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だれが謳った音階理論?──小泉文夫の歌謡曲論、その後 | 増田聡
Who Sings the Theory of the Musical Scale?: Fumio Koizumi's Study of Japanese Popular Music, and the Sequel | Satoshi Masuda
掲載『10+1』 No.26 (都市集住スタディ, 2002年01月発行) pp.27-29

音楽批評に対して知的に興奮させられることは極めて少ない。他の表象文化諸分野における批評の現状と比べるとそれは明白であろう。その原因はおそらく、音楽への学的な分析アプローチの主流が未だに形式主義的美学(その最も洗練された形態としてのシェンカー理論は、アメリカではほぼ自然科学同様に受容されている)に依存していることと、消費文化のロマン主義的なエートスを背景にした「作者への欲望」の自堕落な蔓延によるものだろう。
これは批評対象の高尚さ/低俗さの別を問わない。クラシック批評もポップ批評も、演奏家やアーティストの「創造の秘密」へのロマン的な同一化を目指す印象批評でなければ、退屈な「音楽分析」でしかなく、あるいは両者の混合物である。優れた文学批評や映画批評、美術批評が行なうような、対象の実体的な措定を避けつつ、微細な意味作用のメカニズムを印象批評に陥ることなくすくい取る「危険な」(=critical)作業に、音楽批評が足を踏みいれることはめったにない。こんにちの音楽批評とは実に安全で退屈な作業である(故に音楽雑誌は、ウェブサイトでの素人批評に対抗することができず低迷することとなる)。
本連載は、そのような批評の現状を告発するものではない。むしろそのような音楽批評の「情けなさ」に意識的な読者に対して、かような情けなさが生成する要因のいくつかを素描しようと試みるものである。われわれが音楽について語るとき、「罠」とでも呼ぶべき特有の言説編制が予め作動していることに気付かれたい。その罠に屈服して「ロックは(あるいは音楽は)語れない」と白旗を掲げる前に、われわれを捉えている罠をフラットに見つめてみたく思う。
それはもちろん「音楽を語る」ことと同義ではない。音楽についての言説は既にうんざりするほどそこらじゅうにある。しかし、現在ある音楽言説を可能/不能にしている条件それ自体について語られることは少ない。スタティックな音楽分析とファンの信仰告白との間で、両者の言説を成立させているメカニズムを眺める作業こそが必要なのだ(私見では、そのことに最も意識的であったのはロラン・バルトとネルソン・グッドマンである)。
本連載の焦点はそこにある。

日本の民族音楽学の発展に多大な功績を残した故小泉文夫は、一九七七年から八一年にかけて、渡辺音楽文化フォーラム主催の歌謡曲研究シンポジウムに中核メンバーとして関わり、その席上で画期的な歌謡曲論を講じている。小泉の研究は、それまで西洋音楽の低俗な模倣と見なされ、歌詞の社会心理学的見地からの言及(見田宗介『近代日本の心情の歴史』[講談社学術文庫、一九七八]に代表されるような)ばかりが支配的であった歌謡曲に対し、音楽学の方法論を初めて本格的に適用したものだ。『歌謡曲の構造』(冬樹社、一九八四。現在は平凡社ライブラリー所収)としてまとめられたその研究は現在でも、日本のポピュラー音楽を音楽学的な見地から語る際の参照項であり続けている。
小泉は、七〇年代以降の歌謡曲に顕著に出現してきた二六抜き短音階の旋律に注目した。二六抜き短音階とは、自然的短音階の「ラシドレミファソ」の七音から、二番目と六番目の音、すなわち「シ」と「ファ」を除いて構成される「ラドレミソ」の五音音階である★一。二六抜き短音階は、音の並びとしては民謡のテトラコルドを二つ積み上げた民謡音階と等しい。すなわち、「ラ」と「レ」の四度枠に対して「ド」が民謡のテトラコルドを形成し、「ミ」と「ラ」の四度枠に対して「ソ」が民謡のテトラコルドを形成する。故に二六抜き短音階とは、日本的な民謡音階を西洋的な七音音階の側から見た別称といえよう。
近代日本の学校音楽を特徴づける四七抜き長・短音階が支配的であった従来の歌謡曲に対して、日本古来の、しかもわらべうたや民謡のような民衆的な音階構造が、資本主義社会の大衆文化たる歌謡曲に復活してきていることは、小泉にとって驚くべき事実であり、かつ望ましいことであった。なぜなら、四七抜き音階の支配を押しのけて復活した二六抜き短音階は、日本の古層の音感覚の根強さを証するものと小泉は考えたからである。
四七抜き長・短音階とは、「二六抜き短音階」と同様に、長音階「ドレミファソラシド」あるいは自然的短音階「ラシドレミファソラ」から、それぞれ四番目と七番目の音を抜いた「ドレミソラ」「ラシドミファ」の音階である。これは明治期の唱歌教育の成立過程において、西洋的な七音音階を日本の音感覚と折衷するべく、音楽取調掛(現在の東京芸術大学音楽学部)を設立した伊澤修二らによって導入されたものであり、学校唱歌の多くはこの音階によって構成されている。この音階は機能和声に欠かせない導音(長音階の「シ」、短音階の「ソ#」)を持たず、またテトラコルドを構成する四度(長音階の「ファ」、短音階の「レ」)も持っていないため、理論的に劣った音階として多くの音楽学者から批判を受けてきた。がしかし、学校音楽教育の積み重ねにより、この「劣った」音階が日本人にとって自然化された音階となってきたことは、小泉も後述する佐藤良明も不本意ながら認めている。例えば演歌の多くは四七抜き音階で構成されている(所謂「古賀メロディー」など)。
学校音楽を支配する四七抜き音階の蔓延を小泉は嫌悪し、理論的に、さらには倫理的に批判せんとしたが、その反動で二六抜き短音階=民謡音階=日本の伝統的音階との等式を意図的に過大に喧伝したことも指摘しておくべきであろう。両者を対立させ、後者を称揚する意図が、小泉による二六抜き短音階歌謡曲賛美の背景に存在した。

突然の死もあってか小泉の歌謡曲論は長く神格化され、本格的な再検討が始まったのは二〇年も後のことである。佐藤良明『J─POP進化論』(平凡社新書、一九九九)にとってみればむしろ、七〇年代歌謡曲に出現した二六抜き短音階と四七抜き長音階は対立させられるべき敵同士なのではなく、ロックの影響下で世界的な広まりを見せた「マイナー・ペンタトニック」と「メジャー・ペンタトニック」の二つの相補的音階に過ぎない。
佐藤は学生時代、小泉の歌謡曲論の講義を受講しており、自らの主張を「ロックを聴いて育った学生による、小泉文夫先生への異論を交えたレポート」としている。自らの経験できない「日本音楽の古層」に現象の起源を求めるのではなく、同時代の表象相互のダイナミクスのなかに聞き取った意味を呈示すること。小泉になく佐藤にあるのはそのような姿勢である。誤解を恐れずにいえば、現象学的な論理と呼ぶこともできよう★二。佐藤においては四七抜き長音階の「理論的欠陥」は、ロック・ミュージックという別種の音楽的背景のなかでの「機能」として捉えられる。考えてみれば、両者の構成音は等しいのだから(「ラドレミソ」と「ドレミソラ」)。
だがしかし、小泉と佐藤の理論的対峙は、アカデミズム外部の視線にさらされることによって、いずれも音楽をめぐる生活世界からの決定的な乖離をはらんでいたことが明らかになる。佐藤良明はテレビ朝日「ニュースステーション」(一九九九年七月五日)に出演し、宇多田ヒカルのヒット曲と民謡を並べて提示し、その「理論的類似性」を強調したが、久米宏以下のレギュラーのキャスター陣は半信半疑の反応であった。同意を得られぬ佐藤は「東大では頭の良い学生ほど納得してくれる」と漏らし、馬脚を顕す。
自らの経験できぬ「音感覚の古層」に依拠することを否認し、音楽理論を自らの耳の経験によって検証する倫理を示すことによって小泉の主張へのオルタナティヴを呈示した佐藤は、あえなくも自らが無批判に「理論的聴取」に優先権を与えていたことに裏切られたのだ。それは、小泉と佐藤が共に依拠する、音階論という方法それ自体に起因する陥穽である。小泉が二六抜き短音階(民謡音階)復活の代表的な例として随所で言及する、キャンディーズ「春一番」(一九七六)について検討してみよう。彼は次のように言う。

非常にモダンでカッコのいいものの中に、奈良時代や平安時代から、ちっとも変わっていない要素があるのだということですね。そこで『ペッパー警部』とか『春一番』をご紹介しました。(…中略…)こういうの[引用者注:「春一番」]は二六抜き短音階というんです。今の音でいいますと、使っているのはラララソミミ、ソソソミレド、レレレレレドソラとなってますね。だから結局、下からいえばラ・ド・レ・ミ・ソという音階です。(…中略…)ラが主音になりますと、下の方からいうとラドレ、ミソラという音階になります。ラドレ、ミソラという音階は、実は♪あんたがたどこさ…というのと同じ音階でして、あるいは『江差追分』だとか、有名な日本の民謡の大部分がその音階で出来ています。わらべうたもほとんどが、その音階でできている。
小泉『歌謡曲の構造』、八八─八九頁


実際のレコードを聴いてみると分かるのだが、小泉のこのソルフェージュは明らかに誤っている。「春一番」のAメロ末尾、彼が「レレレレレドソラ」と歌っている部分は、実際には、この曲のサビの旋律型に引きずられる形で「レレレレレシソラ」と歌われているのだ。小泉はこの曲の楽譜も同時に提示しているが[図1]、この楽譜には確かに最後から三番目の音が「ド」と記譜されている。これがレコードから書き起こされた記述譜の誤りなのか、あるいは予め存在する規範譜をキャンディーズが「崩して」歌っているのかは判然としない。しかし明らかなのは、小泉が鳴り響く音楽(レコード)に基づくのではなく、それを記した楽譜を規範的楽譜とみなし、分析の基盤となるプライマリー・テクスト(R. Middleton)として扱っている事実である。それは多くの音楽分析家が知らず知らずのうちに陥りがちな、規範譜中心主義の陥穽なのだ★三。

音楽学的な方法を用いる分析者(彼らはしばしば、一般の聴取者と区別されて「音楽の専門家」と見なされる)は、規範譜に外延指示される解釈=認識単位、メロディー・リズム・ハーモニーに基づいて音楽を分節し「音楽分析」と称するが、現実の音楽の生産・受容構造のなかではそれらは抽象的な概念枠でしかない。実際には、メロディー・リズム・ハーモニーという音楽の「普遍的な」分析枠組みが持つ意味論的効力は、生産・受容者が置かれた場において作動させる、社会的な意味生産のコードに依存しているのにもかかわらず、分析的な批評言説においては相変わらずヘゲモニックな威力をふるっている。もちろんそれは「表層の感覚に対して覆い隠されている『本質』を、内在的に分析することによって暴く」という退屈な身振りの反復に過ぎない★四。
渡辺真理は、宇多田ヒカルと民謡を並べて聴かせ「似てるでしょ?」と迫る佐藤に「なんか洗脳されてるような気がする」と応えたが、その反応は、規範譜中心主義的な抽象図式に還元され分析された音楽の同一性と差異の論理構造が、現実の聴取の場においては全く別の論理に従属していることを雄弁に示していたのではないか。「音楽の非─専門家」は譜面を読めず、階名が思い浮かばないにも拘わらず宇多田ヒカルの音楽を楽しみ、かつ民謡とは「明らかに異なる」と判断する。これは専門家によって「誤り」として断罪されるべきものではなく、解明されるべき現実の聴取なのだ。分析と批評がめざすべきは、このような聴取も含めた、創作─実践─聴取が絡まり合う音楽現象全体の布置であろう。
小泉や佐藤ですら免れなかった「音楽の専門家が一般の聴衆に対して、深層に隠された『真理』を呈示する」という規範的な言説編制は、「人々の聴いていない音楽」を知らずして構築し、それを実体と見なしてしまう罠である。音楽批評が行なうべきことはその深層に沈潜することではなく、表層にありながら言及されることのない、その罠を指し示す作業である。

1──キャンディーズ「春一番」 出典=小泉文夫『歌謡曲の構造』

1──キャンディーズ「春一番」
出典=小泉文夫『歌謡曲の構造』



★一──小泉の音階理論では、四度の音程を成す二音+その中間にある一音のセットが「テトラコルド」と呼ばれ、中間音の位置によって四つのテトラコルドが区別される。中間音がテトラコルド下端の音に対し、短二度(半音差)の関係にあるテトラコルドが「都節のテトラコルド」、長二度(全音差)が「律のテトラコルド」、短三度(一全音半差)が「民謡のテトラコルド」、長三度(二全音差)が「琉球のテトラコルド」となる。これらのテトラコルドを二つ積み上げるとオクターヴが形成され(四度枠の音を二つのテトラコルドが共有するか否かで「コンジャンクト」「ディスジャンクト」が区別されるが、それについては割愛する)、五音からなる伝統的音階が形成されることとなる。詳細については、小泉文夫『歌謡曲の構造』『日本の音』(ともに平凡社ライブラリー)を参照。
★二──もちろん、賢明な小泉は後にこのことに気づくこととなる。「演歌ファン」宣言を行ない、ファンの立場=現象学的観点から演歌をとりあげ、ジャンルの社会依存性やサウンドの重要性を強調した講演を行なったのはしかし、若すぎる死の二年前のことであった。
★三──七八年に行なわれた、二回目の渡辺音楽文化フォーラムシンポジウム席上では、「音階分類でみる戦後のヒットソング小史」と題された小泉と岡田真紀による詳細な分析リストが配布された。このなかで小泉はボビー・ヘブの「サニー」を、四七抜き長音階のカテゴリに当初分類していたが、休憩時間に作曲家の宮川泰に「歌ってもらって」、初めて二六抜き短音階であったことに気づく(両音階は構成音が等しい)。この表を作成した岡田真紀は、これらの分析曲を実際に聞くことなく、譜面上でのみ分析を行なっていたことを認めている。このシンポジウムの記録は小泉文夫他『音楽化社会』(講談社、一九七九)にまとめられている。一八三頁参照。
★四──五線譜ではなく、音響学的な分析が「本質」を明らかにすると考えるのもまた謬見に過ぎない。音響学が捉える音楽の姿は、あくまでも音響学的「聴取」による構築物に過ぎず、ある特定の音楽現象を指示する多数の記号系のうちのひとつである点では、五線譜に表象された音楽と何ら変わるところがない。

>増田聡(マスダ サトシ)

1971年生
大阪市立大学文学研究科。大阪市立大学大学院文学研究科准教授/メディア論・音楽学。

>『10+1』 No.26

特集=都市集住スタディ

>渡辺真理(ワタナベマコト)

建築科、法政大学デザイン工学部建築学科教授。設計組織ADH代表。