音楽制作・配信技術の陳腐化と個人の表現可能性
三回にわたり続けて来た本試論も今回で最終回となる。これまでの三回で大雑把に、一九世紀末から二〇世紀末までのパリの音響場の生成・変形を、都市開発、録音・再生技術、情報・通信技術の発展を軸にして俯瞰してきた。図式的な整理を行なうなら、最初に演奏者と聴衆の分離と(ブルジョワ的・合理的な)音の囲い込みがあり、そこから漏れ出す(路上の・庶民的・非合理的な)音との間の地理的なせめぎ合いがあった。やがてレコード、ラジオ、テレビといった近代メディアの普及にともない上述した二つの《音》の対立関係がメディア空間のなかに拡大してゆく。パリにおけるそれは例えば主流化したシャンソンに対するジャズであり、インテリ化したジャズに対するロックンロールであり、進歩的になったロックに対する移民音楽(ワールドミュージック)であった。このなかには、二つの重要な傾向が潜んでいるように思われる。ひとつは、音楽ジャンルというものの社会的意味、経済的価値、空間的位置は固定したものではないということだ。《路上》を意匠として生成したジャンルも、商業的な成功などをきっかけに《主流》ジャンルになりうるのである。二つ目は、そうした《主流》に対抗する《路上》ジャンルの生成には、多かれ少なかれ既存技術の本来の目的を外れた使い方で利用するという行為が含まれるということだ。それは歪んだ楽器音であり、街頭の蓄音起業家であり、海賊ラジオであり、カセットテープであり、ターンテーブルやサンプラーである。最近では家庭用のパーソナルコンピュータやインターネットの普及によりさらに受け手と作り手のあいだの距離が縮まっていると言えそうだ。このように、音響場における音の生産と消費という所為には、つねに新しい創造性が生まれているというダイナミックな一面と、そうした新ジャンルと確立された既存ジャンルとの間の対立がつねに再生産されているというスタティックな面が共存している。この矛盾をどう説明するか。そして、PCやウェブの普及はこの矛盾にとってなにを意味するのか。このへんについての議論をまとめて最終回としたい。
フランス大統領選挙の音響場
さて、これまでも繰り返し指摘したように、音楽ジャンル間の対立は、パリの東部と西部、セーヌ川の左岸と右岸、パリ市内とパリ郊外などの地理的な対立と相同する傾向を持っていた。五月六日に行なわれた仏大統領選挙でも、この地理的対立は明らかであった。有産階級の権益保護と移民規制強化などを掲げて次期大統領に選出されたニコラ・サルコジ候補(右派与党)がパリ西部のコンコルド広場でミレーヌ・ファルメールやジョニー・アリデーなどの歌謡界の大御所のコンサートを交えて祝賀パーティを開く一方、同候補の綱領に抗議する若者たちがパリ東部のバスティーユ広場に集結し、警官隊と衝突したのだ。マスコミの報道によると、二〇〇〇人前後が集結したらしい。また、パリ郊外では三〇─四〇台の自動車が放火され、路線バスに火炎瓶が投げつけられるなどの騒乱があった。そこに《音楽》を聴くことはできなかった。聴こえたのはめくるめく《雑音》と、秩序を求めるホイッスルやサイレンである。そしてその様子は、新聞、ラジオ、テレビ、インターネットを通して全国・全世界に報じられた。You Tubeなどの動画サイトには、そうした情報をカットアップした独創的なパロディー映像もアップロードされている。これまで本論では、メディア技術による社会関係の脱埋め込み化により、《路上》という場所が実際の都市空間から根こそぎにされる状況を記述してきた。しかし一昨年の郊外暴動や今回の衝突などを見るにつけ、《路上》を単なるメディア空間上の記号として片付けてしまうわけにはいかなくなっているような気がしている。それに応えるためには、メディア技術の存在を前提にした新しい《路上性》とその《上演》あるいは《共有》に注目し、そのなかで立ち現われる音にあらためて耳を傾けなければならないだろう。
PCやウェブの普及にともなう音楽の脱物質化(dematerialisation)という考え方は、こうした新しい《路上性》、あるいは音楽の現前性についての示唆に富んでいる。KusekとLeonhard(2005)★一は、音楽がプロダクトからサーヴィスへと性質を変えるのにともない、生の音楽演奏(と音楽体験)の重要性が見直されるようになっていると指摘する。例えばパリ首都圏で開催されるフェスティバルの数だけ見ても、一九九七年から二〇〇七年の間に四六件から六五件へと増加している(L' Officiel de la musique調べ)。何度も論じられているように、MP3ファイルやP2Pソフトの普及は音楽流通のかたちを変えた。二一世紀に入ってからのレコード・CDの売上不振の原因については、違法ダウンロードの蔓延や携帯電話をはじめとする他の娯楽サービスの台頭、あるいは肥大化したレコード会社やマスコミへの消費者の不信感(例えばオリコン訴訟問題★二)など、いろいろな分析がある。しかしここで重要なのは、音楽の脱物質化が、ライブ音楽への回帰という音楽の新しい《路上性》の獲得と同時に進行しているということである。
Kusek and Leonhard,
The future of music,
2005.
音楽産業群の再編と再生産
この意味で、PCやウェブの普及は、蓄音器や海賊ラジオ、カセットテープやVCRなど同様、《主流》システムに対する《路上》側からの抗議を媒介する契機となっていると言えるかもしれない。つまり、違法ダウンロードをレコード売上の落ち込みの原因と断定し、その権益を守るために著作権保護を強化・拡大し、レコード売上の衰退を音楽文化全体の衰退と取り違えるような議論は、むしろ、主流ジャンルとそれが依拠する既存のレコード産業システムの権益を維持しようとする力学と新しいジャンル★三とそれが依拠する新しい音楽産業システムを確立しようという力学の間のせめぎ合いという構図のなかで捉えるべきなのだ。フランスでは昨年、著作権法の改正が行なわれ、その審議のなかで野党左派議員が定額課金制度を条件にしたP2Pの合法化を内容とする修正案を提案し、これが可決されかかった。最終的にはこの修正案は与党によりなかば強引に白紙撤回されたが、野党社会党のロワイヤル大統領候補がこの修正案と同じ内容の実現を公約していたこともあり、バスティーユ広場の《雑音》から私はこのような不協音を聴き出したのだ。
しかし、それではパソコンやインターネットが、パリという音響場における音楽生産の構造を根底から突き崩していると結論するのはあまりにも時期尚早である。それは音響場に新しい創造の可能性をもたらしているのだが、それと同時に、われわれがこれまで見て来た一世紀以上にわたって続く《主流》対《路上》という対立関係はここでも引き継がれているのだ。なるほど、KusekとLeonhard(前掲書)が指摘するように、レコードの制作・販売を中心にした音楽ビジネスは、ライブ活動やファイル共有を通したコミュニティ中心の(等身大の)新しい収益モデルの方に移行してゆくかもしれない。しかし、《路上性》を身の上としたジャズやロックンロールがやがて《主流》として市場を支配するようになったのと同じように、このコミュニティベースの新しい音楽も、近い将来には主流化するのかもしれない。これがどのような形態をとり、どのように変化してゆくのかは、われわれにはわからない。われわれは現在その渦中にあり、まだその全体像を把握するための視点を確立しきれていないのだ。
結論にかえて
《音響場》という言葉は、元々は東京であるアーティストのレコーディング風景を見ながら漠然と思いついたものである。スタジオ内でスピーカーの前後左右に音像が定着されてゆく様子を見ながら、この作業がそのまま社会関係のなかにその音の響く位置(《左》か《右》か?)を定着させる作業に繋がってゆくのではないか、と考えたのだ。実際、録音スタジオにはさまざまなスタッフが出入りし、楽曲のなかにそれぞれの価値観や戦略、世界観などを刻み込んでゆく。その楽曲はやがてスタジオの外の社会関係のなかに挿入され、そのなかで意味と価値を獲得してゆく。その響き方は、音響場の経済的、政治的、文化的な構造の制約を受け、当初スタジオで期待されたものと合致するとは限らない。このような分析枠をとることで、音楽の生産と消費や都市と文化の関係をよりダイナミックに捉えることが可能になる。短く舌足らずな連載ではあったが、音楽と場所の関係を考えるきっかけにでもなったならば幸いである。[了]
註
★一──Kusek, D. and G. Leonhard, The Future of Music: Manifesto for the Digital Music Revolution, Boston: Berklee Press, 2005.
★二──http://ugaya.com/index.html参照。
★三──ただし現在のところウェブで配信され易い音楽に固有の形式的特徴というのは同定しづらい。