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斜視の虎──ダッカの議会堂 | 大島哲蔵
Bozz-Eyed Tiger: National Assembly Hall in Dacca | Oshima Tetsuzo
掲載『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) pp.172-180

インド圏でのルイス・カーン(一九〇一─一九七四)の足跡は、アーマダバードの経営大学(一九六二─七四)とダッカの議会堂(一九六二─八三)である。前者はグジャラードの州都で、この地域はル・コルビュジエのパトロンでもあったサラバイ家に象徴される綿工業によって、資本の蓄積が進行し、ある種の「近代化」を追求する土壌が備わっていた。また「経営大学」という性格からしても、カーンに期待されていたのは、インドの近代に厚みのある形式と品格を与えることであった。それに対して後者はパキスタン政府よりの発注に応じて計画され、部分的な完成を見たときには東パキスタンはバングラデシュとなっていたから、この仕事は(国家としての)インドには属していないという解釈も成り立つ[図1]。しかし、東ベンガルの中心都市であったダッカは、イギリスのインド支配の拠点であった西ベンガルのカルカッタとの関係で政争の火種となり、ヒンドゥーとイスラムの対立を背景にして、紛れもなくインド的矛盾の熱い焦点であるが故に、度び重なる分割の憂き目に遭ってきた。ダッカでの実践は、アーマダバードの進歩的な大学よりも、(カーンへの業務委託として)インド的矛盾の集積の中で遂行されねばならなかったという意味でより興味深い。
既に西暦前三二〇年代、アレクサンドロス大王の撤退後に、ガンジス河平原一帯を治めたマガダ国(マウリア朝)はこの地方に栄え(少し上流のパトナに首都をおいた)、一二世紀末にはムガール勢力の侵攻は早くもベンガル地方に到達して、一七世紀に至るまでこの地方を強力に性格づけた。毎年氾濫を繰り返すデルタ地帯は地味が豊かで生産力に優れ、支配者の格好のターゲットとなった。一八世紀に始まるイギリスの支配に根強く抵抗したこの地のムスリム勢力は、同化的であったヒンドゥーとは対照的に戦闘的な結束を築き固め、後年のパキスタン成立の伏線となったが、同時にベンガル人としての独自の言語的・文化的アイデンティティも発達させていたから、言語(ウルドゥー語/ベンガル語)も気候(乾燥地帯/モンスーン)も主食(小麦/ライス)も異なる西パキスタンの「支配」をはねのけ独立を獲得するのに至ったのは、当然の成り行きだったと言えるだろう。
そもそも新生国家パキスタンは第二次世界大戦後の列強の世界戦略の結果として、最も政治主義的な分割策によって産み出された[図1]。ベトナム・ドイツ・朝鮮の分割は「東西対立」を軸に説明できるが、ヒンドゥー/イスラムの対立を口実にしたインドの分割は、それ自身がもうひとつの分割(二千キロも隔たった西・東パキスタン)を伴ってなされ、それはこの底知れぬポテンシャルを持った新興国の出鼻をくじく意味を持っていたのである。そして分割が避けられなくなった時、両国の難民が互いに流入し合う異常事態を招いた。その主舞台となったのがパンジャブ地方とベンガル地方で、前者では旧州都のラホールがパキスタン領となり、チャンディガールの新都建設(一九五一─六三)が決定的となったが、後述するように、これと密接に関係した措置として後者の首府(ダッカ)での政治センターの建設が計画されたのである。
パキスタンが新生国家として一応の安定を見た一九五八年、西パキスタンのカラチに本拠を置いた当時の主導者アユブ・カーン(一九〇七─七四)は、まるでチャンディガール計画に対抗するかのように新首都の計画(イスラマバード)に乗り出し、ル・コルビュジエと同じくモダニズムの立場に属するギリシアのドキシアデス(基本的にはプランナー)を起用して、「ダイナポリス」のマスタープランに着手した。一方でアユブは、それとバランスをとる意味もあってか、東パキスタンの主府ダッカに新政治センターを創設する決意を固める。これは次第に結束を固めつつあった東パキスタンのベンガル・ナショナリズムを牽制する意味を持つもので、してみればコルブとカーンは共に、印パ分離の余波によって晩年の大作を構想する運命を得たのであり、両国間の直接対立から国土と政治体制の建設競争にしのぎを削る情勢のなかで、代理戦的なパフォーマンスを繰り広げたと言えるだろう。
これより先、一九六二年末一一月、インド経営大学の仕事に着手したカーンは、初めてのインド訪問に際して早速チャンディガールを視察した。キャピトルの建築群がそれぞれ自立した個性を備えているものの、相互の関係付けが弱いことに懸念を抱いた彼は、力作であることを認めつつも「コネクションに欠ける」点を指弾した。この時点でカーンは、ダッカでの仕事の基軸に「コネクション」を措定する事を決意したもののようである。と言うのも、既に彼はイスラマバード計画の中枢施設である首相官邸(一九六三─六六)をこのコンセプトに沿って立案していたが、発注側から「依頼された建物とモニュメントに集中していない」うえに、(依頼されていない)全体計画まがいのもの(彼の言う「コネクション」が具体化されていた)を立案したとして批判され、結局この発注はキャンセルされてしまう。
それにも懲りずにこの主題をあくまで追求しようとするカーンにはひとつの確信があったはずだ。つまり、彼にとって相互に関係し合う一連の施設が、「個別に」設計できるなどということは思いもよらず、「配置計画」は建築計画と密接不可分なばかりか、それによってそれぞれの単位(建物)のあり方が決まってくるのである。それに対して明らかに表層的な「政治的効果」を狙っていたパキスタン首脳とは、ダッカにおいてもいずれ衝突し、決裂することが予想されていた。ところが皮肉にも東パキスタンでの不穏な政治情勢が、かえってこの第二の首都の政治センターの計画を加速させたようにも見える。国土の二重構造は、この場合建築家に有利に作用した。敷地はダッカ郊外のシュレ・バングラ・ナガール(ベンガル虎の都市)地区の約二キロメートル×四キロメートルで、その当時ほぼフラットな荒地であった[図2]。バングラのもともとの意味はベンガル地方特有の小屋に架けられた曲面屋根を意味する建築用語である。既存の市街とのコネクションが図られた形跡は見られず、カーンの意図は都市計画的なセンスよりも、コンテクストの欠けた場所そのものに、新たな空間集合を創出するための契機に集中していた。
「コネクション」の実体はまず配置計画に顕われ、その基本スキームはやはりボザール流の幾何学構成であった。一九六三年から六五年にかけて作成されたいくつかの初期案[図3]を吟味してみると、南北両地区が対照的に扱われ、入れ子状に集積した短形の群れがイコノグラフィックな「関係の小宇宙」を形成しており、部分への着目や雁行と相俟ってボザール方式を内部から超越しようとする意図が鮮明である。このアーティキュレーションを更によく検討してみると、六三年三月の北群はジョゴラのオーストリア議会堂[図4]に酷似しており、比較的安定していた南群はキャンベラの原案となった、グリフィンのセンタープラン[図5]を想起させ、いささか因縁めいてくる。結果的に南群のみが一応の実現を見たのであるが、カーンの夢想した「関係の小宇宙」は頓挫することによってバランスを欠き、かえって微妙な陰影を与えられたように思われる。

1──インドと隣接するパキスタン

1──インドと隣接するパキスタン

2──ダッカ都市図 左上にシェレ・バングラ・ナガール

2──ダッカ都市図 左上にシェレ・バングラ・ナガール

3-1── 初期配置図 1963年3月

3-1── 初期配置図 1963年3月

3-2──1964年8月

3-2──1964年8月


3-3──カーン在世中の最終プラン 1973年1月

3-3──カーン在世中の最終プラン 1973年1月

4──Mitchell / Giurgola & thorp, Parliament House Canberra.1981-88

4──Mitchell / Giurgola & thorp, Parliament House Canberra.1981-88

5──グリフィンの計画コンセプト図

5──グリフィンの計画コンセプト図

チャンディガールでは主要な三つの建物(セクレタリアート・議会堂・高等法院)が三権分立を表象するという名目のもと、それぞれ自立的な個性が与えられ、中央に位置する広場のみによって物理的に結ばれているのに比して、ダッカでは支配的な議会堂(アセンブリー)が議員宿舎や行政官舎に子宮型の配置で結ばれ、共通する意匠(シンボリックな円筒形や緩い円弧)と素材の使い分け(レンガ造とコンクリート打ち放し)によって階層的に関係づけられ、ややピクチュアレスクながらもそれらが水面を介して一体化し、しかも個別性を備えている。確かに彼は個別を設計したのではなく全体を設計したのであり、更に言えば関係性を構築したのだった。序でに言うと、チャンディガールにおいても「開かれた手」のモニュメントや「思索の谷」が当初の計画通り実現し(それらはトーン・ダウンした形で最近実現された)、さらに総督公邸が建てられていたなら、カーンとは別の種類の遠近法を伴った「コネクション」が実現していたはずであり、近代の配置計画のレパートリーは、一段と充実したものになっていたはずだ。
当初施設群は中央道路によって線対称に分割され、そこからアプローチされる筈であったが、北群の実現性が乏しくなるなかで、新しい様相が産まれた。つまり中央道路側(北)に向けられていたアセンブリーの正面が、市街からのメインアクセス(南側の幅広の道路)に成立することになり、南側が表裏を兼ねる事態を招いている。つまり一般大衆のアクセスは巨大な広場を伴った南側が、議会関係者にとってはテラス・ロビーと広い前庭園を持った北側が正面となる。問題は南側のアプローチで、大階段を昇りきった所にブリッジ越しに小さな開口が用意されているのだが、そこはカフカの「掟の門」よろしく常に閉じられたままである[図6]。
こうしたダミーの正面、「閉じるための門戸」は、議会制民主主義を隠れ蓑にする軍事政権の体質に見合うものであると同時に、ある意味ではカーンの理念的で超越的な民主(衆)主義のイメージとも共振するものであった。こうした閉鎖性はアセンブリーを取り巻くように配された水面(洪水の時の調整池と冷却効果も兼ねている)や、そこから屹立する大仰な壁体によって強調され、配置や平面計画での中心性を基軸とした完結的(絶対的)なプランニングと相俟って、一般的に信じられているような戦後民主主義のシェーマなどではなく、極めて純度の高いヒエラルキー構造そのものに与している。同じことがチャンディガールでのル・コルビュジエについても言え、例の壁画入りの大扉を持った議会堂は決して実質的に開かれた存在とは言えず、厳正なヒエラルキーを保持した街区計画と共に、両巨匠に共通する現実的な政治理念を知ることができる。彼らは共に(ネールが信奉していたような)第三世界の開かれた「民主主義」を額面どおり翻案したわけではなかった。

この「閉鎖性」を西欧型の民主主義のイメージに合わない保守的表現だと「批判」するのは早計だろう。なぜなら我が国も含めた西側の議会堂においてもその実質上の排外主義は大同小異で、むしろそうした乖離性の枠内において「近代」は考えられるのであって、その含意を理解しないのが頑迷な軍事政権のリーダーや単純な「民主主義者」なのだから。「多様な近代」という概念を流産させることによって、戦後の独立国の社会建設は予定調和的な経済発展プログラムに矮小化されたのであり、「ダイナポリス」でのドキシアデスによる「コミュニティクラスター」や「ヒューマンセクター」などの進歩主義の概念もまた、実質上はともかく、表現上の可能性を拡張するには至らなかった。都市計画における穏健主義は容易に建築でのナショナリティックな折衷主義に結びつき、それに引き寄せられる形でジオ・ポンティのパキスタンハウス=議員宿舎やエドワード・D・ストーンの首相官邸など特に見るべきもののない建物が産み出されてしまった。この文脈において、チャンディガールでのル・コルビュジエは、市街地の計画においてはモダニズム左派の立場を貫き、キャピトルの意匠では古代性/宇宙性(シンボリズム)と表現主義を結びつけることによって、表層的な近代イメージにひび割れ現象を生じさせている。カーンはこれを受けて同じく一般的なモダニズムを批判的に乗り越えようと試みたのであり、一見「開かれた国家(社会)」のイメージに逆行するような「閉鎖性」は「近代」に突きつけられた果し状として、逆に表現上の可能性を秘めたものであった。
中央に位置するアセンブリーを一瞥すると、たちどころにタジマハールやイスファファンのモスクを想起させる蜃気楼の世界に捕捉される。このスケール・アウトは乾燥地帯の遊牧生活に根差した宇宙的な感覚に裏打ちされている。しかるに内部空間は巨大なシリンダー状のヴォイドの周囲に、それと対立する迷路状の組織が絡みつき、「ゲル・テント」内の閉鎖的な配列を想起させる。エクステリアの建築記号はいずれもプリミティヴで直情的だが、インテリア(記号間の空削)の内省的で非完結的なシークエンスはそうしたオプティミズムに冷水を浴びせかける。この建物において私たちが不条理な感覚に襲われるのが、こうした瞬間に他ならない。
成熟期に達したカーンの建築言語は硬質の外殻に覆われていたが、それはカーテンウォールに代表される近代のスキンタイプのアンチテーゼとして存在し、またダッカの場合、ブレーズ・ソレイユ(「太陽を打ち砕くもの」の意で、ル・コルビュジエのインドでの建築の基本戦略であった)の代償措置として、外側に貼りついた「サーヴァントスペース」と共に、内部の温度をコントロールする実質的な効力を期待されていた。カーン自身も議会堂をCitadel(要塞)と呼びならわしていたから、スルタン=カリフ制に象徴されるイスラム国家での連続的で閉鎖的(この場合、閉鎖的という用語は必ずしも悪い意味で使用していない)な体質を念頭に置いて構想を進めていたのかも知れず、それなら、ブリガンガ河畔に残るムガール期の歴史モニュメント(ラルバーグ要塞)[図7]を巨大化したような形姿や、典型的な、マスタースペースとサーヴァントスペースによる階層的な平面計画[図8]も、求心的な国家体制と封建的な身分制度を意識した設計姿勢と見なすことができる。彼自身はアセンブリーのイメージソースとして「拡張されたカラカラ浴場」や「パンテオン」を挙げているのだが、その古代趣味の延長上にピラネージの「カルチェッリ」や「カンポ・マルツィオ」が横たわっているのは間違いない。ボザール流のピクチュアレスクから出発したカーンは、次第にそのアカデミズムの背後に伏在する「古代遺跡の発掘と復元」という強迫観念に沈降するようになり、ついには幻視的な無限連鎖空間に到達したわけである。
しかしこうした「沈降のプロセス」は奇妙にリラックスした態度で推し進められたフシが窺える。一九六三年から六四年にかけて五案も作成された、いかにも気楽に動かされたヴァリアントがそれを物語るし、レイアウトを検討した際の「チェスゲーム」のような流儀[図9]にもそれが感じられる。また前述したカーン内部の「ボザール軸」と「ピラネージ軸」のせめぎ合いは、厳しい矛盾律として作用したというよりも、倫理的・心理的に連続したプロセスとして創造的に連携していたもののようである。考えてみればピラネージのファンタジーはクラシックで正統的なパースペクティヴ空間の徹底的な実現を前提とした、その「歪曲」的発展であったのだし、アカデミー一般の古代建築への「憧憬」をグロテスクなまでに昴進させたのが彼だったのである。カーンの悲観主義は、圧倒的な楽天主義とどこかで通じている。
アセンブリーの白眉、高さ一〇〇メートルに達する議場真上のドームは、それを支える壁体が打ち上がった後になっても施工プロセスが解決できず、結局一九七一年になって傘状の放物線の反復から成るコンクリートに変更され架けられることとなった。ドームを支持するエレメントによってろ過された光は、パンテオン的な経路をたどり深くて暗い井戸の底部に達する。ここの住人──三五〇尾の議員は小魚さながらの卑小な存在で、作家の構築への意志はルドゥーやブレ的に作動し、人間存在を遥かに凌駕している。この巨大なヴォイド・コアと周囲の八節のサーヴァントスペースに挟まれるのがピラネージ的な組織体である。シリンダーを攪拌するスロープや穴の穿たれた重壁──そこから外光が内部へとリークする──は、宇宙の彼方から到達した太陽の飛沫を最終的に建築的に受容する深遠な衝迫を体現している、カーンが光(と影)を本格的に発見したのは一九五一年のエジプト旅行以降である。旅行中に描かれたスケッチを見ると、光と影のコントラスト(表現)が尋常ならざる水準に達していることが瞭然である。彼は彼の血に内包された光と影の感覚──遺跡を浮彫りにする光──を再発見したのだ。この時点を画して彼の作品はカーンらしさを強め、「ピラミッド」のような単純な立体を組み合わせて「永遠の概念」を宿した、雄渾な空間を次々と生み出していく。ちなみに六四年五月案には、後に検討する「モスク」が巨大なピラミッドの形姿となってコートに描き込まれている。
私たちはここで、この作品におけるカーン内部の微妙な揺らぎに言及しておかねばならない。というのも、重層的に存在する歴史・文化・社会上の激越な矛盾条件にも拘わらず、施設全体は静謐さを保っており、「コネクション」を成就させることで暫定的な解決に持ち込んだように見えるのだが、ただ一点、見かけ上のメイン・アプローチとなったアセンブリー南側の円とエントランスに接続する一単位(礼拝堂)が、かろうじて認識できる程度に東に傾いているのである。(ほぼ南北軸に一致している)この微かな偏向が私たちの好奇心をそそる謎となる。なにゆえこの「ベンガルの虎」と称する巨大施設は、都市軸や民衆に対して、ヤブニラミ状態となっているのか。
その最もポピュラーな説明は、「メッカの方向に向けられている」というものだが、確かにその方向が強い規定力を持つとしても、宗教軸の介在のみでこの現象を捉えてしまうのは余りにも常識的ではないか。もし「メッカの方角」がより大きく配置軸に対して開いていたなら、カーンは果してそれに合わせただろうか。この処置には、外的な条件に合わせたというよりも、内発的な動機による自発性が感じられる。ちなみに、後に判明した事実ではメッカはダッカの真西よりわずかに南に位置しており、カーンを含めた関係者は奇妙なことに、建ててしまった後の一九八〇年までは、このミス・オリエンテーションに気づかなかったし、気づこうともしなかった。またこの程度の角度ならインテリアで角度を振り、辻褄を合わせることもできたはずで、事実六三年五月三日付プラン[図10]で一度消滅してしまった礼拝堂らしき小スペースが、同年一二月二一日のプラン[図11]にそうしたやり方で再帰しているのである。そうだとすると、この小さな振れにしたたかな動機が伏在していたとしても何ら不思議ではない。

諸君が、そこに(モスクが)在ると気づくように、違った扱いをしたルイス・カーン


ここにはカーン自身も触れたくない深層心理が作用しており、それを顕在化させたくない所に都合良く宗教軸という申し訳が被ってきたのではないか。晩年のカーンがドミニコ会修道院(一九六五─六八)[図12]に見られるような変則的なコネクションを愛好していたことは良く知られている。これはジェームス・スターリングがベルリンのIBAのコンペで鮮烈に再現させて見せてくれたタイプで、堅固で規則的な外殻フレームに、ランダムな軸(視差として現象する)を導入する目ざましい戦略である。古典主義の泣きどころとも言うべき生硬さを救済するのは、こうした名人芸的なパフォーマンスに他ならない。その起源は遠くラヴェンナの「サン・ヴィターレ教会」[図13]に遡ることができるが、恐らく増築的な付加によって、一旦完結した全体性が微妙に崩壊する奇妙な味わいを「発見」し、それを計画するようなことが起こってきたのだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチのドローイングにもそうした「逆説的な計画意思」が鮮やかに定着されている。大規模な聖堂の一隅に、まるで聖母マリアが赤子イエスを抱いているかのように、小礼拝堂が描きこまれている[図14]。これは偶発的な出来事のようにも見えるがそうではなく、巨匠的な作家の屈折した心理が必然的な軌跡を描いて計画意志そのものに立ち戻り、しばしば計画性への違背を「計画」することを証し立てている。
しかしこの説明も何ら決定的なものではない。なぜならその理由にしては単位の振れが小さ過ぎるし、これと連動する副次的なエレメントのズレも殆ど認められないからである。施設全体のバランスから推察する限り、アセンブリーはドミニコ会修道院のタイプよりも、ソーク研究所(一九五九─六五)のオーディトリウム[図15]により近いことは明らかである。それでは、経験的には余程注意深い人でない限り気づくことのないような身振りを、なに故敢えてなさねばならなかったのか。
六三年三月の当初案に含まれていた「モスク」は、恐らくクライアントの側から「イスラム教支配国家」の外貌を回避するために削除され、六四年五月案では大幅に縮小されて「礼拝堂」へと手直しされた。宗教軸は政治軸に並置するわけには行かず、さりとて一致させることも得策ではなく、外すこと、まさにヤブニラミの関係──「ミスコネクション」における「コネクション」──が望ましかったと言える[図16]。もしこの「偏向の身振り」が無かったとしたなら、この政治センター全体が巨大な「モスク」(自己完結的な要塞)に転化してしまったかも知れず、その危険性は既に六三年三月一二日の生硬なプランニングにおいて表面化していたのだった。しかし、カーンはそうした全体主義的な行き方とは微妙に袂を分かつ存在であり、この重要なポイントに脆弱味を付与することで、建築が自律(物象化)する余地を塞いでしまったのである。
同じような現象が言語的な問題にも見られるのは、偶然ではない。つまり、二人のカーン、建築家Louis I Kahnと発注者で当時の当時の大統領、Ayub M. khanにまつわるaとhの逆転に関してである。Khanはトルコ族などの王を表わし、ムスリムのリーダーに一般的である。その語源は明らかに「汗」と重なり、と言うのも、周知のようにアラビア語やペルシャ語でムガール(mughal)は「Mongo」または「Mongolian」を意味する。インドムガール王朝の開祖Baburの母は、Chingiz Khanの子孫で、父はTimurの子孫とされている。一方のKahnはエストニアのオセル(現サーレマー)生まれでユダヤ系と言われる。カーンがアメリカに到着したのは一九〇六年で、その当時、「エストニア出身のカーン」と称するよりも、「ジューイッシュのカーン」と名乗った方が、偏見も甘受せねばならない代りに、「支持」も期待できたことは明らかである。事実ユダヤ系のクライアントがカーンにとって主要な支持層であったことは良く知られている。彼の血の中に、「ユダヤ」の血が混入していたのと同じ程度に、東洋系の血(特に蒙古系)が混入していなかった保証は無い。「エストニア」とはバルチック海に面した北東ヨーロッパの小国(旧ソヴィエト連邦共和国を構成する)だが、旧モンゴル帝国の版図(キプチャク汗国)に含まれていた。Kahnの本来の綴りがKhanだった可能性は全面的に否定することはできない。
カーンは小柄・痩身で、目鼻立ちはヨーロッパ本流とは程遠い[図17]。身体的な特徴においても彼に東洋系の遺伝子が組み込まれていた確率は高い。アセンブリーの巨大な前広場に林立する照明装置をカーンのもとでデザインした工藤国雄に尋ねてみたところ、うがった見解が返って来た。「入国審査官がカーンと名乗った彼(一足先にアメリカに入国していた彼の父)に対してkahnと書き入れた」と言うのである。アメリカでは通常カーンをkahnと綴るために、審査官が口頭で聞いた音声がそのままドキュメントに記入されたというわけだ。ここでaとhが逆転したのだろうか。
また同氏はカーンの事務所で勤務した体験を通して、「東洋の血が入っている」との直感を得たそうだ。そうだとすると、この特異な建築家がインド・イスラム圏で仕事を得たのは、偶然が左右すると共に、歴史的な脈絡関係が認められ、絶妙の起用だったことが解かる。彼が「ソーク研究所」に見られるように、荒々しい地形(それも乾燥地帯のそれ)に張りついた廃墟のイメージを伴なう施設をよくするのは、その出自によるものかも知れず、その中庭を縦走する一条の水流にアルハンブラや中央アジアの宮殿の中庭での導水の幻影を見ないようにするのは、むしろ困難なことである。
東洋趣味が伝統的に根強い西海岸でこの種の名作を結実させたもうひとつの意義(しかもメキシコのモダニスト、ルイス・バラガンと連携して)が、そうした流浪と類縁化の構造に求められる。ボザール軸とピラネージ軸の交錯、「コネクション」に見られた心理上の振幅、出自にまつわる大いなる循環構造は、ルイス・カーンの精神の内奥の幽明な領域を浮かび上がらせる。
この地平において表層的な政治主義や、均質的なモダニズムは溶解され、建築的な思考のダイナミズムは民族の歴史と世界の広がりが織りなすパースペクティヴに置き換えられる。それはスーフィズム(分派的イスラム神秘主義)やトーラの書(ユダヤ教の聖書)の世界に呼応する、制度の起源と啓示的ストーリーの要約である。アセンブリーのフォルム、光と影の交錯、その謎の一切は建造された無意識である。それは計画行為の結果として生じたのではなく、思惟そのものが建築となって析出した稀なケースと言えよう。高揚した意識が、異種媒介的な作用を昴進して、表層的なイデオロギーを浸食し穴だらけの反故となす。ヒンドゥーイズムとムスリムの「対立」を背景に沈降したベンガリス(ベンガル人)の魂の漂泊を刻印する装置、バングラデシュ建国という史的弁証法を反芻するモニュメントとして、これ以上の「疑惑的オブジェ」は考えられない。

6──議会堂正面アプローチ(南側)

6──議会堂正面アプローチ(南側)

7── ラルバーグ要塞

7── ラルバーグ要塞

8──議会堂プラン

8──議会堂プラン

9──配置計画をスタディするカーン

9──配置計画をスタディするカーン


10──63年5月3日案

10──63年5月3日案

11──63年12月21日案

11──63年12月21日案

12── ドミニコ会修道院計画案(1965─68)

12── ドミニコ会修道院計画案(1965─68)

13──サン・ヴィターレ教会(ラヴェンナ)平面図

13──サン・ヴィターレ教会(ラヴェンナ)平面図

14──教会計画案のスタディ(レオナルド)

14──教会計画案のスタディ(レオナルド)

15──ソーク研究所最終案(1962─65) 3がアンフィシアター(旧オーディトリウムとして計画された)

15──ソーク研究所最終案(1962─65)
3がアンフィシアター(旧オーディトリウムとして計画された)


16──礼拝堂

16──礼拝堂

17──ルイス・カーン(1901-74)

17──ルイス・カーン(1901-74)

大島哲蔵〈斜視の虎〉について

この論文は近畿大学文芸学部論集(二〇〇〇年一二月号)へ寄稿されたものである。
本来的に大島哲蔵はいわゆる古典には興味を示さないひとであった。
かれの関心は、もっぱらビビッドな現在に注がれていた。勿論それは、建築自体や歴史に興味がなかったという訳ではないのだが、あくまでもテクスト以上ではなかった。それよりもなによりも彼は、独自の触覚を縦横に駆使できるドキュメント、あえて言うと少々苦みのある近代から現代ヨーロッパの流行物が好きであった。
そこからして、カーンを少し書いていることを茶飲み話に聞いたときは意外ですねと言ったことを覚えているし、部分のかいつまんだ内容も聞いたのだがその話はそれっきりだった。
しかし今回改めて読んでみて、氏一流の読み方が随所に現われていて随分面白いということを再確認した。またむしろこうした土俵であっても、従来のアカデミズム的歴史観の読み替えによる独自な見解、スタンスの展開という新境地を確立できたのではなかったかとも思え、もはやそれもかなわぬことが今更ながら残念でしかたがない。
新田正樹

>大島哲蔵(オオシマ・テツゾウ)

1948年生
スクウォッター(建築情報)主宰。批評家。

>『10+1』 No.29

特集=新・東京の地誌学 都市を発見するために

>ルイス・カーン

1901年 - 1974年
建築家。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。

>ソーク研究所

カリフォルニア州ラホヤ 研究所 1965年