RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.16>ARTICLE

>
反近代としての装飾/反表象としての装飾──建築装飾における思想・理論・技術 | 倉方俊輔
Ornament as Anti-Modernization, Ornament as Anti-Representation: Ornament in Idea, Theory, and ArtShunsuke Kurakata | Kurakata Shunsuke
掲載『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) pp.164-171

建築にとって装飾とは何か?

現在の装飾論ということであれば、まず鶴岡真弓の仕事に触れなければなるまい。ケルト美術研究に始まり、さまざまな装飾・文様の再評価によって美術史に新たな地平を開きつつある鶴岡は、自らの研究の意義について、一般向けに次のように語っている。

装飾という不思議な美術は、存在と存在を分節する(ための)「名前」を持つことを拒否し、どの美術的中心にも属さず、(ジンメルの意識化した額縁がそうであったように)「関係の帯」として生きようとする。そうした造形を私は「装飾」と呼ぼうとしているが、そのためにはまず存在の「縁や際へ」の意識が高度に極められている美術と出会わなければならないだろう★一。


カントは同様に装飾を「絵画の額縁、あるいは彫像がまとう衣服、あるいは宮殿のまわりの柱廊がそれである」と述べた★二。確かに絵画の場合には、中心に対する「装飾という額縁」という比喩にも納得がいく。それを崩そうという筆者の目論見も容易に伝達可能である。しかし、本題である建築装飾に目を転じる前にわれわれが考慮しなければならないのは、こうした装飾観を建築に当てはめるとすると、何が中心なのかはそれほど明確でなくなるという事実である。そもそも建築は何かを伝えるものなのだろうか。空間?  機能?  しかし、空間概念は「装飾」の事後に発見されたものではないのか。「機能」対「装飾」というのはカテゴリーの混用ではないのか。六〇年代から理論付けられ、七〇年代にはいわゆる「ポストモダニズム」と呼ばれるようになった建築における「装飾の復権」を「反近代」に接合する以前に、われわれは建築にとって装飾とは何かという問題にぶつかるのである。

近代としての装飾

建築は初めからいわば美術の「額縁」的位置にいるのだろう。そこにおいて装飾は、むしろ美術に列するために必要とされた伝統的な主題だったと言ってよい。
では、一般に建築における装飾はどの部位と考えられているのだろうか。ornamentの語源はラテン語のornare(装飾する)であり、イタリア語のornamento(またはornato)はラテン世界において、建築における装飾的機能を持つすべての立体的要素を指していたとされる★三。より狭義となった現在のornament(しばしば「装飾文様」と訳される)に代わって、decorationの語を使用することもあるが、両者の区別は必ずしも明確でない★四。装飾は辞書においてさまざまに分類され、解釈される。しかし、「美的快感を起こさせるもの」あるいは「装飾的効果を形成するもの」といったトートロジカルな説明以上の定義を見出すことは難しい。その一方で、装飾の例として挙げられる建築部位は実に幅広い。壁面のモザイク、石積の目地、柱頭の彫刻、軒組物や軒裏の飾り、モールディング……、すなわち近代以前の建築の細部意匠の大半は装飾で(も)ある。
言うまでもなく細部意匠は建築の属する様式を判別する何より重要な要素であった。それが広く装飾として捉えられるようになるのは一九世紀のことであり、建築の細部意匠を収録したパターン・ブックの興隆はこの世紀の建築観の変化を象徴している。
一八三六年にロンドンの室内装飾業者、モラント・アンド・サン社のジョージ・モラントが「デザインの諸芸術と諸原理に関する知識を広める最良の方法を検討する」ために構成された議会特別委員会で証言を求められた時、その当時公刊されていた三点の装飾集成を挙げることしかできなかったと言われる★五。しかし、同じ世紀の末までに数多くの装飾書が刊行された。最も重要とされるオーウィン・ジョーンズの『装飾の文法(The Grammer of Ornament)』(一八五六)は、世界各地の異なる時代の装飾モチーフを集大成し、「装飾美術は建築に発し、それにふさわしく建築に付随すべきものである」という見解を示している。職人向けの『アカンサス図案ガイド』(一八四〇)から、ジョン・ソーン卿の弟子チャールズ・ジェイムズ・リチャードスンによるアカデミックな『装飾デザインの研究』(一八五一)まで、建築の細部意匠は詳細に書物に写し取られ、広く流通し始めた。装飾を通じて中世の理想を説いたジョン・ラスキンの『ヴェネツィアの石』(一八五一—五三)[図1]さえも、当時の建築家には、そのパターン・ブック的な側面が受け入れられたという★六。様式復興の時代として知られる一九世紀は、装飾の発見の世紀であった。建築の細部意匠は装飾と言い換えられ、取り出されたのである。
パターン・ブックは細部意匠の建築史的把握と、それと一見、無関係に思える産業的把握とをつなぐ位置にある。建築の細部意匠と体系的把握との関係は、西欧の方法論を導入して一九世紀末にスタートした日本の建築学においてさらに明確である。よく知られているように、日本建築史学の開拓者である伊東忠太は法隆寺の装飾とプロポーションに着目して古代ギリシア建築の伝播を論じたが、彼はまた東京美術学校において最初の「建築装飾」の講義を行なった人物でもある。しかし、現在の建築史学に連なる方法論で言うならば、同世代の研究者である関野貞による古社寺調査の影響がはるかに大きい。建築史学の第一の目的を制作年代の判定に置き、その素材を細部意匠に求めた関野の手法は、その後も日本建築史研究の主流であり続けた。日本建築の細部意匠の様式的特徴と変遷は後に天沼俊一によって体系付けられ、『日本古建築研究の栞』(一九二〇—三二)に結実した。日本建築に関する膨大な蓄積と精緻な成果は、例えば天沼の学統に連なる近藤豊の『古建築の細部意匠』(一九七二)で確認することができる。建築は部分に分解され、相互に比較可能な縮尺で配列されたうえで、時代と共に変化する数学的・図学的な法則性が抽出される[図2]。装飾は様式判定、建立年代判定の指標となり、何より建築に内在するものであるから、研究に実証的な色彩を与える。発達史の中で、日本建築の空間論を展開した井上充夫の成果が「戦後の社寺研究の中で異彩をはなっている」と例外視されてしまう現況も、日本建築研究における細部意匠の重視を示していると言えるだろう★七。
以上で見てきたように、建築における装飾とは、何より近代的視点によって建築を分類し、価値を判断づける際の要点であった。装飾は明瞭であるがゆえに、産業デザインに活用され、建築史という学問体系の確立に寄与した。その後に装飾を糾弾する狭義の「近代建築」(modernism)が始まる。歴史的に俯瞰すれば、装飾は抽出される段階を経て、初めて取り除かれることが可能になったと言えよう。

1──コーニスの装飾ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石』第1巻(福田晴虔訳、中央公論美術出版、1994)

1──コーニスの装飾ジョン・ラスキン『ヴェネツィアの石』第1巻(福田晴虔訳、中央公論美術出版、1994)

2──室町—昭和期の木鼻装飾「木鼻」とは柱などから突出した水平材端部のこと近藤豊『古建築の細部意匠』(大河出版、1972)

2──室町—昭和期の木鼻装飾「木鼻」とは柱などから突出した水平材端部のこと近藤豊『古建築の細部意匠』(大河出版、1972)

装飾という他者

こうした近代的視点によって羅列され、やがて捨て去られた建築装飾=細部意匠に新たな意味を与えたのが、鈴木博之の『建築の世紀末』(一九七七、初出一九七三—七四)にほかならない★八。雑誌連載時、まだ二〇代後半だった著者によって書かれた同書は「反近代」の視点において一貫している。「おそらく分析概念を提示することが、それだけで意味あることに見えてしまうのだろう。それは、われわれが俗化した近代的分析精神の虜になっていることの証でしかない。……曰く、『AかBか』」★九という言葉が、八〇年代初頭に一世を風靡した浅田彰『構造と力』(一九八三、初出一九八一)の冒頭で印象的な「二者択一の問題には決してまともに答えないこと。できれば問題そのものをズラせてしまうこと」というテーゼを彷彿とさせることも、最終章における「建築における他者」の提示が、同じく八〇年代に広く流通した柄谷行人の著作に何度となく反復される「他者」概念に重なり合っていることも驚くには当たらない。
装飾の特質として著者は、(1)付加性 (2)形式性 (3)世界観的前提 (4)表面性の四つを挙げている。このうち最も重要視されるのが「世界観的前提」である。

装飾が、このような表面性によって意図するところを伝達できるために必要なものが、〈装飾の世界観的前提〉であった。装飾を了解する共同主観的前提のない社会においては、装飾は成立しえない。このような意味において、まさしく装飾は「自律的に存在しえぬ」芸術形式なのである★一〇。


この「世界観的前提」の崩壊過程こそ、『建築の世紀末』の主題である。それは、同書における最初の世紀末である一八世紀末のロージェ神父やルドゥーらの登場に、二番目の一九世紀末におけるアール・ヌーヴォーの短命に、そしておそらくは本書が書かれた三番目の世紀末にも、見出されている。装飾=様式に意味を与えようとしてきたピュージン、ヴィオレ=ル=デュク、ジョン・ラスキンらの試みの後、「自己の意識によって世界を把握し、そのようにして意識的に把握された世界に意味を認める」精神、すなわち「近代精神」の発動として「近代建築」が成立する。鈴木はその自己完結性の強さに対して疑問を投げ掛ける。

近代建築は、社会的な営為として作り上げられてはいても、究極的にはひとつの統一的な原理によってすべてが支配される建築であった。(…中略…)しかしながら、ひとつの理念がすべてを見事に律すれば律するほど、それは孤立した理念、いわば対立物をもたないわたしだけの夢の実現、に近づいてゆく。そこには対立する他者が存在し
ない★一一。


最終章においてこの建築の「他者」として挙げられているのが、「既存の建築」、「周囲の街並」、そして「個人の一生のプロセスをはるかに超えたプロセスをたどって形成されてきた」装飾である。近代精神とは反対に、ここで「装飾」は不明瞭であるがゆえに肯定されている。

イメージとしての装飾

建築作品に目を移すと、『建築の世紀末』が書かれた一九七〇年代に「近代建築」を支えていた「世界観的前提」は最終的に破綻し、いわゆる「装飾の復権」が誰の目にも明らかになった。日本における公共建築の代表例として、西洋建築に範をとった磯崎新の《つくばセンタービル》(一九八三)[図3]、日本的造形を直裁的に引用した黒川紀章の《国立文楽劇場》(一九八四)[図4]、幾何学的シンボリズムとしての丹下健三の《東京都新庁舎》(一九九一)[図5]が挙げられる。さらに目的意識のはっきりしない装飾を用いた建築は無数に建ち、むしろそちらのほうが時代の傾向を如実に示しているのかもしれない。しかし、装飾の喚起させるイメージに無頓着なただの飾りは、ポール・ヴァレリーが装飾の起源として述べた「空虚恐怖」──空虚な時間をつぶそうとか、空虚な空間を充たそうとかいう要求──に近いと言えよう。装飾の付加がプレモダンではなく、ポストモダンとして公認されるのは、事実上その制作態度によってである。なぜそれらの装飾に至ったのか、先に述べた三つの建築の設計者の言を聞いてみよう。

細部がそれぞれ明確に発声していても、相互に相殺しあい、違った意味を生み、不連続で、混沌としたままあり続けるような、様式のもつ喚起力をマイナスに向けてひたすら発動させる仕掛けをつくること。それが、存在しているが、しゃしゃりでることは御免をこうむりたい日本という国家に対して私が組み立てようとした像である★一二。
──磯崎新(傍点引用者)


国立文楽劇場の意匠には伝統的な意匠、主として江戸時代の記憶を喚起する意匠や装飾が断片的にそこかしこに採り入れてある。引用された歴史的記号のモザイクといってもよい★一三。
──黒川紀章(傍点引用者)


[江戸時代の町家は]道に面しているところには縦繁の組子を配し、あらわに内部が見えないようにしたり、いろいろなパターンがあり、かなり変化がつけられている。(…中略…)そうしてデザインを進めている時、事務所の誰かが「なにか集積回路みたいに見えるね」と言い出した。……その頃から、私たちの頭の中では、江戸に立ち戻ってモチーフを求めるというよりも、例えば集積回路に見られる新しい表現というふうなことで、ファサードを考えていくことになった★一四。
──丹下健三(傍点引用者)


装飾の意図は三者三様であり、そこに作家性が刻印される。なかでも、磯崎のように「逃走」したり、黒川のように「他者」を求めない丹下の口振りは印象深く、ポストモダニズム的デザインの東京新都庁舎をして、ポストモダニズムでないと述べる彼の言葉もあながち強弁とは言えないように思える★一五。さて、三者の違いは、装飾が喚起せざるをえない伝統(ここでは「日本」)の力に対する態度の差異ということができる。そこには共通の前提として「装飾の喚起力」が認められている。これこそ、『建築の世紀末』が美しく描き出したものである。

装飾を眺める時に、われわれは装飾の材質を忘れ、装飾の表面が示す表象のみに意識を注ぐ。われわれの意識は装飾の表面から奥にははいってゆかない。少なくとも、われわれが装飾を装飾として眺めるかぎりにおいてはそうである。なおも装飾を眺めつづける時に、われわれの意識が進んでゆくのは、装飾の図柄、表象がさし示すイメージにもとづく、想像の領域である。これを夢の世界と呼んでもよい。
われわれが葡萄唐草模様の壁紙を飽かずに眺め続ける時に、われわれが意識を注いでいるものは、壁紙ではなく、葡萄唐草模様から喚起されるさまざまなイメージなのである★一六。


これによれば観察者の眼は決して表象の奥へ進むことはない。装飾はイメージとして語られている。近代建築に潜む象徴主義を暴き、構造から分離した装飾の図像学を称賛したロバート・ヴェンチューリの『ラスベガス』(一九七二)も同様の観点に立っている。建築装飾が徹底して表象の問題であるなら、ポストモダニズム建築に対する、薄っぺらな看板建築だという通俗的な非難も折り込み済みということになる。
もちろん、「世界観的前提」が現実の過去に存在したかどうかは別として、それがすでに失われている現代の建築装飾=細部意匠は以前の装飾と同一ではない。装飾はもはや統一された意味に人々をいざなってくれず、しばしば言語に擬して語られる装飾が、実際の言語を最も必要とすることになる。親しみやすい形態と晦渋な理論、そのズレにこそポストモダニズム建築の面白さがあり、それはまた後に批判される点ともなる。近代建築史はマニフェストによって作られ、理念によって作られたという鈴木の定義に従えば、これをポストモダニズム建築の近代性ということができよう。
それでも『建築の世紀末』とポストモダニズム建築に共通しているのは、装飾が喚起させるイメージを再現不可能な財産とし、それを肯定的に扱う態度である。装飾を審美的基準で評価するのではなく、個々に表象として語る。これが「反近代」としての装飾が獲得した価値である。
しかし、それが建築装飾が有する価値のすべてなのだろうか。鈴木は装飾を「他者」として発見した。その他者性は「装飾の図柄、表象が指し示すイメージ」でもって十分に語り尽くされたのだろうか。

3──磯崎新アトリエ《つくばセンタービル》1983クロード・ニコラ・ルドゥーの鋸状柱に範をとったポルティコとラスティカ『現代の建築家 磯崎新2』(鹿島出版会、1984)

3──磯崎新アトリエ《つくばセンタービル》1983クロード・ニコラ・ルドゥーの鋸状柱に範をとったポルティコとラスティカ『現代の建築家 磯崎新2』(鹿島出版会、1984)

4──黒川紀章建築都市設計事務所《国立文楽劇場》1984「歴史的記号」としての「猪の目」と「唐破風」『現代の建築家 黒川紀章2』(鹿島出版会、1991)

4──黒川紀章建築都市設計事務所《国立文楽劇場》1984「歴史的記号」としての「猪の目」と「唐破風」『現代の建築家 黒川紀章2』(鹿島出版会、1991)

5──丹下健三・都市・建築設計研究所<《東京都新庁舎》1991「縦繁の組子」あるいは「集積回路」『東京都新庁舎──フォトドキュメント+計画・技術スタディ』(彰国社、1992)

5──丹下健三・都市・建築設計研究所<《東京都新庁舎》1991「縦繁の組子」あるいは「集積回路」『東京都新庁舎──フォトドキュメント+計画・技術スタディ』(彰国社、1992)

装飾における労働的側面

ここで改めて近代のなかの装飾批判の言葉を見てみたい。

装飾がないということは、それだけ労働時間の短縮と賃金の上昇に直接つながる……装飾は労働力の無駄であり、したがって健康も損なう。過去もまさにそのとおりであった。だが今日では資材の無駄使いということを意味するようにもなっている。そしてこの両者を合せれば、まさに資本の無駄使いということを意味する★一七。
──アドルフ・ロース


ああ一切の費用と労力とを計算の外に奴隷を苦使し、定規と鉄鎖の苦痛から生まれた、クラシックのモールヂングやアカンサスや・・・の強烈なる陰影のうちから、われらは、今日何を感ずるか、沈痛と、号泣と、哀訴と、そして、もっとも恐ろしき悲哀とを痛感するほかに、クラシック芸術のもたらすなんらの恵与をも受けようとしないのである。
経済問題や労働問題にわれらのもっとも純なる精神の一部をデポートせんとする現在に、こうしたモールヂングや、アカンサスを、いまもなお強制せんとするのは、なんという恐ろしいアイロニーだろうか★一八。
──村野藤吾


複雑な装飾観をうかがわせる作品を残した二人の建築家は、共に建築装飾を単純に美として語るのではなく、そこに抑圧的な労働を見ている。もちろん逆に、建築装飾を労働の結晶であるがゆえに賛美することも可能であり、中世の装飾を社会に結びつけたラスキンの思想はまさにそのようなものとしてあった。装飾を非難する者の修辞がいささか大げさだとしても、ラスキンの描く中世の手工芸者の姿があまりに理想主義的だとしても、確かに建築装飾は労働力を必要とする。生産の過程で込められた労働が、享受する者にまったく感じられないとすれば、それは依然としてイメージの問題でしかない。しかし、生産過程で素材に投入された技術×時間の総和は、決して一義的ではない建築的意味を発生させるだろう。
元来木で造られていた構築物が、次第に神の家にふさわしく石造に建て替えられていった。しかし、その形態は継承され、装飾となっていった。以上が一般的に説明されるオーダーその他の古典主義建築装飾の起源である。これに対してジョージ・ハーシーは、古代ギリシア神殿のオーダーは神に捧げられた生贄の記憶であり、繰り形は捧げ物である卵や果実を意味していると解説する★一九。もっぱら美の理論によって説明されていた古典主義建築装飾を、過去にそれが指し示していたイメージで再解釈を行なう。建築におけるポストモダニズム、美術における図像学の興隆以後の作業の特徴が明瞭に現われている。一方で、村野が強調するような労働を強いてまで、木であるべき神殿の形態が石によって置き換えられているという「不自然さ」を考えたとき、いわば観念の圧制である細部意匠の中に、素材を離れて存在しえない観念が見出される。建築装飾としての柱頭は同時に美であり、象徴であり、労働的生産物としてとらえることができる。若き日の堀口捨己が出会ったのは、こうした物質的な存在としてのドリス式柱頭である。

私はおもわずうめき声をあげた。学校で習ったドリア風の柱頭とは全く異った生きもののごとき在り方であった。これはギリシアの地に生まれて、豊かな世界に育ちあがったもので、アジアの東のはしの育ちには、歯のたつものでないことをはっきり知らされた★二〇。


この後年の回想が、西洋との劇的な遭遇から日本回帰へという、日本近代建築史に典型的な形式を踏襲していることは指摘しておかなければならない。だとしたら、その「説得力」の背景にあるものこそ、われわれの内にある、表象以上の存在としての装飾観である。
日本の近代建築教育においてパルテノン神殿と対極的な評価を与えられてきたものとして、近世の寺社建築が挙げられる。「過度な装飾による建築の堕落」という『古建築の細部意匠』の見解はその典型である。実際、近世後期の建築の主脈はビルディング・タイプとプロポーションの固定化にあり、建築装飾の発達はそれと表裏一体の関係をなしている。元来の形状が分からなくなるまでに変形された細部意匠[図6・7]への評価も近年は変化している。美を専一な評価基準とするのではなく、喚起させるイメージを装飾の価値とみなすようになったことは、やはり時代的な装飾観の変化と軌を一にした現象である。しかし、そういった建築装飾は、豊作を祈念したり、儒教道徳を教授したりする図像であると共に、大工の技の発揮でもあった。

日本の木彫の技巧には、籠彫りとよばれるものがある。木造建築の木鼻や手挟みなどの部分の装飾技巧として用いられることが多い。ここでも技巧は材質感を忘れさせる方向に結集される。まったく木とは思えないような彫りの冴えを示すことが、この際には重要なポイントとなる★二一。


『建築の世紀末』で指摘されるような動機を持ちながらも、最終的に素材が意識からまったく忘却されてしまうことはないだろう。木であるにもかかわらず、それを裏切るような造形が出現する。そのとき、表象のイメージと素材に加えられた技術は同時に視覚から伝達される。大工とはそうした変化へんげを可能にする存在であり、近世に流行した左甚五郎伝説の背景に、その技術に対する共同幻想を想像することもできる★二二。

6──諏訪大社春宮礼拝殿(柴宮長左衛門矩重 彫刻、1778)の籠彫りによる持送り伊藤延男監修『大工彫刻』(INAX出版、1986)

6──諏訪大社春宮礼拝殿(柴宮長左衛門矩重 彫刻、1778)の籠彫りによる持送り伊藤延男監修『大工彫刻』(INAX出版、1986)

7──同、欄間伊藤延男監修『大工彫刻』

7──同、欄間伊藤延男監修『大工彫刻』

建築装飾における思想・理論・技術

以上を整理してみよう。広義の近代精神は、プロポーションのような理論化されうるものを装飾から分離した。アカデミーにおける古典主義建築様式の精緻な数学的追及も、日本近世建築に対する概して低い評価もそうした文脈で位置づけられる。そこでは美を「理論」化することが目指されたのである。次に装飾の中からイメージや意味が再発見される。装飾は何らかの意味を喚起させるもの、形態化された「思想」と解釈される。しかし、われわれは建築装飾から純粋なイメージを受け取るのではない。わたしたちの言語=概念によって表現するならば、建築装飾は思想・理論・技術のアマルガムであり、ポストモダニズム建築の装飾がその技術的側面を欠いていたことが理解される。
建築作品や批評だけではなく、古建築評価や保存活動の心性を視野に入れたとき、建築装飾=細部意匠をそのものとして評価する観点がその一部を構成していることに気づく。しかし、そうした見地を創造につなげることには困難が伴う。保存理念の深化は、不可避的に建築創造の論理からの自律を要求する。写真家・増田彰久と共に人々の眼を建築装飾に向けさせることに成功したと思われる藤森照信ですら、以下のように嘆息するのだ。

それにしても、建築史家や歴史系の評論家が七〇年代以後主張してきた装飾性や様式性、再評価や土地の意味の発見、そして保存の運動は、日本の第一線の建築家たちのデザインに何の影響も与えなかったんじゃないだろうか、と不安になる時がある★二三。


近代社会に、思想・理論・技術が一体となった装飾をよみがえらせる試みはほとんど絶望的に思える。個人が作り出せないところに建築装飾の根拠があるとすれば、その優劣は蓄積を操作する手技にかかっている。近代建築における建築装飾は、結局のところ村野藤吾の「熟練」に収斂してしまうのだろうか。
石山修武の《伊豆長八美術館》(一九八四)[図8]
以降の試みがひとつの可能性を示しているように思われる。《リアス・アーク美術館》(一九九四)[図9・10]では、いわゆる「伝統技術」と「テクノロジー」を意識的に混用させている。左官仕上げとジュラルミン・パネルの壁が向かい合い、設計者の言葉を信じるならば、屋根や壁面の凹みは最新の造船技術で成型されている。美の追及というには唐突であるし、《伊豆長八美術館》にはまだ残っていた連想効果に期待した意匠でもない。それらは技術に対する批評であり、同時に技術そのものが見せ場でもある。思想と技術が一体となった新たな「装飾」創出への模索として受け止めることができよう。思想と技術の追及が結果として美になるというのは、あまりにも近代的な、予定調和的な考え方である。出現するのは建築における新たな美術ではないかもしれない。しかし、芸術(art)ではあるだろう。
「建築装飾」が広義の近代において積み上げられてきた概念の束であることを認識した上で、そこに何が加えられるのか。建築にとって装飾とは何かという問いは、未だわれわれの前に残されているのである。

8──石山修武+ダムダン空間工作所《伊豆長八美術館》1984『現代建築の軌跡』(新建築社、1995)

8──石山修武+ダムダン空間工作所《伊豆長八美術館》1984『現代建築の軌跡』(新建築社、1995)

9──早稲田大学石山修武研究室《リアス・アーク美術館》1994『現代建築の軌跡』

9──早稲田大学石山修武研究室《リアス・アーク美術館》1994『現代建築の軌跡』

10──同、内観『現代建築の軌跡』

10──同、内観『現代建築の軌跡』


★一──『芸術学がわかる。』(朝日新聞社、一九九五)二四頁。
★二──『判断力批判  カント全集8』(原佑訳、理想社、一九六五)1.1.14。
★三──『世界美術大事典』(小学館、一九八八)。
★四──スチュアート・デュラント『近代装飾事典』(藤田治彦訳、岩崎美術社、一九九一)八頁。
★五──同、一一頁。
★六──同、八八頁。
★七──内藤昌「戦後の建築史学の発達」(『近代日本建築学発達史』日本建築学会編、丸善、一九七二、一七七九—
八〇頁)。
★八──一九七三年九月から一九七四年一〇月にかけて雑誌『建築』に連載したものに加筆修正を加え、一九七七年に晶文社より刊行された。鈴木博之の初著作。一九七二年に始まった「高山建築学校」での講義がその下敷きにあるといわれる(本号「高山建築学校の方法と軌跡」参照)。また本文中では触れなかったが、反近代的な装飾の再評価という潮流自体は、同時期の長谷川堯の著作にさらに顕著である。日本の大正建築に女性的な中世主義を発見し、機械的、男性的な明治・昭和建築に対立させるという一貫した史観で一時代を画した。『神殿か獄舎か』(相模書房、一九七二)、『建築──雌の視角』(相模書房、一九七三)、『都市回廊』(相模書房、一九七五)などを参照。
★九──鈴木博之『建築の世紀末』(晶文社、一九七七)二六六頁。
★一〇──同、一九四頁。
★一一──同、二九三頁。
★一二──磯崎新「都市、国家、そして〈様式〉を問う」(『新建築』一九八三年一一月号、新建築社)。
★一三──黒川紀章「歴史と現代の共生──国立文楽劇場の設計意図」(『新建築』一九八四年五月号、新建築社)。
★一四──丹下健三「二一世紀に向けて──都市と建築への私の提言」(『現代の建築家  丹下健三4』鹿島出版会、一九九四、一〇四頁)。
★一五──対談  丹下健三×藤森照信「柱と梁、空間の接合部が気になりませんか」(『新建築』一九八九年一月号、新建築社)。
★一六──鈴木博之、前掲書、一九二頁。
★一七──アドルフ・ロース「装飾と罪悪」(『装飾と罪悪──建築・文化論集』伊藤哲夫訳、中央公論美術出版、一九八七、七六頁)。
★一八──村野藤吾「様式の上にあれ」(『村野藤吾著作集』同朋社出版、一九九一、一四頁)。
★一九──ジョージ・ハーシー『古典建築の失われた意味』(白井秀和訳、鹿島出版会、一九九三)。ジョージ・ハーシーはまた、「なぜ建物ではなく、女が装飾されねばならないのか」(篠儀直子訳、『10+1』No.14、INAX出版、一九九八)において、装飾の起源がグロテスクなものであると主張する今世紀初頭の議論が「さまざまな身体的な病気や障害に苦しんでいた」アドルフ・ロースに与えた強迫観念から、彼の非装飾的建築を説明している。
★二〇──鈴木博之、前掲書、一九二頁。
★二一──堀口捨己「現代建築と数寄屋について」(『建築文化』一九五六年一月号、鹿島出版会)。
★二二──しかし、雛形書[図11]にうかがえる羅列的・分析的な建築観や、構造躯体と装飾部材を別々に発注するといった生産工程の変化は、一九世紀日本において、細部意匠が建築の全体から独立した存在として捉えられたことを示している。同時に、そうした建築装飾が受容者の内なるイメージと技術的評価基準に存在基盤を持っていたことも確かであり、両者の併存を広く建築の近世的特質とすることができよう。
★二三──藤森照信「七〇年代の保存運動」(『at』一九九六年五月号、デルファイ研究所)。

11──簡単なものから複雑なものへと配置される 木鼻装飾 落合大賀範国『大工絵様雛形』1850 (麓和善編著『日本建築古典叢書9 近世建築書──絵様雛形』大龍堂書店、1991)

11──簡単なものから複雑なものへと配置される
木鼻装飾
落合大賀範国『大工絵様雛形』1850
(麓和善編著『日本建築古典叢書9
近世建築書──絵様雛形』大龍堂書店、1991)

>倉方俊輔(クラカタ・シュンスケ)

1971年生
西日本工業大学准教授。建築史家。

>『10+1』 No.16

特集=ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義

>鈴木博之(スズキ・ヒロユキ)

1945年 -
建築史。東京大学大学院名誉教授、青山学院大学教授。

>磯崎新(イソザキ・アラタ)

1931年 -
建築家。磯崎新アトリエ主宰。

>丹下健三(タンゲ・ケンゾウ)

1913年 - 2005年
建築家。東京大学名誉教授。

>ポストモダン

狭義には、フランスの哲学者ジャン・フランソワ=リオタールによって提唱された時代区...

>村野藤吾(ムラノ・トウゴ)

1891年 - 1984年
建築家。

>藤森照信(フジモリ・テルノブ)

1946年 -
建築史、建築家。工学院大学教授、東京大学名誉教授、東北芸術工科大学客員教授。

>石山修武(イシヤマ・オサム)

1944年 -
建築家。早稲田大学理工学術院教授。

>篠儀直子(シノギ・ナオコ)

翻訳者。表象文化論、アメリカ史。