RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.50>ARTICLE

>
新書という公共圏──桑原武夫編『日本の名著』という企み | 菊地暁
Shinsho as Public Sphere: Compiler Takeo Kuwahara's "Nippon no Meicho" Scheme | Akira Kikuchi
掲載『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) pp.43-45

「ジャーナリスト養成所」。かつて、人文研(京都大学人文科学研究所)はそう揶揄されたという★一。世間の喧噪から離れて真理を探求する「象牙の塔」的学者像がまだ幅を利かせていた時代、大衆向けの「新書」を書くことなぞ、およそ真っ当な学者のすることではないと白眼視されたためである。今日、あらゆる大学がバスに乗り遅れるなとばかりに「社会との連携」に突っ走り、マスメディアへの発信を急き立てられる状況からすれば、ほとんど夢のような話である。
事実、人文研は数多の新書ライターを擁していた。例えば岩波新書なら、桑原武夫『文学入門』(一九五〇)、貝塚茂樹『中国の歴史』全三冊(一九六四)、井上清『日本の歴史』全三冊(一九六三)、等々、いずれも版を重ねたベストセラー、ロングセラーであり、当時のアカデミズムにおいて人文研の新書生産量は相当突出したものだったといえよう。
大学教育に制度的にコミットしていないにもかかわらず、人文研の認知度が高かったのは、こうした新書の力に依るところ大である。とりわけ、思考と表現におけるプラグマティズムを貫いた梅棹忠夫『知的生産の技術』(一九六九)はその大胆な問題提起で広範な読者を獲得し、感銘を受けた高校生が修学旅行で梅棹研究室を訪ねたほどだったという★二。
さて、人文研と新書の密接なつながりは、当時の出版をめぐるエコロジカルな状況に規定されたところが少なくない。以前、人文研で一七年間助手を務めた「大助手」加藤秀俊さんから御教示いただいたのだが、新幹線開通以前は東京の編集者が京都に来ると必ず泊まりになり、京都の学者と飲み明かすことが多く、その関係は東京よりもかえって密だった。そうしたなかから、数多くの企画が立ち上げられ、実現していったのだという。
中公新書はその最たるものだろう。一九六二年創刊の中公新書の初期ラインナップには、驚くほど人文研スタッフの名前が並んでいる。桑原武夫編『日本の名著』、会田雄次『アーロン収容所』(以上、一九六二)、吉田光邦『錬金術』、貝塚茂樹『史記』、加藤秀俊『整理学』、宮崎市定『科挙』、河野健二編『世界の名著』、岩村忍『元朝秘史』(以上、一九六三)。創刊から二〇冊目までのあいだの八タイトルが、一大学の一部局のスタッフによって執筆されていることになる★三。
おまけに、「いまからちょうど五世紀まえ、グーテンベルクが近代印刷術を発明したとき、書物の大量生産は潜在的可能性を獲得し、いまからちょうど一世紀まえ、世界のおもな文明国で義務教育制度が採用されたとき、書物の大量需要の潜在性が形成された」という「中公新書刊行のことば」(無署名)は、短文ながらその透徹した歴史意識で新書というメディアの社会的役割を説いた名文だが、じつは当時三二歳の加藤秀俊の筆によるものなのである。
その中公新書の第一冊が桑原武夫編『日本の名著──近代の思想』である。同書巻頭「なぜこの五〇冊を読まねばならないか」は、無遠慮な過去の否定ではなく、無批判な伝統の墨守でもなく、「過去のうちで現在に生きている、あるいは生かしうるものをつかんで、未来への出発を確実なものとすべきだ」(二頁)と、きわめてプラグマティックなスタンスを提示している。短文ながら簡にして要を得た方法的マニフェストだ。
「名著」は、「哲学」「政治・経済・社会」「歴史」「文学論」「科学」という五つのジャンルから、明治維新から敗戦に至る近代日本の「もっぱら独創的な作品」五〇冊が選ばれている。選書には桑原のほか、河野健二(フランス史)、上山春平(哲学)、樋口謹一(フランス社会思想)、多田道太郎(フランス文学)などがあたり、さらに執筆には、飛鳥井雅道(日本近代史)、飯沼二郎(農業史)、井上健(科学論)、梅原猛(哲学)、加藤秀俊(社会学)、川喜田二郎(人類学)、高橋和巳(中国文学)、橋本峰雄(哲学)、平山敏治郎(民俗学)、松田道雄(医学)が参加している。当時の京都における研究者ネットワークのゆるやかな広がりがうかがえ興味深い。
以下、福沢諭吉『学問のすゝめ』から丸山眞男『日本政治思想史研究』に至る五〇冊が三〇〇〇字程度で解説され、五〇〇字あまりの著者略歴が添えられる。この略歴が面白い。たとえば『東洋の理想』の岡倉天心については、「一八歳のとき結婚。妊娠中の妻に卒業論文『国家論』を火中に投ぜられ、『美術論』に書き改めたという」(七一頁)、『時代閉塞の現状』の石川啄木については、「ひよわで、『西洋ローソク』とアダ名される」(一〇一頁)、『美と集団の論理』の中井正一については、「日本で最初の帝王切開で生まれる」(一九一頁)と人物像を膨らませる格好のエピソードが紹介されている。その微細な小技が秀逸だ。
とはいえ、本書の骨子となるのはやはり解説部分だろう。もとより、名著の解説は単なる紹介・要約としてばかりでなく、名著に対峙する精神の軌跡としても貴重なものだが、本書においても解説を踏み越えて解説者自身のスタンスが語られる部分が面白い。たとえば桑原武夫は、内藤湖南『日本文化史研究』に事寄せて、次のように説いている。

人文社会科学に関する研究は、対象についてのゆたかな知識の蓄積を前提とする。歴史研究においてはとくにそうである。基礎知識なしに立てられる理論は、いかに尖鋭でも、観念論にすぎない。しかしまた、知識の豊富な蓄積がすなわち学問でないことは、いうまでもない。前提であるべき知識の蓄積に疲れはてて、方向を見失うひとが多いが、それは不幸な物知りにすぎず、学者ではない。豊富な知識は、ややもすると、するどい論理の生産をさまたげやすいものだが、その困難にうちかって、史観を示しえた稀有の歴史家の一人が内藤湖南であろう。(…中略…)自由主義的な合理実証主義が、かれの立論の底にはいつもあった。西田哲学門下のいわゆる「京都学派」の弱点は、同じ大学の隣りの建物に住んでいた湖南以下の京都歴史学派の知見を摂取することを怠ったところからくるとみていいのではないだろうか。
(『日本の名著』一六六頁)


桑原の学問観、歴史観、そして「京都学派」批判を含めた日本近代への視座が垣間見られる密度の濃い一節である。
ところで、桑原は古典・名著を「共有すること」の大切さを生涯説き続けたように思う★四。『日本の名著』という企画を「中公新書から頼まれたとき、わたしはその企画の有用性を確信して、すぐさまひき受けた」(一頁)という一文からもそれはうかがえる。そしてそれは、必ずしも旧制高校的な教養主義に還元できるものではない。桑原が、アラン、ルソーといった一級の思想家、文学者とともに、『大菩薩峠』の中里介山など大衆文学作家たちへの関心を抱き続けたことからも明らかだ。
むしろ、古典・名著を「共有すること」が可能にする対話、協同、そして創造の可能性にこそ、桑原の視線は向けられていた。であればこそ、新書というメディアが切り開きうる公共圏の可能性にかけ、自らをその場に投企することができたのではなかろうか。そしてこの時期、新書というメディアは戦後啓蒙を支えるマテリアルな基盤としての役割を確実に担っていたのである。
さて、今日、新書の役割は驚くほど激変している。「岩波新書一〇〇冊読めば世界が分かる」、そう素朴に信じることのできた時代は遠い過去のものとなった。一部では論壇誌の代替物としてオピニオン・リーダーたちの発信源となり、一部では雑誌特集の延長といった体の薄くて軽い情報記事となり、総じて歯ごたえ、読みごたえのある「古典」化に開かれたテクストは姿を消しつつあるように思える、といったら言い過ぎだろうか。いずれにせよ、新書、のみならず書物全般の再定義が求められることだけは確かである。

最後に、いうまでもないことだが、公共圏として書物の可能性が失われたわけではけっしてない。それを担ってきたメディアはありえたし、今後もありうることだろう。ほかならぬ『10+1』もそのひとつだった、と、少なくとも私は思う。その知的挑発に学びつつ研究者として育ってきた私が、はからずも『10+1』の終焉を見届けることになったことに、いささかの感慨がないわけではない。
可能性の公共圏の再生を今はただ願うばかりである。[了]

1──桑原武夫編『日本の名著』 (中央公論新社、1979)

1──桑原武夫編『日本の名著』
(中央公論新社、1979)


★一──角山栄『「生活史」の発見──フィールドワークで見る世界』(中央公論新社、二〇〇一)八七頁。
★二──藤本ますみ『知的生産者たちの現場』(講談社文庫、一九八七)一九九─二〇三頁。
★三──宮崎市定は文学部との兼任である。
★四──先に挙げた『文学入門』にも「世界近代小説五十選」のリストが掲げられている。

>菊地暁(キクチ・アキラ)

1969年生
京都大学人文科学研究所助教。民俗学。

>『10+1』 No.50

特集=Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960