、後に「工業都市」計画で有名なトニー・ガルニエと出会うようになって、建築の仕事に本格的に取り組むようになったと言えます。トニー・ガルニエ自身はパリではなくリヨンの出身です。トニー・ガルニエの作品を見たければ、リヨンに行けばいくらでも見られます。リヨン自体がトニー・ガルニエの描いた工業都市のモデルになっていて、それと同じような建物がたくさん建っています。リヨンは一九世紀前半以来、ヨーロッパ最大の絹織物・繊維工業都市で、ナンシーと共に工業都市として一九世紀に急速に発展しました。そういった意味で両都市は、インダストリーとアートを結びつけることに積極的な街で交流があったわけです。
一九三〇年から手がけた仕事に、リヨンにある《グランジュ・ブランシュの病院》があります[図6]。これは手術室の部分ですがプルーヴェの技術が集約されています。当時は、いまだ電気設備が発達していませんでしたが、衛生学などが理論的に急速に進んで、そこから、換気基準あるいは光環境基準などが要求されるようになりました。それに応えるように手術室全体を機械装置として創りあげていったというものです。この実験的経験によって工芸の世界と建築の距離を縮められたとも言えるのではないでしょうか。
プルーヴェが戦前に一番よく付き合ったのがウジェーヌ・ボードゥアンとマルセル・ロッズという二人の建築家です。彼らについてはいまだあまり日本では知られていませんが、非常に刺激的な仕事を行なっています。私の好きな建物に、一九三五年パリ西郊外に竣工した《シュレンのオープン・エア・スクール》がありますが、これはこの二人による建物です。彼らは早くから技術、プレファブ工法、軽量化構造、空間の可変性に取り組み、初期のプルーヴェに影響を与えた建築家です。第二次世界大戦前のプルーヴェの代表作と言われる建物のいくつかが、この二人との協働によるものです。
プルーヴェが構造体も含めて取り組んだ建物で実現した最初の例になるのが《ビュックのローラン・ギャロス飛行倶楽部》になります[図7]。これより前のもの、例えばさきほどのトニー・ガルニエのものにしてもコンクリートの躯体のなかに金物が埋め込まれているとか、あるいはサッシュだけであったわけですけれど、ここから一気に建築的なものに入っていきます。
ここでみなさんに考えていただきたいのは、はたしてマルセル・ロッズとウジェーヌ・ボードゥアンという建築家とジャン・プルーヴェという金物職人がどのようなデザインのやり取りをしていたのかということです。実際のプランニングとかあるいは建物の規模といったものは建築家がデザインするわけですけれど、プルーヴェはこの建物をどのように建設していくのかというアイディアをたくさん出していきます。
彼の役割はひとつの建物を部品に戻し、再度、組立てるというプロセスを考えるところにあります。たとえば、この《ビュックのローラン・ギャロス飛行倶楽部》の写真では七人でパネルを押していますが、それをどういうかたちで、だいたい何人ぐらいの人間で何日ぐらいの工程でやれば建物が組み上がっていくのか、あるいはその部材を、どのぐらいの大きさ、重さで部品として現場に持ってくるのか、あるいは部材でここのジョイント部分を取って持ってくるのか、というやり取りを建築家サイドとプルーヴェが繰り返すわけです[図8]。
この当時、プルーヴェが主にやっていたことというのは、いまではあたりまえですが建具表の作成です。ウジェーヌ・ボードゥアンとマルセル・ロッズ設計による《ラ・ミュエット住宅団地》(ドランシー、一九三一─三四)の建具表です[図9]。フランスの場合は組石造ですから、それまで石切り図程度であまり製作図を描かなかったんですね。一九世紀に鋳鉄製の建物ができますが、その段階である程度、この手の図面、製作図、を描くようになりました。この最初期のものが一九世紀前半の温室の鉄製部品になります。また、話がそれましたが、建具表の話に戻ると、これを描くというのがどういうことなのかというと、開口部のサッシ類を、例えば全体でAからLにグループ化して、それをどういった仕様にして、どの工場に発注してどういうかたちで製作していくのかというのが記されています。そういった、ひとつ開口部を整理しながら作っていくという流れがこの建物から生まれました。それを担当していたのがジャン・プルーヴェのアトリエだったわけです。大量生産、大量供給していくという社会的な背景があって、ジャン・プルーヴェの生産組織がそれに対して体制を整えているというかたちでした。そしてプルーヴェの代表作であって、ウジェーヌ・ボードゥアンとマルセル・ロッズの代表作にもある《クリシーの人民の家(Maison du Peuple in Clichy)》(一九三五─三九)が誕生するわけです[図10]。屋根、二階床が開閉し、大型可動間仕切りがあるこの建物は、建物のあらゆる部位が可動することによって、さまざまな機能要求に応えるというものです。また、電気溶接技術など、いまだ建築分野で広く知られていなかった技術を取り入れるなど、さまざまな試みをしている。

5──リフティングシート付メタルチェア(1930) 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

5──リフティングシート付メタルチェア(1930)
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

6──《グランジュ・ブランシュの病院》 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

6──《グランジュ・ブランシュの病院》
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

7──《ビュックのローラン・ギャロス飛行倶楽部》 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

7──《ビュックのローラン・ギャロス飛行倶楽部》
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

8──同、組立て風景 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

8──同、組立て風景
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

9──《ラ・ミュエット住宅団地》のための建具表 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

9──《ラ・ミュエット住宅団地》のための建具表
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

10──《クリシーの人民の家》 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

10──《クリシーの人民の家》
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

組立住宅/一九三七年─第二次世界大戦

ウジェーヌ・ボードゥアン、マルセル・ロッズらとジャン・プルーヴェは一九三七─三八年に《ヴァカンス用住宅BLPS》という、最小限住宅である組立住宅を製作します。この後、組立住宅はプルーヴェにとって、中心的な仕事となっていきます。同じ時期に、ル・コルビュジエの協働者であったピエール・ジャンヌレとヴァカンス用のキャンピングカーの開発を行ないます。ピエール・ジャンヌレとシャルロット・ペリアンとプルーヴェとは一九四〇年代の初頭に一緒に「メゾン・ベーセーセー(Maison BCC)」という事務所をつくっていて、フランスの東のザール地方でプロジェクトをいくつか建てています。そのなかのひとつが《BCC住宅》というものです[図11]。
ル・コルビュジエに比べてピエール・ジャンヌレのことはあまり知られていないのですが、わたしがル・コルビュジエを見ていくときのひとつの楽しみは、ピエール・ジャンヌレがどういうふうにル・コルビュジエの作品に対して技術的な裏付けを与えていたかということです。
いままでスチールの話をしましたけれども、じつは戦中戦後にかけてスチール不足があって、木材で組み立て住宅をつくったりしています。ちょうどこの時期に重なって戦争が始まってシャルロット・ペリアンが日本の商工省貿易局の招聘を受けるかたちで来日します。その時にプルーヴェとピエール・ジャンヌレと進めていた住宅の図面類を抱えて日本にやってくるわけです。坂倉準三がシャルロット・ペリアンと仲がよかったのでその図面を受け取って、いくつかプロジェクトを行なっています。この木造の組立住宅を坂倉事務所で担当していたのが池辺陽さんです。そこから戦後の池辺さんの仕事にどう展開していくのかというのも非常に興味深いところではあります。
一九四〇年がどういう時代だったかというと、第二次世界大戦中で、ル・コルビュジエがピエール・ジャンヌレと事務所をやっていたのですけれど、この辺の時期を境にル・コルビュジエはヴィシー政権に行くわけですね。ピエール・ジャンヌレはレジスタンスに参加したひとですから、ヴィシーのようなナチの傀儡政権みたいなところに近づくのは許せなかったということで仲が割れていきます。シャルロット・ペリアンもその時期にル・コルビュジエから離れていきました。
建物自体をプルーヴェとル・コルビュジエがやりとりして作り上げていったのが、《ドンクールの飛行倶楽部》になります。これ自体はル・コルビュジエの作品集には載っていないのでル・コルビュジエの作品とは必ずしも言えないかもしれないんですけれど、じつは『モデュロール』の二巻目に、このプロジェクトを紹介していて、プルーヴェの組立住宅のことを紹介しています。《ドンクールの飛行倶楽部》のクラブハウスなんですが、これが竣工当初の写真です[図12]。ここでのプロジェクトを実現していくためのやり取りとして、プルーヴェの木構造、木部材を使用しているのがわかります。この写真は今から一〇年ぐらい前の姿です[図13]。
私の研究室の研究テーマのひとつとして「工業化」「技術」という観点から近現代建築をもう一度捉えなおそうということを行なっています。その一連の流れのなかで、プルーヴェとル・コルビュジエのあいだでどれだけ書簡が往復されたかということを調べています。一次調査はまだ私がパリにいる時に行なったのですが、その後、研究室の卒研生であった大谷泰弘君とル・コルビュジエ財団に行って書簡を調べて、だいたいこのぐらいのかたちで交換されていたというのがわかりました[図14]。『モデュロール』の一と二が出版された頃に、たくさんやり取りがされていたのですが、プロジェクト数も『モデュロール』の一と二のあいだにたくさんありました。
この建築については、ル・コルビュジエが書いた手紙がたくさん残っています。プロジェクト初期は、プルーヴェの部品を前提としましょうという内容が書かれています。ちょうどル・コルビュジエが『モデュロール』を書いていた時期と重なってきます。戦後復興を目論んでフランスの建設省の指導で、大量生産を目指して、生産体系に則った寸法基準がつくられてゆく過程で、『モデュロール』が考案されてゆく。『モデュロール』で人間的尺度というのが提案されますけれど、生産のモデュールをベースに世の中の寸法体系が決められてゆくなかで、それに対してル・コルビュジエが抵抗してゆくというようにも見えてきます。それらが、このプロジェクトのやり取りのなかで見えてきます。
最初のプロジェクトとしてはプルーヴェの部品を基に、一メートルピッチで、メートル単位の鋼板をもとにして部品を作っていきました。それに基づいて、ファサードが決められています[図15]。ここからいくつかやり取りが行なわれるなかで、少しずつモデュロールの四三センチや七〇センチといった数字が出てきます。さらに一回割り付けていって、高さ方向も修正してだんだん設計が進んでいきます。このあたりは《マルセイユのユニテ・ダビタシオン》の窓割りと同じようなかたちで、まったくモデュロールに沿って寸法が決められていく、生産のロジックだけではないということになります。
これとほとんど同じ時期に《カップ・マルタンの休暇小屋》も設計されました。《ユニテ》も当初プルーヴェとやり取りしながら設計を進めています。

11──木構造による《BCC住宅》(1941─42) 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

11──木構造による《BCC住宅》(1941─42)
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004


12──《ドンクールの飛行倶楽部》のクラブハウス、竣工当時の外観 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

12──《ドンクールの飛行倶楽部》のクラブハウス、竣工当時の外観
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

13──同、1990年代後半の外観 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

13──同、1990年代後半の外観
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

14──プルーヴェとル・コルビュジエによる往復書簡についてのリサーチ結果 引用出典=大谷泰弘+蓑内絵梨「ドンクール飛行クラブの設計過程の分析と考察」 (2003年度東京理科大学工学部第一部卒業論文、山名研究室)

14──プルーヴェとル・コルビュジエによる往復書簡についてのリサーチ結果
引用出典=大谷泰弘+蓑内絵梨「ドンクール飛行クラブの設計過程の分析と考察」
(2003年度東京理科大学工学部第一部卒業論文、山名研究室)

15──寸法検討のスケッチ 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

15──寸法検討のスケッチ
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

アルミ建築という罠/一九五〇年代

アルミ建築への取組みは、プルーヴェのそれまでの立場を大きく変える重要な転機となります。プルーヴェは工場経営者でありましたから、建築家のように単にアルミを新素材として捉えるのではなくて、戦後、アルミが一般的な建材になっていくことを察知しながら、アルミを扱うために設備投資をはかりました。材料を供給するメーカーとその二次加工メーカーとの関係は非常に大事な関係ですから、プルーヴェとフランス・アルミニウム社は非常に近接した関係になります。販売会社であるステュダル社というフランス・アルミニウム社の子会社を通して、プルーヴェはアルミという素材にかなりコミットしてゆきます。一九四九年にアトリエ・ジャン・プルーヴェに資本参加し、一七パーセントの増資支援を行ない、アルミ製品の生産に向けた設備を整えます。これによって、アルミ建築の生産手段が整い始め、プルーヴェはフランス・アルミニュウム社のために《トロピカル住宅》を製作し、一九五一年にアフリカのブラザヴィルとニアメで組立てます[図16]。一九五三年にはビュタガス展示パヴィリオンを全部アルミ部品で作り出したのですが、設備拡充の為に外からの資本が増え、その比率が五〇パーセントを超えた一九五三年の七月にはプルーヴェは代表取締役社長の役を降りることになります。ステュダル社はセシップ(SECIP社)の営業権の一部(サニタリー・ユニット、キッチンユニットなど)オペック(OPEC社)のプレファブ住宅の販売を請け負っており、プルーヴェの製作した部品が流通するシステムが出来上がります。一見、プルーヴェにとって順風満帆に見えた時代でしたが、結果としてそうではなかったのです。第二次世界大戦後の復興の為、フランスにおいて建設需要が伸び、一九五〇年前後に大量生産の本格的な時代を迎えたのですが、皮肉なことに、その大量生産に応えるように資本拡充を行なったことによって、プルーヴェは自身のアトリエ(工場)を後にすることになり、ただのコンサルトのエンジニアになっていくわけです。
ただ、そういったなかでもプルーヴェは、エンジニアとしていろいろな新材料に取り組みました。そのなかでフランスの一番大きなガラス・メーカーであるサン・ゴバン社の研究開発として、六〇年代からプラスチック製建材の可能性に取り組んでいます。これはプルーヴェのデザインした断熱性能のあるプラスチックのパネルとそれを使用したプロトタイプの住宅です[図17]。プルーヴェはここでもいままでになかった新しい構法を提案します。

16──《トロピカル住宅》 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

16──《トロピカル住宅》
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

17──プラスチックパネルを使用した住宅 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

17──プラスチックパネルを使用した住宅
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

後進を育てる/一九七〇年代

プルーヴェは一九五八年から教壇に立って夜学の学生に向けて講義を行っています。この授業は所謂「モグリ」の学生が多かったようです。「モグリ」で参加した学生というのは、ほとんどが当時のエコール・デ・ボザールに不満を持っていたひとだったようです。エコール・デ・ボザールは基本的に昼間に授業やスタジオがありますが、夜になったらセーヌ川を渡ってCNAM(国立工芸院)のプルーヴェの夜学の講義に通っていたということです。プルーヴェが授業で話しだすと、黒板の左側のスチールパネルをどういうふうに切るのかという絵から始まって、切って、曲げて、組合せて、部品ができ、その部品を組立てて、黒板の右側にいくと建築の姿が描かれる、それはまるでひとつの映画を見ているようで、エコール・デ・ボザールの理念だけの教育に飽きていた学生たちは非常に興奮していたそうです[図18]。彼が授業を行なった一九五八年から一九七一年までの一三年のあいだの一九六八年にボザールが解体しましたから、ある意味でボザールの理念教育がプルーヴェのリアリティの前で崩壊していったとも言えます。
一九七〇年には日本を訪れています。日本青年館で講演したり、ミサワホームの主催したプレファブ住宅コンペの審査員を務め、同時に展覧会が開かれたりしました。それからポンピドゥー・センターのコンペの審査員も務めました。若きレンゾ・ピアノリチャード・ロジャースが技術的に斬新な建物を審査員に提案しましたが、審査会のなかでプルーヴェが発言したことで、パリの保守的な街にあのような斬新なポンピドゥー・センターみたいなものが建ったわけです。これはポンピドゥー・センターに関するプルーヴェから建築家に向けらた助言の為のスケッチです。

18──CNAMでの講義風景 引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』 (山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

18──CNAMでの講義風景
引用出典=『ジャン・プルーヴェ The poetics of technical objects』
(山名善之日本語版監修、TOTO出版、2004

創造的な仕事に向けて/まとめ

プルーヴェを通して二〇世紀フランス建築の流れが少し見えたのではという気がします。日本もいろいろなかたちでコラボレートしたり、あるいはエンジニアの人と組んでいろいろなアイディアをぶつけあったりというような感じになってきていますが、それは日本は工学部の中に建築学科があって、意匠デザイナーとエンジニアが一緒に教育を受けているわけで、よい状況であるとも言えます。フランスの場合、教育機関が職能ごとで、エンジニア、生産者、建設者と、建築家と呼ばれると意匠デザイナーが分断されているような感じが歴史的にあります。そうした日本よりは難しい状況で、どうしてこのような創造的な仕事ができたかというと、プルーヴェも建築家も、あるいはエンジニアも、お互いの立場を尊重しあえるものを持ちえていたからだと思います。プルーヴェのいろいろなスケッチを見ても、あるいは手紙類を見てもそうですけれど、自分のやることはこれなんだと、自分はこれをやっていきたいんだという気持ちが伝わってきますし、一方で建築家のほうからもこういうアプローチをしてほしいという提案をしています。そのなかでこそいいものが作られていくだろうし、ポンピドゥー・センターのようなある意味で時代を変換させる建物もできたのだと思います。詳しい内容はいくつか本が出ていますし、プルーヴェ本人が書いた著作もいま少しずつ翻訳している最中ですので、何年経つかわかりませんけれど、ぜひそれも読んでいただくと理解が深まるかと思います。

質疑応答

会場──ステュダル社と資本提携してからプルーヴェらしさが失われたというところなのですが、ステュダル社がプルーヴェのよさを潰さないで資本提携するにはどうしたらよかったとお考えですか。
山名──資本提携がどういうことなのかというと、かなり乱暴な言い方をすると、人の結びつきがお金だけのものになっていくわけです。しかし、デザインのマインドとか、あるいは協働体意識というものはお金で計れないわけで、そうしたお金にカウントできないものが先行してものづくりがはじまったのが一九五〇年代ぐらいのフランスだと思います。プルーヴェの名前というのは、作り出していった創造的なチームであったアトリエ(工場)から、単なる「商標」になっていくわけです。ジャン・プルーヴェというシンボル・マークがいろんな雑誌にも載りますし、カタログにも載ります。建築家も含めて、そういったものを見て、それまでの彼の創造的な仕事に期待しながら、その部品を求めたりするわけです。
応えになるかわかりませんが、ジャン・プルーヴェがプルーヴェらしく生きていくためにはほかの資本を入れなかったほうがよかった、わざわざ大きくしなくてもやれることだけやっていればよかったのではないかと思います。
時代とともに建築家も、建築を取り巻くクライエントの状況も変化するし、あるいは建物を建てるためのお金の出し方も変化していきます。同じようにエンジニアももちろん変化していきますから、プルーヴェも変化せざるをえなかったのだと思います。ただ、そんな時代のなかでも、例えばプラスチックのプロジェクトにおいてもプルーヴェなりの回答をして残し続けていくわけですね。ですから生産手段が変わってもどこかでプルーヴェらしさを出していたことは記憶にとどめたいと思います。
今日、わたし自身もプルーヴェのレプリカのテーブルを買って喜んでいるわけですけれど、工業化の恩恵であることを意識すると、ある意味でちょっと違和感を感じたりするわけですね。だけど、工業化が進んでいった時に建築というものは牧歌的な活動だけでは制御できないところがあって、今日はフランスを例にとりましたけれども、それは二〇世紀が持っている運命的なところです。だからある意味でパーソナルを持ち続けながらインダストリーというものが抱えている社会と向き合っていかなきゃいけないということでしょう。プルーヴェらしさがどうやったら守られたかとは一言では言えないかもしれないですけれど、これは歴史の流れとしてはどうしようもないことだったとも思います。
難波和彦──今日はプルーヴェとフランスの話が中心でしたが、僕は同時期のドイツの状況、第一次世界大戦後の一九一九年にバウハウスが設立されて一九三三年に閉校になるまでの変遷を思い浮かべながら聞いていました。この間は、建築家が工業化の大きな潮流に引き込まれながら近代建築を生みだしていった時代です。しかし第二次大戦後になると、科学技術は急速に進展していくけれど、建築家はそれをフォローせず、一方では芸術の世界に回帰し、他方では科学技術の後追いをするだけだったとレイナー・バンハムは『第一機械時代の理論とデザイン』のなかで批判しています。僕たちは、プルーヴェの再評価を通して、その点を反省し、彼の歩みを辿り直すことができるかどうかについて考えてみる必要があると思います。
現代ではコンピュータがパワーアップしたので、モデル化やシミュレーション解析が容易にできるようになり、いかにつくるかというテクノロジーはあまり問題にならなくなりました。これからはいかにつくるかよりも、むしろ何をつくるかという問題が重要になってくると思います。その点から見ると、プルーヴェ的なアプローチが現在も有効かどうかについて、僕は少々疑問を持っています。例えばバックミンスター・フラーにおけるデザイン原理というかフィロソフィーにあたるような思想が、プルーヴェには見出せないからです。プルーヴェには、いかにつくるかという視点はあるけれど、何をつくるかという問題は見えてこない。現代では、工業化をテーマにした場合でも、いかにつくるかだけではなく何をつくるかが求められています。そのあたりの議論を外してしまうと、工業化の問題は資本や経済の話に帰着してしまう。僕らが忘れてはいけないのはその点だと思います。
たとえば僕は無印良品の住宅で、住宅の商品化を工業化によって実現しようと試みていますが、それに対して石山修武さんからは、何度となく警告を受けました。その理由は、これまでハウスメーカーが、工業化と商品化とを結びつけることによって、日本の住宅地の風景を破壊してきたからです。僕としては「一室空間住居」というライフスタイルを含めたプロトタイプ住宅を提案したので、ハウスメーカーとは一線を画したつもりですが、それがうまくいくかどうかはわかりません。ともかく工業生産化を、たんなる手段としてではなく、目的を取り込んだ方法として捉えることが重要だと思います。バンハムによれば、ル・コルビュジエもミースも、モダニズム初期にはこの課題に取り組んでいたけれど、途中で技術の追求を放棄し、芸術へ向かい最終的に巨匠になった。モダニズムの建築家の大部分が同じような道を歩んだので、結果的に建築家は技術の進展に乗り遅れ、技術から疎外されてしまった。現代という時代は、そういう大きな潮流の中にあるわけです。その潮流を変えることは難しいけれども、建築家としては、せめてその歴史的経緯は認識しておく必要があるように思います。
[二〇〇五年六月三〇日]

>山名善之(ヤマナヨシユキ)

1966年生
ワイ・アーキテクツ主宰。建築設計・意匠/フランス政府公認建築家/博士(パリ大学I)/東京理科大学助教授。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>建築をめざして

1967年12月1日

>池辺陽(イケベ・キヨシ)

1920年 - 1979年
建築家。

>レンゾ・ピアノ

1937年 -
建築家。レンゾ・ピアノ・ビルディング・ワークショップ主宰。

>リチャード・ロジャース

1933年 -
建築家。リチャード・ロジャース・パートーナーシップ主宰。

>難波和彦(ナンバ・カズヒコ)

1947年 -
建築家。東京大学名誉教授。(株)難波和彦・界工作舍主宰。

>バウハウス

1919年、ドイツのワイマール市に開校された、芸術学校。初代校長は建築家のW・グ...

>レイナー・バンハム

1922年 - 1988年
建築史。ロンドン大学教授。

>バックミンスター・フラー

1895年 - 1983年
思想家、発明家。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。