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建築写真を拡張する三人の写真家 | 福屋粧子
3 Photographers' Challenge: the Extension of Architectural Photography | Fukuya Shoko
掲載『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること, 2005年04月発行) pp.140-141

あなたの利き目は右? 左? と訊かれて、迷わず即答できる人はそんなに多くないだろう。近くの物を見ながら片方ずつ目を閉じて、両眼で見ているときと同じ映像が見えれば、もちろんそちらが利き目だ。しかし、たとえ同じ映像が見えていても、片目視には、両眼視に比較してはっきりと欠落しているものがある。奥行き、すなわち、空間を認知するための手がかりである。
人間の生身の身体においては、目の前の漠然とした空間の広がりを知るために、人は、右目と左目のそれぞれの映像について、共通点と差分を検知して、ひとつの理解をつくりだす。推測だが、実際にはその二つの映像が完全にひとつの像と言えるところまで合成され、統一されてはいないだろう。少なくとも私の視界はいつもなんとなく二重だ(乱視が進んでいるだけ?)。
反対に、写真を見るときに感じるカメラの視点は、当たり前のように片目視である。いかに躍動的な写真でも、写真である限りそこに「決定的で」、「安定した」、「平板な」印象があるのは、単視点でワンショットという、写真の基本原理がある。建築が、写真というメディアにとって、最初期からの最適な被写体であったにもかかわらず、建築の主要なテーマであった「空間」について、原理的に表現が困難であったというのは、皮肉とも言える。
ここで言う「空間」を、三次元座標のみについてだけでなく、複数の映像情報を分析することによって得られる、付随するさまざまな細やかな情報の集合体として考えるほうが、建築写真の表現の可能性に近づけるだろうか。例えば、時間や季節の変化についての情報、物同士の関係性(インテリアとエクステリアなど)、光の明るさや方向などである。
通常は、いくつかの写真をセットにした組写真によって空間情報を増やすようだ。例えば建築雑誌は、掲載プロジェクトについて可能な限り写真の点数を増やすことで、なるべく詳細にその建築について伝えようとする。
これから紹介する三人の写真家の作品集は、単に量で勝負というのとは異なるアプローチで、より「空間」に近づこうとする試みである。

ルイザ・ランブリの小写真集『Luisa Lambri』★一を手に取った人のうち、何人かは、すべてのページが同じ写真だと思って困惑するだろう。ページをめくってもめくっても、右ページ・左ページに交互にほぼ同じ写真と白紙の組み合わせがある。大体これは何の写真、どこの写真なんだろう?
ランブリは、ミースやテラーニなどの近代建築やSANAAの建築の、インテリアというよりは室内の一部分を反復的に撮影する。まったく同じショットのように見える時もあれば、扉の開閉などわかりやすい動作が伴っているときもある。
『Luisa Lambri』では、各ページは微妙に異なる写真である。一日の光の変化を示しているのだろう、ページが進むにしたがって、光の透過や影の出方が微妙に変化している。しかし向かい合ったページの映り込みもあり、写真が違うのか、本を見ている自分の光環境が変わりつつあるのか、隣接する写真の変化は非常に微妙である。ページの映り込みを利用しつつ連続感のある写真を続ける手法は、ディオール・オムのデザイナーであるエディ・スリマンがカーテンのドレープで構成した写真集 Intermission 1, Charta, 2002. とも共通点がある。だがスリマンがカーテンの撮影場所を変えているのに対し、ランブリは同じ場所を同一視点で撮影していることで、より徹底して時間によって変わる空間の差異を見ている。ランブリの写真は、建物全体についての情報がないまま細部の写真のみがあるので、私的な建築写真という評価もある。だがインタヴューで「写真は固有の私的ヴィジョンと客観的な空間表象の間の均衡にたどり着こうとします」と答えているように、ランブリは、ごく限られたフレーミングの写真を積み重ねることで、ある種の永続的で抽象的な空間を撮影しようとしている。

1──Libri Scheiwiller, Luisa Lambri, Milano, 2001.

1──Libri Scheiwiller, Luisa Lambri, Milano, 2001.

ホンマタカシは、時々建築写真を撮影している。しかし、日本の現代建築やヨーロッパの近現代建築を撮影したシリーズは、雑誌掲載のみでまだまとまって刊行されたものはない。
一九九七年刊行の『Hyper Ballad-Icelandic Suburban Landscapes』(スイッチ・パブリッシング)は、アイスランド・レイキャビクの郊外の建物を撮影した写真集である。横型の写真集を開いた左右それぞれのページには、郊外の集合住宅や戸建ての住宅を取り囲む、郊外の状況がショーケースのように並んでいる。左右ページも組写真であるが、ここでは付録の地図に注目したい。写真集の中には、全一一六点の写真の撮影場所を示した、レイキャビクの略図と写真一覧が三つ折りで入っている。フィールドサーヴェイの記録というよりは、単なる略図+目印なのだが、それでも写真を見ながら街の大きさや人々の活動を考える手がかりにはなる。ホンマの建築写真を見るときに感じる「なぜここにこの建物が建ったのか?」という、建築を俯瞰的に分析する視線は、ホンマのライフワークとも言える郊外写真においても同じく「なぜここが郊外なのか?」と問いかける写真となり、さらにホンマの編集によって強化され、郊外空間の記録として継続している。

2──ホンマタカシ『Hyper Ballad-Icelandic Suburban Landscapes』

2──ホンマタカシ『Hyper Ballad-Icelandic Suburban Landscapes』

ウォルター・ニーダーマイヤーも近年数多くの建築写真を撮影している★二。
ニーダーマイヤーの場合、前二者よりも一貫した形式があり、多くの場合、写真は左右二枚組で発表される。二枚の組み合せは、風景をパンしたパノラマ写真に近いもの、同じ空間を前後反対方向から撮影したもの、同じ視点から時間をずらして撮影したもの、同じ空間で扉などの開閉を行なったものなどのヴァリエーションがある。これらの写真については、三回ゆっくりと眺めることになる。右の写真、左の写真、そして二枚を一画面として見た場合である。奇妙なことに、たとえ全体がパノラマ写真のような構成になっていても、多くの場合その三回の体験は異なる。例えば、同じ空間を前後反対方向から撮影した組では、左右のどちらにも現われている手がかりによって奥行きの情報が現われ、時間をずらした場合では、比較して動いているものを除去した、動かないもの—建築の姿が差分として現われてくる。一枚一枚の写真は強く特殊さを感じさせるものではなく、独得の白い静謐に満ちている。むしろ普通の風景写真にも見えるほど気軽なものであるのに、読み込むことで体験としての建築が立ち現われてくるという点で、建築空間についての写真の間口を広げている。

3──Walter Niedermayr, Civil Operations.

3──Walter Niedermayr, Civil Operations.

三人の写真家の空間に対する試みは、ともすれば、主観的で特殊な方法で建築を撮影しているという理解をされることも多い。だが逆に、複数の写真を使うことで、写真がもともと不得手とする空間を表現していく姿勢は、動かないもの—建築の姿を捉える非常に正統的な、瞬間的かつ持続した試みではないだろうか。


★一──本文中のルイザ・ランブリの小写真集『Luisa Lambri』は、二〇〇一年一〇月一二日—一一月一〇日までギャラリー小柳とライスギャラリーで開催された個展のために制作されたカタログである。文中のインタヴュー引用部分は倉石信乃「Ruin/
Desolation Row──廃墟と写真をめぐって」『10+1』No.23(INAX出版、二〇〇一)より。
★二──文章中のウォルター・ニーダーマイヤーの建築写真については、『X-Knowledge HOME』「ル・コルビュジエ パリ、白の時代」(エクスナレッジ、二〇〇四)、および、Domus, No.876, 2004.を参考にしている。

>福屋粧子(フクヤ・ショウコ)

1971年生
福屋粧子建築設計事務所代表、東北工業大学工学部建築学科講師。建築家。

>『10+1』 No.38

特集=建築と書物──読むこと、書くこと、つくること

>建築写真

通常は、建築物の外観・内観を水平や垂直に配慮しつつ正確に撮った写真をさす。建物以...

>倉石信乃(クライシ・シノ)

1963年 -
明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻ディジタルコンテンツ系准教授/近現代美術史・写真史。明治大学大学院理工学研究科。

>ル・コルビュジエ

1887年 - 1965年
建築家。