RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.48>ARTICLE

>
複数のマテリアル/複数のアーキテクト | 神成淳司+柄沢祐輔 聞き手
Multi Material / Multi Architect | Atsushi Shinjo, Yuusuke Karasawa
掲載『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) pp.126-135

四つの計算不可能性

柄沢祐輔──今回の特集を企画するにあたり、アルゴリズムという言葉を「決定ルールの時系列をともなった連なり」として広義に捉え返し、建築や都市を構成するさまざまな具体的な方法論としての見方が提示できるのではないかという仮説を立てました。
まず、主に最近の社会学の世界で「環境管理型アーキテクチャ」という問題設定がローレンス・レッシグの「コード」の議論を敷衍して出されています。社会的な環境が人間の主体を離れ、環境管理型権力として、いわばアーキテクチャ型権力が自動的に作動したような状態に社会のシステムが大幅に変更されようとしている。その最大の原因が、社会のコンピューティング化であろうと議論されています。そこでの社会のあり方が現在さまざまな分野で議論され始めています。例えば神成さんが今年上梓された『計算不可能性を設計する──ITアーキテクトの未来への挑戦』(ウェイツ)で対談されている宮台真司さんはこれを、一部のエリートとそれ以外の大衆の「二層化構造」と言い、東浩紀さんには「データベースとシミュラークル」などの言葉を用いて、環境管理型社会のなかで社会が二層化されていく状況を指摘しています。そのような状況に対して、今日では建築家が有意義なかたちで社会に関与する方法論として、アルゴリズム的思考があるのではないかという問題提起をしたいと思っているわけです。
神成淳司──柄沢さんの問題提起に直接のお答えとはならないかもしれませんが、宮台真司さんとの共著のタイトルにある「計算不可能性」について言及したいと思います。
まず、最初に申し上げておきたい点は、「計算不可能性」とは、学術的に定義された単語だということです。この定義された単語としての「計算不可能性」は、 M・デーヴィスの『計算の理論』(渡辺茂+赤攝也訳、岩波書店、一九六六)、ゲーデルの不完全性定理等、あるいはチューリングマシンの停止問題等で言及されている計算理論分野における著名なテーマです。チューリングマシンの停止問題について説明することがわかりやすいと思います。「コンピュータプログラミングが任意の初期状態を与えられたとき、そのプログラミングが正常に処理を終了(停止)するのかどうかを確認するコンピュータプログラミングは構築出来るのか?」というもので、結論としては、「この問いを満たすユニバーサルな確認プログラミングは構築できない」ということが理論的に証明されています。すなわち、この終了判定は、アルゴリズムとして数式化出来ない事になる。この数式化出来ないものが、学術的に定義された「計算不可能性」です。ここでは、この定義された「計算不可能性」を、「第一の計算不可能性」と呼ぶことにします。この、「第一の計算不可能性」への対処は、あくまで可能性の議論に留めたとしても、自著のなかで触れたように、量子コンピュータ等の次世代コンピュータアーキテクチャに頼らざるを得ない話であり、今後の議論では割愛します。
最近のコンピュータサイエンス分野の書籍の多くは、この「第一の計算不可能性」に加え、第二、第三の計算不可能性を提示しています。「第二の計算不可能性」とは、莫大な時間や量力をかければ計算を終えることが出来るが、時間あるいは費用的な問題で全ての計算を実施していないものです。「第三の計算不可能性」とは、有限ではあるが、無限に等しいほどの計算対象があり、実際に計算を終えられないものです。「第二の計算不可能性」は、コンピュータの処理能力の向上、いわゆる「ムーアの法則」により改善が期待されるものです。「第三の計算不可能性」は、AI研究におけるニューラルネットワークや遺伝的アルゴリズム等のようなアルゴリズムによる対処がなされています。莫大な計算処理対象があるインターネット上の情報を検索するGoogleは、「第三の計算不可能性」に対するアプローチです。第二、第三の計算不可能性の違いとは、コンピュテーションのアプローチが、ボトムアップなのか、トップダウンなのかという違いです。ボトムアップ、すなわち、必要とされる要素を細分化し積み上げていく「第二の計算不可能性」に対し、「第三の計算不可能性」は、無限に等しいほどの対象をどのように把握するかという全体から対象を把握するトップダウン的なアプローチです。
最近の私自身の興味は、これら三つの計算不可能性に加え、「さらなる計算不可能性」が存在し、それが今後の社会システムのコンピュテーション化において重要な役割を担うのではないかと言うことです。ここでは、それを仮に「第四の計算不可能性」と呼びます。コンピュータが情報を取り扱う際、情報を細分化し、機能を分類することが「計算」です。「第四の計算不可能性」とは、このような情報の細分化、機能分類といった手法では、現実社会における情報を取り扱うには不十分ではないかという問題意識に端を発しています。同じ事を、郡司ペギオ──幸夫さんが昨年書かれた、『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)のなかで、細分化や機能分類等のアプローチでは到達できない生命や物質の本質として、「マテリアル」という概念を提示しています。例えば、「『神成』という人間とは、どのような人ですか?」と聞かれた際、「神成」を構成する物質的な要素を並べたり、身長や体重といった身体的特質を並べたりといった事が適切な答えでしょうか。そのような答えよりも、「『神成』は、○○のような人です」といった発言がより適切な答えだと思います。同じように、われわれは、従来、何らかのシステムを設計する際、必要とされる機能を洗い出し、それらを組み合わせて要求を満たすという積み上げ型のボトムアップアプローチを用いてきました。ところが、社会が求めるのは、機能の組み合わせではなく、「○○のようなシステム」なわけです。この、全体としてのある種の特質を、郡司さんは上述した書籍の中で「マテリアル」と呼んでいます。この「マテリアル」に関する要素は、従来の計算機科学の方法論に存在していない。機能細分化等ができないわけですから計算不可能な対象です。「第四の計算不可能性」とは、すなわち、この計算不可能な「マテリアル」を、システム設計の本質として捉えるというものです。

神成淳司氏

神成淳司氏

高まる第四の計算不可能性への要求

神成──先ほども申し上げたように、「第二の計算不可能性」とは、コンピュテーションにおける費用・時間的な制約への対応であり、これが、伝統的に今の社会が取り組んできた、社会システムのコンピュテーション化なのです。具体的には、「コンピュータの計算能力の向上に伴い、着実に社会システムの選択性や機能性を増大させていく」というのが当初からの趣旨ですが、自著で申し上げましたように、現状の取り組みの多くは、選択性や機能性を増大させるのではなく、むしろ減少させる方向が顕著であるように感じられます。現状では、多くのITベンダーは、このような誤った方向の取り組みを社会システムのコンピューティング化と誤解しています。これに対し、先ほど申し上げたように、現代社会で人間が最も身近にふれている「第三の計算不可能性」とは、Googleです。Googleは、インターネット上に存在する莫大な情報量を特定のアルゴリズムで分類し、利用者に提示します。Googleが提示する情報が正確かと言えば、それはわかりません。常に変動するインターネット上の情報を、Googleはあくまで便宜的に切り出しているに過ぎない。検索結果は、Google自身が独自に構築したアルゴリズムに依存しています。「Google八分」なんて言葉が生まれるように、Googleの恣意によって、検索結果から特定の情報を除外するという事が可能なわけです。Googleのインパクトとは、「情報の正確さ」ではなく、「莫大な情報量の中から必要な情報を切り出す過程として、キーワードを辿っていく」というボトムアップ型から、「特定のキーワードに基づき、情報を切り出す」というトップダウン型へと、情報のアクセス方式が変化したということなのです。さらに、Googleによるトップダウン型の情報アクセス方式のもう一つの特徴は、結果が即座に得られると言うことです。特定のキーワードで検索して適切な情報が得られなければ、別のキーワードを用いて再検索すればよいのです。言い方を変えれば、「○○のような情報が欲しい」と思ったとき、○○をGoogleで検索すれば、それなりの結果が帰ってくる。このようなトップダウン型の情報へのアクセスを繰り返すことで、人々の意識は、次第に「○○のようなものが欲しい」という形式で情報システムに要求を出すようになった。すなわち、「第四の計算不可能性」への要求が社会に生まれてきたのだと思います。
郡司さんが指摘するように、解析的なアプローチでは、総体としての対象の特質が判断できない場合がある。それに対処するためには、彼の言葉を借りれば、「それぞれの事物を具体的に見ていく」事が必要とされます。社会にはこういう機能が必要だから、こういうシステムを積み上げるというのではなくて、今後の社会像をきちんと認識し、その認識に基づきシステム設計をやり直さなければいけないのです。
現在の環境管理型社会とは、「第二の計算不可能性」の延長上にあるものです。そうではなく、「第四の計算不可能性」に準拠した社会システムの提案が、われわれアーキテクトの役割です。それが、社会に新しい刺激を生み出し、現在の停滞状況を打破するのだと思います。Googleを使っていると、思いがけない発見をする事がありますよね? トップダウン型のアプローチには、利用者自身が想定してない発見や感動が生じる可能性があります。これが社会に刺激を生み出していくのではないでしょうか。この、発見や感動を生み出すためにどのようにITを活用するのかを考えるのが、社会システムのコンピュテーション化において求められるアーキテクトなのだと思います。
例えば、製造業の設計現場では三次元CADが不可欠であり、利用するのが当たり前となっています。ところが、三次元CADの採用が、設計者の創造性を低減させたと主張する熟練技術者がいます。今の三次元CADは、機能的には充分なのだが、創造性を発揮するための道具ではない。平均的な技術者を育成するための道具としては適しているが、それでは、日本の製造業の国際競争力がなくなるというのです。この状況を打破するためには、二次元の図面で設計した際に、どのような部分が創造性に貢献しているかに関する議論を技術者と重ね、その議論に基づいた、「創造性の向上」を核としたCADシステムの構築が必要です。実際に具体的な議論も進めております。現段階で申し上げられる事としては、CAD上での三次元形状のリアリティを追求する事が創造性の向上には繋がらないという点があります。
製造業に留まらず、従来の日本社会には、経験の積み重ねが、「マテリアル」的なもの、総体としての価値をトップダウンに捉えるという傾向があるのではないでしょうか。例えば宮大工にしても、具体的に個々の作業や行為を分析し言語化するといった事は、伝統的に全くされていませんよね。長年の経験の積み重ねで、総体としての何かを掴むわけです。それが日本の古来の芸術であり、技術であり、文化だと思います。私は数年前に表千家に弟子入りし、茶道を始めました。茶道には、もちろん作法があり手順があります。それらは覚えなければなりませんが、茶道の目的とは、決まった作法や手順で茶を点てるのではなく、客と主人が一体となった「場」作りだと思います。その「場」も、ある種の「マテリアル」です。客が異なれば、異なる「マテリアル」が求められるでしょう。個々の状況に即した「マテリアル」を見出していくのだと思います。この「マテリアル」の追求が、日本の社会システムが本来持っていた強みなのではないでしょうか。
この、「マテリアル」が、現在の社会システムのコンピュテーション化プロセスにおいて全く考慮されていません。さまざまな企業や公共団体が、システム導入を考える際、RFP(Request For Proposal)と呼ばれる仕様書をITベンダーに提示します。ITベンダーは、RFPに基づき自社提案をあげるわけですが、RFPにしても提案にしても、単なる機能の羅列になってしまっている事が多いです。RFPに関しては、自社戦略のような「マテリアル」部分に関する話が含まれている場合もあるのですが、提案内容に関しては、非常に細かな機能が羅列されている場合がほとんどです。提案内容を作成するSEは、このような機能の羅列が、よりよい提案だと思っているのでしょう。実際には、そのような機能を積み上げれば積み上げるほど、「そのシステムにより、組織全体がどのように変わるのか」といった事がわかりにくくなっているのですが、それにSE自身が気づいていないのです。結果として、確かに機能的には優れているけれども、組織そのものの強みを高めるようにならない状況になってしまう。今の社会が疲弊し、管理型社会に向かっているのは、このような事が繰り返された帰結なのです。そしてその状況が改善されないのは、こういったことに気づいたアーキテクトの数があまりにも少なく、更に気づいたとしても、この状況を実際に改める場が少ないためなのだと思います。

マテリアルとしての人工知能

柄沢──今の話を私なりに理解しますと、「第一の計算不可能性」というものは、情報理論に代弁される計算不可能性であり、それは停止問題やフレーム問題など、昔から議論されていて、コンピュテーションの原理的限界性として語られているものかと思います。
神成──はい。基本的にその解釈で結構だと思いますが、フレーム問題については「第四の計算不可能性」によって対応できるものもあると思います。
柄沢──まさにその「第四の計算不可能性」における、フレーム問題を解決できるのかという問いについてですが、それは宮台さんとの対談のなかでも出てきた、コンピュテーションが進化して人工知能が成立した場合に人間と人間の境がなくなるといった、非常に倫理的な問題系に直結するような話だと思います。一九九〇年代前半までに人工知能の問題は完全に限界に達して、人間がどうやって無限の情報の中から有意味な情報を選択しているかはわからない、というフレーム問題が出てしまったことで、第四世代のコンピュータの限界が定義され、人工知能についての見解が一見して少なくなったのだと思います。しかし、またそこでニューラル・コンピューティングによるイノヴェーションによってフレーム問題を人間が内在させ、Googleや巨大な計算システムを利用することによって近似的な人工知能ができるのではないかという可能性が見え始めている状態です。そのような人工知能がどのようなかたちで成立可能になるかということは、今後のコンピューティング化していく社会のなかで非常に大きなファクターになる気がします。
神成──実際に、一九八〇年代後半には、伝統的な人工知能研究が破綻したと私自身は捉えています。九〇年代の同時期に人工生命研究もありました。人工生命研究は、「As it could be」という言葉に代表されるように、生命の物質的な側面を切り離し、アルゴリズムの、可能性としての生命に対象を絞った研究分野であり、メタファーとしての生命現象に触発されたさまざまなアルゴリズムや手法が生み出されました。その中には、確かに、近似的な人工知能に近いと捉えることが可能なものも存在するかもしれない。ただ、それらは、私自身からすると、やはり、近似に過ぎないわけで、従来のコンピュテーションの枠組みの中の存在です。何らかの外的刺激に対してアクションするプログラムをどれだけ高度化してあたかも知的な振る舞いを供出できたとしても、それは、従来の延長でしかないと思います。この、従来の延長としてのコンピュテーションでは、やはり、限界があると思います。先ほどから申し上げている「第四の計算不可能性」における「マテリアル」は、あくまで既存のコンピュテーション上でのブレイクスルーなのですが、擬似的な知的な振る舞いよりも遙かに多くの可能性を持つと思います。例えば、DNAコンピュータは、計算処理能力の飛躍的な向上が期待されるものですが、これが実現されれば、擬似的な人工知能というものは、ある程度実現されるでしょう。それはある意味、仮想的な知と言えるかもしれない。ですが、そこには「マテリアル」は存在しません。計算の積み上げをいくら高度化されても、総体としての知を実現することは難しいのではないでしょうか。
柄沢──「第四の計算不可能性」が実際にコンピューティングによって自走するためには、新しい論理系やさまざまな演算方法などを増やさないといけないと思います。その部分では、いわば量子コンピュータと同レヴェルの問いではないかと思います。
神成──そんなことはありません。「第四の計算不可能性」は、量子コンピュ ータよりは遙かに実現が容易なもので、今の人間が持つ可能性の範囲内だと考えています。実際に、「第四の計算不可能性」をわれわれが具現化しなければ、現在の社会システムはますます停滞します。「第四の計算不可能性」とは、全く新しい存在を追求するものではありません。それは、自分たちの身の回りにありふれているけれども、その価値を再発見できるような、設計なのかもしれない。言い換えると、従来の常識からすると、知識のフレ ームの外側にある概念を、人間の思考によってアルゴリズムの概念に落としていくことなのかもしれません。それは可能だと思っています。それこそが社会システムのアーキテクトの役割であり、価値であると思っています。それが不可能だというのであれば、そんなアーキテクトは必要ありません。
柄沢──郡司さんの「マテリアル」という概念はいわば観念と実在の中間項であって、観念として捉えると見えなくなってしまう実在や、実在として捉えるとわからなくなってしまう観念の両者を包含する概念ですね。
神成──その二つは二律背反ではなく同時に結びつくものですよね。
柄沢──そうです。同時に存在可能な問題系もしくは概念構成だと思います。それは、情報理論とどう結びついているかという点で私自身も非常に興味深い話です。それを実際にコンピュータが実装するためには、メタファとしての先ほどの第三項的な概念を用いて個別の解を出す方向を目指されているのではないかと思うんですね。
神成──最初の段階はそうだと思っています。社会システムも建築も必ずしもひとつの解をもたないので、それぞれのセンスに基づいた個別解を出していく必要があると思っています。そのなかで、ある程度自分なりのスタンダードが生まれ、さらにそのスタンダードを超えるものが生まれてこないといけない。

全体性と土着性の回復

柄沢──そもそも社会状況として成立している徹底的な全体性の不透明さ、見通しの悪さに対して、個別のアーキテクトが介在しようとした場合、非常に限定された問題系における問題解決に留まってしまうというパラドクスが生じてしまいます。建築の議論でも同様で、社会が今よりも全体性を獲得できた近代初期においては、建築家はそれこそ国家像のヴィジョンまで提示する存在でした。それが近代後期から今の環境管理型と言われる状況に至る過程で、その全体性は建築家から徐々に剥奪されていき、次第に建築家は表層の装飾を行なう職能にすぎないという議論まで出てきています。つまり全体性から排除されてしまったような状況が少なくとも建築家には存在しています。神成さんと宮台さんの対談のなかでも、社会がIT化しているからこそ、ある種の社会的な全体性がITの立場から獲得されるのではないかという可能性を見出していますが、そのような個別な実践の総体によって、トータルなソーシャル・デザイナーやアーキテクト像は構築可能だと思われますか。
神成──私自身の今現在の取り組みは、個別の実践の積み重ねであると共に、総体としてのアーキテクトとしての経験を培う場であると思っています。建築は、郡司さんの言う抽象的な「マテリアル」ではなくて、文字通りの「素材」、「物質」の制約や限界に大きく囚われています。それに対し、ITは、ほとんど囚われてはいない。その意味において、建築よりも全体性に関して及ぼす可能性は広く、具体的な取り組みにもまだまだ時間をかける事が出来るのではないでしょうか。
では、具体的にどう取り組むべきなのか。今の日本では、社会の全体性を決定づけるようなトップダウンの「マテリアル」の供出は、国レヴェルで実施することが非常に難しい状況です。間接民主制では社会システムのドラスティックな変化を起こすことは難しい。それに対し、都道府県や市町村の首長は直接民主制で選ばれ、圧倒的な権力を保持している。首長がある程度の決断をすれば、地域のドラスティックな改変はおそらく可能でしょう。今後の日本社会を考えたとき、特定の地域が大きな社会変革を実現する可能性は、日本全体が変わるよりも遙かに大きいと思っています。そして、その可能性は、道州制においてもっともっと高まるでしょう。それに私自身は期待している。ただし、そのためにも、首長が納得してドラスティックな取り組みを実施するような「第四の計算不可能性」の結果を提示しなければいけない。それも、提示されるものは、個々人や特定の企業だけに影響を与えるものでは意味がない。柄沢さんが指摘するような社会の全体性に関わるアーキテクトとしての成果として提示するものでなければいけないのです。それをどのように実現できるのかが、私自身の一つの課題でもあります。
柄沢──社会史的な文脈からみますと、単一の国家的な枠組みは解体していかざるをえず、いわばリバタリアニズム的な状況は今後進展していくと思います。そうなると地方公共団体などの小さな公共性やNPOやグローバル多国籍企業などによる民間の共同体がある一定の自律性を発揮していくような状況に進まざるをえない。同時に下部では、神成さんのようなアーキテクトが設計したインフラストラクチャーが作動しているという二層構造が社会構図として提起されるでしょう。そうした時、アーキテクトや建築家が、作品やインフラに対してある一定の支配力を持つ共同体、もしくは個人とコネクトして社会全体を改変する方向性はあると思うんですね。それはもう国家的な主体ではないのかもしれません。端的な例としてはグローバル多国籍企業などに対してさまざまな提案をしていくしかないのでしょうか。
神成──私は、今後ますます土着性というものを意識しなければならないと考えています。多国籍企業との新しい関係性の萌芽はあるのかもしれませんが、道州制レヴェル以下になればなるほど、地域の土着性との連携のあり方を探らなければいけない。そこを無視したアーキテクトは、日本の強みというものを発揮できないのではないでしょうか。ですから、私自身の意識として、今後、多国籍企業との連携という可能性は排除されるでしょう。
インターネットなどによって情報が溢れ、「第三の計算不可能性」の設計が増えてきたなかで、「第四の計算不可能性」の存在に気づく人の増加を期待しています。「第四の計算不可能性」をメタファであれ実感して言い出す人間の存在が、アーキテクトを刺激する存在になります。この段階では一般の人間そのものが進化するでしょうから、人間のほうがコンピュータよりも進んでしまい、コンピュータに拘泥するアーキテクトが「アホ」と言われる状況が出てくるのではないでしょうか。私自身がそうなるのではないかと焦っています。社会システムの中で、アーキテクトではない人のほうが先に計算不可能性を感じてきている。だからこそ、一次的現実に飽きを覚えて二次的現実に没頭する状況が生じているわけです。セカンドライフを含む二次的現実が一時的現実を超えるものを提示していくことができない現在の状況は、既にアーキテクトがアーキテクトではない人間に負けている状況を示唆します。アーキテクトはもっと努力をして、一般の人間が魅力を感じ夢を抱くようなアーキテクチャを継続的に提示していかなければならない。エリート層対非エリート層という上下関係ではもはやないわけです。構築者側と利用者側の関係のせめぎ合いを不断に繰り返していく。そのことが、ITを、全体性から排出させない事につながるのです。

二律背反に対する感受性

柄沢──コンピューティングが浸透した社会において、人間の認知がどう変わるかという問いに対するひとつの答えをお聞きしましたが、もし「第三の計算不可能性」が今後のコンピューティングによって増大した場合、さらに「第四の計算不可能性」に対しての感受性を広げることができるのではないでしょうか。
神成──おそらく「第二の計算不可能性」と「第三の計算不可能性」の大きな差は、前者が「主体としての人間が自分自身を相対視できない」のに対し、後者はその視座を持つようになったことにあります。第二から第三に進むことで、はじめて人間が自分自身を相対的に捉える可能性を見出すと考えています。そのとき「第四の計算不可能性」に内在するような、二律背反を埋めるものに対する気づきが増える。そこが、感受性を広げることにつながるのだと思っています。当然、そこに気づかない人もいると思いますが、「第三の計算不可能性」へのシフトが、「第四の計算不可能性」に対しての感受性の広がりへの誘い水となります。
柄沢──一方で、「第三の計算不可能性」が増大していくような情報増殖の状態において、人間には認知限界が存在しますが、逆に情報を増やしてしまうことで感受性を閉ざしてしまう人間のメカニズムも存在すると思うんですね。その部分が敏感に働くことによって、SNSなどの情報空間のコミュニティが生まれています。情報が増えるほど、逆に人は「第四の計算不可能性」へとそのまま感受性をひろげる方向にダイレクトに進んでいくと捉えてもよろしいのでしょうか。
神成──計算量の莫大な増加に対して人間が感受性を閉ざしてしまうという議論は、おそらく「第二の計算不可能性」の段階において提示された議論だと思います。「第三の計算不可能性」においては、莫大な計算量への対応がボトムアップ型のアプローチでは取り組まれない。それゆえ、おっしゃっているような懸念は生じないと思います。もうひとつ、携帯電話が広まったことで、個々人は電話番号を覚えなくなった。携帯電話というデヴァイスが、その人の情報環境を拡充しています。ソーシャルネットに関しても同様に、主体となる人間の情報環境が拡充され、ある種の外部記憶として働いているのではないかと捉えています。ある種の共有される外部記憶です。オートポイエーシス的な捉え方になるのかもしれませんが、この外部記憶も含めて主体である人間の情報空間が拡充されたと捉えるのならば、まさに「第四の計算不可能性」へと進むにつれ、人間の感受性は広がっていくのかもしれません。ですので、感受性を閉ざす方向へのシフトを、私自身はそれほど懸念していません。
私自身、実際に「第四の計算不可能性」のシステム設計をしていると、人間は一度落ち着いたものから変化する事を望まないという傾向が強いと感じています。どういう事かと言えば、その人間自身の情報空間がまさに「第四の計算不可能性」的に拡充されているのに対し、何か新たな具体的な取り組みが必要になると、メタファーとしてわかりやすい方法論や、既に自分が関係している「第二の計算不可能性」的な取り組み方に回帰してしまう。この逆転的な状況には自分自身が気づいていないのです。だからこそアーキテクトが必要となる。この回帰状況を改め、「第四の計算不可能性」へと向かわせることがアーキテクトの役割です。
柄沢──ここでの問題提起は、人間像というもの自体が変わろうとしていることについてだと思います。アーカイヴ化していく主体や身体は、いわば他者との境界自体がネットワーク化して、データベース化してゆくことにより、いわゆる個別の身体と時間性に囚われるアリストテレス的な人間像とは違うものになってきている。人間の主体の定義自体が再編を迫られている状況が指摘できると思います。
神成──そうですね。ただ、今の変化は人間全史のなかではまだまだ小さいものです。もちろん捉え方によってはそういった指摘もできると思いますが、人間の環境に対する許容度や冗長性から考えると、まだ許容度や冗長性の幅の中で揺らいでいるに過ぎません。
一方、私は、柄沢さんのように、「第四の計算不可能性」と人間性といった観点から鋭い問題提起をされるような方と議論する機会があまりない。どちらかと言えば、製造現場のオヤジと「うちのコンピュータをどうするんだ」というような議論をしている。その中で、今のような話を考えているわけです。ですから、非常に具体的な経験に基づき、「第四の計算不可能性」の具現化に取り組んでいます。抽象的な用語や哲学的な用語を一切使わずに経験を積み重ね具現化することが、アーキテクトとして非常に重要な要素だと思っています。そのなかで最適なものを具現化するためには、例えば、現場で働く人間自身が盲目的に「第四の計算不可能性」に踏み込んでいるのであれば、彼ら自身が気づいていない「マテリアル」を発見する必要がある。それをしないかぎり、社会システムにおける「第四の計算不可能性」の設計などできません。ところが現実には、理論だけ、あるいは実践だけというように二分されてしまう。特に日本のITベンダーと議論をすることをそのことを痛切に感じます。今日の議論の中で柄沢さんのお話を伺っていると、建築家は理論を中核にしながらどのように実践するかといった視点で社会システムに取り組まれていることを感じます。残念ながらIT分野ではこれらが切り分けられている。「第四の計算不可能性」へのアプローチが不足している。だから、できあがるシステムにしても、現実社会との乖離が甚だしいのです。
柄沢──やはり個別の実践と大きな観念の提示がともに存在するような状況が切望されます。確かに人は、多様な感受性を開いて個別の実践をすることが可能なのかもしれませんが、それは個別の実践を超えて思想体系、時代精神や社会形成に繋がっていくようなものなのではないでしょうか。神成さんはさまざまなIT技術を実践されていますが、何らかのトータルな社会イメージを今後も提示されていくのでしょうか。少なくとも建築家は、どうしてもそのような立場に立ちたがるものなんですね。
神成──それはやはり歴史的な積み重ねの差なのかもしれません。IT分野は未だ経験が非常に浅い、始まったばかりのものなので、個別の実践を超えるような意識を持てない状況が大勢を占めてしまう。
柄沢──例えば、Googleなどの経営者はもうひとつの世界は可能であるとか、ネット上では民主主義は機能するなどのテーゼを掲げて、さまざまな実践を行なっている印象があります。むしろITアーキテクトこそがさまざまなヴィジョンを提出して、もはや機能不全に陥った建築家の代わりに社会を先導していくように見受けられるんですね。
神成──私自身はアーキテクトがそこまでの役割を担える状況までは到達していない気がしています。二次的現実だけを対象に限定するのであれば、ある意味そういえるかもしれませんが、一次的現実が介在してきますと、もう少し考える必要があると思います。少なくともアーキテクトがそのようになりたいのであれば、もっと素直に建築や社会学から多くのことを学ばなくてはいけないと思います。アーキテクトだけでなく、建築や社会学側からも歩みよっていただくことが必要だと思いますね。もうひとつ、非常に問題なのは、日本のIT分野において、アーキテクトがそういったメッセージを出すことは、アーキテクト自身の評価には繋がらないというものがあります。建築家はやはり歴史的な経緯があり、社会全体に対するメッセージを求められてきた。だからこそ、社会の先導をする事が建築家自身への評価にもつながるわけです。しかしIT分野のアーキテクトにとって、社会の先導をすることは何ら評価されるものではない。より具体的な実践が求められますし、そこだけが評価の対象となります。ですから、実践を先行させ、実現によって人々を納得させながら、意識改革を理論として提示していくことになります。
柄沢──もし社会的な立場としてどのような思想をもとにアーキテクトとして存在しているかという問いがあった場合、神成さんはそれに対する回答のようなものをつねにお持ちでしょうか。
神成──私は、人間がいろいろな機会を通して成長していくという非常に前向きなモデルを信じている。この成長を支援・促進していくことがわれわれの正しい役割だと考えているというものがあります。ですから、アーキテクトはその時点での人間の姿を見守りながら、成長を促進するために、発見、感動や驚きなどが生まれるシステムを考えるべきであるというのがお答えになると思います。
柄沢──情報システムと社会的インフラストラクチャーが一体化した社会、そしてさまざまなアーキテクトが社会システムを改変できる状況が本当に実現した場合、そこで最終的にもたらされるのは、主体間の凄まじい闘争状態なのではないかという指摘が今回の特集での江渡浩一郎さんとの対話の中でありました。そうであればアーキテクトは、社会システムを構築できる複数の主体の意見をどうやって整理して普遍化し、共有させていくことができるのでしょうか。
神成──アーキテクトとは、少なくとも一つ以上の技術分野に熟達し、自分なりの結論を提示する主体のことだと思っています。アーキテクトが複数いることは、複数の技術分野がある以上当たり前で、そこに価値があるのです。大事なことは、最終的にはアーキテクト自身がそれぞれの価値観に基づいて人間の行動様式を見守り分析することであり、自分自身で「マテリアル」を考えていくことです。「マテリアル」は一種類に限定される必要はなく、最終的に闘争は回避できる。もしそのような結果になるのであれば、それは関与したアーキテクトの力不足だと思っています。
柄沢──つまり、アーキテクトとして本当に美的な成果を出すということが、アーキテクトの案に対してのある種の普遍性、あるいは共感可能性を持ちえるということですよね。
神成──そうなってほしいですね。例えばマンション建設では入居者全員の希望を聞く代わりに、建築家がトータルな思想を示してつくるわけです。これと同じように、アーキテクトは人間を信じる視点を持たなければいけないと思います。人間を信じるというのは、他のアーキテクトの「マテリアル」も認めるということです。そのようなアーキテクトは評価されるべきでしょうし、そのような評価を受けたアーキテクト達が提示する複数の「マテリアル」が、クライアントである現実社会における選択基準を構築することにまでなると素晴らしいですね。そこまでのことができるアーキテクトが複数いる必要があると思います。

トップダウンアプローチの模索

柄沢──少し話を戻していいでしょうか。情報技術と社会をめぐる一般的議論では、広義のアーキテクトはボトムアップのシステムを可能にする技術を担うべきとの考え方が主流です。しかしそれは「第二の計算不可能性」に触れるだけの話で、本来目指すべき計算不可能性は、そこまで到達できないものをトップダウンによって提起するというお話は大きな問題提起だと思いました。
神成──残念ながら現在の社会においては、情報技術はボトムアップであるという意識が未だあまりに強いと思います。議論のレヴェルを上げていくと必ず途中で「第二の計算不可能性」段階に戻ってしまう。トップダウンのアプローチこそが、今アーキテクトがやらなければならない大きな一歩だと思いますよ。
柄沢──建築の現状でもトップダウンのアプローチを取ることは難しく、どうやってボトムアップのシステムを再構築できるかという議論に傾きます。トップダウンのシステムによる建築のあり方をどう実装可能にするかという議論は、ほとんどなされていません。
神成──従来の建築におけるトップダウンとは、どういったものなのでしょうか。
柄沢──歴史的には、近代以前には教皇がクライアントであったり、近代以降では有力なブルジョワジーがパトロネージュになってさまざまな建築をつくらせる、また近代が成熟する過程においては国家が発注するといった具合ですが、このようなシステムはどんどんなくなっていき、今ではトップダウンのシステムによって建築が実現する可能性はほとんどないですね。例えば、最近の東京ミッドタウンなどの大型再開発などをみても、基本的にはさまざまな建築家が集まって表層をどのように分担してデザインしていくかということだけで、トップダウンの意思決定が全体を貫くようなデザインは、ほぼありえなくなっています。こういう状況は現代建築の顕著な事例です。
神成──それはおそらく、先ほども申し上げたように、建築がIT分野に比べ、あまりに素材や物理的要因に束縛されているからですね。その違いはあまりにも大きい。加えて現在では過去に経験しなかったトップダウンのリスクがありますから、それにかけるだけの可能性が少なくなっているのでしょう。建築家によるトップダウンのリスクを冒さなくても、ある程度のものはボトムアップ型で創造出来てしまう。それに対し、IT分野はそこまでの歴史的蓄積はないですし、ボトムアップによる積み上げの先に壁があることが既にわかっているわけです。私は、建築において「第三の計算不可能性」はないと思います。情報という非常に流動的な不確定性が高い要素に構成されることにより「第三の計算不可能性」から「第四の計算不可能性」というステップが生まれた。構成される要素が違うわけです。第一、第二、第四の計算不可能性は建築にはあるのかもしれませんが、すべての選択肢が「第二の計算不可能性」に回帰しているというのが、建築における現象だと思います。それに対して、情報は第三の可能性があったからこそ、現在、第四の可能性があると定義し直していいのかもしれませんね。
柄沢──今のお話をトレースすると、身体感覚の乖離や個別性のようなものに回帰していく建築の状況が、まさに「第二の計算不可能性」への回帰を示していると思います。その一方で情報技術によって今後の進展の可能性が見出され、建築も新たな可能性を見出している状況はあると思うのです。そこから「第四の計算不可能性」に繋がっていくパスを今構築しているのかとも思います。まさに「第三の計算不可能性」がもたらすイノヴェーションが建築自体を変化させ、それにより身体感覚や空間感覚に何らかの変化をもたらしているのではないか。今回の特集でインタヴューをしている建築家の方々は、みなさんそのような実践をしているわけです。さまざまな情報技術を用い、既存の方法論ではないやり方で建築や都市像を再定義している方々ですね。ですから、情報技術が指し示す「第三の計算不可能性」から「第四の計算不可能性」への道は、まさに建築に向かって与えられたパスだと感じているわけです。
神成──それは、逆にわれわれにとっても「第四の計算不可能性」の新たな可能性に繋がる話ですね。
柄沢──最後の質問になりますが、その「第四の計算不可能性」へと人を導いていくことは、それまでの「第二の計算不可能性」や「第三の計算不可能性」、もしくはコンピュータが存在しないような状況でも到達しえたと思うんですね。それと比較して、コンピューティングが一般化した状況において、何が「第四の計算不可能性」へと人の意識を開かせる要因になるとお考えですか。
神成──これは答になっていないかもしれませんが、やはりインターネットが普及するまで、人間が、「第三の計算不可能性」に気づく具体的なきっかけはなかったか、あるいは不足していたのではないでしょうか。例えば『If the World Were a Village of 100 People』(David J. Smith, Charles B. Slackman, William Morrow & Co., 1996. 邦訳=『世界がもし100人の村だったら』)という本が出て多くの読者が新しい地図に気づいたように、実際には世間に「第三の計算不可能性」はあったわけですが、われわれ自身はその事を具体的に知覚することなく過ごしてきたんですね。例えば、全世界にどれだけ特定の情報があるのかを本人の主体的で能動的な検索行動に応えて具体的に示したのはIT技術であり、それはやはり従来なしえなかったことです。このようにIT技術は、本来は気づいた人もいたであろう「第四の計算不可能性」に多くの人を導くきっかけに繋がったのではないでしょうか。
柄沢──意識化されなかった問題系を人間が発見できるようになったことや、人間の意識の外にあるさまざまなシステムや情報が可視化されて人間の意識が変わっていくような状況が、コンピューティングによって成立したということですよね。
神成──はい。それが情報分野、そしてインターネットが生み出したひとつの価値だと思います。
柄沢──今後のコンピュテーション化がより進んだ社会においては、社会的全体性と個別の実践が結びついた「第四の計算不可能性」を実践してゆくアーキテクトの存在が何よりも重要になるということですね。今日はありがとうございました。
[二〇〇七年七月二六日、京橋INAXにて]

>神成淳司(シンジョウ・アツシ)

1971年生
慶應義塾大学環境情報学部准教授。

>柄沢祐輔(カラサワ・ユウスケ)

1976年生
柄沢祐輔建築設計事務所。建築家。

>『10+1』 No.48

特集=アルゴリズム的思考と建築

>アルゴリズム

コンピュータによって問題を解くための計算の手順・算法。建築の分野でも、伊東豊雄な...

>東浩紀(アズマ ヒロキ)

1971年 -
哲学者、批評家/現代思想、表象文化論、情報社会論。

>オートポイエーシス

自己自身の要素を自ら生み出し、自己を再生産する自己組織化型のシステム。神経生物学...

>江渡浩一郎(エト・コウイチロウ)

独立行政法人産業技術総合研究所研究員。