RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.49>ARTICLE

>
「南島」へ/「南島」から(上) | 小原真史
To the South Islands/ From the South Islands (I) | Masashi Kohara
掲載『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) pp.63-65

1

一九五一年、東京国立博物館で縄文土器と出会った岡本太郎はその荒々しい形態のなかに、日本の伝統文化とされてきたものとは一線を画すような「呪術性」を感じ取り、その撮影にのめり込んでいく。その関心を「古い、うしなわれたわれわれの文化の根源に向け」★一ていった岡本は、日本各地の風習や祭祀のなかに温存される「原日本」の痕跡を嗅ぎとっていくなかで、そのまなざしを日本の「南島」たる沖縄へと向けていった。その意味で『芸術風土記──日本再発見』は日本人たる自らを「再発見」しようとする岡本の旅の記録であり、「南島」へと至るための序章であったといえる。岡本はまず東北・秋田に赴き、長崎、京都、出雲、岩手、四国と(北海道を除く)日本各地を撮影して廻るなかで、一九五九年にはカメラを携えて、当時米軍施政権下にあった沖縄に渡っている。
一〇日間の滞在中、沖縄本島と離島を精力的に撮影した岡本を最も驚嘆させたのは、久高島の大御嶽であった。神が鎮座するといわれる御嶽は、クバやガジュマルなどの樹木に囲まれ、霊石があるだけの広場のような空間であるが、聖域であるにもかかわらず、鳥居も神体もイコンもないその「何にもなさ」こそが岡本を圧倒した。「日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感が生きているのだ」★二という岡本は、その空っぽの空間に向かってシャッターを切っており、「日本の古代も神の場所はやはり、このように清潔に、なんにもなかったのではないか」★三と想像するに至っている。「南島」において遥か古代へ思いを馳せる岡本は、本土ではとうに失われた太古の「神の場所」を幻視したのである。それは直観的かつ想像的な先史であるに違いないが、日本各地でフィールドワークを行ない、民衆の生活や祭祀を撮影するなかで、「日本再発見」を試みてきた岡本太郎にとって、古い習俗が残存する沖縄とはまさしく「約束の地」としてあった。しかし、初めて見るにもかかわらず感受される「言いようのない激しさをもったノスタルジア」★四とは岡本のいうように「日本人の血の中」に眠る集合的記憶に由来すると考えるほかないが、それはあるといえばあり、ないといえばないようなマジック・ワードのごときものだろう。そして、沖縄を「現代日本をながめかえす貴重な鏡」であるとする岡本はそこで自己同一的な「原日本」を「発見」したのであり、そのような出会いは沖縄へ渡る前からあらかじめ準備されていたともいえる。柳田国男の引用から始まる『沖縄文化論──忘れられた日本』には次のようにある。

私はすでに先年、その意図で国内を廻り、その報告を、『日本再発見』としてまとめたが、そこで展開した方法を、今度はこのいわば日本の周辺にぶつけてみたいと思っているのだ。私はますます日本、それもその風土と運命が純粋に生き続けている辺境に強くひかれる。そこには貧しいながら驚くほどふてぶてしい生活力がある。その厚みは無邪気で明朗だ。近代化されるとともに、奇妙にゆがみ、希薄になってしまった日本人像とは違う★五。


岡本太郎の沖縄論を貫いているのは「辺境」「周辺」であり、本土における発展から取り残されたがゆえにいまだ「純粋」なままである沖縄から、「奇妙にゆがみ」近代化されてしまった日本を逆照射するようなまなざしである。そこにおいて沖縄とは日本を反射する鏡としてのみ意義を持ち、「忘れられた日本」を残存させる限りにおいて肯定されるのである。つまり、それは沖縄との出会いではなく、沖縄を媒介にした自己発見の旅であったといえるだろう。
沖縄はヤマト(=北島)からまなざされ、「日本の原郷」や「縄文」を一方的に投影される対象(=南島)として固定化されてきた。柳田国男以来、日本近代はそのような「南島イデオロギー」(村井紀)★六を温存しながら均質のナショナル・アイデンティティを提供し続けたのであり、沖縄は日本民俗学の宝庫として馴致されてきたのである。

2

一九六九年、東松照明は横須賀や岩国といった日本各地の基地をたどる“占領シリーズ”の一環として、極東最大の米軍基地をもつ沖縄へと向かった。『アサヒカメラ』の特派として米軍統治下の沖縄入りを果たした東松は、朝日新聞那覇支局の協力を得て、基地周辺やそれと対峙するデモ隊などを撮影して廻り、その後滞在を延長して八重山諸島へも赴いている。ヴェトナム戦争の前線と化し、加害と被害の双方を孕んだ「基地の島」で撮影された写真によって『OKINAWA 沖縄 OKINAWA』が刊行される。表紙には「沖縄に基地があるのではなく、基地の中に沖縄がある」と大きく印刷されており、基地と住民の生活とが同居し、地理的にも経済的にも不可分なほどからまりあった「復帰」目前の沖縄が記録されている。それはヤマト(=沖縄)とアメリカ(=OKINAWA)とのあいだで揺れる群島の激動期を雄弁に伝えている。
しかし、東松を沖縄へ向かわせたのは、そこに集中する基地の存在だけではなかった。沖縄についてのエッセイ『朱もどろの華──沖縄日記』のなかで、東松は明治生まれの日本人に焦点を当てた“日本人シリーズ”を撮影する過程で読んだ柳田国男の『海上の道』(一九六一)が沖縄への関心を高めていったことを告白していた。柳田は『海南小記』(一九二五)のなかで「もともとわれわれ」は「南からやってきた」といっており、『海上の道』においては華南周辺から沖縄・奄美という飛び石伝いに「本土」に至るような日本民族の移動ルートを提起している。これは民族の起源を沖縄以南に求める、日本人北上説であるが、アメリカの影響下に劇的な変化を被った戦後日本を「原光景」とし、カメラによって「日本人とは何か」を問うてきた東松にとって、そのような起源への遡行は必然であったのかもしれない。
沖縄が東松照明に与えた「カルチャー・ショック」は「沖縄にあっては『占領』地域よりも、ついに『占領』されることのない、アメリカニゼーションを拒み続ける強靭かつ、広大な精神の領域の方にいっそう魅せられる」★七
という言葉に集約されているだろう。東松にとって、沖縄で目にしたものはある種の「懐かしさ」を感じさせる、もうひとつの「原光景」のごときものであった。そして、沖縄とは以前から撮影していた“占領シリーズ”と“日本人シリーズ”とが交差し、二つの「原光景」が併存する地点であるがゆえに、東松にとってはシャッターを切る動機に満ちあふれていたはずである。
一九七二年、那覇で沖縄の日本「復帰」を迎えた東松は、そのまま東京から住民票を移し、翌年には宮古島に移り住むことになる。現地で「宮古大学」を組織するなどして、シマ(村)の生活に深く入り込むなかで、岡本太郎と同じく「目に見えないモノ」に出会っている。

固有の文化が、モノとしてかたちをなさぬとき、写真家はお手上げだ。目に見えないモノは写らない。シマにあって、ぼくは、写真がまったく無力であることを思い知った。そして、改めて、写真とは何か、という誰しも疑問を持つけど、結局わからずじまいの果てしない問いにめぐり合い、試行錯誤のすえ、自分の中の双頭の蛇を殺して、矛盾を止揚したつもりで、これからは好きなものしか撮らぬと言い切る★八。


カメラに補足できぬ不可視の領域に対する無力に直面するなかで、「写真とは何か」を自問し、結果「写真家はみることがすべてだ」と言い切った東松は、沖縄から「海上の道」をさらに南進し、東南アジアにまで足をのばす。沖縄での二年間と東南アジア諸国への一カ月の旅は、一九七五年に写真集『太陽の鉛筆──沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ』として結実する。「太陽の鉛筆」とは写真の黎明期におけるウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットの写真集『自然の鉛筆』から取られた標題である。人の手を介すことなく自然が自ずから自らの姿を描く、光=書記フオトグラフイへの回帰。しかし、写真の限界に突き当たり、試行錯誤した末の結論が「これからは好きなものしか撮らぬ」という居直りであるならば、彼が指向した写真の始原とは写真家としての退行であり、“先祖帰り”にすぎなかったのだろうか。
一九七二年、沖縄は米軍基地を温存したまま「本土復帰」を果たしたが、「政治の季節」の退潮と共に東松の写真からは「占領」の表象たる基地や有刺鉄線の姿は消え、被写体は「民衆」の生活一色に染まっていく。「誤解を恐れずにいえば、ぼくは、沖縄へ来たのではなく、日本へ帰ったのであって、東京へ帰るのではなくアメリカへ行くのだ」★九という東松が見出していたのは、アメリカ化された本土では「失われて久しい古の日本」★一〇であり、民族的起源を共有する「原日本」としての沖縄であった。大陸から切り離され、外部を消去された「南島」はあたかも「深層の日本」(島尾敏雄)という根源に内向し、自閉していくかのように見える。そして「アメリカニゼーションを拒み続ける強靭かつ、広大な精神の領域」に魅せられるというその言葉は、アメリカニゼーション以前の近代日本における植民地主義、つまり「琉球処分」とその後の日米同盟による二重の「占領」を覆い隠し、遥か彼方の先史へと誘惑してやまないだろう。アメリカによる戦後日本の「占領」のなかに入れ子状に存在するもうひとつの「占領」こそが、“占領シリーズ”と“日本人シリーズ”という両輪の共存を不可能にせしめ、片輪走行を余儀なくさせていったはずである。現実の沖縄には依然として存在し続けていたはずの「占領」は、東松照明の写真において、原色の風景のなかに溶解していく。この時、戦後日本を見つめてきたはずの写真家は直近の「近代日本」を通り越し、遙かなる「古代日本」へと一足飛びに遡行したのではなかっただろうか。
東松が東南アジアの国々における撮影で想定していたものは、奄美から八重山に至る琉球弧とそれ以南との連続性であり、太平洋に点在する島々を縫い合わせるのが、柳田によって仮構された「海上の道」であった。琉球弧とそれに連なる本州弧、千島弧を環太平洋的な視点で鳥瞰することによって現われる「もうひとつの日本」の姿を島尾敏雄は「ヤポネシア」と呼んだが、東松はそこからさらに南へと逸脱し、環太平洋における「固有の文化」を検証しようとしていた。
『太陽の鉛筆』には二年間にわたり沖縄で撮影された多くの写真と台湾、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどのカットが同居している。正確にいえば、前半は沖縄のモノクロ写真で構成されており、後半は沖縄と東南アジアで撮影されたカラー写真とがシャッフルされ、シームレスにつなげられている。撮影場所についてのキャプションがなければ、そこが沖縄なのかそうでないのか判別がつきにくいほどである。東松が組写真ではなく「群写真」と呼んだのはこのような写真のチャンプルー(混ぜこぜ)状態のことだろう。その意味で『太陽の鉛筆』は複数の写真の並置によって亜熱帯の沖縄から熱帯の南太平洋へとグラデーション状に連なる、島嶼空間の基層を浮き上がらせる試みであった。
東松は沖縄にあって「古い血の呼び声」を聞くと言いながらも、その場所を「日本だと言い切ることに、ぼくはためらいを感じる」とも語っており、沖縄から「南方要素」をバネに「地つづき」で東南アジアにまで至ってしまっている。「原光景」を追って沖縄を訪れたものの、そのままいくつもの国境を越え、遥か南洋にまで踏み越えていった東松照明の沖縄は、それまで彼が撮影し続けてきた「日本」から逸脱するものを胚胎してしまっていたのも確かであろう。その意味で『太陽の鉛筆』とはナショナル・アイデンティティを補完し、撚り合わせる「原日本」としての「沖縄」と、日本国家の画一性を解きほぐす「オキナワ」のアンビヴァレントを体現しているといえる。東松照明の“日本人シリーズ”は日本から遠く離れた異国の地で終わりを迎えようとしていた。(続く)

1──岡本太郎 『日本再発見──芸術風土記』

1──岡本太郎
『日本再発見──芸術風土記』

2──東松照明『太陽の鉛筆』

2──東松照明『太陽の鉛筆』


★一──岡本太郎『日本再発見──芸術風土記』(新潮社、一九五八)。
★二──岡本太郎『沖縄文化論──忘れられた日本』(中公文庫、一九九六)。
★三──同。
★四──同。
★五──同。
★六──柳田国男の日本民俗学と植民地主義の関係については村井紀の『南島イデオロギーの発生──柳田国男と植民地主義』(太田出版、一九九五)に詳しい。
★七──東松照明『太陽の鉛筆──沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ』(毎日新聞社、一九七五)。
★八──同。
★九──同。
★一〇──東松照明『光る風──沖縄』(集英社、一九七九)。

>小原真史(コハラマサシ)

1978年生
東京藝術大学先端芸術表現科教育研究助手/東京ビジュアルアーツ非常勤講師。

>『10+1』 No.49

特集=現代建築・都市問答集32