Gevork Hartoonian
、2006年、196ページ
ISBN=9780415385466
[論考]
|最初の女性は太陽によって懐胎した |太陽こそ だから |女性にとっては輝かしい男性であり |逆に 男性にとっては母胎なのである |「黒い太陽」★ーより 《太陽の塔》が昨年、日本万国博覧会(EXPO'70)閉会後、三三年ぶりに内部公開され、多くの閲覧希望者が殺到した。だが、 《太陽の塔》はその人気とは逆説的に、全貌に...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.145-154
[インタヴュー]
1──「構造設計への道」、「都市デザイン」、「日本の都市空間」 日埜──『日本の都市空間』は都市デザインやアーバン・プランニングが注目を浴びた六〇年代から七〇年代ぐらいまでの時期を先駆けた本で、大きくはそうした問題への関心の高まりにおいて位置づけられる本だろうと思います。しかしながら、のちの宮脇檀を中心としたデザイン・...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.187-199
[論考]
序─低い声 四本の柱が立ち、そこに屋根を架けた小屋は住宅の原型なのだろうか? [〈それ〉溝は作動している]あるいは、一本の柱が太古の平野に立てられた瞬間に構築が誕生したという、『二〇〇一年宇宙の旅』のモノリスを想起させる魅力的な思考。[いたるところで〈それ〉は作動している]これらはロージエの起源論、さらにはサマーソンに...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.130-145
[都市の表象分析 16]
ヴェネツィアにほど近いパドヴァの街の中心に、転倒した船の船底のような屋根をもつパラッツォ・デッラ・ラジォーネは建つ。「サローネ(大広間)」と呼ばれる巨大なホールを二階に有するこのパラッツォは、一二一八年から翌年にかけて建造され、幾度もの焼失と破壊をくぐり抜けてきた。サローネのほの暗い空間を囲む壁面は四方びっしりと、占星...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.2-11
[インタヴュー]
『解体』の輪郭執筆──六〇年代アートシーンの坩堝から 日埜直彦──今回は『建築の解体』についてうかがいたいと思います。この本は建築における六〇年代の終わりを象徴するテクストであり、またその後に与えた影響もきわめて大きい。『空間へ』がご自身のお考えを述べているのに対して、このテクストはむしろ当時磯崎さんが見ていた視線の先...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.190-205
[論考]
私の指の上には彼の指がのっていた。 私の手はざらざらとした紙の上を動き回った。 それは生まれてこのかた味わったことのない気持ちだった。 ──R・カーヴァー「大聖堂(カテドラル)」(村上春樹訳) 斜めに回転した直交座標の原点の近傍に、絡まるように大小四つの円が見える[図1]。われわれがこれまで得たうちでかなり典型的な、...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.18-31
[インタヴュー]
都市をイヴェントとしてとらえる視点 日埜直彦──前回はおおよそ五〇年代を視野として、当時のモダニズム一辺倒の状況のなかで考えておられたことについておうかがいしました。一方にモダニズムの計画的な手法ではフォローしきれない生々しい現実があり、しかしモダニズムの均質空間の限界を感じつつそれを超える論理が見当たらない状況でもあ...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.187-197
[インタヴュー]
戦後の日本建築界 日埜直彦──今回は一九五〇年代を視野としてお話を伺いたいと思っております。当時の建築の世界においてモダニズムに対する信頼は揺るぎないものだったと思いますが、しかしそれにほころびが見え始めるのもまたこの時期でしょう。結局のところモダニズムに対する距離感が醸成されてその果てにポストモダニズムというコンセプ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.169-176
[批評]
六〇年代以降、ミースはポストモダン建築の保守的なセクトと急進的なセクトのどちらからも批判の標的とされてきた。「より少ないのは退屈である(レス・イズ・ボア)」というロバート・ヴェンチューリのモットー、ミシガン湖に沈みゆくクラウン・ホールを描いたスタンリー・タイガーマンのフォトモンタージユ、それらによって示されるのは、ミー...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.102-109
[都市表象分析 6]
1 断片と箱の時代 たとえば、ロンドンのウォーバーグ研究所にあるヴァールブルク・アーカイヴには、美術史家アビ・ヴァールブルクが一生の間書きためたメモや手紙、新聞の切り抜きなどを収めたカードボックスが何十個も保管されている。主著と呼べるものを残さなかったヴァールブルクの思考の全体像はこうした紙切れの類から読み取るしかない...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.2-10
[ブック・レヴュー]
自分の乏しい海外体験を暴露するような話だが、今にいたるまで、私はロサンゼルスを訪れたことがない。この都市について知っているすべての情報は、メディアや伝聞を通じて間接的に仕入れたものにすぎないし、『ブレードランナー』の中に実現されたサイファーパンク・シティや、「ヘルタースケルター」展に象徴されるキッチュでグロテスクなアー...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.30-31
[論考]
1 空間とは物質により規定されるものではなく、感覚と情報が連結される可変的な場である。それゆえ空間と視覚と精神は常にダイナミックな流動状態のなかで相互に浸透し、融合し合い、世界の新しい経験の仕方や新しい感じかたを要求し続ける。 ヨーロッパからアメリカへ移動したバウハウス精神の変質を体験し、その地で建築から感覚情報へバウ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.205-216
[東アジア建築世界の二〇〇年]
一─一 モデル都市シンガポール ラッフルズのユートピア トーマス・スタンフォード・ラッフルズ(一七八一─一八二六)がシンガポールに足を踏み入れ、海岸沿いの地にユニオン・ジャックの旗を立てたのは一八一九年一月二九日のことだった。東アジア、そして、東南アジアの都市・建築が「近代」へと向かう契機となった小さな小さな都市シンガ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.181-194
[都市音楽ノート 6]
1 マーヴィン・ゲイの畢生の名作とされるアルバム『What’s Going On』は、このアルバムのなかでは音の重なりが少なく、透明で美しいシンプルさをもった曲「Inner City Blues(Make Me Wanna Hollor)」で幕を閉じる。計算し尽くされたユニゾンやハーモニー、かけあいの巧みな配置によって...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.39-40
[脱芸術/脱資本主義をめぐるノート 6]
慶應大学三田キャンパス。冬の透き通った青空のもと、タキシード姿で、スキンヘッドに黒い眼帯をした男が、校舎の屋根に仁王立つ。過剰な仕草で服の埃を払ったかと思うと、静止し、キャンパス中を睨めまわす。と突然、天空を指すポーズを二、三発決める。すると今度は、しなやかな手さばき足さばきとともに優雅に踊り出す……。 いったい何が起...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.38-38
[都市観測者の手帖 3]
大正から昭和にかけて今和次郎という人物が考現学という学問を生み出した。私の尊敬する大井夏代氏は、誰に頼まれるでもないのに、毎月渋谷などの街でファッションの観測をし、ホームページに公開したりしている★一。まさに、彼女こそ現代の今和次郎だと思う。 その大井氏の調査によれば、いまや若者の八〇パーセントが茶髪だそうだ。いや、正...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.43-43
[トーキョー・建築・ライナーノーツ 6]
インテリアということ 建物には内側と外側がある。一般に建築ではその両方について考えるが、ほとんどのインテリアの場合は、建物の規模や配置といったことは考えない。店舗などの場合、時々経営戦略的には、どこにどのくらいの規模でつくるかといった都市における配置計画のようなことも問題として発生するが、残念ながらインテリア・デザイン...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.44-46
[都市環境の文化政治学 5]
1「母なる大地」 豊かな土と光と水、それがあれば見事なまでの実をたわわに実らせる植物。その生命力は、光合成のような直接的には把握しにくいメカニズムを知らなければ、まるで何もないところから「存在」が生成してくるとでもいうかのような驚きをわれわれに与えてくれる。季節ごとの循環のなかで、何度も不思議な存在生成を現前させる力強...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.22-23
[部屋の文化研究 7]
今、小さい家が注目されている。戦後の住宅はひたすら部屋数をふやすことと、大きな家になることを目指してきたのだが、家族数が減れば方向転換がありうる。小さい家は一室住宅になることも多いから、本連載の扱う対象となるであろう。大きな家は伝統民家と呼ばれて、文化財として保存されるが、その昔、大きな家のまわりにあった無数の小さな家...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.33-34
[論考]
熱帯型の建築 今の世の中から植民地主義の時代を顧みるとき、またその枠組みのなかでの建築家の活動をみるとき、植民地主義は、まさに、建築家が本国とは異なった環境と出逢う契機を与えたと言える。 ヨーロッパを出て、植民地の開発のために建築家が出向く先は、アフリカ、アジアの熱帯地域がそのほとんどを占めた。地中海の向こうに広がる、...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.195-204
[映画とニューメディアの文法 3]
レフ・マノヴィッチが映画の将来的な可能性のひとつとして提示する「データベース映画」がどれほど有効なものたりうるかを考えるために、前回は、ショアー財団によるホロコーストの生き残りの証言データベースと、クロード・ランズマンによる映画『ショアー』(一九八五)を比較して、前者が膨大なデータの集積を指向しているのに対して、後者が...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.19-21
[政治の空間学 4]
1 下北沢で起こっていること すでにご存じの方も多いと思うが、現在東京の世田谷区にある下北沢という街が「存亡の危機」に直面している。 下北沢といえば、新宿へと通じる小田急線と、渋谷─吉祥寺を結ぶ京王井の頭線が交差する若者の街。駅前にランドマーク的な建造物はないが、北口には、狭い路地が交錯する商店街や、代官山を思わせる「...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.284-290
[現代建築思潮]
1日目:建築家の有名性──戦中・戦後の建築雑誌にみる丹下健三の表象 南後由和 南後由和──日本の建築家を取り巻く制度、建築ジャーナリズムの系譜を追いかけながら、国家、資本、大衆によってどのように建築家の有名性が欲望されてきたのか、あるいはされてこなかったのかということを明らかにできればと思います。その取っ掛かりとして、...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.27-44
[Architecture的/Archive的 1]
「アーキテクチユール」は果して一科の美術なる乎、将た又た一科の工芸なる乎、之を判定すること極めて難し★一。 アーキテクチャーとは地形および気候といった自然環境に次いで、実世界環境(リアルワールド)における人間に対して最も広範で全体的な影響力を持つ情報発信装置である。他方で、公文書保管所、図書館、博物館、美術館といった...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.19-21
[連載 3]
8 機械の独裁──テーラー主義 第一次大戦後のフランスは、フランス的な特質を保ちながらもドイツに(そしてすでに世界一の強国であることを誇示したアメリカに)遅れを取らない産業─社会の近代化を成し遂げなければならなかったわけだが、この課題を果たすには、まず効率的な大量生産を可能とする技術革新の導入の必要があった★一。前回に...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.291-305
[CONCEPTUAL 日本建築 5]
25 京間 ZASHIKI in Kyoto way measuring 関西普請は日本を席巻した 昔は、畳や襖をもって引越したものだ、そういう話を聞くことがある。 どうしてそんなことができるのか、真剣に考えこんだ建築家や工人は多いのではないか。内法高さは前章でみたように、全国的な統一があろう。だから襖や障子は可能か...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.306-319
[都市表象分析 17]
1 ポリス成立のディアレクティカ 西洋における「政治」の成立は古代ギリシアにおける都市国家(ポリス)の創建と深く関わっている。文字通り『政治の成立』と題された木庭顕の著作は、紀元前八世紀後半のギリシアで生じ、ポリスと政治を生むこととなった社会変動の論理を緻密に再構成している★一。それによれば、「政治」なるものの概念(厳...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.2-11
[都市表象分析 20]
1 「都市とその起源」 写真家畠山直哉には、石灰石鉱山を扱った連作《ライム・ヒルズ》(一九八六─九〇)、《ライム・ワークス》(一九九一─九四)、《ブラスト》(一九九七─九九)がある。《ライム・ヒルズ》は採掘場、《ライム・ワークス》は石灰精製工場およびセメント工場を被写体とし、《ブラスト》は石灰岩の山をダイナマイトで爆破...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.2-12
[ピクトリアリズムの現在 1]
写真は、言葉に対して無防備である。だがその写真をめがけて投げかけられる言葉はたいてい二つに割れて落ちる。写真を論じる仕方はかなり以前から二極化している。だから写真批評、すなわち写真そのものを見て語ることは、あいもかわらず困難である。写真の無防備とは、われわれの視線と言葉を逸らす力であるかのようだ。 写真論のひとつは、ジ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.17-18
[新しい書き言葉をもとめて 1]
以前、山形浩生にインタヴューをした際、ポール・クルーグマンの翻訳をああいう文体にした理由について尋ねたら、彼の本に書かれている文体と、クルーグマン自身が講演などで話す言葉とのあいだにはあまり差がない、ようするに本をそのまま朗読してもそのまま話し言葉として通用してしまうんだ、という話になった。それに比べると日本語の書き言...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.15-17
[論考]
秋葉原電気街や神田古本街、古くは宿場町新宿や吉原遊郭など、ある種の商品やサービスの集中によって、街が強い固有性を帯びることがある。流通、交通、行政など、諸々の要因がからむそれら街区の成り立ちには、その時々の都市文化が色濃く反映されてきた。そうした商品と街との関係の、今日的な新しい傾向を取り上げてみたい。 ガレージキ...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.176-184
[部屋の文化研究 6]
この二年ほど、文化人類学科の「ジェンダーと文化」という科目で、日本型近代家族とその容器としての住宅の変遷というテーマの講義をしている。受講生がもっとも生き生きと取り組む課題のひとつに「設計者の意図に反した住みかたをしている面白い住宅例を調査し、報告せよ」というものがある。 建築家には本意でないかもしれないが、住人は住み...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.36-37
[循環する都市 2]
堺を見たポルトガル宣教師の報告を通じて見るならば、当時の堺は、日本国中他にその右に出でるものなきほどの富有で壮麗な都市であった。富豪が多く住んで居り、共和国の体制によって治められて居た。附近地方の商取引が盛んに行なわれるばかりでなく、一種諸国の共同市場のごとき状態であった。つねに諸国の人々がここに流れ集まって居り、市民...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.193-200
[Urban Tribal Studies 11]
きわめて排他的に「われら」に固執する集団や個人でさえも、いくぶんかの「やつら」を内に同居させている。こうして「われら」はしかるべくみずからを欺くことになる。イデオロギーは「われら」の内なる「やつら」である。 ポール・ウィルス ひとつの語を引用するとは、その語を真の名前で呼ぶことなのである。 ヴァルター・ベンヤミン ...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.214-224
[「悪い場所」にて 10]
このところ、六〇年代末から七〇年代初頭にかけての美術の見直しが進んでいる。先頃も、鎌倉山に所在する鎌倉画廊で、六〇年代に静岡を拠点に活動した前衛芸術グループ「幻触」の旧作を集めた展覧会が開かれたばかりだし、秋には国立国際美術館で、「もの派」の再検討を含めた大型展が開かれるという。 「もの派」といえば、関根伸夫、李禹煥、...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.13-15
[東アジア建築世界の二〇〇年]
二─一 「洋」を馴らす 上海スタイル 約一五〇年前にできた上海租界のバンド沿いの建物は、現在までに三代替わってしまい、いまは凍結保存の対象であるからもはやこれ以上は変化しないであろう。その第一代はそろいもそろってベランダ植民地スタイルであった。だが、一棟だけ奇妙な建物が混じっていた。《江海関》と呼ばれる上海税関は一八四...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.201-213
[都市音楽ノート 7]
1 たとえばディーヴァとは誰のことだろうか? ディーヴァ、つまり「歌姫」と呼ぶにふさわしい歌い手とはどんな声の持ち主なのだろうか? ただ上手ければそれで「歌姫」というわけではないだろう。音域の広い、それでいて正確な、しかも多かれ少なかれ心を揺さぶることのできるソウルフルな歌い手ならたくさんいる。すばらしいロバータ・フラ...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.34-36
[レヴュー]
磯崎新の実現されなかったプロジェクトばかりを集めた「アンビルト/反建築史」展が開かれ★一、それに合わせて『UNBUILT/反建築史』(TOTO出版)という二分冊からなる充実した書物(タイトルにもかかわらず現代建築史の資料としてもきわめて価値が高い)も出版された[図1]。そのインパクトは、実現された建築群に勝るとも劣らな...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.32-35
[現代住宅研究 2-1]
1 戦前と戦後 戦後の日本の住宅は、はじめ小さな建物として現われた。住宅に関して、戦前と戦後を分ける指標を実作上で探すとしたら、たぶん建物の小ささに注目することになるだろう。戦前にも《土浦亀城邸》や《谷口吉郎邸》などの小住宅はあったが(共に延一二〇平方メートル程度、木造二階建て)、戦後の住宅の極端な小ささには遠く及ばな...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.12-15
[都市表象分析 1]
1 墓地という劇場 インターネット上に建立された墓、「サイバーストーン」と呼ばれるプロジェクトがある。発案者である松島如戒によれば、その発想の原点には、ヒトを除くすべての生命体は、生を終えたのち、生態系に還元されてゆくのに、ヒトだけが死後、墓というスペースを占有しつづけることが許されるのだろうかという疑問があった。発...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.2-11
[脱芸術/脱資本主義をめぐるノート 2]
投機家そして慈善家として世界的に有名なジョージ・ソロスが、一九九八年、『グローバル資本主義の危機』★一という本を出した。一九九七年のアジア経済危機から翌年のロシア経済破綻に至るまでの歴史的状況を背景に、グローバル資本主義システムの本源的不安定性・脆弱性を分析しつつ、彼の唱える「開かれた社会」への展望を述べた本である。そ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.28-30
[部屋の文化研究 2]
連載第一回でふれた一九七六年設立の元祖ワンルームであるメゾン・ド・早稲田は、早稲田大学の近くにある。メゾン・ド・早稲田だけでなく、周辺には明治にはじまる下宿屋の歴史見本のような建物が散在しており、界隈の全体が下宿屋博物館のようだ。明治以来書生の育成をつづけてきた学校の隣接地域だということであろう。 同潤会が戦前一九三〇...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.30-31
[都市音楽ノート 2]
だけど、痛みが普遍的であることは確実だナット・ヘントフ * 都市はけっしてその空間が一様な原理で支配できないように、また複数の時間を胚胎しているのだろう。そんな時間のなかでひとつの名が、そしてその名に結びついた表現が、途切れたり経路を変えたりしながら思わぬ場所で現在の記憶の層に折り畳まれ、私たちの現在と対話をはじめ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.36-38
[トーキョー・建築・ライナーノーツ 2]
ペットということ ザ・ビーチ・ボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』、そのライナーノーツには、このタイトルの二つの意味が書かれている。 ひとつはペットによる音楽あるいはペットのための音楽という意味。ブライアン・ウィルソンの犬バナナ/ルーイーの鳴き声が録音された、アルバム最後の曲「キャロライン・ノー」は、犬が歌うという点...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.32-34
[Architecture的/Archive的 3 ]
用語の整理から始めよう。 MMO現実感(Massive Multi-Layered Online)という言葉は、常にネットワークに接続し、大規模多数の不可視の他者の存在が実世界環境内における現実感生成に多層的に影響を及ぼす状態を想定している。そこで最も直接的に実世界環境に作用する位相として情報技術によって可塑性を与えら...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.19-20
[ピクトリアリズムの現在 3]
鈴木理策の《サント・ヴィクトワール山》連作が問題としているのは、対象に「見入る」こと、すなわち「奥行き」という空間性の創出についてであった。言うまでもなくこれは遠近法的な消失点をもった奥行きではなく、『知覚の現象学』におけるようなそれである。「感官というものはすべて、それらがわれわれを存在の何らかの形式に到達させるはず...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.17-18
[都市の傷痕とRe=publik 6]
一九九九年九月一日、防災の日。名古屋の中心部にある白川公園で奇妙な光景に出くわす。公園内の遊歩道を挟んで、二つの異なる世界。一方は、公園のグラウンドで繰り広げられている防災訓練。赤い消防車が何台か並び、訓練の輪の中心には、火柱が立ちのぼっている。濃紺の制服、薄緑の制服が、号令のもとに移動する。白いテントの下には薄茶の制...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.27-28
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 6]
野蛮ギャルドの住宅 それは大地に「映える」のではなく、大地から「生える」建築だった。数年前、建築史家の藤森照信氏が設計した《神長官守矢史料館》を見に行ったとき、小雨が降りしきる視界のすぐれない天候だったせいか、なんとも幻想的な第一印象を抱いた[図1]。おそらく山村を背景にして建物の正面に並ぶ、原木さながらの四本の柱が想...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.205-216
[「悪い場所」にて 12]
まったく、とんでもない法律が決まっていたものである。 この法律、実は僕はおととい(二月六日)、友人から聞いたばかりなのだが、最初は意味がよくわからなかった。それくらい現実離れした内容のように思われたからだ。すぐにネットで調べておおよその実情を知ったのだが、それでもまだ、なぜこんな気分が悪くなるような法律があっさりと可決...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.13-15
[都市表象分析 24]
1 都市の通過儀礼──パサージュから無用門へ 境界は異人たちの棲み処だった。橋や坂には遊女や乞食、呪術遣い、卜占師、芸能者といった異類の人々が群れ棲んでいた。橋は「端」、坂は「境」を含意する。そこはひだる神や産女(うぶめ)といった神霊や妖怪が出現する他界との接点であり、この場を守護するために、坂神や橋姫といった神々がそ...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.2-12
[都市音楽ノート 1]
昨年、ややハードな合州国の黒人音楽雑誌(『Vibe』一九九八年五月号)に掲載されたトニ・モリスンへのインタビューの一部である。 今、あたかも公共空間は私的であるかのように扱われています。ホームレスではなくストリートレス、こう私はそのような状況を呼んでいます。 ストリートレス──それはモリスンが「今、世界で生じている...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.39-41
[新しい書き言葉をもとめて 3]
小説を読むことの面白さが、物語の筋を追うことではなく、小説を構成するテキスト、つまり言葉の連なり自体を追うことの快楽にあるということは、少しでも小説を意識的に読んだ経験のある人なら直ちに同意してもらえると思うけれど、ではそのときに感じている「快楽」はいったい何によって生み出されているのか、と考えるとよくわからなくなる。...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.15-16
[ラディカリズム以降の建築 1960s-1990s 7]
情報端末としての建築 電飾、看板、ファーストフード、カラオケ、ゲームセンター、カフェ、居酒屋、ドラッグストア、電化製品の量販店、百貨店、金融ビル、JR線の高架、スクランブル交差点。数々の情報と人々が行き交い、数々のストリートにつながる渋谷のターミナル。そして「二〇〇〇年へのカウントダウンを目指して、渋谷にQFRONTが...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.221-231
[Urban Tribal Studies 7]
どんな都市や街路にも特定のリズムがある。同じように巨大都市であり、せわしなさにおいても似ている東京とロンドンだが、それでも街のもっているリズムは異なっている。 このリズムの違いは、それぞれの都市の空間性の違いであると同時に、その都市がもっている時間性、あるいは時間に対する社会的、集団的な身ぶりや態度の違いを指している。...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.232-241
[部屋の文化研究 3]
同潤会大塚女子アパート訪問のつづきのようにして、石川県和倉温泉にあるカンガルーハウスをたずねる機会があった。温泉旅館で客室係として働きながら子育てをする女性たちのために旅館経営者が保育園併設の母子寮を建設しているときいて、ぜひ自分の目でたしかめてみたかった。建物の見学を許され、幸運にも設計者水野一郎氏、経営陣、旅館で働...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.38-39
[脱芸術脱資本主義をめぐるノート 3]
今回は、今までの懸案であった〈脱芸術/脱資本主義〉という概念そのものを(私が今了解している限りにおいて)説明しよう★一。 前回のソロスの分析にもあったように、世界の金融資本は一九八〇年代から九〇年代にかけて急速に膨張し、グローバル化した。近代の古典的な資本主義は(例えばマルクスが分析したように)産業と金融の間を資本が絶...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.36-38
[都市音楽ノート 3]
Get up, Get into It and Get Involved! ──目ざめろ、そこに飛び込んで、巻き込まれろ! ということだろうか。ジェイムズ・ブラウンは一九七一年にこう煽っていた。 時代のうねりを見ろ、飛び込め、そして同時にコミットしろ。もちろん、それはグルーヴのうねりのことでもある。たしかにグルーヴとは...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.44-46
[建築の還元 3]
1 純粋さ、または他者という与件 おそらく多くの建築家や建築をなす者が問うてきたのと同じように、私もまた、「建築にとって何がもっとも重要か」ということを繰り返し問い、考えてきた。この問いはいつも、自身がかかわり、試行している建築的実践への懐疑や内省と交叉するかたちで不意にせり上がり、それぞれの文脈で、おりおりに答えを...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.189-199
[「悪い場所」にて 8]
いま、「美術」の状況はどうなっているのか。たとえば数年前から、かつて八〇年代の「ニューペインティング現象」とはあきらかに異なる意味で、絵画への回帰が起こっている。視覚芸術の原点に帰るといえば聞こえはよいが、実際には、九〇年代なかばくらいから美術の世界をも覆い尽くし始めたグローバル資本主義と、アートマーケットからのプレッ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.13-15
[都市表象分析 22]
1 無意識都市のダイビング ジョージ・キューブラーは著書『時のかたち』で、通常では単体と見なされる事物の各構成要素がそれぞれ異なる年代に属している場合がありうることに注意をうながしている。長い年月にわたって建造された建築物などがそれにあたる。キューブラーは、あらゆる事物は異なる「系統年代(systematic age)...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.2-12
[都市の傷痕とRe=Publik 7]
今から七〇年前(一九三〇年)、エルンスト・カッシーラーは「形式と技術」という論文のなかでこう書いている。 技術は「責務を果たさんとする思い」の支配下にあり、労働における連帯の理想、とりわけ全体は一人のために、一人は全体のために活動するという理想の支配下にある。真に自由な意志共同体がまだ成立していなくても、技術はその仕...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.35-36
[新・都市の下層民 7]
0 日本とアジアの都市との最大の違いは、働く人間が都市の内部にどう組み込まれているかということにかかっているような気がする。例えば、台湾の都市を歩いてみる。公園の公衆トイレに入ろうと思えば、ちり紙売りのおばさんがいる。繁華街の路上には、食べ物を売る屋台が立ち並び、交差点には、政府が発行する宝くじを売る老人がいるし、また...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.34-35
[建築の解體新書 8]
不快な様式……岡崎乾二郎今回は前回の足りなかった部分を補い、中谷氏に対する問題提起という形式をとらせていただきます。 ★ よく知られていることですが、明治二七年、伊東忠太はarchitectureの訳として、すでに定着しつつあった造家という語に対して、次のような異議を唱えています。 「アーキテクチュール」の本義は決し...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.14-28
[都市表象分析 4]
1 蜂起機械と暴力の神 一九九九年に刊行された福田和也による奇妙な書物『日本クーデター計画』には、「自由の擁護者たちに捧げる」という献辞につづけて、クルツィオ・マラパルテの『クーデターの技術』から、次のような一節がエピグラフとして掲げられている。 あのばかばかしい伝説によれば、今日の、また将来のありとあらゆる革命の責...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.2-13
[都市表象分析 5]
1 ゲルハルト・リヒター《アトラス》 ゲルハルト・リヒターの《アトラス》は、現在五千枚を越す写真や図版を収めた六〇〇を越えるパネルからなる作品である。その制作は一九六〇年代初頭から延々と続けられており、規模を拡大するとともに、展示形態も変容している。旧東独に生まれたリヒターは、一九六一年、西独のデュッセルドルフに移住し...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.2-9
[建築の解體新書 9]
月の住民 岡崎乾二郎 1 しかし技術と芸術ははたして明確に峻別されうるのでしょうか。むしろ技術がその実効的側面を強調すればするほど、その実効性を要請したところの起点はけっして合理性に解消しきれるものではないことを露呈させてしまうのではないか。また芸術と呼ばれているものの特質が、その存在をいかなる目的に回収することもで...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.10-18
[建築の解體新書 6]
正確な絵本……中谷礼仁 0 約一年前、関西に越して最初のころ、どうにも馴染めなかったのは、住まいのまわりのいたるところに古墳が点在していることでした。 下宿先は、世界最大の墓と讚えられる仁徳天皇陵の近く、その隣の駅にありました。この付近は有名無名の古墳が点在する、ある筋では有名な過密地帯だったようです。その密度は、そ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.10-18
[都市表象分析 2]
1 家族の警察 一九九九年、埼玉県の女子大生が交際関係のあった男性とその実兄らによって中傷ビラを撒かれるといった嫌がらせを受けた挙げ句、桶川駅前の路上で刺殺された。上尾署の担当警官は、ストーカー被害に関する被害者や家族の告訴を取り下げるよう要請したほか、調書の改竄すらおこなっていたという。この事件を典型として、民事不介...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.2-9
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 8]
白と灰の融合 一九八九年は東西の冷戦構造が崩壊し、日本では昭和が終わり、時代の変革を象徴づけた年になった。二〇世紀のシステムが終わった年とみることもできよう。この年、アメリカのディズニーワールドでは、マイケル・グレイヴスの設計した《スワン・ホテル》がオープンした★一[図1]。続いて翌年には同じ設計者による《ドルフィン・...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.200-212
[蒐集(コレクション)の曖昧な対象 5]
1 X-CUBE(クロスキューブ)という名のコインロッカーをご存じだろうか。筆者は、先日原宿駅の構内で遭遇して、はじめてその存在を知った。昨年の九月に登場し、現在全国三〇カ所に設置されているというから、とりたてて意識はしなくとも、すでに目にされている方は多いかもしれない。 X-CUBEが従来のコインロッカーと違うのは、...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.26-28
[1990年代以降の建築・都市 1]
香港──一九九一年 ちょうど一〇年前、初めて香港を訪れたときのことだ。過度な疲労のために、中国から陸路で行くことを断念し、上海から香港まで三泊四日の船の旅を選んだ。四日目の朝、目覚めると、香港サイドと九龍サイドに挟まれた海の真中に船は漂っていた。朝靄のなかから海に迫る高層ビル群と山が現われる。感動的な風景だった。もとも...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.177-187
[トーキョー・建築・ライナーノーツ 8]
内側から見る都市 昨年から今年にかけてヨーロッパの都市を訪ねたときに、いくつかおもしろい都市ツアーを経験した。 はじめは昨年七月にミュンヘンを訪れたときのこと。「日本の小さな家」の展覧会をキュレーションした建築家ハンネス・ルスラーに連れられたミュンヘンのツアーである。「ミュンヘンは自転車でまわるのが一番」という彼は、わ...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.29-32
[都市音楽ノート 8]
あのマイルス・デイヴィス『Kind of Blue』(一九五九)には、六〇年代にジャズが歩むことになる対照的な二つの路線の代表者となる二人のアーティストが参加していた。ジョン・コルトレーンとジュリアン・"キャノンボール"・アダレイである。コルトレーンは比類なき協力者たちを得て、マイルスのモード奏法を独自のかたちで展開し...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.25-26
[東アジア建築世界の二〇〇年]
三─一 帝国主義とその手先 帝国主義とその発端 一八八七年六月二一日、ほぼ一一五年前のこの日に戻って世界のあちこちを見渡してみたならばその賑やかさには圧倒されたに違いない。とりわけ、その華やかさはイギリス本国、その植民地、そして、イギリス人の多くいる居留地で頂点に達した。ヴィクトリア女王即位五〇周年のゴールデン・ジュビ...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.196-204
[Urban Tribal Studies 12]
前回、ザグレブの二つのトライブの諍いに巻き込まれた逸話をあげた。同じサイケデリック・トランスのトライブでも、アナキストやパンクスに近いトライブ(Zito Tribe)と、もっと商業主義的な音楽業界志向の強いヤッピー的なトライブ(Astralis)の間には大きな違いがあった。しかし、同時にそれぞれのトライブじたいが、実は...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.205-214
[都市環境の文化政治学 1]
1 空間から「場所」へ 非常に多くのエコロジー的思想が、グローバルな単一文化の蔓延を嫌った。どこに行っても同じような味付けのものを食べ、同じような衣服を身に纏い、同じようなアクセントで話し、同じような話題に興じる人々。もちろんそれをただ否定的にだけ捉えるのは適当ではない。いままで見たこともないような果物を味わい、どれを...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.22-24
[政治の空間学 2]
3 自由にとって空間とは何か──積極的自由、消極的自由、アーキテクチャ 私的所有のプロトタイプを土地の領有にみるロック的な思考様式、社会制度(自由主義)の設計にあたって「空間メタファ」を多用する社会認識の図式と、監視社会論、リスク社会論などが示唆するような空間メタファによる理解が難しい「空間の蒸発」──人間の行為がこと...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.200-207
[脱芸術/脱資本主義をめぐるノート 8]
なぜ、未だに、これほどまでに「芸術」という言説に対して無自覚でいられるのか。しかも、「芸術」を手放しで信仰できるのか。 いわゆる「現代美術」業界の人々(アーティストも含め)と語り合うとき、しばしば感じる疑問である。あたかもデュシャンによる「芸術」の根源的メタ言語化などなかったかのように、あたかも前世紀初頭のアヴァンギャ...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.22-23
[現代住宅研究 8-2]
太陽を建築のデザインの〈材料〉にする 完全に地中深くにでも埋設されていない限り、建物は太陽からの影響を避けることができない。太陽からの影響としてまず挙げられるのは光であり、光は華やかな、荘厳な、時には宗教的な感情を伴って建築に導き入れられてきた。これにくらべれば、太陽によるもうひとつの影響である熱は、視覚的な効果を重視...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.16-21
[論考]
裏──宅地的都心 ここのところの東京をめぐる情報の流通を見ていると、「裏原宿」や「裏青山」といった「裏」の街に関するものがずいぶん多い。今まで脚光を浴びてきた表のストリートや商業地区に対して、一本奥に入った通りや街。原宿、青山、代官山、恵比寿、中目黒など、おもに明治通りや山手通り周辺のエリアに現われつつある「裏」の街々...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.147-155
[循環する都市 3]
もしかすると、日本なんて、どこにもないかもしれないな(…中略…)おれが歩くと、荒野も一緒に歩きだす。日本はどんどん逃げていってしまうのだ(…中略…)きっとおれは出発したときから、反対にむかって歩きだしてしまっていたのだろう…… 安部公房『けものたちは故郷をめざす』 〇 一九九二年の小平による「南巡講話」以降、中国は、...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.138-146
[1990年代以降の建築・都市 4]
近代都市のアール・ヌーヴォー 今から一〇〇年前、地下鉄が近代都市のシンボルだった頃、パリのメトロの入口が、エクトール・ギマールの設計によって華麗に飾りたてられた[図1]。鉄がのたうちまわり、枝や節、そして背骨のような部分がある。さらに光を透過するガラスの屋根がのる。一見して、緑色の異形のオブジェのようだ。有機的な生命体...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.156-166
[東アジア建築世界の二〇〇年]
五─一 オリエンタリズムと「簒奪様式」 畏敬の存続★一 ウィーンのバロック建築家フィッシャー・フォン・エルラッハ(一六五六─一七二三、Johann Bernhard Fischer von Erlach)が『歴史的建築の構想』という世界の建築物を比較した書物★二を、ドイツ語とフランス語で刊行したのは一七二一年のことで...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.172-181
[都市表象分析 7]
1 非正規性のグローバル化 二〇〇一年九月一一日、アメリカ合衆国を襲った同時多発テロは、六〇〇〇人にのぼると言われる犠牲者を出し、ニューヨークとワシントンの両都市に大きな傷跡を残した。合衆国国民のみにはとどまらない犠牲者や事件に巻き込まれた人々一人ひとりの恐怖と苦痛は想像を絶している。合衆国の経済と政治(国防)の「象徴...
『10+1』 No.25 (都市の境界/建築の境界) | pp.2-11
[Urban Tribal Studies 15]
前回、英国のストーンヘンジがパーティやイヴェントの空間になることによって生じる様々な問題についてふれた。かつてニューエイジ・トラヴェラーが古代遺跡を空間占拠(スクウォット)している話を聞いたり、ケヴィン・ヘザーリントンによる分析を読んで最初に思ったことは、早晩、日本にも神社や古墳でパーティをやる輩が出てくるという予感だ...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.182-190
[ポスト・ストラクチャリズムの建築 1]
とは言ってみたけれど、ポスト構造主義そのものに関する定義・状況説明などは書店の思想・哲学の書棚にあふれているであろうし、その手のディスクールがしかけてくるレトリカルな戯れの背後に潜むものが、結局のところうさん臭いディシプリンとストラクチャーの反復的戦略でしかないことに〈気づいている〉かどうかは別にして、端から「主体であ...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.24-26
[音楽批評の解体文法 1]
音楽批評に対して知的に興奮させられることは極めて少ない。他の表象文化諸分野における批評の現状と比べるとそれは明白であろう。その原因はおそらく、音楽への学的な分析アプローチの主流が未だに形式主義的美学(その最も洗練された形態としてのシェンカー理論は、アメリカではほぼ自然科学同様に受容されている)に依存していることと、消費...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.27-29
[ポスト・ストラクチャリズムの建築 4]
最近、大学の設計・製図を教えていてもどかしさを覚えることがしばしばある。設計課題のエスキースとして三次元曲面らしきものを使ったプロジェクトを提出してくる学生に対してである。経験則からいうならば、この手のほとんどの学生は三次元曲面の「自由」さなり、その情動的なイメージに魅了されているだけであり、建築的なリアリティなど端か...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.37-38
[写真のシアトリカリティ 4]
1 昨年の九月一一日、ハイジャックされた旅客機がビルに衝突するテレビ画像が雄弁に物語っていたことは、「決定的瞬間」が未だ存在し、それは映像化されうるというメディアの自負である。少なくとも私たちの目が飽きるまでは、徹底的に反復されるシークエンシャルなフッテージに組み込まれたカタストロフィックな瞬間は、依然として使用価値を...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.29-32
[大島哲蔵追悼]
大島哲蔵氏と知り合うようになったのは、私がまだ東京の大学で助手をしていたころ、一九六六、七年のころではなかったかと思われるが、最初の出会いについてはほとんど記憶がない。いずれにせよ、出会うきっかけは、彼がT書店の外商担当として、研究室に建築関係の洋書を見計らいで持ち込んできたことであったのは間違いない。氏との関係で最初...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.168-171
[論考]
東京という都市の現在を考える上で、「屋上」はひとつのキーワードとして流通している。そしてそれは、言わずもがなかもしれないが、二つの異なる文脈においてそうなっている。それを確認することから始めよう。 ひとつは、宮台真司の「『屋上』という居場所」と題されたエッセイに代表されるように、都市の死角としての屋上を、その「どこでも...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.158-165
[大島哲蔵追悼]
記憶に棲むオブジェ 今日はタイポロジーをめぐって、アルド・ロッシからドナルド・ジャッドまでお話する予定です。まずはオーソドックスな話から始めましょう。 私はかつて、イタリアの建築家、アルド・ロッシの主著である『都市の建築』(福田晴虔+大島哲蔵共訳、大龍堂、一九九一)の翻訳をやりました。七〇年代当時、彼は非常に人気があ...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.181-191
[論考]
リゾームは、………地図であって複写ではない。複写ではなく、地図を作ること。………地図が複写に対立するのは、それがすべて、現実とじかにつながった実験の方へ向いているからである。地図は自己に閉じこもった無意識を複製するのではなく、無意識を構築するのだ。地図は諸分野の接続に向かい、器官なき身体の封鎖解除に、それら器官なき身体...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.173-180
[写真のシアトリカリティ 1]
1 スペクタクルは、視線の権力を行使することをわれわれに教育する、政治的かつ時間制約的なイヴェントの謂いにほかならない。しかしスペクタクルには、見る者と見られる者の安定的な視線の構図を突き崩す趣向が絶えず盛り込まれる。写真家が、向こう側から「見つめ返す」視線の持ち主を典型的に擁する、例えば「動物園」のような場に歴史的に...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.33-35
[Cinemascape 4]
私はいま某テレビ局のドキュメンタリー番組のため、同時多発テロ事件についての特別番組を制作している。その取材・撮影を通し、ドキュメンタリー制作のある倫理的な問題に突き当たった。 九・一一の被害者を撮影するとき、彼らの悲劇を番組(つまり、資本主義社会で、利潤を上げる企業の活動)のための「食い物」にしているのではないか?とい...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.28-29
[都市環境の文化政治学4]
1 ぶらつき 都市論にジェンダー的視点を導入して独自の切り込みをしようとしたエリザベス・ウィルソンは『The Sphinx in the City』という本のなかで、「ぶらつきまわる人」(flâneur)に着目している★一。ウィルソン自身は、そのぶらつきが多くの場合、男性に代表されていることに不満をもらし、「女性の彷徨...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.21-22
[都市表象分析 19]
1 雪岱の東京 ゆきて還らぬなつかしい面影──。 鏑木清方が『小村雪岱画集』に寄せた言葉である。 雪岱は泉鏡花作品の装幀挿絵で知られている。独特に様式化されたその美人画から「最後の浮世絵師」と呼ばれる一方、邦枝完二の『おせん』、『お伝地獄』といった新聞小説のために描いた単色挿絵には、オーブリー・ビアズレーに通じる感覚も...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.2-12
[音楽批評の解体文法 4]
『AERA』誌の記者(当時)である鳥賀陽弘道と、日本人ロック・ミュージシャンのボニーピンクのあいだに起こった「論争」(というにはあまりにも一方的な、烏賀陽の「言い負かし」に終わったが)から話を始めよう。二〇〇〇年六月、『別冊宝島・音楽誌が書かないJポップ批評』誌(第七号)にて、烏賀陽は「Jポップ英検ランキング」と題し、...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.22-25
[Waiting for Art 1]
「完全さの先にある自然さ」。 この「座右の銘」をスティーリー・ダンと共有する某DJによる、コンピレーション・アルバム──出典も内容もうろおぼえなのだが、ある音楽雑誌の新譜評にあったそんなキャッチコピーに釣られて、一枚のCDを買った。ところがこれが凡作。この種の買い方をしたCDで、繰り返し聴けるものがあったためしがないの...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.29-31
[Cinemascape 1]
私の長編第一作『エコーズ echoes』は、概ねアメリカ国内より、ヨーロッパの映画祭や東京国際映画祭での反応のほうが好意的であった。それは、映画を製作していた当時は思いもしなかった地域差であったのだが、そんななか、逆にどこに行っても尋ねられた同じ質問がある。それは「貴方の映画は、アメリカで、英語を使い、アメリカ人ばかり...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.31-33
[Waiting for Art 4]
都内での上映終了まぎわになって時間ができた。かけこみでジョエル&イーサン・コーエンの新作、『バーバー』を観る。 タイトル・クレジットの文字が、まるで物質として宙に浮かんでいるかのように、ぐるぐるまわる床屋の看板に影を落とす、その秀逸なオープニングに目を奪われたあと、低コントラストの、ぬるいモノクロのイメージをいくつか経...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.25-28
[論考]
韓国における官主導のオタク産業支援 一九九九年三月、ソウル中心部に位置する繁華街の明洞(ミヨンドン)に、ソウル・アニメーション・センター★一[図1]がオープンした。一般公開の展示室、シアター、ビデオライブラリー、並びにアニメ制作会社の制作支援のために設けられた貸しスタジオや編集室などから成る施設で、ソウル市の産業振興財...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.129-137
[都市観測者の手帖 7]
ゆえあって赤羽に行った。私にとっての赤羽のこれまでのイメージとは赤羽台団地だった。東京では有名な団地であり、また団地の歴史を語るうえでも、住宅公団の歴史上も重要な団地であろうが、私はこの団地の名前を赤塚不二夫の漫画で知った。たしか、『天才バカボン』だったと思うが、バカボンのパパがどういう脈絡でかは忘れたが、突然「赤羽台...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.37-39
[ブック・レヴュー]
「コーラ」とは、プラトンの宇宙創世論『ティマイオス』の用語で、場所のこと、それもたんなる空虚な場ではなく、そのなかに何かがあったり、誰かが割り当てられて住んでいるような場所のことである。製作者であるデミウルゴスは、範型となる形相を眺めながら、それをモデルとして感覚的な似像を作り出すのだが、そうした似像がかたち作られたり...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.44-46
[中国で内装をつくる 5]
三回にわたって紹介してきた書店のプロジェクトの紹介も今回で竣工、開業に至る。九〇〇〇平米弱の書店内装の設計施工が、二〇〇三年の一月末に内装コンペの要項が発表されて一一月中旬には開業したわけだが、結局設計者選定まで二か月、設計+見積もり調整で四か月、施工で三か月、開店準備で一か月というスケジュールだったことになる。もし途...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.41-44
[視覚の身体文化学 3]
「エコロジカル」な視知覚論を組み上げていったジェームズ・J・ギブソン[図1]は、アメリカ合衆国の軍事研究に深く関与していた。この歴史的事実をあらためて思い出すことから、今回は始めてみたい。ギブソンの履歴に関して主に参照するのは、第二次世界大戦時にギブソンが主任(軍の階級では「大尉 Captain」、後に「少佐 Majo...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.21-23
[現代建築思潮]
フォールディング・アーキテクチャー──その実践の系譜 ソフィア・ヴィゾヴィティ 日埜直彦|訳 Sophia Vizoviti, “Folding Architecture, Concise Genealogy of the Practice” 二〇世紀末におけるまったく新しい建築を求める議論からフォールディングは登場...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.47-62
[ポストモダニズムと建築 7]
ローマ帝国の崩壊とともに失われた古典建築の伝統、その廃墟を横目に見ながら建築をゼロから始めたロマネスク期の建築、そんなコントラストが近代建築と現代建築の間にもあるのではないか。いかにも大げさなこの仮説がこの連載の端緒であった。このような問題設定は唐突でほとんど時代錯誤的に聞こえるかもしれない。だがある意味では現代を問う...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.30-31
[デジタル・イメージ論 3]
考えてみれば、「デジタル・イメージ」を、自明のものとして捕らえることは可能なのであろうか。もちろんわれわれは、それを現象としては日常的に体験しているし、そのイメージが指示する対象に、少なからぬリアリティを感じてさえいる。しかし、前回述べたように、デジタル・イメージがサイバースペースの中に、亡霊的に遍在するものであるなら...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.23-25
[ポストモダニズムと建築 4]
過去半世紀に現われた「建築的統辞法」の揺らぎを検討するため、それ以前の文脈を振り返ってきた。比喩的に言うならば、嵐の波間から嵐の全貌を見ることができないならば、せめてかつての海を思い返してみよう、という格好だろうか。嵐を鋭敏に感知し、流れに棹さしつつ、意図においてなにごとかをなすこと、それが問題である。ただ波にもがくだ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.39-41
[都市ノ民族誌 5]
自衛隊に入ろう/入ろう/自衛隊に入れば/この世は天国/男の中の男はみんな/自衛隊に入って/花と散る 高田渡「自衛隊に入ろう」 ナセル、周恩来、ネルーらのよびかけで、反帝国主義・反植民地主義を掲げた通称「バンドン会議」(第一回アジア・アフリカ会議)が開かれた昭和三〇(一九五五)年、第三世界の春。この年の四月、東京には時...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.36-39
[都市表象分析 23]
1 類似の存在論 ロジェ・カイヨワは『神話と人間』のなかで、「動物界の二つの分岐した進化、すなわち、それぞれの進化が人間と昆虫に帰結するような、もっとも完成した進化の二つのモデルを比較するなら、両者の間の、端的にいえば、一方の行動と他方の神話との間の対応関係を求めることは、無暴(ママ)ではないはずである」と主張している...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.2-8
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間4]
円形競技場はきっちりとした形態を備え、その機能を明確に体現した形となっている。それはもともと、無造作な容れ物として考えられたものではなかったのであって、それどころか綿密に考え尽くされた構造、建築表現、形態を備えていたはずである。しかしそれを取り巻く外的状況変化は、それは人類の歴史上最もドラマチックな瞬間の一つであったの...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.12-23
[アート・レヴュー 1]
今年も現代美術の祭典であるヴェネツィア・ビエンナーレがオープンした。二年に一回開催されるこの国際美術展は、今年で四八回目である。同様の国際美術展にドイツのカッセルで行なわれるドクメンタがあるが、ドクメンタでは基本的にひとりの総合コミッショナーが作品を決定するのに対し、ヴェネツィア・ビエンナーレは国別の参加となっており、...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.41-42
[景観の視学/史学/詩学 5]
「まちづくり」に際して、ことさらコンテクスチュアリズムを標榜せずとも、界隈を表現するために使われてきた言葉を確認するのは必須の作業だ。とはいえ街のイメージは往々にしてひどく恣意的なものだ。与えられた言葉のその背景まで読みの対象になる。目下世界中の注目を浴びているパリ市のレ・アール地区再開発は、歴史と物語を過剰なまでに背...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.28-30
[都市とモードのフィールドノート 4]
建築とファッションの境界が揺れ動いている状況を見てきた。 表参道や六本木には有名建築家の手になるブランドの旗艦店が林立し、そこは高価な商品とともに現代建築をも消費する場所となっている。住宅やインテリアもブームになり、書店に行けば建築やモダン・デザインを特集するライフスタイル雑誌があふれている。 これまで建築とファッショ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.34-36
[ポピュラー文化としての都市空間 4]
(六本木ヒルズは)スケボーのためにあるようなもんだよ。 祖師谷パークの地元スケーター(ローカル) スケボーをもって外にでれば、そこから広がっていくのは今まで気づかなかった街。もしも、あなたがスケーターじゃなかったら、駅前広場や公開空地に集まってくる若者たちを少しだけ観察してみてほしい。勢いよく助走をつけ、乾いた打撃音...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.32-34
[ブック・レヴュー 3]
アビ・ヴァールブルクの仕事は、エルンスト・H・ゴンブリッチによる伝記の翻訳(『アビ・ヴァールブルク伝──ある知的生涯』、鈴木杜幾子訳、晶文社、一九八六)以来、松枝到によって編まれた論集(『ヴァールブルク学派──文化科学の革新』、平凡社、一九九八)、田中純の労作(『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』、青土社、二〇〇一)、...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.31-34
[過防備都市 3]
子供と危険な空間 前回の連載「過防備都市2──戦場としてのストリート」では、路上が危険視され、住民による組織的な治安活動が全国的な規模で展開している状況を確認した。なかでも子供が被害者として注目され、通学路のセキュリティが問題として浮上している。 二〇〇四年四月、大阪の公園における遊具の整備不良によって子供が指を切断し...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.179-189
[都市環境の文化政治学 3]
1 絵のような町──遠隔性 高名な地理学者、ジョン・ブリンカーホフ・ジャクソンの『ヴァナキュラーな風景を発見する』★一をひもといてみると、最初に興味深い指摘がなされているのに突き当たる。英語のlandscapeという言葉は、もともと風景を題材にした絵画のことを意味していたというのである。もちろん、いまでもその言葉には風...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.23-25
[技術と歴史 1]
はじめに 今日は二〇世紀の「建築生産の工業化」という文脈の中で語られることの多い四つの住宅についてお話したいと思います。個人的な背景として、私自身の研究の主たる関心のひとつが工業化住宅で、これは二〇年ぐらい前から研究してきました。石山修武先生から「脱工業化の時代になんで工業化なんてやっているのか?」なんて言われながら研...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.180-193
[音楽批評の解体文法 3]
ポップ・ミュージックの領域で「ジャンルを越える」という宣言はすでにクリシェとしてしか機能しない。「オレたちの音楽にジャンルは関係ないぜ」と主張することは、その実践の卓越化を彼らが志向している証──誰もがそのように主張するが故に、卓越化の「資格」のようなものとしてしか機能しないのだが──として受け取られる。「ジャンルを越...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.27-30
[都市表象分析 8]
1 テロリストたちの夢と遠隔科学技術(テレ=テクノロジー) 対米同時多発テロの首謀者とされたウサマ・ビンラディンとその組織「アルカイダ」、および彼らをかくまっているタリバンを標的として始まった、アメリカ合衆国軍と反タリバン勢力の攻撃は、二〇〇一年一二月一六日現在、アルカイダをアフガニスタン南東部の山岳地帯に封じ込め、最...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.2-9
[写真のシアトリカリティ 3]
1 空(そら)の写真は、たいてい雲や陽光や手前に配される樹木の写真であって、純粋な空の写真なるものは実際、存立しがたい。ここに、写真的なミニマリズムを想定することの「虚しさ」がある。写真は、いつも何物かの写真であり、指示対象を欠いた写真は、ほとんどただの薄い平面的な物質であるにすぎない。しかしこの虚しさの中に可能性を見...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.35-37
[Cinemascape 3]
幾つかのショットを重ねて然るべく物語の空間配置を説明することなく、一ショットで、音声と光への繊細な感性を画面に漲らせ、われわれを無意識にスクリーンへと吸い寄せてしまう映画作家が存在する。例えば、侯孝賢(ホウ・シャオシエン)。彼にかかれば、ロングショットひとつで、われわれを画面に引きつけてしまう。『童年往事』(一九八六)...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.33-34
[アフォーダンスのフィールドワークから 3]
今和次郎はおそらくアフォーダンスのフィールドワークの先達である。彼はおもに「行為の痕跡」に注目した。関東大震災後の観察のいくつかが『考現学入門』(ちくま文庫)に収められている。 たとえば「洋服の破れる個所」というのがある。神奈川県の工業高校生の「着古して着られなくなった服を引張りだして、それらの損じ個所」を調査した。図...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.20-22
[集中連載 1]
なかんづく、近代ヨーロッパ人は、この遊星をとはいえないにせよ、少なくともこの遊星の各地帯を、一様化しようとする仕事にしたがう疲れを知らぬ職人である。 ポール・ヴィダル・ブラーシュ 一つの国際的な言語が、白色人種の住むあらゆる土地を支配し、思考の交換と文化の伝搬とを容易にした。一つの国際的な様式が、西から東へ、...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.169-179
[明治期「近代交通業発達」余話 3]
日本における交通網の近代化を考える際に、これまで注目されてきたものは「鉄道」であり軌道上の輸送経路の整備・拡充であった。この点については、多数の鉄道史研究、そして都市内交通網整備とあわせて都市における電化・電力供給事業の歴史に随伴する馬車鉄道・電気鉄道の整備事業史からみてもよくわかる★一。交通網の近代化という問題設定が...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.34-36
[グローバリズム 5]
1 中国(珠江デルタ):スーパーバブル=一九七八以降 PART 2 前回に引き続いてハーヴァードの「珠江デルタ」のリサーチ・レポート。彼らのパラフレーズが多いが、いろいろと私なりに「潤色」している部分はあるのでお断りしておく。 もともと珠江デルタは両端に香港とマカオを抱えている。返還に備えてその後背地(となるは...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.190-206
[都市表象分析 27]
カメルーンの熱帯雨林に棲息し、トメンテラ属菌類に寄生されて額から釘のような突起物を生やした「異臭蟻」メガロポネラ・フォエテンス、あるいは、イグアスの滝近くの保養地で神経生理学者ジェフリー・ソナベントが着想したという記憶理論のモデル、あるいは、分厚い鉛の仕切り壁という罠に捕らえられた特殊な鼻翼をもつコウモリ、「小さな悪魔...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.2-12
[現代建築思潮]
報告 今井公太郎 今井──前回、バシュラールの「形式的想像力」と「物質的想像力」について話をしました。建物でいうと「形式的想像力」というのはフォルムやプランといった幾何学的なことに対応し、「物質的想像力」は素材や物質そのものに対応する、という区分をしました。近代建築以降のさまざまな建築理論は、どちらかというと形式的想像...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.37-44
[インタヴュー]
「アーキラボ」について 今村創平──マリ=アンジュさんは「アーキラボ」展に関連して多くのインタヴューを受けられ、すでに質問されることにはうんざりされていることとは思いますが、よろしくお願いします。これまでのインタヴューはみな、森美術館での展覧会についてのものだったかと思います。今日はそうではなく、「アーキラボ」という活...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.150-158
[都市表象分析 10]
1 類推の魔とノスタルジア 第二次世界大戦後間もないころ、東欧の若い建築家ボクダン・ボクダノヴィッチ(のちのベオグラード市長)は、気晴らしに夢の都市の平面図や鳥瞰図を描くことを習慣にしていた。彼は連想のおもむくまま、それまで目にしたことのあるあらゆる都市の美しい街路や広場、建物などをそこに集めたという。のちにエジプトの...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.2-10
[文化所有のポリティクス 3]
承前 文化の論理と法の論理がきしみを見せる「大地讃頌」事件を、文化論理の水準から眺めるなら、クラシック音楽的な文化規範と、ジャズ、あるいはポピュラー音楽実践における文化規範との摩擦の事例として見ることができよう。すなわち、クラシック音楽の「楽譜がそのまま確定された作品を指し示す」ような作品観念と、ジャズの「楽譜と演奏の...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.15-17
[都市の傷痕とRe=publik5]
長引く不況のためなのか。郊外の幹線道路沿いには、更地が目立つ。確かにその場所には建物があったはずなのだが、どうしても思い出せない。車窓から眺めていたせいばかりではない。コンビニエンス・ストア、ファミリー・レストラン、家電の量販店、紳士服店、それともワンルーム・マンションだったか……。数キロ先にはまた同じ建物の連なりに出...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.30-31
[非都市の存在論 3]
1 Modernologio──〈現在〉の考古学 首都東京を壊滅させた一九二三年の関東大震災は、欧米における第一次世界大戦に対応する歴史の断絶をもたらした。そして、この震災後の日本の一九二〇年代は、独自なモダンな都市の学を生み出している。今和次郎らの〈考現学〉がそれである。よく知られているように、今和次郎ははじめ柳田國...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.16-27
[境界線上のアメリカ 3]
4 「291」以後 よく知られているように、アメリカへ帰国してからのスティーグリッツはニューヨーク・カメラ・クラブの重要な新会員として迎えられ、『アメリカン・アマチュア・フォトグラファー』誌の編集に携わって写真芸術の理論と技術についての批評を次々と発表すると同時に、精力的にニューヨークの街を探索し始めた。この時期、彼が...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.176-183
[情報空間の地理学 3]
以前フランスの核実験の際に、インターネットを通じて反核キャンペーンを行なうという企画があり、かなりの反響を呼び多くの賛同者が集まった、らしい。東京大学の学生が企画したというこのキャンペーンのことを筆者も電子メールを通じて知らされ、署名するように勧められ、ホームページを覗き、何も書きこまずに閉じた。何ら文面に問題があった...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.39-41
[知の空間=空間の知 4]
炎に包まれるオルセー パリを燃やしてしまえ。日に日に「現代化」しつつある一八八〇年代末のフランスの首都に、「現在」への屈折した憎悪を抱えこみつつ暮らしていた奇矯な作家が、文化状況を論じた時評的なエッセーの一節に、ふとこんな呪詛を書きつける。「証券取引所も、マドレーヌ寺院も、戦争省も、サン=グザヴィエ教会も、オペラ座も、...
[非都市の存在論 4]
1 サイバースペースと建築──流体的アナモルフォーズの罠 ヴァーチュアル・リアリティ、サイバースペース、サイバーアーキテクチャーと、どのように呼ばれるのであれ、コンピュータとそのネットワーク上に形成される空間、ないしは空間的構造関係の構築を〈建築〉の課題として語ることが現在のモードであるらしい。そのような前提に立つなら...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.16-27
[建築とイマージュ 4]
G君 ミースについて君から教わったことに刺激されて、自分でも何か書いてみようと思い立ってから、もうしばらくになる。このところアルトーやシンディ・シャーマンに関する論文の翻訳などに追われていて、僅かばかり集めた資料を充分検討する暇もなかったのだが、ただ、一九二九年に万国博のドイツ館として建てられ、会期終了後直ちに取り壊さ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.31-34
[建築の言説、都市の言説 4]
建築を主導した言説に光をあてて、その含意を明らかにするシリーズも四回目を数える。今回は少し違った角度から、つまり「テクスト」を拡大解釈して、建築写真家(二川幸夫氏)が刊行をしている〈GAシリーズ〉をとり上げてみたい。GAシリーズは簡素なテクストが付されているが、それらの比重は相対的に低く、ここでの「本文」はあくまで写真...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.28-31
[ビルディング・タイプの解剖学 3]
立地条件が倉庫計画の主要な関心事であることに今も昔も変わりはない。水運の時代では倉庫が港湾や運河沿いに計画されるのは必然的であり、ハードウィックのセント・キャサリン(一八二七)やシンケルのパックホフ(一八二九─三二)のような一九世紀の倉庫に水辺の景色がよくあうのは、必然性からくる心象である。しかしモータリゼーションは立...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.35-38
[建築とイマージュ 3]
(1) ルネサンスの建築は、建築家のデッサンによって与えられた形態を実際の作業にあたる職人が能力と資材の許す範囲で翻訳することで生産され、ウィトルウィウスを情報源とする誤った構造の概念しか持ち得なかったと『建築講話』のヴィオレ=ル=デュックは指摘する。確かに、少なくともヴィオレ=ル=デュック以降、建築における(あるいは...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.31-34
[ビルディング・タイプの解剖学 2]
グロピウスに至る近代建築の軌跡を描く、N・ペヴスナーの『モダン・デザインの展開』(一九三六年)を、その弟子のバンハムは厳しく批判している。ベルファストのロイヤル・ヴィクトリア病院(一九〇三年)がきわめて斬新な環境のマシーンとして設計されたにもかかわらず、おそらくそれがヴィクトリア朝の流行遅れの外観を持っていたために、ま...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.34-37
[情報空間の地理学 2]
サイバースペースが不可避に都市の内部に二極化を、すなわち情報にアクセスできる人とアクセスできない人の二つの階層を生み出しているという事実は、特に東京という都市の中では自覚されることが少ない。「ロサンゼルスならともかく、みんながそこそこ豊かな東京では、コンピュータもモデムも買えず通信費も払えないほど貧しい人がいるとは思え...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.38-40
[建築とイマージュ 2]
建築をその二次元的な画 像(イマージユ)の形に還元した上でそこからさまざまな 隠 喩 (メタフオール)を読みとる、建築に対するそうした理解の仕方には可能な限り禁欲的であること、われわれが〈スカルパの疑い(ドウト)〉と呼んだのはそうした姿勢であった。それを前提とした上で、人文科学が、その最も洗練された 形 態(フイギユ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.31-33
[建築の言説、都市の言説 2]
心血を注いだテクストの出版を目前に著者が亡くなるというドラマは、死神の非情さを思い知らされるが、ゆかりの者が手を尽くして故人が浮かばれる形で出版に漕ぎつけたなら、それは何よりの追悼となるに違いない。ケヴィン・リンチの遺著となった『廃棄の文化誌』(工作舎、一九九四年)は彼の死後にMITでの生徒だったマイケル・サウスワース...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.28-30
[建築の言説、都市の言説 3]
建築と都市の遭遇した最大の危機は、大規模な破壊と急ごしらえの建設を繰り返し、イデオロギーの存立基盤さえも崖淵に追いやった今世紀を措いて他に考えられない。表面上の徹底したコンストラクトと内面の空洞化が鮮やかなコントラストを開示している。批評の言説はつとに、この点に関して警告を発して来たが、建築の批評そのものが根底的なクラ...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.28-31
[翻訳]
〈オーストリアの終焉(Finis Austriae)〉は過密した点を表わす。その結果として、オーストリア文化と二〇世紀のヨーロッパ文化双方においてそれは、マルチメタファーの形でこそ存在する。最も直接的にそれが示すのはハプスブルク帝国終焉の年月と戦争、そしてその余波のうちの社会状況であり、これは騒然とした崩壊過程であって...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.245-262
[ビルディング・タイプの解剖学 4]
聖なる建築はどのように発生したのだろうか? これを哲学的な思索によらず、ビルディング・タイプの問題として考えてみたい。建築史の教科書をひもといて見れば、最初にヒトの住まう家が登場する。次に貧富の差が生まれ、階級が芽ばえ、住居から諸機能が分節を始める。例えば、モノが住まう倉庫(前回のテーマだ)。ここに余剰な資産が収蔵され...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.34-38
[情報空間の地理学 4]
昨年の総選挙が示したことは、国民が政治に対してますます無関心になったことだ、と言われる。本当だろうか? 確かに投票率を見る限り、国民の政治に対する関心はかつてないほど低下しているように感じられる。しかし、よく考えてみると、現在ほど日本の歴史上国民が政治に関心を持っている時代がかつてあっただろうか。このことは、テレビ番組...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.38-40
[知の空間=空間の知 6]
選別と階級 周囲三六〇度の全方位から迫(せ)り上がってくる「無限」の脅威と正面から向かい合ったとき、「知の主体」は、「中心」という特権的な一視点から「全体」を一望の下に所有しうるという「パノプティック」な全能感を享受する一方、同時にまた、生の有限性に拘束されている者ゆえの無力感にうちのめされざるをえない。「肉は悲しい、...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.2-17
[1990年代以降の建築・都市 2]
世界貿易センタービルの崩壊──二〇世紀建築の終わり 僕たちは下に降りて、外に出たんだ。それはアポカリプスの風景だった。原爆がどんなものかは知らないけれど、きっとあんな感じだと思う。 ビルの中にいた男の証言★一 巨人の鼻をへし折った。 テロ当日、パレスチナのある男性のコメント★二 世界貿易セ...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.181-194
[非都市の存在論 6]
1 啓蒙都市とグラフ理論 トポロジーの一分野をなすグラフ理論が生み出されたきっかけの一つが、〈ケーニヒスベルクの七つの橋〉の問題である。それは一八世紀、東プロイセンの町ケーニヒスベルク(現在のロシアのカリーニングラード)の中心部、プレーゲル川の川中島とその周辺にあった[図1]のような七つの橋を、いずれも一回だけ通って周...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.18-29
[建築の言説、都市の言説 6]
創造なんて、シェークスピアはなんにもしちゃいない。ただ実に正確に観察して、見事に描き出したってだけだよ。 (『人間とは何か』M・トウェイン★一) 出版と同時に高い声望を獲得し、ポストモダンと呼ばれた包括的な潮流(短命に終わったが)の論拠ともなった ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』★二を、そのトレンドが役割を終...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.30-32
[ビルディング・タイプの解剖学 6]
神はノアにかく語った。「糸杉の木で一隻の方舟を作り、中に個々の部屋を作り、内外を土瀝青で塗りなさい。そして次の寸法で方舟を作るがよい。長さは三〇〇キュービット(一キュービットは四三〜五三センチ)、幅は五〇キュービット、高さは三〇キュービット。屋根は上に一キュービットで仕上げ、方舟の戸口は一、二、三階の側面につけなさい」...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.37-40
[建築とイマージュ 6]
(パオロ・ウッチェッロは)《大洪水》の図をノアの方舟とともに描いたが、その際、死者、嵐、疾風、稲妻、砕ける木の幹や枝、人々の恐怖などを、非常な苦労と技術と熱心さをもって描いたので、これ以上のものは望めないほどである。彼は遠近法による短縮で死人を一人描いたが、鳥がその目玉を突っついている。また溺死した子供を一人描いたが、...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.33-36
[大島哲蔵追悼]
建築そのものは問題ではなく、そこにどんな状況が成立しているのかということが決定的だと、彼はしばしば口にしていた。そして本当の感情と営為が成立する余地が極端に失われていく状況に危惧を抱いていた。こうして大島氏は少しでも刺激的な状況を作ろうとして、自らの問題意識を提示し、実践するためにさまざまなフィールドで活動を行なった。...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.192-193
[千年王国論(六)]
これまで、千年王国に関しては、ユートピアとの対比において位置づけてきたつもりである。この場合、ユートピアとは現実の彼方にある別世界として考えられていたのではなく、社会主義/共産主義にせよ、近代都市計画にせよ、モダニズムの計画主義(ハイエク流にいえば構成主義)がその可能性の線上に想定していたものである。「その可能性の線上...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.216-226
[非都市の存在論 5]
1 密室パラドクスと推理小説のエコノミー フレドリック・ジェイムソンは市民社会におけるブルジョアのプライヴァシーがもつ逆説的性格について次のように述べている。 市民社会とは、社会によって生み出され、まさにその社会構成体が機能していくうえでの重要な一部分を成す、根本的に非公開・非社会的な空間という経験と概念の哲学的パラ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.14-25
[境界線上のアメリカ 4]
1 夜闇のノース・アメリカン・ハイウェイを走っていると、光の船に出逢うことがある。クルーズコントロールを時速六〇マイルに設定し、ステアリングの微操作だけでぼんやりと時を過ごしている、そんな夜のことだ。 規則的に過ぎ去ってゆく道路灯とコントロール・パネルに泛んだメーター類の灯りを除けば、眼に入ってくる対抗車線の車の光とて...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.232-238
[建築の言説、都市の言説 5]
いくぶん道化者で、いくぶん神のようで、いくぶん狂人で……それが透明性なのだ。 (『ニーチェについて』G・バタイユ) コーリン・ロウは多くの顔を持っている。歴史家、アーバン・デザイナー、教育者、現代建築のイデオローグというのがその一部である。戦後のアメリカ建築界は巨匠たち(ライト、ミース、カーン、サーリネンなど)がまだ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.26-28
[ビルディング・タイプの解剖学 5]
病室と監房、隔離と監禁。病院と監獄がその初源において同根であることは様々に指摘されている。本稿でも連載の二回目「呼吸する機械 : 病院」で監獄と病院の衛生観をパラレルに論じているが、今回は監獄、特に重罪犯に関わる施設を取り上げ、身体と装置の極限を見る。 植民の世紀を通じて、海外への流刑は身体刑と同様ごく一般的な行刑法で...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.32-35
[住居の視点、住居の死角 4]
数年前には『病院で死ぬということ』(山崎章郎)が、そして最近では『患者よ、がんと闘うな』(近藤誠)といったベストセラーが相次いだこともあって、何が何でも延命治療という医療のあり方に対して緩和ケア、看取りやターミナル・ケア(末期医療)への関心が高くなってきた。いわゆるホスピスへの傾斜である。こうした動きは従来の医療倫理の...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.38-40
[情報空間の地理学 5]
サイバーパンクという八〇年代の中期に現われた近未来イメージが、八二年のリドリー・スコットの映画『ブレードランナー』と八四年のウイリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』によって決定づけられたことに異論のある人はいないだろう。そして、この二つの作品が新しい美学を提出したとしたら、それはまさに都市の描写においてであった★...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.35-38
[住居の視点、住居の死角 1]
水槽に藻やカタツムリ、微生物を閉じ込めた「ミニ地球」を無重量空間にもっていったらどうなるか──こんな実験が日本とアメリカ、ロシアの協力で始まる。今年の七月にスペースシャトルでロシアの宇宙科学ステーション「ミール」に運び、一二月に回収、日本の研究者らが分析するという。ミニ地球は円筒形で手のひらにのる。水温は二三度に保たれ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.40-42
[境界線上のアメリカ 2]
「『いやよ!』私は叫んだ。『アルフレッド・スティーグリッツに会うなんて絶対にいや! そんなことおもったこともないわ! あの人、きっとサディストかスヴェンガリよ。でなきゃ、たぶんイカサマ師だわ。あんたたち、きっと彼の魔法にかけられておかしくなってるのよ。あたし、彼のことをあんたたちみたいに偉大な写真家だなんて、絶対に、ぜ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.176-183
[翻訳]
他の諸問題と融合し、より悪化の方向を辿るような連鎖した問題群は、われわれの気力をくじくものであるが、訳のわからないものではない。過ちをおかしたとか、不運であったことの一目瞭然の帰結なのである。北アメリカの都市におけるホームレス問題や手頃価格(アフォーダブル)住宅の不足、そしてそこから波及していくさまざまな問題は、明らか...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.155-166
[作品構成]
自然/コンピュテーション/コンピュータ 「Computing」あるいは「Computation」という思考法は、筆者がこの原稿をタイプしている物理的実体としての「コンピュータ(計算装置)」を超えて、自然界/生態系や社会★一、ヒト★二の現象や運動の総体を、「計算」という観点から捉え返そうとするものであるといえる。そのメタ...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.149-154
[作品構成]
アルゴリズム的思考を用いると従来の建築とどう変わるのだろうか? 僕自身これまで、「関数空間/Algorithmic Space」と題していくつかプロジェクトを発表したり、非常勤講師をしている慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで同名の設計課題を出したりしているので、学生や同世代の建築家から上述のような質問をよく受けることがあ...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.155-160
[作品構成]
1 アルゴリズムによる思考とフォームの提示 かつてルイス・カーンはフォームを提示することが建築の目標だと語った。私はこのフォームと呼ばれるもの、建築を構成する論理や見えない形象そのものをクリアに提示するためにコンピュータ・プログラムを用いたいと思っている。空間を構成するプロポーションやマテリアルの素材感、ディテールや表...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.167-172
[作品構成]
Pamphlet Architecture #27: Tooling by Benjamin Aranda and Chris Lasch Foreword by Cecil Balmond, Afterword by Sanford Kwinter Princeton Architectural Press, 200...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.173-176
[作品構成]
「建築におけるセクション(断面図)の役割は死んだ」──米国、ペンシルヴァニア大学で教鞭をとる構造家セシル・バルモンドの言葉である。同大学建築学部は、二〇〇二年にミース研究で著名であるデトレフ・マーティンを学長に迎えて以来、その教育方針が大幅に変わることとなった。それまで同大の歴史を形づくってきたルイス・カーン時代の教授...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.177-180
[翻訳]
MVRDVの仕事はどんな建築家や理論家よりも、民主主義的であると同時に「製作可能(makeable)」であるという西ヨーロッパの社会の伝統に深く根づいている★一。前世紀を通して形成されてきた福祉国家オランダは、交渉に基づいた民主主義特有の形態と、計画への強い信頼を基本としているために、おそらくこの伝統が最も特徴的となっ...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.136-148
[論考]
ブロードバンド回線への接続方法として、無線LAN、あるいはWiFiと言われる無線通信によるネット接続が一般化して久しい。無線LANはその日本語名が示すように、家庭内や企業内のいわゆるLAN(Local Area Network)によ って広まった。近年、無線LANの位置づけは家庭に留まらず、都市を身体化する際の新たなツ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.141-143
[論考]
1 デヴィッド・ハーヴェイは、第二帝政期からパリ・コミューンに至る時期を中心としたパリについての著書『パリ──モダニティの首都』の序章で、「過去との根本的断絶を構成するもの」としてモダニティを捉える「神話」について改めて僕らの注意を喚起している。「この断絶はおそらく、過去に準拠せず、あるいはもし過去が障碍となるならそれ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.102-110
[インタヴュー]
セシル・バルモンドとのコラボレーション 柄沢祐輔──伊東さんはロンドンの《サーペンタイン・ギャラリー・パヴィリオン》などのセシル・バルモンドさんとのコラボレーションを経て以来、構成に独特のルールを与える方法を展開しているようにお見受けするのですが、セシルさんとのコラボレーション以後、創作の方法にどのような変化があったの...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.82-93
[論考]
このところ、地上を垂直に見下ろせる場所がずいぶん減ったと感じる。百貨店の屋上など、一般市民に開かれた建物では、何重ものフェンスに阻まれて、建物の縁にまで到達できないことが多い。身投げ防止のためだろうか。肉眼で街を見下ろす機会が減少する一方で、視線の垂直性をモニタで堪能させてくれるソフトが出現している。Google Ma...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.118-120
[論考]
建築的複合体は改変可能になる。その外容は住民の意思に沿って時には部分的に、時には全体的に変貌するだろう。 その住民たちの基本的な活動は連続的な漂流となる。刻一刻と変化していく風景は、完全な異化作用をもたらすだろう。 その後に、回避不可能である身振りの飽和によって、この漂流は生態的な次元から表象の領域へとシフトしていくだ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.129-135
[インタヴュー]
四つの計算不可能性 柄沢祐輔──今回の特集を企画するにあたり、アルゴリズムという言葉を「決定ルールの時系列をともなった連なり」として広義に捉え返し、建築や都市を構成するさまざまな具体的な方法論としての見方が提示できるのではないかという仮説を立てました。 まず、主に最近の社会学の世界で「環境管理型アーキテクチャ」という問...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.126-135
[インタヴュー]
WikiとWikipedia 柄沢祐輔──江渡さんは現在Wikiを研究されており、その成果を昨年書かれた論文「なぜそんなにもWikiは重要なのか」(『Mobile Society Review 未来心理』七号、モバイル社会研究所、二〇〇六)にまとめられています。そこでは、今日Wikipediaとして広く利用されているW...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.118-125
[知の空間=空間の知 3]
ゲームの上演 大英博物館の円形閲覧室が完成した年の翌年に当たる一八五八年のとある晩、まだ二〇歳を出たばかりの一人のアメリカ人が、パリのオペラ・ハウスの桟敷席でチェス盤の前に座り、「パリの名士連(トウー・パリ)」とも言うべき盛装した紳士淑女たちの好奇のまなざしを浴びていた。前年に開催された第一回アメリカ合衆国チェス・トー...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.2-15
[対談]
安斎…僕がサブジェクトに選んでいるのはパフォーマンス、インスタレーションとか彫刻ですが、あなたの場合も自分のサブジェクトにしているものは他人がつくったものというか、建築という他のアーティストがつくったものですね。建築以外のものも撮られることはあるのですか? ターナー…基本的には建築を撮っていますが、とくに最近では「冬の...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.17-23
[情報空間の地理学 1]
サイバースペースと都市。この二つの領域は、ここにきてますます交錯しつつある。しかし、このことは、コンピュータ・ネットワークの中に都市的な環境ができつつあるということを意味しているわけではない。むしろ事態は逆で、サイバースペースと都市の関係が論じられれば論じられるほど、サイバースペースの内部に都市的なものが現状のところ存...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.36-38
[ビルディング・タイプの解剖学 1]
何も様式や意匠だけが建築史のすべてではない。ビルディング・タイプに絡めて、建物という箱を外側からではなく、内側から論じること。つまり、あるビルディング・タイプに付随する特定の家具、装置、あるいはマニュアル(作法)に注目し、それらがいかに人間の身体を規律化しているのか。そして建築的な操作は他の諸学問といかなる横断的な連結...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.33-35
[境界線上のアメリカ 1]
i 五月のコネティカット・リヴァー渓谷──。 マサチューセッツから北上してきたインターステーツ91号線を途中で降りて、河を渡り、谷に沿った道をさらに北上してゆくと、ゆくては緑したたる栂の林につづいていた。路傍にはとりどりの花をつけた灌木やノブドウの茂みが見え隠れし、頭上の葉枝のあいまからは金色の光が降り注ぐ。行き交う車...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.154-159
[知の空間=空間の知 5]
テスト夫人の手紙 「この種の男の生存は現実界においてはせいぜい四、五〇分を越えることは不可能だろう」とヴァレリーの言うあの「神のない神秘家」テスト氏に、ここでもう一度登場してもらうことにしよう。われわれはすでに、この虚構の人物が耐えている極限的な孤独を、二重の様態の下に描写している。復習してみるなら、一方に、劇場の桟敷...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.2-13
[非都市の存在論 2]
1 写真都市 ── 起こりえない事件の現場 ユジェーヌ・アジェのパリからウィリアム・クラインのニューヨーク、荒木経惟の東京まで、あるいは無名の観光写真、絵はがき写真にいたるまで、〈都市〉は写真というメディアの特権的な主題であり続けている。いや、むしろこういうべきだろうか。近代の都市は絶え間なく、〈写真〉へと変容すること...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.16-27
[知の空間=空間の知 2]
バシュラールの樹木 一九世紀西欧の巨大円形閲覧室の中心点に登場した、二律背反的な「知の主体」としての「人間」。彼の運命は、全能と無力、無限と虚無という両極の間で引き裂かれてあるほかないというその存在様態のゆえに、必然的にある悲劇的な相貌を帯びざるをえない。むろんそれは、ロマン主義的とも形容されえよう勇壮なパトスの昂揚と...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.2-15
[建築とイマージュ 1]
彼は世界の中でカンヴァスの上に色で彼の自由を実現しなければならなかった。彼は自らの価値の証拠を他人に、そして他人の同意に期待しなければならなかった。だからこそ、彼はその手の下で生まれる自分の絵に疑問を投げかけ、彼のカンヴァスの上に止まった他人の視線を窺ったのであり、決して制作を止めなかったのである。 『セザンヌの疑惑』...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.30-32
[建築の言説、都市の言説 1]
建築家が書いた一冊の本が、膠着状況からいちはやく抜け出し、やがて大家となる著者の思想的基盤をも形成したとすれば、それは歴史的なランドマークとして繰り返しひもとかれ、人がそこに集い議論を交わす「フォーラム」のごとき場所となる。建築家の著した建築論は現実の設計活動と密接に連動し、比較検討され、ある時は混同されながらも、当人...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.28-29
[都市論の系譜学 2]
「アーバニズム」(都市論=都市計画)とは都市が抑圧し、排除し、外部化してしまった何ものかの投射、射影ではないだろうか? 一般に「アーバニズム」は、われわれが都市について考え、あるいは語るさいにその形式として機能する。この言葉が明確な定義なしでも機能しうるのは、それじたいが「都市」の概念を生産し、使用させるフレームでもあ...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.274-285
[風景の修辞学 4]
1 悪の比喩 『マルドロ─ルの歌』が、そこで起こっている出来事はともかく、読みはじめるわれわれをたちまち巻き込んでしまうのは、言葉の攻撃の速度であり、急速な変身であり、われわれ人類の存在自体への挑戦である。人類がこの光景から消滅したのではない。それは最初から最後まで、かりに惨めな姿であろうとどこかに居つづけている。だが...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.2-11
[風景の修辞学 3]
1 「海」の登場 はじめてこの小説を読んだ二〇代の日のことをいまだに覚えている。われになく血が騒ぎ、かつて海に憧れたことのある若者としていささか心穏やかならぬ思いに呆然、なにも手につかぬ状態になってしまったのである。読みはじめるやいなや、ニュー・ベッドフォードのひどいオンボロ宿屋、ナンタケットの港での出港準備に大...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.2-13
[都市論の系譜学 3]
1 ここに都市と建築についてのいくつかのテーゼの断片がある。 「SIの最小限綱領は、完全な生の舞台装置(デコール)を実験すること──(…中略…)」。 「統一的都市計画とは、すべての領域で、最も進化した概念にしたがって、意識的に、人間の環境を創造しなおす、複合的で、永続的な活動として定義される」。 「居住、流通、およびリ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.263-274
[非都市の存在論 1]
1 都市から非都市へ すでに百年以上にわたって、〈社会〉に関する学は〈都市〉に憑かれてきた。いやむしろ、それは都市の分析を通じてこそ、おのれの固有の問題領域である社会を発見したのだった。そして、そのような社会とはあくまで近代の社会である。社会学にとって都市とは、近代という時代の本質が露呈される場だった。マックス・ウェー...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.16-27
[知の空間=空間の知 1]
メソポタミアから近代まで 一九世紀中葉、「近代」という名で呼ばれる未曾有の記号の布置を準備しつつあった西欧の大都市に、或る「知の装置」が出現する。ロンドンの大英博物館の円形閲覧室、そして、パリ国立図書館の、これもやはりおおよそ円形をなす〈印刷物部門(アンプリメ)〉閲覧室という二つの屋内空間がとりあえずそのほぼ理想的な範...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.2-15
[情報空間の地理学 6]
サイバースペースの考察は「空間」の概念の再定義を要求する。一度でも実際にインターネットに触れた人ならすぐに気がつくことだが、コンピュータの画面に現われる世界は紙芝居にも似た平面的な世界で、「空間」の本来持つべき特性、深み、距離感、物質感をことごとく欠いている。にもかかわらず、それはサイバースペース(=サイバーな空間)と...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.41-42
[住居の視点、住居の死角 5]
東京・渋谷の代官山地区で進行中の再開発事業に伴い取り壊された同潤会代官山アパートが、研究者グループなどの尽力で八王子市の住宅・都市整備公団建築技術試験場に移設・復元され公開された。取り壊しを惜しむ声が多かったが、集合住宅の貴重な資料として保存され、建物が持つ戦前の面影に触れることができる。 アパートは一九二七年、財団法...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.43-46
[都市の傷痕とRe=publik 2]
小生は仕事の都合で、京都と名古屋の間を、毎週車で往復している。名古屋の街は車無しでは不便きわまりないので、新幹線を使うことはまずない。そのため、新しい京都駅が出来てすでに一年以上たつが、まだ実物を一度も見たことがない。恥ずかしながら、新聞の写真と、早朝川端通りを南向しながら、点滅する赤い警告灯でその輪郭を五条あたりでう...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.42-43
[音 2]
0 パリを訪れる人は多いが、毎日曜朝に執り行なわれているノートルダム寺院[図1nのミサはほとんど知られていない。この都市で音と時間、そして空間を考えるなら、ポンピドゥー・センターやブーレーズ肝煎りのシテ・ドゥ・ラ・ミュジックよりも、私はノートルダムの側廊で耳を澄ませることを勧めたい。そこでは今日も、グレゴリオ様式による...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.40-41
[オルタナティヴ・スペース 2]
「僕はここにいてもいいんだ!」──TV版『新世紀エヴァンゲリオン』第二六話での主人公・碇シンジの叫び。自己啓発セミナー的な話の展開にある種の抵抗感を覚えつつも、何かストンと胸に落ちる感じがしたのは僕だけではないだろう。僕は一〇代の中頃から、どこにいても「ここは自分の場所じゃない」という感覚が抜けなかったように思う。一九...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.44-45
[映像/写真 2]
映画において建築的美学ともっとも近しい関係にあるのは、おそらく画面内の空間設計であろう。ただし、われわれが映画をみるとき、空間設計そのものを目にすることはない。二次元の平面スクリーンにつねに投影されているのは、厳密にいえば、空間設計の結果、すなわち〈構図〉でしかないからだ。ここでは映画を創作する側ではなく、受容する側の...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.46-47
[建築の解體新書 2]
はじめに ……机は、やはり木材、ありふれた感覚的な物である。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう。それは、自分の脚で立つばかりでなく、他のあらゆる商品に対しては頭でも立っていて、ひとりで踊りだすときよりもはるかに奇怪な妄想を、その木頭からくりひろげる。 ──カー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.226-242
[書物 2]
その本を手に取ると、今もその奔放な情念の輪郭がくっきりと蘇ってくるほどに、「書を捨てよ、町へ出よう」、というフレーズはひどく魅惑的だった。家を下着のように脱ぎ捨て、ホームドラマを唾棄すべき対象として切り捨て、ただただひたすら、速さに憧れる。寺山修司のこの本を、たしか高校生のときに初めて読んだのだが、そのとき、「書」は現...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.50-52
[映像のトポス 3]
〈都市の言説〉としてのコニーアイランド(承前) こうして、『あれ』と『スピーディ』におけるコニーアイランド(ルナ・パーク)は、「俗」のマンハッタンに対する「遊」の世界というきわめて常識的な構図のなかに登場する。しかし、かつてボードリヤールがディズニーランドとアメリカの関係について語った洒落た警句を借りるなら★一、コニー...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.27-39
[非都市の存在論 11]
1 二つの扉 一九八八年七月二三日の深夜、オーストリアのザンクト・ペルテンで屋外展示されていたジョン・ホワイトマンの仮設建築作品「二分割可能(Divisible by 2)」が何者かによって爆破された★一。この作品は首都の誕生」展開催に合わせてシカゴから移設されたものであった。ザンクト・ペルテンは一九八六年にウィーンに...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.15-26
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 2]
二〇世紀最大のトラウマとして記憶される第二次世界大戦では、アメリカも未曾有の国家総力戦を体験したが、その終結後、戦時中に発展した多くのテクノロジーを解放することになった。例えば、人間や物資の運搬技術、身体の規律法、そして量産住宅の工法。マスメディアの普及は戦争で一時的に中断したものの、この期間はコミュニケーション・テク...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.249-260
[音 1]
かつて詩人の天沢退二郎は、何かが「全体」に遭遇するさまを描出するにあたって、土のなかで目覚めた生物──モグラがイメージされていたのではなかったか──を例示した。土中で目覚めたものが目の前に見る壁、それこそが「全体」なのだ、というふうに。ここで「全体」を感じ取るのはほかでもない視覚、眼である。では、耳の場合はどうか。耳は...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.39-40
[論考]
私は年齢的には一九六〇年世代だけど、建築家としての思考の仕方は一九六八年に属している、とこれまでに折りにふれて語ってきた。そして、一九六八年から一九八九年の二〇年間、つまり文化革命からベルリンの壁の崩壊した間を歴史の宙吊りと呼ぼうとした。核の崇高の下に二極対立したまま、世界が動かず、そのなかで世界金融資本だけが異様に膨...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.25-32
[映像のトポス 1]
映画、都市、ベンヤミン 映画と都市の関係を探究することがモダニティの理解にとって有効な戦略であろうということ、これは、ベンヤミンが晩年にその萌芽を示しながら自分では発展させる時間がなかった直感的洞察のひとつである。「複製技術時代の芸術作品」(一九三五─三九)や「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」(一九三...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.33-44
[Urban Tribal Studies 1]
文化研究やメディア研究、都市研究の現状に満足できない者として、ここに別の視点からの提案をしてみたいと思う。いま、なぜ文化研究の状況に不満を感じるかについてはここではくわしく言わない。それは、この連載のなかで明らかにされるにちがいない。少なくとも、ディック・ヘブディッジがノッティング・ヒル地区の黒人暴動とレゲエ(およびダ...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.225-234
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 1]
一九四五年、二〇世紀前半のテクノロジーを最大限につぎ込み、全人類の抹殺可能性さえも示すことになる第二次世界大戦が終結した。 同年、歴史上初めて光線兵器(原爆)が使用されたことにより、人類は「個としての死」から「種としての死」(A・ケストラー)を予感するようになった。 当時まだ一〇代の少年だったポール・ヴィリリオは、この...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.213-224
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 3]
地震とディコンストラクション 一九九五年一月一七日未明、阪神地方をマグニチュード七・二の直下型地震が襲った。 筆者は当時、エディフィカーレの展覧会の準備に忙しく、その三週間後に神戸の街を歩く機会を得た。大阪を過ぎ神戸に近づくにつれて、雨漏りを防ぐ青いビニールシートをかけた屋根が増えるのが見え、電車の窓からも被害の様子が...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.243-253
[Urban Tribal Studies 3]
アーバン・トライバル・スタディーズ(UTS)にとって「調査」や事実や現象の記述とは、どのようなものであるのか? また、それはこれまでの社会学や文化研究における様々なエスノグラフィックな試みをどのように引き受けているのだろうか? このことを考えてみたい。 当然のことだが、UTSが相手にする「都市の部族」は社会のアンダーグ...
『10+1』 No.15 (交通空間としての都市──線/ストリート/フィルム・ノワール) | pp.254-262
[建築の解體新書 5]
躾と添削……岡崎乾二郎1 わが国の学者は日本語で中華の書を読み、和訓と称している。訓詁(くんこ)という意味から出た言葉であろうが、実際は訳である。しかし人々は、それが訳であることに気づかない。古人は「読書千遍、その義はおのずから現われる」と言った。私は子供のころ、古人は「その義」がまだ現われないうち、どのようにして読書...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.13-28
[Urban Tribal Studies 5]
具体的な事例の記述と分析からはじめたい。はじめて海外でトランスのレイヴ・パーティに参加したある女性(日本人、研究者)は次のように語った。 「みんなが同じ音楽で、しかも大体みんなDJやビデオスクリーンやディスプレイの方を見ながら一心不乱に踊りつづけているのは何だか気味が悪い。ドラッグを摂取している人も多いみたいだけれど、...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.208-218
[新・都市の下層民 5]
0 『完全自殺マニュアル』に見られるように、「自殺」というテーマは、サブカルチャーの一部門として今日立派に自律し始めている。フリーライターの浅野智明氏によれば、つまり、自殺(未遂)を飯のタネにして生活している自殺ライターが生存できるほど「自殺」というテーマは、その読者層をすでに獲得しているというわけである。なるほど、イ...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.29-30
[Urban Tribal Studies 13]
そもそも田舎というのはもうないんですよ。つまり田舎は都市によって完全に植民地化されているのです。重要なのは中心としてのパリと地方の関係です。自由ラジオはパリに集中した政治的・文化的表現の力、いわばパリ帝国主義とたたかうのに大変重要な武器なのです。 フェリックス・ガタリ 先進資本主義諸国では、この十年間に周波数...
『10+1』 No.26 (都市集住スタディ) | pp.195-206
[トーキョー・建築・ライナーノーツ 1]
「24タイムズ」という時間貸し無人駐車場は都市の空き地を使っている。再開発のため地上げされたが、不整形であるとか相続問題で放置されたままだった土地を借り上げて、サインの看板、駐車のための機具、料金自動支払機(照明代わりのジュースの自動販売機?)といった最小限のアイテムを置くことで駐車場にする。ただそれは駐車場だけではな...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.35-37
[部屋の文化研究 1]
昨年末に『借家と持ち家の文学史──「私」のうつわの物語』(三省堂)という本を出した。日本近代一三〇年のあいだに書かれた大量の文学作品を、「私」と家族の容器としての住まいモデルを探すというテーマのテキスト、集団制作による大河小説として連続して読む試みである。日本列島の上での生活はたった一世紀のあいだにほかに例をみないほど...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.33-35
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 5]
見つめていたい 盗撮・盗聴がメディアをにぎわせている。それは小型の映像・録音機器の普及に起因しているのだろうが、最近、公開された映画はこうした状況を如実に反映している。『トゥルーマン・ショー』(一九九八)は、ある男の日常生活を本人に気づかれないよう全世界に生放映する人気テレビ番組を描いていた[図1]。巨大なドームに包ま...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.196-207
[オルタナティヴ・スペース 3]
問題。テラーニやル・コルビュジエにあって、ミースに無いものなんだ? ……答えは屋上。 九八年水戸芸術館において行なわれた「ジュゼッペ・テラーニ」展★一で、彼の建築にはどれを見ても屋上があるのに気が付いた。例えば《ノヴォコムン集合住宅》には、小さなコンクリートブロックでイモ貼りにペイブされたテラス、外壁に連続するパラペッ...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.32-34
[建築の還元 1]
1 〈交通問題〉としての近代、および建築 ひとつの表現をなすことの、恐らくはきわめて現在的で共同了解的な認識であるに違いないのだが、長い間、私は自らを建築について語る資格がない、と感じ続けてきた。それは例えば、建築が文化の表象や権力の象徴、あるいは科学技術の現代的表現であるといった記述が、すでに言葉の実効力を失っている...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.2-12
[CONCEPTUAL 日本建築 3]
13 一堂一室 Plan was the plot: 'ARCHITECTURE' was brought within proselytism 布教を鍵に文明はもたらされる 面積で世界最大といわれる仁徳陵は、おそらく五世紀はじめにできた。九州政権にすぎなかった天孫族勢力(倭(わ))が瀬戸内海を渡って難波(なに...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.194-207
[建築の解體新書 4]
空間の創出と喪失に関するメモ……中谷礼仁 はじめに 前回の岡崎氏の論旨は、日本語、というか、漢字にからみつくテニヲハのはたらきを、主体的感情(空間)を生み出すいわば装置としてとりあげ、その装置としてのテニヲハを類比的にあてはめることによって、日本建築の特性をつかみだそうとする試みでした[註参照]。不思議なことに、ヘー...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.13-26
[建築の還元 2]
1 社会的歪像としての建築 建築が、例えば社会といった言葉で代称されるようなシステム(あるいはシステム化された活動の集合形態)をその背後で認識するとき、ほぼ例外なしにそれら両者の関係を問うことが即座に求められてしまうのだが、ここでつねに問題となるのは、建築が社会を代理表象し、かつそのシステムの要請に答えることが、表現と...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.2-12
[音 4]
一九二〇年代バリ島に荒唐無稽のパフォーマンスが忽然と現われた。ジャンゲール(あるいはジャゲル)と呼ばれたこの集団パフォーマンスは、踊りと演劇と音楽が一体化した若者たちの爆発するエネルギーの創造物であった。若い男女がお互いに分かれて列をつくって向かい合い、正方形になるような陣形をととのえて太鼓、笛、銅鑼の音とともに踊るの...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.29-31
[都市の傷痕とRe=publik 4]
追っ手を逃れてガード下にたどり着く男(=佐藤浩市)。まだ息急き切っている。画面は暗く、粗い。ノーネクタイに無精ひげのやつれた表情。携帯電話から恋人に待ち合わせのメールを送る。恋人のオフィス。デスクの上のパソコンが俯瞰される。密会の場所は夕刻の繁華街(「梅田」なので関西ローカルのCMかもしれない)。J-PHONE「スカイ...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.28-29
[書物 1]
小説家は都市をどのように知覚しているだろうか。とりあえずいま、現代日本で書かれつつある小説を念頭に置くとき、小説家の知覚が都市を把握する方向を意識しているとはとても思えない。ひとつには彼らが描写することを忌避しているようにも見えるからである。小説は、描写を旨として書かれていない。たしかに強度を備えた若い小説家はいる。 ...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.35-36
[都市の傷痕とRe=publik 1]
「酒鬼薔薇」事件から一年が過ぎた。加害者の少年の個人的特性、家族のあり方、学校制度。事件の原因を明らかにしようとする夥しい言説。そして加害者の少年が逮捕されるまで、犯人探しに狂奔していたわれわれ。それはそれでまた別の機会に論じなければならない。が、今回の連載との関わりが深いのは、事件を「新興住宅地特有の希薄な人間関係」...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.32-32
[論考]
目次 はじめに 1-1 共同の署名「ル・コルビュジエ・ソニエ」:オザンファンの証言 1-2 「ル・コルビュジエ・ソニエ」を独占しようとしたジャンヌレ:オザンファンへの献辞の登場 1-3 ソニエの削除とその後も続いた共同署名「オザンファンとジャンヌレ」 2 『建築をめざして』書の諸版本 2-1...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.199-220
[論考]
トロブリアンド・クリケット トロブリアンド諸島 1914 ニューギニア北東部の太平洋上に点在する小さな群島に居住するパプア=メラネシア人のあいだで「クラ」と呼ばれている特異な交易の形態に着目し、二〇世紀人類学の曙光を告げる記念碑的著作『西太平洋の遠洋航海者』(一九二二)を書いたブロニスラフ・マリノフスキーが、彼の他の民...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.192-198
[東京ディズニーランドの神話学 3]
賑わいについて 夏休みやゴールデン・ウィークなどのホリデーシーズンに、休日を過ごす人々の様子が報道される際、ほとんどのニュースは「どこの行楽地も家族連れやカップルで賑わっていました」といった調子で、その賑わいを報道する。事実、どこの行楽地でも家族連れとカップルでいっぱいである。東京ディズニーランドはそんな「行楽地」の代...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.221-230
[都市の全域性をめぐって(下)]
1 都市の〈起源〉 ピレンヌがそれを「解放」と呼んだように、ヨーロッパ中世の都市は、当時のヨーロッパを覆っていた封建的な社会関係から解放された「自由」の空間として存在していた。土地を媒介とする保護と臣従を関係の原理とする封建社会において、土地への帰属はそのまま封建的な支配関係への帰属を意味する。そこでは土地とは、臣従と...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.231-242
[連載 7]
16 一致することと相違すること 前回では「アテネ憲章」がCIAMの内部での総決算などではなく、ル・コルビュジエ個人のヴィジョンとしての側面が強かったことを見、さらにそれを発展させたものとしてのCIAMの格子を取り上げた。そしてル・コルビュジエの思想のなかに存在する二重性について、それぞれの系譜をトレースしていこうとい...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.177-190
[知の空間=空間の知 8]
けだものが脱走する 一八五〇年三月二〇日の夜更け、パリ植物園附設の動物園(La Ménagerie)の檻から、一頭の巨大な狼が脱走する。鎖を引きちぎり庭園の暗がりの中に駆けこんだ獰猛な野獣を捕獲すべく、銃で武装した捜索隊がただちに編成される。だが、現在のように至るところ庭園灯で煌々と照明されているわけではない時代のこと...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.2-17
[インタヴュー]
理論/歴史、実践 松畑強(以下MT)──コロミーナさん、『アッサンブラージュ』誌の三〇号を拝読いたしました。あなたはそこで、いくつか面白い問題を提起されていたと思います。たとえば理論/歴史と実践の違いとか、スペインとアメリカの違いとかです。これらの問題について議論するまえに、まずは『カレール・ド・ラ・シウタ』誌のことを...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.41-46
[住居の視点、住居の死角 6]
神戸小学生殺人事件の容疑者として逮捕された一四歳の少年・酒鬼薔薇聖斗。犯行の全容が明らかになるにつれてその狂気が戦慄を呼んだ。 少年・聖斗はタンク山で切断したJ君の頭部を持ちかえり、家族五人が暮らす二階家の一室でひとり弄んでいた……。なぜ? その疑問は「中三少年〈狂気の部屋〉」というタイトルとなって週刊誌の誌面におどっ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.38-40
[非都市の存在論 7]
1 都市と死──記憶のエクリチュール 建築家であり、かつてユーゴスラヴィアの首都ベオグラードの市長も務めたボグダン・ボクダノヴィッチは、旧ユーゴスラヴィア連邦一帯の戦争による都市の破壊をめぐって、それが〈他者の記憶〉の抹殺にほかならないことを指摘している。ボクダノヴィッチによれば、都市の概念とエクリチュールの概念とは大...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.16-27
[知の空間=空間の知 7]
ファロスとしての「知」 これは必ずしもわれわれがここで論じている一九世紀西欧という特定の歴史的文化圏に限ったことではなかろうが、「知」の主体としての「人間」と言うとき、その「人間」という言葉がインド=ヨーロッパ系の言語ではしばしば自動的に「男」を意味するという事実それ自体によっても示唆されるように、少なくとも共同体の成...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.2-15
[建築の言説、都市の言説 7]
私は常に建築に関心を抱いていた。 D・ジャッド『Art and Architecture』一九八七 建築はそこで人間が様々な活動を展開するフィールドである。人間の身体性から開口の位置や大きさ、壁の高さ、廊下の幅などが決定するという意味で、私達は落ちぶれたとは言え「建築空間の主人(ホスト)」だった。しかしこの安定したポ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.28-30
[建築とイマージュ 7]
1 例えば、フランス語のscène(舞台、場面……)という語について情報を得るべく辞書を開いてみるならば、そこに挙げられている様々な用例は、ごく普通に流通している言葉が多種多様の意味を備えていることを改めて確認させるであろう。リトレの辞書はまず第一に、劇場内で、俳優が演技をする場所(日本語の〈舞台〉にあたる)という意味...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.30-32
[情報空間の地理学 7]
携帯電話の急激な普及。通信衛星の発達。電子手帳の一般化と通信機能の整備。ラップトップ・コンピュータの軽量化。こうした変化によってサイバースペースは新しいフェーズを迎えている。個室でコンピュータ・スクリーンに向かって自閉的にキーボードを叩き続ける「オタク」のイメージは過去のものになりつつある。サイバースペースの端末は軽や...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.36-38
[ビルディング・タイプの解剖学 7]
私は建物はバラックでも良いから幾何ら金が掛っても良い完全な製作の出来る一通りの機械を買入れる事に努力しました トヨタ自工の祖とも言うべき豊田喜一郎の言葉である。住宅と共に近代建築の黎明期では華々しく取り上げられた工場だが、技術の進歩に伴い、建築家が建築的な手法でその本質にまで食い込むことが難しい時代となった。既にトヨ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.33-36
[技術と歴史 6]
悠久の古代エジプトにおけるピラミッド 中川武──三〇年前に初めてエジプトに行き、それから調査・研究を進めています。古代エジプトでは古王国にピラミッドがたくさんつくられるのですが、中王国、新王国になると、小さくなりやがて消えていきます。ピラミッドが墓ならば中王国、新王国になってもなくなるはずはないので、ピラミッドは墓だっ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.191-199
[非都市の存在論 8]
1 サイファーパンクのフェティシズム hIwDM/OfwL7gnVUBBACUhies4/fE/gh3h7g3xNAtQN0In6LuRBxZlwiN /MVOfgcv LEHPart9UQHrgp8b9w76r2JPqBCw83BSVaaj8ZdHsTQrj7UeRxSdTRCeRNsl3EgQ R19O...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.18-29
[非都市の存在論 9]
あのころ、早くも私たちの街は慢性的な薄暮の灰色のなかにますます沈みがちになり、街を取り巻くあたりは、暗黒の湿疹、綿毛の生えた黴、鉄色の苔で覆われていった。 ブルーノ・シュルツ「魔性の訪れ」★一 1 商品フェティシズムの宇宙 クエイ兄弟の人形アニメーション映画『ストリート・オブ・クロコダイル』(一九八六)では、〈木製の...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.12-24
[都市の断層線/切断線 1]
1 構造閉塞の時代 東京という都市は戦後数十年のあいだに大きな変化を見せたが、その最たるものは、そこで動いている資本のスケールではないだろうか。戦後も、東京が政治的な意味で首都であることに変わりはなかったし、また東京という地理的な範域が日本のなかで変わったわけでもない。問題はむしろ、そこに投入され、動いていく資本のスケ...
『10+1』 No.13 (メディア都市の地政学) | pp.2-11
[都市の断層線/切断線 2]
1 都市の表象 東京という都市の現在について、その全域の境界をはっきり確定することが困難であり、またその中心がどこにあるのかもはっきりしないという問題が残っている。それは東京という都市の全域を何らかの象徴的なメタファーによって語ることが困難だということである。また、全域をその部分や断片で表象させること、つまりメトニミー...
[非都市の存在論 10]
1 夢のなかのシナ インターネットを通じた情報交換の増大を背景として、文字コードの国際的な統一化が進行している。この標準化は国際電気標準会議(IEC)、国際標準化機構(ISO)、および国際電気通信連合(ITU)の三機関の協力によって進められており、一九九三年には〈国際符号化文字集合(UCS)〉の一部として、標準規格IS...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.9-21
[映像/写真 1]
この五月に三原港からフェリーで三〇分弱の瀬戸内海上に浮かぶ佐木島で「鷺ポイエーシスI──映画と建築の接線」なる野心的なセミナーが開催された。舞台となったのは鈴木了二設計による《佐木島コテージ》(一九九五)。海辺に面した簡素な要塞といった風貌のこの建築物については九七年度の建築学会賞を受賞したこともあり、知る人も多いと思...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.30-31
[映像のトポス 2]
つまり、新たに始めること、わずかばかりのもので遣り繰りすること、そのわずかばかりのものから拵えあげること、そしてその際に、右や左をきょろきょろ見ないこと。 (ヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」)★一 遊歩者からサンドイッチマンへ 一九世紀後半以降、都市が高速高密度の交通空間として編成されてゆくにつれて遊歩は不可能と...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.22-29
[論考]
1 時間としての空間 人文地理学に「時間地理学(time geography)」と呼ばれる一分野がある★一。自然地理学と人文地理学を問わず一般に地理学は、土地空間上の事物や出来事の配置や関係を地図平面上の分布や配置として記述し、そこに現われる構造や関係の原理や法則を考察するのだが、時間地理学が採用する記述法は、「時間」...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.211-222
[東京ディズニーランドの神話学 4]
天国の住人 小島信夫は、昭和三三(一九五五)年に『アメリカン・スクール』で芥川賞を受賞し、「第三の新人」として脚光を浴びた作家のひとりである。『アメリカン・スクール』のみならず、『抱擁家族』といった代表作にあっても、物語の展開に「アメリカ」が重要な役割を果たしている★一。 彼らがこうして辿りついたアメリカン・スクール...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.201-210
[ビルディング・タイプの解剖学 8]
本連載は再び学校の問題を論じ、近代施設の円環を閉じることにする。初回にとりあげたジョセフ・ランカスターによるモニトリアル・システムとは、教師(マスター)が助教生(モニター)を使って段階的な監督法を実施し、全生徒の行動を透明に把握しようとする試みだった。では、そこは具体的にどのような空間なのか。教室はなるべく大きな未分割...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.36-38
[建築とイマージュ 8]
中断されたフリース宛て草稿★一の一節でフロイトの言説に多分初めて登場することとなる舞台(Szene)の概念が指し示しているのは、患者によって回想され、ヒステリー性妄想の原因とされるさまざまな幼児期の場面(セーヌ)に他ならないが、それらは過去に対して向けられた眼差しを逸らすという機能を宛てがわれていた。この言葉が複数形で...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.32-35
[情報空間の地理学 8]
つい先日、「明治初期の知識人の言説における人種の問題」に関する論文を書き英国の大学で博士号を取得した友人が、ニュージーランドの大学に就職することが決まった。彼女はインターネットを通じて公募を知り、メールで願書と既発表の論文を送付し、電話でインタビューを受け(大学側の電話は複数の人間が同時に参加できるような仕組みだったら...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.39-41
[住居の視点、住居の死角 7]
〈郊外〉は都市の縁側空間ではないことを更めて思い知った。 もっと評価して語れば、〈郊外〉という位相は戦後の都市形成過程で消費社会の基盤として深く関わった、とても魅力的な概念であることをおしえられた。小田光雄著『〈郊外〉の誕生と死』(青弓社)からである。この本については別途に書評というかたちで書いているので(『図書新聞』...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.42-44
[論考]
1 ミース・ファン・デル・ローエの作品を美術のミニマリズムと関連づけて論じることはしばしば行なわれてきた。ロザリンド・クラウスによると、古典的なミニマリズム理解とは無時間的で不変の幾何学、つまり「プラトニック・ソリッド」をそこに見ようとするものである★一。それに対してクラウスは、自分を含む、むしろ時間とともに変化する要...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.191-200
[論考]
地理学は帰ってきたのではない。やってくるのは新しい地理学だからだ。 地理学は今日、基礎学においても、専門技術の分野においても、エンジニアリングにおいても、よりよく理解され、ますます期待をかけられている。しかも相変わらず学校教育の遺物という重苦しいハンディをかかえながらである。これは地理学が本質的に変わったからである。以...
『10+1』 No.12 (東京新論) | pp.178-190
[映画の地理学 1]
スタンリー・キューブリックの死は、我々にある終焉を期待させる。 彼は「視覚的フェティシズム」の人だった。誰もがその画面の持つ独特な等質性を知っている。モノクロ期の巨匠たちならその陰影によって「触覚」として提示した光と影を、彼は過剰に厳密な構図主義によって均等に配すことで画面から深さを排除していく。また彼の映画を最も印象...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.37-39
[現代住宅研究 5-2]
海外のモダニズムのマスターピースには豪邸が多い。でも日本のモダニズムのマスターピースは小住宅に偏っており、三〇〇平方メートルを超えるだけでその数は極端に減ってしまう。海外のモダン・マスターピース=豪邸、日本のモダン・マスターピース=小住宅、という否定しがたい対比の図式は、居住水準の違いや生活習慣の違い、経済状況や法制度...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.33-38
[都市の病理、心理学化する社会 4]
化石化した笑い フロイトによる「いない─いた」遊びにしても、ラカンによる鏡像段階の指摘にしても、そこには幼い子供たちの「笑い」が満ちている。極言するなら、私たちは「笑い」とともに「語る存在」としての人間になったのではないか。さらに言えば、言語の根源にあるものが「笑い」であるという可能性もある。 前回検討したように、「笑...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.51-52
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 4]
本連載ではこれまで、P2P(Winny)・SNS(mixi)・動画共有サイト(YouTube)といったソーシャルウェアのケーススタディを通じて、「アーキテクチャ」(Lessig[1999=2001])あるいは「環境管理型権力」(東[2002-2003])が果たしてどのように設計され、社会的に普及・定着し、いかなる社会秩...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.49-51
[リアリティについて 8]
おそらく建築と文学は人類の技芸として最も古い伝統をもつ分野だろう。長い時間をかけて系統だった建築的思考が形成された。それがいかなるものかつねに明示的であるわけではないにしても、多かれ少なかれわれわれはそれを暗黙の了解としている。例えばなんらかの幾何学により空間に秩序をもたらすこと。工学的知によってそれに必要な性能を与え...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.45-47
[連載 10]
19 植民地都市の政治学 19-1 他者たち(3)──カスバの魅惑 一九六〇年の東京世界デザイン会議はメタボリズム・グループの旗揚げとなったことでも知られているが、このキックオフのためにメタボリスト大高正人と槇文彦がデザインした新宿の群造形のプロジェクトが発表された時、そこには他の集落とともにカスバの空中写真が掲載さ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.176-192
[技術と歴史 9]
鋳鉄・錬鉄・鋼技術と力学の発展 桑村仁──今日のテーマは鉄骨造の歴史ですが、鉄骨造の歴史を単独で語ることは不可能です。製鉄技術、接合技術、力学理論の発展が実にうまく時代とともに組み合わさって鉄骨造の歴史が形づくられてきたからです。鉄は汎用性の高い材料で、建築だけに使われているわけではありません。そのため鉄の製造技術、接...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.205-212
[都市表象分析 30]
1 音の海 この連載で過去三年間にわたって発表してきた論考は『都市の詩学──場所の記憶と徴候』という書物にまとめられて刊行される予定である(東京大学出版会より近刊)★一。ここでは、この書物の主題のいくつかをあらたな文脈に置き直して変奏することにより、そこで得られた展望について語ってみたい。 わたしは海にいる夢を見てい...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.2-10
[現代住宅論 4]
最近、若い建築家や建築研究者がクリストファー・アレグザンダーのデザイン理論に注目している。大きな潮流になっているわけではないが、彼らの紹介を通じて、アレグザンダーのデザイン理論は再び見直されるような予感がする。彼らは現時点でのアレグザンダーのデザイン理論に注目しているが、それだけでは彼の理論の可能性を十分にくみ取ること...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.213-222
[音響場試論 4]
音楽制作・配信技術の陳腐化と個人の表現可能性 三回にわたり続けて来た本試論も今回で最終回となる。これまでの三回で大雑把に、一九世紀末から二〇世紀末までのパリの音響場の生成・変形を、都市開発、録音・再生技術、情報・通信技術の発展を軸にして俯瞰してきた。図式的な整理を行なうなら、最初に演奏者と聴衆の分離と(ブルジョワ的・合...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.41-43
[1990年代以降の建築・都市 23]
教会のイメージ 日本人にとって教会とはなにか。これまでにも幾度か結婚式教会について考察してきたが、あえてフェイクに見慣れた目から、もう一度、本物の教会を考えてみたい。 漫画やドラマなど、サブカルチャーのシリーズ物における宗教ネタは、ほとんど例外なく、悪の組織として登場する。キリスト教系と思われるものも少なくない。ドラゴ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.39-41
[技術と歴史 8]
建築物の大規模化 嘉納成男──今日お話するのは建築物の規模を大きくしようというニーズにどう対応してきたかということです。一九六三年に高さ制限がはずれ、一挙に超高層が建ってきましたが、ものつくりがどう変わってきたか、どのように建築をつくっているか、という話をしたいと思います。 規模を大きくしたいというニーズは意匠系からす...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.200-208
[インタヴュー]
ル・コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエ受容をめぐって 磯崎新──いわゆるモダニズムの受容過程が日本の現代建築の始まりとしていま注目されているように見えますが、僕はそれをアメリカ現代建築と一緒に取り出すとその特徴がより明瞭になると思うのです。その手がかりとして、ル・コルビュジエとミース・ファン・デル・ローエがそれ...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.172-181
[現代住宅論 3]
「アルミエコハウス」の開発・実験プロセス 伊東豊雄を座長として「住まいとアルミ研究会」が発足したのは一九九八年二月である。佐々木睦朗と筆者が参加を要請され、アルミニウム構造に造詣の深い構造家・飯嶋俊比古とアルミニウムのデザインを手がけてきた内山協一を加えた小さな委員会がスタートした。会の目的はアルミニウム合金を構造に使...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.209-221
[都市表象分析 29]
死んでみたまへ、屍蝋の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの青白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。 ひとが猫のやうに見える。 「Omega の瞳」 1 郷愁の玩具 萩原朔太郎は写真撮影を趣味にしていた。ガラス乾板を中心に一〇〇枚近い写真原...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.2-14
[「悪い場所」にて 17]
ひさしぶりにロンドンにやってきた。この四月からロンドン市内の大学に附属するリサーチセンターの客員研究員として一年間、籍を置く。テート・ブリテンの隣に位置するこの芸術系の大学(University of the Arts London)は、ロンドン市内のアート系カレッジが統合されてユニヴァーシティになったものだが、訪れて...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.37-39
[『日本の民家』再訪 5]
四国民家の磁力 次なる>瀝青会の踏査地は、四国である。ひとつの島として見ればまとまりのある四国だが、地勢で言えば、海もあれば田畑もあり、山もある。しかもその山が悲しくなるほど、深い。 今は、大正九(一九二〇)年八月から四国を約一カ月かけて一周している[図1]。石垣女史の行程復原によれば、海から山まで、ヴァラエティに富ん...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.15-30
[ネット公正論──データの逆襲 1]
最終結果だけでなく、そこへの過程も同時に示すような作品。バラバラのカードに記されたノートや、かべにうつされる図や公式とともに上演される。 過程と結果を区別することにどんな意味があるのか? ニューヨーク州バッファロー、一九六八・二・四 集団的創作は、具体的なモデルの上に作曲家・演奏家・聴衆の三つのちがう機能が結合され...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.30-38
[記録・抵抗・記憶 1]
1 岐阜県揖斐郡徳山村。一九八七年に廃村になり地図から消えた村である。福井県との県境に位置したこの村は、下開田、上開田、本郷、山手、櫨原、塚、戸入、門入という八つの集落からなり、一五〇〇人あまりの住民が暮らしていたが、二〇〇六年に門入地区を除いた全村がダムの底に沈んだ。揖斐川の水源地にあたる徳山村は残雪が夏まで残る山間...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.51-53
[インヴァリアンツ 2]
赤塚不二夫の『天才バカボン』に、バカボンのパパが自分をいじめた友人を藁人形で殺そうとする話がある。しかしパパは絵が下手だったため、藁人形と同じ顔をした別の人物の心臓が貫かれてしまう(「催眠術の呪いなのだ」)[図1]。(赤塚の)マンガのなかでは、人物の表象とそれを写した表象の表象は絵柄として区別されないために論理が踏み抜...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.59-61
[ゼロ年代の建築・都市 2]
篠原一男の家型 この連載は、現代の日本建築における家型の流行というべき現象を位置づけるために、モダニズム以降の歴史をたどりながら、ゼロ年代の意味を考察することが目的である。前回は、二〇世紀前半のせざるをえない家型、すなわち機能が導く形態と、ナショナリズムと連動する家型を確認しつつ、一九五〇年における清家清と白井晟一を分...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.57-58
[記録・抵抗・記憶 2]
1 一九五一年、東京国立博物館で縄文土器と出会った岡本太郎はその荒々しい形態のなかに、日本の伝統文化とされてきたものとは一線を画すような「呪術性」を感じ取り、その撮影にのめり込んでいく。その関心を「古い、うしなわれたわれわれの文化の根源に向け」★一ていった岡本は、日本各地の風習や祭祀のなかに温存される「原日本」の痕跡を...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.63-65
[人文研探検、あるいは新京都学派の履歴書 2]
フィールドワークという言葉が輝くときがある。現地調査が新たな科学的方法として待望された一九三〇年代、全共闘運動の敗北から民衆のなかへ(ヴ・ナロード)となだれ打った一九七〇年代、そして、アプレゲールの解放感が学問分野の接触と融合をうながした敗戦直後もそのひとつだろう。普段なら出歩かない学者が出歩き、普段なら行かないフィー...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.66-67
[都市の病理、心理学化する社会 6]
量子論から汎心論まで 前回私は、ジェラルド・M・エーデルマンの著書『脳は空より広いか』を批判的に検討した。ただしこれは、ひとりエーデルマンを批判することが目的でないことは言うまでもない。むしろエーデルマンの議論を端緒として、科学者が意識を論ずる時に陥りがちな限界一般について検討したつもりである。 どういうことだろうか。...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.71-72
[バイオエシックスの場所 2]
一九三五年、ロンドンでの第二回国際神経学会議にて、脳破壊による動物実験の発表の直後、会場にいた六一歳のある医師が立ち上がって発言を求めた。 外科的なやり方で人間のこころの不安を取り除いたって構わんじゃないか? 会場から声をあげたのは、ポルトガルの医師アントニオ・エガス・モニス。 「精神外科(psychosurger...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.69-71
[ネット公正論──データの逆襲 2]
「死は生よりも尊とい」 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母、私の祖父母、私の曾祖父母、それから順次に溯ぼって、百年、二百年、乃至千年万年の間に馴致された習慣を、私一代で解脱する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。 夏目...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.28-34
[都市表象分析 31]
1 「非都市」という戦略 前回の論考は、拙著『都市の詩学』に対する趣向を変えたあとがきのようなものとなった。それが本連載を中心として、ここ数年の都市論やイメージ論に関する考察を集大成した著作だっただけに、このあとがきめいた文章自体が、本誌での連載にひとつの区切りを劃したという印象を自分でも抱いた。 そんな矢先、あたかも...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.2-11
[バイオエシックスの場所 1]
第二次世界大戦末期、敗色の濃くなり始めたドイツ軍と士気あがる連合軍の対峙する北アフリカ戦線。連合軍のもとに、米国からの軍事重要物資として細菌感染症への特効薬である抗生物質ペニシリンが届けられた。そのころ、欧州や中東に比べて医療環境が貧困だった北アフリカでは、治療のためのベッド数は十分ではなく、傷病兵で病院はあふれかえっ...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.56-58
[次世代型世界システム論序説 1]
世界システム論は、今日、歴史社会学の古典理論である。したがって、その洞察と盲点については、すでに定まった評価というものがある。すでに学説史の一ページなのである。逆に言えば、その現代的な応用にあたっては、(再)解釈者の創発性が問われるということである。古典理論の(すでに定着した)洞察の射程を機械的に延長しているだけでは、...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.55-56
[都市の病理、心理学化する社会 5]
ダイナミック・コア仮説 脳科学とは、いまだきわめて学際的な領域とみるべきなのだろうか。 脳と意識の謎は、着実な業績を上げるにはこころもとないが、そのぶん知的な好奇心を喚起するとみえて、ある意味「功成り名遂げた」学者たちを魅了するようだ。 遺伝子工学的手法で免疫グロブリンの構造を解明し、日本人でただ一人のノーベル生理学・...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.58-60
[地上にて 1]
防災のデザイン 今年(二〇〇七)五月、六本木のAXISギャラリーにおいて、「Exit to Safety─デザインにできること」と題した展覧会が開催された。都市型大地震を想定した「防災」をデザインする、というテーマのもと、分野の異なるデザイナー七組が参加し、シェルターやシートとして使える衣服や、飲料水のペットボトルが格...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.206-214
[現代住宅論 5]
序 先頃、東京で開催された展覧会「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」において、ル・コルビュジエの《パリのアトリエ》、《小さな休暇小屋(カップ・マルタン)》、マルセイユの《ユニテ・ダビタシオン》の住戸単位の三つの空間の現寸大模型が展示された。それぞれ内部に入ることが可能であり、実際の空間のスケールを把握で...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.226-233
[技術と歴史 10]
シミュレーション技術の向上と設計の変化 野沢正光──一九七〇年代、第一次、第二次と立て続けに「オイルショック」という問題が起きました。一九七二年には、ローマクラブが「成長の限界」というレポートで資源の枯渇についての深刻な予測を発表しています。この頃から資源と環境の問題がたいへん大きなものになっていくのです。人類は生き延...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.215-225
[連載 9]
17─4 アパルトヘイト都市? 近代都市計画の最も基本的な構成要素を、面と線、つまりゾーニングの画定とそれらをつなぐ近代的インフラの整備とすれば、それが最も体系的に実践されたのは、ヨーロッパにおいてよりは植民地においてであったのではないか? 少なくともフランスにおいては(あるいは日本においても)これは該当している。近...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.182-199
[都市の病理、心理学化する社会 3]
類似と滑稽 前回、私は「顔の類似」について触れた。すなわち、顔の類似がもたらす滑稽さは、その無意味さゆえに根源的な笑いと関わりを持つ、と。 『機知──その無意識との関係』においてフロイトは、笑いの意味を目的論的な装いのもとで展開している。笑いを通じてわれわれが到達しようとしているところの上機嫌(オイフォリー)とは、ごく...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.46-48
[文化所有のポリティクス 2]
現在、東京藝術大学作曲科教授である佐藤眞は一九六二年、二四歳でカンタータ『土の歌』を作曲した。「大地讃頌」はその第七楽章である。『土の歌』は日本ビクターの委嘱作品であり、ビクター専属の作詞家、大木惇夫の詞に作曲したもので、NHK交響楽団、東京混声合唱団の演奏、岩城宏之の指揮によって同年に初演された。その後、ピアノ伴奏の...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.27-28
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間6]
電車・舟・住宅 電車が住宅になると何が起きるか。 一九五四年、京都の伏見、もと兵営敷地の一角に、京都市電の廃車体一〇台を利用して「電車住宅」が計画された[図1]。母子家庭の人々のための「住宅」である。「電車住宅」は、幅約二メートル、長さ約九メートルくらいで、建坪にすると六坪程度の極小住宅である。窓が高いため床面の風通し...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.13-24
[映画とニューメディアの文法 2]
レフ・マノヴィッチは、製作面でコンピュータ化が目に見えて進行した近年の映画において何が本当に新しくなりうるのかを分析した最近の論文で、デジタル特殊効果をふんだんに用いたハリウッドのスペクタクルと、低予算のデジタル・ヴィデオを用いた「ドグマ95」のような動きを最近の対極的な流れとして捉え、それらが映画史において必ずしも新...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.31-32
[視覚の身体文化学 2]
1 ジェームズ・J・ギブソン(一九〇四─七九)はけっして〈色の知覚の生態学〉を放棄していなかったこと。それどころか、世界の表面はカラフルであり、色はわれわれが生きていくための情報であると考えていたこと。それにもかかわらず、ギブソンが視覚情報のベースを「光の配列」のみに求めるかぎり、彼の視覚論から〈色の知覚の生態学〉を構...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.33-34
[CONCEPTUAL 日本建築 2]
07 四帖半 4 1/2 sheets TATAMI ROOM 私性はここで育まれた 『四畳半襖の下張り』という春本(好色文学)が知られている。文豪・永井荷風の作だとまことしやかに信じられているのである。 日本銀行中枢のエコノミストだった吉野俊彦は、荷風の研究家として在職中からも知られていたが、公刊された荷風の日記を...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.208-221
[現代建築思潮]
ヘルツォーク&ド・ムーロン『Natural History』を読む 佐々木一晋+田中陽輔 佐々木──今日は「素材のコンテクスト」と題して、ヘルツォーク&ド・ムーロンの『Herzog & De Meuron: Natural History』(Lars M殕ler, 2002.)という著作と本年度から〈10+1web〉...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.49-56
[論考]
東京のイメージとして日比谷公園は今、なんら象徴的な力をもっていない。かつては日本初の近代洋風庭園として、モダン都市東京を象徴するトポスであったこの公園は、いまや、公園だけの比較で言っても、東京を代表するものとして多くの人に認識されているかというと、はなはだあやしい。事実、現在の大学生世代にアンケートをとったり、インタビ...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.194-201
[1990年代以降の建築・都市 6]
九坪ハウスという現象 二〇〇二年一〇月一二日、TNプローブにおいて「九坪ハウスシンポジウム二〇〇二」が開催された。これはBoo-Hoo-Woo.comが仕掛けた住宅事業「九坪ハウス」により、八人の建築家・デザイナーがそれぞれにデザインした九坪ハウスを発表し、同時にそのシンポジウムを行なうイヴェントである。筆者は、このシ...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.184-193
[「悪い場所」にて 13]
前回、この欄で書いたPSE法については、その後、さまざまな意見提出や署名運動がなされ活発な議論も起こり、事実上の現状維持となったので、その経緯については読者の皆さんもよくご存知のことと思う。それにしてもあらためて感じるのは、こうした趣味や感覚に関わる規制へのリアクションが、反戦や環境問題のような「正義」にまつわる運動よ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.49-50
[CONCEPTUAL 日本建築 8]
43 JAPONISME──「近代」に向かってめくられた最後の頁 Last pages towards the MODERN, which western society had to discover 高階秀爾の若き日の著作に『世紀末芸術』(紀伊國屋新書、一九六三)がある。 あたかも東京オリンピックの前年、破竹の勢い...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.222-237
[音楽批評の解体文法 5]
誕生から約一世紀半にわたる音楽学の歴史は、テクスト中心主義からコンテクスト主義へのゆるやかな移行の歴史として描くことができる。人文学の一分科としての音楽学が確立されたのは一九世紀後期のドイツでのことであるが、そこでは国民国家イデオロギーを底流としつつ、当時世界に君臨していたドイツ芸術音楽を中心とするヨーロッパ音楽を主な...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.24-25
[Cinemascape 5]
映画を見るとき、ストーリーを順に追っていたはずなのに、ふと気づけば、そのことを完全に忘れ、美しい映像に身を委ねてしまうことがある。映画館を出ていま見た映画のことを振り返ると、そんな映像のほうが、物語よりも印象深く憶えている。ある人物の顔が忘れられなかったり、ひとつの風景が脳裏にこびりついて離れなかったり、人間の脳へと映...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.29-31
[ポスト・ストラクチャリズムの建築 5]
三次曲面を流用した建築(角がとれて、分析的というよりも感応的な形質)に対する、人々の反応は興味深い。もっとも大方の人にとっては、その形質を成り立たせている幾何学的本質などはどうでもよく、むしろ直観的に(建築として)経験しているわけであり、それゆえに正直なものであろう。その形態が感応的であるがゆえに、「私の内部」を大事に...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.37-40
[中国で家具をつくる 5]
今回は日本に一時帰国していたので実際の家具製作はなし。かわりに中国で今まで見てきた風景のなかで何か建築や家具に活かせるものがないかと思って集めてきたアイテムについて書いてみたいと思う。「家具をつくる」のアイディア編。見慣れた風景のなかからいかに設計に使えそうな読み直しができるかという問題への自分なりの見解でもある。つき...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.35-36
[Urban Tribal Studies 17]
トライブは重なり合う。ひとりのサブカルチャー的主体(個人)は複数のトライブに帰属することができる。音楽ジャンルをとってみても、ヒップホップを愛する「Bボーイ」である者が同時にテクノやトランスのトライブに属していることは珍しくない。トライブを横断する主体はそれぞれのトライブの空間(なわばり=テリトリー)の文脈に合わせて微...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.202-210
[1990年代以降の建築・都市 21]
アジア的なシドニーの景観 今秋、「rapt!」という日本とオーストラリアの交流年にあわせた美術系のイヴェントの一環で、初めてオーストラリアを訪れた。日本国内ではいつも睡眠が不規則のため、普段から時差ぼけ状態で日々過ごしている身にとっては、長い空の旅にもかかわらず、ほとんど時差がなく現地に到着するのは、なんとも奇妙な感覚...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.39-41
[「悪い場所」にて 16]
岡本敏子の命日が近づいて来た。なんだか、あれからもう随分時間が経ったように感じるのは、なぜなのだろう。二年前の四月、大学の研究室にいるとき携帯にかかってきた電話で知り、その夜、青山の記念館に駆けつけた。弔問客は断っているせいか、館の周囲は存外に静かで、玄関に入ると、メキシコでの《明日の神話》日本公開のための仕事から帰っ...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.33-36
[『日本の民家』再訪 4]
「郊外町の生成の模型図」 『日本の民家』の前半の、いわば理論編のなかに、「郊外町の生成」と題された、都市化のプロセスが民家に及ぼす影響を論じた章がある。ここに、「郊外町の生成過程の模型図」と記された、街道沿いに市街化しつつある農村を連続的に描いた、有名なダイアグラムが掲げられている[図1]。 ダイアグラムは四つの断面図...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.13-26
[1990年代以降の建築・都市 22]
キッチュの誕生 拙著の『美しい都市・醜い都市』(中央公論新社、二〇〇六)と『新宗教と巨大建築』(講談社、二〇〇一)は、それぞれ美醜をめぐる判断と近代以降の保守的なデザインの系譜を論じたものだが、共通するテーマをもつ。キッチュの問題である。それは現在、進行中の結婚式教会論とも密接に関わるはずだ。 キッチュという言葉が現在...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.36-38
[音響場試論 3]
録音技術の普及 都市を音の響く場として捉え、さまざまな界隈で響く音の空間的な分布を、社会学的、経済学的、あるいはメディア論的な視点から分析し、パリを定点観測の軸として、都市や文化生産(消費)への理解の新たなとっかかりを見出そうというのがこのコラムの狙いであった。初回では音を囲い込み、より精度よく聴き手に向けて送り出す技...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.38-39
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 3]
本連載では、第一回でP2P(Winny)を、第二回でSNS(mixi)を扱ってきた。そして今回は、二〇〇六年に最も注目を集めたソーシャルウェア、動画共有サイト「YouTube」をケースに扱う。YouTubeは、二〇〇五年のローンチ以来、きわめて短期間のうちに大量のユーザーを獲得し、二〇〇六年一〇月にはGoogleへの約...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.44-46
[ダブル・ストーリー 3]
デザイナーふたりのための計画をしている。敷地は大きな公園に面していてとても眺めがよいが、間口が狭く、細長い。ふたりはどちらも男性で、それぞれにキッチンやバスルームなどの水周りを占有することを希望しており、一世帯の共同生活というよりは二世帯住宅の暮らしのイメージに近い。各階平面はさほど大きくできないので、縦に積み上げたフ...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.43-44
[都市表象分析 28]
1 都市の軟体動物 よく知られているように、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルはダニの生活史を記述するにあたって、ダニを取り囲む世界はダニ固有の「環境世界」に変化されている、と指摘した。この環境世界は、哺乳類の皮膚腺から発散される酪酸の刺激という嗅覚的標識、それに応じて落下したダニが哺乳類の毛に接触して得る触覚的標識、そし...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.2-12
[現代住宅論 2]
今回はサステイナブル・デザインの理論的根拠について考えてみたい。そのために、まず建築を総合的にとらえるマトリクスを提案することから始めよう。 ローマ時代の建築家ウィトルウィウスは、建築を三つの条件によって定義している。「強・用・美」つまり、強さ、実用性、美しさである。ウィトルウィウスによる建築の定義は、そのまま近代建築...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.225-233
[マゾヒスト映画宣言──前田陽一を再導入する 2]
L'IMAGE VIENDRA AU TEMPS DE LA RESURRECTION──「イメージは復活のときに到来するだろう」。ジャン=リュック・ゴダールの『映画史』(一九八八─一九九八)全体にわたって鳴り響くこの警句──ゴダール自身によって聖パウロの言葉だとされるこの警句─は、また、前田陽一監督のマゾヒストフィル...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.43-44
[音響場試論 2]
近代メディアと社会関係の脱埋め込み化 前回はオスマンのパリ改造に象徴される都市空間の近代化が、パリをブルジョワ的な西部と庶民的な東部に分化し、同時にそこで響く音にもトポロジカルな棲み分けを産み出したことを確認した。今回は、都市空間におけるトポロジカルな音の棲み分けが、メディア技術による媒介を受けながら拡大再生産されてい...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.41-43
[ダブル・ストーリー 2]
プランをマイクロソフトウィンドウズのロゴマークのようにゆがめてみること。四人家族のための住宅「T邸」のために、このような方法を試してみた。基本となるプランはグリッド状である。パブリックな性格をもつ場所を中央に寄せ、プライヴェートな個室などを周辺に配置している。きわめてノーマルなレイアウト。それ全体をゆるやかに揺らす。で...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.48-49
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 2]
前回、本連載ではP2P(Winny)を扱った。今回はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を対象に扱う。特に焦点を当てるのはmixiである。今年九月、株式上場で話題を集めたmixiは、現在ユーザ数六〇〇万超、PV(ページビュー)でYahoo Japanに次ぐ国内第二位の位置につけており、二〇〇四年のサービス開...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.49-51
[技術と歴史 7]
グリッド批判 伊藤毅──都市にはインフラストラクチャーや都市計画などいろいろな技術がありますが、超時代的に存在してきた都市のかたちはグリッドです。グリッドは時代や地域を超えて生み出され、いまなおもっとも一般的な都市のかたちということができます。しかし近代以降、グリッドは批判の的にされ続けてきました。カミッロ・ジッテの『...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.213-224
[連載 8]
17 機能主義という抽象モデル ル・コルビュジエの一連の都市計画のモデルは機能主義的ともいわれるわけだが、もはや自明なものとしてその思想史的な意味を問われることはむしろ少ない。もちろん、機能主義モデルは彼の専売でもオリジナルでもなく、彼は普遍化できるモデルとして構想している。その意味で彼が東方旅行で見出したさまざまの日...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.198-212
[地上にて 2]
「悪い景観」 いささか旧聞に属するし、ご存じの方も多いとは思うのだが、「美しい景観を創る会」というウェブサイトが話題を呼んだことがあった★一。サイトを開設・運営していた「美しい景観を創る会」は、伊藤滋・早稲田大学特命教授の呼びかけで作られた、建築や都市計画、土木などの専門家集団であり、一九九八年に策定された「二一世紀の...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.167-179
[技術と歴史 11]
省エネルギーの多様化 建築においても、「持続可能性(サステイナビリティ)」が重要な概念となってきましたが、サステイナブルという言葉の定義が必ずしも明確なわけではありません。ワールドウオッチ研究所の所長をしていたレスター・ブラウンが一九八一年に『持続可能な社会の構築』という本を著し、「われわれの住んでいる環境は先祖からの...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.180-189
[フィールドワーク]
Google Maps やGoogle Earth で、ある1 地点に求心していくとき、先端のとがった錐で地面に突き刺さっていくように感じる。同時にその地点に立っている自分をつい想像してしまい、天空から舞い降りてくる先端の痛さを感じる。わたしたちの起居とは、〈宙の眼〉と〈地の眼〉が混交する地帯に成立しているのではないだ...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.121-128
[神戸]
プログラム・デザイン・プロジェクト(pdp)は、神戸芸術工科大学大学院のプログラム★一。学科間を横断してインターディシプリナリーなテーマに対して、モノやプログラムを作成するプロジェクトとするもの。現在「変形地図(talking maps)」をテーマに研究活動を進めている★二。プロジェクトにはゲストリサーチャーとして内外...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.172-183
[図版構成]
PREVI──リマ・プロジェクト 南米ペルーの首都、リマにおける1960年代後半に行なわれた最も野心的な建築計画は、長い建築史ではもはや誰も知らない、忘れられてしまった幻の計画と化している。それは人間が初の月面着陸に成功した時代に実現した。国連からの資金提供によって実行に移されたこの計画には当時最も注目されていた建築家...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.193-204
[宇宙建築年表]
宇宙建築構想史① Stillborn Concept 日の目を見ることなく埋もれてしまっている優れたコンセプトたち 「Good artists copy, Great artists steal.」(優れたアーティストは模倣するだけだが、偉大な芸術家は単に真似をするだけでなく、それを自分のものとして取り入れ、より優れた...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.141-148
[特別掲載]
福岡オリンピック計画 2005年より、JOC(日本オリンピック委員会)は、名古屋(1988)、大阪(2008)の世界オリンピック大会会場招致の失敗の反省のうえにたって、2016年の第31回オリンピック競技大会には十分に日本への招致の可能性のある都市が立候補するように働きかけを始めた。数都市が名乗りを挙げたが、立候補意思...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.25-48
[フィールドワーク]
「LINK TOKYO MADRID」(以下LINK)は都市公共空間とそこに展開される生活様式に関する共同研究を目的として、東京とマドリッド(スペイン)の複数の若手建築家と建築を学ぶ学生たちによって行なわれたワークショップである。LINKはまた、都市の在り方を問う調査と提案という一面のほかに、東京と、いま注目を浴びるマ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.161-168
[福岡]
福岡リビングコンディション 「福岡リビングコンディション(以下FLC)」は、第二回福岡アジア美術トリエンナーレ二〇〇二に招待されたアトリエ・ワンと九州芸術工科大学石田研究室とのコラボレーションプロジェクトのタイトルである[図1─10]。プロジェクトは「GAO:ゴースト・アーキテクト・オフィスのための展示コレクション」と...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.156-171
[東京]
都市の形態の背後にある構造は必ずしもみえていないし、しかし全くみえていなくもない。それは絶えず見えがくれしているのであろう。 槇文彦『見えがくれする都市』 法規? 東京の都心部には無数の木造戸建て住宅がひしめいている。集約が前提となる大都市の居住形態としては、異常だ。その原因に関してはかなりレンジの広い考察が可能であ...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.148-155
[論文]
はじめに 都市とは、人間集団の要求や諸活動に対応して、継続的に形成されていく場である。社会、経済、文化から導かれるプログラムの不断のアップデートに対して、それを動かすアーキテクチャー=建築と都市も、その仕様変更を迫られ続ける。 A・ロッシは『都市の建築』(L’Architettura della Citt , Mila...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.162-170
[会議4日目「国土改造」]
清水──本日のレヴューでは、まずそれぞれのチームのデザイン手法について議論し、その後、最も大きいスケールの問題提起である四日目の会議「国土改造」で提案した「Fujiko」と「近つ飛鳥宮」の二つのプロジェクトを軸に議論を展開していきたいと思います。 欲望とコンゲン 岡崎──コンゲンカードはこの六個で全部ですか? 中谷─...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.146-161
[京都]
京都の都市性の特記すべき事象は、職住隣接を伴う都心居住が長きにわたり行なわれてきたことである。 このことは日本の都市としては特異なことである。と同時に、都心居住を常態としてきたヨーロッパの都市と比較しても、全く異なる密度と様態で人と情報の集積がなされており、都市再生/再編が求められている今、京都の都市多重利用様態には示...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.78-89
[下田]
はじめに 静岡県下田市において、昨年度から、調査・研究を通してまちづくりを考える機会を得た。かつて賑わいのあったまちが若年層の流出・高齢化に伴ってさびれてきているという現状を前にして、打つべき手は何なのか。そうしたきわめて現実的な問いから本計画は始まっている。従って、目的は、あるべき客観的なまちづくりの像を描こうとする...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.90-101
[室蘭]
白鳥大橋の完成 北海道の南部、太平洋に突き出した形の室蘭市は、人口約一〇万人の一地方都市である。 平成一〇年六月、この室蘭市に東日本最大の吊橋が完成した。白鳥大橋と名付けられたこの吊橋は、構想から着工まで三〇年、完成まで一三年という長い年月を経て実現したものである。この橋の竣工によって、室蘭港を囲む工場地帯に沿って室蘭...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.140-147
[筑波]
ツクバヒストリー 01 MONEY STREAM 筑波研究学園都市は国主導で建設された人工的な都市である。高度経済成長期を背景とし、その建設過程には、様々な人々の夢とともに、莫大な費用が掛けられていた。こうしたつくば建設の背景を、当時の新聞記事と予算記録から建設費の流れに沿って捉えてみた。 伊藤麻依子 研究学園都市構...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.112-127
[ワークショップ]
スキャンデータあり、未アップ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.173-186
[フィールドワーク]
スキャンデータあり...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.153-161
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ ...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.203-218
[建築マップ]
スキャンデータあり 未アップ ...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.154-157
[大名古屋論#1]
スキャンデータあり 未アップ ...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.182-197
[図鑑]
スキャンデータあり 未アップ ...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.85-100
[フィールドワーク]
...
『10+1』 No.24 (フィールドワーク/歩行と視線) | pp.93-108
[図版構成]
スキャンデータあり 未アップ ...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.101-116
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.201-216
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.185-200
[図版構成]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.71-85
[フィールドワーク]
3つの中心 三次元的に見た時間・空間 Leonardo da vinci"Schema delle proporzionidel corpo umano"(1485-90) ワークショップ作成の背景 ナンシー・フィンレイ 時間/空間/身体 これは、身体、都市、建築を媒体とする個人の認識と意識的行動に関するワーク...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.162-173
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.159-168
[フィールドワーク]
スキャンデータ有り 未アップ...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.187-192
[フィールドワーク]
スキャンデータあり 未アップ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.186-198
[街路年表]
スキャンデータあり...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.119-124
[会議4日目「国土改造」]
[小論1(八四頁)からつづく] http://tenplusone-db.inax.co.jp/backnumber/article/articleid/1443/ 《安中環境アートフォーラム》のコンペ応募案(二〇〇三)[図6]は緩斜面に計画したものである。したがって、急斜面に計画した《富弘美術館》とは表面的にはまっ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.144-145
[会議4日目「国土改造」]
1──生活のなかの巨大文化財 古墳は、その巨大性そして何よりもその多くがアンタッチャブルな陵墓であることによって、残存可能性が極めて高い土木構築物である。その結果一般に、古墳周辺は環境ノイズエレメントの宝庫となっている。大阪府南部には藤井寺市と羽曳野市にまたがって、一〇〇基以上の古墳がひしめく古市古墳群がある。この古墳...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.138-143
[技術と歴史 12]
山名善之──ジャン・プルーヴェは、家具デザイナー、エンジニア、プレファブの始祖という言い方がされてきています。もちろん、彼のデザインは個人の卓越した才能によって生み出されたものであります。しかし、プルーヴェに対する私の興味はそこだけに留まらず、彼の制作態度が二〇世紀という時代においていかに実験的であったかというところま...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.252-262
[都市の病理、心理学化する社会 7]
モジュール仮説から価値の科学へ ラカンは「無意識はひとつの言語(ランガージュ)として構成されている」と述べたように、言語に先立つ心というものを想定していない。無意識≒象徴界、すなわち「大文字の他者」は、シニフィアンの場として安定した精神の基盤を提供することができる。 ここにはひとつの逆説があると考えてよい。 いかなる人...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.49-51
[現代住宅論 7]
前回の「建築的無意識」では、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」からヒントを得て、建築空間が身体化・無意識化され、さらに、それが形による働きかけを通して揺り動かされるプロセスについて論じた。今回はこのアイディアをさらに先へ推し進め、「建築的無意識」を揺り動かし再編成する作業としてのデザイン行為と、それを支...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.277-285
[図版構成3]
この二〇〇年来、グローバルな規模で急速に都市化が進んでいます。一八〇〇年頃は全世界の一〇億人の人口のうち二パーセントが都市に暮らしていましたが、二〇〇〇年には約六五億人にのぼる全人口のうち五〇パーセント近い数字になりました。さらに二〇五〇年には、全人口約八五億人のうち約七五パーセントが都市に暮らしているだろうとされてい...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.164-167
[年表]
日本の建築の近代について、これまでにどんな歴史的視点が生まれ、拡がり、変わっていったのだろうか。建築をきちんと考えよう、つまり歴史的に考えようとしたとき、否応なく気付かされるのは、他の多くのものと同じように「歴史」にも、それ自体連続していく歴史が存在するという事実である。私たちを何とはなしに取り囲んでいる枠組みを超えよ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.164-165
[写真構成]
本分データ未作成...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.105-112
[インタヴュ―]
はじめに 日埜直彦──このインタヴューも残念ながら最後ですから、これまで伺ってきた五〇年代終わりから六〇年代の流れをまとめつつ万博のお祭り広場へと話を繋げ、五〇年代から七〇年代初頭までを俯瞰できるような視点をつくりたいと思っています。 そういう目でこれまでの記録を読み返してみると、最初期の文脈をもう少し丁寧に押さえてお...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.263-276
[記録・抵抗・記憶 3]
1 一九七一年一一月一一日、沖縄返還協定批准抗議全島ゼネストの渦中に起きた警官死亡事件を読売新聞が「過激派がめった打ち 警官火ダルマ死ぬ」という見出しと共に報じた。そこに掲載された写真を唯一の証拠として、覆面のデモ隊の中で素顔のまま写り込んでいた松永優という青年が「殺人罪」として不当に逮捕・起訴された。沖縄の施政権が日...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.39-43
[都市表象分析 32]
1 写真論と路上観察 前回述べたように、「非都市の存在論」として始められた連載は、ベンヤミンの言う「弁証法的形象」としての両義的寓意を都市に発掘する作業へと重心を移すことにより、徐々に「都市表象分析」へと接近していった。そのきっかけとなったのが、都市写真の分析である(「光の皮膚の肌理」参照)。写真が都市の視覚的無意識を...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.2-10
[現代住宅論 6]
『建築的無意識』は一九九一年に出版された僕にとって初めての本のタイトルである。この本は一九八〇年代に書いたエッセイをまとめたもので、住まいの図書館出版局から「住まい学体系」第三九号として出版された(現在は絶版になっている)。副題に「テクノロジーと身体感覚」とあるように、テーマは一九世紀以降に急速に進展したテクノロジーが...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.206-213
[『日本の民家』再訪 8]
黒い戸 見飽きない写真がある。 故篠原一男設計による《白の家》(一九六六)のモノクロームの内観写真だ[図1]。その家の台所わきの裏口側から眺めた居間の様子が記録されている。村井修撮影によるこの写真の緊張感は、立ちつくす面皮柱、精妙に消え入る天井、開口のプロポーションをはじめとして、白い空間に置かれた家具や小物を含む写り...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.11-24
[ネット公正論──データの逆襲 3]
自己とは何であり、石や水たまりのように自己をもたないものからいかにして自己が生まれるのか。「私」とは何なのか。 ダグラス・R・ホフスタッター「GEB二〇周年記念版のために」 (『ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環 二〇周年記念版』 野崎昭弘+はやしはじめ+柳瀬尚紀訳、白揚社、二〇〇五、四頁) この問いに...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.25-32
[オルタナティヴ・ダンシング 3]
すべてがリアクションであるようなダンス これまで「タスク」「ゲーム」と、一般にひとがダンスなるものについて抱くイメージからはほど遠いキーワードをとりあげて、今日的な「もうひとつのダンス」の在処を探ってきた。言い換えればそれは、米国のジャドソン教会派を中心とする一九六〇年代のアヴァンギャルドなダンスのムーブメントへと立ち...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.37-39
[ゼロ年代の建築・都市 3]
建売住宅から学ぶこと 家型という視点から眺めていくと、一九八〇年代の建築は基本的に七〇年代の延長にあり、記号的な表現をさらに展開し、思考を深めている。 石井和紘の《児玉邸》(一九七九)は、家型をもちながら、水平のストライプを外壁にはりめぐらせて、斜めの線を消している。彼はこう述べていた。「家型のイメージは大切にしたい。...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.33-34
[イントロダクション]
加工される都市 1 意図について 今年は台風の当たり年であった。おかげでテレビやウェブの画像を通して幾度となく台風の進路をリアルタイムでモニタリングするという経験をした。何度か台風進路をじっくりと追跡するうちに、あることに気が付いた。台風の挙動には、どうも台風個別の事情や癖のようなものがあるらしい。つまり偏西風によっ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.71-76
[イントロダクション]
連鎖式都市の建築を読む 都市連鎖研究体による[都市の書物の読み方]を紹介します。 方法 1. 書物内の挿図の大部分を抽出する。 2. 挿図の説明文を短いセンテンスで抜粋する。 3. 挿図、説明文ごとにカード化する。 4. それらを隣接して配置しセットとする。 5. それらセットを基本とし、連鎖的に関係づけられるセット...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.77-82
[会議2日目「福利更正」]
まるい都市──ハワード『明日の田園都市』 イギリスの都市計画家E・ハワード(一八五〇ー一九二八)が提案した『明日の田園都市』(一九〇二)は、大都市ロンドンにおける劣悪な住環境の解決案として提唱された理想都市である。その提案は、「都市と農村の結婚」を目標に掲げると同時に、人口規模の制限、土地の公有、開発利益の社会還元、産...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.108-109
[会議2日目「福利更正」]
先行デザイン会議 第2日目 福利更正 ミクロな視点からすれば、都市は私有された土地の集積としてある。そこでは土地の私有と公共性とが拮抗することで、場が成立している。 土地の私有は、時間経過とともに都市のエントロピーを増大させ、都市をいびつに変形させる。変形した都市は、私性とは別の次元にある、計画という名の上から与え...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.101-101
[会議2日目「福利更正」]
1──オクタゴンの群 地下鉄有楽町線が環八通りと交差する平和台駅東側の一平方キロメートルあまりのエリアに、不規則な八角形街路パターンの卓越が見られる。氷川台・平和台オクタゴンと呼ぶ環境ノイズエレメントである。おそらくこれは、新旧道路のグリッドのズレに起因して発生したものと推測される。近世以来の農道は不明瞭ながらもほぼ東...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.110-115
[会議3日目「都市基盤」]
先行デザイン会議 第3日目 都市基盤 都市の背後においてその骨格を支える都市基盤は、都市の公共性を保証する、本質的なファクターである。けれども、ひとたびその構造物が都市のなかに露出すると、それは他人行儀な容貌を見せはじめる。例えば鉄道。それは都市とその外部を繋ぐためのベーシックな都市要素であるにもかかわらず、目に見...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.117-117
[会議4日目「国土改造」]
先行デザイン会議 第4日目 国土改造 都市基盤整備、都市建築の耐火・耐震・永続化、ニュータウン構想。繰り返し提示されてきた国土への計画の意志であるが、それらが幻想か、あるいは限界をはらんだものであることはもう誰の目にも明らかである。永久建築やニュータウンといったかつての未来像は、今日のわれわれにとってはデザインされ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.131-131
[会議3日目「都市基盤」]
1──活断層に支配された地勢 歌劇で知られる宝塚という街は、有馬高槻構造線系の活断層群と六甲山南麓活断層帯がほぼ直角に出会う、いわば活断層の巣のような場所に位置している。活断層同士のぶつかり合いは破砕帯を生じ、六甲山系裏側の盆地を集水域とする武庫川は、正確にその弱点を突くように大阪平野に流入している。急峻な先行性峡谷か...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.124-129
[会議1日目「市区改正」]
先行デザイン会議 第1日目 市区改正 まず目の前に広がる都市から始めなければならない。今日、都市計画はもはや抽象的な平面に自在に線を引くといった行為ではありえない。それは、計画される場にすでに存在する先行条件を、いかに新たな秩序へと再編成するかという問題としてのみある。 市区改正という都市計画手法が明治期の日本にあ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.87-87
[会議1日目「市区改正」]
1──不条里空港 大阪国際空港(通称伊丹空港)は、約一三〇〇年前に引かれた条里制の遺構である一町(=約一〇八メートル)間隔で直交する都市グリッドに対して、滑走路が四五度振れるかたちで設置されている。ある地点における一年を通しての風向分布をグラフ化したものを、バラの花弁にたとえてウィンドローズ(風配図)というが、伊丹空港...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.94-99
[図版構成]
TOKYOMETABOLISM 1960–2010 ENCYCLOPEDIA Vol.1 UPG.@S.I.T. 構成=八束はじめ+大田暁雄+金子祐介+唯島友亮+水谷晃啓+福島北斗 模型写真=K.K.川澄写真事務所 Chapter 1 Restorative Investigation of A Pla...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.121-160
[宣言]
まだ見ぬ参加者たちへ 先行デザイン会議開催のお知らせ 世界の混迷はますます深まるばかりです。このような世の中においてもなお信じるに足るべきものがあることは、幸いです。それはすでにできてしまった〈先行物〉の存在です。計画道路を曲げる古墳、タウンプランニングを左右する条里制、これらはいずれも優秀な先行物です。 このたびそ...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.65-65
[図版構成]
経済─空間単位としてのメガリージョン グローバル・シティを経済的なメガリージョンとして考えるべきだ。 東京都のGDPは8361億ドル。韓国に次いで15位。オーストラリアやオランダを抜いている。つまり、経済規模は一国と同程度。もはや、都市をその国家の枠組みにおいて考えるのではなく経済的規模で捉える必要があることを示してい...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.210-218
[シンポジウム]
第一部:スーパースタジオ一九六六──一九七三 一九六六──スーパースタジオの源泉 クリスティアーノ・トラルド・ディ・フランシア──本日は、スーパースタジオの活動のなかでも、特に一九六六年から七三年頃の活動について紹介していきたいと思います。まずは私たちスーパースタジオの考えの源でもある、卒業設計の話からはじめましょう...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.228-239
[イントロダクション]
土木と比較する時、建築はその残存可能性の低さゆえに、一般的には環境ノイズエレメント化しにくいと考えられる。しかしいま改めて自分自身の建築設計の仕事を振り返ってみると、そこに今回抽出した環境ノイズエレメントとしてのデザイン手法(Cooking Method、七五─七六頁)がたびたび登場していることに驚く。設計時には必ずし...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.83-84
[イントロダクション]
錯乱のロウアー・マンハッタン マンハッタニズムとは、相互に排他的な関係にある立場間の折り合いのつかないくいちがいをそのまま宙吊りにするアーバニズム理論である。その原理から導かれるさまざまな定理を現実のグリッド上に打ち立てるためには、人間の代理人が必要である★一。 レム・コールハースは『錯乱のニューヨーク』において、...
『10+1』 No.37 (先行デザイン宣言──都市のかたち/生成の手法) | pp.85-87
[技術と歴史 5]
素材と技術革新 安田──今日お話しすることは「ものづくり」の経験から得た素材に関連した話です。これまでさまざまな建築に出会って大きな影響を受けてきましたが、影響を受けてきた建築には共通点があります。もちろん建築構成の斬新さや形態そのものにも魅力を感じますが、特に私が惹かれるのは挑戦的な素材の使い方をしているものからであ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.212-221
[連載 6]
15 分類すること(名付けること)と配置すること 15-3 バベルの塔としてのCIAM 近代都市計画の原点ないし聖典のようにいわれてきた『アテネ憲章』が会議から一〇年を経て出版されたものであることは前回に述べたが、それは本当にアテネ会議あるいはそれ以前のCIAMの議論を要約し、合意された憲章であったかのような印象を事...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.198-211
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 3]
仕事とは、隠喩や類推思考や多義性の大量注入によって都市を(しかして民主政治を)安全なものにしていくことにある。科学主義が標榜し自由放任主義が顕著な当世ではあるが、このような活動こそ真の《デザインによるサバイバル》を可能にすると信じて止まない。 コーリン・ロウ+フレッド・コッター『コラージュ・シティ』★一 1 都市の...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.12-25
[グローバリズム 3]
1 ロンドン 一九九一 浅田彰は西欧での現代日本文化の見方に関しては二つのオリエンタリズムの危険があるという。一つは安藤忠雄の建築に日本を見出すという古いタイプのそれであり、もう一つは猥褻さとメトロポリスの孤独などをテーマに作品を撮り続けてきた写真家アラーキーの「錯乱のトウキョウ」のような新しいタイプのそれだと彼はいう...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.225-236
[景観の視学/史学/詩学 4]
一月の末に話題のホテル《CLASKA》を取材した。フランスの建築雑誌の特集記事のためであったが、実際に担当者の説明を聞くうちにここが居住空間として面白いケーススタディになっていることがわかった。基本のコンセプトは、ここで「どう暮らすか」。これがそのままホテルの名称に繋がる。本来ごく短期間を過すホテルに向けて「暮らし」の...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.31-33
[都市とモードのフィールドノート 3]
現代日本の建築とファッションは元来西洋から輸入されたものである。 それぞれ経緯は異なるにせよ、長い間かかって人々が生活や歴史の蓄積のなかで醸成した文化を駆逐する形で、近代以降に性急に根づかせてきたという事情はだいたい同じだろう。もちろんそのなかでさまざまな折衷や異種混交が試みられてきたし、そのような雑婚からしか文化とい...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.37-39
[ポストモダニズムと建築 3]
前回は近代建築がその理念として掲げた「機能主義」や「幾何学性」が、その起源を遠くギリシャに遡りうる、それ自体としては古典的な理想であったことを見たが、今回は近代初期における建築のイメージと古典性の抜き差しならぬ関係を端的に見せてくれるひとつのテクストを参照しながら、近代主義において古典性が占める位置をより接近して見てみ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.42-44
[都市ノ民族誌 4]
演奏会じゃねぇんだよ! フェスなんだよ! うたえよ、お前ら自身うたったらどうだよ、ただ聞いてるだけじゃよぉ、犬か猫と同じじゃねぇかよ 「’71 日本幻野祭 三里塚で祭れ」より 七〇年安保闘争と反博運動の大きな波が去ったその明くる年の昭和四六(一九七一)年、三里塚では通称「三里塚軍事空港」、別名「成田空港」(...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.39-42
[1990年代以降の建築・都市 9]
二重の網目をはりめぐらす、セキュリティ・ネットワーク 全国の子持ちの皆さん! 自分の息子や娘が犯罪に巻き込まれたり、逆に犯罪を起こしたりするんじゃないか不安じゃありませんか。あたし、室井佑月は東京の治安をよくし、若者に夢を与えることを約束します。 『東京新聞』一〇月八日 作家の室井佑月は、「バーチャル総選挙」とい...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.217-224
[現代建築思潮]
セシル・バルモンドの『informal』を読む 今井──前回、オランダ建築の話をするなかで離散型に関する話題が出てきました。そして連続ではなく不連続、コンクリートでなくディスクリートなものにいったい何があるのか、どういった美学が潜んでいるのか、という興味が出てきたわけです。そこで、新しいディスクリートな建物の構造を、O...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.45-52
[ポピュラー文化としての都市空間 2]
こうしてスケートボーディングは、まるで思いどおりにできるような物体からなる巨万の富によって、しかし祭りとは違い、金を浪費することも物を実際に所有することもなしに作動する。 イアン・ボーデン 『スケートボーディング、空間そして街』★一 僕が勤めるキャンパスで三人の開拓者がスケートを始めてから何年かたつ。いまでは人...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.34-35
[建築の還元 4]
1 判断と知覚、およびその審級 二〇世紀の終わりを締めくくる最後の一〇年は、建築が、レイト・モダンの波をも受けてミニマルなものへの志向を発現させ、ひとつの表現の磁場を作ってきたように見える。それらの多くは、形態上の新しさという可能性を自ら断念し、プライマリーな立体のみを空間の母胎(マトリクス)として抽出し、皮膜としての...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.210-220
[都市とモードのフィールドノート 2]
あなたはいつ、どこで自分の外見を見るだろうか。 個人差、男女差、世代差もあるが、おそらく男性読者の方々は、鏡を携帯して自分の顔を頻繁にチェックすることはあまりないにちがいない。数少ないその機会といえば、洗面所や風呂場でつかの間に映しだされる自分の姿を軽く一瞥するときだろうか。それとも証明写真やスナップショットに残る曖昧...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.36-38
[都市ノ民族誌 3]
今後、この映像は、 繰り返し使われるだろう 「ヒゲとボイン。国会と雷」 平成一五年九月三日の夕刻、東京・永田町の〈国会議事堂〉におおきな雷が落ちた。議事堂の段状の屋根を直撃したその雷の激しい衝撃で、尖搭の外壁の御影石がはじけとび、バケツにたっぷり一杯分もの石の破弾が、激しい雨とともに、衆議院側の中庭の地面の上にふり...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.38-40
[中国で内装をつくる 3]
今回から大きな書店の内装設計、施工監理のプロジェクトを紹介する。新華書店の北京で三番目の直営店の内装。この書店は中国最大の国営店で、全国津々浦々にフランチャイズ展開している。従来書店はその店の経営のみを行ない、店舗の場所は国家の別機関が用意するというかたちだったが、改革開放以降、自社で建物や床を購入して直営で大型書店を...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.42-44
[Urban Tribal Studies 10]
物が与えられ、返されるのは、まさしく〈敬意〉──われわれはさらに、〈礼儀〉と呼びうるかもしれない──が相互に取り交わされるからである。 しかし、そればかりでなく、それは物を与える場合に、人は自分自身を与えるからであり、人が自分──自分自身とかれの財産──を他人に〈負っている〉からである。 マルセル・モース 倫理の次元...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.221-230
[中国で内装をつくる 4]
施工図設計 こちらでは方案設計とよばれる日本の基本計画レヴェルのスタディが終わると、施工図設計という段階になる。施工図、とはいっても実際は日本の実施設計レヴェルになっていれば十分で、見積もりが取れる程度の仕様指示さえされていれば、細かい納まりは現場で決めることが当たり前になっている。今回の場合僕は仕様に関わる部分はなる...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.44-46
[現代建築思潮]
コードとデ・コード 吉村靖孝 今日は「コードとデ・コード」と題して、ローレンス・レッシグの『Code──インターネットの合法・違法・プライバシー』(翔泳社、二〇〇一)という著作と、僕がすすめてきた「デ・コード」というフィールドワークとの関係について話したいと思います。 まず「デ・コード」ですが、これは法規をガイドとして...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.47-54
[現代建築思潮]
海外建築情報の受容と読解 今村創平 今村──今回は「海外建築の受容」というテーマを取り上げてみたいと思います。まずは建築の文脈からは離れますが、資料として配りました丸山真男『日本の思想』、吉本隆明『初期歌謡論』、柄谷行人『批評とポストモダン』からの抜粋についてです。これらでは日本では何かを構築しようとしても難しく、特に...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.47-54
[明治期「近代交通業発達」余話 1]
日本近代を思考の対象とする際、近代の端緒を「黒船来航」の一八五三年(嘉永六)とする時期区分は、東アジア、とりわけ日本にとっての近代が欧米文明との出会いによって特徴づけられているからに違いない。ペリー提督が浦賀沖から江戸湾内に立ち入り、その後久里浜へ上陸して米国大統領の親書を手渡して後、琉球へと向かう。その翌一八五四年(...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.39-40
[政治の空間学 1]
1 リベラリズムの空間政治学 ミシェル・フーコーはあるインタヴューのなかで次のように発言している。 あなた方には、空間的な用語を活用することは、歴史を、進化、生き生きとした連続性、有機的発展、意識の進歩、存在の投企などといった古めかしい諸形態と混同する連中にとっての反歴史とやや似ていると思われることでしょう。空間の用...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.205-213
[CONCEPTUAL 日本建築 1]
01 続き間 Room to room continuity 「二室住居」は都市型のすまいの特徴 日本間の特徴が「続き間」にあることは論をまたない。 それでは「続き間」とは何か。 部屋が連なっていることは明らかだが、部屋が連結されていることを言うのか。あるいは、連続していることを言うのか。この場合、少なくともふた部屋...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.214-224
[Urban Tribal Studies 8]
エクスタシーとテクノは情動=感情に適用されたコミュニズム(共産主義)である。 ニコラス・サンダース 彼らの恍惚に内容はない。恍惚に達すること、音楽が聴かれること、それが内容の代りだ。恍惚の対象は、それ自体の強迫的性格に他ならぬと言ってもよい。それは、打ち鳴らされる戦闘用太鼓に合わせて未開人が踊って見せる恍惚状態を真似...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.213-222
[Urban Tribal Studies 2]
Ⅰ アムステルダムの熱帯美術館で九七年の終わりから九八年の九月まで開かれている展覧会「シベリアからサイベリアへ」は、様々な地域、民族にわたるシャーマンの文化を網羅的に紹介し、同時にいまやサイバー文化のなかにシャーマン的な実践が成立しうる、という仮説までそなえた興味ぶかい展覧会である。ここではロシアのサンクト=ペテルスブ...
『10+1』 No.14 (現代建築批評の方法──身体/ジェンダー/建築) | pp.261-270
[一九九〇年代以降の建築・都市12]
八月四日の夜、台風の影響により、大阪を暴風雨が襲った。 キリンプラザ大阪の「ハイ・エナジーフィールド」展に参加するアーティストの高橋匡太は、館の判断により、準備作業の中止を余儀なくされた。徹夜を覚悟で集まったスタッフに解散が告げられる。二日後にオープニングを控え、現場には焦燥感が漂う。だが、なぜ作業が深夜に行なわれ、中...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.37-39
[デジタル・イメージ論 1]
デジタル・イメージに関する議論が盛んになりつつある★一。それは、ネットワークに接続された監視カメラのような、コントロール型権力(ドゥルーズ)の顕在化、あるいはスマートモブズ(ラインゴールド)の一般化といった事態への対応を迫られていることを示しているのかもしれない。そのような問題を考察する過程で、避けては通ることのできな...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.35-37
[都市表象分析 18]
1 建築の「情念定型」 アルド・ロッシの『学としての自伝』(邦題『アルド・ロッシ自伝』)は、この建築家の記憶のなかの断片化されたイメージが、夢のメカニズムにも似た類推と圧縮をへて、さまざまなプロジェクトに結実するプロセスを内観するように自己分析した著作である。そのプロセスが奇妙なのは、プロジェクトが時間の進行のなかで営...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.2-12
[グローバリズム 4]
1 東京 二〇〇三 vs 東京計画一九六〇 vs ドバイ二〇〇? 東京のど真ん中に誕生したばかりの新しい都市、「六本木ヒルズ」のそのまた中心を占めるタワーは武士の鎧をイメージしたのだという。設計者は日本人ではなくアメリカのKPFである。名古屋にもフランクフルトにも、もちろん本拠のシカゴにもタワーを建てているいわ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.208-220
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 5]
大極殿の発見 奈良の平城京、とくに天皇による政(マツリゴト)の中心施設であった大極殿(ダイゴクデン)の位置同定には、もはや伝説とも言うべき逸話が存在する。 平城京は周知の通り、和銅三年(七一〇)より七四年間続いた都である。現在の奈良市の西方に位置し、規模は東西約四・三キロ、南北約四・八キロ、東に外京と呼ぶ張り出しをもつ...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.13-25
[文化所有のポリティクス 1]
フランスのティエリー・ミュグレー・パルファン社(以下、ティエリー・ミュグレー社)は、女性用香水「エンジェル」を発売、その独自の甘い香りが評価され、一九九四年度の世界総売上高が一億フランに上るヒット商品となった。それに対しGLBモリナール社(以下、GLB社)は、似た香りを持つ「ニルマラ」を発売した。ティエリー・ミュグレー...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.28-29
[視覚の身体文化学 1]
1 視覚とは見慣れることのない、素晴らしい営みである。わたしは五〇年のあいだ、その難問の数々に頭を悩まされてきた★一。 ジェームズ・J・ギブソンの最後の著書『視知覚への生態学的アプローチ』(邦訳=『生態学的視覚論』)は、心を動かされるこの言葉で始まる。そして光の物理学、眼・神経・脳の解剖学・生理学では、視覚の不思議...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.33-35
[映画とニューメディアの文法 1]
映画は、一一〇年になろうとするその歴史において、いくたびも危機にさらされてきた。まずは、三〇年代にトーキーの普及によってサイレント期の視覚的洗練を失い、五〇年代にテレビの大衆化によって最初の大きな凋落期を迎える。六〇年代のヌーヴェル・ヴァーグは、映画史に自己反省的な視線を向けることで、映画を再生する試みだったと言えるが...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.31-33
[循環する都市 1]
寒いので身ぶるいしながら、安全地帯の上に足踏みをして、ぐるりと一廻りした時、町裏になった広瀬中佐の銅像のある辺りから、一群の狼が出て来て、向こう側の歩道と車道の境目を伝いながら、静かに九段の方へ走って行った。内田百閒『東京日記』より 江戸から東京へ 内田百閒の『東京日記』は、一九三八年一月号の『改造』に発表されたも...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.201-209
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 2]
1 建築職人ウィトルウィウス はたしてウィトルウィウスは建築家だったのだろうか。 あらためていうまでもなく、彼の著した『建築書』(De Architectura Libri Decem)は、「西洋建築」の体系がかたちづくられるにあたって、その初源となった。同書は一四一五年にセイント・ゴールの大修道院図書館で再発見され、...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.12-25
[都市の表象分析 13]
1 英雄というプレテクスト ニューヨーク世界貿易センター(WTC)跡地利用をめぐっては、選出された七つの建築家チームによる九つの計画案が二〇〇二年一二月一八日に発表された。展覧会や集会を通し市民の意見を広く集めたうえで、翌年の二月四日にローアーマンハッタン開発公団(LMDC)とニューヨーク・ニュージャージー港湾局は、案...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.2-11
[Urban Tribal Studies 16]
足かけ四年にわたって連載してきた、この「アーバン・トライバル・スタディーズ」にも前回と次回で一応の区切りをつけておこうと思う。今回はトライブ概念をめぐる反省、再考を整理し、最終回の次回は議論を次のステップに向ける準備をしておきたい。 これまでも指摘してきたように、都市のサブカルチャーにおけるトライブは、自分以外のトラ...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.225-234
[「悪い場所」にて 1]
米英軍によるイラク侵攻の直前、発起人四名の連名でインターネットを通じていささか唐突ともいえる「反戦デモ」の呼び掛けをし、アート関係者を中心に「殺すな」なるユニットを立ち上げ、これまでに数回のデモを行なった。 呼び掛けのきっかけとなった「殺すな」の文字は、岡本太郎の手によるもので、一九六七年にベ平連によって『ワシントンポ...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.12-13
[蒐集(コレクション)の曖昧な対象 1]
1 最近テレビのなかに「片づけられない人」たちというのが登場することがある。住居内のエントロピーの増大に対して、適切に介入することのできない人たち、とでもいうべきだろうか。彼ら、あるいは彼女たちの室内は膨大な量のゴミで溢れかえっている。数年前に購入した食料品、脱ぎ散らかしたままの汚れた衣服、中身が残って腐った弁当、積み...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.14-16
[都市ノ民族誌 1]
昭和四五(一九七〇)年、日本各地では全学連やベ平連をはじめとする様々な組織や運動体が「日米安全保障条約」(別称=アンポ)粉砕のデモンストレーション(別称=デモ)をくりひろげていた。前年の東大安田講堂の陥落で、学生運動には多少の翳りが現われてきていたものの、その日、一九七〇年六月二三日には、日本全国で七七万四〇〇〇人もの...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.20-21
[ポストモダニズムと建築 1]
建築を建築として見るようになった頃から、どうもロマネスクの建築というのが気になってしようがない。御多分に洩れず学生の頃ヨーロッパに行き近代建築など忙しく見て回ったが、そういう見方とは少し違う欲望に促されてロマネスクの修道院を巡り、各地の田舎をうろついた。そもそも出かける前の下調べをしている時点では、何の気なしに一つ二つ...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.18-19
[東アジア建築世界の二〇〇年 1]
〈一 アジア近代建築をネットワークする〉 一─一 二〇世紀末、アジアを巡る 二〇世紀最後の年の二〇〇〇年、ぼくはあいかわらず、アジアを中心にあちこちをとびまわっている。三月にハノイ、五月ソウル、六月イランに赴き、後半は七月広州、九月台湾と北京、一〇月ニューヨーク、一一月バンコクへと旅が続いた。たまたま、重なった旅の目的...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.189-200
[スキマ学会通信 1]
私の家の窓から右隣の家の窓が見える。窓は微妙に半分くらいずれて、右に開けたときは壁が見え、左に開けたときは窓が見える。窓と窓の距離は手をさしのべて隣の窓を開け挨拶することもできるくらいの隙間である。お互いの窓を家の中が見えるように開けることも、お互いの壁を見えるように開けることも可能だ。前者のように開けるということは、...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.52-53
[東アジア建築世界の二〇〇年]
[第五章つづき] 五─三 中国人建築家の覚醒とナショナリズム 東遊と過去からの「分離」 中国で「建築」が意識的に学ばれ、建築の「中国」が自覚されるのはいつからのことだろうか。もちろん、一八六〇年代に始まった洋務運動ではない。そこで用いられたスローガン「中体西用」に端的に現われているように、西洋の技術はこの時、中国にと...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.212-224
[都市表象分析 9]
1 都市の誕生と兄弟殺し 古代ローマにおける「まち」の理念をめぐって、ジョゼフ・リクワートは、ローマという都市の創建にまつわる物語に言及している。それはプルタルコスの『ロムルス伝』にある、双子の兄弟レムスの死に関するものである。 ロムルスがそこに市壁の基礎をすえることを予定していた溝を掘っていたときに、(レムスは)そ...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.2-10
[論考]
待て スーパーラット 僕達は敵ではないChim↑Pomだ! 全てが言い訳がましく響く夜の日本のセンターで 僕達は作品を作るべく 夢とねずみを追いかけた (Chim↑Pom『スーパー☆ラット』展の宣言文より) 踊るリアルなピカチュウ Chim↑Pom(チンポム)★一制作によるそれを目にしたのは、今年三月にアサヒ・アー...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.93-101
[ブック・レヴュー 1]
宮内康(一九三七─九二)は批評家、建築家、教育者として精力的に活動し、六〇年代末から七〇年代の言説活動を中心に根強い支持を得ている。六二年に東大建築学科を卒業して同大学院に進んでいるから、いわゆる第一次安保闘争の世代に属するが、「全共闘運動の鮮烈さに比べれば、あの六〇年安保闘争も、私にとってはいささか影が薄い」(三〇九...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.44-45
[都市音楽ノート 5]
歴史家が忘れがちのことがある、こう言うのはマニング・マラブルである。五〇年代・六〇年代の黒人による闘争のうねりを支えたのが黒人の労働運動であったことである。 マーティン・ルーサー・キングの闘いは、周知のように、公民権法や投票法の成立によって一段落をつけたあと、一九六五年のワッツ暴動など北部都市の頻発する黒人の蜂起を背景...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.49-50
[脱芸術/脱資本主義をめぐるノート 5]
七月一七日午後一時半、豊島区立豊成小学校図工室。暑い、とにかく暑い。しかし、その暑さは単に気温だけではない。この狭い、小学校の教室の壁際に、溢れんばかりに犇めき合っている一〇〇人以上もの教師たちの異常な熱気でもあるのだ。 教室の中央には、(この連載の初回で紹介した)音楽家野村誠と赤いコンガ。そこに、生徒たちが入室してく...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.45-47
[中国で内装をつくる 1]
中国に来てほぼ二年になる。本誌での連載も継続できることになったし、家具から徐々にスケールを上げた仕事を紹介していきたいと思っている。最近は北京大学での仕事のほかに、自分の名前で少しずつ設計の仕事をできるようになってきたので、家具の制作と並行して内装の仕事に取り組み始めた。建築まるごとを作るようになるにはさらに二年ほどか...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.22-26
[現代建築思潮]
一九六〇年代の半ばに旗をあげたイギリスの若手建築家たちは今、EU統合をきっかけに訪れたイギリス好景気の波にのり、軽快なフットワークで「建築」という領域を拡張し続けている。旧態依然とした業界の体質には染まらずに、また厳格な「建築家」という職能領域やスタイルにもこだわらず、ますます多様化する今日の都市状況の中で水を得た魚の...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.27-31
[中国で内装をつくる 2]
前号からの続きの小さなリノヴェーションの経過報告。この物件の竣工は北京でSARSが本格化するほんの少し前で、そういった意味では最悪のタイミングは外せたと言える。状況がもっとも緊迫した時期でもこの施工隊の人たちは仕事をしていたと後で聞いたが、建材市場も閉まったし、市内では引越しなど大きなモノの移動も制限されたりしたので工...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.35-38
[都市ノ民族誌 2]
昭和四四(一九六九)年の春、坂倉準三が設計した《旧国鉄・新宿駅西口広場》の地下に突如として巨大な「ゲリラ建築」が姿を現わした。それはパリ五月革命の年の終わりに、ボザールの学生たちがパリ郊外を占拠して建てた《人民の家》の出現から数カ月後のことだった。そのやや遅れて東京に出現したそれは都市の郊外ではなく、その中枢部である駅...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.32-35
[現代建築思潮]
オランダ現代建築紀行 今村創平 オランダ人の友達がチューリップ畑を見たいかと聞いた。内心僕はチューリップ畑などまったく見たくなかった。赤、黄、白、紫といったたくさんのチューリップを見るのはうんざり、と思ったなどいくつか理由はある。とにかく、チューリップを見たいとは思わなかった。友達は一緒に行こうと強く誘った。彼がそう...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.39-46
[1990年代以降の建築・都市 8]
奇跡──怪物の出現 おそるべき怪物と遭遇した。 キリンアートアワード二〇〇三の審査において、衝撃的な映像が出現した。今年、一四回目を迎えるアワードは、写真だけでなく、ビデオに記録することができれば、原則的に何でも応募可能である。それゆえ、絵画、彫刻、映像、音楽、演劇、建築、インスタレーションなど、あらゆるタイプの作品が...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.219-229
[都市表象分析 15]
1 聖別と抹消 ロバート・ケーガンの『ネオコンの論理』をはじめとするアメリカ新保守主義では、アメリカ合衆国は「万人の万人に対する闘争」の状態にある世界というホッブズ的な現実を意識し、そこに秩序をもたらす武力という要因を重視するのに対し、ヨーロッパはそうした苛酷なパワーポリティクスを忘れて、カント的な永久平和の楽園に暮ら...
『10+1』 No.33 (建築と情報の新しいかたち コミュニティウェア) | pp.2-11
[グローバリズム 2]
1 福岡 一九九〇(ポストモダン) vs 日本 戦後(モダン) PART1 前回「ペキン 二〇〇三」の冒頭で引用したコールハースのテクストは、「日本に関して」という箇所で分かるように、ペキンに関してではなく日本の都市についてのものだった。コールハースはそれを「カオス」と形容した日本人建築家たちの発言に当初は戸惑い(...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.230-238
[都市とモードのフィールドノート 1]
いつか大学の同僚との会話のなかで、建築とファッションには共通するところが多いのだから、両方とも同じコースで教育すればいい、と利いた風な意見を述べたことがある。すると建築家でもある同僚は居ずまいを正して、いや自分はファッションと思ってものをつくったことはないし、建築とファッションは根本的に違う、ときっぱり応えたのであった...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.30-32
[別種の自然 1]
熊野について語るとき、いつも困難がつきまとう。語っているその傍らから、アニミズムの甘い誘惑に飲み込まれそうになる。しかし断じて、熊野の自然と信仰はアニミズムでは語れない。それは誤解を恐れずに言うなら、かえって唯物論に近い。 熊野三山と言えば、言うまでもなく熊野本宮大社、新宮速玉大社、熊野那智大社の総称であり、山岳信仰を...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.27-28
[1990年代以降の建築・都市 7]
すぐれた作品は時代を超えて、われわれに問いかけるものがある。 二〇〇二年に再制作された磯崎新の《エレクトリック・ラビリンス(電気的迷宮)》もそうした作品と言えるだろう。ドイツのメディア・アート系美術館であるZKMの「イコノクラッシュ」展において、三四年ぶりに幻の《エレクトリック・ラビリンス》は復活した。 よく知られてい...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.198-208
[現代建築思潮]
「批評」は必要なのか? 今村──今度始めようとしている「現代建築思潮研究会」には、「建築を巡る言葉の力を取り戻したい」というモチーフがまずあります。そして、そこにはとりわけわれわれの世代は上の世代と比べて言葉が弱いのではないかという前提があります。したがって、『10+1』誌の他のページとの違いは、この研究会の主体は、周...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.32-42
[グローバリズム 1]
1 前口上:グローバリズム、その私的再発見 我ながら最近の自分の立場なり関心とひどく懸け離れた主題を選んでしまったと思った。というと、過去の私の仕事を知る人々はいぶかしく思うかもしれない。その大部分が西欧の近代に関わるものをめぐっていたのだから。実際、外国人建築家たちの間に知り合いも、数を誇るほどではないが、少なからず...
『10+1』 No.31 (コンパクトシティ・スタディ) | pp.209-216
[都市表象分析 14]
1 都市の雛型 アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートは、二〇世紀末に現われたグローバルな主権形態を〈帝国〉と定義している(『〈帝国〉』)。〈帝国〉は空間的にも時間的にも境界を欠いており、領土上の特定の地域に限定されない、歴史の外部ないし終わりに位置するような体制にほかならない。 このように脱中心的で脱領土的な支配装置こ...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.2-11
[「悪い場所」にて 2]
家を建てるというのはいろいろ起こるものだ。 入手した土地は北西の角地で、見つけた時点ではまだ前の持ち主の古屋が建っていた。土地は公道に面していて、そこからいい感じの路地が奥へと延びている。通れるとしても人かせいぜいが自転車くらいで、それが逆に趣を醸している。もっとも、路地に魅せられて買ったわけではない。残念ながらその路...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.22-23
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 1]
1 事物の歴史 ここで扱いはじめようとしているのは、事物(=thing)とよばれる、複数の知覚を通じて存在を感じることのできる何かと私たち自身のことである。その性格の検討には主に建造物を用いる。それは建造物が事物の総合性を考えるには都合がいいからである。また扱う対象は、古今東西、さまざまな時代においてであり、特に有名な...
『10+1』 No.32 (80年代建築/可能性としてのポストモダン) | pp.12-21
[ブック・レヴュー 1]
二〇〇一年九月一一日に生じた「米国同時多発テロ」に対する二人のヨーロッパの哲学者の応答、それを引き出した編者ボッラドリによる比較的まとまった注釈──全体への導入、この二人の哲学者の思想とのコンテクストにまで十分に注意が払われたインタヴューの解説──からなる本書は、九月一一日の出来事に対する哲学者たちの注釈と分析に終始す...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.44-46
[都市の断層線/切断線 4]
1 都市の座標系 今日の都市・東京に起こっている現実の多くは農村と都市というような対比の図式では理解しがたいものだろう。たしかに都市には古い地層が幾筋も堆積しているが、現在の表層に広がる東京を考えるとき、あるいは現在の東京にアクチュアルな像を与えようとするとき、都市化という概念は有効ではない。「三全総」(一九七七年策定...
[部屋の文化研究 4]
この連載は連想ゲームのようにして続く。主題は最初の回の終わりに書いたように、個々人の空間である「部屋と部屋が助け合わなければならないとき、どんな新しい仕掛けが発明され」るかである。新しい試みがあると聞くと見学にゆき、問答をさせてもらい、その取材のなかから次回のヒントが浮かび上がるというようにして続けるつもりである。京都...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.34-36
[都市の傷痕とRe=publik 8]
二年間にわたった連載も今回で最終回となった。都市がすべての者に対して開かれてあること。そのためには、「非病理的な」建築、われわれをもう一度デラシネとするような建築が必要である。それがこの連載のテーマだった。最終回の今回は、そうした建築を目指した者のひとりとして、バックミンスター・フラー(=BF)を取り上げようと思う。 ...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.31-32
[都市の音楽ノート 4]
人生において確かなものは三つだけ ──税金、死、そしてトラブル "Trouble Man", Marvin Gaye 一九八三年二月、全米バスケット協会(NBA)のオールスター・ゲームでアメリカ国歌を歌う黒人ソウル・シンガーは、華々しくシーンの第一線に復帰したマーヴィン・ゲイであった。この出来事は「モーター・シティ」...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.36-38
[都市観測者の手帖 1]
吉祥寺の井の頭線ガード横の築四〇年というおんぼろビルに、今、インテリア・雑貨店やカフェやブティックが入居し、非常に今的なテイストを発散している。 ここで取り上げるのは、そのうちRoundabout(ラウンダバウト)というインテリア・雑貨店。とは言ってみたものの、この店の業種・業態を何と名付ければいいか、よくわからない。...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.38-39
[現代建築思潮]
10+1──現代建築思潮研究会では、オリンピック招致によって都市改造が一気に巻き起こることを想像の視野に入れながら、この会独自の計画案を組み立てようとしています。前回バルセロナ・オリンピックに至るまでの都市の展開を研究したのも、われわれの計画案につながるソースを探すためでしたが、今回は場所を東京に移していきたいと思いま...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.37-44
[論考]
0 非生産都市=香港 香港という都市は、如何にして成立しているのか。例えば、香港における農業・漁業のGDP(国内総生産)に占める割合はわずか〇・一パーセントにすぎない★一。基本的なことであるが、食料を都市の外に、それもかなりの割合で依存しているのである。これは香港が元来、香港島という島(シマ)であり、中国に返還された今...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.177-186
[Urban Tribal Studies 9]
今回も前回に引き続き、TJ(Text Jockey)という位置=立場について考えるために、最近出版、発表されているクラブやレイヴカルチャーについてのいくつかの著作を批判的に検討しながら議論をすすめたい。今回は特に、TJの位置をパーティに参加しているクラウド(群衆、一般にお客としてのクラバーやレイヴァーを指す俗語になって...
『10+1』 No.21 (トーキョー・リサイクル計画──作る都市から使う都市へ) | pp.187-198
[CONCEPTUAL 日本建築 4]
19 土台 Sill(DODA'I = foot lyer wood): Civilization stage of wooden building 木造建物の「文明」段階 青森の市街南陵に三内丸山遺跡が発掘されたのは一九九四年のことだ。直径一㍍余におよぶ巨大木柱六本の痕跡などもみつかり、C₁₄測定によって縄文...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.220-233
[ポストモダニズムと建築 8]
あるときジェームズ・スターリングは次のように語っている。 建物のカタチは、住む人の使い方や生活様式を表したり、おそらく示したりするべきであると信じる。したがってその外観は豊かで多様で、その表現はシンプルではあり得ない。普通の人々が日々の生活の中で連想を抱いたり、親しみをもっている、そしてアイデンティファイできるような...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.41-43
[デジタル・イメージ論 4]
現在の、ネットワークに接続された人間の存在様式はどのようなものであるか。大塚英志は、GPS付き携帯電話の普及が監視社会を肯定することに帰結することを述べつつ、そのようなメディア環境下における人間の行動様式を、人間の「端末化」であると、的確に表現している★一。ある世代以降の人間が、携帯電話の所持と不即不離になって以来、人...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.35-37
[現代建築思潮]
報告 I─吉村靖孝 吉村──今回の研究会はビョルン・ロンボルグの『環境危機をあおってはいけない』(文藝春秋、二〇〇三)を取り上げたいと思います。以前僕の担当した回ではローレンス・レッシグの『CODE』を読みましたが、それがインターネットと規制の問題を扱った本であることにもまして、「限られたリソースをどうやって分配するか...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.48-56
[政治の空間学 3]
4 都市的帰属と公共性 物理的環境を整えることにより完全なる積極的自由(自律)を人びとに保障しつつ、自由をめぐるディスクールを消極的自由の周辺を旋回するものにとどめ、自由侵害なき支配を貫徹する環境監視型権力。私たちは、新宿駅西口から都庁へと続くあの「通路」では、眠ることはおろか、「眠ることができない」という自由剥奪感を...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.185-193
[技術と歴史 2]
今日は構造家の立場から、主に空間構造の歴史と私が現在考えている構造の方向性について話をしたいと思います。 空間構造にみる構造合理主義の系譜というテーマをもとにして、それがどのように近代から現代に変容していったのか、というようなことをきちっと言うのはなかなか難しい。もう少し緩い感じで空間構造の歴史を通じて、どのように空間...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.208-219
[集中連載 2]
4 人文地理学的空間 前回にル・コルビュジエが「フランスの植民地事業への支持を隠さなかった」というコーエンのことばを引いたが、フランスの地理学も植民地事業と切り離せない形で発展した★一。地域への関心と対外進出は文字通り裏腹の関係にあったのである。パリに地理学会ができたのは古く一八二一年で、これは身分制護持を行なおうとす...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.194-207
[「悪い場所」にて 11]
ICCで一二月二五日まで開催中の展覧会「アート&テクノロジーの過去と未来」を見て、少なからぬ興味を惹かれた。 と、ここでいうのは、日本で「メディア・アート」とよばれる領域について、この展覧会が、従来は見落とされがちであった、ひとつの明確な視点を提供しているからだ。 メディア・アートは、ともすれば、自身の領域の自律性、独...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.9-23
[ピクトリアリズムの現在 2]
一九一七年のポール・ストランドの言葉を見よう。「写真家の問題とは、己のメディアの限界と同時に潜在的クオリティを、明確に見極めることである。というのも、生き生きとした表現のためには、撮影されたヴィジョンの強度に勝るとも劣らず、誠実さというものがまさにそこで前提となるからだ。つまり、写真家の前にキアロスクーロで表現されてい...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.13-15
[『日本の民家』再訪 1]
Walking on a thin line これから約三年にわたって、志を同じくする人々と、日本国内をまわり歩くことにした。すくなくとも現在の日本のさまざまな場所の姿をなるべく網羅的に見ておきたいと思ったからである。そこから何か新しい派生的なことが考えられればと望んでいるのだ。ただ、そのガイドとなる本はあらかじめ決め...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.14-24
[都市表象分析 25]
1 写真という仮説形成の場 写真家森山大道が新宿を彷徨いながら行なう撮影行為は、さながら狩りに似ていた★一。荒野のような、あるいはアジールとしての森に似た都市空間で、写真家は犬に変身する。そこがアジールであるとは、裏を返せば、この森林がヴァン・ジェネッブの言う「中立地帯」であって、誰もが通過し狩りをする権利をもつ原生林...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.2-13
[現代建築思潮]
梅岡+岩元+今浦──今回、「現代思潮研究会」においてオリンピックによる都市改造をテーマに研究がなされることになりました。そのなかで、都市がどのように成長・発展をし、どのように計画されてきたかを概観する必要性を感じたことから、オリンピックと関連するひとつの都市を取り上げ、研究することになりました。 そこで、今回はバルセロ...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.64-72
[ピクトリアリズムの現在 4]
ある程度まで既視感の範囲に収まるのに残りの部分が頑強に抵抗する、そういう論じ難くさをもつ写真がある。例えば、一部の作家たちによく見られるフラットで構成主義的な作品のように、「オールオーヴァーでフラットな抽象画に見えてじつは現実の無人風景」「都市の雑多な現実の様相が同時に美しいグラフィックパターンを描く」という類のディス...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.53-54
[新たなコミュニケーションの座標軸 4]
コミュニケーションとはなにか。 「新たなコミュニケーションの座標軸」を模索するにあたって、この問いにはあえて触れずに連載を続けてきた。ここで、「コミュニケーション(communication)」を、「(熱などの)伝導」以上のなにものかを含む情報の伝達/交換を指し示す概念だと考えてみよう。そのとき、コミュニケーションとは...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.57-58
[Architecture的/Archive的 4]
孤児はみな、未踏査領域のマップ化に送り出される探検家だった。 そして孤児はみな、本人自体が未踏査領域でもあった。 グレッグ・イーガン『ディアスポラ』 MMO現実感という仮定的概念から出発して、実空間のオープン化について詳説してきたこの小論も、今回でひとつの区切りを迎えなければならない。いままでサイバースペースを介し...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.55-56
[都市表象分析 12]
一、「アメリカのイコン」 二〇〇一年九月の同時多発テロによって崩壊したニューヨーク世界貿易センター(WTC)跡地では、二〇二年五月三〇日に犠牲者の遺体捜索と瓦礫撤去の作業打ち切りが宣言され、その終了式典がおこなわれた。これによってこの土地は、再開発へと向けて動き出すことになった。 WTC跡地利用計画の実施主体となって...
『10+1』 No.30 (都市プロジェクト・スタディ) | pp.2-12
[CONCEPTUAL 日本建築 7]
37 犬走り──屋内外を媒介することの実相 INU-BASHIRI (Eaves’ dropper’s lane): To be interflowed between in-side & out-side 縁側は、近世までは動線としても便利に使われたが、主として屋内と屋外とを媒介する役割を負うものだと説いてきた。し...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.186-200
[1990年代以降の建築・都市 17]
巨大なスケールと精巧なディテール 谷口吉生は特異な日本人建築家である。経歴を調べると、以下の二点が指摘できる。 第一に、ほとんど住宅作品がない。通常、日本の建築家は、自邸や狭小住宅を手がけてから、公共施設にステップアップしていく。だが、谷口は、アメリカで建築教育を受けた後、丹下事務所において海外の都市的な規模の仕事を担...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.20-21
[Architecture的/Archive的 2]
第一回では建築概念と記憶概念が情報社会の自己組織性や公共性とどのような対応関係にあるか、オンライン・ゲームという概念を召還しながらマッピングを行なうに留まった。今回は具体的な情報空間的建築物の事例を引きながら、そのマップ上の各要素が接続しあうことによって立ち現われるコミュニケーション様式の実体を露出させていこう。 情...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.15-17
[現代建築思潮]
議論の新しいスタイル? 10+1──「現代建築思潮研究会」はこれから三年目に入りますが、月例で研究会を行なってきたこの二年間を振り返ってどんなことを考えますか。 今村──この会の立ち上げに当たって、僕は「建築を巡る言葉の力を取り戻したい」というモチーフを持っていましたし、日埜さんは「批評の体力みたいなものを鍛えていきた...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.24-28
[連載 4]
11 建築か革命か 「建築か革命か」、いうまでもなく、『建築をめざして』の最後の文章である。この真ん中の「か」は、フランス語の「ou」つまり英語の「or」であり、そこだけだと「すなわち」という意味にもなりえる。「建築すなわち革命」、ロシア・アヴァンギャルドの文章であったら、そう訳さねばならないが、ル・コルビュジエはそれ...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.159-176
[CONCEPTUAL 日本建築 6]
31 入母屋屋根 IRIMOYA (semi-gabled) ROOF 屋根型の意味作用 日本建築は屋根の建築だとしばしばいわれる。その屋根の代表は入母屋だとも思われてきた。それでは、入母屋は日本に固有の屋根なのだろうか──。 ちがう。仏教とともに朝鮮からもたらされた。その朝鮮には、おそらく仏教以前に中国からもたら...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.188-201
[技術と歴史 3]
一九世紀的建築観の転倒 今日は「技術と装飾」がテーマですが、私にとっての装飾と技術との問題は、近代の問題と関わっています。装飾は近代とは二律背反のものであり、さらに装飾と技術も二律背反である、あるいは二項対立であるという考え方があります。それをもう少し考え直してみたい。それはある意味では近代批判、近代の再検討ということ...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.177-187
[視覚の身体文化学 4]
1 昨今の安全キャンペーンでは、ドライバーに絶えず用心を怠らないようにと強調して、その不安な気持ちにつけこもうとするあまり、ドライバーが適切な習慣を身につけることができない場合がある。こうしたキャンペーン(「And Sudden Death」など)はドライバーの普段の動作を向上させるよりも、臆病な態度を生みだす効果のほ...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.33-35
[映画とニューメディアの文法 4]
ニューメディア時代においては、記憶メディア容量の飛躍的な増大にともなって、データベース型の映像作品の製作が容易になった。しかし、前回までに見てきたように、単に「静態的かつ客観的」なデータベースではなく、「データベース」という概念そのものへの批判を含み込んでいるような「動態的かつ主観的」なデータベースを指向しない限り、そ...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.31-33
[Urban Tribal Studies 4]
UTS(Urban Tribal Studies)の構想について、ベンヤミン・ペラソヴィッチとわたしが一緒に準備してきたメモやノート、あるいは各地で交わされた討論のなかでは、すでにたくさんの語や概念があみだされている。例えば、Translocal, Trancecritic, Trancelation, Trance(...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.237-246
[ラディカリズム以降の建築1960s-1990s 4]
二人のチャールズ 一九七二年七月一五日午後三時三二分、アメリカのセントルイスでモダニズム建築は死亡した。 チャールズ・ジェンクスの著書『ポスト・モダニズムの建築言語』(一九七七)は、このように第一部の冒頭でミノル・ヤマサキが設計したプルーイット・アイゴー団地が爆破された事件を劇的に紹介する★一[図1]。この団地は犯罪率...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.226-236
[都市環境の文化政治学 2]
1 時間の封入 もう少し「場所」にこだわってみよう。ただし今度は、場所という空間的概念のなかに文脈や履歴、記憶や言い伝えなどという時間的暈囲を封入し、そこからでてくる新たな場所感覚に刮目してみたいと思う。 まずは、いくぶん特殊な例を挙げる。その名も『場所の感覚』という★一、今の主題に関係が深い論集を編纂した文化人類学者...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.19-21
[ポスト・ストラクチャリズムの建築 2]
ポスト構造主義の建築とは、建築言語における時間の空間化に向かうレトリカルな実践である……前回このように記したが、賢明なる読者は気づいている(何人かは、何をバカ言っているのだ、と罵倒したであろう)ように、ポスト構造主義が叫ばれて久しいにもかかわらず、「建築において何らかの時間性が問題になったところで、結局のところ……」と...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.21-23
[連載 5]
知の宮殿「ムンダネウム」14 14-4 クライアントと建築家:奇妙なチャートあるいは機能主義 ムンダネウム─世界都市のプロジェクトの敷地は、国際連盟本部の敷地にほぼ隣接している。もともとオトレの構想は国際連盟のそれと連動していたし、彼はその方面にも有力な関わりがあったから、敷地の選択がこうであったのは偶然ではない★一...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.158-174
[音楽批評の解体文法 2]
例えば、日名子暁『パクリの戦後史』(ワニのNEW新書、一九九九)という書名に惹かれ読んでみるならば、こんにちのわれわれは肩すかしをくらった感を拭いきれないだろう。「暗躍する裏経済師たち」と副題が付された本書は、M資金詐欺やネズミ講など戦後の経済犯罪の数々を通史的に描いたものである。「パクリ」とはそもそも、法に抵触するす...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.24-26
[建築の解體新書 3]
詞の通路(かよひみち)と、建築の通路……岡崎乾二郎1 たとえば時枝誠記は、詞と辞に対立させて国語(日本語)を考えることの先駆を、鎌倉時代に書かれた『手爾葉大概抄』に見出しています。時枝による引用箇所を再び引くと、そこには、次のように書かれています (『対人関係を構成する助詞助動詞』より) 和歌の手爾波もの、(…中略…...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.206-225
[新・都市の下層民 3]
0 ある日、突然の電話。電話の主の彼女は、数年前に二、三度会ったことしかない、特に親しくもない知り合いの一人であった──「Oさん、どこに居るの?病院の地下室にいると思っていたのに」。彼女は、北海道のとある精神病院の閉鎖病棟から電話を掛けているらしい。実際のところ、本当かどうか分らない。確実なことは、彼女は、何らかの方法...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.38-40
[非都市の存在論 12]
1 スフィンクスの都市論 「都市の紋章」と題されたカフカの短篇がある。その物語はこの作家の読者にとってお馴染みの主題であるバベルの塔の建立をめぐって書き起こされている。そこではまるで何世紀かかってもかまわない工事であるかのように、道案内や通訳、労働者の住宅、道路網の配慮がなされる一方で、塔そのものについては定礎式すらで...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.10-19
[現代建築思潮]
オリンピックによる都市改造──インフラ再整備・リノベーション | 今井公太郎 なぜわれわれはオリンピックをテーマにするのか 東京都は二〇一六年のオリンピックを招致することを決めました。もし、東京に決まれば東京大改造が行なわれることになるかもしれません。 かつて一九六四年の東京オリンピックのときには、環七、青山通り、六...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.26-32
[映像のトポス 4]
1〈機械の言説〉──英雄的個人主義 機械は、諸言説の外部にあってそれを産出する〈現実的な〉力の源泉ないし集合であると同時に、それ自体が言説の主要な構成契機として機能する。とりわけ二〇年代にあって顕著な現象は、都市=機械という局域的な複合体が社会=機械へと全域化するという過程において、表象としての「人間」と「機械」との関...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.20-29
[映像/写真 3]
スタッテン島行きのフェリーの船上で、暮れかかるマンハッタンのスカイラインを背景に、甘いテナーで男が恋人に歌う。「今夜は星は出てるかな?/曇りか晴れかわからない/瞳に映るのはきみだけだから(……)」。山下達郎もア・カペラで歌ったこの楽曲はハル・ウォーレンとアル・デュービンのコンビの作による「瞳は君ゆえに(I Only H...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.30-32
[建物]
東京タワーはいつも唐突に顔をみせ、またいつのまにか消える。それは粗悪なフォト・モンタージュさながら継ぎ目も未処理のまま強引に近景と接ぎ合わされ、その肌合いの隔たりこそがしばしば都市を行き交う人々の目線を奪うが、しかしあるときは気付かれることすらなく、ふたたび忘却の彼方へと去る。まるでそこにははじめからなにもなかったとで...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.34-36
[都市の傷痕とRe=publik 3]
学会報告で、六年ぶりに東京へ。平日の朝八時。甲州街道の歩道を人波に包まれながら、新宿駅に向かって運ばれる。ルミネの角の広い横断歩道。風に吹かれて舞う、砂漠の砂の粒子になる。この感覚は、京都ではなかなか経験できない。祇園祭の時の人混みは、これとは別の種類のものである。名古屋でなら、一も二もなく、車というシェルターでもって...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.32-33
[Cinemascape 2]
拙作『エコーズ echoes』の撮影前、私の英語力の問題から、演出上のコミュニケーションを助ける方策が何かないものだろうか、と考えた。プロダクション前のリハーサル時、俳優たちには、私の言語能力の限界を補い助けるよう求め、彼ら自身の言葉で台詞を言い換えることを注文した。この方法論により、台詞を厳密な意味で脚本通りに再現す...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.29-31
[写真のシアトリカリティ 2]
1 水戸芸術館で先頃開催された「川俣正──デイリーニュース」は、出色の展観だった。一五〇トンの新聞紙(水戸市で一週間に消費される相当量という)を展示室に持ち込むというプランは、ホワイト・キュービック空間に対する直示的な異化と、日常一般に対する隠喩的な異化とを充分に果たしていた。この二重の衝撃的な異化は、川俣の造形的なメ...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.31-34
[Urban Tribal Studies 14]
ここにはドイツ青年運動の奇妙な、独特の体質がある。青春を、やがて成熟へと吸収される人生の一段階と見ることを断固として拒否し、青春に固有の文化的、認識論的権利を、その制度的保証とともに彼らは要求した。今のことばで言えば、独自のヤング・カルチャーがもつ変革のパワーに固執した。他方で、そうしたパワーの根拠を、青春の生命と宇宙...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.176-186
[東アジア建築世界の二〇〇年]
四─一 異域の建築的統合 「開化」のかたち 西郷隆盛と勝海舟との協議により、江戸城無血開城が行なわれたのは、慶応四(一八六八)年四月一一日のことであった。最後の将軍徳川慶喜はその前年一〇月一四日に大政奉還を行ない、二四日には将軍職を辞した。翌年二月一二日には江戸城を出て、上野の寛永寺で謹慎している。そして、慶応四年の...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.162-175
[都市表象分析 3]
1 ナポリ──壊れたもの 一九二〇年代、ナポリ、ポジターノといった南イタリアの町やカプリ島にはドイツの知識人たちが経済的な困窮を逃れて移り住んだ。一九二三年一〇月にレンテンマルクが導入され、経済に安定が回復されたドイツにあっては、むしろ、それ以後にこそ、こうした「知的放浪プロレタリアート」★一の移住が強いられた。そんな...
[都市表象分析 21]
1 闇の官能化 女優杉村春子を偲んだ文章のなかで、映画監督ダニエル・シュミットは、「映画館とは姿を消すひとつの技法である」と語っている。 「暗闇のなかにまぎれ込んでしまえば、目に見えなくなる。独りで映画館に行き、その映画をわがものにする──見終わったあと、それについて話す必要さえなければ。この神秘は決して長くは続かない...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.2-11
[「悪い場所」にて 9]
以前、この連載でも少しふれた家も建ち、すでに一年半が経過した。 実際にはどうであったか。 いくつかの点で細部にツメのあまさが残るものの、基本的には気に入っている。特に、荒削りだが圧倒的な解放感のある空間は、文句なしにすばらしい。ただ、住みやすく細部を調整するまでには、ゆうに半年は掛かった。通常の引っ越しでも、新しい環境...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.25-27
[セヴェラルネス:事物連鎖と人間 7]
「真」であるということが、我々がおこなう記述とそれによって記述されるものとの間の厳密な一致を意味する、あるいは我々の抽象と演繹の全ネットワークと、外界に関する全理解との厳密な一致を意味するとしよう。そのような意味における真実を、われわれはけっして手にすることができない。 グレゴリー・ベイトソン「誰もが学校で習うこと」...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.12-24
[密集市街地論 2]
先回、日本の木造密集市街地について問題を投げかけた。何よりもわが国の都市計画の盲点であり、この二〇年ほどの間に繰り返し議論され、さまざまな施策が試みられてきたが、いまなお問題解決の糸口が見えてこないところである。行政や住民協議会が手を変え品を変え何かを動かそうとしても、なぜか動きが芽生えてこないということで、無力感が覆...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.154-161
[1990年代以降の建築・都市 3]
フラット派批判 昨年末、飯島洋一が「反フラット論──『崩壊』の後で 2」という文章を発表した★一。この論は世界貿易センタービルの破壊に触れて、スーパーフラットの世界には外部がないことや、一部の若手の建築家を「フラット派」と呼び、彼らが内向的であることを批判した。ゆえに、スーパーフラット批判の建築論と言えるだろう。このよ...
『10+1』 No.27 (建築的/アート的) | pp.142-153
[『日本の民家』再訪 2]
前号から「再訪『日本の民家』」の連載が始まった。この連載の基本にして最終の目標は、今和次郎が一九二二年に刊行した『日本の民家』という本を片手に、そこに紹介された民家の現在をすべて見て歩き、記録し、可能な限り紹介し、それによってこの一世紀近くの日本の変容を検討することである。それを建築レヴェルではなく、それが生えている大...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.13-20
[都市表象分析 26]
1コンゲンカードの寓意 中谷礼仁を中心とする都市連鎖研究体は、古今東西の都市の上空写真、町並みの写真、集住形態、そして建築家による都市・建築作品などのサンプリングにより、都市的建造物と人間との間に発生する根源的な関係性を示す六つのダイアグラムを発見している。それらは六枚の「コンゲンカード」で表わされた★一。そこで基本的...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.2-12
[1990年代以降の建築・都市 20]
神殿ではないということ 東京から二時間半ほどのドライブで、過疎化が進む地方の小さな街につく。妹島和世は、世界的に活躍する日本の女性建築家だが、東京にはまだ主要な大型の作品がなく、こうした地方にいくつかの公共施設を手がけている。とくに鬼石町のような山岳部は、空爆を経験せず、また戦後の高度経済成長の影響もあまり受けなかった...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.21-22
[ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ 1]
「ソーシャルウェアのイノヴェーション・スタディ」と題した本稿が企図しているのは、ローレンス・レッシグが「アーキテクチャ(Architecture)」と呼び(Lessig[1999=2001])、東浩紀がこれをフーコーの権力論と対比することで導き出した「環境管理型権力」の概念(東[二〇〇二─二〇〇三])を継承しつつ、それ...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.23-24
[「悪い場所」にて 14]
不気味な嵐の前の静けさのような心境だ。思えばここ五年ほどで、いろいろなことが変わってしまった気がする。説明責任、安全基準の徹底、個人情報保護、消防法の厳守、著作権の遵守。タバコが吸えなくなった。デモをすれば逮捕される。セクハラ、幼児虐待、PTSDを疑われる。路上駐車ができない……。一つひとつを取ればことさら反論するよう...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.33-34
[マゾヒスト映画宣言 1]
一九八〇年代初頭。秋のある日、横浜・山下公園。遠くから船の汽笛が聞こえてくる。夕方の太陽のもと、「ホームレス」のクリシェそのままの身なりをした痩せた老人男性が、たくさんの子どもたちの前で愉快なタップダンスを披露している。子どもたちはとても楽しそうだ。「はい、おしまい。じゃあまたな」。老人が子どもたちの頭を優しくなでなが...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.27-27
[1990年代以降の建築・都市 5]
重層的な決定のシステム 一九九九年、坂本一成の設計による《HOUSE SA》が竣工した[図1]。ギャラリー・間の坂本一成展「住宅──日常の詩学」が、名古屋の愛知淑徳大に巡回するにあたって、筆者は講演会の聞き手となり、その住宅を見学する機会に恵まれた。言うまでもなく、住宅は美術館や図書館などの公共施設とは違い、なかなか内...
『10+1』 No.29 (新・東京の地誌学 都市を発見するために) | pp.194-204
[論考]
ふと見ると、折り重なるように建った小さな構造物が、現代中国の都市風景、つまり中国政府が「現代の田園都市」と命名した高層ビルが散逸する街並みを、無作法に遮っていた。データ圧縮されたように極端に密集した七層の小さな塔状の構造物群だけがこの変則的なファブリックを構成していて、矛盾をはらんだ言い方をすれば、超人間的な周囲の都市...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.198-216
[翻訳]
序アメリカのカンパニ─・タウン アメリカのカンパニ─・タウンは当初から労働者と資本家の間の闘いの場だった。初期の町がまず何よりも〈工業化された風景〉であり、その構造と形態はテクノロジ─上の必要性と労働力の利用度に従っていたのに対して、一九世紀末までには、労働力の管理こそが率先して考慮すべき事柄になった。ストライキの数...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.110-118
[批評]
アメリカ人は私によくこう尋ねる。なぜキューバ人は、亡命している者も国内にいる者も、キューバのことだとすぐに感情的になってしまい、議論はそんなに分裂してしまうのか、そしてなぜ私たちの感情は三三年もたっているのに当時のままなのか、と。私はそれにはこう答えることにしている。「私たちはいつも、もっとも愛している人々を相手に戦っ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.111-127
[批評]
ぼくの三冊めの自伝の第一章では、語り手──つまりぼく自身──が自伝についての世界最高の権威諸氏をまえに、これからスピーチをはじめようとしている。 それ以前の二つの自伝は偶然の産物だったが、いずれもはじまりに置かれているのは、人の生涯を判定する専門家のまえに立つという事態だった。最初の自伝は『心ならずの天才の生涯とその時...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.102-110
[批評]
もしぼくが優秀な学生だったら、 もっとたくさん学んで、結局、愚か者になっていたはずさ。 西インド諸島のカリプソ きみら教養のあるニグロは、迷子の衆だ。きみらはきみら自身の民の根っこの中にしか、きみら自身を見いだすことはできない。帝国的征服をダシに安定した生活を送っている高慢な教養ある白人青年たちを自分のモデルにするこ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.128-134
[翻訳]
主流へと参入するエスニック・ビジネス 新宿区歌舞伎町二丁目と大久保一丁目の境界に位置する職安通りには、一九八○年代後半から姿を現わし、ハングル文字の看板が掲げられたコリアンタウンが広がっている。そこにはレストランや小さな工場があり、食料品店では韓国の食材だけでなく種類豊富な韓国語の新聞や雑誌も販売している。それは戦前...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.119-133
[翻訳]
序──隠喩としての「OJシンプソン裁判」 「アメリカでマイノリティであるということは、いつも試されているということだ」 ──ラジオ番粗「LAどっちへ(Which Way LA)」の出演者 「OJシンプソン裁判」は、ほとんどのマイノリティや女性がすでに知っていること──現実の知覚のしかたは多様であること──を、衆目に...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.134-149
[批評]
一一月二一日(木)からオーストラリアへ行ってきます。そこで感じたこと考えたことを、随時このページへと書き加えていく予定です。Narita 〜 Sydney 〜 Kempsey 〜 Alice Springs 〜 Katherine 〜 Darwin これから訪れるオーストラリアには、アボリジニと呼ばれる先住民がいます。...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.135-146
[論考]
世界軸1──一八七五年 宗教的人間にとって 空間は均質ではない。 ──M・エリア─デ★一 その日、あらかじめ屋敷は入念に掃除されていたのだが、教祖(おやさま)がまず先に庭の中を歩いたところ、ある一点において足がぴたりと地面にくっついて動かなくなる。教祖がその地点にしるしを付け、続いて、信者たちは目隠しをしながら歩...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.90-109
[批評]
一九六九年二月二四日 親愛なるトムへ、 まえにきみは、ぼくが話していた遊牧民の本について手紙をくれるように言っていたね。ぼくは遊牧民の立場から考えなければならないと言ったが、『ある遊牧民の歴史』などという本を書きたいとは思わない。そうした仕事は、ぼくには荷が重すぎる。いずれにしても、研究者よりは普通のひとたちに読んで...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.94-101
[論考]
今日の都市におけるダブルバインド的な状況は、たとえば以下のような仮説的なモデルでおさえることができる。 グロ─バリゼ─ションとトライバリゼ─ション 同質化と雑 種(ハイブリツド)化 全体化とディアスポラ ナショナリズムの復活とエグザイル化 ジェントリフィケ─ションと窮乏化 情報化と非情報化 それぞれの項目は緊密に...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.33-51
[批評]
一九七六年夏、ノッティングヒル・カーニバル。その翌日の新聞は、この年のカーニバルを「この夏一番暑い日」と報じた──。 八月の最終週のバンク・ホリデイを含む二日間、ロンドン市内の北西部のノッティングヒル・エリアではヨーロッパ最大のカリビアンのカーニバルが開催される。ハイドパークの半分にも満たない面積のこの地域に最近では二...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.141-153
[批評]
プロローグ──ある空中散歩 一八五八年の冬、ナダールは飛んだ。操縦士のゴダールと気球に乗って。雨まじりの空を八〇メートルほど上昇し、すぐに降下したのだったが。これがただの飛行であれば、気球は一八世紀から実験されていたのだし、すでにブランシャールがドーバー海峡を横断していたのだから、さして特筆すべきことはない。だが、ここ...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.154-167
[スタディ]
リチャード・バックミンスター・フラー(1895-1983)は、20世紀最大のテクノロジストであり哲学者である。彼は近代建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)やミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)より少し若いが、彼らとほとんど同時代を生き抜いた。アメリカで生まれ育ったフラーは、ヨーロッパ生まれのモ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.155-166
[鼎談]
今福龍太上野俊哉多木浩二今福──本号の特集テーマの一つに「トラヴェローグ(旅行記)」という言葉があがっているわけですが、もちろんこれは、たんに紀行的なテクストという意味ではないことは当然です。現代のトラヴェローグが不可避に映しだす「旅」という文化モードの変容を受けとめながら、その彼方に見え隠れする新しい世界像を思想的に...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.80-93
[写真・文]
1 水の記憶 七○年代に始まり八○年代の泡沫的ブ─ムのなかで脚光を浴びたウォ─タ─フロント開発は、今から振り返るとやはり都市の論理で動いていたように見える。港湾は巨大な空き地であり、山を切り崩すのと同じ論理で、水辺が使われる。その多くは一般的な不動産投機と同じ性質のものであり、ウォ─タ─とは看板ばかりでそこに海...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.57-72
[批評]
われわれは激変を予見したか? 読者に対しここで提供される四つの短い断章のうち、三つはアーバン・スタディーズの論文に、ひとつは(そのような分野があるのならばだが)政治記号学の論文に分類されるであろう。それらはあわさって、外部の出来事へと神秘的な糸によりつながれた、ひとつの概念的な全体を形成している。その糸をわたしの指でで...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.161-177
[翻訳]
青と白のへこんだ船尾に中華人民共和国の赤い国旗をはためかせながら、珠海ジェット・フォイルは一五分おくれで九龍のチャイナフェリドラゴン・シティーズターミナルを出発する。「サンダーバード」風の外見は、フェリーをスプートニク時代の汚い遺物のように見せているが、世界で一番新しいメトロポリス──のたうつ怪物のような都市、まだ爆発...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.150-159
[論考]
0 さしあたっては当然のことを言うなら、建築は目に見える秩序を扱う。特定の地点に特定の存在モードとしてつくられる建築は「見える」からだ。しかし、設計とはそれにつながっていく過程ではあっても、必ずしもこの最終アウトプットと同一のものではない。「ノーテーション」という本特集のテーマは、前号に取り上げた「サバーバン・ステーシ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.16-28
[都市論の系譜学 4]
批判の群島 ギィ・ドゥボ─ルは一九六七年にロサンゼルスの黒人暴動について「スペクタクル=商品経済の衰退と失墜」と題するひとつのテクストを書いている(『アンテルナショナル・シチュアシオニスト』第一〇号)。彼はそこで黒人暴動を消費や商品の世界に対する対抗手段としてのポトラッチとして位置づけている。アバンダンス(豊かさ)の...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.244-256
[論考]
I はじめてアスガー・ヨルンの《コペンハーゲンの終わり》[図1・2]を見たときのことは忘れない。『スペクタクルの社会』の著者であるギィ・ドゥボールとの協働で作られたその作品はポップ・アートの出現に先立つことおよそ五年、様々な商品や広告、タイポグラフィとアクション・ペインティングばりのドロッピングで構成されたものである...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.54-66
[論考]
放浪生活を、また、ボヘミアニスムとも呼ぶべきものを讃えること。 ──ボードレール、『赤裸の心』☆一 最近出版されたリガとウラジオストックへの旅の記録において、ジョン・ヘイダックはまたもや、あの建築動物の部族を呼び覚ましてみせた──しかもその形態は大きく変化し、高度に進化している。この部族、すなわちこの十年を通じて少し...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.67-73
[論考]
創造活動に携わるいかなる者にもまして、建築家は、未来を予測するよう心せねばならない。たとえ一軒なりと責任を持って家を建てるからには、建築家は差し迫った未来に起こりうる技術的な変化のみならず、生活様式★一に係わる変化を考慮するべきなのだ。まして大規模な住宅計画、さらには一個の街の全部分に係わるプロジェクトに際しては、いっ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.107-125
[論考]
これから語ろうとすることについて、私は何ひとつ知ってはいない──それが存在していないということを除いては。新たなる美学の素描だの要求だの予告だのといった事柄は、一般に芸術家の実践において、自らの作品のオリジナリティを主張するマニフェストにおいてなされることである。もしくは、根本的に新しいものの覚醒や創発を自ら目の当りに...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.74-84
[フィールドワーク]
不可視の領域である皇居と、それを円環状に取り巻く都市域によって、長らく「空虚の中心」(ロラン・バルト)としてイメージされてきた東京の都心。この特異な領域をめぐって、ヨーロッパの国際建築展において与えられた“urban voids”なる概念をスプリングボードとしつつ、ここで都市イメージの更新を試みる。すなわち、広大で不可...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.181-192
[翻訳]
1 戦争というものは今後リアル・タイムのヴィデオ・ゲ─ムになるだろう、というCNNによる喜ばしき通告は、虚偽であることが判明した。カウントダウンもない高精度爆撃シ─ンには、緊迫したものがない。旧ユ─ゴスラヴィアにおける戦争は、食後酒なしに供された大皿料理であり、次から次へと悪化する一連のミニ・アイテムなのだ。クライマ...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.190-201
[批評]
I Old pirates yes they rob sold I to the merchant ships Minutes after they took I from the Bottom less pit Redemption Song ──Bob Marley ボブ・マ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.210-223
[批評]
前史 グレートブリテン島 1300 エドワード一世の王室納戸部会計報告書のなかに、イギリスにおけるはじめてのクリケットにかんする言及が「クリーグ(Creag)」として現われるのが一三◯◯年のことである。行なわれた場所はケントのニューウェンデン。その後約二◯◯年間の史料では、この遊戯=運動にたいしてクリーグ、クロッサー、...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.200-209
[千年王国論(五)]
中心vsペリフェリー 千年王国は歴史的時間の喪失感の上に成り立っている。つまり、停滞感とパースペクティヴの無化の上に。しかし、この喪失は如何にも唐突に行なわれたのであり、決してゆっくりとしたソフト・ランディングが行なわれたのではない。コジェーブは歴史の終わりのパラダイムをまず五〇年代のアメリカに見、ついで日本に見たわけ...
『10+1』 No.08 (トラヴェローグ、トライブ、トランスレーション──渚にて ) | pp.224-231
[千年王国論(四)]
毎週月曜日に新しいことを考え出す必要はない。 ミース・ファン・デル・ローエ ハリウッドの映画セットと同様、この都市のアイデンティティは、毎週明け、新しく作り直される。 レム・コールハース 前回でも書いたように、メトロポリスは単に大きな都市というにはとどまらない。それは全体像を拒否するという点において都市という古典的な括...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.168-175
[翻訳]
地図は、人間世界の事物、概念、状態、過程、出来事などを空間的に了解するさい助けとなる表象である。表象に用いられる技術はグラフィック・アートや空間モデルから詩、歌、舞踏にまでいたる。地図は地球物理学的現実を再現するばかりではない。それはまた、聖なる空間の形、空想や神話など心の目が探る世界も伝えるのである。 *以上は、J・...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.177-189
[千年王国論(三)]
千年王国と公共領域 「ポストヒストリー」、即ち歴史に停止命令が出されたことによって、あるいはそう装うことによって千年王国が現出した。ポストモダン建築は多く復古的なという意味での歴史主義の意匠をまとっていたが、それは本当のところ歴史主義と言うべきではない。その逆に、歴史主義とは過去だけを問題にするのではなく、それを通して...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.169-175
[論考]
1「千年王国」の現在 電子レンジ、ディスポ─ザ─、ふかふかとしてとても心地よいじゅうたん。ふんわりとしていて、温泉に浸っているような、こうした文明形態は、否応なしに世界の終末を想い起こさせる。ここでは、あらゆる活動が世界の終末という印象を秘めているのだ。 ──ジャン・ボ─ドリヤ─ル★一 フレドリック・ジェイムソンが...
『10+1』 No.04 (ダブルバインド・シティ──コミュニティを超えて ) | pp.21-32
[批評]
痙攣を司る僧侶の死 現時代は、長引く没楽、おそらくは終了不能な没楽の時代である。われわれは禁欲的な僧侶と目を見張らせる驚嘆すべき者とを(決して終わらぬかもしれぬ)終わりに見出すだろうと言ったニーチェの予言は的中したが、後者に限っては、結局緊張下で悪性へと転じてファシストになってしまった。禁欲的な僧侶は、しかし決して変わ...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.109-124
[批評]
建築は社会的な芸術の最たるものであり、社会の変化に対応しなければならない。ある社会の文化と洗練の度合いは、しばしばその社会の器である建物によって判断される。情報革命の今日でもそれは変わらない。サイバースペースは、メディアの想像力を虜にし、コンピュータはテクノロジーの進展と経済の成長とともにハイパー化に対応してきた。しか...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.70-75
[座談会]
思考を可視化するサイバースペース 浜田——サイバースペースという言葉が、新聞・雑誌などで頻繁に使われるようになっています。サイバースペース、コンピュータ・ネットワーク上で成立する空間に対する関心は、われわれが生きている三次元の空間と同視できるような機能を果たすのではないかという期待可能性から生まれています。もちろん、抜...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.54-69
[批評]
0エイドスとイデア 「なぜなら、エイドスとは日常の言語では、私たちの感覚的な目に見える物が、提供する容相を意味しているからである。にもかかわらずプラトンは強いてこの語に、感覚的な目には全く且つ決して把えることのできない、そのものを命名するというごとき、全然非日常的なものを、需めているのである。ところがその程度で、その非...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.76-89
[批評]
私たちは誤ってサイバースペースに落ちた。ロンドンのアーキテクチュラル・アソシエーション・ギャラリーで自著『進化論的建築(An Evolutionary Architecture)』についての展示を準備している最中に。私たちはこの展示と本★一によってアーツ・カウンシルの助成金を与えられていたが、あとになって、これを授与さ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.90-99
[批評]
私たちはまず自分の個人的目的のためにサイバースペースをつくりだし、それから他の人びとを招きいれて、その空間を共有する。サイバースペースの本質をどう理解するかについては見解の分かれるところであるし、私のアプローチが特別にすぐれていると主張する気もない。私自身はある目的のための手段としてサイバースペースを利用しだしたが、そ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.100-103
[論考]
郊外住宅の周辺から 芹沢──僕は現在茨城県の牛久に住んでいますが、今度別のところに住もうと思っているんです。三人の子供のうち二人が家を出たものですから、なるべく自分の生まれた所に近づきたいと漠然と考えて家探しをしています。でもこれがうまくいかないんですね。 引っ越しを考えている理由としては子供が家を出たからという他に、...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.40-55
[批評]
サイバーアーキテクチャーはあるか サイバーアーキテクチャーという語はまだない。このところ、新聞、雑誌で目にする機会の増えたサイバースペースという言葉にしても、説明してみろと言われたら、はっきりと答えるのはむずかしい。だが、この先何年かの技術と社会の関係を考えたとき、コンピュータ・ネットワークが、どこかの新しい扉となって...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.44-53
[座談会]
多木──今日は「ニュー・ジオグラフィ」ないしは「ヌーヴェル・ジオグラフィ」──いずれ「新しい地理学」と呼ばれているものも、やがて「ニュー」や「ヌーヴェル」という部分が消えてたんに「地理学」として成立するとは思いますが──が探究しうる可能性とは何か、あるいは「新しい地理学」と呼ばれているもののエピステモロジカルな根底につ...
『10+1』 No.11 (新しい地理学) | pp.64-84
[論考]
内沼幸雄鑑定人による宮崎勤の精神鑑定書のなかに次のような一節がある。 祖母は一緒に食事をすることはなかった。被告人が小学生の頃までは、朝食、夕食は被告人と妹たちで一緒に食べていた。しかし、克巳と祖母は朝がおそいので、利枝子は食事の用意と世話をするのみで子供たちとは一緒に食べず、克巳や祖母が起きるのを待って食事をした。...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.154-161
[論考]
TOKYO STYLE 本誌No.5にも登場されたことのある編集者の都築響一氏の写真集「TOKYO STYLE」は、一九九三年に刊行されたものであるが、現在も版を重ね、書店でもいまだに平積みとなっている。本書をご存じない方のために簡単に説明すると、東京で暮らす人々の部屋の内部を撮影したものであり、CDで埋め尽くされた部...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.144-153
[論考]
だからともかくも、私にとってそう見えるのかもしれないが、ミースを通して、ミースの多くを拒絶することを通して、しかしそれでもミースを通して、《イームズ自邸》は生まれた。それはまったくオリジナルで、まったくアメリカ的だ。 ピーター・スミッソン★一 出版された最も古いその住宅の写真には、トラックが一台写っている。トラックは...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.166-181
[論考]
アメリカ議会図書館は、アメリカ建国以来の自国の文化を築き上げてきた証としての広範な資料の収蔵・研究を行なっているが、本展覧会は同館が所蔵するイームズ資料を中心にヴィトラ・デザイン・ミュージアムの家具コレクションほかを加え、イームズの仕事をアメリカの二〇世紀をドライブした重要なファクターとして、広く国民に紹介しようとする...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.182-183
[論考]
ゲートで閉ざされるアメリカン・マインド アメリカにおいてハウジングや教育、公共交通機関や宿泊施設など、あらゆる場での差別が法的に禁じられてからすでに三〇年以上が経過している。しかし今日、われわれは差別の新しい形を目の当たりにしている。それはゲート(門)と壁で区切られたプライヴェートなコミュニティだ。アメリカ人は私的領域...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.194-204
[論考]
一九七六年の論文「ガレージの家庭内化」のなかで、J・B・ジャクソンは、アメリカにおける自動車の収容のヴァナキュラーな伝統の概略を描いた。彼はガレージの歴史を独立した三つの時代に区分する。 一、ロマンティック・ガレージ:屋敷と同じくらいこれ見よがしなもので、初期のモータリストたちが遊び用である高価な乗り物を停めていたとこ...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.184-193
[論考]
I「住むこと」のメディア 人間にとって住居とは何か。そして、現在の私たちにとって、住居とは何なのか。 人間の住居の起源あるいは本質は、雨風をしのぎ、外敵から身を守るための隠れ家=シェルターにしばしば求められる。だが、石毛直道も指摘しているように、シェルターとしての機能は人間の住居の必要条件ではあっても、それを動物の巣等...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.56-66
[批評]
本稿では、本質的に異なると思われるような三つのテーマをとりあげる——すなわち、社会的に目覚めつつあるエコロジカルな意識、複 合 性(コンプレクシテイ)に関するニューサイエンスがきりひらいた新空間、そして、コンピュータ・テクノロジーという環境が社会と文化にもたらす影響。本稿は、この三つのテーマを収束させることにより、応用...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.104-119
[図版構成]
1.「A.T.E. Wabi-Sabi Net」開局??! こちらはA.T.E. Wabi-Sabi Net。 われわれの四畳半ラボへようこそ。 これはインターネットとCU-SeeMeを使って実現する、国際放送のシミュレーション。 ローファイ画面で情報をどこまで伝えられるかの実験だ。 一般市民の手が届く機材だけを使っ...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.92-95
[図版構成]
四畳半の部屋は、中世に茶室として生まれた。主人は特別な客をそこへ招きいれ、茶の湯の作法でもてなした。この質素な隔離された空間は、細部にわたり、厳格な美的基準にしたがっていた。人びとはそこで、主人と客が、人類学者ヴィクター・ターナーのいわゆる「コミュニタス(communitas)」のうちに統合されるようなミクロコスモスを...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.89-91
[批評]
1語り得ぬ都市へのまなざし 〈すでに明らかな前提として深く了解されているのにもかかわらず、その全体性を不確かな手触りにおいてしか問えないでいる〉──都市の現在性へのまなざしは、何よりもまずこのような認識のもとで開かれるより他ないだろう。都市を、今のわれわれはもはや違和の環境として対他的に読み下すことはできない。都市とい...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.74-85
[対談]
八束はじめ南泰裕八束──今回の南さんの論文を読んで、かなりの部分で見解が共有されているな、という気がしました。特に南さんが、湾岸で起きているさまざまな現象を必ずしも全面的には否定していないというところは、非常に重要なポイントだと思います。僕も湾岸に関しては、自分の計画の対象ではないけれど、考えてみる必要があるだろうと思...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.86-91
[インタヴュー構成]
山田脩二 ──建築を撮るようになったきっかけは何でしたか。 山田──もう四〇年も前です。一九五八年から二年間、桑沢デザイン研究所でデザイン全般の基礎教育を受けた後、凸版印刷で製版と写真撮影を現場で二年間、見習いで働きました。そこで親しくなった友人が、創刊前の『SD』編集部に入り、ぶらりと遊びに行ったら「写真をすこし撮っ...
『10+1』 No.23 (建築写真) | pp.62-82
[批評]
ウィリアム・ギブスンが、そのディストピア(反ユートピア)的なSF小説『ニューロマンサー』(一九八四)の中で、サイバースペースと呼ばれる新しい情報ネットワーク、あるいはコンピュータ・マトリクスが上空五◯◯◯フィートから見たロサンゼルスのように見える、と言った時以来★一、コンピュータ・ネットワークのヴァーチュアル・スペース...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.92-108
[批評]
1ベルリン──〈零年〉の都市 「場所の諸問題」をテーマとした一九九四年のAnyコンファレンス〈Anyplace〉において、イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーは「テラン・ヴァーグ」という発表を行なっている★一。〈テラン・ヴァーグ〉とは都市内部における、空虚で占有されていない、不安定で曖昧な性格をもつ場所をさす。ソラ=...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.46-60
[図版構成]
TODAY'S JAPAN展コンセプト 今日私たちは7つの都市を生きている。この多層な都市において、個人の空間は都市空間であり、都市空間は個室である。 携帯用電話で友人と話しながら街を歩く。 ウォークマンで音楽を聴きながら電車に乗る。 TV座談会を見ながらFaxのコメントを送る。 自宅からパソコンのキーボードを叩いて...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.83-87
[図版構成]
建築・都市ワークショップ 4+1/2: The Internal Landscapes of Tokyo 展は、5つの四畳半をさまざまな解釈から作り、都市における住まいの原型を示すことから現代日本の都市文化を問い直そうというものである。 四畳半は居住空間としては最小の部屋だが、日本の伝統的な居住空間として成立してきたし...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.73-73
[批評]
ひとつのアイディアを具体的なかたちで表現すること——私たちはそれを、毎日、話をするたびに行なっている。私たちが話しはじめるときは、すでにアイディアを抱いている。脳はこうしたアイディアを音に変換する——話言葉(スピーチ)という音に。話言葉は単語とセンテンスからなり、この両者もまたデザインされなければならない。私たちが、話...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.120-133
[批評]
1 はじめに ——サイバースペース上の都市と現実の都市 最近の、いわゆるインターネット=ウェッブの文脈は、現実の世界とはあまり関係なく語られることが多いようであり、むしろ、現実の世界の(つまり既存の)活動からの独立性が重要視されている印象がある。これに対して、本稿の動機は、ネットワーク上や計算機、データベースといったサ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.134-140
[図版構成]
4+1/2展の趣旨 私はこの展覧会を通じて「現代都市に住むこと」の重要性や意味を考えたい。私はいまも東京に住んでいることもあって、もっとも慣れ親しんでいるし、一番詳しい都市である。しかし、この展覧会の目的は東京の住まいの紹介にあるのではない。また「四畳半」という小さな部屋の美学を、外国に普及させようというのでもない。 ...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.74-77
[図版構成]
雑誌『anan』1992年11月号は、アダルトな女性としてのひとり暮らしを特集している。私はこの雑誌を買った。ひとり暮らしだからだ。私が住んでいるのは、〈ワンルーム・マンション〉と皮肉な呼びかたをされている小さな部屋だ。この小さな部屋で、私は『anan』誌の、いかにして他人にわずらわされることなく孤独を守るかという特集...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.79-79
[批評]
三次元仮想空間とインターネット 一九六○年代のIBMに代表される大型(汎用)コンピュータの出現以来、コンピュータは高速化及び適用分野の拡大に伴って、単なる数値計算以外の極めて幅広い分野にまで導入されるに至っている。したがって、その社会インフラ的な側面を考えると、コンピュータは現代の社会生活と切っても切れない存在となって...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.141-151
[論考]
0:チップのなかの空間 ((-1 . ) (0 . INSERT) (8 . AME_FRZ) (5 . 36) (2 . AME_NIL) (10 1.0 1.0 1.0) (41 . 1.0) (42 . 1.0) (50 . 0.0) (43 . 1.0) (70 . 0) (71 . 0) (44 . 0.0...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.126-135
[論考]
0 ラバノーテーションとダンスする身体 新しい舞踏のあり方は、舞踏家マース・カニングハムと作曲家のジョン・ケージのコラボレーションにおける偶然性と不確定性の導入によって、作品への解釈とその方法論は表現の領域に示唆に富んだ可能性を提示した。彼らがそれを率先して表現する場が、ライヴ・アートであり、作品はまったく新しい...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.146-161
[批評]
1 都市と思考のタイポロジーは互いに横断し合っている。常識的にも思考のスタイルや様式と地理的条件のあいだには何らかの関係があると思われている。風土や気候などの地勢だけではなくて、建築や都市の形態も思考にあるタイプを刻印するからである。 「地哲学(ジオフィロソフィ)」という言い方でドゥルーズとガタリが立てていた問いもこの...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.212-223
[批評]
イタロ・カルヴィーノの遺作となった『アメリカの授業』は、現代イタリア文学を代表した作家のひとりカルヴィーノが一九八四年ハーヴァード大学に招かれて行なった一連の講演録である★一。〈チャールズ・エリオット・ノートン・ポエトリー・レクチャー〉、一般的には〈ノートン・レクチャー〉として知られているこの講義は、時代を代表する芸術...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.203-211
[批評]
一八五二年、皇帝に即位したナポレオン三世は、翌五三年に、土木技師ジョルジュ・ウージェーヌ・オースマンをパリ市長およびセーヌ県知事に任命する。パリの大規模な改造は、このオースマン男爵という強引な権力主義者の名にともなって開始された。不気味な妄想を体現するかのような美観を呈する都市──パリ。東秀紀は、永井荷風がみたパリにふ...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.224-232
[批評]
まずはスカイスクレーパー、次いで高架高速道路、そしてショッピング・モール、この三つが、アメリカが建築のタイポロジーに対してなしたもっとも適切な貢献だった。さらにそのどれもが、二〇世紀における都市の大々的な分断化と再構造化に対して、相異なったやり方で挑んだのである。超高層は、従来の都市組織の七階程度の垂直次元を打ち破るこ...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.233-244
[批評]
蠢く都市の欲望 もともとパサージュは、独立した建築物としての体裁をなしていない場合が多いのである。その意味ではビルディング・タイプと呼ぶのは気がひけるが、一八世紀末に資本主義化する都市が商品と貨幣と欲望と政治の渦巻く場所になったとき、パレ = ロワイヤルに最初の木造の商店街がつくられ、さらに誰が最初に工夫したのかは分か...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.253-272
[批評]
1 はじめに ベンヤミンが一九世紀の都市を研究するときに、商業に目をつけたというのは、まことに見事な着眼であった。あたらしく使われだした鉄骨とガラスを使ったパサージュという屋根付きの商店街は、ただ商品の売買だけを意味するものではなかった。それを通して全天候型の都市が出現してきたのである。そこに入りさえすれば、もう雨にび...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.245-252
[批評]
街路の歴史は文明と同じくらい古く、ありとあらゆる人の接触、摩擦、寛大さとともに、人間のつくりだしたほかのもの以上に、公的な生活というものを象徴してきた。だから、誰も街路が影響を受け易く、脆いものだと考えはしなかったであろう。だが北アメリカ全土にわたって、ダウンタウンの道路は、今やゆっくりと、静かに、しかしながら効果的に...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.147-169
[批評]
一九五五年のディズニーランドのオープンにともなって出現した、環境に関する支配的なコンセプトは、南カリフォルニアの生態的、文化的、心理的な風景に後々まで影響を与えることになった。ウォルト・ディズニーは、架空の環境に基づくテーマ別のゾーンに遊園地を構成することによって、祭りのごみごみした雰囲気を追い払い、アメリカの神話を三...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.138-146
[インタビュー]
「任意の数の中心から成る星雲における」都市の爆発を確認しながら、ジャン・ヌーヴェルはこの現状を受け入れ、建築を世界の修正と延長として定義する。彼は、他の概念的なアプローチに、古典的な構成の原則の代わりをさせる。そうしたアプローチでは、光、ずれの概念、映画的なシークエンスのような基準が介在する。それらは、プラハやベルリン...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.56-59
[インタビュー]
ロンドンとロッテルダムの都市建築事務所(OMA)の創設者、レム・コールハースは、"Delirious New York"の出版の年である一九七八年以来、都市について問いを発し続けている。彼がチーフ・アーキテクトを務めるユーラリールでの実験に、レム・コールハースは、都市の秩序を組織することは今や世界的に困難であるという一...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.51-55
[インタビュー]
建築家、デザイナー、フィレンツェの前衛集団「アーキズーム」の創設者、アンドレア・ブランジは一九七四年以来、「ノンストップ・シティ」のコンセプトを展開し、現代の都市を工業的物体の散種された巨大な空間とみなしている。「都市、それは私たちにとって百メートル四方に区画されたトイレだったのです」。この定義は、脱工業化した「工業化...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.60-63
[対談]
1 三つのプログラム 八束…議論の前提として、いくつかの問題を整理しておきたいと思います。まずプログラムと言われているもののなかに、三つのものが区別できるだろうということです。ひとつは常識的に言われているプログラム、施設としてのビルディング・タイプの根幹をなすハードコアとしてのプログラムと言ってもいいわけですが、建築や...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.103-121
[批評]
〈資本〉が越境し、その過剰流動が、各国の固有経済システムに強い影響を与えはじめている。文化としてのディズニーも同様の越境を開始したとはいえないか。既に東京とパリにマジック・キングダムのシミュラークルを完成した。その模像は、ときにアナハイムの実像(それもまた虚像の集合体だ)をはるかにうわまわる吸引力を発揮する。これは明ら...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.132-137
[批評]
南方熊楠があこがれた男 一八八九年、当時二三歳だった南方熊楠はミシガン州ランシングに滞在し、読書と野外採集に専念していた。すでに四年目にはいった滞米生活であったが、大学での生活にはほとんど興味を失っていた。とにかく、野外に出て植物を観察・採集し、図書館で読書(熊楠の読書というのは、たいていの場合「写本」を意味する)する...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.122-131
[論考]
われわれはおそらく、ルフェーヴルによる空間の政治学に対する要求と、つまるところ、まさしくグラムシ的な建築の探求を擁護するためになにかを語らなければならないことになるだろう。 ──フレデリック・ジェイムソン「建築とイデオロギー批判」 I 多摩ニュータウンを移動していると、奇妙な空間感覚に陥いることがしばしばある。駅や...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.124-136
[論考]
「……実のところ私は、時間というものを信じていない」──ウラジーミル・ナボコフ『記憶よ語れ』 i サバービアという言葉を耳にするたび、ホセ・アルカディオ・ブエンディーアとマコンドの村をおもいだす。 それはガルシア = マルケスの『百年の孤独』の英雄的な舞台となった村で、かのホセ・アルカディオはもちまえの機略と冒険心...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.137-147
[論考]
移り変わるパリの市壁 都市をどのように定義しようと、人間が密集して住む場所という意味は失われることはなかった。少なくとも今まではそうであった。その場合は当然、都市とそれに対立する地域とのあいだに境界が生じる。かつて人類学は、この境界の意義を強調し、そこに通過儀礼的な意味合いをもたせた。それを超えることは異界へ踏み出す...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.264-270
[論考]
都市と荒野とが鋭く対立する辺境(frontier)の存在は、常にアメリカの社会、経済、文化の根底にあって、それらをつき動かしてきた原動力である。特に一九世紀半ばになって、工業化が進む中で都市が膨脹し、荒野が開拓され尽くした時に、ロマン主義者によって辺境は再発見されていく。ヘンリー・ソーロー(Henry Thoreau,...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.231-242
[風景の修辞学 1]
1 風景が都市を生む すべての都市は見る人からおのれのかたちを受け取る。ひとつの都市のかたちは無数にある、といってもよかろう。そのかたちは表象として想像力にしみとおる力をもつようになる。もしかすると都市など、砂漠をふきわたる風のまきあげる砂塵のように、どこにも存在していなくて、ただ人びとがあたえた表象だけが、人びと自身...
[論考]
砂丘(デューン) 北海の南岸地域に、低い砂丘地帯がある。その地形は途切れることなく四つの国々の海岸線として拡がっているが、これはライン、マース、シェルデ、レクの四河川の合流する北方デルタが生じさせたものだ。このフランスとオランダの砂丘の吹きさらしの空白の間に挟まれた地域に、奇妙な異物が存在している。瞬時にベルギーと識...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.203-216
[ディスカッション]
この討論は、特集である多摩ニュータウンを見学し、それぞれが現代で経験しつつあることとの関係の中で、はたしてこれまでのパラダイムで建築が考察されうるのか、という疑問を暗黙におきつつ、なおいたずらに抽象的な議論に終始することなく、建築を核にして人間の生存の様態を討議するためのものである。ここに参加していただいた三人の建築家...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.76-103
[都市論の系譜学 1]
1 批判の都市論、あるいは都市論批判の系譜をさかのぼってみたい。それによって都市論の臨界を見きわめることができるはずである。社会科学において「批判理論」や「疎外論」がはたした役割についてはすでに一定の評価ならびにその限界の指摘がなされている。同じような意味において、狭義の「都市論」を超える方向で都市や建築を語る言説のス...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.317-329
[論考]
ライフスタイルを描写する上で、「都市の(アーバン)」と「洗練された(アーベイン)」そして差別的に「郊外の(サバーバン)」が用いられる場合、これらの(英語においての)語意関係は大都市での瀟洒をその周辺(ペリフエリー)に暮らす素朴さへ対照させている。しかしながら起源的には、この認識は逆であった。 「郊外」の起源もまたイン...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.243-248
[翻訳]
建築のパラドクス──ピラミッドと迷路 1 建築に携わる人ならたいてい、ある種の幻滅と失望を感じたことがあるはずだ。二〇世紀初期に生まれたユートピアの理想が実現したためしはないし、その社会的目標もどれひとつとして達成されていない。現実にぼかされてしまった理想は再開発の悪夢と化し、目標は官僚政策に変わった。社会的現実とユ...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.301-316
[論考]
駅を下りると視覚によるスケールの把握に先だち、パノラミックに広がった空気があらゆる方向からダイレクトに皮膚に迫りくるような、空虚でありながら妙に高揚した感覚をもたらす、新都市のヴァーストネス(Vastnes)に出会う。そしてそのさらに向こうに、林立するタワークレーンのシルエットが見えた。 1 幕張新都心住宅地区 「...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.173-179
[論考]
I スナップショット 「郊外」を語ることは、ポストモダニティの文化のなかにおかれた「観光」を語ることに似ている。いうまでもなく、すでに観光と呼ばれる行為じたいが過度の大衆化と商品化によってその近代ブルジョワ社会における巡遊(グランド・ツアー)としての旅の内実を失って記号と表象の波間を漂いはじめたのとおなじように、郊外...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.148-156
[論考]
1──図版出典『ゴジラ』(昭和二九年作品) ©東宝株式会社南洋の未開の島からマンハッタンに連れていかれ、そこで壮絶な死を遂げる『キングコング』以来、怪獣ものの映画作品にはある種の都市論的な匂いがまといつく。コングの場合、それがターザン同様、啓蒙期以来の「高貴な蛮人」のヴァリエーションであり、大自然のパラダイムとして人工...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.180-185
[論考]
二つの力 都市は異質な二つの力が交差するところに成立している。 一つは、無限に広がり、密度を変えていく流動的な「外部性」をひらく力である。そこには、貨幣のたわむれ──(貨幣が媒介する)他者への欲望のたわむれ── が見出される。もう一つは、この流動的な外部性を、固定し、空間化し、内部化し、同一性を与え、そこに「共同体」の...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.186-194
[論考]
アルビンに初めて会ったときのことをお話ししたいと思います。その時彼はシカゴについてのレクチャーをしていました。彼は、詩人のように理想的にシカゴのスカイラインについて語りました。高架鉄道、つまりシカゴの鉄道システムについて話しだすと、彼の気分は高まり陽気になりました。そこから地面(グラウンド)に降りてくると、彼は歩行者と...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.224-230
[論考]
第二次世界大戦後の建築と都市の歴史は、テクノクラートが居住する場所、余暇を過ごす場所、労働する場所をめぐって生まれた悪夢というに相応しく、アスファルト砂漠、粗末な街路、原子力廃棄物の墓場といったイメージを漂わせる。戦後の建築や都市は今や、非人間性、荒廃、破滅といったタームの同義語なのである。 しかし過去四○年間の建築の...
『10+1』 No.01 (ノン・カテゴリーシティ──都市的なるもの、あるいはペリフェリーの変容) | pp.217-223
[対談]
1 空間と制度 多木…ビルディング・タイプという概念は、社会学的というよりむしろ建築論的な概念です。しかしどんな時代でも、特定の社会的機能を持った建築の類型を作ってきたことから考えると、ビルディング・タイプは社会学や歴史学の言説のなかにも入り込んでいる筈のものであろうと思われます。簡単な例ですが、例えばわれわれは博物館...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.26-49
[都市の全域性をめぐって(上)]
1 空間論的転回 都市をめぐる社会科学的な議論のなかで、今日しばしば、社会理論や都市の社会学における「空間論的転回」と呼ばれる事態が語られてい る★一。アンリ・ルフェーヴルの都市論、マニュエル・カステルの新都市社会学、デヴィッド・ハーヴェイの社会地理学、アンソニー・ギデンスの構造化理論などに典型的に見出されるとされるこ...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.246-254
[批評]
down, down, down... 「もうどれだけ落ちたのかしら?」 兎を追っかけて、大地の穴に飛び込んだアリスは言いました。 母胎の亀裂 アルファベットの第一八番目の文字、Rを挿入してみること。その単語の六番目の文字と七番目の文字のあいだを切り裂きながら。すなわちランドスケープ landscape を、ランドス...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.88-99
[批評]
1 英語の「ランドスケープ」という言葉と日本語の「風景」という言葉には、相似とともに相違があるだろう。オギュスタン・ベルクによれば、日本語の「風景」という言葉が中国から導入されたのは平安時代のことで、ひとそろいの美的図式とともに当時の日本の上層階級に「風景」を成立させたのだという★一。ベルクの指摘は興味深いものだが、と...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.68-87
[批評]
1 風景の使用法 ランドスケープとは「風景」を示すが、そこには習慣的に「自然環境」あるいは単に「自然」との観念的な結びつきが前提とされている。「自然」への耽美的な感情からなのか、公園や庭園をデザインする行為としてランドスケープ・デザインは、「人々の眼を楽しませる贅沢なしつらえ」という以外にその社会的な役割や意味が問わ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.100-111
[図版構成]
キリストの生誕より2度目のミレニウムがあと数年で終わろうとしている。これは恣意的に決められた数字の節目でしかないのだが、すでに数えきれないほどの世界の終末が語られてきた。数々のカタストロフ、数々のハルマゲドン……、それらは前世紀末の退廃的な雰囲気よりもさらに悲壮感をおびている。が、今世紀の終わりは次なるミレニウムの始ま...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.129-148
[批評]
建築の参照能力と美的能力はピクチャレスクにおいて切り開かれた部分があり、これらの持つ不確かさを建築はまだ克服していない。建築はわれわれに喜びを与えるものであろうか、それとも教え導くものであろうか。社会形態と生産にまつわる世界からは自由で平行的な位置にあるものであろうか、それともこの社会の秩序(エコノミー)の物質的なあ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.170-181
[批評]
風景画についてのテーゼ 1 風景画とは、芸術ジャンルではなく媒体である。 2 風景画とは、人間と自然との、自己と他者との交換のための媒体である。したがってそれは貨幣に似ている。それ自体では意味を持たないが、価値の潜在的無限性を表現しているものである。 3 風景画とは、貨幣と同様、その価値の現実的な基盤を隠蔽する社会的ヒ...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.149-169
[対談]
グリッドと風景 松畑──風景あるいはランドスケープという概念について今回の特集で僕が言おうとしたものの一つは、ランドスケープを政治的、経済的に捉えて、ランドスケープ、あるいは日本語における風致、景観、風景というものは国家とか階級と結びついているんじゃないかというところから始めているわけですが、一方で松岡さんは、そういう...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.58-67
[図版構成]
それぞれの時代に構想された無数の都市(ユートピア)のプロジェクト。実現し得なかったそれらの「未完の都市」の壮大な実験場は、それぞれの時代の都市の現実を逆照射しながら、都市への欲望をストレートに表明している。ルネッサンス期に描かれた「理想都市」のみならず、そうした未来の都市へのパースペクティヴには、時としてレトロスペクテ...
『10+1』 No.06 (サイバーアーキテクチャー) | pp.152-168
[批評]
建築の社会的プログラムとしての側面に注目し、つまり社会や文化の構造を制御するという意味で、「レギュレーター(整流器)」と呼ぶことにする。「レギュレーター」は、ロシア・アヴァンギャルドのいった「社会のコンデンサー」とも、ほぼ同様の意味で考えられている。いずれにしてもメタファーには違いないが、新たに「整流」ということばを選...
『10+1』 No.02 (制度/プログラム/ビルディング・タイプ) | pp.82-102
[論考]
ジョン・ケージが編集した『ノーテーション』★一やロジャー・ジョンソンが編集した『スコアーズ──ニューミュージックのアンソロジー』★二、あるいはエルハルト・カルコシュカの『現代音楽の記譜』★三などを眺めていると、現代音楽の作曲家達が、記譜法を通して、実に様々な形で一九世紀的な音楽観から抜け出そうと試みていることが伝わって...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.162-171
[論考]
ことによると、夢の連鎖は尽きないかもしれない。 ──J・L・ボルヘス『コウルリッジの夢』 しみ──不可視の連続体 一八二五年、晩年を失意のうちに過ごしたある男は、自らの描きためたドローイングをパリの王立図書館に寄贈し、一切の消息を絶った。それからちょうど一〇〇年後、ひげと帽子と眼鏡とコウモリ傘を愛した第二の男は、バレ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.172-184
[論考]
1…あるテクストで、モダニズムの絵画を記述するに際して、クレメント・グリンバーグは、まず、モダニズムのいわば創始者としてのカントを喚起することから始めている[「モダニズムの絵画」、一九六〇]。それは、カントの哲学的な思考を特徴づける自己批判的な傾向の顕在化のゆえに、カントはモダニズムの創始者の位置を占めうるということだ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.185-191
[論考]
地図をつくるまなざし 生命とはなにか、という科学的な問いに答えることが問題ではない。ここで問うのは、生命が身体の活動を通してどのように自らの世界を構成してきたかである。ここでの生命とは、社会文化的な活動なのである。人類は気の遠くなるほどの年月、なんらかの表象記号を媒介にして自らの生命を記述する努力をしてきた。洞窟の岩...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.205-244
[論考]
1 DNAと歴史 多木…今回の特集はノーテーションです。ノーテーションとは単純化して言いますと、知を要素に形式化し、同時にそのシステムを見出し、それらの精妙な関係を使って現象を記述するだけでなく、再現したり、まだ知らない新しい構成を見出していくための方法をさしているのだと思いますが、その対象の領域によっては、ノ...
『10+1』 No.03 (ノーテーション/カルトグラフィ) | pp.192-203
[批評]
チェス盤という装置 中世以来西欧の芸術文化において、チェス盤あるいはチェッカー・ボードと呼ばれる装置が地図、タブローといった異なる装置との間で取り結ぶ(奇妙な?)関係について、幾つかの大まかな観察を試みようと思う。それらの観察は、その予備的な作業として「考古学(アルケオロジー)」の範疇に属する探求を必要とするであろう。...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.182-195
[批評]
1『東京─大都会の顔─』 一九五二年に岩波写真文庫の一冊として刊行された『東京─大都会の顔─』の冒頭には、「この本の読みかた」として次の文章が掲げられている。 東京に関して、その歴史的懐古、首都的性格、或いは戦災の報告は、また別の課題になるであろう。ここでは大都会のもつ一般的な容貌を、東京に代表させて説明する。読者は...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.196-206
[批評]
「ヴィラ・スタイン─ド・モンジー」(以下スタイン邸と省略)は、ル・コルビュジエがキャリアの初期の段階で、自身のスタイルを探し求めていた時期に、ついに結実したプロジェクトとして知られている。ル・コルビュジエ本人も「一九一八年から一九二五年にわたる、(謙虚でありながら情熱的な)努力がようやく花開いた成果」と語る作品である。...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.198-199
[批評]
コーリン・ロウは、『アーキテクチュラル・レビュー』誌一九四七年三月号で、ル・コルビュジエの「スタイン─ド・モンジー邸」(一九二六─二七)の平面とパラディオのヴィラ・マルコンテンタのそれを比較し、世界中の注目を集めた。そのことに刺激され、このル・コルビュジエのヴィラは数多くの研究者の研究対象となったのである★一。しかし、...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.191-197
[批評]
ル・コルビュジエはその長い経歴をつらぬいて、イスラムの建築と都市形態とに魅了されつづけていた。生涯にわたるこの関心が最初に力強く宣言されるのは、一九一一年、「オリエント」での旅行ノートとスケッチにおいてである。「オリエント」とは一九世紀から二○世紀初頭にかけてのディスクールにあっては曖昧な場で、中東から北アフリカにかけ...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.200-217
[批評]
個人の人格がこれほど多くに分裂している時代では、おそらく怒りが最大のインスピレーションである。とつぜんにひとつのものが、ひとつの要素のなかでのすべてとなるのだ アイリーン・グレイ、一九四二年 「E1027」。一軒のモダンな白い家が、フランスのカップ・マルタン[マルタン岬]のロクブルンヌという人里離れた場所で、地中海か...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.218-226
[東京ディズニーランドの神話学 2]
東京ディズニーランドの休日 夏休み、年末年始、ゴールデンウィークなど、人々は東京ディズニーランドに殺到する。今日、東京ディズニーランドは、レジャーのシンボル的な存在になっているようである。一九九〇年代を迎えるにあたって、年間の海外渡航者が一千万人を超えることになった(このうち、八〇パーセント以上が観光目的)が、微増だっ...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.235-245
[批評]
ここで取りあげるのは、シャルロット・ペリアンがル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレと共にデザインをした家具と、二人のインテリア全般のアプローチに与えた彼女の影響である。彼女は第二次世界大戦の初めにコルビュジエのアトリエを離れたが、そのままアトリエと緊密な関係を続けていた。その家具は今日再び生産されているが、現代の工業...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.227-234
[批評]
F・ド・ピエールフウは「五分間に一人の割合で、フランス人は結核のために死亡している」と一九四二年に出版された『人間の家』で報告している。共同執筆者であるル・コルビュジエは、この本の挿絵として、小学生──彼らはおそらく「貧民窟」と名付けられ『輝く都市』に掲載された、絶望的で空虚な視線をカメラに向けている写真の中の子どもの...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.181-190
[批評]
1:図の力 建築に使用される図は二つの側面を持っている。第一の側面は、建築家によって構想された三次元空間のイメージを二次元の図に翻訳し、図の読み手に伝達すること。この場合、読み手の解釈は作家の伝達内容を正確に理解することにある。第二の側面は、その形態イメージを読み手に伝えるだけでなく新たなイメージを提起することである。...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.171-180
[批評]
1:「初めての」絵画 発端となる絵画[図1]では、画面を水平に二分するような明暗の中にいくつかの物が配されている。表面の艶やかな水平面に置かれた一つの白いキューブ、それに寄り添うような二枚の板のようなもの、左下にも何か白っぽいモチーフ。たとえその題名が「暖炉」と告げられようとも、依然中央の白いキューブだけは一体何である...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.77-94
[東京ディズニーランドの神話学 1]
はじめに これからわれわれは東京ディズニーランドという謎の空間を読み解く作業に着手する。二〇世紀が終わろうとしている今、文明批判や近代批判は、百花繚乱の様相を呈している。環境保護運動やジェンダー論といったフィールドなども、その範疇に入るのかもしれない。メディア・テクノロジーの飛躍的な進化に伴って、「リアリティ」や「身体...
『10+1』 No.09 (風景/ランドスケープ) | pp.207-218
[批評]
ル・コルビュジエが白い服をたえず褒めたたえたのはもちろん、色彩の過剰を攻撃していたからである。『今日の装飾芸術』で彼は白く塗りつぶすことを実に熱心に宣伝し始めたが、これは色彩をファッショナブルに使うことを批判し始めたのとちょうど同じ箇所においてである。この書は第一○章の「建築の時」が宣言されるまでゆっくりと、しかしだん...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.95-112
[批評]
アリストテレスもマルクスも、建築術について異口同音に述べている──「建築家は、まず、心のなかに建てる」。 しかし、このような「心のなかの建築」は、けっしてアプリオリの所与ではない。建築の観念もそれを実現する主体も、歴史的に形成されるものである。ル・コルビュジエの制作世界も、西欧の歴史に深く投錨されていた。科学技術の時代...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.113-122
[批評]
1 一九四二年、イタリア 一九四二年一一月、ソ連軍は独ソ戦始まって以来のはじめての大がかりで組織的な反撃を展開する。戦史に有名なスターリングラード包囲戦の始まりである。一一月一九日にスターリングラード南方で始まったソ連軍の攻勢は一二月一○日には北方戦線でも開始され、そしてこの地区における枢軸軍の主力が、イタリア遠征軍...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.154-170
[批評]
画家ル・コルビュジエ 「オトゥーユの(忍耐強い研究にあてた)私の私的なアトリエは誰にも開かなかった。私はそこに一人いた。私は決して絵画を『説明』しなかった。絵画はできあがり、好まれるか、うとまれるか、わかってもらえるか、そうでないかです。それが私にどうだ(どうできる)と言うのですか」★一。彼はこう書き残している。 没後...
『10+1』 No.10 (ル・コルビュジエを発見する) | pp.129-137
[論考]
1都市を浮遊するように生活するーホンコン・スタイル ノーマン・フォスターの新しい空港ができて、啓徳空港にジェットコースターのように降り立つスリリングさは二度と味わえなくなったが・香港ヘランディングする数十分間は、まさに都市の断面図を見る瞬間でもあった。空港は都市の心臓部に位置しており、飛行機の窓からは高密度な建物群を見...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.133-143
[論考]
「それらには何か或るものが共有されていなくてはならない。さもないと、それらは「ゲーム」と呼ばれないから」などと言ってはならない。──そうではなく、それら全てに何か或るものが共有されているか否かを、良く見るべきなのである。──何故なら、君がそれを良く見れば、それら全てに共有されている何か或るものを見出す事はないとしても、...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.111-120
[日本]
1961年兵庫県生まれ。1987年東京大学大学院修士過程修了。1988年アトリエ第5建築界設立。現在、大阪芸術大学助教授。作品=《Open-Air Kindergarten》 《愛田荘》 「芦屋川左岸堆積体」 《ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展(共同作品)》 《「ゼンカイ」ハウス》《SH@64》など。 螺旋のパフォー...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.172-173
[日本]
1962年生まれ。写真家。84年、日本大学芸術学部写真学科を中退しライトパブリシティ入社。91年の退社後、ロンドンに滞在。帰国後、広告写真や雑誌などで活躍する。 『TOKYO SUBURBIA』(光琳社出版、1998)で第24回木村伊兵衛賞受賞。写真集=『Hyper Ballad: Icelandic Suburban...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.168-169
[日本]
「どうして?」の問い 建築に対し「どうしてこうなっているのか」と発せられる問い。それが建築と建築家のあいだにある唯一の結線である。この問いが「建築とは何か」という問いに対して常に先立っていることが、建築家の基底をなすのではないかと考える。 自作やポリシー、職能といった事柄が、すべて建築家と社会との境界づけに深くかかわっ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.174-180
[対談]
素材/エンジニアリング 難波和彦──今日の対談のテーマは、素材がどう建築を変えるかという問題なんだけども、実を言えば素材が建築を変える時代はもう終わっているというのが一般的な結論で、これから建築を変えていくのは素材よりもエネルギーというか室内気候のような条件なのではないかと言われている。つまり目に見える条件よりも、目に...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.58-73
[論考]
二〇世紀の前提 住宅が演じた役割以上のものを、二〇世紀の他のビルディング・タイプはなにひとつ演じていないと、ビアトリス・コロミーナは語っている★一。確かに、二〇世紀ほど住宅が脚光を浴びたことはなかった。共通の命題は、いかに住宅を供給するかということであった。「万人のための住宅」、「Houses like Fords(住...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.100-109
[インタヴュー]
アトリエ・ワンと私──最初の出会い 永江朗──私の場合もそうでしたが、施主は設計を依頼するにあたってまず手紙を書くというアプローチが多いと思います。受け取ったとき、まずどう考えられますか? 塚本由晴──それは「やった!」ですよ。内容を見るより先にとりあえずトキメキます。中学生の頃、思ってもみなかった女の子に告白されたと...
『10+1』 No.28 (現代住宅の条件) | pp.74-85
[日本]
1964年生まれ。87−93年、入江経一建築設計事務所勤務。93年、西沢大良建築設計事務所設立。 主な作品=《立川のハウス》(97年東京建築士会住宅建築賞受賞)、《熊谷のハウス》《大田のハウス》(99年東京建築士会住宅建築賞受賞)、《諏訪のハウス》《二つの会場──ICC1周年記念展覧会会場》《ショップ・エンデノイ》。9...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.166-167
[日本]
1962年生まれ。建築家。1986─92年、伊東豊雄建設設計事務所勤務。1993年、佐藤光彦建築設計事務所設立。日本大学、湘北短期大学非常勤講師。96年度東京建築士会住宅建築賞。 作品=《梅ヶ丘の住宅》《保土ヶ谷の住宅》《仙川の住宅》《大島の住宅》《上馬の住宅》など ミニマックスな平面 佐藤光彦がこれまでに実現してき...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.160-161
[論考]
メディアがユニット派を注目する 今年の後半、飯島洋一による「ユニット派批判」の論文が話題になった★一。ユニット派とは何か。アトリエ派の建築家が強いカリスマ的な指導者であるのに対し、ユニット派では複数の若手建築家がゆるやかな組織をつくる。しかも、一九六〇年代生まれがどうやら多い。こうした傾向が建築の雑誌で最初に注目された...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.134-145
[韓国]
1964年生まれ。1987年ソウル大学校工科大学建築学科卒業。同大学校大学院修士課程修了。日本の新建築タキロン国際懸賞、UIAのバルセロナ国際懸賞、ヴェネチア国際懸賞などに入賞。韓国の産業デザイン・センター、エジプト大使館、大邱市立博物館、などの懸賞に当選。設計事務所・経営位置の所長、設計事務所・アルテクの所長、ケウォ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.132-133
[日本]
F.O.B.A 1994年、建築家梅林克を中心に設立。主な作品=《ORGAN I》《AURA》(97年度東京建築士会住宅建築賞受賞)、《ORGAN II》《CATALYST(KINOSAKI BEER FACTORY ‘GUBI-GABU’)》(2000 年度グッドデザイン賞受賞)、《STRATA》。2000年ヴェネツ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.146-147
[日本]
塚本由晴 Yoshiharu Tsukamoto:1965年生まれ。東京工業大学大学院助教授。92年、貝島桃代とアトリエ・ワンを共同設立。 貝島桃代 Momoyo Kaijima:1969年生まれ。筑波大学芸術学系専任講師。主な作品=《田園に佇むキオスク》《ハスネ・ワールド・アパートメント》《アニ・ハウス》《ミニ・ハウ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.150-151
[日本]
1962年兵庫県生まれ。1994年、建築都市計画研究所ateliera+a設立。現在、岡田哲史建築都市計画研究所代表。主な作品=《上麻生の家》《冨士山麓の家》《松原の家》《和田の家》《代田の家》《荻窪の家》ほか。 主な著書=『ピラネージと「カンプス・マルティス」』(共著、本の友社、1993)、『ピラネージの世界』(丸善...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.158-159
[日本]
1960年生まれ。86年、京都市立芸術大学大学院修了。88年、石井修/美建設計事務所を経て、遠藤秀平建築研究所設立。98年より神戸芸術工科大学非常勤講師。主な作品=《Cycle station 米原》(94)、《Transtation 大関》(97)、《Springtecture 播磨》(98)、《R//A》《R//B...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.154-157
[鼎談]
なぜ「技法」なのか? 今村──今回の「建築の技法」という特集は、建築について語る時、建築家によるコンセプトにそのまま寄り掛かるのではなく、また建築の技術について語る時、その技術だけを取り出してきて客観的に記録にすることが目的ではありません。建築家の考えとそれを支える技術のつながりを、きちんと描写しようというのが趣旨です...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.72-87
[素材─構造]
妄想 東京に暮らしていると、隣接するビルとビルのあいだに空いたあの無駄な隙間にまったく違和感を感じなくなる。たしかにそれは普段なら見すごしていてもなんら不都合のない微小な空間であるが、しかし狭小住宅の設計になぞかかわると、いかにも恨めしい隙間へと変わる。窓を穿ったそのすぐ先にある隣家の外壁はいったい何なのか。空気の層を...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.88-91
[制度─都市]
ここで示したい事実はきわめて単純である。最初に結論から書いておこう。建築とは都市空間である。ポルトガルの二人組の建築家ユニット、アイレス・マテウスの試みを、一言で言えばそう集約できるかもしれない。いくつかの彼らのプロジェクトにおいて、敷地の上にはまず都市がつくられ、そこに建築的な表皮が加えられる。だから建築空間のなかに...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.140-143
[制度─都市]
オーギュスト・ペレはその著書『建築理論への寄与』のなかで、建物を美へと結びつける道標として「特質、スタイル、調和」を挙げている。それは構築的なるものの美に関する記述であるが、鉄筋コンクリートという新素材と建築の伝統の意匠様式が融合する地平を切り開いていったペレならではのバランス感覚がそこにはあると思う。同時代の多くのコ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.136-139
[制度─都市]
美術館の変容とexperience(c) 美術館はそもそも絵画や彫刻などの収蔵品を永久保存して貯めてゆく性格のものだった。しかし伝統的なアートのカテゴリーは、時代とともにアースワーク、インスタレーション、メディア・アートなどへと領域を拡大し、今では漫画やアニメまでが美術館での展覧会の対象となっている。こうなると美術館で...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.144-147
[自然─環境]
春もまだ始ったばかりの頃、東京大学の駒場リサーチキャンパスを訪れる。夕刻少し前、雲ひとつない空は蒼く高く抜けている。北側の正門から、右前方に少し進むと端正な佇まいの新しい建物が目に入る。六階建てのその建物は、ことさらその存在を主張することなく、ましてや大げさなこれ見よがしのパフォーマンスといった振舞いをせずに、しかしだ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.148-151
[鼎談]
建築と書物の親和性 永江朗──「建築家はどのように書物と関わるのか」というのがこの鼎談のテーマです。最初に素朴な感想をもうしますと、芸術家のなかで建築家ほど書物と親和性の高い人々はいないのではないか。これはちょっと異様なことだと思います。もちろん文芸は別ですが。ただ、建築家が書いた本があまりにも多いので、われわれはその...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.54-70
[自然─環境]
この来るべき美学の造形は、たとえて言うなら、霧、雲、虹、オーロラ、蜃気楼といった自然現象とアナロガスである。 原広司「多層構造・場・構成の廃棄などについて」 (『SD』一九八三年七月号、鹿島出版会) この稿では、ジュルダ&ペローダン・アーキテクツ設計の《モンセニ・アカデミー》をひとつの窓として、自然および環境と建築...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.160-164
[制度─都市]
アトリエ・ワンの二人は笑みが絶えない。彼らに論文指導を受けた、とある人曰く「彼らは何にでも笑える人。フツウのできごとでも周りの事柄を取り込んでオモシロク見てしまう人」だそうだ。鉛筆が転がっても笑える女子高校生とはちょっと違う。つまり彼らは、建築環境はもとより、日常生活にいたるまで、ひとつの対象を単独に見るだけではなくそ...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.132-135
[生産─技術]
フランク・O・ゲーリーのこれまでの作品を通じてのいわばターニングポイントとも言える《グッゲンハイム美術館ビルバオ》(一九九七)[図1]と時をラップさせていたプロジェクトの《ウォルト・ディズニー・コンサート・ホール》[図2]が二〇〇三年一〇月にオープンした。このプロジェクトは一九八八年にコンペで地元建築家であるゲーリーが...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.128-131
[素材─構造]
スティーヴン・ホールの設計による《サルファティストラート・オフィス》は、外観を構成する銅板のパンチングメタルと、ところどころに穿たれた、大小さまざまな開口部が印象的な建築である。こうした特徴から、この建築を読解する手がかりとして、まず始めに素材へと目が向かうのが一般的なアプローチとして妥当であるかに見える。しかし細かく...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.104-107
[素材─構造]
ヘルツォーク&ド・ムーロンは変わったのだろうか。 彼らが世界中から注目を浴びるようになった初期の頃、彼らの作品は、スイス・ミニマリズムといったグループとして認識されるような、シンプルで静謐なものだと理解されていた。例えば、初期の作品群のなかからいくつか見てみると、《ストーン・ハウス》(一九八八)、《ゲーツ・コレクション...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.100-103
[素材─構造]
強化ガラスはアルミと同程度の強度と剛性を持つ材料である。透明性という優れた特性を兼ね備える、エンジニアとアーキテクトたちにとって非常に魅力的な材料である。自由に採光が取れたり、外部と内部の境界をなくしたり、ガラスが建築デザインに与えてくれるいろいろな可能性はもう一〇〇年以上の間、建築理論における重要なテーマになっている...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.108-111
[生産─技術]
《IRONY SPACE》(二〇〇三)は、構造家、梅沢良三の住宅兼アトリエである。建築の設計はアーキテクト・ファイブが、構造の設計はもちろん梅沢氏自身が担当している。建物は地上二階・地下一階で、矩形のフロアが積層され、これを敷地形状に沿う三角形の吹抜がつなぎとめているという構成になっている。さて、シンプルな構成のこの建...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.112-115
[生産─技術]
わたしたちが望むのはモノを吟味し、モノにそれ自体が持つ形態を見つけ出させることである。モノにその外側から形態を授けること、モノを外部から決定すること、モノにどんな種類のであれ法則を押し付けること、モノを意のままにすること──これらはわたしたちの本意ではない。 フーゴ・ヘリング「形態への道程」(一九二五) アレハン...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.124-127
[生産─技術]
日本の建築家なら、だれでも一度くらいは地震のある国で設計しなければならないことを恨めしく思ったことがあるのではないだろうか。ル・コルビュジエは近代建築の原則として「自由」を提唱し、新しい技術と思想がもたらす自由は近代建築の基本概念のひとつとなったが、もちろん建築にはまだまだ多くの制約がある。構築物としての建築が地球上で...
『10+1』 No.35 (建築の技法──19の建築的冒険) | pp.116-119
[台湾]
金光裕 Gene K. King:1956年生まれ。84年ヴァージニア工科大学修士課程修了後、アメリカの建築事務所、デザイン事務所などに所属。87年に短編小説『沙堡傳奇』を執筆し作家デビュー。97年に『Dialogue』誌編集長となり、98年に金石建築師を設立する。 石靜慧 Erin C. Shih:1964年生まれ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.130-131
[香港]
アーロン・H・H・タン Aaron H. H.Tan:1963年シンガポール生まれ。1994年、レム・コールハースとともにOMAアジアを設立し、翌年より同ディレクターを務める。主なコンペ受賞=「広州国際コンヴェンション+エクシビジョン・センター」、「オーチャード・マスタープラン」、「北京国際金融センター」など。主な作品...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.128-129
[論考]
一九九〇年代、私は東京にいなかった。二、三年に一度の短期滞在を除けば、この一〇年間東京という街を実際には体験していない。その間のほとんどをニューヨークで過ごしたので、東京とのつきあいは、もっぱら、活字や映像による報道、そして映画、文学、マンガなど、なんらかのメディアの中に表われるそのイメージを手がかりにしてのものだった...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.147-155
[論考]
いつ見たのか、あるいはどこで見たのか思いだせないし、いったいどのような心理状況で見たのか覚えていないにもかかわらず、ふとしたきっかけから自分の脳裏に写しだされる映像というものがある。同時に、映像の背景に展開する都市風景を思いだそうとしていることに気づく。ここでは、比較的ランダムに九〇年代の映像作品のなかから印象的な都市...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.140-146
[論考]
都市を計画することの不可能性が繰り返し指摘されてきた。かつて磯崎新は早い時期に都市からの撤退を宣言し、都市を計画するという行為の代わりに見えない都市という概念を彫琢していったことはよく知られているわけだし、レム・コールハースはもはや存在しない職能の代理=表象者として都市について語るという倒錯した立場を表明していたのだっ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.156-164
[論考]
OMA(Office for Metropolitan Architecture)は、著作・建築・都市などジャンルを超えた創造活動を行なう建築家組織だ。彼らは、一九七八年のデビュー以来、複数の建築家が対等な立場でプロジェクトを計画する都市的な新鮮さを持ち続けてきた。彼らの新しさは、都市的なパラダイムが原動力である。ここ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.165-172
[翻訳]
高名だが高齢の科学者が、それは可能であると言えば、彼はほとんど確実に正しいことを言っているが、それは不可能であると言えば、間違っているのはまず確かである。 アーサー・C・クラーク★一 イデアは、否定を知らない。 ジル・ドゥルーズ★二 ニュースペースへむけての公 理(アキシオム) <箇条書き>10 アートとは、道...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.192-203
[翻訳]
一九八八年、ニューヨーク現代美術館(MoMA)は、最新の建築潮流としてディコンストラクティヴィスムの展覧会を開催した。一九三二年の「近代建築」展以来、MoMAの建築展はすべて重要なサインとして、そこで扱われた建築運動や潮流の意義を保証し、公認するものと見なされてきた。また「近代建築」展で最初の成功をおさめたフィリップ・...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.181-191
[都市史/歴史]
都市史における五つの潮流 一九九〇年代の都市史関係の文献を回顧すると、それには大きく分けて次の五つの潮流があるように思われる。まずひとつめは新たな都市権力論の登場であり、二つめは建築における都市「公共性」論の確立、三つめは八〇年代から培われた場所論の展開、四つめは景観・風景論の萌芽、最後の五つめは学際的研究の深化による...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.120-123
[都市/メディア]
ここ数年、いわゆる建築雑誌以外のメディアにおいて建築が取り上げられる機会が多くなってきた。NHKの『ETVカルチャースペシャル』で「建築家バトル」が行なわれたのはつい最近のことだ。また映画やゲーム、写真集といった身近なメディアにも現在の都市の姿は否応なく現われている。いやむしろ、そのようなメディアを通して都市のイメージ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.116-119
[論考]
ストリートをめぐって 小倉 「ストリート」という言葉から思い浮かぶのは、寺山修司の「書を捨てよ街へ出よう」というメッセージですね。60年代後半の街頭闘争の流れのなかにそれはあったと思いますが、60年代後半に文化運動なり学生運動をやっていた膨大な人材が、70年代を通じて都市開発あるいは街の風景を演出し風景を作る側(文化産...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.88-96
[キーワード]
連続と切断の言語風景── 1990年代の都市と建築をめぐって 南泰裕 たったいま終わりを告げたばかりの、1990年代の都市と建築を切り出して、「何かが確実に変わったのだ」、とわれわれは言うことができるだろうか。ミシェル・フーコーにならってエピステーメーの変容を、あるいはトーマス・クーンを想起してパラダイム・シフトの痕跡...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.68-87
[論考]
ローマでの体験 1999年の12月から2000年の1月にかけて、私は仕事の関係でイタリアにおける建築物の保存・修復について調べるためにICCROM(文化財保存修復国際研究センター:ローマにあるユネスコの機関)に行っていたのだが、私はそこで二度、90年代のアーバニズムに特有な状況を体験した。最初は、新東京国際空港から旅客...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.97-105
[論考]
90年代に生まれた最も新しい音は、レコードの上に乗る針の音である。 かつてないほど多くの音が90年代を飛び回っていた、ということをまず確認しておこう。 なによりも80年代のはじめに生まれ、80年代後半にはすでにアナログ・レコードの売り上げを追い抜いていたCD(コンパクト・ディスク)というデジタル音響メディアが音楽の主...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.106-107
[都市/テクスト]
都市記号論を超えて 一九六〇年代にK・リンチやR・バルトが都市記号論を準備し、七〇年代にコンテクスチャリズム論が語られ、八〇年代は学際的な都市テクスト論が興隆した★一。これらは近代の都市計画がもっぱら建設者の論理だったのに対し、受容者の解読を多様化する試みといえよう。しかし、結局、読むための方法は作るための手法になりえ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.112-115
[都市/テクスト]
しばしば語られるように、八〇年代は記号論やテクスト論、消費社会論的な都市論隆盛の時代であった。それは、八〇年代の日本の経済的好況=バブルの下での都市の消費社会化、記号の操作を媒介とする都市や都市空間それ自体の商品化とほぼ正確に対応していたと言うことができる。やはり八〇年代に流行した、明治・大正・昭和初期の「モダン都市生...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.110-111
[翻訳]
アパルトヘイトのもとでの都市生活の写真は、たとえ南アフリカの人間ではなくてもおなじみのものだ。かつては「マッチ箱」のかたちをした家が延々と立ち並ぶ単調なイメージが、国家によるタウンシップ(非白人指定地区)の規格化を物語っていた。映画製作者やジャーナリストお気に入りのテクニックのひとつは、オーウェルの小説に出てきそうなこ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.204-209
[論考]
ネイション・ステートを懐疑的に見なくてはいけない今日の状況下では、もはや首都という存在すらユートピアになりかねない。幸田露伴が「一国の首都」で説いたモラルたっぷりの「自覚」★一を、昨今の東京で見つけるのは不可能であろう。かつて日本でも「国家的デザイン」が議論されたことはあった。これからもその議論が行なわれる契機はあるだ...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.210-220
[スペイン]
イニャーキ・アバロス(Iñki Áalos)およびフアン・エレロス(Juan Herreros)は1984年にパートナーシップを結成。ともにマドリッド建築大学の教授であり、先にあげた著作のほか、1993年にグスタヴォ・ジリ(Gustavo Gili)から、1997年にアクタール(Actar)からそれぞれモノグラフが出版...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.110-111
[スイス]
都市/山の建築 スイスは日本と同様、国土の半分以上が山からなる国である。こうした地理的条件や気候などの違いは、スイスの異なる三つの語圏(独、仏、伊)の独特の文化ということ以上に、ごく限られた地域ごとの建築様式を成立させている要因と考えられている。多くの山岳地方の集落は渓谷に沿った山の斜面に発達し、村落間の交通も谷づた...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.106-107
[スペイン]
ルイス・モレノ・マンシーリャ(Luis Moreno Mansilla)は1959年、エミリオ・トゥニョン・アルヴァレス(Emilio Tuñón Alvarez)は58年に、それぞれマドリードで生まれた。二人はともに1982年にマドリード建築大学(ETSAM)を卒業し、1983−93年、ラファエル・モネオの事務所に勤...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.114-115
[メキシコ]
1966年メキシコ生まれ。89年モンテレイ工科大学建築学科卒業。97年ハーヴァード大学大学院デザイン学部卒業。94年以降独自に設計活動を開始している。現在、モンテレイ工科大学建築学科客員講師。 主な作品=《Casa Elizondo》《Pabellón Elizondo》《Discoteca Varshiva》。 メ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.118-119
[シンガポール]
シンガポール・アイデンティティ 「カオスすらカオスとしてプランされている」とレム・コールハースが観察したように、時として都市テーマパークのようにさえ思えるほど効率的にそして美しく整備されたスーパー管理国家、シンガポールも建国三五年を経て、価値の転換期をむかえている。 二〇〇〇年七月に発表された二つの新しい地下鉄の駅...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.122-123
[トルコ]
1956年トルコ生まれ。イスタンブル工科大学建築学科修士課程修了。1982年からトルコの老舗新聞『ジュムフリ エット(共和国)』に、日替わり漫画を連載。戯曲《ビナー(建物)》は、1983年に文部大臣特別賞を受賞。風刺漫画、児童文学、戯曲、小説など著作は多数あり、トルコ、ドイツ、日本などで出版される。1994年撮影の映画...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.120-121
[オーストリア]
クリストフ・ランマァフーバー Christoph Lammerhuber:1966年リンツ生まれ、ウィーン工科大学で学ぶ。 アクセル・リネマイル Axel Linemayr:1965年リンツ生まれ、ウィーン工科大学で学ぶ。 フロリアン・ヴァルネア Florian Wallnoer:1962年イタリア、メラン生まれ、ウィ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.102-103
[フィンランド]
1966年フィンランドヘルシンキ生まれ。93年ヘルシンキ工科大学卒業。90─92年モナークに参加。91年サナクセンアホ建築事務所設立。現在は妻のピルヨと共同で設計活動を行なう。 マッティ・サナクセンアホは、在学中にモナークというグループでセビリア万博パヴィリオンのコンペ(一九九〇)に勝ちそのキャリアをスタートさせたフ...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.100-101
[論考]
二〇〇〇年夏、アメリカ各地のデジタル系建築家、建築や空間にアプローチする情報系研究者の取材を行なった。コンピュータによって作り出される情報空間(この論では広い意味で捉えてサイバースペースと呼ぶ)を形態生成シミュレーションの場とする試みではなく、いかにして現実空間にサイバースペースを組み込み、その相互連動によって新しい機...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.78-83
[論考]
ヨーロッパにとって、二〇世紀最後の二〇年間は混迷の時代であった。東欧の共産政権の崩壊、東西ドイツの再統合、欧州連合(EU)内部での統一の加速、バルカン諸国の戦争などによって、まったく新しい政治的ランドスケープが形成されたのだ。 時を同じくして経済情勢も変化した。現在でもヨーロッパには、かつての「鉄のカーテン」によく似た...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.74-77
[アメリカ]
一九八〇年代、九〇年代のロサンゼルス(以下LA)における、非常に疑わしい修辞として、《ゲティ・センター》に対して費やされたものがある。たしかに《ゲティ・センター》は、ニューヨークのリチャード・マイヤーの経歴においては頂点をなしていただろう。工学とディテールの調和の点で、これは偉業であっただろう。だが、ブレントウッドの丘...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.84-88
[オランダ]
マタイス・ボウ Matthijs Bouw:1967年生まれ。デルフト工科大学卒業 ヨースト・モイヴィッセン Joost Meuwissen:1951年生まれ。デルフト工科大学、エイントホーフェン工科大学卒業 主な作品=《テニスコートの下の6軒》「Stegl/ASKマスタープラン」「西ユーデンブルクのマスタープラン」《...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.89-91
[イギリス]
OCEAN north:1995年に北欧のさまざまなデザイナーにより設立された非営利のリサーチ・デザイン・チーム。HP=http://www.asplund.arch. kth.se/workshop/ocegr.html。 URBAN-OFFICE:1999年設立。ロンドンをベースにした都市建築設計事務所。HP=ht...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.98-99
[オランダ]
ヨープ・ファン・リースハウト Joep van Lieshout:1963年生まれ。 主な作品=《本棚ユニット》(1989)、《「天窓」ダッチ・ハウス》(OMAと協働)(1993)、《「ラージ・バー」リール》(OMAと協働、1994)、《主人と奴隷のユニット》(1995)、《良い、悪い、醜い》(1998)など。 「ア...
『10+1』 No.22 (建築2001──40のナビゲーション) | pp.94-95
[建築家的読書術]
五年前、はじめて大学に研究室を持つことになったとき、研究室の方向性を明確に示すために「難波研必読書二〇」をリストアップすることにした。大学生にはちょっと無理かもしれないが、大学院生ならばこのくらいの本は読んでいて欲しいと考えたからである。 なぜ二〇冊なのか。特に理由はない。一〇冊に絞るのは難しいが、三〇冊では多すぎると...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.86-88
[建築家的読書術]
想像の余白|加茂紀和子 子どもが毎日、家で音読をする。学校の宿題なのだが、教科書でも新聞記事でもなんでもいいから毎日読むということを続けている。最初は読み方がいいとか、点や丸に気をつけて読んでるか等、技術的なことを親がチェックするためのものなのかと思っていたが、日課になり、一日のリズムになり、やらないと物足らなくなり...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.89-91
[批評]
「現在最も熱狂的に受け入れられている建築理論と言えば、「他者」と「他者性」というコンセプトである。『Assemblage』、『ANY』などの出版物や、プリンストン、コロンビア、SCI-Arc、AAスクールといった建築教育機関と関わりをもつことの多い、いわゆるネオ・アヴァンギャルドと呼ばれる建築家と批評家は、何らかのかた...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.188-205
[批評]
建築にとって装飾とは何か? 現在の装飾論ということであれば、まず鶴岡真弓の仕事に触れなければなるまい。ケルト美術研究に始まり、さまざまな装飾・文様の再評価によって美術史に新たな地平を開きつつある鶴岡は、自らの研究の意義について、一般向けに次のように語っている。 装飾という不思議な美術は、存在と存在を分節する(ための)...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.164-171
[批評]
都市社会学者ヴァルター・プリッゲは、ヴァーチュアル・シティが約束する新たな都市性を探究している。ラディカルな変化の可能性は、今やヴァーチュアルな空間に開示され、最早、公共のための文化ではなく、公共による新たな文化が約束されている。しかしこのような未来の可能性は、いまだに古い構造の中に捕われている。果たして、デジタル・ア...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.81-89
[批評]
大晦日の午後五時頃、落陽のなかで、五〇代半ばの女性が遮断機の前にある車両の脇の小さなモミの木の所に立ち、クリスマス・ボールを幾つか取り外している。その前に彼女は、連邦共和国の 西側から来た私たち、女性都市計画家、写真家、そしてそのほかの二人の客人をゲレンデの向こうまで案内してくれたのだ。年齢的な問題で、彼女は、雇用創出...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.90-102
[対談]
1 八束──今回の特集では、作家や作品というよりも広義の意味での言説を中心に明治以降の近代建築史を概観するという趣旨で、ここでは「建築史」という言説タイプを取り上げようと思います。いろいろと「日本近代建築史」に関するテクストを読んでいると、当り前のことですが、それらもまた歴史の一部であるということを改めて感じないではい...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.62-76
[批評]
バウハウス設立八〇周年記念祭行事──バウハウス・デッサウ財団 一九一九年四月のグロピウスによる「ワイマール国立バウハウス」開校八〇周年を記念し、本年ワイマール市と同市のバウハウス大学ワイマール及びバウハウス美術館、デッサウ市のバウハウス・デッサウ財団、ベルリン市のベルリン・バウハウス資料館では、数々の記念行事が盛大に開...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.66-80
[批評]
カオダイ教とは何か 一九九八年の夏、ヴェトナムを訪れる機会があった。主な目的はカオダイ教という新宗教の聖地を訪れることだった。一九九〇年代に入り、ドイモイ(刷新)政策の追い風を受けて、ヴェトナムの建築・都市研究は過熱し、近代建築や保存すべき古建築の調査は確実に蓄積され、ある程度知られるようになった★一。しかし、二〇世紀...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.155-163
[批評]
現代建築の歴史は必然的に多様なものであり、雑多ですらあるだろう──建築そのものから離れた、人間的な環境を形成するための構造の歴史。そしてそれらの構造を統制し方向づけようとする歴史。そうした試行の政策や方法を考案しようとした知識人たちの歴史。完全で明確な言葉へと辿り着くことを断念した、新しい言語についての歴史。これらの歴...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.129-154
[論考]
はじめに 生活の本拠を東京からずらして以来、仕事のために飛行機を使うことが多くなった。日本のさまざまな地を上空から訪れるのだ。目的地に近づき、雲つきぬけて眼前にその土地が現われる時、どんなに旅なれた人でもそこに広がるランドスケープにやはり眼を奪われてしまうのではなかろうか。筆者は東京に帰る時さえ、眼下に広がる都市のかた...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.140-145
[論考]
[その1]風景の意図に寄り添う──心構え編 何よりも、そのカタチをつくった人、つまりデザイナーの気持ちになってみることである。そうすれば自然とカタチが潜在的に持つ意図が見えてくる。このことは、なぜ建築家であるはずの僕が、環境ノイズエレメントなどと呼ぶものに興味を持つに至ったか、ということとも多少関係する。つまりこういう...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.128-131
[資料]
●関連図書 宮脇昭『植物と人間──生物社会のバランス』NHKブックス、1970 貝塚爽平『東京の自然史』紀伊國屋書店、1976 ロラン・バルト『エッフェル塔』(宗左近+諸田和治訳)審美社、1979 槇文彦『見えがくれする都市』鹿島出版会、1980 坂誥秀一『日本の古代遺跡(32)東京23区』保育社、1987 貝塚爽平『...
[批評]
これまで「細部(ディテール)に神が宿る」という金言は、建築の世界ではミース・ファン・デル・ローエの言葉と考えられてきた★一。しかしミースの参照源であるかもしれないドイツ語「Der liebe Gott stcekt in Detail(細部に神が宿る)」は、アビー・ワールブルクが美術史研究における聖像学(イコノグラフィ...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.90-101
[批評]
細部に神は宿るか? 誤解を恐れずに言えば、建築のディテールとは物同士のジョイント部分に過ぎない。もし、こうした言い方が勇まし過ぎるとすれば、技術上の課題となるディテールはジョイント部分に集約される、と言い換えてもよいであろう。いずれにしても神が宿る余地など残されていない直接的な見方かもしれない。しかし、「工業化」という...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.114-116
[批評]
今回の特集において、ル・コルビュジエの階段にどのような位置づけが期待されているのかは不明だが、特集のコンセプトに「リアルヘの回帰の九〇年代におけるミニマリズム」とあるからには、まずはハル・フォスターの著作『The Return of the Real』に所収されている論文「TheCrux of Minimalism(ミ...
『10+1』 No.16 (ディテールの思考──テクトニクス/ミニマリズム/装飾主義) | pp.112-114
[論考]
一 「建築評論家」の登場 建築批評家(または評論家)という存在は、数は多くないものの、現代においてはひとつの職能として認知されている。「批評家」(「評論家」)をどう定義するかにもよるが、ここではそれを近代になって誕生した職能のひとつと見なして、初期の建築批評家(評論家)たちを中心に、この職能が成立した背景や、彼らがより...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.77-86
[論考]
カルロ・ギンズブルグ 一九七三年にジョセフ・リクワートが『アダムの家』を著わしたとき、イギリス建築史学会の重鎮E・H・ゴンブリッチは、その書のタイトルが「天国の家」であるのにかかわらず実際は「地上の家」を扱うものだったことを揶揄した。そして、その論理が推測によって異なる文脈にあるものを連結することで成り立っており、歴史...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.87-98
[批評]
一九二六年一二月四日に催されたデッサウのバウハウス新校舎の落成式には、一五〇〇人以上の来賓が出席した。彼らは、主要な政治家、経済人、官僚たちに加え、内外から招かれた著名な建築家、芸術家、学者らであった[図1]。ハンネス・マイヤーは、そのなかのひとりとして初めてバウハウスを訪れる。かつての「ABC」グループでの同志であっ...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.174-184
[批評]
I. 社会構造が大きな変換を遂げようとする渦中において今世紀が総括され、社会と芸術間の新たな美学的課題が模索されつつある今、特にヨーロッパにおいて今世紀の創造的ジェネレーターとしてバウハウスの存在が掲げられることが多い。今世紀前半、二つの大戦間のワイマール共和国においてワイマール、デッサウ、ベルリンと転移を重ねながら存...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.166-173
[批評]
1 新たな空間表現 バウハウスの建築の図的表現を特徴づけるもののひとつとして軸測投象(axonometric projection)★一の使用を挙げることができる。 軸測投象の使用は後述するように二〇世紀初頭のモダニスム建築の台頭と並行関係にあるが、バウハウスもその例外ではなかった。一九二三年のバウハウス展に際して公...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.185-195
[論考]
1 拘束と自由 「住み処としての空間がこれ程までに住まい手の生活を拘束し、或いは住まい手の身体感覚まで影響を及ぼすものだとはほとんど思いもよらないことでした」(伊東豊雄「住宅の死をめぐって」『中野本町の家』住まいの図書館出版局、一九九八、栞三三頁)。自由にいろいろなことを考えることができる。そう思ってぼくたちは日常生活...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.58-65
[論考]
ミニ・ハウス Mini House 主要用途 専用住宅 家族構成 両親+子供二人 構造・構法 LSG(軽量鉄骨)造塚本──《ミニ・ハウス》は、敷地面積がだいたい七〇平方メートル、延べ床面積が九〇平方メートルの小さな建物で、三〇年来住んできた家の建て替えです。敷地は四メートルに満たない前面道路に接し、東側に小さい住宅が密...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.91-99
[論考]
西沢──僕は一九九五年に建築家の妹島和世と共同設計を始めて、九七年に独立しました。今は、おのおの別々に設計事務所を持ちつつ、同時に共同事務所を設立しています。自分の設計は自分の事務所でやり、妹島との共同設計は共同事務所でやる、というかたちです。今日は時間も短いスライド・ショウなので、自分の設計したものだけを持ってきまし...
『10+1』 No.18 (住宅建築スタディ──住むことと建てることの現在) | pp.66-77
[批評]
1 自然と共同体 一九八九年のベルリンの壁崩壊以降、三度、ワイマール、デッサウ、ベルリンというバウハウスの短い歴史の足跡をたどる旅を繰り返した。その旅のなかで特に強い印象を受けたのは、ワイマールやデッサウという旧東ドイツ領にたたずむバウハウスゆかりの古い建物や場に秘められた繊細な気配のようなものだった。あるものは廃墟と...
『10+1』 No.17 (バウハウス 1919-1999) | pp.143-165
[インタヴュー]
東工大清家研究室 石崎──今日はご自身の作品を語っていただくというよりは、先生が戦後、どのような時代背景のなかにおられたかということを中心にお話をうかがえればと思います。特に一九五〇年代から六〇年代半ばまでの伝統に取り組まれた頃のこと、また当時の建築を巡る状況を先生がどのように見られていたかということを中心にお話願えれ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.166-180
[論考]
「風景の発見」的問題設定の問題性 柄谷行人は『日本近代文学の起源』(講談社、一九八)のなかで、近代文学を成立させた認識の布置のことを「風景」と呼び、それが日本では明治二〇年代に成立したと言っている。のちに柄谷は、ネーションの観念やそれと相補的に形成されるアジア、東洋といった観念も、実は「風景」に他ならないのだと、B・ア...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.107-118
[論考]
明治建築史を語る際に必ず言及されないではおかないほどに良く知られたイヴェントに建築学会でのシンポジウム「我国将来の建築様式を如何にすべきや」、いわゆる「様式論争」があるが、この背後には、日露戦争後のナショナリズムの高揚があることは言うを俟たない。ナショナル・スタイルの希求は、「洋才」を追及したとしても「和魂」を保持しよ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.99-106
[論考]
焦土の幾何学 「あーきれいだ、絵画的だなー」★一。 疎開先の山梨から東京に戻り、強い夕日を受けた褐色の焼跡を見て、甚だけしからないことだと思いつつ、東京帝国大学教授の岸田日出刀はこうした感想を抱いた。彼にしてみれば、戦前の「街の姿のあまりの醜さを毎日みせつけられてウンザリしていた」し、防空の観点から木造都市の危うさをさ...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.119-129
[論考]
一九三六年に結成された「日本工作文化連盟」は、日本における近代建築運動の先駆けとなった分離派建築会の中心人物である堀口捨己から、戦後の建築界を牽引することになろう丹下健三まで、広範にわたる世代の会員、約六〇〇名を参集させた一大組織であった。 「生活の全的な立場」を主題に、建築を含めた造形行為全般を「工作」と捉えることで...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.130-142
[論考]
はじめに 今回の特集もその一環なのかもしれないが、近年、日本の「近代建築」、「モダニズム」に関する議論が盛んだ。例えば、個人を対象とした実証的な取り組みがある。「近代か反近代か」という思想構造の中で、ともすれば取りこぼされていた作業であり、そうした区別を再編することにもなろう。それに伴って、「近代=戦前」/「現代=戦後...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.149-163
[論考]
日本を訪れた者は、現代の日本の都市はカオスであり、中には実にすばらしい建築があるにもかかわらず、全体的に美しくデザインされていないと感じるはずだ。 これは最近の意見ではなく、早くも一九三六年にブルーノ・タウトが述べたものである★一。日本の都市空間を理解せずに西洋の理論を押し付け、日本の都市環境を「改善」しようと試み...
『10+1』 No.20 (言説としての日本近代建築) | pp.143-148
[論考]
多摩ニュータウン──自然地形案とは何か かつて、多摩ニュータウンに「自然地形案」と呼ばれる開発計画が立案されたことがあった。多摩丘陵の自然地形の特質を住宅地の空間構成に反映させたこの計画案が立案されたのは一九六五年である。多摩ニュータウンの計画は一九六三年にスタートしたから、したがって自然地形案は多摩ニュータウンの歴史...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.124-127
[論考]
携帯電話とiPod 「携帯電話」ではない「ケータイ」が大ブレイクした。iPodである。衣服のポケットサイズまで極限にコンパクト化されたiPodは、かつての「ウォークマン」以上に急激な広まりを見せている。従来の「音楽」コンテンツの流通形式・聴取形式をまるごとひっくり返しただけでなく、PodCastingという仕組みでネッ...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.113-115
[建築を拓くメディア]
本稿は近年日本で出された西洋建築史関連書のレヴューとして依頼されたものであるが、限られた誌面のなかでのべつ幕無しに情報を提供したのでは無味乾燥な話になってしまうので、本誌の性格を加味したうえで、「西洋建築史関連書が現代的な関心にどの程度迫れるのか」という無謀な問いを出発点に、取り扱う範囲を限定してゆくことにする。むろん...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.122-123
[建築を拓くメディア]
「磯崎新を軸に日本建築史を読みなおす」。これがこの小論に課せられたテーマである。磯崎新の近年の日本を主題とした著作、『空間の行間』(福田和也との共著、筑摩書房、二〇〇四)、『漢字と建築』(岡崎乾二郎との共同監修、INAX出版、二〇〇三)、『建築における「日本的なもの」』(新潮社、二〇〇三)あたりがおおよその視野となるだ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.118-121
[建築を拓くメディア]
白もの家電の批評は存在しない、それはなぜなのか、といった物言いを、ときどき自動車雑誌で見かけることがある。自動車には批評が存在し、白もの家電には批評が存在しない、という意味であり、自らの存在意義について自覚的にならなければ自動車批評なんかしてもしょうがないぞ、という自動車評論家(モータージャーナリストとか、車ライターと...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.124-125
[建築を拓くメディア]
筆者は〈情報と建築〉をめぐる書物を、次の四つのカテゴリに分類して本棚に収めてきた。 1. コンピュータ上の立体造形がパラメトリック・デザイン→アルゴリズミック・デザイン→ジェネレイティヴ・デザインといった方法論へ展開し、進化的構造計算手法と結びついた〈形態生成の系〉。 2. 情報時代と環境時代の融合を象徴するイコンと...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.128-129
[建築を拓くメディア]
建築系の映像といえば、デルファイ研究所からリリースされた「現代建築家シリーズ」が基本的なビデオといえるだろう。ロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウンの夫妻が、サンマルコ広場で発見したことを語ったり、「ディコンストラクティヴィズム・アーキテクチャー」展の会場風景やシンポジウムの様子が見られるなど、ポストモダ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.134-135
[建築を拓くメディア]
森川嘉一郎は『趣都の誕生──萌える都市アキハバラ』(幻冬社、二〇〇三)で、未来の都市の景観を予想しようとする時、一九七〇年代までならば、建築家がつくる建築作品の動向を見ていればよかったと述べている。建築家たちの間の流行を組織設計事務所が取り入れ、さらにそれを建設会社の設計部が取り入れるから、都市には一昔前の建築家の作品...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.132-133
[建築を拓くメディア]
マテリアルが建築を誘導する。 ヘルツォーク&ド・ムーロンやピーター・ズントーらの建築を通して、私たちはその事実を目撃した。彼らの作業がもたらした建築におけるマテリアルの可能性とは、ひとつには建築における表層の復権であり、もうひとつは建築の組成を再編成させるマテリアルの可能性である。ヘルツォーク&ド・ムーロンの建築が提示...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.116-117
[建築を拓くメディア]
読み解けない住宅 かつて篠原一男は「住宅は芸術である」と言った。唐突に聞こえるこの言葉には、時代を背景にした彼独特の住宅観があった。戦後間もない頃、建築生産の主流であった〈住宅〉。急速に発展する日本経済のなかで、住宅生産を取り巻く環境は驚くほど早く整備された。「住宅は芸術である」という篠原の論考が『新建築』に発表された...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.114-115
[建築家的読書術]
読書術とのことだが、単なる読書案内になってしまうかもしれない。 とりあえず文学作品から始めてみよう。山尾悠子の「遠近法」という作品。〈腸詰宇宙〉というのがあって、基底と頂上のない円筒形の内部に広がる(と言っても上下方向のみだが)宇宙の話。彼女の作品には澁澤龍彦、三島由紀夫、光瀬龍らに通じる終末感とエロティシズムとサディ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.100-101
[建築家的読書術]
研究室の学生を建築現場で教えて大学に戻ったところだ。建築現場と言っても貸アパートと個人住宅の複合小建築。施主が住宅部分の内装と屋上部をセルフビルドする建築の現場である。教育と言っても、セルフビルドとは何か、クロード・レヴィ=ストロースの言うブリコラージュとの関連は、とか、ヘンリー・デヴィッド・ソーローの『森の生活──ウ...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.96-97
[建築家的読書術]
当たり前のことかも知れないけれど、本を読んだり、展覧会に行ったり、映画を見たりするときに、建築に役立つかどうかということは特に考えない。自分の素朴な好奇心に任せている。しかし僕の作る建築自体が、その同じ素朴な好奇心から出発しているのだから、どこかで繋がりがあるのは確かなのだろう。 レクチャーのあとの質問の時間に、どうい...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.102-103
[建築家的読書術]
これまで読んできた本のなかで深く感銘を覚えた建築書のひとつに、ピラネージの『建築に関する所感(Parere su l’Architettura)』がある。この書は知る人ぞ知る名著で、これまで邦訳されてこなかったのが不思議なくらいであったが、ようやく昨年、中谷礼仁氏の企画により『ピラネージ建築論 対話』(アセテート、二...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.104-105
[建築を拓くメディア]
コンペが現代建築史で果たしてきた重要な役割については、あらためて強調するまでもないだろう。それは勝者だけの歴史ではない。《シカゴ・トリビューン社屋》でのグロピウス案や《国際連盟》でのル・コルビュジエ案がそうであったように、むしろ敗者の案、実現されなかった案が後世に残り歴史をつくってきた。多くの建築家が認めているように、...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.111-113
[建築を拓くメディア]
跳躍台としての言葉 建築は、言葉では建たない。 千言万語を華麗に費やしてみても、建築が現実につくられゆく情況のなかで、言葉はモノの具体性に対して塵ほどの力も持ちえない。いかな理論の糊塗も、モノとしての建築を前に、ことごとくはじき飛ばされる。建築という現実態において、言葉は重ねれば重ねるほどその訴求力を減じてゆき、モノが...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.106-110
[建築を拓くメディア]
建築ガイドブックのすすめ──総論にかえて 学生であろうとなかろうと、およそ建築を志すすべての人のなかで、建築を訪れ、巡り歩く(そう、まさに巡礼という言葉がふさわしい)経験を持たない人はいるまい。ガイドブック片手に、自分の住んでいる周りの都市から、言葉もろくに通じない外国まで。これだけだと一見普通の観光客と同じように聞...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.136-139
[建築を拓くメディア]
あなたの利き目は右? 左? と訊かれて、迷わず即答できる人はそんなに多くないだろう。近くの物を見ながら片方ずつ目を閉じて、両眼で見ているときと同じ映像が見えれば、もちろんそちらが利き目だ。しかし、たとえ同じ映像が見えていても、片目視には、両眼視に比較してはっきりと欠落しているものがある。奥行き、すなわち、空間を認知...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.140-141
[論考]
Google Map / Earthが人々にもたらしたインパクトと位置情報に対する意識改革 検索エンジンで知られるGoogleが提供するロケーションベースのツールとしてGoogle Map、Google Earth★一が注目を浴びている。地図に関わる仕事をしている人々、ロケーションベースの仕事に関わる人々の間が顔を合わ...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.84-85
[論考]
365dpi The project is an organized sampling of the world. There is a confluence within 49 miles (79 km) of you if you’re on the surface of Earth. (The Degree C...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.82-83
[論考]
1──東京都区部の地形段彩図。標高5m以上を黄色系で描画 出典=国土地理院「数値地図5mメッシュ(標高)東京都区部」国土地理院が発行している「数値地図5mメッシュ標高データ」というものがある。航空機を使った緻密な測量データをもとに、地上構築物や樹木などを除去した「地表面データ」として作成されたものだ。数値は〇・一メート...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.86-90
[論考]
一九八四年九月、長野県西部での強震による大規模な地滑り崩壊が起きた。斜面を形成していた溶岩層や軽石層、火砕岩などは、大小さまざまな岩土と共に谷斜面に生えていた樹木や地表面を削りとり、高速で流れ落ちていった。僅か数分足らずの間に海抜二五〇〇メートルの高さにあった三〇〇〇—四〇〇〇万立方メートルもの土塊は、海抜一〇〇〇メー...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.91-93
[論考]
国土地理院が発行する数値地図は、さまざまな地理情報を「地図」ではなく「数値」つまりデータの形にしてCD-ROMなどに収めた物である。 適切なソフトウェアを用いればその「数値」を意識することなく地形図などの形態に出力することが可能である。しかしデータの中身に直接ふれずにソフトウェアを使っているだけでは満足する結果を得ら...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.102-104
[インタヴュー]
石川初──「Living World」★一の活動や作品には、僕らが「グラウンディング」と呼んでいるような視点に共通するものを感じますし、啓発されています。今回は、あらためてその「テーマ」をお聞きしたいと思いました。去年(二〇〇五)の夏に、「窓」というタイトルで個展をされました★二。 1──LW with 下村義弘(SD...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.98-99
[論考]
ある土地に生えている植物群を総称して「植生」という。植生を構成している植物群落は、その土地の環境に応じて、それぞれ特有の出現比率や組み合わせのパターンを作ることが知られている。似たような立地条件のもとではほぼ同じようなパターンが発現するし、何らかの条件が大きく変化すればそれにつれて植生も変化を見せる。植生は環境条件を強...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.78-81
[論考]
歌川広重による浮世絵シリーズの傑作「名所江戸百景」。この一二〇枚ほどの浮世絵は、安政三(一八五六)年から五年にかけて出版された。つまりそこに描かれているのは江戸といっても明治の世からわずか一〇年ほど前の風景ということになる。名所と銘打たれてはいるが、いわゆる名所図会のような単なる有名スポット紹介の絵はあまりなく、どちら...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.76-77
[建築を拓くメディア]
カタログと建築|田中陽輔建築展覧会という形式 建築展覧会という形式が存在する。そして、世界各地の近現代美術館の重要なコンテンツとして確立されている。ただし、ある性質において、それは美術展やデザイン展と決定的に異なる。通常、建築展はパヴィリオンという形式を除けば「なま」の建築の展示を意味するわけではなく、その表現を模型...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.146-149
[建築を拓くメディア]
本稿が活字になる頃にはすでに開幕しているはずなのだが、「愛・地球博」(以下愛知万博)が一向に盛り上がる気配を見せない。スタジオジブリが「トトロ」の民家を再現するといった散発的なニュースこそ聞かれるものの、景気のいい話はほぼ皆無、会期が近づいていると実感するのは、時折NHKでイメージキャラクターのモリゾーとキッコロを起用...
『10+1』 No.38 (建築と書物──読むこと、書くこと、つくること) | pp.144-145
[論考]
われわれがいま立っている場所がなんなのか、知りたい。 その空間や時間を、そこを歩きながら確かめたい。 グラウンディングとは、実践の方法論である。自分で地表を歩いてみることはもちろん、ツ ールひとつにしても、適切なものを選んで手に入れ、実際に使ってみる。それを携えて街に出て少しずつ使いこなしてゆきながら、新しい使い方を思...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.62-65
[論考]
GPSのアーキテクチャ 本特集号のキー・デヴァイスである「GPS」。まずはその技術的知識をおさらいしてみよう。 「GPS」は、もともと一九七三年にアメリカが軍事衛星として打ち上げた衛星の名前であった。現在では、ナブスター衛星群を利用して位置を特定する(ポジショニング)システムの総体をGPS(Global Positio...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.66-67
[論考]
1──マラソンから見る「地形」について 「東京国際マラソン」は、日本のマラソンコースの中でも「最も難しいコース」と言われている。それもそのはずである。マクロに見れば大きな台地のスタート地点から低地のゴール地点へ大きく駆け下りていくのだが、さらにその過程でいくつものミクロなアップダウンを複雑に通過していく。折り返し地点を...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.73-75
[論考]
各路線ごとの縦断面図引用出典=カシミール3D+国土地理院オンライン地図+5mメッシュ標高で作成何気なく電車に乗った時に意識せず先頭車両に乗ってしまうことがある。筆者たちは特に鉄道にただならぬ愛着を感じる類の人間でもないが、そんな時は素直に運転席の脇の窓から進行方向を眺めたくなる衝動に駆られる。座席からの眺めよりも、より...
『10+1』 No.42 (グラウンディング──地図を描く身体) | pp.68-69
[批評]
都市は設計できない──計画都市 都市は設計できない。そう思ったことから、このプロジェクトは始まった。 都市計画、と聞いて、普通、何を思い浮べるだろうか。 輝ける都市のスケッチ、東京計画1960のモンタージュ、用途地域の色分け地図、交通量予測の計算書。 いずれも結果を記したものである。一枚の絵としての都市、ゴールとして...
『10+1』 No.07 (アーバン・スタディーズ──都市論の臨界点) | pp.125-140
[図版構成]
都市の四畳半は、電子ネットワークと現実の都市の接点にかろうじて生じるミニマルな空間である。モーバイル・インテレクチャルを気取って四畳半をオフィスにするもよし、もしあなたが都市と戯れる術を持った人間なら、都築響一が言うようにシャレで借りることさえ可能だ。このような都市の部屋は「住まい」という概念からは遠く隔たっている。い...
『10+1』 No.05 (住居の現在形) | pp.104-104
[論考]
1 ナポリにおける断絶 早くも灰色がかったくすんだ髪が額にかかり、鼻は細く尖って、唇は薄く蒼ざめ、目は異様に澄んでいた。灰色の、あるいは蒼いとも白いともつかぬ両の目は、魚のそれを想わせた。右の頬に長く筋を引いた傷跡があった。どこか不意に私の心を揺さぶるものがあった。それは耳、ごく小さな、血の気のない耳だった。蝋や牛乳...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.242-251
[論考]
一八七〇年代半ばから一八八〇年代前半。本稿では、この時期にパリを舞台に活動した前衛的な画家たちによる、都市を表象した油彩画を主な考察の対象として論を進める。 一八七〇年から七一年にかけて勃発し、第二帝政に終止符を打ったパリ・コミューンと普仏戦争によって破壊された首都、その再建が急ピッチで進行しつつあった一八七四年に、後...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.233-241
[論考]
1 皮を剥がれた建築 建築物をひとつの身体に喩えるならば、皮膚にあたるのは外壁である。建築物が時間の手に晒され続ける限り、傷や病、あるいは老いは、不断にその皮膚を脅かし続けることとなる。しかし、この建築の外皮へ、あるいは内部と外部との境界を巡る病理へととりわけ執拗な眼差しが注がれたのが、一八世紀の「紙上建築」という分野...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.218-224
[論考]
一番悪いことは、突然の、おぞましい白日の苛酷さだった。わたしは見ることも見ないこともできなかった。見ることは恐怖であり見るのをやめることは額から喉までわたしをひき裂いた。 モーリス・ブランショ 1 ここに一枚の写真がある[図1]。右手に握り飯をつかんだ少年が、まっすぐにカメラを見つめている。頬や額を汚しているのは、傷...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.252-259
[特別寄稿]
0 はじめに 全体主義はこのようにはじまる。あるグループの人々が社会解体の「しるし」としてターゲットにされ、「憂慮すべき未曾有の事態」がくりかえし指摘される。生まれてからの年数が短い人、所属しない人、交わらない人、国籍や民族や宗教が多数派と異なるとされる人、理解や共感ができずに不安感を与える人は、そういう「しるし」にさ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.260-269
[ルポルタージュ]
藤森照信《高過庵》 多くの人たちと同じく、僕も《高過庵》をはじめて知ったのは建築雑誌によってであったが、こうした少し突飛な建物を実現する藤森照信という人に対して、またまたやられたという感嘆を禁じえなかったことを憶えている。これまでも藤森の建築には、屋根一面にニラが植わっていたりと、こんなことをほんとうにしてしまったのか...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.52-63
[特別寄稿]
0 二〇〇五・夏──大久保・百人町界隈 梅雨明け後のある暑い日。久々に新宿区の大久保・百人町界隈を歩く。一年前に居を静岡に移した後も、週に一度、東京の大学での講義のために上京しているが、ふらっとこの町を訪れる余裕はなくなっていた。しかし学期末を迎え、久しぶりに学生とともにフィールドワークの実践および韓国料理店でのコンパ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.270-283
[論考]
1 人間の不在/マネキンの現前 士郎正宗の『攻殻機動隊』、あるいは押井守の『イノセンス』における義体─義手や義足のように人間身体を人工物で代置したもの─は、普通の人間身体よりも多くの「穴」を持つ。すなわちそれは、首の後ろにある四つのジャックである[図1]。義体はこのジャックを持つことにより、都市のいたるところでネットワ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.208-217
[翻訳]
屈折は、変異する曲率を持つ表面を記述する記号である。だが、非存立[inconsistance]と移行存立[transistance]の間にあるこれらの表面を、ほかの記号によってうまく指示することができるかもしれない。こうしてオジーブと螺旋が同様に、曲率の変異にとっての可能な形象を提供することになる。ただし屈折は、線ある...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.192-207
[論考]
1 セクシュアリティが構成する空間 次のようなシチュエーションを想像してみてください。一〇月のある日曜日の午後、あなたはJR新宿駅東口を出て、青い秋空の下で新宿通りを四谷方面にゆっくりと歩き出し、週末の人ごみに巻き込まれながら路上にしばしば繰りひろげられる小さなドラマを観察し、相互にそのドラマの演じ手に眼差される半日を...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.118-129
[論考]
I-a 世界に一人の予知能力者がいると想定してみよう。彼は未来の出来事すべてを見通すことができ、その点で神のような存在であるが、しかし、ある一点において神から決定的に隔てられている。すなわち、彼は全知の存在ではあるが全能の存在ではない。神において知ることと行なうことが等価であり、いわば神は世界を創造することによって、そ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.108-117
[翻訳]
われわれには新公園しかない、と想像してはならない。思考して、周りを見渡してみるんだ。どんな場所も、トンチーが集まり、われわれの場所だと主張できる拠点になりえるのだ。 『愛紙(アイ・バオ)』第二号論説(一九九四) 残念ながら、言説に対抗できる唯一の防御策は言説なのだ。そして「エイズ」についてのそれ自体汚染されていない...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.130-143
[論考]
1 背景 日本では、九〇年前後から横浜市中区、旧東急東横線の桜木町駅─高島町駅間約一・四キロメートルに及ぶ高架下の壁面に多くの若者が競い合って「グラフィティ(graffiti)」を描くようになり、桜木町はグラフィティの「聖地」とまで言われるようになった[図1]★一。九〇年代半ば以降は、同所に限らず、鉄道・車道沿線、看板...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.144-155
[論考]
1 ヴァーチュアル・ハウスと襞の形象 インターネット環境がパーソナルなレヴェルで普及していった一九九〇年代に、さまざまな分野で「ヴァーチュアル・リアリティ(VR)」をめぐる議論が交わされていたことは記憶に新しい。もちろん厳密に考えるならば、ウェブの普及と、諸感覚のシミュレーションをめざす狭義のVR技術が直接関係を持つわ...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.184-191
[対談]
小林──荒川さんのお仕事のひとつの転回点とでも言うべき《三鷹天命反転住宅》が三鷹ででき上がりつつあります。養老のオープンスペースの実験に続いて、とうとう集合住居が実現したというのは画期的だと思います。この仕事全体の哲学的な基礎とでも言うべきことは、マドリン・ギンズさんと荒川さんがお書きになった『建築する身体』(春秋社、...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.169-183
[対談]
住宅における構造の現在 町田敦──技術、エンジニアリングの領野についての関心が最近、ますます高くなってきているようです。そういう時期なのですが、建築という分野において構造的なアイディアはすでに飽和しているかのように見えることがあります。構造設計者はその限界を感じているからこそ、自らの職能を開拓しているかのように思えるの...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.73-79
[インタヴュー]
建築の性能と耐久性の評価 今村創平──今号の『10+1』では、実験住宅という特集が組まれるのですが、日本では、五〇年代、六〇年代に、広瀬先生、池辺陽さん、増沢洵さん、清家清さんといった方々が、多くの実験住宅を作られ、その時期はある意味では、日本における実験住宅の青春期とも言えると思われます。それぞれの方が、明快な方法論...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.80-89
[論考]
時は二〇〇四年四月。早くも日本滞在五年を迎えていた。間もなく台湾に帰る。帰国前、何か締め括りになることがないだろうかと思ったとき、藤森先生が実家の茶室の建築を手伝える人を探していた。 藤森研究室に入ってから、先生の作品の施工に参加する機会を逃したことは一度もない。二〇〇〇年一〇月の《椿城》から、二〇〇三年三月の《一夜亭...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.146-153
[論考]
建築は時間を遅らせる機械である★一 ロラン・ボードゥワン 最近わたしは学部学生のグループがアメリカのある儀式を見学するように手配した。鉄工職人、建築家、クライアントたちは躯体に取り付けられる旗と小さな常緑樹で装飾された最後の鉄骨梁に署名をし、梁はあるべき場所へと持ち上げられていった。...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.142-145
[論考]
西洋の建築家と批評家たちは、現代の日本に長期間住み続けていない限り、藤森の作品を理解する際、間違いなくいくらかの戸惑いを感じるであろう。 西洋の批評家たちは、建築家の作品が工芸技術と地元の伝統を用いたものであると、すぐに、“批判的地域主義”と呼ばれるムーヴメントへ関連づけたり、“コンテクスチュアリズム”について話しだし...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.154-157
[論考]
一 まなざしの送り返し 一九六〇年代前半から勃興しはじめたデザイン・サーヴェイが、保存の問題や設計リソースの収集という「有効性=有能性」を保持していたのに対して、六〇年代後半、雑誌『都市住宅』に連載されていたコンペイトウ★一や遺留品研究所★二などの活動は、前期のデザイン・サーヴェイがもつ「有効性=有能性」に対する批判と...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.108-119
[インタヴュー]
一九二〇年代の建築状況 日埜直彦──今回は磯崎さんの建築家としてのキャリアの最初期について伺いたいと思っています。 すでに『建物が残った』で当時のことについて多少書かれていますが、それを読んでいてもなかなか見えてこないのが岸田日出刀の特異な存在です。彼は戦中戦後の近代建築をリードし、その後の展開に大きな影響を与えたわけ...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.149-158
[論考]
ここでは、アンビルトの実験住宅について見ていくのだが、そもそも実体を持つ建築というジャンルにおいては、アンビルトというあり方そのものが、きわめて矛盾をはらんだものであり、それだけで実験的であると言えてしまう。そこで、まずは住宅に限らず、建築全般におけるアンビルトについて考えてみる。 計画が頓挫してしまい実現しないという...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.98-104
[論考]
一 近代アジア調査術の誕生 一九八五年、『東アジアの近代建築』という一冊の本が刊行された★一。これは、村松貞次郎退官記念として、藤森照信の主催で行なわれた同名の国際シンポジウムにあわせてのことであった。 巻末に付された近代建築のリストを見るならば、この本は、一九八七年以降、藤森を代表として展開していく「近代アジア都市遺...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.134-141
[論考]
建築の保存には理論など不要である。ただ実践あるのみ。折に触れて、藤森照信はこう語っている。確かに、藤森が正面から保存について語った論考を目にすることはほとんどない。 筆者は、日本で建築保存の概念が生まれた明治期の様相について研究をしている。これまで何度か藤森の指導と助言を受けてきたが、藤森が問う内容はいつも、保存の概念...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.120-125
[論考]
│1│ 建物概要 《トヨタ夢の住宅PAPI》(以下《PAPI》)は、トヨタ自動車(株)およびトヨタホーム(株)によって、「愛・地球博」に合わせて愛知県長久手町につくられた実験住宅である。東京大学情報学環、坂村健教授を監修に迎えていることからも、同氏の《TRON電脳住宅》(一九八九─一九九三)の流れを汲む情報技術を中心と...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.105-112
[論考]
二〇世紀という工業化の時代を生き抜いたジャン・プルーヴェ(一九〇一─一九八四)がコンストラクター(建設家)として、マレ・ステヴァンス、トニー・ガルニエ、ボードワン&ロッズ、ル・コルビュジエなどフランス近現代建築史を代表するさまざまな建築家とコラボレートし、数々の建築や家具の「名作」を遺したことはよく知られている。しかし...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.90-97
[翻訳]
メディア・ハウスは、マサチューセッツ工科大学メディアラボ・コンソーシアム(思考するモノ)とバルセロナのメタポリス・グループ、カタルーニャ・ポリテクニカ財団がI2CATコンソーシアムとエリサヴァ・デザイン・スクールとのコラボレーションにより作り上げた戦略協定(strategic alliance)の成果である。この戦略協...
『10+1』 No.41 (実験住宅) | pp.113-124
[論考]
一 はじめに──とにかくオモシロイ、ダイオンシ 生きている間に、しかもまだ現役の大学教授として、あるいは現役の建築家として、エネルギーに満ちあふれている「この人」について、次々と特集が組まれ、出版物が刊行されているが、こうした例をあまり知らない。 藤森照信先生、筆者にとってはダイオンシ、大きな学恩のある師、「大恩師」...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.78-83
[論考]
一 ヒロシマの無縁仏/ナムサンの住宅地 丹下健三との共著というかたちをとった藤森照信の『丹下健三』(新建築社、二〇〇二)に、丹下自身が撮影したという建設中の広島ピースセンターの写真が載っている[図1]。荒々しく型枠の痕跡を刻むコンクリートの塊が、かぼそく頼りなげな足場に囲われて屹立する、その前面に焼け焦げた墓石群が横た...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.90-99
[論考]
六月は竜宮城に入っていた。その前の四─五月にはよく問われたものだ。 「今回はドイツに行かないんですか?」。 「いまの日本代表はね、応援するに値しないチームだからさ、ドイツに行く気にはなりません」。 ワールドカップの魅力は、世界の強豪チームのサッカーを堪能できることであり、日本代表の応援など些末な事柄であるから、日本代表...
『10+1』 No.44 (藤森照信 方法としての歩く、見る、語る。) | pp.84-89
[論考]
一九七九年に王立英国建築家協会で行なわれた「現在の都市の苦境」と題する講演において、〈近代建築の破滅〉について語るコーリン・ロウは、それをひとつの寓話の形として提示している。 彼女の死(近代建築が女性であるのは間違いないところだ)の原因は、その気質の純真さに帰せられよう。タワーとまったく手つかずの空間への常軌を逸した...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.100-107
[翻訳]
一九世紀末にヨーロッパの大都市が急成長し、伝統的な都市は 大 都 市 (グロース・シュタット)あるいはメトロポリスとして知られる都市形態に変わった。この変容によって、モダニズムと前衛というきわめて重要な文化が生み出されただけでなく、社会学、心理学、政治地理学、精神分析といった新しい学問分野に基づいた、新しい都市...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.80-99
[翻訳論文]
各時代の指導精神は、サント・シャペルからリヴォリ街に至る、その時代を記念するような建造物のなかに具象化されている。しかし、この素晴らしい遺産は混乱しきった街中に置かれ、記念碑的な建造物も錯綜した街路に囲繞されて、孤立させられていた。ナポレオン三世のもとでセーヌ県の知事を務めたジョルジュ・ユジェーヌ・オスマン(一八○九—...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.125-136
[プロジェクト・論考]
「軒切り」という言葉を耳にして、どういうイメージを抱かれるだろうか。筆者自身の場合は、近代大阪の都市計画事業を調べているときに初めて知った言葉なのであった。それはどうやら、市電の敷設や道路の拡幅事業に伴う家屋正面の削減や後退のことを意味していたらしい。それら事業の激しかった大正時代に、街中から自然に生まれた言葉であった...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.113-118
[翻訳論文]
建造環境が建造されるのは建造を許可されたからである。建造環境が建造を許可されたのはそれが制度ないしは支配的文化を表象し反映しているからである。建築物の予算がパブリック・アートの予算の一○○倍あるのは、建築物が仕事と生産物とサービスを提供しそれは市の財源を増加させるからである。パブリックアートは二級市民のように、裏口から...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.137-148
[翻訳論文]
スケートボーディングは、都市環境と対立するものだ(「スケートボードは、所持品検査を受けずにストリートで武器として使える唯一のもの」★一)。スケートボーダーたちは、自分たちのために空間を再定義する際に、物的にだけでなく概念的にも空間を取り入れ、そうすることで、街によって誰もが理解するものの核心に一撃をくらわす。スケートボ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.149-158
[万博という問題系1]
《タカラビューティリオン》《東芝IHI館》 五十嵐——黒川先生のお仕事は多岐に渡っていますが、今日は「万博」をめぐっていくつかおうかがいしたいと思います。 まず、七〇年の大阪万博において、黒川先生は一九六〇年代に提案された実験的なアイディアを試みる場として、二つのパヴィリオンと空中展示のカプセル住居を手がけられています...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.64-79
[翻訳論文]
ここまで、このコラボレーションに対する期待を概説し、その期待が必然的に遭遇したゆがみや留保を指摘してきた。これによって多くのことが得られているだろうか。あるいは、このイヴェントを通じて最も険しい道をたどることによって、最も楽な道をとったのだろうか。会合の記録とデザインを調べれば、速やかかつ正確に、これまで議論してきた以...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.171-185
[論考]
監視カメラの氾濫 二○○三年二月、ロンドンに渋滞税(コンジェスチョン・チャージ)が導入された。これは、ロンドンの一定区域内を自動車で通行する際に、一日五ポンドの税金を払うというものである。その最大の目的は、慢性的な都心部の渋滞を緩和することにあるらしい。指定区域内のすべての入り口の街路には、渋滞税ゾーンを示す「C」の文...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.106-112
[論考]
ギィ・ドゥボールは果たして街路(ストリート)を愛していただろうか? 彼は街路で考え、書く人間だったのか否か? 答えやすいようで、実は答えにくい問いである。 この問いを考え直すことは、一九九○年代中盤以降のカーニヴァル的な街路での運動やアクティヴィズム、文化研究や社会理論における「空間論的転回」についてふりかえることにな...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.97-105
[街路への視座]
スコットランドの首都エディンバラの中心部に、オールドタウンとニュータウンと呼ばれるなんだか人を食ったような俗称をもつ地区がある。前者はエディンバラ城下に発達した中世からの歴史をもち、後者は一八世紀末以降の都市計画による★一。言ってみれば、中世都市と一九世紀初頭の計画都市とが極めて狭い区域の中で対峙しているのだ。ここには...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.82-83
[街路への視座]
街路と道路 東京の湾岸線はどこも、江戸時代から続く埋め立ての歴史が年輪のように、街の形に刻み込まれている。この年輪を横断するように歩くと、それぞれの時代の街や路の規模の変遷(の残滓)を追って見ることができる。 品川区の東品川から八潮にかけてのあたりは、もともと丘陵地と海岸が近く接する細長い地形のうえに、東京から横浜方面...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.79-81
[街路への視座]
失われた街路の名 よく言われることだが、街路の名前がそのまま住所になっている欧米の都市地図は、基本的に「ストリート・マップ」である。多くの市販の地図には、すべての街路・道路の名前が記載され、欄外にはしばしば街路の名前の一覧があり、地図は「街路の関係を参照するインデックス」として使えるようになっている。一方、日本の都市地...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.86-88
[街路への視座]
巷へ 表題は「街路で」を表わす英語の表現である。「路」という日本語からは、平面を含意する「on」という前置詞が想起される。そうではなくて容量を持った空間の内を意味する「in」を用いる理由としては、「ストリートとは、単なる平面としての道を意味するのではなく、道の両側にある建物も含めた三次元を含意しているから」とされるよう...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.89-90
[街路への視座]
「ストリート」の観念は、ある種のポップ・ミュージックにおいてロマンティックなイメージを付与するものとして機能している。路上を彷徨い社会に牙を剥くパンク・ロッカー、不法に路上を占有し、ダンス空間へと塗り替えるヒップホップDJ。そのような「ストリートのイメージ」は、パンク・ロックやヒップホップといった、アウトサイダー性をそ...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.94-96
[街路への視座]
人は都市に何を求めるのだろう。賑やかで、華やかで、どこか空虚な、それでいて足を向ければけっして拒まない。そんな開かれた扉が都市の魅力だろうか。扉が開かれているといっても、その扉の向こうに何があるのだろう。われわれはそこから、どこへ向かおうというのか。 都市での経験とは一言で言って、自由への飛翔である。文化人類学の山口昌...
『10+1』 No.34 (街路) | pp.91-93
[インタヴューを終えて/昭和残響伝リターンズ]
さよなら万博、三たび 二度あることは三度ある。万博にさよならをするのは、これで三度目になる。まずはじめは「太陽のうらがわ/太郎のはらわた」と題したインスタレーションで、である。これは太陽と爆発の芸術家として知られる岡本太郎の闇の部分に取材したもので、民族学者としての岡本という見立てのもと、南青山の太郎の家の庭から拝借し...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.112-115
[論考]
私の目的は、万博の根本原理である国民国家に囚われない、自由な美術展を創造することにある。 万博と国民国家 アメリカの参加が意味するもの クレオール文学者のモーリス・ロッシュは、一九世紀に始まった万博は、西欧の都市国家から国民国家へ、そして市場経済形成へと近代化していく変遷の過程の産物であったとしている★一。一八七〇年...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.116-124
[東京カタログ]
隅田川を南へ下っていけば、やがて永代橋をくぐり、海へ入ることになる。だが、海には埋め立ての島が続いており、隅田川はそのあいだを運河のように続いていく恰好になる。隅田川の右側の地には日本橋や銀座の繁華街があり、岸辺近くには聖路加病院の超高層タワー、築地本願寺、中央卸売市場、浜離宮恩賜庭園などが続いている。これらの対岸にあ...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.136-137
[東京カタログ]
青山霊園は港区の南青山にあり、徳川の譜代、郡上藩・青山家の屋敷地だったところにある。旧幕時代、死者の埋葬は寺院が管理していたが、一八七四年、この地に寺院・神社などの管理に属さない公共の墓地が開設され、青山墓地と呼ばれた。そこには二重の意味がある。ひとつは、明治新政府が「神仏分離」を押し進め、死者が仏教の専管から離れてい...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.134-135
[東京カタログ]
東京大空襲があったのは一九四五年三月一〇日未明のことである。二時間半の無差別爆撃が行なわれたが、風速二〇―三〇メートルに及ぶ強風のもと、黄燐焼夷弾が降りそそぎ、当時の浅草区、深川区、城東区、江戸川区などが火災に巻き込まれた。警視庁の資料では、このときの死者は約八万人、罹災者は一〇〇万人に及んだ。永井荷風は日録(『断腸亭...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.138-139
[東京カタログ]
都会の喧噪を避けてより大きな喧騒に身を投じてまで、なぜ人々はわざわざ東京のクラブにゆくのか。 暗くて閉鎖的な印象の強いクラブという空間は、現在はひかりに満ちて開かれた〈現われの空間〉であり、いまやグローバルな共時性とシンクロする場所となっている。そこには日常から逃避する以上の何かがあるのだ。だから人々はハコに向かう。体...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.148-149
[論考]
1 身体・イメージ空間の襞 一九六〇年代にマーシャル・マクルーハンが『メディアの理解』で電気メディアを身体外部への中枢神経系の拡張であると述べるのに先だち、二〇世紀初頭のゲオルク・ジンメルやヴァルター・ベンヤミンの都市論は、近代都市の経験が人間の神経に及ぼす作用を通じて、都市における人間身体を一種のサイボーグととらえる...
『10+1』 No.40 (神経系都市論 身体・都市・クライシス) | pp.70-79
[シンポジウム]
アーキグラムとカウンターカルチャー 五十嵐──「アーキグラムの実験建築一九六一─一九七四」展は、展示の構成を巡回しながら少しずつ変えていくもので、アーキグラムの手法や雰囲気がすごくよく出ていると思います。これは、このシンポジウムに先だって行なわれたアーキグラムのメンバーによるレクチャーと似ているという気がしました。つま...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.174-184
[論考]
1|悲しい母親たち 空き家を利用した地域の老人集会所から、豪華ホテルのような介護付高齢者住宅まで、高齢者向け施設は着実に増加しつつある。団塊の世代が高齢期を迎えようとしており、高齢者人口の急激な増加が見込まれることがその背景にあると信じられている★一。かつて「老人ホーム」といえば、それほど響きのよいものとはされなかった...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.100-105
[論考]
序 東京にクラブとよばれる空間が、都市に穿たれた穴のように点在している。 一九八九年、現在に直接つながるクラブ、芝浦GOLDが出現した。九〇年代前半、バブル最後の仮象をはなったジュリアナ東京などの大型ディスコと入れ替わるようにして、クラブは増殖していく。その後、ハウス、テクノ、ヒップ・ホップ、トランス、レゲエなどへ細分...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.92-99
[論考]
戦争と万博の類似に気づいたのは、愛知万博の仕事を引き受けたときだった。 通産省(当時)が日本政府館の基本理念を作成するにあたり、河合隼雄や川勝平太など、二〇人の委員を選定したのだが、多忙な著名人が全員出席する会議を繰り返すのは難しい。そこで筆者がヒヤリングを行ない、意見をもとにテキストを書くというものである。二〇〇〇年...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.155-163
[論考]
昨日まで何の変哲もなかった万博で、 人々が列をなし、群がっていたのに、今や見よ、 まるで魔法の杖でできたように、 透明なガラス製の輝くアーチが、輝きを失い、 忘れ去られ、 それこそ透明な存在になっているではないか。 しかし、跡地がその瞬間から始まり、 それこそ新たな存在として、 何かを感じる人々もいるだろう。 ゆっくり...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.125-144
[論考]
博覧会と観光 一九七〇年の大阪万博は開催期間中に六四〇〇万人を超える入場者を数えたが、その数は国内の観光量にも反映された。七〇年に国民が一泊以上の観光旅行に出かけた量は、一九六〇年代を通じて毎年増加傾向にあったなかでも最も高い値を示し、その内容も会社による慰安旅行が減少し、個人の行楽旅行が増加するという変化を見せていた...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.164-177
[論考]
1 万博──政治経済学の系譜 一八五一年のロンドン以来、万博──万国博(exposition universelle)、国際博(international exhibition)、世界博(world fair)等々──は「進歩の時代」を象徴するイヴェントとして幾度となく開催され続けてきた。この進歩の時代を眺めると、万博...
『10+1』 No.36 (万博の遠近法) | pp.178-186
[論考]
1|聖家族 その場所は、「世田谷」という典型的住宅地の通念から外れたどこか孤独の風景を構成している。周囲の私鉄の駅から徒歩で一五分から二〇分程度、けっして歩けない距離ではない。実際、隣接する公園に昼間集うスケボー少年たちは夜になれば新宿のビル街へと移動するという★一。だがこれは現場に「陸の孤島」とも呼ばれる「距離」が分...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.82-91
[対談]
「生きられる東京」という問題設定 内田──今回の特集を機に「生きられる東京」ということを考えてみました。都市の社会学的研究や文化の研究が持っている枠組みがあります。また、その枠組みの根底には明示的に意識化されなくてもそれなりの社会概念があります。その社会概念というのは、都市社会学や都市の文化的研究がはっきり言わないとし...
『10+1』 No.39 (生きられる東京 都市の経験、都市の時間) | pp.66-81
[論考]
つい先日のことである。筆者の自宅近くで電線を地中埋設する工事が始まった。広い公園の脇を通る道の景観を全面的に改修しようというものだ。ほどなくして、電柱のない「美しい」通りは完成した。ところが、だ。はたと気づいたのだが、大通りの電線を埋めたぶん、今度はその枝線にあたる小径に面したわが家の前の電柱には、数知れぬ碍子やら、「...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.104-111
[論考]
「物はなぜゴチャマゼになるのか」というグレゴリー・ベイトソンと娘メアリーの会話がある★一。自分の部屋が直ぐ「ゴチャマゼ」になるのはどうしてか? と問うメアリーに父親ベイトソンは「片付いた」状態より「ゴチャマゼ」状態の場合のほうがはるかに多いからだと答えるのだが、そこへ至る過程で見逃せないのは、片付いた状態というのは誰...
『10+1』 No.43 (都市景観スタディ──いまなにが問題なのか?) | pp.112-119
[論考]
一〇〇都市めの中間報告 『10+1』No.31「特集=コンパクトシティ・スタディ」のリサーチで、タイの一〇万人都市ナコン・パトム(Nakhon Pathom=最初の街)を訪れてから五年が経った。その間、日本の三八都市、海外の六二都市を見て回り、それぞれの都市における課題と、そこで要請されている建築の役割を調べてきた。費...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.122-123
[論考]
質問への答を出す前に、なぜ「全球都市全史」というような大風呂敷を広げようと思ったかを述べておきたい。一言で言えば、「五十而知天命」(『論語』)。五〇歳にして天命を知った。こう言えたら、格好いいかもしれない。自分でできることとできないこと、やりたいこととやりたくないことの分別が、五〇歳くらいでつくようにはなった。ぐずぐず...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.120-121
[論考]
シカゴの都市社会学派を代表するロバート・パークは、大都市(メトロポリス)をとある機械(マシーン)に見立てていた節があります。彼はこう述べていました──メトロポリスとは、一見したところ「方向変換と選別の巨大な機構」のようであると。つまり、膨大な数の人びとを惹き寄せて外延・拡大することで成長をつづけてきた都市は、同時に人々...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.124-125
[論考]
Q──次回の横浜トリエンナーレ(浜トリ)の開催が近づいてきたね。 A──うん。二〇〇八年九月一三日開幕だからもう一年もない。今回は二〇〇一年、二〇〇五年に続く三度目の開催で、総合ディレクターに水沢勉を迎えて、「タイムクレヴァス」(時の裂け目)というテーマを掲げているそうだ。参加アーティストの選考にはハンス=ウルヒッリ・...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.128-129
[論考]
東京のスリバチとは 東京の都心部は武蔵野台地(洪積台地)が東京湾に迫り出した東の端に位置しており、その台地は西から東へ流れる川の浸食作用によって刻まれ、七つの丘が連なる特徴的な地形を形成している。武蔵野台地は透水性の悪い泥岩からなるため、浸食地形は段丘状の谷が密に刻まれるのが特徴である。高低差一〇─二〇メートルの谷は、...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.136-139
[論考]
Q──最近、六本木アート・トライアングルってよく聞くけど、あれって何のことなの? A──ここ数年、六本木には立て続けに大きな美術館が開館したじゃない? そのなかでも、六本木ヒルズの森美術館、乃木坂の国立新美術館、それに東京ミッドタウンのサントリー美術館の三館を結んだネットワークのことだよ。それぞれ運営母胎が違うので、今...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.132-133
[論考]
都市を突き動かす原動力 都市が建築家の手から離れて久しい。かつて建築家は、都市の理想を謳い、都市の輪郭を描き、都市の構造を描き、都市の立面を立ち上げ、そして都市の活動の基盤となる空間を設営した。しかしながら、都市が不動産の集積、文化の集積として脈々と受け継がれていた時代は過ぎ去り、都市はどちらかといえば、金融経済のフロ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.118-119
[論考]
《都城市民会館》(一九六六)[図1]は、ぎりぎりのタイミングで残されることになった。菊竹清訓の構想力の大きさを印象づけたこの建築も、新たな市の総合文化ホールの建設を機に、解体に向けた動きが着々と進行していた。二〇〇七年二月に市長が取り壊しを正式に発表、九月に議会で解体予算が採択されて、あとは解体工事を待つばかり。そんな...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.114-115
[論考]
1 ヒューリスティクス セシル・バルモンドが革新的である点は、建築の形態決定プロセスに「ヒューリスティクス(発見的手法)」の概念を持ち込んだことにある。「ヒューリスティクス」とは自然科学や工学において、ある複雑な問題に対し近似解や知識を発見的に求める手法である。原理や理論から演繹的に解を求める方法とは異なり、乱数や確...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.104-105
[論考]
社会の飛躍的なコンピュテーション化にともなって私たちはまったく新しい空間認識と身体感覚を手に入れつつあるのではないだろうか。かつて情報革命が飛躍的に進展した折に建築や都市がどのように変容してゆくか盛んに議論されたことはまだ記憶に新しい。しかしそこでは情報空間をどのように実空間へと投影するかという問題系に議論は終始してし...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.96-97
[論考]
世界中にデコン建築の亜流が建ち始めた。日本も例外ではない。近所の工事現場で龍が天にも昇るような完成予想パースを見た。銀座の一画で津波のようなビルに出くわし、原宿に氷山が崩壊したようなガラスのビルを見た。こうしたモンスターのような建物を見ながら、一体これらの意味するものは何か考えみた。 モダニズムは視覚の時代だった モ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.106-107
[論考]
新東京タワー計画の経緯 来る二〇一一年、東京東部の隅田川沿いに、高さ六〇〇メートルを超える超高層タワーが建ちあがる計画が進んでいる。東京の再開発として最も注目を集めているもののひとつである、第二東京タワー計画である。未曾有の高みを望むこの新東京タワーが完成すれば、港区に位置する現存の東京タワーを凌ぎ、日本一の高さを持つ...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.108-109
[論考]
建築にいながら何をやっているんだと或は人から思はれる位、一寸見ると建築とは縁がなさそうに見えるかもしれないような基礎理論を各方面から切り開いて行かなければならない段階に来ているのです。そのような専門的な研究分野を計画技術と呼んでいる。一寸その場で計算尺を使って計算をするようなことはデザインの領域で結構できることだと思う...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.80-95
[論考]
新しい市民像──ユーザーのイニシアティヴ ここ数年、いくつかの市民活動の現場に関わりを持ちながら、都市とその運動について考える機会を持つことになった。それらのなかでおそらくこれからの都市の空間に影響を与えていくであろう力のかたちについて予感めいたものを見つけることになった。 例えば、二〇〇三年ぐらいからいくつかの近代建...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.110-111
[論考]
Google Mapsにまた新しい機能が追加された。これまでの道路地図、航空写真、両者のハイブリッドに加えて、「地形」が表示されるようになったのである。都市の微地形についてはまだまだ不十分ではあるけれども、自転車ロードレースの山岳コースを確認したり、盆地と平野などの都市間スケールでの地勢を把握したりするには十分な表現と...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.140-141
[論考]
もしアレグザンダーが批判的まなざしを通して再召喚されているのだとしたら有意義でしょう。しかし先ずは忘れ去られた経緯について書いておくべきでしょう。 クリストファー・アレグザンダー(一九三六-)は最もロジカルなデザイン論である『形の合成に関するノート』(一九六四)や、パタン言語を建設行為に導入した『パタン・ランゲージ』(...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.144-145
[論考]
歴史・メディア編では、一九七〇年代のロバート・ヴェンチューリらの「ラスベガス」、八〇年代のケネス・フランプトンの「批判的地域主義」とリアンヌ・ルフェーヴルの「ダーティ・リアリズム」、九〇年代から二〇〇〇年代のチャールズ・ジェンクスの「アイコニック・ビルディング」をめぐる議論を比較参照しながら、それらと異なる「批判的工学...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.98-99
[論考]
このところ東京都心部では、「東京ミッドタウン」や「新丸ビル」等、大規模再開発による大型商業施設が続々とオープンしている。経済構造改革と連動した「都市再生」と呼ばれる一連の政策によって、東京都心では二〇〇〇年以降の七年間で二〇〇棟もの超高層建築物が建設されたという★一。かつてはランドマークとして機能していた東京タワーも、...
『10+1』 No.47 (東京をどのように記述するか?) | pp.76-84
[論考]
アジアとヨーロッパの出会う場所イスタンブール イスタンブールは、ボスポラス海峡の南端に位置する人口一〇〇〇万人の都市だ。はじめてこのまちを歩いたとき、人々の顔立ちの多種多様さに驚かされた。このことはこの国が西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島にまたがって位置する地理的条件とも関連する。この地域は、古来ト...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.126-127
[インタヴュー]
「デコンの終わり」と「都市破壊業KK」/時代の分水嶺としての一九六五年、一九九五年 五十嵐太郎──今日、磯崎さんにおうかがいしたいテーマはいくつかありますが、出発点としては、磯崎さんが伊藤ていじさんたちと『建築文化』一九六三年一二月号で特集した「日本の都市空間」の問題設定を挙げたいと思います。あの特集企画は、六〇年代が...
『10+1』 No.19 (都市/建築クロニクル 1990-2000) | pp.54-67
[リード]
「アルゴリズム的思考と建築」という特集を組むにあたって、まず建築におけるアルゴリズムとは何かを正確に定義しなくてはいけないだろう。アルゴリズムとは言葉の正確な定義において算法、算術のことである。それでは、建築におけるアルゴリズムとは一体何を意味するのか。ここで誤解を恐れずに言うならば、それはかつてルイス・カーンが語った...
『10+1』 No.48 (アルゴリズム的思考と建築) | pp.70-71
[対談]
ドバイ的情況 今村創平──まず、話題性のあるドバイから話を始めるのはどうでしょうか。ドバイは、中近東のガルフ(湾岸地域)と呼ばれるエリアのなかにある、UAE(アラブ首長国連邦)でも小さな国です。中近東は、石油産出国として経済的、政策的に日本ともとても関係が深いのですが、これまで一般的にはあまり馴染みがありませんでした。...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.217-227
[翻訳]
風水:もとの場所に居つづける限り地主の繁栄はつづくという古い中国信仰。 シンガポールのグリーンプラン:われわれはブルドーザを適正な場所に導きたい。 リー・クァンユー:シンガポールは多様で変化に富むものすごく大きな世界のなかのちっぽけな場所だから、機敏でなかったり、調整がすみやかにできなければ、消えるしかないだろうし、人...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.173-197
[論考]
「地図を描く身体」と「都市を測る身体」 ユビキタス・テクノロジーによって生まれる社会のかたちについて、ビッグ・ブラザー論に代表される「監視社会」や、等身大を超えた都市のさまざまな事象・現象がコンピュータを通じて視覚的に把握可能となる「可視社会」等の議論が続けられている★一。そのような状況を受けて、私自身は、小型化・低価...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.142-143
[論考]
その問いに取りかかる前に、次の問いについて考えてみて欲しい。「バブル建築」の横行した二〇年前と現在とでは、はたしてどちらがマトモな建築の時代といえるだろうか? この問いに、もちろん現在のほうがマトモだ、と自信を持って答えられるだろうか。バブル期の建築にずいぶんひどい建築があることは皆知っている。だが今ウケている建築を冷...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.150-151
[論考]
モダニズム言語は建築の外からやってきたと言われる デヴィッド・ワトキンはモダニズム建築のコンセプトは建築に外在的な言葉によって語られていると主張した。彼は『モラリティと建築』(一九七七)★一において近代建築が、(1)宗教・社会学・政治的解釈、(2)時代精神、(3)合理性、技術性によって正当化されており、建築に固有の造形...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.148-149
[論考]
都市計画はひとつの工学的な技術体系として(…中略…)物的・実体的な諸施設の配置・構成を手だてとし、個別的・社会的なもろもろの空間や構築物を媒介として、都市社会をコントロールしようとする総合的な制御科学の体系であるといってよいだろう。 浅田孝『環境開発論』 1 爆発するメトロポリス 一九六〇年代に書かれた都市の問題に...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.96-103
[論考]
なぜ建築を扱うのに言葉が必要なのかは、これまでにも繰り返し問われてきた。そして、このところ建築と言葉の仲は、うまくいっていないのではないかという問いは続けて発せられるであろう。しかし、このような両者の関係の不安定さは、そもそも解決しえない本来的なものなのか。そしてそれは、建築の側と言葉の側のどちらにその責があるのだろう...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.152-153
[論考]
二〇〇〇年以降、東京の都心部では高速で大規模な開発が進み、湾岸地区ではタワーマンションが、バイパス道路沿いにはメガショッピングモールが、それぞれ大量に建設されている。それら都市・建築をめぐる量、規模、変化の速度に対して、社会学者や哲学者は建築家の議論の遅れを指摘するものの★一、現実の都市空間への働きかけとしては「脱空間...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.94-95
[論考]
0 メガロポリスとオーガニゼーション・マン 一九四二年、鉄道でアメリカ北東部を旅していたフランスの地理学者ジャン・ゴットマンは、ヨーロッパには見られないような数多くの大都市がそこに列をなして展開されていることに気がついた。彼はその後五一年にアメリカへ活動拠点を移し、北東部の湾岸沿いに広がるその巨大な帯状の都市化地帯の本...
『10+1』 No.50 (Tokyo Metabolism 2010/50 Years After 1960) | pp.161-172
[論考]
「レム・コールハースは、この先どこへ向かうのか?」この質問の答えを探すのは容易でない。予測不能な彼の内面と、気まぐれな世界経済の動向を計るのは至難の業だからだ。ほとんど不可能といってもよいであろう。しかし、今日彼がどこにいるのか? そして何と格闘しているのか(あるいは何と戯れているのか)?を考察することは、この先の彼...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.90-93
[論考]
アンリ・ルフェーヴルとの出会い、 空間の実践と主体の召還 南後──本日は、塚本さんが最近実践されている「ビヘイビオロロジー(ふるまい学)」について、そこに通底する意味を探っていきたいと思います。特にアンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』との関わりについてもお話をお聞きしたいと思います。まずは、ルフェーヴルの空間論を摂取す...
『10+1』 No.49 (現代建築・都市問答集32) | pp.84-89
[翻訳]
工場も仕事場も仕事もなく、さらに上司もいないプロレタリアートは、雑多な職のごたまぜの只中にいる。彼らは生き残るのに必死で、余燼を通る小道のような生活をいとなんでいる★一。 パトリック・シャモワゾー 一九七八年以来のネオリベラルグローバリゼーションによる構築術の残忍さは、後期ヴィクトリア朝の帝国主義の時代(一八七〇─...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.121-137
[事例]
潮待ちの港・鞆の浦 広島県福山市の沼隈半島に位置する鞆の浦は、瀬戸内海に面した小さな港町である。眼前の瀬戸内海には仙酔島・弁天島をはじめとする数々の美しい島々が浮かぶ。鞆の浦から眺める一体は「鞆公園」として国の名勝に指定されている★一[図1]。この景勝は万葉の時代から知られていたが、一方で天然の良港にも恵まれ、瀬戸内航...
『10+1』 No.45 (都市の危機/都市の再生──アーバニズムは可能か?) | pp.107-112
[イントロダクション]
1 渡辺保忠の『工業化への道』 残念ながら絶版になってしまったが、私の最初の著作に『工業化住宅・考』(学芸出版社、一九八七)という単行本がある。日本のプレハブ住宅の歴史と現実、そして将来の方向性を論じることに主眼があったが、まだ二〇歳代だったこともあり、随分と欲張って書いた部分があった。そのひとつが古代の建築生産組織に...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.66-67
[座談会]
宇宙建築? 松村秀一──全体をざっと読んでみたのですが、結構面白い特集になったと思います。宇宙建築というものは宇宙開発全体のなかに位置づけられているということもあり、地上建築全部を語るのと同じぐらいさまざまな条件があります。なので、初めて読む人にとってはいろいろなことがありすぎて全体としては捉えにくいものになっているか...
『10+1』 No.46 (特集=宇宙建築、あるいはArchitectural Limits──極地建築を考える) | pp.68-77
[極地環境/地球外]
これは太陽周期的活動によって人間に致命的となる放射線から月面基地を遮蔽する壁のプロジェクトである。月面に壁を建設することは建築的に重要な意味を持つ偉大なできごとである。今まで定義されてきたアイディアには機能的に月面の壁としての正当性がほとんどなかった。しかしこ