RUN BY LIXIL Publishingheader patron logo deviderLIXIL Corporation LOGO

HOME>BACKNUMBER>『10+1』 No.41>ARTICLE

>
今、芸術作品に出会うということ | 平田知久
Encountering Art in Our Time | Tomohisa Hirata
掲載『10+1』 No.41 (実験住宅) pp.17-19

今回の書評は、芸術とそれに関わる諸主体をテーマとして、二冊と一作品を取り上げる。その一冊目は、ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り──注意、スペクタクル、近代文化』(石谷治寛+大木美智子+橋本梓訳、平凡社、二〇〇五)である。この本の特徴は、副題が議論を導いていくことである。つまり、一八七九年、一八八八年、一九〇〇年の前後という、三つの年代区分が設けられ、それぞれの時期の思想、科学(技術)、社会(文化)的事象における「注意」にまつわる諸言説が検討され、その変遷が辿られる。注意に照準が定められる理由は、まずもっては近代になって登場した注意を向ける主体のあり方を描写することにあるが、それ以上に、注意が必然的にその反対物へと転化する(あるいはその反対物を付随する)という特性を持ち、これをもって近代的主体の隘路の果てを示すためである。
そして、この本の慧眼は、注意とその反対物のどちらか一方の批判や称揚をもって隘路を導出するのではなく、それらを並立的に、かつ同時的に扱うことだ。つまり、注意とその反対物が同時に表象されることで、それらを観るものにも「知覚の宙吊り」を惹き起こさせる三つの絵画が、各年代区分の中心に置かれ、問題が提起されるのである。以下、クレーリーの絵画解釈に従って、注意とその反対物と呼ばれるものの要点を、ごく簡単に見ておこう。
まず、マネの《温室にて》(一八七九)において、注意の問題は「拘束性と非拘束性」というかたちをとる。具体的に言えば、(マネの自画像に酷似した)男性と女性のカップルが、ある対象に向けて意識を「集中」させることと、その対象に夢遊病的かつ催眠的に「没入」することが同時に表象されている。しかし、年代が下り、スーラの《サーカスのパレード》(一八八七─八八)に至れば、もはや男性/女性といった形象は直接の主題にはならず、代わりに中央に両性具有的なトロンボーン奏者が位置し、没個性的な群衆がそれに誘惑されている、という幻想的な空間が表象される。注意の問題はそこで、諸個人がある対象に魅了されることと、魅了される際に、他の対象とそれに関わる諸知覚機能が逓減されていること、すなわち「昂進と抑制」というかたちをとる。そして、セザンヌの《松と岩》(一九〇〇年頃)においては、もはや「知覚そのもの」が宙吊られ、知覚の可能性と不可能性の探究、言ってみれば注意(力)そのものへの注意がなされる。ただし、その注意は、セザンヌ自身の言葉では自身を「感光板」、「受信装置」といったものにし、自らの身体への「作用の自動的な様態」を看取することである。よって、ここに至って注意の問題は、──クレーリー自身はこのようには表記していないが──「(純粋)注意と非注意」というかたちをとる。
このような確認から、少し穿った見方だが、《温室にて》を描くマネとそれを観る群衆を《サーカスのパレード》としてスーラが描き、それらの可能性の根源をセザンヌが《松と岩》で描き出した、と言えるかもしれない。つまり、スーラがマネの、セザンヌがスーラの前提を問い直したということである。だが、彼らをそのように駆り立てるものは一体何なのか。クレーリーの帰結、つまり近代的主体の隘路の果てを見るのは、その問いに答えてからでも遅くはない。

ジョナサン・クレーリー 『知覚の宙吊り── 注意、スペクタクル、近代文化』

ジョナサン・クレーリー
『知覚の宙吊り──
注意、スペクタクル、近代文化』

マネ《温室にて》 引用図版=ジョナサン・クレーリー 『知覚の宙吊り—注意、スペクタクル、近代文化』

マネ《温室にて》
引用図版=ジョナサン・クレーリー
『知覚の宙吊り—注意、スペクタクル、近代文化』


スーラ《サーカスのパレード》 引用図版=ジョナサン・クレーリー 『知覚の宙吊り—注意、スペクタクル、近代文化』

スーラ《サーカスのパレード》
引用図版=ジョナサン・クレーリー
『知覚の宙吊り—注意、スペクタクル、近代文化』

セザンヌ《松と岩》 引用図版=ジョナサン・クレーリー 『知覚の宙吊り—注意、スペクタクル、近代文化』

セザンヌ《松と岩》
引用図版=ジョナサン・クレーリー
『知覚の宙吊り—注意、スペクタクル、近代文化』


さて、右の問いから導かれる二冊目として、ジョルジュ・アガンベン『中味のない人間』(岡田温司+岡部宗吉+多賀健太郎訳、人文書院、二〇〇二)を見てみよう。なぜなら、この美学論の目的は、近代において、まさに美を追求する芸術家と鑑賞者が露呈するパラドクスを通じて、芸術作品の成立要件を探求することだからである。
では、近代の芸術家と鑑賞者のパラドクスとは何か。まず、芸術家に存するパラドクスとは、彼らが為す創造的行為に由来する。芸術家の主観性と素材が一致していた中世とは違い、近代の芸術家においてそれらは分離したものとなった。彼らの創造行為とは、「素材とそれにふさわしい形式とを、彼自身の存在の本質として」持ち、「この真に本質的なものを客観化し、(…中略…)外に向かって形成する」という芸術家の営為についてのヘーゲルの規定と、その外延を同じくする。だが、だとすればアガンベンの言うとおり、芸術家の創造行為は、素材などの「あらゆる内容から切り離された純粋な創造─形式原理」の内に、まさに素材固有の本質を見つけ出さなければならない。
それゆえ、芸術家は、ランボーやアルトーのように、自身の創造─形式原理の超越を自らに課すという(暴力的)営為によって、当の創造─形式原理そのものですら内容として体験するという「自身の分裂」を根本的な経験として創造的行為を為すのだが、それが何らかの内容の表現である限り、純粋ではない創造─形式原理に依拠したことになる。そして、芸術家は「表現の無のうえに永久に顕現すること」──クレーリーが扱った三人の画家たちを駆り立てるものもまさにこれだが──によってのみ、芸術家としてのアイデンティティを持つことになる。
対する、鑑賞者におけるパラドクスは、鑑賞者の原型となった趣味人を例にとれば、個々の芸術作品の正しいポイント=美点を掴むよき趣味人が無関心へ、さらには悪趣味へと傾倒することである。よき趣味人は、悪趣味な人が掴む美点以外のポイントを括弧に入れるという点で、カントの言うとおり、芸術に対して無関心な態度をとる。しかし、悪しき趣味を括弧に入れる彼は、それを誰よりもよく知り、まずもってそれに惹かれる者でもある。美点を掴まんとする営為は、より広範な悪趣味への知と関心を惹起するのである。
それゆえ、アガンベンによれば、鑑賞者の極みの姿とは、よりよい括弧入れを行ない、「本質を完璧に判断することはできる」が、括弧入れしかしないため、究極的には美点=「本質を把持する能力」を欠いた、ラモーの甥のような人間である。鑑賞者は芸術作品のうちに、「『他者』としての『自己』」を見出さざるをえず、だがそのことを通じてのみ、自身を鑑賞者として規定することができるという分裂を生きるのである。近代の芸術家と鑑賞者のパラドクスとは、双方が双方のあり方において、芸術作品から疎外されつつも、まさにその点においてのみ自己を基礎付けうる、ということである。

ジョルジュ・アガンベン 『中身のない人間』

ジョルジュ・アガンベン
『中身のない人間』


さて、クレーリーは近代的主体の隘路の果てを示すにあたり、一九〇七年にフロイトが家族に宛てた手紙の中のローマの広場のスペクタクルな情景と、(フロイトも含む)そこにいる群衆を例にとる。彼によれば、群衆はそこで精神分析家の「均等に宙吊りにされた注意を維持する」という技法を持つかのように生き、すべてのことを聴きうるように、「注意を特定の何ものかに向け」ず、「個人的な傾向や偏見はもちろんのこと、(…中略…)理論的前提でさえ宙吊り」(ラプランシュ&ポンタリス)にする。
だとすれば、クレーリーが描写する群衆は、アガンベンが描く鑑賞者の一種、あるいは後継であると言える。なぜなら、鑑賞者の括弧入れと、スペクタクルを「鑑賞する」群衆の宙吊りとの符合はもちろん、没個体的にスペクタクルに魅了されて集団が形成されるとしても、個人はその集団には所属しえないという「孤独」の認識を通してのみ、アイデンティティを獲得しうるという隘路が、美点を把持しえないという認識を通してのみ、芸術作品から疎外されたアイデンティティを基礎付けうるという鑑賞者のパラドクスと同型だからである。
それゆえ、アガンベンが、芸術作品の成立要件の問い直しのために、近代に確立した「美学=感性論」を担う鑑賞者の視点における芸術作品を、創造者としての芸術家のもとへ一時的に返却する意義は、それが同時に鑑賞者の鑑賞のあり方の問い直し、ひいてはいまだ、あるいはむしろ強化されたスペクタクル社会に存する私たちの生の問い直しを希求する点にある。だが、ここでは単にアガンベンの議論を敷衍させるのではなく、おそらく前世紀、もっともスペクタクルなものとして消費され、その状況に嫌気がさして身を引き、単なるひとつのレコードとしての自分たちの作品を世に問うた、Beatlesの『Rubber Soul』に所収の「Nowhere Man」という曲に、クレーリーとアガンベンの議論を経由した者として、出会ってみようと思う。
「Nowhere Man」を特徴付けるのは、あらゆるレヴェルでの分裂である。その音色や曲調は、同レコードに収録された「Norwegian Wood」や「Michelle」に比せば、それ以前の、スペクタクルとして消費されていた時代のものに近い。しかし、その歌詞は、以前のラブソングには似つかわしくない、異様なまでに内省的なものであり、その内省のあり方自体も、極めて自己分裂的である。なぜなら、数々の証言からジョン・レノンがほとんどひとりで、自身をモチーフにして書いたとされる「行き場のない男」は、「空想の世界にいて、誰のためでもない、どうなる当てもない計画を立てる」にもかかわらず、誰か=レノンによって歌われるからだ。
むろん、ここで思い出されるべきは、自身の創造─形式原理を内容として体験し、それをもって創造行為をなす芸術家のパラドクスであり、「Nowhere Man」は、荘厳性や演劇性、視聴覚刺戟というスペクタクルの要素を剥ぎ取ったときに顕わになる「行き場のない男」というタイトルを持ちながら、スペクタクル時代の創造─形式原理によって、行き場のない男のことが歌われるという、まさに「自己の分裂」を体現した曲だろう。そして「Nowhere Man」は、アガンベンの言う芸術作品の根源的構造を備えてもいる。まず、非存在から存在へとヴェールを剥ぎ取る(誰のためでもない、どうなる当てもない計画を「Nowhere Man」として現前させる)という、ギリシャ人のポイエーシスとの符合がある。さらに、そのように生─産された芸術作品を前にした人間が陥る、時間が中断されたと感じる状態を示す語エポケーの語源エペコーに存する、「引き止める、宙吊りにする」と「さしのべる、さしだす」という意味を結びつける、「現前している、支配する」というもっとも重要な意味が、まったく無能であるように見えながら、実は「世界はおまえの意のまま」である「行き場のない男」にも適合するからだ。
ただし、私たちのこの出会いは、たとえ「誰かが手を差しのべてくれるまで、ただじっと待ってればいいのさ」と歌われていたにせよ、四〇年の時を経てのことであり、その事実が、芸術作品とのさらに多く、深い出会いを要請する。そして、「どのようにして出会うか」という方法に関する問いは残るにせよ、例えばある出会いによって、「君や僕だって、どこかあいつ(Nowhere Man)に似てはいないかい?」と歌われること、つまり私たちも芸術家である行き場のない男の要素を持つことを知るのなら、それは鑑賞者の、そして私たちの生の様態を変えるための座標軸なのだ。

Beatles『Rubber Soul』 (EMI/Parlophone, 1965)

Beatles『Rubber Soul』
(EMI/Parlophone, 1965)

>平田知久(ヒラタ・トモヒサ)

1979年生
京都大学大学院文学研究科研究員(グローバルCOE)。近・現代思想、メディア論、コミュニケーション論。

>『10+1』 No.41

特集=実験住宅