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川俣正──「アートレス」の方へ | 熊倉敬聡
Tadashi Kawamata: On the Side of "Artless" | Kumakura Takaaki
掲載『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界, 2001年10月発行) pp.22-23

なぜ、未だに、これほどまでに「芸術」という言説に対して無自覚でいられるのか。しかも、「芸術」を手放しで信仰できるのか。
いわゆる「現代美術」業界の人々(アーティストも含め)と語り合うとき、しばしば感じる疑問である。あたかもデュシャンによる「芸術」の根源的メタ言語化などなかったかのように、あたかも前世紀初頭のアヴァンギャルドによる「芸術」の粉砕の野望などなかったかのように、あたかも「芸術」の「老い」や「死」を絶望的に語ったアドルノやブランショなどいなかったかのように、あたかもポストモダニズムによる「芸術」の脱構築とその社会への広告的溶解などなかったかのように、人々は「芸術」という言説の権力に今なお語らされるがままになっている。
しかし、ここに、そのような言説に「居心地の悪さ」を感じつつ、創作を続ける稀なアーティスト(?)がいる。川俣正である。彼は最近、その名も『アートレス』という本を出した。
「自分の行なっている仕事を他人に紹介する時、なかなかうまく説明できないもどかしさをいつも感じる。『これは現代美術です』などと言って、他の美術との住み分けをはっきりさせ、現代の美術ということで何だか訳がわからない作品を、わからないということが、そのまま現代美術ではステイタスになってしまうことの凡庸さに、自分は付き合いきれないところがあるし、コンテンポラリー・アートなどという洒落た言葉の中にある、何か上滑りするような気持ち悪さの中にいたいとも思わない。美術家などという呼ばれ方に対しても面映ゆい気持ちになる。自分がかかわっている美術というジャンルに対して卑下することはないにしても、どうも居心地の悪さを感じる。なぜこのように思うかと言うと、どこかで自分の現在行なっている仕事を美術、ましてや現代美術などと思っていないところが自分の中にあるような気がする」★一。
「もどかしさ」「気持ち悪さ」「面映ゆい気持ち」「居心地の悪さ」と、川俣でさえ体感的にとりあえずは語らねばならないほどある意味でわれわれの身体に棲み、憑いた「芸術」という言説への違和感、懐疑。これを実践・理論上の出発点とすることなくして、そもそもこの歴史の時点で創作などということが、そしてそれについて語ることなどができるのだろうか。「アートレス」の提言。あえて川俣は問う。「アートとは何か?」「何がアートなのか?」「アートは本当に我々の生活の中に必要なものなのか?」「もし必要であるなら、どのようなものとしてなのか?」★二。
逆に言えば、二一世紀にもなって、未だにこのような問い──前世紀に限りなく繰り返された──をひとりのアーティスト(?)に言わしめるほど、「芸術」という言説は今なお強固に執念深く生き残っているということか。おそらくそうなのだろう。しかし、人類もいいかげんにそろそろ別な創造のかたちに踏み出してもいいのではないか。「芸術」の魔を祓い、「日常の」「些細な」「普通」としか見えぬ生活・活動のなかに「アートフル」ではない文化の在り方を探ってもいいのではないか★三。そのような「アートレス」な方向性を探究する「アーティスト」──この自家撞着にこそ歴史が賭けられている──を、われわれはとりあえず「脱芸術家」などという珍奇な呼称で呼んできたが、川俣もまたそんな「脱芸術家」のひとりにほかならない。
川俣は、廃材を用いて、都市空間の隙間にいわば寄生的にコラボレイティヴなインスタレーションを行なう作家としてつとに知られている。ニューヨーク・ルーズベルト島などの大規模なプロジェクトから、街路に打ち捨てられたダンボールでホームレスの住居さながらの半構築物を作るゲリラ的実践まで、彼は、ときには力業でときにはしなやかに、文字通り世界を舞台に活躍する日本の代表的「現代美術作家」として認識されている。しかし、九〇年代に入り、その活動のなかにある微妙な、しかし「脱芸術」(ないし「アートレス」)の視点から見れば決定的な変化が起きる。
確かにそれまでも、川俣は、現場でのアクシデント、逸脱、プロセスを重視していた。が、それらは、最終的に、ある期限に設けられた作品の「完成」に収斂すべく作家によりコントロールされねばならなかった。川俣は、「完成」のスケジュールに追われざるをえないそのような創作=活動形態に嫌気が差していた。ちょうどそうした時、オランダのアルクマーという町にあるクリニックから依頼を受ける。そのクリニックは、麻薬やアルコール依存症の人々がリハビリする施設で、川俣はそこで「ワーキング・プログレス・プロジェクト」を展開することになる。
作業はいたって簡単だ。幅二メートル高さ五〇センチの杭の上に板を並べて釘で打ちつけ、遊歩道を作っていくというものである。このクリニックは、アルクマーの町から離れていて、沼地に囲まれている。その沼地の上に、患者=クライアントたちが自らの手で遊歩道を作っていき、町に社会復帰しようというプロジェクトだ。
川俣によれば、アルコールや麻薬依存者は、そのアディクションへの恐怖ゆえに、一日の計画を立てても決してそれを達成することができないという。そこで川俣は、一日一日の達成感を実感できるこのようなプロジェクトを提案した。もちろん、参加は自由である。参加者も、勤勉に働く者もいれば、ただ辺りをぶらぶらしている者もいる。こんな調子で一年目は一カ月で約三〇〇メートルの遊歩道ができたらしい。しかし、二年目になると、川俣が預かり知らぬ間に、遊歩道は伸長していき、ついに大きな運河にぶつかったかと思うと、橋となり、いつのまにか三キロメートルの長さになっていた。が、ついに越えられぬほど大きな運河に出くわした。川俣のアドバイスもあり、今度は木造のボートを作って運河を下ろうということになり、その建造が始まったという。
川俣は、この時、誰なのか? アーティストなのか? セラピストなのか? 彼は、どちらでもないと言う。彼は、クライアントたちが自発的に活動しうるある「環境」の発案者にすぎない。その緩い「環境」のなかで、ときにはそこから逸脱しつつ、クライアントたちが自らの意志で共に汗を流し、話し合い、決断し、一メートル一メートル自分たちの道を作っていく。そこには、基本的に「終わり」がない。「完成」というものがない。なぜなら、それはもともと「完成」させるべき「作品」ではないのだから。予期せぬ事態(例えば運河)にぶつかり、それは意外な方向に自らを展開していく。橋となり、船となり、「チェーン・リアクション」★四は終わりを知らない。
ここで自生するがごとく伸長し、展開しているものとは、畢竟、〈他者〉なのではあるまいか。
プロダクション(生産=制作)は、通常、ある実現すべき未来の目的=終末に向け、材料・手段を最適に活用し、その目的を製品=作品として成就する活動である。そこでは、活動の主体が個人であろうと集団であろうと、「自己」の意図・計画が貫徹されることこそ肝要である。たとえ、複数の人間が関わっていても、そこに〈他者〉──「自己」にとって統御不可能な〈他者〉が介入してはならない(介入すれば、プロダクションはカタストロフィに陥る)。
それに比して、「ワーキング・プログレス」は、その展開する環境こそ川俣によって発案されたが、活動そのものは、彼の手から、「自己」から離れ──物理的にも彼は毎年一カ月しかそこに滞在しない──、勝手に、「自己」の彼岸で成長していく。ならば、それは関わるクライアントたちの「自己」実現なのか。もちろん、否。彼らにとってもまた、この「プログレス」はどう展開するのかわからない。大体、彼らは「計画」などしていない。文字通り行き当たりばったりなのである。しかも、クライアントたちは長くても一年程度でクリニックの滞在を終えてしまうため、自己の意志を終末に向けて貫徹しようにも物理的に不可能である。こうして、(川俣を含め)参加者の「自己」が大なり小なり関与しながらも、絶えず誰も知らぬ〈他者〉が働き、「自己」たちを導き、あるいは逸らしていく。が、翻ってみれば、「自己」たちの出会いなくしては、〈他者〉もまた生起しえない。そうした「自己」と〈他者〉の、融合することなき絶えざる循環が、遊歩道という形に少しずつ具現していくのではなかろうか。それはまさに、川俣がいみじくも言うように、「オートポイエーシス」としてのプロジェクトではないだろうか★五。
***
「脱芸術/脱資本主義をめぐるノート」という名のもと、八回にわたり断章を綴ってきた。このような人類史的テーマについて、限られた連載で縦横無尽に語ることなど、最初から不可能なことがわかっていた。私の書いてきた文章は、文字通り「ノート」、それも多分に逸話的な「ノート」にすぎない。特に「脱資本主義」という方向性に関しては、ほとんど何も語らなかったに等しい。
しかしもちろん、「脱芸術/脱資本主義」に関する私の考察は、これで終わるわけではない。このような問題意識を明確にしてくれた──以前言及した──研究会での議論同様、これからも折にふれ、人々と語り合いながら、問いをさらに深化させ、広げていきたい。〈他者〉の導き、あるいは逸らしに、身を賭しつつ。

1──川俣正『アートレス』

1──川俣正『アートレス』

2──「ワーキング・プログレス・プロジェクト」 © Leo van der Kleji

2──「ワーキング・プログレス・プロジェクト」
© Leo van der Kleji

 

★一──川俣正『アートレス──マイノリティとしての現代美術』(フィルムアート社、二〇〇一)二〇頁。
★二──同書、二四頁。
★三──同書、二三─二四頁。
★四──同書、一一七頁。
★五──同書、一二三頁。

*この原稿は加筆訂正を施し、『美学特殊C』として単行本化されています。

>熊倉敬聡(クマクラ・タカアキ)

1959年生
慶應義塾大学理工学部教授。フランス文学、現代美術、現代思想。

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