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野村誠流「総合的な学習の時間」 教育の脱資本主義化に向けて | 熊倉敬聡
The "General Learning Curriculum" of the Makoto Nomura Style: Toward Trans-Capitalistic Eduction | Kumakura Takaaki
掲載『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) pp.45-47

七月一七日午後一時半、豊島区立豊成小学校図工室。暑い、とにかく暑い。しかし、その暑さは単に気温だけではない。この狭い、小学校の教室の壁際に、溢れんばかりに犇めき合っている一〇〇人以上もの教師たちの異常な熱気でもあるのだ。
教室の中央には、(この連載の初回で紹介した)音楽家野村誠と赤いコンガ。そこに、生徒たちが入室してくる。その場の異様な雰囲気に一瞬戸惑いながらも、生徒たちは、野村の柔らかくも巧みな誘導により、たちまちのうちにその熱気を楽しみ出す。
「今日はリズムに乗せて絵を描くというのをやりたいんだけど、暑くてもやる気する?」と、野村。「しまーす!」と、元気よく子供たち。子供たちには、画用紙といろいろな色のペンが渡される。中央で、野村が「ア、アーイウエオ」というリズムをコンガで繰り返していくのに合わせて、子供たちが紙にペンを走らせる。しかし、なかなかうまくリズムに乗れない。リズムをまったく無視してアンパンマンなどを描いている子供すらいる。
だが、野村がリズムを変えたり、楽器を変えたり、あるいは(今回、野村とこの授業を共同制作した)図工の矢木先生や子供たち自らが野村に代わってコンガを叩いたりするうちに、徐々に子供たちはリズムに呼応し始める。しかも、最初は、アニメのキャラクターや花など具象的で紋切り型のイメージを描いていた彼らが、次第にリズムそのものの軌跡を描き始める。そして、ペンを両手に持ったり、いろんな色のペンを同時に持ったりして、描く手段にも工夫を凝らすようになる。
しかし、小学校の授業時間は四五分と短い。野村が「そろそろこれくらいにしようか」と言うと、「もうちょっとやりたーい」という声が起こる。でも、終了のチャイムは鳴る。
文部省は、平成一〇年、小学校学習指導要領を全面的に改正し、「総合的な学習の時間」という新たな授業カテゴリーを導入した。ここでざっと、その「総合的な学習の時間」をおさらいしてみよう。「総合的な学習の時間においては、各学校は、地域や学校、児童の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行うものとする」。狙いはと言えば、「(1)自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること」とある。取り上げられるべき課題は、国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的な課題や、地域の特色を生かした課題などであり、それを、体験的・問題解決的、ないしは(異年齢)集団的な形態において学ぶことが推奨されている。
この「総合的な学習の時間」を含む新指導要領は、平成一四年四月から施行されるが、今年の四月からの二年間は旧から新への移行期間に当たる。新指導要領のなかでも、とりわけ「総合的な学習の時間」は、その新機軸ゆえに、現場や教育学者のあいだで物議を醸している。そんな背景のなか、APA(芸術振興協会)という非営利組織が、ASIAS(Artist’s Studio in a School)というプロジェクトを企画した。その第一弾が、上記の野村の授業なのである。
歴史的・社会的変化に対し後手後手に廻り、しかもややもすると弥縫策しか提示できぬ日本の行政が、なぜこのようなある意味でドラスティックな改革を初等教育の現場に施さなくてはならなかったのか。その理由は周知のとおり、学級崩壊、いじめ、不登校等として現象している、戦後の教育制度の全面的な危機である。
日本の戦後の教育、それは一言で言えば、資本主義のロジックに貫かれた教育であった。
日本は、敗戦による壊滅から可能な限り短時間で再び先端的な資本主義国にならんがために、五〇年代から八〇年代にかけて資本主義をいわば純粋に培養するという歴史的に稀有な実験を行なった。その最大の培養装置こそ、「受験」を核とした教育制度であった。そこでは、何よりも点数・数字の極大化を目指す競争原理が貫かれ、それを学校(塾を含む)という権力装置が管理し推進するという、まさに資本主義のミニモデルの学習が縦横無尽に展開された。しかし、「バブル崩壊」により資本主義が失速するとともに、その培養装置=学校も社会的に機能不全に陥り、学級崩壊、いじめ、不登校等として「発病」した。
今回の新学習指導要領は、したがって、その機能不全に対する遅れ馳せながらの処方箋である。その特効薬のひとつが、「総合的な学習の時間」というわけだ。だが、この、現在の危機の救世主とも見える「総合的な学習」にも、問題がないわけではない、というよりむしろ大きな問題を抱えているというべきだろう。その問題は何よりも、この授業のコンセプトそのものにある。「総合性」、「横断性」等の言葉は聞こえはいいが、それは解釈次第で「何でもあり」ということになり、その全面的な自由は、場合によっては容易に「何にもなし」という状況に転化しうる危険性を孕んでいる。したがって、生徒たちの「自主性」や「創造性」を引き出すためには、まず教える側が「自主的」かつ「創造的」にならなければならない。「総合的な学習」は、何よりも創造的な〈デザイン〉を必要としているわけだ。もちろん、現場の教師ないし学校が〈デザイナー〉になることもできる、あるいは生徒の親や地域住民と共同でプランニングすることもできるだろう。しかし、今までこのようなデザインのノウハウを蓄積してこなかった彼らに、ある種の困惑が、そして限界があることも否めないだろう。そのとき、外部に、例えばNPOというかたちで、そのようなデザイナーが存在するとすれば、現場の期待も否がうえにも高まろうというものだ。野村の授業に集まった教師たちの「熱気」は、その証左にほかならない。
今回の野村の授業をコーディネートしたAPAは、このASIASというプロジェクトを通し、何を実現しようとしているのだろうか。彼らの企画書によると、それは授業を、(1)ワークショップとすること、(2)コラボレーションとすること、とある。つまり、従来──ごく一般化すれば──教師は、教える/教えられるという一方向的な権力関係に基づき、生徒たちに学習結果の優劣を競争させていたが、ASIASにおいては、芸術家と子供たちは対等かつ双方向的に共同作業を行なうのであり、そして結果の優劣よりもプロセスやコミュニケーションを楽しむのである。この目指すところは、畢竟、より大きな文脈で言えば、教育の脱資本主義化ではないだろうか。
労働の数字への還元、その極大化、競争、目的=生産物、プログラム、効率、一対多、一方向、命令/義務、役割の固定化・専門化、禁欲原則、等々といった資本主義のロジックに貫かれていた従来の教育を、労働の非数量化、共働、互助、プロセス、半端・下手・未熟の肯定、脱線・無駄・遊びの称揚、双ないし多方向、自発/アシスト、役割の流動性・横断性、快楽原則へと脱資本主義化する。しかも、そこに、やはり既存の「芸術」の制度に不満をもち、逸脱しようとしている芸術家、というか脱芸術家が参入してくる。そんな、教育の現場での、脱資本主義と脱芸術のヴェクトルのスリリングな交錯こそ、これからの日本の教育に必要とされていることではないだろうか。(前回取り上げた)ヴォッヘンクラウズールの福岡でのプロジェクトもまた、図らずも、この交錯を試みようとしていたのではなかったか。

ASIASプロジェクト。コンガをたたく野村誠(左)と生徒たち 写真提供=APA(芸術振興協会)

ASIASプロジェクト。コンガをたたく野村誠(左)と生徒たち 写真提供=APA(芸術振興協会)

*この原稿は加筆訂正を施し、『美学特殊C』として単行本化されています。

>熊倉敬聡(クマクラ・タカアキ)

1959年生
慶應義塾大学理工学部教授。フランス文学、現代美術、現代思想。

>『10+1』 No.22

特集=建築2001──40のナビゲーション