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景観は記号ではない | 五十嵐太郎
Landscape is Not Sign | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?, 2006年07月10日発行) pp.94-103

日本橋と首都高

今年(二〇〇六)の二月、江戸東京博物館を久しぶりに訪れた。水の都市として東京を再考するリサーチとプロジェクトの集大成となる「東京エコシティ──新たなる水の都市へ」展を見るためである。歴史的な資料から建築家による未来的なプロジェクトまで、内容は多岐にわたるが、水辺空間の魅力を再発見し、その可能性を引きだす方法を提示するものだった。実は、この企画に関わった東京キャナル・プロジェクト実行委員会のシンポジウムに司会として参加し、筆者は日本橋の問題を考えるようになった。あるパネラーの発言により、美観を名目として日本橋の上の首都高を撤去することが検討されていることを初めて知ったからである。とはいえ、当時はまだ実現性の低いプロジェクトだと思われた。しかし、二〇〇五年の終わり、小泉首相が日本橋の移設工事に興味をもったことで、にわかに現実味をおびている。
筆者は、このプロジェクトについて、すでに反対の立場を表明した★一。論点を整理すると、以下のようにまとめられる。
第一に、これはかたちを変えたハコモノ事業ではないかということ。モノが見えなくなるからといって、安いわけではない。結局、地下に埋めるか、別のルートに高速道路を新しくつくることになっており、全体としては数千億円もかかる巨大な工事である。バブル建築としてさんざん叩かれた東京国際フォーラムを複数つくれるほどのコストなのだ。猪瀬直樹も、道路の建設に批判が集まっている時期に、首都高の移設が浮上したことに疑問を呈している★二。おそらく、日本橋の周辺では、規制緩和の後押しを受けて、汐留や丸の内のような高層化と再開発が続くだろう。すでに付近では、シーザー・ペリによる日本橋三井タワー(二〇〇五)やコレド日本橋[図1]などの巨大なビルが登場した。つまり、景観を良くするというポリティカル・コレクトネスを装いながら、とにかく大きなプロジェクトを牽引したいというのが本音ではないか。ならば、首都高が見えなくなることだけではなく、将来における全体のヴィジョンをきちんと提示すべきである。
第二に、工事の目的として、お江戸日本橋の伝統的な景観をとり戻すことを掲げているが、その実効性も疑わしいこと。前述の江戸東京博物館の常設展示では、目玉のひとつとして復元された日本橋がある。これは記念写真の撮影スポットにもなっており、来場者は橋の上を歩いて渡ることもできる[図2]。かつての日本橋は木造の太鼓橋だった。馬は通れるが、クルマは難しいだろう。しかし、現在の日本橋は、ドイツに留学した妻木頼黄の設計によるヨーロッパ風のデザインのものだ[図3]。伝統が途切れているとすれば、これが竣工した一九一一年の時点で、すでに景観がいったんリセットされたと考えるべきだろう。しかし、名橋「日本橋」保存会会長の井上和雄は、自分が三越に入社した一九五〇年代の景観に戻ればいいと主張している。ただし、江戸時代よりも二〇世紀前半の状態のほうがふさわしいという根拠は示されていない。
ところで、一九九〇年代の後半に日仏親善の象徴として、京都市が鴨川にパリ風の橋をかけるというプロジェクトが持ち上がった。伝統的な景観を損なうとして大きな反対運動が起こり、結局、中止に追い込まれている。この結果に違和感を覚える人は多くないだろう。だが、現状の日本橋は、まさに江戸の拠点に洋風のデザインを持ち込んだのではないか。極端な事例だが、文明開化のシンボルだった鹿鳴館が解体された一九四〇年代は、反対の声があがるどころか、洋風ゆえに国辱的建築とみなされた。
ちなみに、保田與重郎の「日本の橋」(一九三六)は、日本的な美を論じたものとされるが、西洋の橋が構築的であるのに対し、木造による日本の橋は自然に近いものであり、あわれみをもつという★三。しかし、古今東西の橋に言及しながら、現在の日本橋にまったく触れていない。おそらく、西洋を模した石造の橋はあまりほめられないのではないか。もちろん、当時は存在しなかったが、首都高もダメだろう。彼の美学ならば、両方壊すべきだというかもしれない。
原理主義的に考えれば、現状の日本橋も破壊し、江戸時代の橋を建設すべきではないのか。木造の橋は、架け替えが行なわれながらも、三〇〇年近く存在した。が、首都高の移転先には熱心であっても、クルマに対応しない太鼓橋を復元しようという意見はほとんど聞こえない。ならば、江戸を想起させる、すり替えのイメージを語るのではなく、近代の景観を回復すると主張すべきだろう。当時は日本橋川から楓川にかけて、第一国立銀行、兜町澁沢邸、三菱倉庫、野村証券など、水辺を意識したデザインの近代建築が並んでいた。
そして第三に、首都高をとりのぞけば、美しい景観が本当に実現するのかということである。筆者は、江戸東京博物館の後、すぐに日本橋に向かい、しばらく首都高を眺めていた。いや、見上げていたというべきか。しかし、現地でいろいろと想像してみたが、高架の除去がバラ色の未来をもたらすとはどうしても信じられなかった。それどころか、醜いとされる首都高は、すぐれてダイナミックなテクノスケープのように思われる[図4]。日本橋から江戸橋にかけての複雑な分岐とカーブは魅力的な造形をもつ。むしろ景観という視点では、まわりに林立するビルのほうが、はるかに罪深いのではないか。だが、道路の新築を誘導するかのように、高架の首都高だけが批判されている。

1──コレド日本橋 筆者撮影

1──コレド日本橋
筆者撮影

2──江戸東京博物館にて復元された日本橋 筆者撮影

2──江戸東京博物館にて復元された日本橋
筆者撮影


3──日本橋 筆者撮影

3──日本橋
筆者撮影

4──日本橋付近の首都高 筆者撮影

4──日本橋付近の首都高
筆者撮影

問題は本当に問題なのか

誤解を招かないよう述べておくと、筆者はハコモノ行政批判の頑固な論者ではない。すぐれたハコができるなら、賛成するという立場だ。例えば、歴史的に意味をもち、長期的に残り、記憶される公共事業は、積極的に肯定している。ピラミッドはその最たる例だろう。だが、つまらないモノをつくるなら、あるいはいいモノを壊すだけの工事ならば、反対である。NHKの人気番組『プロジェクトX』によれば、日本橋周辺の首都高は、日本の技術者が連携し、世界の道路技術者をうならせた奇跡の道路だった。現状の日本橋が、一生懸命にヨーロッパを学習した成果だとすれば、そのヨーロッパを驚かせる土木的なモニュメントとして誕生したのが首都高である。いずれも日本橋の景観は断絶したかもしれないが、日本の技術の先端を刻んできた伝統の場所なのだ。
ところで、移設を推進する景観設計の篠原修でさえ、「デザインの点から見れば弁慶橋付近や日本橋上の部分はよく出来ている」と認めている★四。だが、彼は世間の評価が悪くなったから、「問題はデザインの善し悪しではなく」、都市の場所性に立ち返り、「江戸以来の日本橋の栄光を復元しよう」という。日本橋上の首都高を評価しつつも、それに触れるのを避けようとしている。デザイナーとしての判断よりも、世論に迎合することを選択しているのか。だが、あるテレビ番組の世論調査では、日本橋のプロジェクトについては、お金のムダとして反対の声のほうが多かった。おそらく篠原は、移設工事に舵をきった国家の方針を尊重しているのだろう。また「何回か視察で訪れているヨーロッパの大都市都心で首都高のごとき高架の道路は見た事は無い」から、欧米にならえと示唆している。場所の固有性が本当に問題であるならば、ヨーロッパの動向は関係ないはずだ。
篠原の文章は、いささか苦渋に満ちている。だが、都市計画の伊藤滋は、かつてニュータウンの建設を推進し、今度は美しい国づくりや首都高移設の旗ふり役となっている。驚くべきことに、講演会では自ら「自民党の御用学者」だと述べている★五。こうした専門家が醜い景観を選定しているのだ★六。サイードは『知識人とは何か』において、知識人たるものは亡命者であること、アマチュアであるべきだと説く★七。なぜか。国家という権力に奉仕する専門的な知識人になると、真実を語れなくなるからだ。これはアメリカにおいて文学を専門としながら、政治的な言説をつむぎだしたパレスティナ人であるサイードの生き方そのものだろう。ある共同体に所属し、国策、あるいは絶対的なイデオロギーに同化するのではなく、異なる領域を横断しつつ相対的な視点を批判的に提出すること。本来、日本橋の問題は、もっと複数の視点から議論されてしかるべきトピックであるにもかかわらず、残念ながら専門家からはあまり多様な意見が出されていない。
筆者は、川辺の空間を活用するという考え方に賛成である。だが、それと移設工事がいつもセットになっていることは疑問に思う。首都高は景観破壊のシンボルとして叩かれているが、橋脚以外は水辺そのものに触れているわけではない。空間のデザインやコストという点では、むしろ護岸を改造したり、水辺の修景を試みたり、あるいは川に背を向ける両岸のビルを改造するほうが効果的である。実際に手軽に利用できる船を定期的に運行するといったソフト面の対応も必要だろう。そのうえで、首都高を移設すべきだと判断するなら納得がいく。想像力を働かせれば、反対に、首都高という大きな屋根がおおうことを空間の条件として積極的に考える方法も考えられるかもしれない。
首都高をめぐる議論は、少子高齢化という問題の立て方とよく似ていよう。少子化と高齢化は、同時に起きているとはいえ、それぞれ別のトピックである。高齢化したから子供が減っているわけでもないし、またその逆でもない。しかし、杉田敦が指摘したように、本来は別の問題なのに、つなげてセットにしたとき、他の選択肢が消されている★八。例えば、移民の導入という想像力が欠けてしまう。彼によれば、「ナショナル・エコノミーの全体について帳尻を合わせようとする考え方、すなわち生──権力が働いているから」だ。その結果、減少した日本人の人口は、日本人によってのみ補うべきということになる。同様に、まるで首都高を移設しない限り、水辺空間の活用ができないかのように問いがたてられている。だが、川を生かす他の可能性を隠ぺいしているのではないか。

清渓川復元プロジェクト

今春、ソウルを訪れた。その目的は、首都高移設が語られるとき、しばしばモデルとして紹介される清渓川(チョンゲチョン)の復元プロジェクトを見るためである。これはソウルの中心を流れていた川だが、戦後に暗渠化し、その上に高架の道路も建設されていた。しかし、二一世紀に入り、道路を撤去し、さらにおおいを外して、川を再生したプロジェクトである[図5・6]。二〇〇三年に工事を開始し、二〇〇五年一〇月に完成したが、オープニングのときは、大勢の市民がつめかけ、水辺を喜んで歩く姿が大々的に報じられた。
清渓川では、一九五八年に覆蓋工事を始め、六一年に道路を開通し、六七年から高速道路を建設した。高架は七八年に完成し、当時は経済成長のシンボル的な存在とみなされていたらしい。だが、今回のプロジェクトによって、およそ四七年ぶりに清渓川は人目に触れたのである。これを祝福して、記念切手も発行された。ちなみに、二〇〇五年は、韓国にとって解放六〇周年の節目でもある。なるほど、日本橋上の首都高移設工事と比較できるだろう。筆者は、批判的なまなざしで清渓川のプロジェクトを見学したが、東京との大きな違いゆえに、いろいろと考えさせられる事例だった。
まず現地で驚かされたのは、その長さである。全体では、およそ六キロメートルに及ぶ。想像以上に長い。起点となる泉と広場は、かつてソウルの中枢だった景福宮にぶつかる南北に走る目抜き通りに面している[図7]。そこから、おおむね鐘路と平行しながら、東に向かって川がのびていく。一キロメートルほど進んだところで、宗廟市民広場から南に連続する巨大市場建築の世運商街を横切り、さらにもう少し歩くと、東大門だ。最後は、上往十里洞のエリアまで到達し、ようやく高架道路が姿を現わす。日本橋のプロジェクトがピンポイントの構想だとすれば、清渓川のそれはソウルを横断する線状の都市計画というべきスケールをもつ。全行程をゆっくり歩いたのだが、正直言って、これほど巨大な工事だとは思わなかった。
おそらく、単なる川の復元にとどまらず、これは新しい都市軸とみなされている。実際、川沿いのあちこちで再開発が計画されており、将来は一帯がすべて大きく変容するのだろう。例えば、低層の住宅をとり壊し、すでにロッテ・キャッスル[図8]などの高層ビルの建設が進む。高架道路と流れる水をイメージしたデザインの清渓川文化館(二〇〇五)[図9]では、さまざまな開発プロジェクトが展示されていた。いずれも川沿いに都市の顔がつくられていく。逆に言えば、高架の道路が存在していたとき、ここは見捨てられた裏側の空間だったことを意味する。つまり、都市の表と裏を反転させるプロジェクトなのだ。
もともとは高架道路という大きな屋根の下に寄り添うように、小さな商店がところせましと続く風景が広がっていた。雑貨、洋服、書籍、蚤の市、そして機械の部品や工具を販売する専門店。この一帯は観光で訪れる場所ではなく、ソウルの市民生活と密着した商業地域である。だが、現在は大きな屋根がひきはがされ、両岸に続く零細の商店群はむきだしになった。その姿は心なしか気まずそうに見える。新しい景観とは似合わない。川沿いを歩きながら、商店を眺めると、まるで異なる世界をコラージュしたかのようだ。おそらく今後は復元された清渓川にあわせて、都市が改造されていく。
東京との違いを確認しよう。前述したように、ひとつは規模である。そしてソウルでは、高架道路を解体した理由として老朽化を挙げていた。むろん、環境への関心が高まったことや、選挙の公約に掲げられたことも、その背景にある。しかし、東京の首都高速の場合、現時点において老朽化は問題とされていない。あくまでも(表向きは?)美観を目的としている。一方、日本と同じく一九六〇年代の経済成長期に清渓川沿いの高架道路は建設されたが、一九九〇年代に補修工事を試みたものの、今回撤去されることになった。少なくとも老朽化というプラグマティックな問題が、都市改造のプロジェクトにつながっている。また、高架そのもののデザインは、日本橋周辺のほうがはるかにすぐれている。
首都高の問題では、あくまでも「移設」が唱えられており、道路そのものがなくなるという選択肢はまったく考えられていない。地下、あるいは別のルートに新しい道路をつくることが前提になっている。ところが、ソウルでは、高架を撤去し、さらに川の覆いを外すことで車線が減ったにもかかわらず、代替となる新規の道路を建設していない。確かに渋滞が起こるようにはなったが、それほど困っていないという。もちろん、東京の場合、環状となっている首都高を途切れさせるのは難しい。だが、仮にリングでなくとも、道路だけを純粋に減らすプロジェクトが日本で提案されるとは想像しにくい。

5──清渓川の復元プロジェクト  工事模型 筆者撮影

5──清渓川の復元プロジェクト  工事模型
筆者撮影

6──清渓川の高架跡 筆者撮影

6──清渓川の高架跡
筆者撮影

7──清渓川の起点となる噴水 筆者撮影

7──清渓川の起点となる噴水
筆者撮影

8──ロッテ・キャッスル 筆者撮影

8──ロッテ・キャッスル
筆者撮影

9──清渓川文化館 筆者撮影

9──清渓川文化館
筆者撮影

消された景観

清渓川のプロジェクトによって、新しく生まれた景観とはいかなるものなのか。これは、かつてなかった新しい川の創造である。もちろん、同じ場所に川は存在していた。しかし、その事実だけが継続しており、雰囲気はまったく違う。現在、川のレベルは道路から数メートル以上も低く設定されている。昔は川沿いに貧民のバラック群が増殖し、高床ではりだすことで水と密着しており、洗濯場を含む生活の空間があったのだけれど[図10]、そうした汚れを伴う親水性のある風景は再現されていない。むしろ、川のある領域は、断面的にも平面的にも、まわりの建築と大きく引き離されている。小さくなったとはいえ、道路が挟んでいるからだ。都市的なスケールで観察すると、以前は凸型の高架が南北の街区を断絶させていたのに対し、今度は凹型の川が両側を切断している[図11]。
かつて清渓川は頻繁に氾濫し、浸水が起きたり、スラムでは火災が発生したという。だが、現在は水深四〇センチ、流速毎秒三〇センチ程度の絶対に人が溺れない安全な川になっている。道路と川のレベルの段差には手すりが設けられているが、川沿いは水深が浅いおかげで手すりはない。ちなみに、ここは近くの川と地下水からポンプによって、毎日一二万トンの水の供給を行なう。とすれば、自然な川というよりも、引きのばされた人工の池と呼ぶべきかもしれない。実際、川沿いを散歩する人を見ていると、ここは都心の公園として活用されていることがうかがえる。もっとも、座る場所はさほどなく、衝立によって仕切られたホームレス排除ベンチがところどころに設置されていた。
ランドスケープは周到にデザインされている。川の上にはいろいろなタイプの橋が架かり、土木デザインの博覧会場のようだ。壁画やアート、デッキや光のイルミネーションなども楽しめる。興味深い仕かけとしては、高架を支えていた橋脚を残したところがあった。まるで古代の遺跡のように、主人を失った橋脚が起立している。そして石の配置から植生まで、親しみやすく、偽装された自然の風景が展開していた。いや、上部の風景との断絶を考えると、かなり唐突に拉致された自然が都市の中心に挿入されているのだ。つまり、清渓川のプロジェクトでは、昔の再生というよりも、過去を口実として、まったく新しい「自然」の風景をソウルに与えている。観賞のための川なのだ。
昨年、横浜国立大学に在籍する韓国からの留学生、崔熙元が、清渓川を卒業設計でとりあげ、学内の最優秀賞を獲得した。この時点では、まだ復元工事は全容をみせていなかったが、消えていく風景に焦点をあてた興味深い作品である[図12]。高架道路沿いでは、商業地域が自然に形成されていたが、とくに黄鶴洞の蚤の市に注目し、彼はプロジェクトの遂行後も民衆のコミュニケーションの場を継続させることを提案した。高速道路が登場してから、すでに四〇年の歴史をもち、その風景もまた重視している。戦後は住宅不足から、川沿いに違法の建築群が出現したり、最初の市民マンションである三・一アパートが建てられた。しかし、そうした記憶はまったく顧みられない。美しくて安全な清渓川という偽の記憶が刷り込まれている。
崔によれば、「清渓川は歴史の流れの中でどの時期にも主演だったことがない。いつも表に出されるソウルの姿とは違う裏のソウルでもあった。そこには表の人々の生活があり、悪臭で覆われ、汚くて、でも人間臭いところが清渓川の姿であった」★九。しかし、いまやソウルの新しい都市軸として再定義されている。彼は、「清渓川を守っていたのは韓国政府でもなく都市開発業者でもなく庶民たちだった」と言う。だが、庶民的な空間は駆逐され、市の公共事業と民間の不動産開発の舞台に変貌した。日本橋周辺も、再開発の波を受けて、地価が高騰し、かろうじて残っていた中小の商店が完全に駆逐されるかもしれない。景観を考えるとは、単なる記号的な操作ではないはずだ。そこに複数の記憶がせめぎあうことを踏まえたうえで、慎重に対処していくべき問題である。

10──清渓川文化館での、かつての川辺を再現した展示 筆者撮影

10──清渓川文化館での、かつての川辺を再現した展示
筆者撮影

11──凹型の川が南北の街区を断絶させている 筆者撮影

11──凹型の川が南北の街区を断絶させている
筆者撮影

12──崔熙元の卒業設計 写真提供=崔熙元

12──崔熙元の卒業設計
写真提供=崔熙元

時間と空間の戦争

観光社会学のジョン・アーリは、産業的な文化遺産に関して、「視覚化に重きが置かれることに起因して、文化遺産の歴史が歪められてしまうこと」を批判し、「一切の社会的な経験は取るに足らないものにされ、周辺に追いやられてしまう」と述べている★一〇。日本橋や清渓川では、保存というよりも、破壊を伴う復元を通じて、歴史の認識が「修正」された。しかも、いずれも過去に遡行する、都市のアイデンティティを求めるプロジェクトとして位置づけられている。また彼によれば、ヒューイソンは「存続していくからこそ危うさをもっているほんものの歴史と、過去のものであってすでに死んでいるものだからこそ安全であるパッケージ化された文化遺産とをはっきり区別している」。ロマンティックに粉飾された「過去の保存が、現在の倒壊を隠蔽している」からだ。東京でもソウルでも、美しい過去に目を奪われることで、真横で進む巨大開発が生みだす新しい景観がきちんと意識されていない。だが、後者を切り離して考えるべきではない。地元民にとっても、念願である日本橋の上の首都高の移設さえ解決すれば、後はどうなってもいいわけではないはずだ。
続いて、社会的な視点から空間史を研究するドロレス・ハイデンの言葉を引用しよう。

いかなる都市や町においても庶民の過去を守るプロセスは、歴史的かつ文化的であると同時に政治的な選択を伴うプロセスでもある。何を記憶にとどめ、何を保存するのか、その対象の選択はパブリック・ヒストリー、建築保存、環境保全、記念碑的なパブリック・アートの可能性を左右すると同時に、歴史学の根幹に関わるものでもある。しかし、過去を保全しようとするこれらのアプローチは個別に、あるいは互いに矛盾をはらんだまま進められているのが現実である★一一。


これを逆に言えば、何を壊すのか、すなわち何を忘却するのかという問題である。特定の場所をめぐる時間の戦争なのだ。首都高と清渓川の場合、既存の道路の解体を選んだ。しかし、それはクリックするだけで、画面から消去するような記号的な操作ではすまないだろう。経済成長期の時代の記憶がこびりつき、まわりの都市形成の歴史にも関与しているからだ。にわかに伝統が喧伝されるときは、最近の昭和三〇年代ブームのように、脱臭化された過去がねつ造されるかもしれない。ノスタルジーの夢に酔いしれ、貧困だった当時の現実を忘却していく。ハイデンは、マイノリティの歴史がほとんど残らないことを批判している。ソウルでも、清渓川を復元しながら、庶民の生活の記憶は抹消された。日本橋でも、地元の人間が唱えてきた首都高の移設が国家的プロジェクトとして浮上し、結果的には周辺の再開発を促進し、住民を追いだすという逆説的な状況が起きるかもしれない。
ある時期を特化するのではなく、重層的な歴史の現実を受け入れること。それこそが豊かな景観を生みだすのではないか。これは景観の相対主義かもしれない。ただし、日本橋は、どちらもよいのではなく、むしろ首都高のほうがすぐれているから残すべきなのだ。景観論では、電線も批判される。もちろん、これをなくせばいい街もあるが、多くの場合は決定的に景観を変えるとは思えない。むしろ、別の措置を試みるべきではないか。なるほど法律化すると、グレーゾーンを対処しにくいから、一律に適用する方向にならざるをえない。しかし、それぞれの場所において、個々の要素が有機的に関連し、総体として景観は形成される。ゆえに、特定の部位を除去すれば、単純によくなるわけではない。

13──張紙だらけの壁を描いた浮世絵 筆者撮影

13──張紙だらけの壁を描いた浮世絵
筆者撮影

観光と記号

景観をめぐる言説では、しばしば外国からの観光客が増え、経済的な波及効果が大きいことをうたう。かつて経済の発展のために景観を損なっても仕方ないとされていたが、現在は景観が経済を活性化すると考えられている。つまり、景観は商品、あるいは消費的な価値をもつということだ。アーリは、「観光のまなざしの普遍化が原因で、あらゆる場所が(事実いたるところが)観光のまなざしの対象を自前で作り始めた。言い換えれば、権力の生産あるいは象徴の中心としてではなく、娯楽の場としてである」と言う★一二。この議論は、都市圏以外について指摘されていたが、東京のようなメガロポリスでも、観光を意識して、美しい過去を復元することが開発の動機になっている。だが、洋風の日本橋を見て喜ぶ外国人客はいないだろう。そうした意味でも、首都高移設の理由は間違っている。
アーリは、こうも指摘していた。「まなざしというのは記号を通して構築される。そして観光は記号の集積である。(…中略…)イギリスの小さな村を観た場合、ツーリストがまなざしをむけているのは『本物の古き英吉利』である。(…中略…)世界のいたるところ、無名の記号論者としてのツーリストは〈フランスらしさ〉とか〈典型的なイタリア人の言動〉とか〈模範的なオリエントの風景〉とか〈典型的なアメリカ高速道路〉とか〈伝統的な英国のパブ〉の記号をもとめて溢れかえっている」と。
観光のまなざしの全域化がもたらす、景観のテーマパーク化である。ディズニーランドは、最初からフェイクであることが了解されており、それを本物だと思う人はいないだろう。だが、実際の空間も美しい景観を求めるあまり、フェイクなものに変容していく。ハイデンは、以下のエピソードを伝えている。「アイオワ州にある小さな町が、自らの『町らしさ』を発展させ、その『町らしさ』を観光客にとってより魅力的なものにしようとしたところ、町自体がテーマパーク化してしまい、場所は風刺漫画のような存在になってしまった」。すでに磯崎新は、京都を含む伝統的な空間はテーマパークであると喝破していたが、テーマパークこそが美しい街並みだと思う人も多いのではないか★一三。ここで筆者が気になるのは、景観のデザインが記号的な操作に収束していくことだ。
『建築ジャーナル』の読者アンケートによれば、悪い景観を尋ねる質問に対し、「外国ではあまり見られない空港の広告看板が、見苦しいことこの上ない」(濱田イサオ)など、屋外広告、電線や電柱を挙げている回答が多い★一四。確かに、はり紙もよく批判される。実際、建築家がどんなにすぐれた空間をデザインしても、ぺたぺた貼られると台なしになってしまう。それがない状態をベストとして設計されているからだ。が、寺社のお札や浮世絵に描かれた銭湯などを見ると、壁や柱に紙をはっている[図13]。つまり、これもある意味において伝統化されたものなのだ。戦後の資本主義がはびこらせた習慣ではない。広告がないとされる西洋のような景観を日本に移植すれば、よくなるわけではないだろう。
また同アンケートでは、「先進国の中で海外からの観光客が最も少ないとされるわが国が、現状を打開して政府の掲げる観光立国となるためには、少なくとも電柱電線の地中埋設は義務化すべきであると思う」(田辺賢一)といった意見も寄せられていた。ちなみに、電線批判に熱心な松原隆一郎でさえ、どこでも埋めればよいわけではないことを認めている★一五。例えば、横浜の中華街では、赤い電線を地下化することに反対の声があがった。埋めてしまうと、中華街らしくないからである。また京都の祇園の花見小路でもいっせいに電柱をなくしたら、「どことなく奇妙」で、「妙に新しくなってまわりにそぐわない。(…中略…)日光江戸村みたいになってしまった」らしい。ゆえに、彼は「私たちが経験のなかでつくりあげてきた景観のイメージを連続させようとすると、埋めることがいいかどうかは状況次第」だという。景観の連続性も考慮すべきなのだ。
筆者としては、電線よりも、凡庸な建売り住宅やハウスメーカーの商品の空間デザインのほうが問題である。建築家の目立つ作品は批判されるが、なぜか住宅産業はあまり槍玉に挙がらない。ともあれ、単体に還元した記号的な要素を○×で決めるようなデザインには注意すべきである。景観論者は、ロードサイド・ショップが繰り返される現状を嘆く。記号のような風景だからであろう。ならば、記号的な修景もおかしいはずだ。景観は記号ではない。


★一──拙稿「日本橋の首都高は醜いのか──移設プロジェクトを疑う」(『論座』二〇〇六年四月号、朝日新聞社)や拙稿「日本の技術は醜いのか」(『毎日新聞』二〇〇六年三月一八日夕刊)。
★二──猪瀬直樹「ニュースの考古学」(『週刊文春』二〇〇六年四月一三日号、文藝春秋)。
★三──保田與重郎『改訂  日本の橋』(新学社、二〇〇一)。 
★四──篠原修「撤去で江戸の復元を」(『毎日新聞』三月一八日夕刊)。
★五──以下の都市経営フォーラムの講演会記録を参照。
http://www1k.mesh.ne.jp/toshikei/205.htm
http://www1k.mesh.ne.jp/toshikei/169.htm
★六──拙稿「醜い景観狩り」(『10+1』No.42、INAX出版、二〇〇六)。
★七──エドワード・サイード『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社、一九九五)。
★八──杉田敦「『生──権力』はどのように現れるか」(『談』No.75、たばこ総合研究センター、二〇〇六)。
★九──横浜国大の卒業設計作品集より。
★一〇──ジョン・アーリ『場所を消費する』(吉原直樹+大澤善信監訳、武田篤志ほか訳、法政大学出版局、二〇〇三)。
★一一──ドロレス・ハイデン『場所の力──パブリック・ヒストリーとしての都市景観』(後藤春彦+篠田裕見+佐藤俊郎訳、学芸出版社、二〇〇二)。
★一二──ジョン・アーリ『観光のまなざし──現代社会におけるレジャーと旅行』(加太宏邦訳、法政大学出版局、一九九五)。
★一三──川崎清『京都発  都市デザインのパライダム』(紫翠会出版、一九九二)。
★一四──『建築ジャーナル』「特集=景観法で美しくなれますか?」二〇〇五年一一月号。
★一五──松原隆一郎「経済発展と荒廃する景観」(『〈景観〉を再考する』青弓社、二〇〇四)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『美しい都市・醜い都市―現代景観論』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.43

特集=都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?

>シーザー・ペリ

1926年 -
建築家。シーザー・ペリ&アソシエイツ主宰。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。