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ワンダフル・デザイン | 渡辺誠
Wonderful Design | Watanabe Makoto
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.98-99

スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』──生物を設計すること

生物一般を「設計された」ものと思ってみると、その「設計者」はどうみてもただものではない。例えば蚊のような数ミリの極小パッケージに、飛翔機能を与え、赤外線とCO2センサに分子アンテナを載せ、吸引ポンプと内燃機関、燃料タンクを装備し、CPUを積み、さらに自己修復と複製機能まである。まさに驚くべし。現在のテクノロジを駆使してもこれほどのものは設計も施工もできない。しかし、その天才も、のっていた時期とスランプの期間はあったらしい。設計者は設計者、いずこも同じようで少し安心する。その彼の絶頂期、次々に新設計を送り出していたのが、いまから五億三000万年前、古生代カンブリア紀爆発と称されるこの時代であった。その証拠品が、「バージェス頁岩」(カンブリア紀中期に堆積した地層)に見られる化石群であり、スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ──バージェス頁岩と生物進化の物語』(渡辺政隆訳、早川書房、一九九三)は、その発見と評価について語る本である。
建築にプランがあるように、生物にもボディプランがある。ボディプランとはからだの基本設計のことだ。人類を含めた哺乳類は、脊椎という内部の構造で支持された、頭と胴体に四肢からなる体を持つ。一方昆虫は、シェル構造のように外皮が骨格で、頭、胸、腹に六脚四枚羽の体だ。どちらも立派に機能しているが、プランの基本が違う。これがボディプランだ。建築で言えば、ビルディングタイプにデザインコンセプトと構造方式を組み合わせたようなものだ。
このボディプランの新開発が一気に行なわれたのが、カンブリア紀だったという。しかしそこで開発されたプランの多くはその後の進化の過程で不採用になり(=絶滅)、いまはもう存在しない。だから見たことのない奇妙な生物がここには続々と登場する。試作品の展覧会のようなものだ。
「幻」という名を持つハルキゲニア、眼が五つ(奇数!)で象の鼻のような口を持つオパビニア、花弁式シャッターのような口をもつアノマロカリス。いずれも似たデザインの生物は動物園にはいない。
ここで注意すべきは、表面上のカタチだけではない。見るべきは、カタチのパターンである。見た目はプロポーションや凹凸を変えて変化させることができる。しかし、脚や体節の数や順序、対称性といったパターン、つまりシンタックスにあたるカタチは変えられない。それを変えると別の「種」になるどころか、それよりさらに根本的に違う異なる「門」に属する生物、ということになる。カンブリア紀に登場した生物の多くが、このシンタックス上、いま生きている生物と違うという。このとき登場して、その後消えていった、いまとは別の設計コンセプトを持っていた生物群。消えたといっても数百万年以上生息していたのだから、失敗したから消えた、とはいえない。
消えた理由についてグールドは、「偶然」、だという。たまたまあるものは生き残り、あるものは消えた。両者に決定的な優劣があったのではないと。だとすれば、別の偶然のもとでは、ハルキゲニアやアノマロカリスの子孫がいまも世界の主役であっても不思議ではない。消えたボディプランが、実は主導的なプランであったかもしれないのだ。
ということは、いまある設計の方法、いまのカタチ、いまの常識、それが唯一とは限らない。たまたまそうなっているという理由で、みんなそのまま使っているだけかもしれない。慣性の法則は時を超えて働く。
もちろん、ただ違う案を出したからといって、それが既存のものより優れているという保障はない。生物にとっては生態、建築にとっては社会という「環境系」に適合していなければ、生存ができない。それが設計の優劣を測る試験だ。しかし、センター試験を通過すれば、その後長く生き残って次の進化につながるかどうかは「運」だ、とグールドは言う。
『ワンダフル・ライフ』の発表は大きな反響を呼んだ。その後の研究により、バージェス頁岩のエイリアンの多くは現在の生物の「門」に含まれるという意見もある。もしそうだとしても、「試作ボディプラン」の発掘を通じてデザインの「意味」の再考を迫ったという点で、この本の意義は変わらない。生物を設計という視点で解析する本は近年多くなったが、そのなかでも本書は古典のひとつとなっている。

1──スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』

1──スティーヴン・ジェイ・グールド『ワンダフル・ライフ』

ジェイムズ・グリック『カオス』──
明日は設計できないこと

カオスや複雑系の本はかつてブームであったが、その研究からなにかが生まれたのかといえば、何も変わっていない。来月の天気をぴったり予測できるようになったわけではないし、株価や為替相場予測ソフトが売れているわけでもない。相変わらず自然も社会も複雑なまま、予測できない。
しかし、デリバリティヴで有名な今日主流の金融「工学」には、カオス理論が関わっている。画像認識や暗号技術にはカオス制御の技術も使われているようだ。表だって現われていなくても、じわじわとどこかしらで社会に作用しているのである。
複雑系もカオスも、日常用語の「複雑」や、「東京はカオスだ」というときのカオスと似ていながら実は違う。その違う点に、この領域の特質がある。日常用語でのカオスは統制原理のない世界をいうが、カオス理論のカオスはそういう意味ではない。科学のカオス世界には原理がある。秩序がある。しかしその秩序は外から見ていても見つけにくい。見つけにくいだけでなく、見つけても、使えないのだ。
これが古典力学の世界だと、理論を見つければ結果を予測することに使える。たとえば真空中でボールを投げたときの落下地点は、ボールの重さと投げたときの速度と角度がわかれば計算でぴったり出せる。そこに迷いはない。しかし、空気中で手に持った羽を落としてそれが足元の地面のどこに降りるかを計算で予測することは、不可能に近い。それはPCの能力の問題ではない。空気力学がわからないからでもない。羽に働く力学は数式で示すことができる。だから、落下直後の位置は予測できる。しかし落下数秒後の位置になるともうわからない。最初に入力する重さや風向きなどの初期値がごくわずか違うだけで計算の答えが大きくふれてしまうため、答えが定まらないのだ。原理は明確、しかし、結果は不明確、という事態。
カオス理論以前には、結果が予測できない状態は、「原理が見つかっていない」か、または原理は発見されていても「要素が多すぎて計算能力を超える」からできない、かのどちらかだった。ということは、原理がわかり、巨大な処理能力を持てば、すべてがわかることになる。原理を知り、無限の処理能力をもつ存在はかつて「マックスウェルの悪魔」と呼ばれていた。これに対してカオス理論は、「計算式がわかっても答えはわかりませんよ」という。これは衝撃だった。結局、どうやってもいつまでたっても未来はわからないのだって? 悪魔はいなかった。
筆者にとってこれに匹敵するインパクトは、その昔、ハイゼンベルクの不確定性原理を知ったときだ。ちいさな小さな粒子の世界では、その粒子の運動量と位置のどちらか一方しか知ることはできないという。どこにいるかはっきりさせれば、いつ着くかわからない、速度を確かめれば、居場所があいまいになる。結局、なにがどうなっているのかは、確率的にしかわからない。物質が、モノが、確率的な存在だという量子力学は、少年の筆者の世界認識?を変えた。
明日の天気はわからない、人の心もわからない、世のなか計算できないのはあたりまえ、という話ではない。使えないなら理論なんていらない。結果を出すための理論だったはずだ。
不確定性原理は研究所の外には出てこなかったが、カオス理論の対象は身の回りの普通の世界だ。
カオス理論は、単純な原理が見つかった現象でも、結果は「超」複雑になって予測できないという。ということは、逆に、複雑きわまる現象も、実は単純な原理でできているかもしれない、ということでもある。これが、カオス理論から得られるもうひとつの視点だ。
複雑な現象に共通?なことだったら、都市だってそうかもしれない。たくさんの人々の思いと功利と恣意を偶然という網で包み込んだような「街」だって、実はその底には案外単純な原理があるのかもしれない。それを見つけることができれば、設計の新しい方法になるのではないか。その考えは一九九0年から進めていた「誘導都市/INDUCTION DESIGN」と符合していた。明日は設計できない、そう知ることから始まる設計を探す、その援護のひとつが、これもすでに古典となったジェイムズ・グリック『カオス──新しい科学をつくる』(大貫昌子訳、新潮社、一九九一)だった。

2──ジェイムズ・グリック『カオス』

2──ジェイムズ・グリック『カオス』

>渡辺誠(ワタナベ・マコト)

1952年生
アーキテクツ オフィス主宰、淡江大学(台湾)講座教授。建築家。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること