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ウルバノフィリア | 森山学
Urbanophilia | Moriyama Manabu
掲載『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) pp.214-225

1499年、ヴェネツィアで出版された作者不詳(フランチェスコ・コロンナ修道士?、1433─1527)の物語『ポリフィリア(Poliphilo)の夢』は瞬く間にヨーロッパ中を席巻し、その後のさまざまな建築像の源泉のひとつとなった。というのも、主人公ポリフィリアによるヒロインを求める道程を描いたこの物語が、その途上で出会う多くの記念碑的建築物について新たな視点で解説を行なっているからである。そもそもヒロインであるポリア(Polia)の名前はポリス、つまり都市を表わしており、主人公ポリフィリア(Poli-philo)の名には、ポリア─愛、つまり都市(建築)を愛する者であることが内示されているのである。ここで語られる建築は、数学的比率による知的領域において探究されるものであるというよりはむしろ、観察者の身体との共感においてテイク・プレイスするかのような詩的なものであり、現象学的に把握されるものである。イーフー・トゥアンが造語「トポフィリア」を用いて、人間と場所との情緒的結び付きを語ったように、ここでは都市は人間の心の動きを媒介として、人間と共に存在する。
今回のタイトルに掲げた「ウルバノ─フィリア」という語は『ポリフィリアの夢』の以上のような解釈に基づいて理解される。ここから、ウルバノフィリアのさまざまなイメージを都市と人間との関わり方に応じて展開することとした。イデアとして想起されていた調和的都市は、遊歩者の眼差しの下でそのヴェールをはがされていく。見ることは、世界を分析し、解釈し、再構成することなのだ。背後に隠されたもうひとつの都市はやがてうねりとなって遊歩者の覗き窓から流出する。既に単純な線として語ることのできなくなった都市は、無数の線によるネットを構成することになる。人は気付かずにこの都市との協約を逃走の欲望によって結んでいるのかもしれない。

a 想起される都市

都市は超自然的中心を取り巻いて境界づけられるゆえに、本来それ自身優越した場所を形成している。しかし人はそれに先行して、あるいは同時に、都市のイデアを想起しているのである。
都市と人とのウルバノフィリア的関係は、ここではイデアへの憧れによって取り結ばれる。プラトンはこのイデアを地上に実現するためのユートピアについて論じた。「アトランティス」や「マグネシアの国」、『国家』における理想国家として示される彼の都市は、われわれの街路への侵入を許しはしない。それは詳細に形態化される際に真実なるものが見落とされることを恐れ、あくまで理念的段階にとどめられているからである。哲学者が統治し、彼らが想起する。完全な都市の影絵は、円や正方形などの規則的な幾何学形態によって表現されなければならなかった。
境界づけられた完全な都市は、しかし境界づけることによりわれわれの入城を誘いもする。ウルバノフィリアは次に完全なるものへの接近の欲求として示されるのだ。この時、一種の入会儀式が必要とされる。例えば、ユートピアの物語は、主人公の漂流から始められなければならないし、逆にカフカの主人公・測量師は『城』から閉めだされ続けなければならなかった。

Jens Lambrecht《アウトサイダー・シティ》1979

Jens Lambrecht《アウトサイダー・シティ》1979

イスラムの城壁に囲われた都市

イスラムの城壁に囲われた都市

A・W・ピュージン『イギリスのキリスト教建築再興の擁護』(1843)より この目録表的風景はピュージンのゴシック・リヴァイヴァル擁護を表わしている。25の教会や礼拝堂や学校が、日の出の光を浴びて、まるでゴシックの新しいエルサレムのように並べられている。この風景は、実際にはディテールの氾濫ともなろうが、想像の中ではとてもドラマティックな効果を与えている。

A・W・ピュージン『イギリスのキリスト教建築再興の擁護』(1843)より
この目録表的風景はピュージンのゴシック・リヴァイヴァル擁護を表わしている。25の教会や礼拝堂や学校が、日の出の光を浴びて、まるでゴシックの新しいエルサレムのように並べられている。この風景は、実際にはディテールの氾濫ともなろうが、想像の中ではとてもドラマティックな効果を与えている。

キリストのイェリコ入城、推定1330頃 罪深き現世の典型的都市イェリコは迷宮として描かれる。キリストがこの迷宮を練り歩くことはその都市を浄罪する行為となる。またユダヤ文化においては、イスラエルの民がイェリコ奪還のため、7重の壁をもつこの都市の周囲を7回行進したと語られる。彼らは迷宮のもつ儀礼的な防御機能を無効にしてしまうのである。

キリストのイェリコ入城、推定1330頃
罪深き現世の典型的都市イェリコは迷宮として描かれる。キリストがこの迷宮を練り歩くことはその都市を浄罪する行為となる。またユダヤ文化においては、イスラエルの民がイェリコ奪還のため、7重の壁をもつこの都市の周囲を7回行進したと語られる。彼らは迷宮のもつ儀礼的な防御機能を無効にしてしまうのである。

C・N・ルドゥー《テリュッソン夫人邸》 1781竣工 ユートピア文学の性質をもつ彼の『芸術、風俗、法制との関係の下に考察された建築』(1804)は、彼の建築作品によって構成される孤立した世界としての理想都市についての著作/作品集である。冒頭で彼の旅人は塩水を汲み上げる深い洞窟を通り抜けなければならなかった。実際にパリに建設されたこの邸宅のパースは、物語の中の入会儀式のための洞窟を思わせる。

C・N・ルドゥー《テリュッソン夫人邸》
1781竣工
ユートピア文学の性質をもつ彼の『芸術、風俗、法制との関係の下に考察された建築』(1804)は、彼の建築作品によって構成される孤立した世界としての理想都市についての著作/作品集である。冒頭で彼の旅人は塩水を汲み上げる深い洞窟を通り抜けなければならなかった。実際にパリに建設されたこの邸宅のパースは、物語の中の入会儀式のための洞窟を思わせる。

b 構成される都市

都市は想起されるばかりではない。建築家によって都市は実際に建設される必要がある。都市への愛は同時に、都市への能動的な関与である。彼らは都市から収集した要素を薬籠に蓄え、それを新たに配置する。
G・B・ピラネージによる『古代ローマのカンプス・マルティウス』(1761)はその最たるものである。その付録「イコノグラフィーア」にはローマに対する考古学者としての彼の視線が現われている。この地図には既存の古代遺跡や、散逸し地層化したその他の考古学資料がコラージュされる。さらに建築家としての彼は自身の創造による空想的建築によって地図の余白を埋め尽くした。都市への視線は分析し、収集し、構成し、そして創造する。この18世紀の熱狂はル・コルビュジエのベルリン計画(1961)において再び見出すことができる。しかし彼のアサンブラージュ・シティには考古学的視点は見受けられない。この計画を埋め尽くすものは、彼自身が考案したさまざまな形態のタイプに基づく建築群のみとなってしまう。

Taddeo di Bartolo「ローマの眺め」、1414 境界づけられた円形のこのローマにはもはや中心は存在しない。たださまざまなモニュメントが連立するだけである。都市は抽出された要素によってイメージされている。これはル・コルビュジエの「ローマの教訓」の図版を思い出させる。ル・コルビュジエは特徴的な形態を持つモニュメントが建つローマの眺めを、純粋幾何学形態と並置し、彼の手法/思想としての幾何学をローマの権威に負っている。またローマを把握する際に道路が選択されていない点も示唆的である。

Taddeo di Bartolo「ローマの眺め」、1414
境界づけられた円形のこのローマにはもはや中心は存在しない。たださまざまなモニュメントが連立するだけである。都市は抽出された要素によってイメージされている。これはル・コルビュジエの「ローマの教訓」の図版を思い出させる。ル・コルビュジエは特徴的な形態を持つモニュメントが建つローマの眺めを、純粋幾何学形態と並置し、彼の手法/思想としての幾何学をローマの権威に負っている。またローマを把握する際に道路が選択されていない点も示唆的である。

G・B・ピラネージ『暖炉その他の建築各部の様々な装飾法』(1769)より さまざまな様式に基づく装飾デザインの図版によって構成されたこの本は、実務的パターン・ブックとして大きな直接的影響をヨーロッパにもたらした。ここに挙げた図は、建築の構法的なものから、建築物個体、装飾詳細部など、さまざまに収集された要素が配置されている。ここには19世紀フランスの建築家J・N・L・デュランのような同一縮尺の導入はいまだ見られない。どんな体系化ももたらされないまま、都市や室内から収集されたものが籠の中にばらまかれたままなのである。

G・B・ピラネージ『暖炉その他の建築各部の様々な装飾法』(1769)より
さまざまな様式に基づく装飾デザインの図版によって構成されたこの本は、実務的パターン・ブックとして大きな直接的影響をヨーロッパにもたらした。ここに挙げた図は、建築の構法的なものから、建築物個体、装飾詳細部など、さまざまに収集された要素が配置されている。ここには19世紀フランスの建築家J・N・L・デュランのような同一縮尺の導入はいまだ見られない。どんな体系化ももたらされないまま、都市や室内から収集されたものが籠の中にばらまかれたままなのである。

V・ダレロップ《ヨーロッパ諸都市への研修旅行後の建築家の自画像》1896 19世紀の建築家の歴史主義的態度を風刺している。彼らの頭に詰まった採集されてきたさまざまな様式建築は、T・コールの《建築家の夢》(1840)やC・R・コッカレルの《教授の夢》(1849)のように、建築家に壮大な夢を見させる。

V・ダレロップ《ヨーロッパ諸都市への研修旅行後の建築家の自画像》1896
19世紀の建築家の歴史主義的態度を風刺している。彼らの頭に詰まった採集されてきたさまざまな様式建築は、T・コールの《建築家の夢》(1840)やC・R・コッカレルの《教授の夢》(1849)のように、建築家に壮大な夢を見させる。

ピエール・パット「ルイ15世を賛えて建てられたフランスにおける記念碑編纂」、1767 ルイ15世の像を立てる記念公園の設計競技が1748年に行なわれた。パットもこれに参加したが、彼の功績はのちに他の応募案を収集し1枚のパリの地図の上に併載した点にある。むろんそれはパリの全面的改造計画案ではなく、実現可能な個々の案によるフィクショナルな競演である。これは都市計画の全体的思考の可能性の最初の現われと、現実と空想の両都市の同時表現の点で評価される。

ピエール・パット「ルイ15世を賛えて建てられたフランスにおける記念碑編纂」、1767
ルイ15世の像を立てる記念公園の設計競技が1748年に行なわれた。パットもこれに参加したが、彼の功績はのちに他の応募案を収集し1枚のパリの地図の上に併載した点にある。むろんそれはパリの全面的改造計画案ではなく、実現可能な個々の案によるフィクショナルな競演である。これは都市計画の全体的思考の可能性の最初の現われと、現実と空想の両都市の同時表現の点で評価される。

セザール・ダリィ「パリのアパートメント・ハウスのプラン」、19世紀 19世紀前半の都市の人口増加やブルジョワジーの台頭は、いまだ建築の対象とされなかったアパートメント・ハウスに関心を払わせることになった。オスマニザシオンの過程ではそれは都市の原理からも重要な問題であった。当時もっとも重要な情報源はダリィの『建築と公共工事の一般的雑誌』(1839-88)で、彼はアパートメント・ハウスに関する記事の出版を通してオスマンの都市計画を支えたと言える。

セザール・ダリィ「パリのアパートメント・ハウスのプラン」、19世紀
19世紀前半の都市の人口増加やブルジョワジーの台頭は、いまだ建築の対象とされなかったアパートメント・ハウスに関心を払わせることになった。オスマニザシオンの過程ではそれは都市の原理からも重要な問題であった。当時もっとも重要な情報源はダリィの『建築と公共工事の一般的雑誌』(1839-88)で、彼はアパートメント・ハウスに関する記事の出版を通してオスマンの都市計画を支えたと言える。

12人の建築家「理想的計画」の一部、1978 上段左からヴェンチューリ、ロウ、グレイブス、下段左からR・クリエ、ロッシ、L・クリエによって各々描かれている。これはG・B・ノッリによって1748年に作成されたローマ図に、彼らが各々独自の建築作風に基づく建築を挿入したものである。

12人の建築家「理想的計画」の一部、1978
上段左からヴェンチューリ、ロウ、グレイブス、下段左からR・クリエ、ロッシ、L・クリエによって各々描かれている。これはG・B・ノッリによって1748年に作成されたローマ図に、彼らが各々独自の建築作風に基づく建築を挿入したものである。

c 歩かれる都市

O・F・ボルノウは歩くことに2つの意味を見出した。その一方は外的な目的を志向する「交通」としてのもので自己疎外されたもの、他方は「さすらい歩くこと」である。後者は外的目的へのあまりにも大きな執着からの逃亡である。疎外以前の人間の生のより深い本質への回帰なのだ。ここでは都市を歩くこの2つのあり方を通してウルバノフィリアについて省察する。
どちらにしても(ここではK・リンチの中立的立場がふさわしい)、想起された全一なる全体としての都市は、歩く者の部分的な都市の理解に回収されてしまう。空間は線として把握され、視線はいくつかの視角に切り取られたシークェンスとしての都市の、その表層をさまよう。彼らの視線が収集する行為であるとすれば、それは創造のためではない。ただ集められるだけであり、次いで分析され統計されるかもしれない。全体性に向かっての結論は統計されたデータが帰納的に提示するのみである。

ル・コルビュジエ「ラ・ロシェル=パリスの都市計画」、1945─46 ル・コルビュジエの都市計画図に示されるスケールの「徒歩1時間」の記述は、彼が都市を空間的に把握する際に、歩く人間の身体による時空間に基づいていたことを証明する。4キロメートルを一定の速度で歩かなければならないこの人物像を、ル・コルビュジエが、景観の変化を眺め歩き精神的喜びを感じるものとして定義した「建築的プロムナード」の可能性から再解釈することもできる。

ル・コルビュジエ「ラ・ロシェル=パリスの都市計画」、1945─46
ル・コルビュジエの都市計画図に示されるスケールの「徒歩1時間」の記述は、彼が都市を空間的に把握する際に、歩く人間の身体による時空間に基づいていたことを証明する。4キロメートルを一定の速度で歩かなければならないこの人物像を、ル・コルビュジエが、景観の変化を眺め歩き精神的喜びを感じるものとして定義した「建築的プロムナード」の可能性から再解釈することもできる。

Hans Dieter Schaal「参照システムとしての ルート・システム」、1978 迷路でもあるはずの都市から道が盛り上がり、各モニュメントとの関係性だけがあらわにされる。

Hans Dieter Schaal「参照システムとしての
ルート・システム」、1978
迷路でもあるはずの都市から道が盛り上がり、各モニュメントとの関係性だけがあらわにされる。

中世都市の地図 中世の地図はしばしば重要な記念碑などと道のみを示している。その道は重要なポイントをただ結ぶだけのものとしてのみ描かれる。

中世都市の地図
中世の地図はしばしば重要な記念碑などと道のみを示している。その道は重要なポイントをただ結ぶだけのものとしてのみ描かれる。

今和次郎「銀座の通行人の靴の採集盤」 (『考現学』より) 関東大震災後の1920年代、今和次郎らは考現学をうたい、都市の移りゆくさまざまな現象、例えば「都会における各種の人びとの各種の場合における歩速度や歩き方、腰のかけ方やすわり方、身体の細部における癖、街路上における通行人の構成……」を分析的に記録していた。その細分された統計のグラフや表の集合は、都市の全体性の表現を試みながら最初からその主題を欠いている。

今和次郎「銀座の通行人の靴の採集盤」
(『考現学』より)
関東大震災後の1920年代、今和次郎らは考現学をうたい、都市の移りゆくさまざまな現象、例えば「都会における各種の人びとの各種の場合における歩速度や歩き方、腰のかけ方やすわり方、身体の細部における癖、街路上における通行人の構成……」を分析的に記録していた。その細分された統計のグラフや表の集合は、都市の全体性の表現を試みながら最初からその主題を欠いている。

都築響一『Tokyo Style』(京都書院、1993) 現今のインテリア雑誌を批判しながら「居心地のいい部屋」を撮影したこの写真集は、東京で生活する個々の若者の真の姿を描写している。

都築響一『Tokyo Style』(京都書院、1993)
現今のインテリア雑誌を批判しながら「居心地のいい部屋」を撮影したこの写真集は、東京で生活する個々の若者の真の姿を描写している。

港区高輪付近の古地図、1779 東海道が海に面し品川宿の栄えていた時代。明治に入り武家屋敷は皇族らの邸宅に代わり、海上には現在のJR山の手線が走る。やがて海は埋め立てられ路面電車が走り出す。島崎藤村の『桜の実の熟する時』(1929)の舞台となったのはその頃のこと。現在は埋立地があまりにも広くなり海の街の面影は失われてしまったかのようだ。古地図の旅に想像力をかきたてられない者は、ベンヤミンが語るように「手の施しようがない」。

港区高輪付近の古地図、1779
東海道が海に面し品川宿の栄えていた時代。明治に入り武家屋敷は皇族らの邸宅に代わり、海上には現在のJR山の手線が走る。やがて海は埋め立てられ路面電車が走り出す。島崎藤村の『桜の実の熟する時』(1929)の舞台となったのはその頃のこと。現在は埋立地があまりにも広くなり海の街の面影は失われてしまったかのようだ。古地図の旅に想像力をかきたてられない者は、ベンヤミンが語るように「手の施しようがない」。

G・E・ドゥボール「裸の街、都市の精神地理学に基づく回転するプレートによる仮定」、1957 サイコジオグラフィは、都市の地図に個人的な心理的距離・雰囲気に基づく書き換えを要求する。そこでは都市と人は外的目的に基づきながらも、知覚を介して心理性を反映させながら、相互に影響関係を結ぶウルバノフィリア的関係にある。絶えず繰り返される反省は、地図のみならず、ひとつの都市をも作り変えると言える。

G・E・ドゥボール「裸の街、都市の精神地理学に基づく回転するプレートによる仮定」、1957
サイコジオグラフィは、都市の地図に個人的な心理的距離・雰囲気に基づく書き換えを要求する。そこでは都市と人は外的目的に基づきながらも、知覚を介して心理性を反映させながら、相互に影響関係を結ぶウルバノフィリア的関係にある。絶えず繰り返される反省は、地図のみならず、ひとつの都市をも作り変えると言える。

レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ 「夜、首都の街を歩く〈観察するふくろう〉」 『夜のパリ』より レチフは小説『パリの夜』(1788)、『夜の週日』(1790)、『パリの二十夜』(1794)によって革命期のパリを描写した。彼はマントをまとい夜のパリを徘徊する「観察するふくろう」となり、秘められた虚栄の都市のヴェールをめくった。「影と対照をなす街灯のかすかな光も、影を消しはしない。光は影をいっそうきわだたせる。(…中略…)私は「人間」を知るためひとりさまよい歩いた。だれもが目を閉じているときに、見るべきことのなんと多いことか!」。

レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ
「夜、首都の街を歩く〈観察するふくろう〉」
『夜のパリ』より
レチフは小説『パリの夜』(1788)、『夜の週日』(1790)、『パリの二十夜』(1794)によって革命期のパリを描写した。彼はマントをまとい夜のパリを徘徊する「観察するふくろう」となり、秘められた虚栄の都市のヴェールをめくった。「影と対照をなす街灯のかすかな光も、影を消しはしない。光は影をいっそうきわだたせる。(…中略…)私は「人間」を知るためひとりさまよい歩いた。だれもが目を閉じているときに、見るべきことのなんと多いことか!」。

d 覗かれる都市

しかし都市を歩く人の目はただその表層をさまようばかりではない。見ることは都市を読むことにつながる。それは統計化によって解釈されるのではなく、都市のファンタスマゴリーに遊び、都市に潜む「人目につかない深く隠された相貌」(ベンヤミン)を都市の裂け目から覗き込むことである。その裂け目は日常の、われわれが知らずに通り過ぎてしまうような街路に潜んでいる。
メルシエが描いたパリは、壁に埋設された排水管に常に汚物が充満したパリであり、死人と病人が病院のひとつのベッドで一緒に寝かされているパリであった。ベンヤミンは「パリをそのパサージュや門や墓地や売春宿や駅」、「殺人と暴動、道路網の血塗られた交差点、ラブホテル、大火事」、夜のパリ、地下世界つまり地下鉄、下水道網、カタコンベ、湧水、採石場から再構成することを求めている。彼らの視線は都市を新たにかたち作るのだ。
メルシエやレチフ・ド・ラ・ブルトンヌが作り上げたパリは、ベンヤミン、アジェ、ブラッサイらの遊歩者によって受け継がれていく。またシモーヌ・ヴェイユは覗くだけでは足らず、自ら女工の世界へ飛び込み、彼女らの思考の不可能性について思考を巡らした。東京もまた『日和下駄』や『断腸亭日乗』で知られる永井荷風をはじめとする遊歩者を育み、そして彼らに育てられてきた。

ナイルのネクロポリス L・マンフォードは死者の都市ネクロポリスを生者の都市の先駆であり核であると述べている。エジプトにおける死への崇拝は、その都市に超越する生命のヴィジョンを形成することを試みてきた。このナイル地域下流の小さな産業都市に隣接するネクロポリスはボートで下ることで訪問することができる。多くの石灰の小さなドームは互いに接しながら拡がり、個人の生の表現はあの世においては表現されえないものであることを語っている。

ナイルのネクロポリス
L・マンフォードは死者の都市ネクロポリスを生者の都市の先駆であり核であると述べている。エジプトにおける死への崇拝は、その都市に超越する生命のヴィジョンを形成することを試みてきた。このナイル地域下流の小さな産業都市に隣接するネクロポリスはボートで下ることで訪問することができる。多くの石灰の小さなドームは互いに接しながら拡がり、個人の生の表現はあの世においては表現されえないものであることを語っている。

A・キルヒャー 「ディオニュソスの耳」のダイアグラム 406年アテネ人の遠征軍にディオニュソスが勝利したのち、彼は採石場に捕虜のギリシア人たちを送った。彼は囚人たちに対して万全な監視が可能となるよう、囚人たちのささやきさえ聞き取れるような方法でその地下牢を建設した。それは人間の耳をモデルにした岩の聴覚空間であった。

A・キルヒャー
「ディオニュソスの耳」のダイアグラム
406年アテネ人の遠征軍にディオニュソスが勝利したのち、彼は採石場に捕虜のギリシア人たちを送った。彼は囚人たちに対して万全な監視が可能となるよう、囚人たちのささやきさえ聞き取れるような方法でその地下牢を建設した。それは人間の耳をモデルにした岩の聴覚空間であった。

ジェームズ・アンソール  《人間の群を駆り出す死》1896 悪魔や亡霊がひとつのテーマであった19世紀末の象徴主義の時代、ベルギーの画家アンソールもまた幻想的で病的な版画作品を制作していた。それは没落してゆく文明社会の生に潜む死の香りを嗅ぎつける作業である。このエッチングには都市の住民のその不安に対するグロテスクな動揺が描かれている。

ジェームズ・アンソール
 《人間の群を駆り出す死》1896
悪魔や亡霊がひとつのテーマであった19世紀末の象徴主義の時代、ベルギーの画家アンソールもまた幻想的で病的な版画作品を制作していた。それは没落してゆく文明社会の生に潜む死の香りを嗅ぎつける作業である。このエッチングには都市の住民のその不安に対するグロテスクな動揺が描かれている。

プリュヌゾーによるパリの下水道の探検 V・ユーゴー『レ・ミゼラブル』(1862)より 「怪物のはらわた」であるパリの下水道は多くの想像をかきたててきた。プリュヌゾーの「最も勇敢」な探検は1805年から12年間にわたり実際に行われた。ジャン・ヴァルジャンが入り込んだ下水道もまたオスマンによって衛生的で規則正しく整備される前の冥府的世界であった。

プリュヌゾーによるパリの下水道の探検
V・ユーゴー『レ・ミゼラブル』(1862)より
「怪物のはらわた」であるパリの下水道は多くの想像をかきたててきた。プリュヌゾーの「最も勇敢」な探検は1805年から12年間にわたり実際に行われた。ジャン・ヴァルジャンが入り込んだ下水道もまたオスマンによって衛生的で規則正しく整備される前の冥府的世界であった。

映画『アンダーグラウンド』 (監督=エミール・クストリッツア、1995) 第二次世界大戦時に地下室に避難し、冷戦時代に突入してもなお、だまされ続けて祖国ユーゴスラヴィアのために武器を製造し続けた人々の物語。舞台は1991年の内戦まで続き、それゆえ政治論争にまで及んだ問題作。地上の変転しやすく欺瞞に満ちた世界に比して、地下は古き良き時代のままである。またもうひとつの地下空間、ヨーロッパ各都市を結ぶ地下トンネルは、地上の国境に対比される自由な空間である。

映画『アンダーグラウンド』
(監督=エミール・クストリッツア、1995)
第二次世界大戦時に地下室に避難し、冷戦時代に突入してもなお、だまされ続けて祖国ユーゴスラヴィアのために武器を製造し続けた人々の物語。舞台は1991年の内戦まで続き、それゆえ政治論争にまで及んだ問題作。地上の変転しやすく欺瞞に満ちた世界に比して、地下は古き良き時代のままである。またもうひとつの地下空間、ヨーロッパ各都市を結ぶ地下トンネルは、地上の国境に対比される自由な空間である。

レンゾ・ピアノ「ポツダム広場再開発計画」、 1992(工期1996─) ベルリンのポツダム広場に建つオフィス・タワーのための基礎工事。地下わずか数メートルのところに水脈があるため、大量の地下水の汲み上げが予想された。しかし地盤沈下等のおそれがあり、ベルリンの市街地で、潜水夫による工事が行なわれた。

レンゾ・ピアノ「ポツダム広場再開発計画」、
1992(工期1996─)
ベルリンのポツダム広場に建つオフィス・タワーのための基礎工事。地下わずか数メートルのところに水脈があるため、大量の地下水の汲み上げが予想された。しかし地盤沈下等のおそれがあり、ベルリンの市街地で、潜水夫による工事が行なわれた。

4人の異教徒の火刑 『殉教者についての本』(フォックス、1648)より メアリー1世が英国女王の頃(1553─58)、プロテスタントは迫害され始めた。人々は処刑を取り囲んで見物している。

4人の異教徒の火刑
『殉教者についての本』(フォックス、1648)より
メアリー1世が英国女王の頃(1553─58)、プロテスタントは迫害され始めた。人々は処刑を取り囲んで見物している。

E・アジェ《ショワジー門、城壁跡》1913 アジェの写真にはベル・エポックのパリの快楽はなく、虚栄の背後に潜む非現実的世界が紡ぎ出されている。彼のこの感受性は街頭の花屋や籠売りといった質素 な民衆を被写体ともした。1910年以降彼は城壁の外に住む屑屋の姿も捉えるようになる。屑屋は消費文化の影の存在であり、時代の寵児でもあった。

E・アジェ《ショワジー門、城壁跡》1913
アジェの写真にはベル・エポックのパリの快楽はなく、虚栄の背後に潜む非現実的世界が紡ぎ出されている。彼のこの感受性は街頭の花屋や籠売りといった質素
な民衆を被写体ともした。1910年以降彼は城壁の外に住む屑屋の姿も捉えるようになる。屑屋は消費文化の影の存在であり、時代の寵児でもあった。

「鮫ヶ橋貧家の夕」、1903(明治36) 『東京名所図絵』より かつての貧民窟・鮫ヶ橋は現在の赤坂離宮の西側の谷地に、陣内秀信の「空間人類学」的解釈にも照応して、存在していた。明治20年から33年にかけての警視庁の取締規則によって徐々にスラムクリアンスが行なわれていくが、その地理学的空間は今も健在である。

「鮫ヶ橋貧家の夕」、1903(明治36)
『東京名所図絵』より
かつての貧民窟・鮫ヶ橋は現在の赤坂離宮の西側の谷地に、陣内秀信の「空間人類学」的解釈にも照応して、存在していた。明治20年から33年にかけての警視庁の取締規則によって徐々にスラムクリアンスが行なわれていくが、その地理学的空間は今も健在である。

ブラッサイ《〈スージー〉にて、顔見世》 1932頃 1924年にパリにやって来たブラッサイは、写真集『夜のパリ』(1932)や『1930年代のパリ』(1976)で隠されたパリの姿を撮影した写真家として知られる。彼はパリを歩き写真を撮ることで、日常的なパリの現実を超現実に再構成した。

ブラッサイ《〈スージー〉にて、顔見世》
1932頃
1924年にパリにやって来たブラッサイは、写真集『夜のパリ』(1932)や『1930年代のパリ』(1976)で隠されたパリの姿を撮影した写真家として知られる。彼はパリを歩き写真を撮ることで、日常的なパリの現実を超現実に再構成した。

「日本人のあいさつ」「日本人の休息法」 「目上の人に平伏する日本人」 R・オールコック『大君の都』(1863)より 1859年(安政6)、オールコックは英国駐日総領事に任命され来日、港区高輪の東禅寺に公使館を設置した。この書は1862年(文久2)の一時帰国に至るまでの日本滞在記である。挿絵として日本人の日常が描かれており、それぞれに「日本人の」という形容詞付きの題が掲げられている。

「日本人のあいさつ」「日本人の休息法」
「目上の人に平伏する日本人」
R・オールコック『大君の都』(1863)より
1859年(安政6)、オールコックは英国駐日総領事に任命され来日、港区高輪の東禅寺に公使館を設置した。この書は1862年(文久2)の一時帰国に至るまでの日本滞在記である。挿絵として日本人の日常が描かれており、それぞれに「日本人の」という形容詞付きの題が掲げられている。

G・F・ビゴー『芸者の一日』の表紙、1899(明治32) 1882年(明治15)フランス人画家ビゴーはジャポニスムに惹かれて来日し、明治32年まで滞在する。その間に風刺雑誌や、『女中の一日』(明治32)等、各業種のドキュメンタリーとしての画集を刊行した。この図版は芸者に関する画集の表紙である。

G・F・ビゴー『芸者の一日』の表紙、1899(明治32)
1882年(明治15)フランス人画家ビゴーはジャポニスムに惹かれて来日し、明治32年まで滞在する。その間に風刺雑誌や、『女中の一日』(明治32)等、各業種のドキュメンタリーとしての画集を刊行した。この図版は芸者に関する画集の表紙である。

堀野正雄「女学生の行進」、1930年代

堀野正雄「女学生の行進」、1930年代

エラリィ・クイーン『災厄の町』(ハヤカワ文庫、1977) ベンヤミンによれば遊歩者は探偵そのものである。都市に潜む謎を解明し構築していく探偵の作業のなかで、都市は意外な相貌を見せる。推理小説に掲載される地図は小説を歩き、トリックを発見する鍵となる。

エラリィ・クイーン『災厄の町』(ハヤカワ文庫、1977)
ベンヤミンによれば遊歩者は探偵そのものである。都市に潜む謎を解明し構築していく探偵の作業のなかで、都市は意外な相貌を見せる。推理小説に掲載される地図は小説を歩き、トリックを発見する鍵となる。

e 縫合される都市

遊歩者の視線の下で、豊かな相貌を示し始めた都市はその裂け目を度々塞がれてきた。
都市は暗部へと人を誘いつつも、確かにある種の嫌悪感を与え、彼らにその暗部を太陽の光のもとで明るみに出す欲求を駆り立てさせる。都市を切り裂き腫瘍を取り除き、最後に縫合する。それは衛生的で健康的な「輝く都市」への第一歩である。医学の祖ヒポクラテスが思案した健康な都市のための条件は、時代を経て建築家たちに受け継がれ、風配図に基づくような衛生的な都市が計画されてきた。瘴気を散らすために風が通り、悪しき存在と行為さえも見通す構造が都市には必要なのだ。
しかしそれは同時に未知なるものの隠蔽でもある。ペスト患者を隔離し病原を石灰で塗り込めること、都市は監視の制度に基づき計画され、排除しきれない未知なる余剰部分は塗り込められる運命にあるのだ。
ワルシャワ・ゲットーの様子を忠実に描いたと評価された映画『コルチャック先生』(監督=アンジェイ・ワイダ、1990)には、ゲットーの子ども達による演劇の場面がある。塗り込められた側である子どもが、壁の窓が開けられることへの願いを熱演していた。

聖イノサン墓地 パリでは中世以来、教区墓地が市内に点在するようになる。人口急増とペスト等による死者の増加によって18世紀には埋葬しきれずに腐敗した死体が墓地で空 気にさらされたままとなる。墓地や教区教会は生者を死に至らしめる瘴気に満ちた都市の汚染源となる。また隣家の地下室の壁を突き破り墓地の泥土が流入する などの事件もあった。図版の聖イノサン墓地はそのもっとも有名な例であり、1780年に閉鎖。墓地は市内から郊外のエーリュシオン的風景の中へと排除され る。

聖イノサン墓地
パリでは中世以来、教区墓地が市内に点在するようになる。人口急増とペスト等による死者の増加によって18世紀には埋葬しきれずに腐敗した死体が墓地で空
気にさらされたままとなる。墓地や教区教会は生者を死に至らしめる瘴気に満ちた都市の汚染源となる。また隣家の地下室の壁を突き破り墓地の泥土が流入する
などの事件もあった。図版の聖イノサン墓地はそのもっとも有名な例であり、1780年に閉鎖。墓地は市内から郊外のエーリュシオン的風景の中へと排除され
る。

パリの公衆便所 パリ市内に配置された公衆便所は19世紀パリならではの光景を作り出し出ていた。衛生対策のために設けられたそれらは、市内の異臭を引き受ける場所となっ た。またその街灯は夜のパリさえ啓蒙するものでもあった。しかしそれゆえに異臭の拠点であるばかりでなく、同性愛者の密会の場と化すのである。

パリの公衆便所
パリ市内に配置された公衆便所は19世紀パリならではの光景を作り出し出ていた。衛生対策のために設けられたそれらは、市内の異臭を引き受ける場所となっ
た。またその街灯は夜のパリさえ啓蒙するものでもあった。しかしそれゆえに異臭の拠点であるばかりでなく、同性愛者の密会の場と化すのである。

花電車 花電車は庶民の乗り物・路面電車を飾り付け、天皇に関する祝賀の度にそれを走らせ、帝都を宣伝し啓蒙するために用いられた。図版は1930(昭和5)年の 帝都復興記念奉祝のための車両である。花電車は6両で構成されていた。左手が3両目の「天の岩戸」で岩戸から復興した都市が現われる。右手が6両目の「復 活」で東京のさらなる発展を示している。

花電車
花電車は庶民の乗り物・路面電車を飾り付け、天皇に関する祝賀の度にそれを走らせ、帝都を宣伝し啓蒙するために用いられた。図版は1930(昭和5)年の
帝都復興記念奉祝のための車両である。花電車は6両で構成されていた。左手が3両目の「天の岩戸」で岩戸から復興した都市が現われる。右手が6両目の「復
活」で東京のさらなる発展を示している。

リチャード・デュッカー《ワイブリンゲンのサナトリウム》1928 近代建築は彼らの作品とその発表媒体にサナトリウムのイメージを付与した。白い壁、広いテラス、テラスに置かれたロング・チェア。近代人はそこで日光浴をし、結核を予防し、健康へと邁進する。彼らの都市はサナトリウム都市とも言える。しかしトーマス・マンが描いた『魔の山』(1924)の上のサナトリウム で、その規則的でゆっくりと流れる時間を生きていたのは、衛生的で明晰な近代人ではなく、あまりにも特徴的で混乱した個性の持ち主たちであった。

リチャード・デュッカー《ワイブリンゲンのサナトリウム》1928
近代建築は彼らの作品とその発表媒体にサナトリウムのイメージを付与した。白い壁、広いテラス、テラスに置かれたロング・チェア。近代人はそこで日光浴をし、結核を予防し、健康へと邁進する。彼らの都市はサナトリウム都市とも言える。しかしトーマス・マンが描いた『魔の山』(1924)の上のサナトリウム
で、その規則的でゆっくりと流れる時間を生きていたのは、衛生的で明晰な近代人ではなく、あまりにも特徴的で混乱した個性の持ち主たちであった。

オスマニザシオンの風景、1877 1852年、ナポレオン3世が帝位に就くと、翌年G・オスマン男爵をセーヌ県知事に任命した(─1870)。皇帝と知事によるパリ改造は、交通循環、衛生・通風、美化、治安・戦略、人口分散などの目的から着手された。写真はその街路整備計画に基づく工事風景。このパリ大改造は市民を文字通り疎外すること になる。

オスマニザシオンの風景、1877
1852年、ナポレオン3世が帝位に就くと、翌年G・オスマン男爵をセーヌ県知事に任命した(─1870)。皇帝と知事によるパリ改造は、交通循環、衛生・通風、美化、治安・戦略、人口分散などの目的から着手された。写真はその街路整備計画に基づく工事風景。このパリ大改造は市民を文字通り疎外すること
になる。

セメントガンの広告 この広告が『レスプリ・ヌーヴォー』誌に掲載されることは、ル・コルビュジエのセメントガンに関する宣言でもある。近代建築の白い壁は装飾の排除を意味し ていた。しかしA・ヴィドラーは19世紀の不気味な壁で形作られたパノプティシズム(監獄など)が、白い清潔さ(救世軍など)の影に隠されたにすぎないこ とを指摘。セメントガンは、かつての石灰同様、都市の不純なものを壁に封じ込める。

セメントガンの広告
この広告が『レスプリ・ヌーヴォー』誌に掲載されることは、ル・コルビュジエのセメントガンに関する宣言でもある。近代建築の白い壁は装飾の排除を意味し
ていた。しかしA・ヴィドラーは19世紀の不気味な壁で形作られたパノプティシズム(監獄など)が、白い清潔さ(救世軍など)の影に隠されたにすぎないこ
とを指摘。セメントガンは、かつての石灰同様、都市の不純なものを壁に封じ込める。

f 爆発する都市

塗りこめきれない存在はある日、縫合された裂け目を破って爆発を起こす。それはアスファルトの下のガス管かもしれないし、地殻プレートの作り出すエネルギーかもしれない。遊歩者たちに覗かれていた異質化された存在は、爆発することで自己を主張するしかない。同時にミシュレのような歴史家はのちにアナール学派に影響を与えた彼なりの視点で、その爆発──フランス革命──を克明に記録した。われわれは都市の非日常的な狂気/愛の現出と、それを記録する遊歩者的視点を発見する。
またわれわれは世界=都市の中でめまいを起こし嘔吐する、疎外された自己でもある。爆発の予兆はわれわれ自身の内に既に潜んでいる。

パウル・クレー《洪水が都市を洗い流す》1927

パウル・クレー《洪水が都市を洗い流す》1927

パリの渡し屋 ヴィクトル・フールネル『パリの古い道路』より 19世紀にパリの下水道が整備されるまで、パリの道路は雨が降る度に、路央排水溝や、地下下水道の充満した汚物が路上に氾濫した。渡し屋はその道路を渡る人々を背負って渡った。

パリの渡し屋
ヴィクトル・フールネル『パリの古い道路』より
19世紀にパリの下水道が整備されるまで、パリの道路は雨が降る度に、路央排水溝や、地下下水道の充満した汚物が路上に氾濫した。渡し屋はその道路を渡る人々を背負って渡った。

ピシャ「ごみ箱都市」、1969 ベルギーのイラストレーターによる現代の風刺。現在、都市が量産するごみは爆発的に増加し深刻な都市問題となっている。また都市や建築そのものがごみ予備群、あるいはごみそのものとなっている。

ピシャ「ごみ箱都市」、1969
ベルギーのイラストレーターによる現代の風刺。現在、都市が量産するごみは爆発的に増加し深刻な都市問題となっている。また都市や建築そのものがごみ予備群、あるいはごみそのものとなっている。

民衆のフットボール、時代不詳 中世の英国諸都市では、民衆のフットボールは特定のルールも競技場もなく、街路で行なわれた。選手の数も決まっていなければ、観客と選手の区別もなかっ た。衝動に駆られた観客が選手となるのだ。民衆の衝動は「文明化の過程」においてルール化され、一定の面積の中に囲い込まれ、「スポーツ」化されてい く。

民衆のフットボール、時代不詳
中世の英国諸都市では、民衆のフットボールは特定のルールも競技場もなく、街路で行なわれた。選手の数も決まっていなければ、観客と選手の区別もなかっ
た。衝動に駆られた観客が選手となるのだ。民衆の衝動は「文明化の過程」においてルール化され、一定の面積の中に囲い込まれ、「スポーツ」化されてい
く。

連盟祭、1790.7.14 フランス革命後の数年間、多くの祭典がフランスで催された。都市を練り歩き記念碑を巡る祭典は、適切な空間と経路の選択やシミュラークルによって都市の各 地点に特別な意味を付与し、都市を再編成するものであった。しかしそれは革命的心性のみではなく民衆的伝統的心性さえも象徴した。そもそもミシュレに従え ば、権力側の構想にかかわらず、自発的に民衆の内に湧き上がった爆発的行動こそが祭典であった。

連盟祭、1790.7.14
フランス革命後の数年間、多くの祭典がフランスで催された。都市を練り歩き記念碑を巡る祭典は、適切な空間と経路の選択やシミュラークルによって都市の各
地点に特別な意味を付与し、都市を再編成するものであった。しかしそれは革命的心性のみではなく民衆的伝統的心性さえも象徴した。そもそもミシュレに従え
ば、権力側の構想にかかわらず、自発的に民衆の内に湧き上がった爆発的行動こそが祭典であった。

ロシア革命14周年、1931 ロシア構成主義の好みは、図版に見られるマス・アクションにも反映されている。これは単なる見せ物ではなく、市民の自発性に伴う示威運動的な性質をももった祝賀儀式であった。

ロシア革命14周年、1931
ロシア構成主義の好みは、図版に見られるマス・アクションにも反映されている。これは単なる見せ物ではなく、市民の自発性に伴う示威運動的な性質をももった祝賀儀式であった。

D・リベスキンド ベルリン「シティ・エッジ」、1987 1987年のベルリン国際建築展に出品されたもの。記憶としてのベルリンという都市をコラージュし、その中を建築が貫入していく。

D・リベスキンド
ベルリン「シティ・エッジ」、1987
1987年のベルリン国際建築展に出品されたもの。記憶としてのベルリンという都市をコラージュし、その中を建築が貫入していく。

ジェルジンスキーの 銅像撤去、1991.8.22 1991年8月、ソ連は共産党中央委員会自らのクーデターの後、消滅へ向かう。クーデターが失敗しゴルバチョフが復権すると、勝利に酔う市民に促されるように、ポポフ市長はモスクワのKGB前の初代秘密警察長官ジェルジンスキーの銅像の撤去を命じた。その後、各地でレーニン像をはじめとする銅像が次々と撤 去された。

ジェルジンスキーの
銅像撤去、1991.8.22
1991年8月、ソ連は共産党中央委員会自らのクーデターの後、消滅へ向かう。クーデターが失敗しゴルバチョフが復権すると、勝利に酔う市民に促されるように、ポポフ市長はモスクワのKGB前の初代秘密警察長官ジェルジンスキーの銅像の撤去を命じた。その後、各地でレーニン像をはじめとする銅像が次々と撤
去された。

ニューヨーク・グラフィティ 1972年の春に現われたニューヨークの街頭の落書きは、自然発生的に生じた非政治的運動であった。ボードリヤールによれば、それは既に獲得不可能となったアイデンティティのためにでなく、みずから「からっぽの記号表現として、都市のつまった記号の領域に侵入し、みずからの存在を示すことだけで、それらの記号を解体」するためである。しかしこの図版のように、運動としてのグラフィティは終わってしまった。

ニューヨーク・グラフィティ
1972年の春に現われたニューヨークの街頭の落書きは、自然発生的に生じた非政治的運動であった。ボードリヤールによれば、それは既に獲得不可能となったアイデンティティのためにでなく、みずから「からっぽの記号表現として、都市のつまった記号の領域に侵入し、みずからの存在を示すことだけで、それらの記号を解体」するためである。しかしこの図版のように、運動としてのグラフィティは終わってしまった。

E・アジェ 「商店、ゴブラン大通り」、1925 シュルレアリストに評価されたアジェの写真は、遊歩者の視線それ自体が都市の裂け目から噴出する何かを手繰り寄せるということを示している。ぶれてしまった人々の幽霊のような影や、ショーウィンドウの中のマネキンとガラスに映った外の光景とのファンタスマゴリーは、都市の空想と現実の間の風景を作り出して いる。

E・アジェ
「商店、ゴブラン大通り」、1925
シュルレアリストに評価されたアジェの写真は、遊歩者の視線それ自体が都市の裂け目から噴出する何かを手繰り寄せるということを示している。ぶれてしまった人々の幽霊のような影や、ショーウィンドウの中のマネキンとガラスに映った外の光景とのファンタスマゴリーは、都市の空想と現実の間の風景を作り出して
いる。

Krzysztof Pruszkowski: KMK《概念を具体化する建設》1991

Krzysztof Pruszkowski: KMK《概念を具体化する建設》1991

g 総動員する都市

ネット・ジェネレーションの時代には、かつて見え隠れしていた都市の力線は等価なネットに置き換えられたように見える。そのネットは、ルネサンスの透視図法の絵画に描かれた碁盤の目に敷設された、無限にどこまでも続くプラットフォームのようなものである。どこまでも続くネット。しかしもはや、ネットは固定した主体から始まりはしない。主体はネットの海のただなかに位置づけられているのだ。
地理的な空間としての都市はいったん情報空間のネットワークに優越される。それからそのサイバースペースが実際の地理的都市に対応するために、工業インフラに代わる情報インフラが整備されることになる。現実社会に伸張したネットは端末の地理的遍在へと導く。さらにその端末は個々人に属するモバイルなものとなる。われわれは実際の都市の街路に立ちながら、ひとつの端末と化し、さらに複数個の端末と化し、サイバースペースも漂う。このユビキタスでモバイルな環境は、自らのデジタルな身体を基点として現実の都市とサイバーシティを同時に自由にハイパーリアルにサーフすることを可能にする。

東海道・山陽新幹線のオペレーション・ダイアグラム

東海道・山陽新幹線のオペレーション・ダイアグラム

ロングアイランドのレヴィット・タウン 第二次大戦後のアメリカで起こった空前のベビーブームは、住宅建設ブームを招いた。大量生産による建売住宅の郊外住宅地が、アメリカのひとつの典型的風景を作り出すことになる。自動車とテレビ、電話が支えるこの定住形態は、さらなる情報化を欲望する。

ロングアイランドのレヴィット・タウン
第二次大戦後のアメリカで起こった空前のベビーブームは、住宅建設ブームを招いた。大量生産による建売住宅の郊外住宅地が、アメリカのひとつの典型的風景を作り出すことになる。自動車とテレビ、電話が支えるこの定住形態は、さらなる情報化を欲望する。

T. M. I. T. 《メイド・イン・トーキョー》(1996年度「アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー」展)ダメ建築を量産する東京を舞台に可能な遊戯として、それらをプリントしたTシャツを制作。量産されたダメ建築と同じ性質を持ちながらより安価に再生産可能なTシャツでもって、ダメ建築を身にまとう、量産されたダメ人間がダメ都市を歩く。

T. M. I. T. 《メイド・イン・トーキョー》(1996年度「アーキテクチュア・オブ・ザ・イヤー」展)ダメ建築を量産する東京を舞台に可能な遊戯として、それらをプリントしたTシャツを制作。量産されたダメ建築と同じ性質を持ちながらより安価に再生産可能なTシャツでもって、ダメ建築を身にまとう、量産されたダメ人間がダメ都市を歩く。

D・リベスキンド「マイクロメガス」、1980 ペーパー・アーキテクトとしての彼のデビュー作。この一連のドローイングは、さまざまな幾何図形が異様に相互貫入し、判断不能な無数の線となって錯綜した空間を作り出している。

D・リベスキンド「マイクロメガス」、1980
ペーパー・アーキテクトとしての彼のデビュー作。この一連のドローイングは、さまざまな幾何図形が異様に相互貫入し、判断不能な無数の線となって錯綜した空間を作り出している。

伊東豊雄《Room 3 DREAMS》(ジャパン・フェスティバル1991「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」展)この展示室は半透明のスクリーンと床で構成され、それらの表面に投影されるプロジェクターの映像と音によって抽象化されたメディア空間を作り出し、それを身体的に経験可能にするものであった。

伊東豊雄《Room 3 DREAMS》(ジャパン・フェスティバル1991「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」展)この展示室は半透明のスクリーンと床で構成され、それらの表面に投影されるプロジェクターの映像と音によって抽象化されたメディア空間を作り出し、それを身体的に経験可能にするものであった。

ギュンター・ギュンシェル 「ネット・コンポジション」、1954 構造的幾何学の分析からスタートした若き建築家ギュンターは、グリッドによるドームのモデル研究をフライ・オットーとも協働した。しかし彼は構築のイメージを思考しドローイングを描くことにより関心を示し、技術的な現実から可能性の世界に足を踏み入れた。混沌とした線によって構成される彼のスタイルは、合理的世界と感情的な建築ファンタジーの間を彷徨うことになる。

ギュンター・ギュンシェル
「ネット・コンポジション」、1954
構造的幾何学の分析からスタートした若き建築家ギュンターは、グリッドによるドームのモデル研究をフライ・オットーとも協働した。しかし彼は構築のイメージを思考しドローイングを描くことにより関心を示し、技術的な現実から可能性の世界に足を踏み入れた。混沌とした線によって構成される彼のスタイルは、合理的世界と感情的な建築ファンタジーの間を彷徨うことになる。

Alexei Krupin、Alexei Miroshin、Olga Tregubova 「インテリジェント・マーケット」、1987 1980年代の『新建築』誌で募集していた設計競技に、幻想的なドローイングで多く入選を果たしたソ連のペーパー・アーキテクトたちの作品のひとつ。テーマ「インテリジェント・マーケット」に対するこの応募案は、頭部を交換しあう人々をアイロニカルに描いている。

Alexei Krupin、Alexei Miroshin、Olga Tregubova
「インテリジェント・マーケット」、1987
1980年代の『新建築』誌で募集していた設計競技に、幻想的なドローイングで多く入選を果たしたソ連のペーパー・アーキテクトたちの作品のひとつ。テーマ「インテリジェント・マーケット」に対するこの応募案は、頭部を交換しあう人々をアイロニカルに描いている。

レベウス・ウッズ「空中パリ計画」、1989 アエロリヴィング・ラボラトリーと呼ばれる住居を空中に浮かべ、パリの交通ネットワークを電磁気の流れに沿って改造する計画。空を横切る遊糸の広大なネットが風や磁場に引っ張られ、その変化に対応することで、不安定に見えつつも流体力学と磁場の中で安定している。

レベウス・ウッズ「空中パリ計画」、1989
アエロリヴィング・ラボラトリーと呼ばれる住居を空中に浮かべ、パリの交通ネットワークを電磁気の流れに沿って改造する計画。空を横切る遊糸の広大なネットが風や磁場に引っ張られ、その変化に対応することで、不安定に見えつつも流体力学と磁場の中で安定している。

東京大学建築学科高橋研究室「東京1995」(『10+1』no.5、1995) 東京の典型的居住者19人を選択し、彼らの1日の生活を視覚的に表現したもの。図版はそのcase 3(成城に住む中学生)の生活であり、彼の実際の生活領域(成城、下北沢、渋谷)の地図と、パソコン通信のネットワークの地図の重ね合わせによって表現されている。

東京大学建築学科高橋研究室「東京1995」(『10+1』no.5、1995)
東京の典型的居住者19人を選択し、彼らの1日の生活を視覚的に表現したもの。図版はそのcase 3(成城に住む中学生)の生活であり、彼の実際の生活領域(成城、下北沢、渋谷)の地図と、パソコン通信のネットワークの地図の重ね合わせによって表現されている。

『egg』 女子高生の脅威的なローカル・ネットワークは、個々の記号内容を欠いたプリクラが並ぶ、彼女らのプリクラ手帳のページの上に象徴される。『egg』は彼女らの視点で編集されている雑誌。

『egg』
女子高生の脅威的なローカル・ネットワークは、個々の記号内容を欠いたプリクラが並ぶ、彼女らのプリクラ手帳のページの上に象徴される。『egg』は彼女らの視点で編集されている雑誌。

計算場の海 「ユビキタス・コンピューティング」のコンセプトに基づいて提示された図式。個人が無数に遍在するコンピュータとハイブリッドに共生しながら開放的なネットワークに参加している。この海は計算負荷によってある点を波立たせるが、常に重力や慣性力によって海面を均質化する。

計算場の海
「ユビキタス・コンピューティング」のコンセプトに基づいて提示された図式。個人が無数に遍在するコンピュータとハイブリッドに共生しながら開放的なネットワークに参加している。この海は計算負荷によってある点を波立たせるが、常に重力や慣性力によって海面を均質化する。

「海市──もうひとつのユートピア」展、1997 磯崎新が依頼されたマカオの人工島計画がオリジナル。情報社会におけるユートピアのあり方として単線的に計画されるのではなく、不特定の他者とのさまざまな相互関係性の中で変遷する過程そのものの展示として磯崎自身によって企画された。特にインターネットによる参加はインターネットの構造を都市へ反映させることを目論んだものとして、成功とは言えなかったものの新しい可能性を開いた。

「海市──もうひとつのユートピア」展、1997
磯崎新が依頼されたマカオの人工島計画がオリジナル。情報社会におけるユートピアのあり方として単線的に計画されるのではなく、不特定の他者とのさまざまな相互関係性の中で変遷する過程そのものの展示として磯崎自身によって企画された。特にインターネットによる参加はインターネットの構造を都市へ反映させることを目論んだものとして、成功とは言えなかったものの新しい可能性を開いた。

h 逃走する都市

人は常に都市への定住を求めてきたが、同時にスキゾ型への憧れもやむことがなかったように思われる。現代のこの「どろどろした海」(田中純)においては、われわれデジタル・チルドレンの逃走はあまりにも明白になってきた。
逃走先は段ボールハウスの中かもしれないし、ごみハウスの城に閉じこもることかもしれない(あるいはそうでないかもしれない)。おやじ狩りやホームレスいじめかもしれない(あるいはそうでないかもしれない)。そもそも遊歩者たちの視点そのものが逃走先を求めていたようでもある。遊歩者の極端なかたちである「箱男」にはそれが明確にあらわれている。
「透明な存在」は義務教育と社会によって作られたそうだが、しかし「見られる」ことの拒絶が同時に「透明な存在」への欲望ともなる。

10周年を迎えたウォークマン、1989 1979年に製造を開始したウォークマンは、携帯電話やその他の端末とは異なり、都市を移動しながら自己に没入することを可能にさせるものである。

10周年を迎えたウォークマン、1989
1979年に製造を開始したウォークマンは、携帯電話やその他の端末とは異なり、都市を移動しながら自己に没入することを可能にさせるものである。

伊東豊雄《東京遊牧少女の包》1986 伊東は風や遊牧=ノマドという言葉を使って建築を語ってきた。遊牧の建築は脱領属化の実験を繰り返すスキゾ型の建築であり、定住に対立するものである。従来の〈住〉宅のあり方が疑われ、消費都市・東京の中で解体されていく。

伊東豊雄《東京遊牧少女の包》1986
伊東は風や遊牧=ノマドという言葉を使って建築を語ってきた。遊牧の建築は脱領属化の実験を繰り返すスキゾ型の建築であり、定住に対立するものである。従来の〈住〉宅のあり方が疑われ、消費都市・東京の中で解体されていく。

安部公房『箱男』(1973)より ダンボールを頭からかぶり都市をさまよう箱男、彼は都市社会への帰属や〈見る=見られる〉の関係性を放棄し、世間を覗き見てそれを記述するだけの存在へと逃走する。この写真は箱男自身が覗いた世界であり、そのキャプションで「見るだけの人間になるわけにはいかない」と述べながら、他所で「ここは箱男の街。匿名が市民の義務となり、誰でもない者だけに許された、居住権」とも述べており、われわれ自身が多かれ少なかれ箱男/箱女であることを感じさせる。

安部公房『箱男』(1973)より
ダンボールを頭からかぶり都市をさまよう箱男、彼は都市社会への帰属や〈見る=見られる〉の関係性を放棄し、世間を覗き見てそれを記述するだけの存在へと逃走する。この写真は箱男自身が覗いた世界であり、そのキャプションで「見るだけの人間になるわけにはいかない」と述べながら、他所で「ここは箱男の街。匿名が市民の義務となり、誰でもない者だけに許された、居住権」とも述べており、われわれ自身が多かれ少なかれ箱男/箱女であることを感じさせる。

J=F・トゥーサン『浴室』、1985 (邦訳=1990、文庫版=1994) 冒頭突然、理由もなく浴室にこもって生活する主人公が登場する。その衛生的で危険のない「抽象的な暮らし」の中で、彼は世界の読み換えを試みているのかもしれない。一度浴室から出た主人公は、外の世界に馴染めず再び浴室にこもる。さらに、物語の最後で再び浴室を出ることを決心する。

J=F・トゥーサン『浴室』、1985
(邦訳=1990、文庫版=1994)
冒頭突然、理由もなく浴室にこもって生活する主人公が登場する。その衛生的で危険のない「抽象的な暮らし」の中で、彼は世界の読み換えを試みているのかもしれない。一度浴室から出た主人公は、外の世界に馴染めず再び浴室にこもる。さらに、物語の最後で再び浴室を出ることを決心する。

いとうせいこう『ノーライフキング』、1988(文庫版=1991) 既存のメディアを信頼しなくなった子どもたちは、全国的規模のネットワークを使ってコンピュータ・ゲームの攻略法などについて情報を交換していた。ゲームソフト「ライフキング」の5番目のヴァージョン「ノーライフキング」の恐ろしい噂が広まり始める。やがて彼らは実際に「ノーライフキング」化した街、「新しいリアル」の中で、自分の物語を自分の「賢者の石」に書き込むことでそのゲームを戦った。書き込みはまるで自己探究の行為のようでもある。

いとうせいこう『ノーライフキング』、1988(文庫版=1991)
既存のメディアを信頼しなくなった子どもたちは、全国的規模のネットワークを使ってコンピュータ・ゲームの攻略法などについて情報を交換していた。ゲームソフト「ライフキング」の5番目のヴァージョン「ノーライフキング」の恐ろしい噂が広まり始める。やがて彼らは実際に「ノーライフキング」化した街、「新しいリアル」の中で、自分の物語を自分の「賢者の石」に書き込むことでそのゲームを戦った。書き込みはまるで自己探究の行為のようでもある。

図版出典

■書籍
Le Corbusier, Œuvre Complète 1938-1946, Les Éditions d'Architecture Zurich, 1946
R・オールコック『大君の都──幕末日本滞在記』上、山口光朔訳、岩波文庫、1962
今和次郎『考現学 今和次郎集』第1巻、ドメス出版、1971
安部公房『箱男』、新潮文庫、1973
エラリィ・クイーン『災厄の町』、青田勝訳、ハヤカワ文庫、1977
V・ユーゴー、『レ・ミゼラブル』第4巻、豊島与志雄訳、岩波文庫、1987
レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『パリの夜──革命下の民衆』、植田祐次編訳、岩波文庫、1988
いとうせいこう『ノーライフキング』、新潮文庫、1991
Architecture de Ledoux: Inédits pour un Tome, Les Éditions du Demi-cercle, Paris, 1991
『朝日新聞報道写真集'92』、朝日新聞社、1992
J=F・トゥーサン『浴室』、1994
『日本の写真家12 堀野正雄』、岩波書店、1997
レンゾ・ピアノ『航海日誌』、田丸公美子・倉西幹雄訳、TOTO出版、1998
Glynne Wickham, A History of the Theatre, Phaidon Press, Oxford, 1985
Michael Dennis, Court & Garden: From the French Hôtel to the City of Modern Architecture, MIT, Cambridge & London, 1986
清水勲『ビゴー日本素描集』、岩波文庫、1986
François Loyer, Paris XIXe Siècle: l'immeuble et la Rue, Hazan, Paris, 1987
蔦川敬亮『ニューヨーク探検学』、原書房、1988
立川孝一『フランス革命:祭典の図像学』、中公新書、1989
Edward R. Tufte, Envisioning Information, Graphics Press, Cheshire, 1990
アラン・コルバン『においの歴史──嗅覚と社会的想像力』、山田登世子・鹿島茂訳、藤原出版、1990
Attilio Petruccioli, Il Giardino Islamico: Architettura, Natura, Paesaggio, Electa, Milano, 1994
『別冊宝島 帝都東京──ミカドが君臨する東京の秘密めぐり』、宝島社、1995
『高輪はいから物語』、日本建築学会、1995
ノルベルト・エリアス、エリック・ダニング『スポーツと文明化──興奮の探究』、大平章訳、法政大学出版局、1995
磯崎新監修、田中純編『磯崎新の革命遊戯』、TOTO出版、1996
Edward R. Tufte, Visual Explanations, Graphics Press, Cheshire, 1997
今橋映子『パリ・貧困と街路の詩学──1930年代外国人芸術家たち』、都市出版、1998
20世紀建築研究編集委員会編『20世紀建築研究』、INAX出版、1998

■雑誌
L'Esprit Nouveau, No.27, Novembre 1924
L'Architecture Vivante, Printemps & été 1929
Oppositions, No.12, Spring 1978
Daidalos, No.7, März 1983/ No.17, September 1985/ No.20, Juni 1986/ No.29, September 1988/ No.36, Juni 1990/ No.37, September 1990/ No. 38, Dezember 1990/ No. 41, September 1991/ No. 47, März 1993/ No. 58, Dezember 1995.
『現代思想』vol.11─7、1983年7月号
Perspecta, No.22, 1985
AA files, No.18, Autumn 1989
Rassegna, No.43, September 1990
『新建築』、1991年11月号
『InterCommunication』No.8、Spring 1994
『10+1』No.5、Spring 1996
『木野評論』vol. 29、1998

■カタログ
『アンダーグラウンド』(CINEMA RISE No.60)
『近代都市と芸術展──ヨーロッパの近代都市と芸術 1870─1996』(東京都現代美術館、1996)
『未来都市の考古学展』(東京都現代美術館、東京新聞、1996)
『象徴派展』(Bunkamura ザ・ミュージアム、東京新聞、1996)
『ムンク展』(世田谷美術館、世田谷美術館・NHK・NHKプロモーション、1997)
『ウジェーヌ・アジェ回顧』(東京都写真美術館、淡交社、1998)

>森山学(モリヤマ・マナブ)

1972年生
熊本高等専門学校建築社会デザイン工学科准教授。建築歴史・意匠。

>『10+1』 No.15

特集=交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール

>パサージュ

Passages。路地や横丁、街路、小路など表わすフランス語。「通過」する「以降...

>ルネサンス

14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようと...

>田中純(タナカ・ジュン)

1960年 -
表象文化論、思想史。東京大学大学院総合文化研究科教授。