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サバイバルとしての東京リサイクル | 五十嵐太郎
Recycling Tokyo as Survival | Igarashi Taro
掲載『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ, 2000年09月発行) pp.161-168

読み替えというリサイクル

東京という名称が生まれ、一三〇年近くが経過した。しかし、当初の明治政府はすぐに壮大な都市計画を実行したわけではない。鈴木博之が指摘するように、「明治の東京は、江戸の読み替え作業からはじまった」★一。例えば、江戸城は皇居になった。大名屋敷は新しい官庁になった。官軍は好き勝手に武家の屋敷を占拠し、自分たちの家にしている。また住み手がいなくなり、荒れた武家地を有効利用するために、桑茶令を出して、東京を桑と茶の畑に変えた★二。上野や芝など、寺社地は公園になった。斬新なイメージによる創造的な都市計画は、一八七二年の大火を契機とした銀座の煉瓦街や官庁集中計画を待たねばならない。
ダイナミックな都市のリサイクルは有事のときに発生する。
江戸幕府が倒れた政治的な大変動の後は、資金もままならない状態で、緊急に都市を改造しなければならない。だからこそ、まずは江戸のストックを利用し、既存の施設を読み替えたのである。それは速やかに権力の中心を交換し、支配の構造を引き継ぐためにも必要だった。新たなシステムを構築するのは、一段落してからでいい。逆に安定した成長期には、リサイクルに頼らない大きな計画が構想される。丹下健三らの「東京計画一九六〇」をはじめとする、一九六〇年代の建築家によるさまざまな都市プロジェクトは、高度経済成長の最中で提出された。楽観的な未来志向の時代精神がユートピア的な計画を欲望する。
東京は都市を揺るがす事件を二度経験した。関東大震災と太平洋戦争である。前者は予告なく突発的に発生した災害だから、震災後に人々はサバイバルしなければならない。被災者は使えるものを集めて、その場しのぎの生活を営む。一方、後者は国家総力戦ゆえに、戦前から国全体が戦争を予感し、軍事力を増強するために資源統制を進めた。戦時中は前線に全エネルギーが投入される。戦後は震災と同様、厳しいサバイバルが余儀なくされ、進駐軍は官軍と同様、東京を読み替えた。再び、社会の体制が変わる。そこで東京の歴史から、この二つの事件を軸にして都市のリサイクルを考察しよう。
 

震災の廃墟が生むバラックの街

一九二三年九月一日、関東大震災が発生。直後から八〇カ所以上で出火し、三日間にわたって東京を燃やしつづけた。陸地測量部の調査では、神田、日本橋、京橋、浅草、本所の各地区は、全面積の九〇パーセント以上ものエリアが焼失している[図1]。田山花袋の『東京震災記』(一九二四)は、皇居前広場に罹災者は「立錐の地がないほど」あふれ、猛火で明るくなった夜空をみながら震えていたという★三。ここに神田や日本橋から三〇万人以上がつめかけ、社屋を焼失した東京日日新聞編集局や囚人も移動した。ちなみに、来たるべき関東大震災を詳細にシミュレートした最近の小説『クエイク』(一九九七)でも、皇居の一帯が開放され、被災者がひらがなの五〇音に従うグリッドに区分けされた状況を想定している★四[図2]。
東京の風景は一変した。花袋によれば、四谷付近では、「戦場か何かでなければとても見ることの出来ないやうなすさまじい混乱と無統一と雑踏とを眼にした(…中略…)路の両側、電車のレイルの上、公園の疎らな樹の中、そこには避難民といふ避難民が殆と一杯に満たされてゐた(…中略…)或ものはテントを張り、或ものはトタンのなまこ板を集め、或ものは箪笥と箪笥との上に傘をさしかけ、またあるものは泥濘にまみれた夜具をつみかさね、てんでに持てるだけの家財道具を持ち出し」ていた。靖国神社には、富士見町の花柳の人たちが逃げ込み、着物、三味線、茶道具、若い美しい妓など、華やかな光景が現われ、花袋は「ここは避難所としては理想的ですな?」と述べている。
広場が少ない東京では公園が避難所になった★五。人々は上野公園や日比谷公園に殺到する。上野駅も一日には、構内、ホーム、列車内まで、被災者で埋めつくされたが、二日の晩に焼け、火の粉をさえぎる木立に守られた上野の山に逃げた。家を失った被災者は、ここで生活を続け、一〇月末にまだ一万人が残っていた[図3]。もとの上野は寺社地だが、浅草観音の境内も多くの避難民が集まっており、宗教空間が活用された。しかし、火を逃れて、隅田川に飛び込んだ人々は、陸にあがれないまま、多くが水に沈む。
故郷がある者は危険な東京を脱出した。九月三日、国鉄は避難地までの無賃乗車を許可する。花袋によれば、電車では、すさまじい混雑が発生し、窓から飛び込み、屋根の上に乗り、車輌内はあまりの混雑のために便所に行けず、ビール瓶に用をたした者もいたらしい。九月の前半に約三〇〇万人が東京を離れた。一方、箱根から東京までのレールは、汽車が通れなくなり、「急に昔の東海道の副路として役立つ」。その上を多くの避難者が歩いたという。また軍艦も出動し、芝浦から被災者を無賃輸送した。
東京は、四〇〇万の人口のうち六万八千人が死亡、家屋は全壊・半壊約四万、全焼三一万という甚大な被害を受けた。震災は大量のホームレスを生む。そこで木に筵をかけたり、焼けたトタンを囲うバラックがつくられ、各公園にバラック街が出現する。下水用の土管を並べて壁にしたり、墓地の卒塔婆を使う者もいた。石垣の崩れたお濠では行水も行なわれた。平時では許されない行為だが、宮内省も救護班を組織しつつ、皇居前の広場をすべて開放し、一間に五、六人が雑居したバラックが二重橋の内外を占拠する[図4]。圧倒的な住宅不足から、行政が動きだす前に廃墟をリサイクルして、自主的に応急の住宅がつくられた。花袋は、雨が降りだすと、バラックのトタン屋根は凄じい音をたて、話しができない程やかましかったことや、風の強い日は、板のすきまから風が入るために、古新聞や壁紙を貼ったことを伝えている。
バラックは、一種の原始の小屋である。今和次郎は、その面白さに気づき、バラック街の生成過程を観察した。彼は「焼トタンの家」(一九二四)において、こう記している。「焼けトタンの家は大抵真赤な重い粉を吹いた色をしている。それがこの頃はその色がだんだん淡くなりオレンジ色にかがやいて来ている。(…中略…)天気のいい日に生物の表面が特別に愉快に緊張しておる熊のようにそれらの家々は生き生きと瓦や焼土の上に生え出たように立っている。(…中略…)一人のコールターを手に入れることの出来た人は、その体躯を動かして、不思議な生き物の屋根から壁へ、ついにコールターの缶を倒してからからになるまで、山脈や、谷や、断崖などの連接からなっているトタンの面の上へ黒々と塗り付けて、その缶一個だけの分量の模様付けをそれらの家々の衣裳付のためにやる」★六[図5]。トタンの家は、都市という自然がもたらす生物のようだ。震災が都市の野生を露呈させる。彼はバラック装飾社を旗揚げし、後に現代都市の風俗を記録する考現学を創始した。当時、ファインアート的な建築を標榜する分離派がバラック装飾社の仕事に「建築美」がないと批判し、今の反論によりバラック論争が起きたことも、よく知られていよう。
やがて、市販の木材を用いて大工が建てる簡易住宅に変わり、テントも普及する。東京市は、九月中旬から一〇月はじめにかけて、各公園に身寄りのない罹災者を収容する二万三千戸の公共バラックを建設した。一一月末の統計によると、都市計画上、焼け跡に本建築がまだ許可されていないにもかかわらず、復興の勢いは強く、建設中のものを含めて約一二万軒がつくられている。仮屋は五万九〇〇〇軒、新トタンの家は一万一〇〇〇軒だが、特に焼けトタンの家二万六〇〇〇軒はリサイクル住宅と言えるだろう。銀座の焼け跡では、仕事をなくした画家や彫刻家が木造のバラックを手がけ、仮設ゆえに自由度の高いユニークな街並みが登場する★七。建築家も、本建築ができるまでは、新しい試みをとりいれやすく、様式建築にこだわらず、個性をいかした幾何学的なデザインを一時的に採用した★八。かくして一一月には銀座の表通りの半分以上の商店が営業を再開している。

1──上野から浅草方面を望む 出典=『復刻版 東京震災記』

1──上野から浅草方面を望む 出典=『復刻版 東京震災記』

2──『クエイク』の表紙 出典=Quake

2──『クエイク』の表紙 出典=Quake

3──上野の避難小屋 出典=『関東大震災69年』

3──上野の避難小屋 出典=『関東大震災69年』

4──皇居前広場のバラック 出典=『関東大震災69年』

4──皇居前広場のバラック
出典=『関東大震災69年』

5──今和次郎によるバラックのスケッチ 出典=『考現学入門』

5──今和次郎によるバラックのスケッチ
出典=『考現学入門』

 

戦争都市のリサイクル

戦時中の都市リサイクルでは、資材回収と防空改造の二点が注目される。
第一の資材回収は、素材のレヴェルにおける都市リサイクルである。一九三九年二月に官公庁が金属類回収の打ち合わせを行ない、一九四一年三月に金属類特別回収令要綱が閣議決定、同年八月に国家総動員法に基づき金属類特別回収令が公布された★九。「回収物件および施設指定規則」から建築に関する事項を抜粋しよう。「鉄を主たる材料とするもの」と「銅又は黄銅、青銅その他の銅合金を主たる材料としたるもの」はかなり重複しているが、前者には、看板、階段、傘立、屑入、広告塔、格子、柵、シャンデリア、洗面器台、棚、暖房装置前飾金物、手摺、欄干、ロッカー、梯子、マンホール蓋、門柱、門扉、物干しなど、後者には、押板、壁張り板、階段すべり止め、カーテン用金物、戸、扉、表札類、庇葺板、日除用金物、柱、壁、天井の装飾板金物、屋根葺板、郵便受口などを挙げている。建築を分解しつつ、その一部が回収され、「いざ弾丸に、軍艦に」変身した。
一九四二年以降は、小学校の二宮金次郎の銅像、寺院の鐘(音響管制により、空襲警報と混同しないように鳴らすことも禁止された)も各地で供出された。当時、著名人の銅像では、谷中墓地の川上音二郎像、深川不動尊の五代目菊五郎像、浅草公園の団十郎像、池上本門寺の星亮像、高輪泉岳寺の大石良雄像、赤坂の大蔵喜八郎像、板橋の渋沢栄一像の献納予定が報じられている。この頃、新聞には「〈勝利〉へ=〈銅鉄無き街〉へ」や「家庭から金属をなくしましょう」といった見出しが繰り返された。当然、金属の使用制限もなされ、例えば、銅を屋根板や建築金物に使うことが禁止されている。都市の物資がリサイクルされて、戦場に送り込まれたのだ。
第二の防空改造は、都市が戦場になりうる状況に最小限の努力で対応する。一九三七年に田邊平學は「投下爆弾と日本家屋」という講演を行ない、具体的な防空化の方策をたてる★一〇。まず爆弾の影響を予測し、屋上に厚いコンクリートを打つ「防弾屋根」、爆弾の動きを制御する「剛床式」、壁を厚くする「剛壁式」を提案し
た[図6]。防護室は、階段室や中廊下を利用してもよいが、地下が望ましいとし、「道路の下、公園の下、広場の下、建物の地下室、地下鉄道、其他坑道、塹壕」が使えるという★一一。街の四辻に「移動式防護室」を配置するフランスの事例も紹介した[図7]。木造の日本家屋には、出入口をひとつ残し、障子紙で部屋の隙間に目貼りして防護室をつくること、外壁を鉄網モルタル塗りやトタン板張りにすることをすすめた。そして一九三九年二月の防空建築規則では、木造家屋の簡易防火構造として鉄網モルタルが推奨された[図8]。実際は鉄の入手が難しく、燐酸化合物を木材に注入した簡易防火戸も使われた。後に政府は重要都市を指定し、木造建物の防火改修を実施するために、国庫と市が補助金を支出する方針を決めている。
戦争は技術を活性化する。ほかにも、さまざまなアイディアが出された。煉瓦造は地震に弱いが、防火と防空に有利であるし、木材が不足した状況では見直すべきだという提言★一二。鉄を用いない、竹筋コンクリートの検討★一三。枕木を利用した防空壕の建設法★一四[図9]。「防空改修」の資料も販売され、屋内の灯火管制のための建築マニュアルも用意された[図10]。爆撃機から建築をカモフラージュするための偽装法★一五[図11]。既存施設は増改築のついでに偽装を実施することが推奨された。星野昌一は、防空建築を論じながら、防空と窓ガラスの使用は相いれないものとし、「ここにグロピウス、ミース、ファンデルローエ[原文ママ]等の国際的硝子建築の終末が見られる」という★一六。そして日本の若い建築家が「未だ硝子建築の夢を追ふ」ならば、「国を毒する利敵行為」だと批判した。
当時の「家庭防空の手引」(一九四一)は、樽や風呂桶を転用したり、古井戸を改修して家庭の防火水槽に使うべきとしていた。一九四三年から内務省は待避所の設置を打ち出すが、それは整備要綱の第一に「原則として新たに資材を使用しないこと。手持ち品があれば必要に応じて使用しても差支えない」と記し、リサイクル型の建設だった。「家庭用待避所の作り方」は、屋内外を問わず、適当なところにただ掘る「蓋なしの素掘式」であり、掘った土は濠の両側に土盛りする。既存の土蔵や地下室があれば、それを使う。公共待避所の設置では、コンクリートの建物、溝や堤防が利用された。都市計画の観点からは、強制的に家屋を破壊する建物疎開を、一九四四年以降の東京で大規模に実行し、その古材は移転者を収容する住宅、防火改修工事、防空壕、軍需工場の住宅などに転用された★一七。廃材も、浴場、食堂、給食用の燃料として無駄なく使われる。ゼロエミッションのリサイクルだ。そして一九四五年三月の東京大空襲の後、 東京都防衛局は耐爆のために半地下式のモデル住宅「東京都壕舎」をつくり、町会をとおして、古材の斡旋をはじめている[図12]。

6──耐弾構造の種類 出典=『建築雑誌』1937年12月号

6──耐弾構造の種類
出典=『建築雑誌』1937年12月号

7──移動式防護室 出典=同上

7──移動式防護室 出典=同上

8──木造家屋の防火改修 出典=『東京都市計画物語』

8──木造家屋の防火改修
出典=『東京都市計画物語』

9──枕木を利用した防空壕 出典=『建築雑誌』1939年4月号

9──枕木を利用した防空壕
出典=『建築雑誌』1939年4月号

10──工場のための巻込式暗幕の例 出典=『建築設計資料集成』

10──工場のための巻込式暗幕の例
出典=『建築設計資料集成』

11──工場偽装例 工場地帯の迷彩例 出典=『建築雑誌』1941年2月号

11──工場偽装例 工場地帯の迷彩例
出典=『建築雑誌』1941年2月号

12──半地下式壕舎 出典=『東京都市計画物語』

12──半地下式壕舎
出典=『東京都市計画物語』

バラック、再び

空襲により、再びバラックは出現した。木造住宅が焼かれ、生き延びた住民は、焼け残りの材木やトタンで小屋をつくりはじめる。戦後は、深刻な住宅不足から、ドラム缶や廃車になったバスも居住空間になった。大阪では、焼け残りの鉄板を屋根としてかけ、煉瓦と焼け土の壁、焼け崩れた自転車を集めた垣根など、半焼材や板切れの資材を巧みに利用した家が報告されているが、東京も同じような状態だった★一八。こんなエピソードもある。両国の国技館が焼失したために、丸太を縄で縛ってバラックの仮設構築物を浜町公園に組み立て、大相撲を興行し、終了後、それを解体して大阪で再使用した★一九。これは両国の花火の桟敷にも使われる。そして敗戦の数日後にはヤミ市が発生した。
だが、当時の建築界は、バラック批判を繰り返す。例えば、蔵田周忠は、「バラック商店街の嘆き」と題し、ありあわせのデザインがひどいこと、看板も下品で野蛮であり、文化的に低レヴェルだという★二〇。ただし、ありあわせの材料で数寄屋ができたように、トタンのバラックの可能性も認めている。応急のバラックも大事だが、建築美は文化の象徴なのだから、ちゃんとしたものが欲しいという意見もあった★二一。 中村登一は、「貧困と貧困を複雑な装飾で隠蔽した」街並みを批判し、バラックとは「材料のすりかえられた本建築以外の何ものでもない」から、ここで「建築造型の熱情をなげだしてはいけません」と訴える★二二。そして牧野清は「最近の復興商店は店の正面に看板を付ける必要上正面を『フラット』に見せ、屋根の前面に御面を付けた様な建築が流行している」とし、側面や背面は無頓着に窓や機能上の配管などが取り付けられ、「正面とは意匠上月とスッポンの差が有り、何の関連性もなくバラバラである」という★二三[図13]。彼は、日本の造形における立体感の貧困さを指摘し、戦後の「建築のレリーフ化」を攻撃する。
なぜ建築家はバラックを憎むのか? 近代的な構成を学んだ審美眼からすれば、秩序のない仮設構築物は醜い。だが、廃材を集めたバラックほど、経済的かつ機能的な建物は少ない。近代の建築家は、それが美しくないにもかかわらず、真に機能的であると直感したからこそ、バラックを畏れたのではないか。極限状態における機能主義は、生やさしい芸術性を放棄する。牧野が槍玉に挙げたもう少し余裕のある復興商店も、ヴェンチューリの言う「装飾された小屋」として解釈できるだろう★二四。「装飾された小屋」とは機能主義の否定ではない。これは一般に機能主義とされるもののほうが、機能と形態の整合性を無理に表現した「あひる」だとみなす、転倒の思考である。ファサードと背後をそれぞれの都合の良いようにつくることが、より上位の機能主義なのだ。またバラックが忌まわしい戦争の記憶とプラグマティズムを引きずっていたことも、未来の復興にいそしむ建築家に煙たがられる一因になったのかもしれない。
アメリカの占領軍は東京を読み替えた★二五。それは施設の接収により、直接的に行なわれる。第一生命館はGHQ、三菱商事ビルはGHQ分室、帝国生命ビルは米軍東京憲兵司令部、明治生命館は極東空軍司令部、大正生命ビルは米軍空輸指令部が入った。アメリカ軍が必要な容量を指定し、日本側がリストを提出したらしい。既存施設のボイラーやラジエーターも供出された。そして帝国ホテルや九段会館は将校宿舎、東京宝塚劇場はアーニーパイル劇場、ニュー東京は連合軍将兵ビヤホール、教文館ビルはタイム・ライフ社、市谷の陸軍士官学校はパーシングハイツ、豊多摩刑務所は第八軍刑務所に変わる。将校の宿舎用に個人住宅の接収も実施された★二六。東京都の建築課の係員が、警視庁の家屋所有者のリストをもとに現場調査を行ない、ABCの三段階に評価する(Aは暖房施設と水洗便所があるもの、Bはどちらか、Cは両方ないもの)。これが進駐軍に提出され、好条件の住宅が選ばれた。また占領軍は、東京の道路もアメリカ流に命名しなおして、帝都の意味を組み換えた。例えば、青梅街道はKアヴェニュー、明治通りは30ストリートというふうに。
緊急の復興もリサイクルだった。一九四五年一一月、戦災復興院が住宅緊急措置令を公布し、圧倒的な住宅難を緩和するために、既存建物の転用や余裕住宅の開放を実施する。これは日本人のための接収だった。また二、三万戸の公営住宅を公園や校庭に建て、公園予定地の新宿戸山町も都営住宅に変更し、第八軍が南方作戦用に保管していた建築材料で家屋をつくった。防空壕を埋め立てた広場には露店が出現する★二七。空襲による残骸整理では、瓦礫や残土を運河に捨て、八重州口から数寄屋橋、土橋、築地の三十間堀、四谷見附の堀を埋めたてた。こうした国有地は払い下げられ、追い出された露天商が入ったり、後に高速道路に利用される。埋立地といえば、海に拡張する湾岸地区は、まさに廃棄物のリサイクルによって形成された東京のフロンティアにほかならない。

13──最近の復興商店 出典=『建築雑誌』1947年3月号

13──最近の復興商店
出典=『建築雑誌』1947年3月号

プラグマティズムとブリコラージュ

リサイクルとは現場のプラグマティズムである。
芹沢高志は映画『アポロ13』(ロン・ハワード監督、一九九五)を例に挙げて説明していた★二八。アポロ一三号はささいなトラブルから月面着陸が不可能となり、地球帰還すらおぼつかなくなる。しかも本船は破棄され、月着陸船で帰らなければならない。この時点でヒューストン飛行管制センターは、周到に用意された飛行計画を破棄し、現場で新しいプランを練りはじめる。傍らで技術者は、その船は月面着陸用に設計したものであり、地球に戻るためではないと嘆く。それに対し、フライト・ディレクターは「設計の目的より、何に役立つかだ」と答える。生存をかけた究極の状況では、いまあるものが何に使えるかが問題なのだ。当初の目的を失った宇宙船はゴミであるが、それを別の目的のためにリサイクルする。早速、ヒューストンでは宇宙船内にある同じ資材を用意し、何が可能かについてシミュレーションを開始した。例えば、濾過カートリッジの口が、本船は四角、アクエリアスは円のために、形が合わない問題。だが、飛行計画書の表紙を破いたり、廃棄物用のバッグを使ったりして、通常やらない作業により、あり合わせのものを組み合せて、事態を解決する。
好きなだけ資材を準備できる技術者の計画ではなく、限られた材料をもとにした現場の思考。レヴィ=ストロースは、後者を「ブリコラージュ(器用仕事)」と命名した。いわば日曜大工である。彼は言う。「器用人は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手を下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして『もちあわせ』、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。(…中略…)いかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである」★二九。そして建築の実例として、《シュヴァルの理想宮》を挙げた[図14]。これは一九世紀末にフランス南部の郵便配達夫が、配達の際に小石、貝殻、ガラス片などを拾い、三三年間かけてつくった幻想的な建築である。彼は錬金術師のごとく、とても建築材料になりそうにないゴミの意味を読み替え、融合し、自己流のモニュメントに変えた。
石山修武は、レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」をこう解釈する。ブリコラージュは、「技術に対するある意味での保守性を保持し、また、それに対して主体性を失わない。つまり、全ての事がらを自分の力で認知し得る日常世界の規範の内で把握するということで、決定的に近代技術者と世界を異にする」★三〇。すなわち、プロセスがブラックボックス化せず建設という行為の主体性がとりもどされていることが重要なのだ。そしてバラックはブリコラージュであると言う[図15]。これが生産→消費→廃棄という常識的な資本主義のサイクルに対抗し、廃棄されたものを転用しながら、環境を生産するという反近代的なリサイクルを行なうからだ。だが、バラックは「全く出鱈目の、出まかせの、ゆきあたりばったりのなりゆきまかせで、また、恐ろしく目的に対して直接的で、それ故に便宜的な方法をとる」がゆえに、建築家から「アレは一段下のモノ」と思われる。もともとバラックという語は兵舎を意味するが、生死をかけた戦争の建物は、見てくれにかまわず、急いでつくられるものだ。しかし、たとえバラックが不格好であろうとも、機能にだけは忠実なのである。
震災と戦災のときに現われた東京のバラックは、廃墟のブリコラージュであり、都市リサイクルの一環だった。しかし、資源の有効利用が唱えられる時代でありながら、阪神大震災では、あまりバラックが登場しなかったという。資源の再利用がほとんどされず、補修や修繕で再生可能な建物もとり壊された。人々が日曜大工の術をもたなかったからだろうか。それもあるかもしれない。が、布野修司によれば、瓦礫の処理を無償とする期限が設定されたために、まだ使えるストックが慌てて処分されたからである★三一。
一九九〇年代の東京では段ボールの家が増加した。宮本隆司は、流通のシンボルだった段ボールから住居をつくる人々を「都市の狩猟採集民」と呼ぶ。しかし、新宿西口地下街の撤去事件や少年らの襲撃事件などでうかがえるように、それをとりまく環境はやさしくない。また最近のTV番組のワイドショーでは、ゴミ屋敷報道を繰り返し、反社会性を糾弾している。ゴミ屋敷の住人は、ただのなまけものではなく、ゴミに価値を見出し、その収集にいそしむ場合が多い。なかにはリサイクル業を営んでいたが、オイルショックが過ぎると売れ残るようになって、ゴミ屋敷化したものもあった。現代の繁栄に酔いしれ、廃墟の記憶や醜い現実から目をそらすために、「健全な」市民社会はバラック的なるものに敵意を抱くのだろうか。
だが、都市のサバイバルにおいてリサイクルの極限の姿は現われる。

14──シュヴァルの理想宮 出典=下村純一『不思議な建築』(講談社、1986)

14──シュヴァルの理想宮
出典=下村純一『不思議な建築』(講談社、1986)

15──静岡の乞食砦 出典=『バラック浄土』

15──静岡の乞食砦
出典=『バラック浄土』

註 
★一──鈴木博之『都市へ』(中央公論新社、一九九九)。
★二──藤森照信『明治の東京計画』(岩波書店、一九八二)。
★三──田山花袋『復刻版 東京震災記』(博文館新社、一九
九一)。
★四──A. J. Alletzhauser, Quake, Bloomsbury, 1997.
★五──『関東大震災六九年』(毎日新聞社、一九九二)や、小木新造ほか編『東京空間  一八六八─一九三〇』(筑摩書房、一九八六)などを参照。
★六──今和次郎『考現学入門』(筑摩書房、一九八七)。
★七──福井憲彦+陣内秀信編『都市の破壊と再生』(相模書房、二〇〇〇)。
★八──銀座文化史学会編『震災復興〈大銀座〉の街並みから』(泰川堂書店、一九九五)。
★九──山中恒+山中典子『間違いだらけの少年H』(辺境社、一九九九)。
★一〇──田邊平學「投下爆弾と日本家屋」(『建築雑誌』一九三七年一二月号)。
★一一──ちなみに、下元連「防毒実験に関する講演」(『建築雑誌』一九三九年二月号)は、防毒室をガスが侵入しない中廊下にとるのがいいとした。
★一二──中村綱「煉瓦造を再認識せよ」(『建築雑誌』一九三九年三月号)。
★一三──「竹筋コンクリートに関する資料」(『建築雑誌』一九四〇年一月号)。
★一四──『建築雑誌』一九三九年四月号。
★一五──「建築偽装一般指針」(『建築雑誌』一九四一年二月号)。
★一六──星野昌一「意匠・計画と防空」(『建築雑誌』一九四二年一二月号)。
★一七──越沢明『東京都市計画物語』(日本経済評論社、一九九一)。
★一八──山本祐弘「大阪復興建築の表情を描く」(『建築文化』一九四八年三月号)。
★一九──大河原春雄『東京の都市計画と建築行政』(鹿島出版会、一九九二)。
★二〇──蔵田周忠「バラック商店街の嘆き」(『建築文化』一九四七年七・八月号)。
★二一──「建築美の喪失」(『建築文化』一九四七年一一月号)。
★二二──中村登一「街の建築について」(『新建築』一九四七年八・九月号)。
★二三──牧野清「造形美における立体感」(『新建築』一九四七年三月)。
★二四──R・ヴェンチューリ『ラスベガス』(石井和紘ほか訳、SD選書、一九七八)。
★二五──★一の文献と同じ。
★二六──★一九の文献と同じ。
★二七──松平誠『ヤミ市』(ドメス出版、一九八五)。
★二八──芹沢高志『月面からの眺め』(毎日新聞社、一九九九)。
★二九──C・レヴィ=ストロース『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房、一九七六)。
★三〇──石山修武『バラック浄土』(相模書房、一九八二)。
★三一──布野修司『裸の建築家』(建築資料研究所、二〇〇〇)。

*この原稿は加筆訂正を施し、『戦争と建築』として単行本化されています。

>五十嵐太郎(イガラシ・タロウ)

1967年生
東北大学大学院工学研究科教授。建築史。

>『10+1』 No.21

特集=トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>野生の思考

1976年3月1日

>戦争と建築

2003年8月20日